Session3 "TRADITION"
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Introduction
多くの人たちはハワイと言うと暖かい日ざしや美しいビーチを連想する。そういったイメージは完全に誤りというわけではないが、実際のハワイの景色は多くの人たちが想像するよりも多様性に富んでいる。特に印象的なのは何千年も昔に火山活動によって造成された高い山々や深い谷である。1866年にアメリカの著名な作家、マーク・トウェインがカウアイ島を訪れた際、彼は深さ3600フィート以上のワイメア峡谷の壮大さに驚愕し、それを「太平洋のグランドキャニオン」と呼ぶことにした。他の島々も同じような景観を誇りにしている。マウイ島のハレアカラ山は12000フィート以上ある。ハワイ島にはマウナ・ロアがあり、高さ13367フィートである。そしてこの峰に隣接してそびえているのがハワイ諸島で最も高いマウナ・ケアであり、13796フィートある。
マウナ・ロアとはハワイ語で「白い山」と言う意味であり、その山の頂上がしばしば冬に雪に覆われるためそのような名前がつけられた。過去数十年において、天文学者たちはこの高い山の頂上が宇宙を観測するのに世界で最も適していることを利用してきた。標高、澄んでいて乾燥した空気、安定した気候、そして市街地の光からの十分な距離のために、科学者たちは天空から発せられる赤外線やサブミリ波の慎重で精確な観測ができ、そのおかげでいくつかの重大な発見もあった。結果としてマウナ・ケアの頂上は現在世界でもっとも大きな天文学の施設となっている。例えばW.M.ケック観測所には世界で最も巨大な光学望遠鏡と赤外線望遠鏡がある。それぞれの望遠鏡は8階建の高さがあるのだ!日本の国家的天文学観測所には、すばると呼ばれる巨大で非常に精巧な望遠鏡がある。他の国々も、例えばフランスやイギリス、ドイツもこの太平洋上の理想的な場から銀河系の調査ができる、独自の望遠鏡を所持している。
この「天文学産業」は一般的に、雇用を創出したり観光産業を増加させたりすることでハワイ経済に物質的な利益をもたらしたと考えられている。それに加え、多くの市民は自分たちの島が偉大な発見がなされる場と考えることをおのしろく思うようになってきている。しかしながら同時に、マウナ・ケアに天文学者がいることに対して複雑な思いを抱いたり、時として完全に反対する人たちも近年増えてきている。これはなぜならマウナ・ケアはネイティブハワイアンの人たちに神聖な山と考えられているからである。
今日のネイティブハワイアンとは、18世紀終わりにジェームズ・クック船長や他のヨーロッパ人、アメリカ人が到着したころに、もともとハワイに住んでいた人たちの子孫のことである。何世紀もかけて彼らの国、ハワイ王国は破壊され、多くの伝統は変化してきた。しかし多くのハワイアンは自分たちのことをネイティブハワイアンと考え続けている。現代の地方や連邦政府によってなされてきた、少数派の権利の認証への政治的な動きを通じて、より多くのネイティブハワイアンたち(また彼らを支援する人たち)は、彼らの伝統的な価値観や信条、言語を救出し維持していくことの重要性を見出してきている。このような人たちにとって、今日のマウナ・ケアの山頂の状態はある種侮辱である。なぜなら各国の望遠鏡がかつてから、また現在もネイティブアメリカンにとっての聖なる地に建造されているからである。
天文学者はこれに反対している。彼らはマウナ・ケアは人類の進歩にとって必要不可欠と主張する。また人類すべて、もとろんネイティブアメリカンも含めた人類すべてのために、彼らが新しい発見をし続けられるよう山頂を使い続け、これまで以上に発達した望遠鏡を導入したいと願っている。
次の2つの記事はこの両サイドの異なった立場を説明する。この対立が、未開と先進の衝突ではないと覚えておくことは重要である。ネイティブアメリカンは天文学者と同じくらい近代的で現代人である。彼らは今日の現代社会において、少数派として獲得した権利を行使しようとしているのである。また天文学者は科学のために科学を信仰しているわけではない。彼らは最低限ある程度、現代社会において環境を保護するのと同様に、ネイティブアメリカンの価値観を認めることの重要性は理解している。これがまさに2つの立場の異なった主張をより難しくしているのである。しかしこのような類の衝突は、科学的な進歩によって、特定の集団の価値ある伝統が脅威にさらされるといった形で、将来的にまた日本を含めた世界のほかの地域でも増えて行きそうである。
