それは、あまりにも屈辱的な光景だった。
自分は頭の天辺から脚のつま先まで一切動かせない状態で。
意識だけはやけにはっきりとしていて。
しかし、目の前で起きている光景に割り込むことができず、悔しさだけが募る。
半壊した歩兵装甲の背を見つめる自分の、なんと無様なことよ。
怯えながらも勇敢にも立ち向かおうとするその姿を、何故自分はこんなにも遠目で見ているのか。
あまりにも無様。あまりにも無残。あまりにも無能。
気持ちは今すぐにでも彼女の前に立ちたいのに、体はまったく云うことを聞こうとしない。
疲れとか、痛みとか、そういう次元ではなく。
もっとも単純に、何もできない。
そんな自分が愚かで、そして歩兵装甲はそんな自分をあざ笑うかのように、左腕を持ち上げ―――
「やめろぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおっっっ!!!!!!」
叫びながら飛び起きた。
「おおおぉぉぉ………―――ん?」
ここ最近の風景とは全く異なる風景が、目の前に広がっていた。
人工物の中―――鉄板か何かで覆われたそこは、今までの木々と土にまみれた風景とは全く真逆の世界だった。
かけられた暖かな毛布は安眠を約束するもので、枕は優しく頭部を守ってくれる代物。
周囲には幾つか2段式の簡易ベッドが陳列し、どこにも自然物が存在していない。
やけに文明物ばかりのこの状況。何がどうなったのか、よくよく考えてみる。
と、不意に手を叩き、
(あ、そういや試験終わったんだっけ)
自分が寝ぼけていたこと、自覚した。
―――時は少し遡り。
あの島の東方にある崖に、
A分隊の面々は揃えられた。
”夕雲”を背に、氷室教官は仁王立ちで全員を一瞥している。
強化服で全身の起伏を見せ付けるその様に、久我は1人興奮していたが、早々に氷室の鉄拳が落ちて沈黙することに。
一度咳払いして仕切りなおす。
「んんっ………全員、よくやった。ろくな装備もない中での7時間をよく耐え抜いた。
常識で考えれば、1時間も立たず全滅されているであろう状況を耐え抜き、むしろ必要以上にダメージを与えることができた貴様達は、もはや人類の枠に収まってるとは云えないほど、成熟していると断言しても良いだろう。
しかし―――その上であえて云わせてもらう」
そう云い切る氷室の顔は、いつも以上に険しい表情が張り付いていた。
氷室に殴られた以外にも、別の激痛に耐える久我。その隣で、後頭部の強打による眩暈がまだ治まっていない綾華が軽い立ち眩みと戦っている。
そのさらなる隣には泥だらけの勝名と、傷だらけの悠希。
そんな2人の隣で、雫に支えられるように立つ都が並び、1人ずつ顔を一瞥していく。
「久我、貴様はもっと周りに気を配れ。あれではいつ殺されてもおかしくないぞ?」
「うぅ……そうっすね…」
「齊藤、貴様が浮かれては誰がこの分隊の防波堤になる?副分隊長は分隊長以上に冷静でなければならんぞ」
「つぅ………はい!」
「勝名、今回ので貴様の弱点は理解できたはずだ。後は精進しろ」
「はい!」
1人ずつこの作戦で起こした失態を指摘していく。
そして悠希の番に来た時、氷室の眼はより一層鋭く、そして険しいものとなった。
「森上………貴様、死にたいのか?」
「いえ!」
「単独での陽動も、白兵戦も自殺行為を超えている!貴様、1人でBETAを駆逐できると本気で思っているのか!?
