氷室は頭を抱えていた。いや、正確には頭の中で―――だが。
手にしている書類は森上 悠希の思考ログだ。
最初に会話していた段階では、これといった問題は出ていない。実に至極真っ当なデータが出ている。
だが少しページを進めて、実際に
戦術機を制御しようとした段階………ここから一気に思考ログ数が跳ね上がる。
量にして実質3倍。他の訓練兵で何名か慌てて誤入力していた時もあったが、それでもこの半分にも満たない量しか計測し切れていない。
確かに衛士というのは一瞬の判断で複数の思考を同時に行うものではある。が、それでも全ての思考が姿勢制御に使われているわけではない。
1つの思考で姿勢制御を。
1つの思考で敵性体の対処方法の模索を。
1つの思考で仲間の連携。
1つの思考で全体の状況判断を。
これらを経験と実績で行うものなのだ。
それに戦術機の統計思考制御は必要な分しか読みとらないようにされている。よって、姿勢制御を読み取り意図を汲んでも、仲間の連携まで読み取り意図を汲むまではやらないのだ。
そう、だからこそおかしい。あり得ないのだ。
複数の思考、意図を読み取り、その上で実行に移せるなどと。
1度頭を冷やし、再度この問題に取り組んでみたものの、やはり同じ答えにしかたどり着けない。
(見込み違いだったと云うのか………?)
身体能力の高さが戦術機制御能力に直結するわけではない―――
頭の中では解っていたことではあるが、まさかこのような場所でそれを実感することになろうとは………
(いや、このような場所だからこそと云えるのか…
実戦配備される頃にはそのような問題を抱える者は別の場所に飛ばされる。
なるほど………これが教育の場というのか…)
前線にいるだけでは解らない苦しみ。教育者が抱える悩み。
無能と有能を分ける作業。その苦しみと、それらへの悩み。
今までは良い部分だけを味わっていたのだと、強く感じ入る。
そして今が、教育者としての苦しみを強いられているのを実感される。
戦う事だけが苦しいのではない。教育というのも、ひとつの苦しみを伴う戦いなのだ。
それを、今まさに実感した。
(………しかし、こう感傷に浸っている場合ではないな。
森上を………どうするか。それを考えねば………)
「ふぅ………」
温くなりシブくなったコーヒーモドキを一口飲み、再度頭を回転させる。
―――問題はこの森上 悠希の処遇、扱いである。
まだ戦術機訓練は始まったばかりだ。しかしこんな初歩の段階で躓くのは見た事がない。そう、自分の時ですらそのようなのはいなかった。
あるいは居たかも知れないが、ここまで酷い者はいなかった。
だからこそ、考える。扱いを。今後の処遇を。
このまま実機に乗せては機体を壊すだけだろう。だが、だからと云って乗せないわけにもいかない。訓練を滞らせてはいけない。
(………ひとまず、明日の訓練でも同じ結果がでるようであれば、1度1対1で指導してみるか)
普通であれば切るのは容易い。
しかし301衛士訓練部隊は普通の訓練部隊ではない。各国の思惑や目線が入った、ある種の一大計画なのだ。
よって、下手に切るわけにもいかない。成績が低いからと云って、切るわけにはいかない。
従って、多少贔屓してでも指導していく必要がある。どんな理由であれ、最初の適正をトップで潜り抜けてきた逸材なのだから。
だが………さらに問題は、ある。
仮に1対1で問題が解決するようならそれはそれで問題はない。
しかしこれで解決できなかった場合………どうするか、だ。
下手をすると中長期的に見ていく必要が出てくる。しかしそのようなコストは、残念ながら掛けられない。
やはり切る切らないの話にならざる得ない。
ここで脱落者が出てくるようでは、この訓練部隊には大きな問題が出てくる。
このために集められた訓練兵であるのに、こんな初歩の段階で切られるような者を招き入れたとあっては、存在価値すら危ぶまれる。
そうなってはもう終わりだ。この訓練部隊は早々に解散され、通常訓練の後XM3搭載機に乗る形に落ち着くだろう。
それでは、この基地の、自分の存在意義が失われる。