マウナ・ロアとはハワイ語で「白い山」と言う意味であり、その山の頂上がしばしば冬に雪に覆われるためそのような名前がつけられた。過去数十年において、天文学者たちはこの高い山の頂上が宇宙を観測するのに世界で最も適していることを利用してきた。標高、澄んでいて乾燥した空気、安定した気候、そして市街地の光からの十分な距離のために、科学者たちは天空から発せられる赤外線やサブミリ波の慎重で精確な観測ができ、そのおかげでいくつかの重大な発見もあった。結果としてマウナ・ケアの頂上は現在世界でもっとも大きな天文学の施設となっている。例えばW.M.ケック観測所には世界で最も巨大な光学望遠鏡と赤外線望遠鏡がある。それぞれの望遠鏡は8階建の高さがあるのだ!日本の国家的天文学観測所には、すばると呼ばれる巨大で非常に精巧な望遠鏡がある。他の国々も、例えばフランスやイギリス、ドイツもこの太平洋上の理想的な場から銀河系の調査ができる、独自の望遠鏡を所持している。
この「天文学産業」は一般的に、雇用を創出したり観光産業を増加させたりすることでハワイ経済に物質的な利益をもたらしたと考えられている。それに加え、多くの市民は自分たちの島が偉大な発見がなされる場と考えることをおのしろく思うようになってきている。しかしながら同時に、マウナ・ケアに天文学者がいることに対して複雑な思いを抱いたり、時として完全に反対する人たちも近年増えてきている。これはなぜならマウナ・ケアはネイティブハワイアンの人たちに神聖な山と考えられているからである。
今日のネイティブハワイアンとは、18世紀終わりにジェームズ・クック船長や他のヨーロッパ人、アメリカ人が到着したころに、もともとハワイに住んでいた人たちの子孫のことである。何世紀もかけて彼らの国、ハワイ王国は破壊され、多くの伝統は変化してきた。しかし多くのハワイアンは自分たちのことをネイティブハワイアンと考え続けている。現代の地方や連邦政府によってなされてきた、少数派の権利の認証への政治的な動きを通じて、より多くのネイティブハワイアンたち(また彼らを支援する人たち)は、彼らの伝統的な価値観や信条、言語を救出し維持していくことの重要性を見出してきている。このような人たちにとって、今日のマウナ・ケアの山頂の状態はある種侮辱である。なぜなら各国の望遠鏡がかつてから、また現在もネイティブアメリカンにとっての聖なる地に建造されているからである。
天文学者はこれに反対している。彼らはマウナ・ケアは人類の進歩にとって必要不可欠と主張する。また人類すべて、もとろんネイティブアメリカンも含めた人類すべてのために、彼らが新しい発見をし続けられるよう山頂を使い続け、これまで以上に発達した望遠鏡を導入したいと願っている。
次の2つの記事はこの両サイドの異なった立場を説明する。この対立が、未開と先進の衝突ではないと覚えておくことは重要である。ネイティブアメリカンは天文学者と同じくらい近代的で現代人である。彼らは今日の現代社会において、少数派として獲得した権利を行使しようとしているのである。また天文学者は科学のために科学を信仰しているわけではない。彼らは最低限ある程度、現代社会において環境を保護するのと同様に、ネイティブアメリカンの価値観を認めることの重要性は理解している。これがまさに2つの立場の異なった主張をより難しくしているのである。しかしこのような類の衝突は、科学的な進歩によって、特定の集団の価値ある伝統が脅威にさらされるといった形で、将来的にまた日本を含めた世界のほかの地域でも増えて行きそうである。
マウナ・ケアの山頂はハワイの人たちにとって様々なものの象徴である。マウナ・ケアの高層地帯はワオ・アクア、創始者であるアクアの領域にある。また最上の聖なる地とも考えられ、千年も前から科学的なポリネシアの口頭歴史や記録された歴史でもそのように知られている。そしてナ・アクア(神聖な神々)やナ・アウマクア(神聖な先祖)の家であり、ハワイの人たちの創始者と考えられているパパ(母なる地球)とワケア(父なる空)の接点でもある。それは言わば無限の広がりを持つ宇宙と神々の境目となっている。すべての尊敬におけるマウナ・ケアは、代々伝わるハワイの人たちの、創造へのつながりの頂点を象徴しているのである。