その上命と引き換えにバンカーの無力化を試みるなど、貴様はただの狂人だ!兵士ではない!」
「っ………!」
「何か云いたそうだな?どうせだ、云ってみろ」
「………例え狂人と云われようと、仲間を守るためならそれもありかと」
「貴様は死ぬぞ?」
「それで仲間が助かるなら」
「1つ云っておこう。貴様のその考えは、いずれその仲間を殺すことになる」
「―――っ!?」
「貴様誰も守れない。事実、3人の仲間を貴様は守り切れなかった。源も朝倉も、狙撃が遅れていれば助からなかった。
その事実をよく吟味しておけ」
「………はい」
言い返せなかった悠希からは、全身から気が霧散しているのがよく解った。
事実、悠希は守りきれず、ズタボロになっていた。そして今、事実を突きつけられ、精神に大きく穴がえぐり開けられた。
そんな意気消沈する悠希を尻目に、氷室は都を見る。
「朝倉、貴様の顔、試験前とは大分顔つきが変わったな」
「………え?」
てっきりボロクソに云われるものだと身構えていたら、思いのほか優しい言葉に、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
実際、どこか優しい笑みが、氷室の顔に張り付いているのが見える。
「良い傾向だ。日々精進しろ」
「は、はい!」
「源」
元気よく返事をした都を一瞥すると、再び険しい顔となった氷室が雫を睨む。
「今回ので解っただろう。貴様はまだまだだ。今回こそ死者は出なかったものの、貴様は4人の部下を失い、そして自身も死ぬ直前だったということを。
割合にして約70%………実戦なら全滅判定だ。全滅判定を受けた指揮官ほど無様なものはない。
実戦でそうなりたくなければ、今以上に精進しろ。いいな!」
「………は、い…っ!」
こちらも悠希同様言い返せない。相手がなんであれ、この作戦では4人の部下を失い、1人の部下は行動不能。そして自身の死にかけたのだ。
実戦で言い訳は通用しない。生きたのか死んだのか………シンプル故に、その原則に逆らうことはできない。
ほぼ全員が説教を受け終え、氷室は一息つくと顔を歪ませた。
「―――まぁ、説教はこのくらいにして、今は休め。
戦術機輸送艦に貴様ら用に部屋を用意してもらっている。
そこで休みなさい」
そう云うと、氷室は踵を返し”夕雲”の元へと歩みだす。
と、そこで雫がおもむろに声を上げた。
「―――ちょぉ~っと待ってください、教官!」
「なんだ、源」
「試験は!?試験はどうなったんです!?」
「試験?………あぁ、そうだったな。伝え忘れていたか」
忘れ物を思い出したかのように手を叩き、雫達へ振り返る氷室。
「試験は合格だ。安心して寝ろ」
あまりに素っ気無い判定と、慈悲の欠片も感じないありがたい言葉が連続で飛び出した。
そのあまりの素っ気無さに、全員が一度呆然とし、そして、
「「「「「「ぇ…ぇ……え………ええええええぇぇぇぇぇぇぇぇ~~~~~~~っ!?」」」」」」
もっとも感動があるべき所に、素っ頓狂な声を上げるA分隊の面々であった。
「………ぁ、思い出したらちょっとムカっ腹に来た」
事の顛末と、今の状況を思い出して、氷室教官のあまりにご無体なお言葉にイラっと来た。
せっかく盛り上がれる所があったのに、特に説明もなくあっさり云われ、感動してみんな抱き合える場所を奪われたこの無力感。
馬鹿臭さが2周りくらいして再度ムカっ腹に来た悠希は、その怒りのぶつけ先を見出せないまま、その内に押し殺すことに。
ベッドから降りて周りを見ると、皆死んだように寝ていた。
試験中は野宿状態だったため、下は土だし上は草木で覆ってるとは云え毛布の1つもないまま寝る羽目になっていた。あげく、雨はろくに降らなかったため、体を洗うことも許されず、少なくとも女性陣にとっては耐え難い苦痛の日々だっただろう。
それが今、艦内のシャワー室で思う存分全身を洗い、フカフカと云えないまでも立派なベッドと毛布に包まって眠れるのだ。
悠希の寝ぼけた雄叫び程度では、誰もビクともしなかった。
その悠希は、近場にあった鏡を顔を覗く。と、顔に大きなガーゼが貼られた男の顔が、そこに映っていた。
軍医からは、傷は残るだろうと云われた。全身の傷も生々しいほど包帯だらけで、骨折は無いもののアバラ骨の一部にヒビが入ってるやも…と言い渡された。
あれだけの大立ち回りをして、その程度の被害で助かったと見るべきか、それとも悪運が強すぎると思うべきか。
まぁどちらにせよ、悠希にとって今日の1日はあまり嬉しいものにはならないだろう。
窓から見える外の景色は、気持ちが良いほど晴れ渡っていた。
「いよっしゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!行くぞ久我ぁ!」
「おっし、来いやぁ!―――あふんっ」
「ふふふっ、久我さんナイスですよっ。凄い勢いで飛んじゃってます!」
「綾華さん、笑ってる場合じゃないです!ボールがぁ~」
「それなら都、あのボールをどっちが先に回収できるか勝負よ!」
「あ、はい!」
「ならば、私も混ぜてもらおうか」
「いいですよ教官っ」
「では、審判は私が―――よーい、どん!」
暑い夏、白い砂浜、そして蒼い海。
バカンスである。
この一瞬だけは、今この世がBETAに犯されていることを綺麗に忘れ、純粋に海を楽しんでいた。
華も恥らう乙女達は、面積の少ない水着でその健康的な身体を包み、久我は純粋にその光景を楽しんでいる。
白い水飛沫が太陽に照り付けられ、宝石のように輝いている。
あぁ、実にバカンス。美しく、楽しいバカンス。
「ま、この怪我じゃ無理だわな」
バーベキューセットを展開し、そこで合成肉やら試験中に作っておいた燻製肉をひたすら黙々と焼く悠希が、そこにあった。
軍医から問答無用でのドクターストップ。擦り傷どころでない悠希の身体は、海水の刺激には耐えられないと指摘され、有無を云わさずバーベキューセットを持たされた。
そして今、皆のために肉や野菜を焼く。
別段、その事に疑問は抱いてないし、汗だくになりながらも肉を焼き続けるのも嫌いではない。
あえて云うなら、微妙に仲間外れにされているような気がしてならないことだ。
1人だけ、ぽつんと浜辺で焼肉である。思うところは色々ある。
戦術機母艦はこの浜辺より少し離れた海域で係留しており、一部の乗員は機能停止した歩兵装甲の回収作業に従事している。その他の乗員は四舷休暇が与えられ、適時この島で休暇を満喫しているようだった。
パラソル代わりに広げられた日避けのシートに入りながら、地道に肉を焼き続ける。時折、焼き上がった肉を野菜と一緒に摘んでは、久々に訪れた休暇を満喫する。これで全身の痛みがなければ万々歳なのだが、そこは無いものねだりということで納得する。
「あらっ―――美味しそうじゃないっ」
海からあがって来た雫が、タオルを手にしながらやって来た。その後ろから、他の分隊員達も上がって来ている。
「早かったじゃないか」
「まぁね」
相槌を打ちながら差し出された皿を受け取り、盛られていた肉を一つ摘む。
「ん~~~…っ、味はいつもと同じはずなのに、風情があると美味しく感じるわねぇ」
「合成肉だからちゃんと中まで焼いておかないといけないし、脂身も少ないから味は我慢してくれ」
「え?森りんって焼肉奉行だったの?」
「焼肉奉行…?網奉行って云いませんか?」
「地域差じゃねーの?場所によっては呼び方違う事なんていっぱいあんだろ?」
「まぁ、そうですが………やっぱり網奉行じゃありません?焼肉と云えば」
「色々あるわよね。それはそれとして、悠希のはホンモノの。なんたって肉に関しては一家言あるくらいよ?」
「単に師匠から受け売りだって」
「でも一言あったわよね。3、2、1、はいっ」
「表面は焼いても中まで焼くな。カリカリになるまで焼くと肉の旨味が肉汁と一緒に落ちてしまう。
肉そのものの味を引き立たせるのはタレじゃない、塩だ。タレは万人に合わせたものだが本当に肉を楽しみたいなら塩だけでいけ。
これは合成肉だろうが本物の肉だろうが変わりない。だが塩を振るタイミングは最後の最後、口に含む時だ。焼いてる最中にかけると一気に旨みが逃げ出す。
タレは実際のところ、肉の旨みを楽しむためのものではなく、タレを楽しむのだと思え。あれだ、なんでも醤油をかければ醤油の味しかしないのと同じ理屈だ」
「おぉぉぅ………」
「納得の網奉行さんですね…」
珍しくも奇異な悠希の饒舌に、皆が一様に頷く。
そんな面々を氷室は苦笑しながら、
「そういうのは人それぞれだ。それより森上、一番美味いところをくれ」
「はい教官」
返事と同時に、今しがた焼けた合成肉を盛っていく。さらに隣の鉄板で焼いていた合成焼きソバも乗せ、氷室に手渡した。
「わ、私、トウモロコシ食べたいですっ」
「おう、300万エンな」
「ぇ………お金、取るんですか…?」
「気にしないで都。彼なりの冗談だから」
「はぁ…」
「まぁ受け取れ」
割り箸に串刺され、タレが適度に塗られて香ばしい匂いを漂わせるトウモロコシを訝しげに受け取る都。
小さな口で一生懸命食べる姿に、悠希は云い知れぬ安心感を抱いた。
(………はて、これはなんだろうか?)
