住所

本巣市役所根尾分庁舎(旧根尾村中心地) 岐阜県本巣市根尾板所625−1 樽見鉄道樽見線終点「樽見駅」下車 徒歩30秒
福寿寺(旧根尾村下大須村区域中心地)  本巣市根尾下大須1140 樽見鉄道樽見線終点「樽見駅」下車 徒歩3時間。途中までは一日数便公共バスあり
独立行政法人水資源機構徳山ダム管理所 岐阜県揖斐郡揖斐川町開田448 樽見鉄道樽見線終点「樽見駅」下車 徒歩4時間(約18km)。ただし冬季通行止 

関係あるとみられるもの

古明地さとり(東方地霊殿ほか)
古明地こいし(東方地霊殿、東方心綺楼ほか)

覚(さとり)

※雪どけを待つ越美山脈と、清らかな根尾川の水

妖怪「覚(さとり)」は、深い山の奥に住み、人の心を見透かすと言われる妖怪である。
覚(さとり)という妖怪の名が史上最初に登場する文献は、西暦1779年に鳥山石燕(とりやませきえん)が刊行した妖怪画集『今昔画図続百鬼(こんじゃくがずぞくひゃっき)』だと思われる。

ちなみに『今昔画図続百鬼』には覚(さとり)のほかにも、酒顛童子(しゅてんどうじ)橋姫(はしひめ)アリス・マーガトロイド丑の刻参り(うしのこくまいり)、舟幽霊(ふなゆうれい)、
鵺(ぬえ)土蜘蛛(つちぐも)、天逆毎(あまのざこ)などなど、なぜだかとても親近感のわく妖怪さん達がぜいたくに収録されている。
また石燕は『今昔画図続百鬼』以外にも『画図百鬼夜行』『今昔百鬼拾遺』『百器徒然袋』など多くの妖怪本を残しており、これらをまとめて「百鬼夜行シリーズ」と呼んだりもする。
東方projectの元ネタ考にとどまらず、日本妖怪史を語る上で外せない作品群と言えるだろう。少なくとも、オカルト観点からはな。

酒呑童子、鵺、土蜘蛛ら怱々(そうそう)たる顔ぶれが並ぶ時点でお察しとも思うが、『今昔画図続百鬼』は石燕による「ぼくがかんがえたさいきょうようかい集」とかではない。
それなりの脚色はあるものの、概ねは当時の都市界隈でも有名だった妖怪や、どこぞで聞きつけた地方妖怪を紹介する体で書かれており、高い教養をうかがわせる内容となっている。

しかし一方で、『今昔画図続百鬼』には石燕自身が何らかの意図をもって新たに創り出したオリジナルの妖怪がしれっとまぎれ込んでいることも指摘されている。
たとえば同書には「窃盗をはたらく悪い女性に憑(と)りつく妖怪だぞ。」という説明が添えられた"百々目鬼(どどめき)"と言う名の妖怪が収録されているが、
これは「窃盗を犯した女性には報いが訪れるぞ。」という戒(いまし)めをうたうために、石燕が新たに創作した妖怪だと考えられている。

ほなら覚(さとり)は石燕の創った妖怪なのか元々存在した妖怪なのかどっちなんだ?と言うと、実はちょっとややこしい事情があり、「どちらでもある」と言える。
まず「覚(さとり)は石燕の創作した妖怪だ」と定義する場合、その論拠となるのは『今昔図画続百鬼』の原典性である。
冒頭でも申し上げたとおり、覚(さとり)という妖怪が文献史上初めて登場するのが『今昔画図続百鬼』なのだから、石燕が創作したのだという主張は一様の説得力がある。
むろん「先立つ文献は無くとも、覚(さとり)に関する口伝が存在した可能性はあるんじゃないの?」という反問は当然に可能だが、逆にこれを立証することも困難だろう。

一方覚(さとり)を石燕の創作妖怪ではないとする場合、その第一の論拠となるのは『今昔画図続百鬼』中の「覚(さとり)」に関する記述内容における、オリジナリティの無さである。
実は石燕の覚(さとり)には、明らかに元ネタが存在している。さらにはっきり言うと、石燕はすでに存在していたある妖怪について、その名を覚(さとり)に変え再発表しただけである。
この点において、覚(さとり)は百々目鬼(どどめき)のように石燕独自のエスプリ精神から創造された妖怪とは明確に一線を画している。