マウナ・ケアの問題は長く一触即発の状態である。これはなぜなら話し合いのうちに、宗教の自由や、私たちの生まれた地への精神的なつながりを持つといった、基本的な権利が無視されたり奪われたりしたためである。
ネイティブハワイアンたちの見方としては、マウナ・ケアを取り巻くこの問題は、政治的なものでも経済的なものでもない。これは宗教的で精神的な性質のものである。なぜならマウナ・ケアの高層地帯はワオ・アクア、創始者であるアクアの領域にあるからである。マウナ・ケアは聖地あるいは崇拝の地であるのだ。マウナ・ケアの聖地は人の手によって創られていないので他の聖地とは異なる。アクアが人類に天国をもたらすため人類のために創ったのである。そのため人間の法がその尊厳を支配することはなく、神々の法が支配するのである。
マウナ・ケアは多くの文化的スタンダードにとって典型的な崇拝の地ではないものの、我々の文化的な理解や哲学において、それは最上級の聖地である。場の尊厳は、場の本質とマウナ・ケアにおいて決定され、私たちが神聖なアイナ(大地)を歩くとき、私たちは私たちの意志の領域を歩くのではなく、神々の意思の領域を歩くのである。まさに命の息吹を二度とない、瞬間のうちに捉えられるのがここなのである。生気を与える水が湧き出すのもここだけなのである。人間が受け入れられ、祝福され、開放されそして天国にしたがって変換されるために、天国が開くのもここだけなのである。カフ(宗教上の守護神)のように、私たちのこの聖地に対するクレアナ(責任)はずっと続いているのである。マウナ・ケアの尊厳を主張し、それを守っていくのは私たちの義務であり、そのためにそれの持つ偉大さと目的が人類全体に分かち合えられるのである。私たちはこの活動を続けることが許されなければならない。
不幸なことに、この愛するハワイの歴史はすべてをさらけ出しすぎ、私たちの大地はわしづかみにされ、文化は価値を落とされ、また私たちの本質は以前のものがわからなくなってしまうほど消費され、換えられたのである。私たちが存在する今、物質的なものが取り去られても、神々に対する私たちの義務は奪うことができないことを知っている。
それぞれの文化に、人類に与えるものがあるように、ネイティブハワイアンの文化にもある。私たちは、人類の集約された知識に先祖の知恵をもって貢献するため、これまでどおりの道を続けられるようアクアに頼んできた。私たちはまた聴衆に、天国の聖地に入ったものは天国の法に縛られると言われているので、ワオ・アクアの法と創造者の地への崇敬と尊敬の維持の責任を認めるよう頼む。
マウナ・ケアの問題は長く一触即発の状態である。これはなぜなら話し合いのうちに、宗教の自由や、私たちの生まれた地への精神的なつながりを持つといった、基本的な権利が無視されたり奪われたりしたためである。
ネイティブハワイアンたちの見方としては、マウナ・ケアを取り巻くこの問題は、政治的なものでも経済的なものでもない。これは宗教的で精神的な性質のものである。なぜならマウナ・ケアの高層地帯はワオ・アクア、創始者であるアクアの領域にあるからである。マウナ・ケアは聖地あるいは崇拝の地であるのだ。マウナ・ケアの聖地は人の手によって創られていないので他の聖地とは異なる。アクアが人類に天国をもたらすため人類のために創ったのである。そのため人間の法がその尊厳を支配することはなく、神々の法が支配するのである。
マウナ・ケアは多くの文化的スタンダードにとって典型的な崇拝の地ではないものの、我々の文化的な理解や哲学において、それは最上級の聖地である。場の尊厳は、場の本質とマウナ・ケアにおいて決定され、私たちが神聖なアイナ(大地)を歩くとき、私たちは私たちの意志の領域を歩くのではなく、神々の意思の領域を歩くのである。まさに命の息吹を二度とない、瞬間のうちに捉えられるのがここなのである。生気を与える水が湧き出すのもここだけなのである。人間が受け入れられ、祝福され、開放されそして天国にしたがって変換されるために、天国が開くのもここだけなのである。カフ(宗教上の守護神)のように、私たちのこの聖地に対するクレアナ(責任)はずっと続いているのである。マウナ・ケアの尊厳を主張し、それを守っていくのは私たちの義務であり、そのためにそれの持つ偉大さと目的が人類全体に分かち合えられるのである。私たちはこの活動を続けることが許されなければならない。