「悠希、そろそろ喰えそうなウィンナーねぇ?」
「あぁ、それは今焼き始めたばかりだからもう少しかかる。そこのイカは食べ頃だ」
「おし、それもらい!」
「なら私もそれを頂きます」
「あいよ………ほら、綾華………って久我ぁ、肉ばっか喰ってないで野菜も食え」
「いや、ボクにはお構いなく」
「黙れ、噛み砕くぞ」
「どこをですか………!?って、あぁぁぁぁぁあああああっ、どうせ盛るならタマネギだけにしてぇぇぇ!」
―――等と、思い思いに食べたいものをチョイスしてゆき、一通り配り終えると、賑やかだったコンロの周りもひとまず静かになった。
相も変わらずコンロの前で肉を焼き続ける悠希の隣で、雫は折り畳み椅子に腰掛け、肉を食べる。
強い日差しとコンロから溢れる熱気が、海水で冷えた体を暖めてくれた。
「………気を使わないで遊んで来ていいんだぞ?」
「誰も気は使ってないわよ。みんな美味しい匂いに釣られて来ただけよ」
「なら、いいか」
呟きながら、今焼き上がった肉に塩をふりかけ摘む。よく噛み飲み込むと、油だけとなった口の中を飲料水で胃の中に流し込んだ。
「傷は痛む?」
「眠れないほどじゃない。次の段階までには後を引くかも知れんが、大丈夫だろ」
「………顔のは?」
「残るって。傷の原因を聞いて、肉だけで済んで本当に良かったって医者も驚いてたよ」
「そう………でも、消せるんでしょ?」
「………残そうと、思ってるんだ」
「………まさか、カッコイイからとか思ってない?」
「何故ばれた」
「男の子ってそんなもんでしょ?頬に十字傷とか、そういうのに憧れてるって聞くわよ」
「うん、まぁ否定はしない」
「ま、私がとやかく云ったって、本人が消す気ないならいいでしょ」
「ん………」
主が認めたことに、小さく返事をして感謝の意を伝えた。
そんな悠希は、チラリと雫の姿を横目で見る。支給品ではないビキニタイプの水着で、腰にパレオ代わりにタオルを巻いている。即席のスリットから覗き見える太股に、思わず喉が鳴った。
「ん?どうしたの?」
「色即是空、空即是色っ、色即是空、空即是色っ」
「どうして般若心経………?」
と、そこまで口を開いたところで、自分のあられもない格好を思い出し、とっさに胸元を手で隠した。
「な、何色気づいてるのよ!?」
「色即是空、空即是色…」
「それにお師匠さんは仏教じゃなくて神道でしょ?」
「何故知ってる」
「本人に聞いたから」
「なるほどなー…」
軽くへこむ仕草を見せ、しかしすぐ元に戻りいつもの無表情を顔に映す。
「ん………でも、まぁ?悪い気はぁ、しない……けど……」
「………」
妙に余所余所しくなった雫を、意図して見なかったことにする悠希。
気付いている。気付いてはいる。しかし、それを表に出してはいけない。出しては、いけないのだ。
でなければ、生きられない。
―――このために生きてきた自分を、否定することになる。
だから、何も云わなかった。云えなかった。
「って、急に口を閉ざすんじゃありませんっ」
「あぁ、うん。そうだな」
確かに急すぎて、変な違和感があった。
それをごまかす為、悠希は網の上で焼かれている肉やら野菜やらを適当に大皿に盛っていく。
「………ところご両人、つかぬ事をお聞きしますが…」
「何、綾華?妙に下手ね」
「いえ………お2人は、自分達の距離に、お気づきですか?」
「距離?」
「………あぁ?」
気付けば、雫と悠希の距離は、肌と肌が触れ合うか触れ合わないか、一寸でも動けば触れ合ってしまいそうなほど、近かった。
「え?あ、きゃっ」
「わっ、ちょ!火元で暴れるな!火傷するぞ!?」
「ふ………若いな」
初々しい若人の慌てっぷりを見て、氷室は思わず頬を緩めた。
「いや、教官も十分若いっすよ。ピチピチっすよ。大人の色香が良い感じに溢れてますって。
てことで教官っ!これからボクとちょっとそこの茂みに行ってしっぽりしませんか!」
「生憎若いのは嫌いだ。体力しかないからな」