すなわち『今昔画図百鬼』における覚(さとり)という妖怪は、元ネタ妖怪の存在が石燕の耳に入るまでの"伝言ゲーム"の中で起こりえた種々の「補足」が産んだ妖怪とも考えられるし、
あるいはまったく全く逆に、石燕が明確な意図をもって改編・再誕させた妖怪だとも考えられるのである。

「つまり…どういうことだってばよ?」と思っていただけた諸兄にご説明するため、まずは伝言ゲームのゴール『今昔画図続百鬼』原典から覚(さとり)の姿と説明をご覧いただきたい。

本文
覚(さとり)
飛騨美濃の深山(しんざん)に玃(かく)あり 山人呼んで覚と名づく
色黒く毛長くして よく人の言(こと)をなし よく人の意(こころ)を察す あへて人の害をなさず
人これを殺さんとすれば、先その意(こころ)をさとりてにげ去と云
(いい加減な)現代語訳
飛騨美濃(現在の岐阜県全域)の山奥に、妖怪「玃(かく)」がいる。里山の人々は、この妖怪を覚(さとり)と名づけた。
色黒く、毛は長く、巧みに人語を話し、よく人の考えを読み当てる。覚(さとり)の方から人間に害をなすようなことはない。
もし里山の人間が覚(さとり)を殺そうともくろむと、覚(さとり)は先にその意(思念)を読みとって、逃げていくという。

はい。ただいまご覧いただいたものが、『今昔画図続百鬼』における覚(さとり)です。このちょっと、もう、擁護のしようが無いくらいキモい怪物が石燕の言う覚(さとり)なのです。
ただ、ここでは一旦キモさには目をつぶっていただきたい。

『今昔画図続百鬼』の記載の中で、何をおいてもまず一番にご注目いただきたいのは、覚(さとり)は玃(かく)の一種だと書かれている点である。

さて、現代の人々が玃(かく)という名を聞かされても、ひょっとしたらあまりピンとこないかもしれない。
だが、もし200年も前の人々に「玃(かく)って知ってますか?」と尋ねれば、おそらく相当数の人が「あー。もちろん知っているよ。」と答えたであろう。
近代以前、玃(かく)とはそれほどまでによく名の売れた「種族妖怪」だったのである。

例えば西暦1712年に完成した百科事典『和漢三才図会(わかんさんさいずえ)』の中でも玃(かく)の専門記事があるほどにメジャーな存在で、同書の挿絵にもその姿が描かれている。
それがこれ。

※『和漢三才図会』の玃(かく。和名では"やまこ"と読む)。ちょっとかわいい。


さて『今昔画図続百鬼』の中で覚(さとり)がとっている変なポーズと、『和漢三才図会』の中で玃(かく)がとっている変なポーズとほぼ一致していることがお分かりいただけるだろうか。
以上よりまず鳥山石燕が『今昔画図続百鬼』で覚(さとり)を描くにあたり、『和漢三才図会』の玃(かく)を思いっきりトレパク参照した事は全てまるっと明白である。
ちなみにこのポーズ、ただ単に猿っぽいってだけで、特に深い意味は無いと編集者は思う。

なお先に言っておくが、この記事は「こ れ が 現 実 だ」と言わんばかり原典の覚(さとり)を見せつけて、古明地さんちの美人姉妹ファンの皆様のライフを0にすることを目的とするものではない。
それどころかむしろこの記事では、玃(かく)=覚(さとり)=古明地姉妹という一般説に異議を唱えることを目的とする。ですから、もう少しだけそっ閉じしないでいただきたい。

玃(かく)

では、石燕の言うとおり覚(さとり)が玃(かく)の一種なのだとして、その玃(かく)とは一体どんな妖怪なのか?
……と言うても、これを語るには2文節で十分である。

すなわち、どスケベな猿の妖怪である。

玃(かく)は元々中国原産の妖怪である。あちらの国では玃猿(かくえん)や猳国(かこく)とも呼ばれる。
一匹の妖怪を指す固有名詞ではなく、不特定多数から成る妖怪の一種族を指す一般名詞である。「河童」や「天狗」と同じような呼称と思っていただければよろしい。