折角芽生えた教育者としての意識が、それを断固として拒否している。
XM3という素晴らしい代物の性能を、本来の半分しか発揮できずに埋もれさせていくことになる。
―――それだけは、断固として阻止せねばならない。
とはいえ、軍曹程度の階級の自分が、それをどうこう出来るのにも限界はある。
ではどうするか。
どうすべきか。
どういう手段を講じるべきか。
(まずは、明日の結果次第で個人指導をするかどうかを判断。
個人指導が必要な場合、それでも駄目だった時は―――)
「………大場司令、か」
この訓練部隊の実質的な最高責任者は、大場司令だ。
先に説明した通り、この訓練部隊が特殊なら当然その組織表も若干特殊になる。
であれば、最終的な評価は大場司令が下すのが正しい形が成り立つ。
「………責任の転嫁だな、これでは」
これだけ考えても結局は、所詮は責任の押し付け。
自分がこの件に関し余計な責任を負いたくないだけ。
その気はなくとも、最終的な形は責任の押し付けでしかない。
(とはいえ、それは納得できんな………なら、指示を仰ぐ方向にするか)
結論を伝えるなら、大場であろうが氷室であろうが大同小異でしかない。
であるなら、経過報告の際、どうするべきか指示を仰ぐのも一つの手だ。少なくとも、問題の先送りにはなるが結論を書き換える可能性を秘めている。
未来はひとつではない。今は過程なのだ。過程の積み重ねが未来であるのなら、少なくとも1つの過程で未来を決める必要はない。
大仰ではあるが、この程度の問題でいちいち存続を危ぶんでいては話にならないのだ。
大体、初期訓練の段階から怪しいのは何人も居たのだ。この程度で落ち込んでる暇はない。
「………よし」
(今後の予定は見えてきたな。ならば、後は今度は指導の内容や予定を組むか………)
取り越し苦労ならそれで良い。今やっておけばいずれ使う時も来るだろう。
そんなことを考えながら、氷室は今後の予定の修正を入れていくのだった。
薄暗い闇の中。
大地を覆い尽くす白き氷―――雪。
空から音もなく深々と舞い降りる雪に包まれながら、1人の若者が何かを抱えていた。
吐く息は白く、世界が黒と白だけで塗りつぶされている。
が………
その2色だけの世界に、もう1つの色が堕ちる。
それは―――朱。
朱の雫が白の大地を染める。静かに流れるそれは、無垢なる世界を無言で侵食する。
その流れ落ちる朱の源は………1人の若者が抱き抱えるモノから溢れていた。
―――あぁ、これは”あの時”のか。
この世界を見つめる存在………悠希はそんなことを思う。
白と黒と、そして鮮やかな朱が森上 悠希の心象風景。
この世界こそ、今の森上 悠希を形作る根幹部分。
あの日から、今の【森上 悠希】が背負う罪と責務と、そして覚悟を植えつけた。
あの日、あの時、あの場所で。
人がヒトであることを律する理を捻じ曲げてでも、あの人が背負わせたモノ。
森上 悠希にとっての、全てが固まったあの日。
1月1日―――その夜。
心象風景の中心にいる若者は、半年前の悠希だ。だがその眼には大粒の涙が溢れ、寒空の世界にしては薄着だ。
その手に抱くモノは忘れるはずもない。
忘れようがない。
忘れられるわけがない。
あの人を忘れることは、一生できないだろう。
それほどまでに鮮烈な人で、同時に掛け替えのない存在だった。
「―――師匠…ッ!」
半年前の悠希が、悲しみで震える喉を押し殺すように、絞り出すようにその言葉を紡ぐ。
そう………その手に抱く人は、森上 悠希の師匠、その人だった。
「………」
何かを呟く。が、止まる事を忘れた血はひたすら白い大地を朱に染めていく。
抱きしめたくとも、その胸に”突き刺さる刀”が邪魔をして悠希を阻害する。
………この時の言葉を、悠希はよく覚えていない。
ただ、とても大切なことを云われたことだけは、頭の片隅で憶えている。
そしてこの刀も、誰の物かよく覚えている。
それはそうだろう。なにせこの刀は、他の誰の物でもない。
悠希の物なのだから。
そして、これを突き刺したのが誰かも………
今の悠希は自身の手を見る。
―――っ!