「おぅ…のぅ………」
大人なカウンターを食らった久我は、熱い砂浜に両手と膝を付き、絶望をかみ締めるのだった。
「時に森上、貴様はこれを知ってるか?」
「え?」
不意に教官から話を振られ、その方を見ると氷室は近くの茂みの上に成っていた赤い実を取って見せた。
広卵形とも勾玉形とも云えるそれは、一見日本では見られない変わった形をしており、それでいて微妙に柔らかかった。
「なんですか、これ?」
雫が問う。が、不適に笑うだけで答えてもらえない。
「りんご…いや、瓜?ドラゴンフルーツ?」
「どれも外れだ。流石に解らんか」
「はい。で、なんですかそれは?」
「ふ………これはマンゴーだ」
「まん…ゴー?」
「なんか卑猥な名ま―――あぅっ!?」
妙なことを口走りかけた久我が勝名の鉄拳で黙らされる。それをあえてスルーし、氷室は話を続けた。
「マンゴーと一口で云っても、その種類はいくつかあってな。
これはアップルマンゴーと云って、数あるマンゴーの中で数少ない日本人の口に合う品種なのだ」
「へぇ…」
「土地や気候によって取れる時期はマチマチなのだがこれは………ん、良い感じに熟れているな。少し硬いが、食べるのならこのくらいが丁度良い」
そう云って、氷室はコンロの近くに置いていたナイフを手に取り、マンゴーの一部を切り取る。そのひと欠片の内側、果肉側に交差状に切れ目を入れ、皮側から押し上げた。
「食べれるのは果肉だけだ。が、損はさせん」
「はぁ…」
その欠片を受け取り、悠希は躊躇せず果肉に噛り付いた。
「………っ!?」
思わず驚き、残った果肉を睨む。そして今度は慌てるようにもうひと口。
口の中全体に広がる果汁。全体的に糖度が高く、その癖僅かに酸味が感じられる。食物繊維だらけなのだろうが、それを感じさせない食感に、眼を丸くした。
特にこの果汁、見た目の面積よりも多く含んでるのではと云いたくなるほど溢れてくる。甘味が強いのに、さりとてサッパリとした味。それを演出する僅かな酸味すら、美味しく感じられた。
日本にいては食べられぬ、とてつもなく甘露な果物。それに悠希は、虜になってしまった。
「………なん…だと…!?」
「何?どうしたの、悠希!?」
「あ、甘い………というか、うまい…っ!しかもサッパリしてる…だと!?」
「え?」
「な、何が一体…」
「日本では出回ってない果物だ。新鮮だろう?」
「教官っ、これは一体!?」
「ふふふっ、自分がまだまだ世界を知らないこと実感したか?これを機に、少しは殊勝になることだな」
「くっ…!生まれが少しばっかし早いからって…っ!」
「生まれだけではないさ。世間を知らなければ、出会えぬ味もあるということだ」
「果物1つで俺の人生をここまで全否定するアンタは鬼だ…っ!悪魔……いや、外道だっ!」
「ふふふ…心地よい遠吠えだ。もっと鳴き嘆け。自分の薄さに絶望しろ!知らねばならないことはまだまだあるぞ!」
今までにないほど大げさ過ぎるほど大げさに悔しがる悠希に、都は、というよりA分隊の面々は困惑していた。
「そんなに悔しいんですか…?」
「百聞は一見に如かずだ。舌でその理由を知れ」
そう云うと、氷室は適当にマンゴーを切り取り、その果肉片を皆に配る。
それぞれ、一気に果肉に喰らい付く………その瞬間、全員の眼が見開いた。
「あっま~いっ!林檎でも十分美味しいと思ってたけど、それ以上の甘さよ!?」
「お………美味しいです…びっくりするくらい美味しいです………涙が、なみだが………」
「ボキャブラリが試されるこの味……くっ、しかしボクにはそんな引き出しが無い!チクショー!美味い意外になんて云えばいいんだー!」
「世の中にはこんな甘い物も存在するんですね………日本に居ては解りませんでした……」
「こりゃ悠希が吼えるのも無理からぬって感じだな。教官っ、もっとくれよ!」
「まるで口を開けた雛鳥だな。心配せずとも、そこの木に幾つか赤い実が成ってるのが見えるだろう?