中国で玃(かく)という妖怪の存在が語られるようになったのは、とんでもない大昔の事である。
例えば今から2,000年以上も昔、前漢後期の時代に生きた焦延壽(しょうえんじゅ)という易者さんは『易林(えきりん)』というタイトルの本を書いたが、
その記念すべき第1巻の冒頭でいきなり「南海に大玃がいて、私の愛妻はそいつに盗まれた。」という衝撃的なカミングアウトをしている。

また、3世紀末から4世紀初頭にかけて中国の晋王朝に仕えた干宝(かんぽう)という官僚は、古今中国の伝奇を集めて『捜神記』という著作を完成させたが、
その中で玃(かく)について「人間の女性をさらい、孕ませる」と書いている。さらに同書では、
  • 女性が玃(かく)の子を産んだら、玃(かく)は女性と産まれた子を人里に返す。
  • しかし、もし女性が育児放棄した場合、その女性は(呪いとかそんなんで)死ぬ。だから女性と里人は、半人半獣の子を一生懸命育てる。
  • 玃(かく)と女性の間にできた子は、多くの場合"楊"と名乗る。父親が妖怪で、名字なんぞ持たないからである。
  • 山深い四川(しせん)地方に楊という姓の人が多いのはそのためだ。やつらはこうして種族を増やす。
とも記されており、若干四川の人たちをdisりながらその犯行手口まで細やかに記録されている。

以上のように玃(かく)という妖怪は、人間の女性をさらい、繁殖することをライフワークとする非常に迷惑な存在として、中国大陸に名をはせた。
そしてこの玃(かく)の伝説は海を越え、いつしか日本の人々の間でも「山の中には大体玃(かく)住んでいるんじゃね?」と信じられるようになった。
こうして玃(かく)が日本妖怪史にも名を刻むようになると、玃(やまこ)という和名が与えられ、迷惑がられるようになった。
民俗学者の柳田国男曰く、近代まで山間に棲む人々は平地の人から妖怪視されていたため、そうしたイメージと接合したのかもしれない(編集者の独自見解です)。

玃(かく)の伝説が日本に定着する際に特に大きな手助けしたのが、明王朝時代にあたる西暦1596年に李時珍が完成させた『本草綱目(ほんぞうこうもく)』という書物だった。
本来この書は薬学の指南書であるが、その付録には漢方薬の素材として玃(かく)に関する詳細な記述があった。
『本草綱目』は非常に優秀な教科書だったので、当時の日本医学界を中心に広く普及し、それになかば便乗するような形で玃(かく)のことも知れわたるようになった。
『本草網目』における玃(かく)の描写は「人間の女性を攫って子供を産ませる」「普通のアカゲザルよりも大きい」等端的で、しかし特徴がよく押さえられていた。
また「玃(かく)はオスしか存在せず、生殖のために人間の女性を必要とする」との説明があり「なんで玃(かく)すぐ人間の女性さらってしまうん?」という
シンプルな疑問に対してしっかりと言い訳が用意されており、なんとなくロジカルな説得力を持っていた。

以上がおおむね玃(かく)にまつわる伝説、そして玃(かく)が日本でも定着した経緯である。
繰り返しになるが、玃(かく)を語る上で最も重要なポイントは「生殖のために人間の女性をさらう」ということである。この点は2,000年以上もの間全くブレていない。
悠久の時の流れに揉まれ、大河と司る中華の神(河伯)が水辺の愉快な妖怪(河童)に変節したのと比べると、ことさらすごい話である。どんだけエロいんだよ。

しかし、だからこそ際立つのが「玃(かく)が読心能力を持つ」という発想のとっぴさであり、特異性である。
賢く、敵襲を察知して身を隠すという動物的本能についての言及はあっても、「人の心を読む」といった設定は編集者の浅い見識では本場中国の伝承にも見当たらず、
石燕の著した『今昔画図続百鬼』やその石燕が大いにパクったインスパイアを受けた『和漢三才図会』等の限られた筋でのみ登場する能力なのである。