その手には、真っ赤な血がべったりと張り付いていた。
………あの日、師を突き斬り殺したのは他の誰でもない。悠希だ。
死闘の末の結末…だが、その結果は悠希にとって重く、そして”命”というものを強く激しくぶつけてくる。
区切りは付けている。少なくとも、表層的な部分ではそう思っていた。
だが、実際に中身を開けてみればこの通りだ。
所詮は区切り、過去の出来事にするところまでは、まだできてはいない。
命の重さと、それを奪う重大さ、そして親しき者の死の辛さ、苦しさ、悲しさ、無常………
それらを全て1人で伝えた悠希の師は、最後に悠希へ笑顔を向けていた。
一方的で理不尽な理由で始まった殺し合いを始めた師匠の最後は、笑顔だったのだ。
命を奪う者へ向けて悪意を吐くわけでもなく。
自身の未来が失われた事への悪態を吐くわけでもなく。
世界に怨鎖の限りをまき散らすわけでもなく。
ただ、やり遂げたかのように、伝えきれたかのように、最後は満面の笑みで、逝った。
何故こんなことをしたのか、未だに解らない。
それでも師匠は最後には笑顔で、悠希にこう言い残したのだ。
「未来は………任せたぞ………」
その言葉を最後に、師は動かぬ屍と化した。
………この時、悠希はどうしたかはよく解ってない。
叫んだような気もするし、泣いたようにも思える。その両方だった記憶もあるし、そのどちらでもないという記憶もある。
ただ覚えているのは、このままにはできないということ。
師の屍を遺言通りに山へ埋めること。
その事で頭はいっぱいでたいして回ってなかった。
その心象風景では泣き叫んだのを再現している。だが、そこより先に動く気配は、ない。
ふと顔を上げると、そこに2つの人影があった。
―――初めてだな、こんなの。
いつも通りの心象風景なら、あそこで眼が醒めるはず…だが、今回は続きがあった。
眼を凝らし、人影を凝視する。
やがて1つが僅かにその輪郭をはっきりとさせる。
………それは悠希の姿だった。
だが、気になるのはその顔だ。幾分か、今よりも年老いてるようにも見える。
だが思いっきり歳が離れてるようにも見えない。だが、今よりも厳しく、そして悲しい顔をしているのは解った。
何故だろう………そう思った矢先、もう1つの輪郭が一歩前へ出てくる。
―――!?
思わず。
その形相に、思わず息を呑んだ。
これは………悠希だ。
それは、間違い、ない。
歳もそう離れてはいないだろう。
背丈も、今ほど変わりはしない、はず。
だが―――だが、なんだこの顔は!?
