経歴
1932年7月17日-2006年12月20日。享年74歳。
日本橋の仕出し弁当店の二男として生まれる。早稲田大学第一商学部卒業後同大学院商学研究科修士課程商学専攻に進学。この時に書いた漫才台本がNHKコンクールで採用されたことをきっかけに放送作家として活動。1956年に大学院を中退する。
その後先輩であるすぎやまこういちから渡辺プロダクション社長である渡辺晋を紹介され、構成作家として本格的に活動を開始し、作詞家、映画監督、俳優などマルチに活動する。特に彼の作詞した「スーダラ節」や「明日があるさ」等は各世代に受け継がれるヒット曲となる。
初出馬は1968年、第8回参議院議員通常選挙に全国区から立候補し2位で当選。その後2007年に東京都知事選挙に無所属として立候補し、その政見放送が話題となる。この際、当時の首相佐藤栄作に対し、「自分はテレビでの知名度があって当選できた。選挙の立候補者も放送を通じて政見を述べればよい」と提案し、政見放送が実施されることとなった。
そのご1974年の第10回参議院議員通常選挙、1989年の第15回参議院議員通常選挙、1992年の第16回参議院議員通常選挙に立候補。街頭演説等の選挙活動を一切行わない独自のスタイルを貫いた。
また1995年の東京都知事選挙に無所属で立候補し、1,700,933票という圧勝で当選する。当時予定されていた世界都市博覧会を中止し注目を集めるも、事後処理に失敗し建設業者の相次ぐ倒産を招く。その後は目立った政策もなく1999年に任期満了で退任、後任を石原慎太郎が務め、以後4代にわたって石原都政が続くこととなる。また在任中にオウム真理教によって小包爆弾が届けられた。
その後2004年の第20回参議院議員通常選挙に立候補、596,272票を獲得するが次点で落選。2006年12月20日午前9時31分、骨髄異形成症候群のため死去する。今上天皇から祭祀料を下賜された。
ニコニコ動画では自身最期となる2004年の参院選出馬時の政見放送が特に有名。また上記のとおり政見放送生みの親でもある。
政見の特徴
マルチタレントとしての経験を生かした軽妙な語り口調が特徴。
04年参院選の政見放送では自身が作詞した「どんと節」の替え歌を3回熱唱し、間に自身の政見を挟むという斬新なスタイルであった。
大まかな内容は、当時問題となったイラクへの自衛隊派遣を批判するものである。
- ドンと行こうぜ、ドンとね!あ皆で選挙に行きましょう
- 嫁や娘…息子に言われた通り、投書しとけば役目は終わり、数は力だ勝ちは勝ち、あちょっくらちょっとぱーにはなりゃしねえ
- お茶を飲んでも旅行をしても、いつも勘定はあちらが払う、遠慮するなよグッと開けろ、あちょっくらちょっとぱーにはなりゃしねえ
- 孫や曾孫が戦火に追われ、苦労したとて俺たちゃ知らぬ、どうせこの世にゃいやしねえ、あ俺たちゃ責任取らねえよ!
ニコニコ動画で視聴できる動画
最終更新:2013年03月04日 19:47