ではなぜ、『和漢三才図会』に発する系統において、「玃(かく)が読心能力を持つ」などといった奇抜な独自設定が生まれたのか。
その解に関する仮説を述べるため、ここで『和漢三才図会』における玃(かく)の記載についても見ていただきたい。漢文写すのめんどいんでイメージはっちゃいます。


とにかくいい加減な現代語訳
『本草網目』という書物によると、玃(かく)とは年を重ねた猿(妖怪化した猿という意味を含むか?)である。猴(ほう)※に似ているが、それより大きく、色は蒼黒い。
※猿も猴も同じ「さる」を表すが、厳密には類人猿(ape)を猿と、それ以外(monkey)を猴と呼ぶといったような区別があるとインターネットが言ってた。

人間のように歩行し、よく人や物をさらう。またキョドキョドと、よく辺りを見回す。オスばかりでメスがいない。よく人間の婦女をさらい、子どもを産ませる。
『神異記』によれば、西方にはしゅう(豸へんに周)という獣がいる。しゅうは大きさが驢馬(ろば)ほどもあり、かなり大きい。姿は猿に似る。よく木に登る。
同書に曰く「しゅうはメスばかりでオスがない。主要街道に群生し、人間の男を捕まえては交合し孕む。」とある。だからこれも玃(かく)の一種かも知れない。
玃(かく)がオスばかりなのに、しゅうはメスばかりという点が違っている。

飛騨美濃の山深くに、猴(さる)に似て、大きくて、色の黒い長毛の物がいる。よく立って歩き、人語を理解するという。人の内心を悟り、あえて害を及ぼさない。
地元の人たちは、これを黒ん坊(くろんぼう)と呼んでいる。地元の人たちは黒ん坊のことを恐れないし、黒ん坊の方も地元の人たちを恐れていない。
もし地元の人たちが黒ん坊を殺そうと思うと、黒ん坊はその意図をすばやく悟って、さっさとどこかに逃げ隠れてしまう。だから黒ん坊を捕まえることはできない。
思うに、この黒ん坊とかいうのは、玃(かく)の一種なのではないだろうか。

『今昔画図続百鬼』の覚(さとり)の絵が、『和漢三才図会』における玃(かく)の絵の影響を受けている、と先ほどご説明申し上げた。
ところが実は、覚(さとり)の持つという読心能力の描写は、玃(かく)それ自体からの引用ではないことがお分かりいただけただろうか。
同書では、「玃(かく)が読心能力を持つ。」とは一言も言っていない。

黒ん坊と呼ばれる妖怪が読心能力を持っており、もしかしたらこの妖怪は玃(かく)の一種だろうか。」
と言っているだけである。

『和漢三才図会』で「飛騨美濃に黒ん坊という妖怪がいる。思うにこれは玃(かく)の一種だろうか。」と述べられていた部分が
『今昔画図続百鬼』では「飛騨美濃に覚(さとり)という妖怪がいる。玃(かく)の一種である。」に変えて、述べられている。
こうして「正体不明の黒ん坊」は消え、「玃(かく)の一種である覚(さとり)」が誕生したのである。

両書の間でなぜこのような「ねじれ」が生じたかについては、いかようにも憶測をすることができると思う。
しかし最も素直に原因を考えれば、これこそ石燕が「意図的な置換」を行った結果と言えるのではないだろうか。

まず、石燕が『和漢三才図会』の玃(かく)の記事を読み、飛騨美濃の山中に人の心を覚(さと)る妖怪がいて、またこれが玃の一種ではないかと推察されていることを知る。
玃と覚という字はともに「かく」と読むことができる。この時、石燕の中で「玃が覚る(かくがかくる)ってちょっと面白くない?」という洒落(しゃれ)が考え出される。
執筆にあたり、この妖怪の名を黒ん坊ではなく覚(さとり)にしたら『今昔図画百鬼』クラスタのみなさんもよりジョークに気づきやすく、面白がってくれるかもしれない。
しかしジョークが成立するためには、覚(さとり)が玃(かく)の一種だと断定しなければ少しすわりが悪い。ほなら覚(さとり)は玃(かく)の一種であると言い切っちゃえ…。
こんな感じではなかろうか。