およそ人がする表情ではない。
人ができる表情ではない。
誰からも習った表情ではない。
―――鬼。
その顔を見て、悠希はそんな事を連想した。
大きく釣り上げられた唇は、一見機嫌が悪そうに見えるが、別の角度から見れば嬉しそうに広がってるようにも見える。
両目はこれでもかと云うほど釣り上げられ、まるで全てが敵だと云わしめるほど強く執拗に、そして粘つく殺気を孕んでいる。
頭髪も全身から溢れる闘氣とも殺気とも取れる気迫によって逆立っている。
―――なんなんだ、こいつは。
この片割れは、何にそれほどまでの殺気を抱いているのか。
これほどの殺気、単に師匠を殺した事への憎しみというものではありそうにない。だが、それ以外に理由が思いつかない。
何故―――そう思った矢先、もう1人の、少し歳が往った悠希(以後、往・悠希と呼称)が前に来る。
直後、頭の中で何かが叫んだ―――夢の中だと云うのに、そんな直感が働いた。
それに応じると同時に、往・悠希が掴みかかる。その手を叩き落としながら距離を取り、間合いを広げる。その時、その後ろに控えているはずの鬼・悠希が見えなかった。また頭の中で何かが叫ぶ。そんな気がする。
さらに後ろへと飛び退くと、直前まで居た場所に鬼・悠希が落ちてくる。その手には2本の刀が握られていた。
まずいと思い、近くにいるはずの師を抱き泣き続けているはずの、昔の悠希を探す。が、見つけたものの往・悠希が目的は知っていると云わんばかりに間に入り、悠希を牽制する。
何がどうしてどうなってるのか………何も解らなかったが、とりあえず今解ることは、1つだけある。
あの2人は、明らかに今の森上 悠希に対し、敵対関係にあること。そしてこれを受け入れることが、自分にはできないということを。
それだけは理解した悠希は、無手でありながら構える。
武器がないから逃げる―――その程度の考えは既にない。
武器がない程度の状況的差異は、撤退を選ぶに値しない。
武器があろうがなかろうが、やる必要があればやるだけだ。
―――来いっ!
裂帛の咆哮と同時に、2人が真正面から来る。
それに合わせるように悠希も真正面から立ち向かい―――
「―――破っ!」
「きゃっ!?」
飛び起きる………と表現するには酷く派手で大仰な起き方に、隣で起きたばかりの雫が悲鳴を上げた。
「なに、なに、どうしたの!?」
「………あれ?」
拳を高々と突き上げ、しかし身体は中途半端に起きている悠希。
片足にはまだ毛布が絡まっており、しかしシャツはやや乱れてる。
実に、これ以上ないほど、面白みのない、ただの寝ぼけた男の姿だった。
「………なんだったんだ、あれ?」
「変な夢でも見たの?」
「………あれ?」
「珍しいわね…悠希がそこまで寝ぼけるとか」
「………はて」
「そろそろシャンとなさいな、悠希。起床ラッパが鳴るわよ」
「………はい」
妙な夢見のせいか、その応答に覇気はなかった。
悠希のその珍妙なポーズを止めるころ、分隊の面々も起き始める。
ただ妙な悲鳴とも取れる声は聞いていたので、起床ラッパ後の朝食でその話題で持ち切りになったのだが。
悠希にとって、この夢は一過性のものと受け取っていたが、これが意味するところをまだ、考えてはいなかった―――
シミュレーター訓練2日目。今日もシミュレーターは元気に動く。
やはり他の分隊員と比べずとも、圧倒的におかしな動きをしている悠希の姿があった。
これが良い意味で―――となればまだ話は楽で良かったが、相変わらずの悪い意味でのおかしな動きなため、氷室だけでなくA分隊の面々も頭を抱えていた。
ここまで出鱈目だと、逆にわざとやってるのはないのかと疑いたくなるほどの動きである。
事実、他の分隊………特にB分隊の面々は既に白い眼に変わりつつあった。
白兵訓練で散々後塵を拝してきた中村は、過去に属していた訓練部隊ではトップを飾っていただけに、それを奪う悠希という存在は白い眼を向けるに十分に値し、また他にも思うところがあるのか、何か別の意味を含めた眼をしていた。