昨日の暴雨で落ちてるのもあるが、取ってくると良い」
その瞬間、悠希が鞭のようなしなやかな動きで先制し、素早くマンゴーの木に取り付く。そのまま2・3個ほどマンゴーを掴むと、ダッシュで戻ってきた。氷室からナイフを受け取り、簡易調理台の上に置くと、そのまま真ん中に刃を入れ―――
「………ん?刃が途中で止まる?」
「切るにはちょっと手順があってな。どれ、貸してみろ」
再度氷室にナイフを手渡す。
一度マンゴーを台に転がすと、僅かに不規則な動きで転がるのをやめた。氷室はその状態から90度回し、中心から少し外した箇所を切った。すると、なんの抵抗もなく果肉がするりと切り落とされた。
「中心には大きな楕円形で平らな種が入っている。さっき転がしたのは、その種がどの位置にどうあるかを確認するためだ。
後は、90度ほど回して魚を3枚に下ろすように中心から外れた場所を切れば、種を切らずに果肉を切り落とせる」
そう説明しながら、切り落とした果肉に花切りを施し、皮の方から押し上げる。果肉が押し出され、マス状の果肉が果汁と共に現れた。
それを雫に渡し、今度こそ悠希にその手順をやらせる。
教えられた手順を寸分違わずやってみせると、氷室がやってみせたように、マス状の果肉が現れ、それをそれぞれ分隊員に渡していく。
「残った真ん中の部分はどうすれば?」
「皮を向いて喰らいつくだけだ」
有言実行。氷室は皮を剥いて、種付近にくっ付いたままの果肉に噛り付いた。
なるほどと、素直に納得して悠希もそれに習う。最初は種の位置がよく解らなかったが、食べていく内に大体の位置を理解していく。
「さて、貴様ら。今のうちにしっかり遊んでおけ。帰ればまた楽しい楽しい訓練の始まりだぞ?」
「了解っ!」
全員が一斉に返事すると、何故か悠希を囲んだ。
「は?」
「マァマァマァ…何も云わずに」
「悠希さん、これも仕方ないことなんです…」
「いや、何が―――って!?」
意味が解らないと云おうとした途端―――全員が悠希を担ぎ上げた。それぞれ手足を掴み、きっちり固定して。
流石にこれでは、悠希の身体能力もろくに発揮できない。それをいいことに、雫達は海へと歩み始める。
「―――まさか!?」
「悠希ぃ~?1人だけ網奉行じゃ寂しいでしょ?」
「いや、まてっ!俺は医者に」
「寂しそ~に私達を見てたのは解ってましたよ?さぁ森上さん、すす…っと」
「綾華、待て!良識を持ってるお前ならこれがどれだけ間違いか―――」
「森り~ん………往生際悪いよ?一緒にヘヴンなワールドにGOナウ?」
「久我ぁ!日本語喋れ!」
抗議の声を物ともせず、A分隊は一致団結して(1人除外されているが)悠希を仲良く海へと誘う。
必死になって逃れようとするものの、腕は二の腕、脚は太股を基点にホールドされており、ろくに逃れることもできない。
「し、雫!分隊長!?」
「一緒に遊びましょ?」
「それを笑顔で云うか―――っ!?」
珍しく大声を上げる悠希は、無常にも皆の渾身にして息の合った投擲により、かき消されることに。
大きな水柱を立てて、悠希は海へとダイブする。全身の擦り傷が海水に触れ、洒落にならない激痛が、悠希の精神を汚染し、しかし意地でも悲鳴だけは出したくないのか、ひたすらのたうちまわるのだった。
少し時間が過ぎ、東方にある断崖絶壁が僅かに見える砂浜。そこから氷室はその断崖絶壁を見ていた。
正確には、そこで行われている作業を注視していた。幸い、波は穏やかで、作業が難航してるようには見えない。
そのすぐ下の海域に小型ボートが係留し、そこでワイヤーを海底へ下ろしている。複数の作業員が声を掛け合い、作業に従事しているのが見える。
そう、そこは丁度、氷室が狙撃した歩兵装甲が落ちた場所だった。
なにやら作業が済んだのか、ワイヤーをゆっくりと巻き上げ始める。
「こちらにいましたか、教官」
「源か………どうした、遊ばないのか?こうやって気兼ねなく遊べるのは、恐らく一生で1度か2度、あるかないかだ。
今の内にしっかり享受しておけ」
振り返りもせず、淡々とそう返す。
「それよりも、少し気になることがあったので。
それに先程遊びましたから、その辺の欲求は解消済みです」
「そうか」
特に振り返る気もないと受け取った雫は、そのまま話を進める。
「今回の試験で、1つ聞きたいことがあります」
「………まぁ、いいだろう。なんだ?」
一瞬間が空き、何か思案したのが見て取れた。表情も見れればもっと確実かと思ったが、この教官、悠希以上に表情筋が硬直してるお人で、見えたところで無意味だなと内心で結論を着ける。