この推測が正しいという前提で言えば、石燕の着想は確かに洒脱なものだろう。
ただ結果として、「黒ん坊」という妖怪が日の目を見る機会を奪ってしまったことは、妖怪本位的には不幸な出来事だったとも言える。

ただ繰り返し念を押すが、これはあくまで推測の一つにすぎず、全く異なる説もある。
例えば、黒ん坊のことを「玃(かく)」と呼んでいたのは石燕ではなく地元の人々だという説である。玃(かく)には"猿と揶揄すべきもの"を指す一般名詞的な用法もあるので、
里人たちは「あのサル野郎」といった感覚で「黒ん坊」の事を玃(かく)と呼んでいた(キッツい上司に「猿」「ハゲネズミ」と呼ばれた歴史的有名人がいるのと同じである)。
加えて玃(かく)という字を書くのは非常に面倒なので、同音の「覚(かく)」を代字に使っていた。石燕は何らかの文献で「黒ん坊」を指して「覚」と表記してあるのを見て、
(意図してかせずか)これを妖怪名だと取り違えたという説もある。てかあった。ネット上に。この説に立って言えば、覚(さとり)は最早鳥山石燕の創作ではないことになる。
原初に妖怪「黒ん坊」が存在し、その「別名」が覚(さとり)であると表現するのが最も実態に近いだろう。

黒ん坊

※神秘的な不気味さを持つ、根尾の渓谷(根尾松田)

ここまでで、覚(さとり)が玃(かく)の一種だというのは間接的な連想ゲームにすぎず、より正確には黒ん坊(くろんぼう)という妖怪を起源に持つと説明させていただいた。

では一体、その黒ん坊という妖怪は何者だったのか!?
…とご期待いただいた諸兄がいらっしゃったら裏切るようで申し訳ないが、実はこの黒ん坊、覚(さとり)に輪をかけて茫漠とした妖怪であり、正体が定かでない。
黒ん坊の名は先述の『和漢三才図会』や現三重県下のいくつかの古文書に登場するが、いずれも「伝え聞いた話では」という前置で一次資料化を回避する曖昧な伝承である。
とはいえ、『和漢三才図会』においては本質的に百科事典であり、事実を記すことを書の目的としているのだから、少なくとも新たな妖怪を一から創作するような動機はない。
加えて「飛騨美濃の山深く」と、広範囲でありながらもその生息地域が具体的に指定されていることも、黒ん坊の伝説がおよそ出まかせによるものではないことを示している。

『和漢三才図会』の完成からおよそ100年が経った後、ある教養人が柳川亭というペンネームで『享和雑記』という書を世に残す。
その内容は享和年間の人情話や奇談などを収集し、"しょうもない"狂歌を添えて評すといった、いわゆる狂歌咄の体裁をとった随筆である。
享和年間というと、正直言って文化的にはあまり見る所がない狭間の時代で、これといって目をひくような優秀な文献もない。
しかし『享和雑記』には当時の法制度や生活風景が具体的に書かれており、同年代の社会世相を研究する上では注目すべきところが含まれている。
(編集者の意見ではなく、『享和雑記』を収めた『未刊随筆100種』(昭和2年 臨川書店)中の評価です。)
この『享和雑記』の第2巻第18段目に、「濃州徳山くろん坊の事」という物語が収録されており、その中に黒ん坊が登場する。
以下その概要…というより全文を、素人がなまじ頑張った程度のいい加減な現代語訳でお送りいたします。
間違っても卒論とかの参考にはしないでね。あと各行の「※」以下の文は原文訳ではなく、注釈です。

十八 濃州徳山くろん坊の事

美濃の国、大垣より北へ10里ほど行った先に、外山と呼ばれる土地がある。この間に道は山深くなっていくが、外山までは牛馬で通うことができる。
外山より先はいよいよ山道が険しくなってゆき、登り下り3里の難所を越えると、根尾という土地にたどり着く。根尾の山中には、17の村々がある。
根尾には、泉除(イヅノキ)川という名の川が流れている。昔この辺り一帯に水害が起こった時に岩や山を切り崩し、水道を敷いて川の流れを変えた。
だから(人工的に流れを変えた)流域を指し、泉除川というのである。