それは大小様々であるが、B分隊だけでなく男衆全体が思うところであった。そのため、男子比率が高いB分隊は必然、冷たい眼を向けているという印象が強くなる。
しかし逆に、この面子の中で白い眼よりも明確な怒りの感情を向けている者がいた。中岡である。
搭乗時間中であろうと、待ち時間中であっても悠希への睨みは一切揺らがない。
中岡 裕次郎にとって、森上 悠希はなんだったのか。個人技術の頂点をずっと抑え続けた者の今の姿が、彼にはどう映っているのか。
怒りという感情をずっと抱き続けている以上、そこには一種の羨望があったのだろう。
不甲斐無さ、失望、願望、好敵手の喪失………それらが綯交ぜになった怒れる瞳は、常に悠希を突き刺す。
その悠希も、視線に気付いてはいるものの、決して相手するつもりはなかった。
逃げているわけではない。後ろめいた気持もない。
その抗議の意味を理解しているからこそ、悠希はそれに答えられない自分がいるからこそ、あえて相手しないのだった。
相手したところで、中岡は烈火の如く問い詰め、罵るだろう。しかしそれに応じれる状態ではない悠希にとって、それは右から左へと流すしかない言葉だ。
納得はされないだろう。自身も他人事ならもう少し反応するだろう。だがこの不甲斐無さは、紛れなく自分のものだ。言い逃れなどできるはずもない。
悔しいとは思う。
これほどまでに強く思われた事は、未だかつてない。そう、奥州に居た頃でも、一時の感情での事はあっても、長期間このような想いにさらされることはなかった。
しかしその想いに応えられない以上、やはり悠希はいつも通りを演じるしかなかった。
(とは云っても、これを演じ続けるには無理がある…)
シミュレーターの中に閉じこもりながら、悠希はそんなことを思う。
この無理は近い内に破綻する代物だ。
隠し事・騙し事自体がいずれ破綻することなのは理解している。
だからこそ、この無理は続けられないのを強く思っていた。
そしてこの前日に続き一歩もまともに歩けないという事態。
既に適正最下位の者ですら基礎過程Bに入っているというのに、トップ組に入る自分はこの有様。
このままでは何もできず、何も為せないまま、落第生という烙印を押され、雫と切り離されしまう。
それは許容できないことだ。してはならないことだ。
”源 雫”の目的である「近衛になる」ためには、戦術機に乗って最前線に立つことは必要不可欠の事柄だ。『一介の市民でしかない』”源”にとって、近衛になるには相応の手柄が必要なのだ。
近衛に入るには近衛専門の衛士訓練学校に入学する必要があるが、そこは武家であっても狭き門を構えており、それこそ一般市民として扱われている源にとっては云うに及ばずだ。
よって、悠希の我儘、不出来で彼女を訓練校から引きずり下ろすことは許されない。と云うよりも、そもそもできやしないのだが。
だからこそ、森上 悠希は焦る。
隣に立てないことを。
その背中を守れないことを。
―――彼女の剣に、なれないことを。
このままではそれらが全てできない。近年では生身で最前線に立つ事はなくなっている。
守るだけなら、歩兵でも良いのかもしれないが、”森上 悠希”は剣なのだ。雫を守るのは本分だが、それ以上に絶対的で必ずその願いに答える剣であるのがこの男の本分なのだ。
それができないという事実が今目前にまで迫っている。
(しかし………どうしろって云うんだッ!)
ペダルを踏み込む。が、本日12回目の転倒を引き起こす。既に衝撃には慣れたが、この震動に若干の苛立ちを感じてしまう。
網膜投影に映る空は、合成処理された蒼い空で、虚像だと解ってはいても綺麗だと思ってしまった。
自動制御で起き上がるが、やはり真っ当に歩くことさえできない。
棒立ちの兵器等なんの役にも立たない。それは悠希自身、一番理解していることだ。
耳元でガンガン吠える梶原教官の罵声を聞き流しながら、何をやっても真っ当に動かせない自分に苛立ちを募らせる。
(このまま………離れ離れになる…のか?)