「単刀直入にお聞きします。
今回の試験………元々合格させる気でしたね?」
「何故そう思った」
「結論から云えば、あの歩兵装甲が出てきた時です」
タイミングを見計らったかのように、小型ボートが歩兵装甲を引き上げる。
元々大分痛んでたのに加え、あちこちがひしゃげ、まともに機能してないのが一目でわかる。
が………弱装弾なのか粘土弾だったのか、36mmの直撃とは思えないほど形が残っていた。
「そして今、あの歩兵装甲を見て確信しました」
「貴様の推論を聞いておこうか」
「………最初に違和感を感じたのは、試験が始まって3日経った時でした。
普通、ここまで時間をかければそれなりに成果があるはずなのに、何も無い。単に見落としただけか、あるいはまったく関係ない場所しか見ていないのか………
その時はその程度のものだと考えていましたが、4日辺りになると、流石にこれはおかしいという思いが強まりました。が、確証もなく、勝手な思い込みだけでどうすることもできない。
ですが、
その4日目の夜………その思い込みを裏打ちする出来事が起きました」
「…………」
「教官は、都についてどれほど知っておられますか?」
「質問が増えたな」
「………知ってるんですね」
「履歴書は一通り眼を通している」
「解りました………話を戻しますが、都の件が、この試験が茶番………あるいは書類上の通過儀礼なのではないかという、そんな推論が導きだされました。
そして、5日目に現れた歩兵装甲と、教官からの奇妙な通信。
それが私の中で、決定的なものにしました」
「その2つに何かを決定的にさせるものはないが?」
「あります。特に通信の方に。
―――教官は一言も、”試験は中止だ”と云ってませんでした」
一寸、風が止み場が静まり返る。
数瞬の間を置き、再び世界が騒がしくなった。
「………」
「歩兵装甲にしたってそうです。いくら悠希が人並み外れた身体能力を持っていても、人間1人ろくに殺せない歩兵装甲などあるのでしょうか?
ましてや、それに5時間以上鬼ごっこしたり、気絶したと見るなや、見向きもしない歩兵装甲など。誰かがそのように仕込んでなければ、不可能なはずです」
「………」
「とは云え、歩兵装甲の装備に肝を冷やしてたのは否めません。
機銃を使われていたら、私達は今頃この森の中で永眠しているところでしたし」
「ふむ………」
「そして極めつけが最後の教官が放った砲撃………戦術機の装備には、粘土弾かプラスチック弾はデフォルトで装備されているものなのですか?
私の知る限り、事前に用意しておかなければならない装備であると、指導を受けております」
そこまで云い切ると、雫は一呼吸置き、
「以上が、私なりの推理です」
「なるほど………指揮官講習はきちんと受けているようだな」
そう溜息交じりで云うと、ようやくここで雫の方へ振り返った。その顔には、いつになく、笑みが含まれていた。
「これから話すことは他の分隊員には他言無用だ。少し早いが、”Need to know”だ。
知る必要があれば知らされ、知る必要がなければ知らされない。
貴様は本来知らなくて良い立場であることを、そこをよく踏まえて聞け」
「はいっ」
「結論から云えば、貴様の推理は正解だ。
貴様達301衛士訓練部隊が新OS搭載機のみに特化させた部隊のモデルケースになる予定なのは知っているな?」
「噂話の域だと思ってましたが…あれは本当だったんですね」
「そうだ。我々は国連所属だが、それ故に他国からの眼…特に前線国からの眼が厳しく向けられている。新OSは、それだけBETA大戦においては重要な要素となりつつあるからだ。
しかしその貴様らが、総戦技演習程度で躓いてはモデルケースとしては使い物にならん。よって、全分隊は形式上の試験を受けてもらい、結果如何に関わらず合格させるよう、命令が下されている」
「めい…れい…!?」
「それだけ重要なのだと理解しておけ。
しかし、形式上であっても試験は試験だ。手抜きの試験では意味はないし、何よりコストも馬鹿にならん。
そのため、相応のリスクを背負った試験を、貴様の分隊に課した。それぞれ抱えている課題を、より解りやすい形にするためにな。
その辺の説教は、昨日済ませてあるから云わなくて構わんな?」
「はい…」
「貴様達に要求されているのは歩兵としての性能ではない。次の段階、衛士としての性能だ。