不幸なことに、この愛するハワイの歴史はすべてをさらけ出しすぎ、私たちの大地はわしづかみにされ、文化は価値を落とされ、また私たちの本質は以前のものがわからなくなってしまうほど消費され、換えられたのである。私たちが存在する今、物質的なものが取り去られても、神々に対する私たちの義務は奪うことができないことを知っている。
それぞれの文化に、人類に与えるものがあるように、ネイティブハワイアンの文化にもある。私たちは、人類の集約された知識に先祖の知恵をもって貢献するため、これまでどおりの道を続けられるようアクアに頼んできた。私たちはまた聴衆に、天国の聖地に入ったものは天国の法に縛られると言われているので、ワオ・アクアの法と創造者の地への崇敬と尊敬の維持の責任を認めるよう頼む。
もしリリウオカラニ女王が今日に生きていたなら、彼女はもしかして天文学者だったかもしれない。この考えは、星空の下ハワイの天文学者とマカリイというカヌーに乗ったネイティブハワイアンのグループと一緒にセイリングをして楽しく過ごしていたときに思いついた。1893年に退くまでハワイに最後に君臨していた君主、リリウオカラニは偉大な知性と創造性を備えた女性だった。彼女は詩に情熱を持っており、有名な“アロハ・オエ”を含む百を超える歌を作曲し、数ヶ国語話すことができた。彼女は大統領や女王、王と共に会食した。また非合法に王国がのっとられた後も、ハワイの人たちの権利のために不断に闘った。
しかしとりわけ彼女は抑えがたい知識欲の持ち主だった。1898年の自著、“Hawai’i’s Story by Hawai’i’s Queen”の中で次のように語っている。“知識の獲得は私の人生全体における情熱であり、現在においてもその魅力を失わない。”
私が想像するにもし彼女が今日に生きていたならば、ハワイアンに対する愛情と知識への欲望という彼女の2つの大きな情熱が、マウナ・ケアの山頂で共に多くの問題を抱えていることに対して悲しく思うであろう。「ホワイトマウンテン」の望遠鏡によってなされた、宇宙に関する多くの驚くべき発見はきっと彼女を魅了したことだろう。
ひょっとするともしかして、少女リリウオカラニは天文学者になろうと思ったかも知れない。
マカリイ(ハワイのカヌー)に乗りながら、私たちは皆、なんとなんらかの道で探検家であることか、と考えた。これは人間の性質の一部なのである。地平線を越えて何があるのか、古代ポリネシアンを新世界に向けて船出させた好奇心と、銀河の海を越えた世界を学ぶため、今日の天文学者に天を観察させる好奇心とは同じなのである。
それなのになぜ、現在こんなにも多くの議論がマウナ・ケアを取り巻いているのであろうか。
多くの非難は天文学者のものである。長年にかけて、天文学者たちは無視や尊大さを通じて、一部のハワイの人たちにとってのマウナ・ケアの神聖さに対して思いやりがなかった。より巨大でより性能のよい望遠鏡を建設したいという熱望によって天文学者たちは、科学とは世界の単なるひとつの指標にすぎないのであり、そのため自分たちとは違う世界の見方に敬意を表しなければならないということを忘れた。マウナ・ケアは望遠鏡がそこに建設されるよりもずっと以前からハワイの人たちにとって聖なる地であったのであり、天文学者たちはこの神聖な場の威厳を保存するのを助ける道義的な義務を持つのである。
しかし異文化への思いやりというのは双方向なものである。科学もまた文化であり、文明の夜明けまでさかのぼることのできる古いものである。現在の天文学は人種、宗教そして言語を超越している。一部のネイティブハワイアンや環境団体の、マウナ・ケアの望遠鏡の廃止や将来的な開発の禁止への要求にもまた文化的な思いやりがない。なぜなら彼らにとっても最終的な精神の探求となる宇宙の探検にともなう、天文学者が山に感じる親近感を無視しているからである。
確かに、これから先もハワイの人たちのマウナ・ケアに対する敬愛を、近代社会では的外れの単なる古代の迷信の名残と考えたり、自分たちはマウナ・ケアにどんな望遠鏡も望めば建設を許されるべきだと考える天文学者もいるだろう。
同様にネイティブハワイアンの中にも、マウナ・ケアに天文学者が存在することを、外国の侵略者が自分たちの国をいまだ支配していることの目でわかる例だとしたり、すべての望遠鏡を排除し山を元の姿に戻さなければ満足しないという人もいるだろう。