途端―――云いようの無い寒気が全身に走った。
それを言語化することはできなかったが、何かが、何かが叫ぶ。
それは切実な意思を持っていた。懇願とも取れた。だが、何を発しているかは、まったく解らない。
その声に急かされるように、悠希の身体は慌しく動く。だが、戦術機という巨大な機械はその者の意思と命令を理解していないのか、またしても派手に転倒するだけで終わってしまう。
「………無様、か」
不甲斐無いなどと表現しようがない程、今の自分は無能の極みだ。
よちよち歩きすらできぬ体たらくで何が「雫を守る」だ。なんと口だけの軽い男なのだ。
情けないにも程がある。
直接的な身体能力は高くとも、それではBETAは倒せない。銃を構えた者相手にだって勝てやしない。
これでは、こんな男に守られないといけない”源 雫”という存在にケチが付いてしまう。
そう思うと、一気に頭が熱くなり、操縦桿をにその苛立ちの捌け口に使―――おうとして、寸前で止めた。
「物に当たるほど余裕がないってのか………俺は………」
一寸沸いた怒りは自分への失望へと既に切り替わっていた。
戦術機という一向に思い通りに動かぬその躯体に対する怒りはまだ健在だが、しかしそれでも自分の不甲斐無さの方が圧倒的に強く、そしてどうしようもないほどの絶望がその背中に圧し掛かってる。
(このままいけば………切り捨てられる…か)
可能性の問題は既に越えており、既にいつその話が切り出されるか………というレベルにまで来ているはずだ。
歩くことすらままならないような赤子以下を後生大事に抱える軍は存在しない。
そして自分が上官、教官なら悠希のような者は即座に切り捨てることを決める。
「………でも、だからってなぁ………」
―――諦められるかッ。
せめて最後まで、与えられたこの時間だけは、意地でも使い倒す。
あがくだけあがいて、その結果が「不適格者」の烙印なら、それなら納得できる。
だが何もせず、何もできずにその烙印を押されるのだけは御免だ。
『諦める』―――その選択だけは、したくない。
「………どうせシミュレーターだ。データ上の機体が壊れたって文句はねぇ。
ならせめて、こいつが壊れるまで使わせてもらう!」
そう、裂帛の気合を叫びながら、本日13目の転倒を晒していくのだった。
午前のシミュレーター実習が終了し、氷室教官からのいつもの叱責を受けた訓練部隊の面々は、それぞれ思い思いの行動を開始する。が、その中で氷室は悠希を呼び止めた。
「―――悠希、少し待て」
「はい、なんでしょうか」
云われることなど解っていても、あえて解らぬ振りをする悠希。
まるで小言だと踏んでるかのように装いながら気をつけの姿勢を取る。
「ふん、云われることは解ってますといった様子だな?」
「いえ、そのようなことは…」
「教官の応対の中に否定の単語などあったか?」
「はい、その通りです!」
「まぁいい。今はそのことでとやかく云うつもりはない。云いたいことはそのことではないしな」
と、一度呼吸を置き、氷室は言葉を切る。そして、
「今後の予定を伝える。貴様は午後の座学には参加しなくていい」
「それはつまり」
事実上のクビですか―――そう云おうとしたが、途中で口を紡ぐ。遠巻きで聞いていた他の分隊の女子が苦笑しているのが聞こえた。
「何を想像したかはまぁ解るがそう急ぐな。私の説明を全部聞いてからにしろ」
「………それでは、午後は自分は何を?」
「午後はここで私と1対1での補習だ。座学は後からでも追いつけるからな」
「………?」
その言葉は、悠希にとって妙な違和感を感じるものだった。
それではまるで………自分を何が何でも落としたくないと聞こえていたからだ。
それはそうだろう。今の今まで、そのような特別に枠を設けることなど、1度もして来なかったのに。出遅れた者がいても、自主訓練で済ませていたのに。
それなのに、たった1人出遅れているのをフォローしようというのだ。
違和感を持たずにはいられなかった。
ただ、遠巻きで聞いていた分隊の者は、その意図に気付けていないようであったが。ただ、より落ちぶれていくようにしか見えていない様子だ。
その意図は解らずとも、異常性について感知した悠希を見て、氷室は一寸ニヤリと笑い、
「だが特別扱いされたと思うなよ?貴様の場合、矯正の側面が強いからな」
「了解しました」
矯正………要するに、叩き直すということか。
それはそれで良いことだ。どうすることもできない今の状態より、解ってるのが見てくれるだけでも話は大分違ってくる。
現状打破を目指すなら、これ以上の適材はいないだろう。
「では時間と場所を間違えるなよ。以上」
「了解っ、よろしくお願いします!」
踵を返して去る氷室の背に敬礼し、悠希は次の行動へと動きを速めるのだった。
最終更新:2011年07月15日 10:12