しかし衛士となるためには相応の個体性能を要求される。それは身体能力だけでなく、精神面に置いてもだ。
のほほんとしてる者に衛士は務まらん。如何なる状況でも戦う意思を途切れさせない精神を持つためには、やはり肉体を酷使しなければならない。
戦術機という借り物の器を得たところで、その精神基盤は軟弱なままだ。真に己が試される時、人はその本性を見せる。その時、己を見失わず、地に脚を着き、武器を構えられるようになっていなければ、試験を無難に通っても衛士としては半人前でしかない。
そのためにも、貴様達には、一番危険で過酷な試験を受けてもらった。
………これが、この試験の全貌だ」
一通り説明責任を果たしたと云わんばかりに、氷室はくるりと同じ姿勢に戻る。
こうなれば、何を云っても無駄だろうと判断した雫は、敬礼し、
「ありがとうございましたっ!」
踵を返し、A分隊の面々の所へ駆けて行った。
すぐに足音が聞こえなくなると、氷室は小さく笑みを浮かべる。それは本人でも知覚できないほど、僅かな変化であったが、それでも氷室は、小さく笑みを浮かべていた。
(単機性能は、既に実用域ということか………特殊部隊の隊員であっても単独なら逃げることを選ぶ相手を、最終的には8時間以上に渡って生存………
真っ当な装備を持たせたら、撃破も可能ということか……凄まじいな)
それは、森上 悠希のことを考えての笑みだった。
真っ当な訓練では、こうはならない。よほど訓練が良かったのか、彼を指導した人間がよほど頭がおかしかったのか。あるいはその両方なのか。
どちらにせよ、これほどの才能を持った者をきちんと指導できる者は、そうはいない。無名の指導者では、ここまで引き出せるわけがない。「では、誰だ?」となるが、生憎憶測すら立てられない。そこは源にでも聞けば一発なのだろうが、そこまでする必要性は、今は感じない。
しかし、これだけの才能を戦術機でより強化できるのかと思うと、ある種の身震いを覚える。
これほどの才能が衛士の境地に、そしてXM3の限界にたどり着くのかと思うと、際限の無い歓喜が溢れてくる。
(まりも………貴女はこの感覚を味わっていたのか?)
彼自体は完全な意味での氷室の教え子ではない。しかし、ここに来てからは氷室の指導の下、訓練に励んでる以上、やはり氷室の教え子であることには変わりない。
今ほど、教官であることを喜ばしく感じたことはない。教え子がこれほど可愛らしく思えたことは、ない。
所詮、部下を教育する過程と似たようなものだと思っていた。が、実際はどうだろう、この充実感。この達成感。
まだまだ先は長い。だというのに、成果がこれほどまでハッキリと出ると、嬉しくて仕方が無い。指導した甲斐というものを、嫌でも強く感じてしまう。
(そして朝倉………あれは現実のものとして受け入れる必要があるな………)
都が見せた”力”は、氷室も確認自体はしていた。
が、あまりに突拍子もないことで、確認したくともできなかった。
Extra-sensory perception発現体………ソビエト連邦では、その類の実験をしていたという話は、度々耳にしていた。が、現物を見たことがない氷室には、「所詮は噂話」としてしか、受け入れてなかった。
正確には、ESPと念力(サイコキネシス)は別けられて考えるものだそうだが、眉唾で非現実的な代物であるのは相変わらずなため、氷室は同一のものと認識していた。
が、実際に目の前で起きてみればどうだろう。見たものを否定するには、かなり屈折した考えが必要である。しかし都は、それをねじ伏せるかのように、一時であれ驚異的な力を見せ付けた。
これでは事実として受け入れるしかない。望遠カメラから見えた、見えざる壁と相撲を取る歩兵装甲を見た以上は。あの崖に現れる前、数値上では源を抱えて全力疾走などできるはずのない都が走る姿を見せた以上は。
「………ふんっ」
(大場司令………貴方が集めた人員は、かなり優秀なようですよ)
こんな希少な人材をどうやって集めたのやら…氷室は内心頭を抱えた。
普通にやっては集まらない人材を、ここまで集めてみせた上司。その手腕は、何時の間にここまで大きくそして巧みになったのか。
知る必要があれば知らされる………そう源に教えたが、まさかこんなところで自身も実践することになろうとは、氷室は思ってもいなかった。
崖付近で行われていた回収作業は終わったのか、小型ボートはゆっくりと動き出し始めていた。
最終更新:2010年11月06日 21:56