しかしこれらの2つの極端な見解には我々の多くに占められた、共通の基盤がある。私たちのケイキ(子供)がハワイアンだろうがなかろうが、文化的遺産を守るため、星を学ぶため、彼らの望むようにマウナ・ケアを礼拝し、常に歓迎されていると感じられるのを確かにするほど、このハワイの島々にはアロハスピリットがある。わたしたちは怒りや、過去の権利の侵害における罪にとらわれて過去に生きることはできない。
リリウオカラニ女王が言うように、“世界はとどまることはできない。私たちは前進か、または後進しなければならない。”
私はマカリイをヒロ・ベイの入り江につけ岸辺に戻っていきながら、もしリリウオカラニが今日生きていたら、彼女は確かにマウナ・ケアの山頂にはハワイアンとノンハワイアン、天文学者と非天文学者、みんなの居場所があると言ったに違いないと考えた。
しかしとりわけ彼女は抑えがたい知識欲の持ち主だった。1898年の自著、“Hawai’i’s Story by Hawai’i’s Queen”の中で次のように語っている。“知識の獲得は私の人生全体における情熱であり、現在においてもその魅力を失わない。”
私が想像するにもし彼女が今日に生きていたならば、ハワイアンに対する愛情と知識への欲望という彼女の2つの大きな情熱が、マウナ・ケアの山頂で共に多くの問題を抱えていることに対して悲しく思うであろう。「ホワイトマウンテン」の望遠鏡によってなされた、宇宙に関する多くの驚くべき発見はきっと彼女を魅了したことだろう。
ひょっとするともしかして、少女リリウオカラニは天文学者になろうと思ったかも知れない。
マカリイ(ハワイのカヌー)に乗りながら、私たちは皆、なんとなんらかの道で探検家であることか、と考えた。これは人間の性質の一部なのである。地平線を越えて何があるのか、古代ポリネシアンを新世界に向けて船出させた好奇心と、銀河の海を越えた世界を学ぶため、今日の天文学者に天を観察させる好奇心とは同じなのである。
それなのになぜ、現在こんなにも多くの議論がマウナ・ケアを取り巻いているのであろうか。
多くの非難は天文学者のものである。長年にかけて、天文学者たちは無視や尊大さを通じて、一部のハワイの人たちにとってのマウナ・ケアの神聖さに対して思いやりがなかった。より巨大でより性能のよい望遠鏡を建設したいという熱望によって天文学者たちは、科学とは世界の単なるひとつの指標にすぎないのであり、そのため自分たちとは違う世界の見方に敬意を表しなければならないということを忘れた。マウナ・ケアは望遠鏡がそこに建設されるよりもずっと以前からハワイの人たちにとって聖なる地であったのであり、天文学者たちはこの神聖な場の威厳を保存するのを助ける道義的な義務を持つのである。
しかし異文化への思いやりというのは双方向なものである。科学もまた文化であり、文明の夜明けまでさかのぼることのできる古いものである。現在の天文学は人種、宗教そして言語を超越している。一部のネイティブハワイアンや環境団体の、マウナ・ケアの望遠鏡の廃止や将来的な開発の禁止への要求にもまた文化的な思いやりがない。なぜなら彼らにとっても最終的な精神の探求となる宇宙の探検にともなう、天文学者が山に感じる親近感を無視しているからである。
確かに、これから先もハワイの人たちのマウナ・ケアに対する敬愛を、近代社会では的外れの単なる古代の迷信の名残と考えたり、自分たちはマウナ・ケアにどんな望遠鏡も望めば建設を許されるべきだと考える天文学者もいるだろう。
同様にネイティブハワイアンの中にも、マウナ・ケアに天文学者が存在することを、外国の侵略者が自分たちの国をいまだ支配していることの目でわかる例だとしたり、すべての望遠鏡を排除し山を元の姿に戻さなければ満足しないという人もいるだろう。
しかしこれらの2つの極端な見解には我々の多くに占められた、共通の基盤がある。私たちのケイキ(子供)がハワイアンだろうがなかろうが、文化的遺産を守るため、星を学ぶため、彼らの望むようにマウナ・ケアを礼拝し、常に歓迎されていると感じられるのを確かにするほど、このハワイの島々にはアロハスピリットがある。わたしたちは怒りや、過去の権利の侵害における罪にとらわれて過去に生きることはできない。
リリウオカラニ女王が言うように、“世界はとどまることはできない。私たちは前進か、または後進しなければならない。”
私はマカリイをヒロ・ベイの入り江につけ岸辺に戻っていきながら、もしリリウオカラニが今日生きていたら、彼女は確かにマウナ・ケアの山頂にはハワイアンとノンハワイアン、天文学者と非天文学者、みんなの居場所があると言ったに違いないと考えた。