泉除川には鮎がいて、しかも美味である。旬の時節は外山までの3里の間に七つもの簗(やな。川の上に小屋がけし、涼をとりつつ食事する施設)が建つ。
といっても、お殿さまへの献上品になる鮎は、もっと上流にあたる根尾の鮎である。根尾にすまう鮎は、格別にサイズがでかいのだ。

さて、根尾の山道を5里ほど行くと、徳の山と呼ばれる地に至る。徳山は八村三里四方にもまたがる広い土地だが、なにぶん傾斜ばかりで、平地が少ない。
故に徳山にある村はどれも一村あたり五軒、七軒、十軒程度連なる貧弱なものにすぎない。ただし本郷という所には三四町四方の平地があり、民家も多い。
この辺りの山々は、みな「よもぎ」が盛んに生い茂っており、薬草も多く採れる。胡葱(あさつき。わけぎ)が自生して、何度採っても尽きることがない。
わさびも採れ、大変風味が良いので高値がつく。里人が採取して名古屋、大垣、桑名へ売り出す。楮(こうぞ)や樝(しどみ)も多く生え、和紙が作れる。
製紙を生業とする者は富み、家が広く男女十人ばかりも召し使う百姓家も三つほどある。ただし、それよりは(深山の山村に)相応の生活をする家が多い。

徳山は大変山奥なので、雪が深くつもる。一丈五六尺(5メートルくらい)はざらで、大雪の年には、二丈(6メートルくらい)つもることだってある。
徳山には田んぼがない。畑はあるが、大麦小麦はとても実らず、蕎麦だけは実る。五穀が乏しいので、人々は栗、栃、椎、樫などの木の実を主食とする。
四方の山より思うままに木の実を採ってきて貯めているので、食料が不足するようなことはない。日ごろの食事では、ことさら栃の実がよく食べられる。
栃の実は非常に苦い(渋い)のでそのままでは食べられない。灰汁(あく)につけておき、それを引き上げて真水で洗って食べる。甘く、美味だと聞く。
山中の人々は男女とも色白で、肌が濃厚で、とても美しい。しかしなぜか、話す言葉がぶっきらぼうで、他の美濃言葉に似ておらず、固有の方言も多い。
※美男美女が多くて話す言葉がぶっきらぼうというと、幻想郷を思い出しますね。

この徳山には、善兵衛という名の杣人(そまびと。きこり)がいた。善兵衛は、山奥にわけ入って木を伐り出す事を数十年なりわいとしている男だった。
また、徳山には猴(ほう)がいた。大きく、色黒く、毛が長く、上手く立ち、人間のように仕事した。人語を理解し、人の思考を神のように読みあてた。
もし誰かが猴(ほう)を殺そうとしても、殺意を察してそそくさと逃げ去るので、捕まえることができなかった。猴(ほう)は、黒ん坊と名づけられた。
いつからか、黒ん坊は善兵衛になつき、その仕事を手伝うようになった。黒ん坊の手伝いは善兵衛を大いに助け、ましてや害を及ぼすことなどなかった。
しまいには善兵衛の家にまでホイホイついてくるようになり、人間のように家事を手伝うこともたびたびあった。

さて同じころ、徳山には三十歳ほどの未亡人がいた。大変美しい女性だったので、人々は再婚を奨めた。だが未亡人は頑なにうんと言わず、独身でいた。
なぜなら未亡人には10歳ぐらいの息子がいたからだった。未亡人には、この子を立派に育て自らが後見して家を継がせるという、ささやかな夢があった。
※以後未亡人の風貌については、聖白蓮さんを想像しながらお楽しみください。

ところが最近、夜が更けて人々が寝静まった頃に未亡人の寝所を訪れ、「よばい」しようとする者が現れた。最初は夢かと思ったが、現実のようだった。
未亡人は恐怖し、このことを人々に話した。すると「不埒者の正体を明かそう」という話になり、その夜から見張りが立って物陰から様子をうかがった。
最初の夜は未亡人の家には誰も来ず、こうして二、三日も張り込んだが、「それな。」と思う出来事は無かった。やがて人々はあきれ、待つのをやめた。
しかし夜の見はりが立たなくなると、また例のごとくに何者かが未亡人に「よばい」をかけるようになった。未亡人はいよいよ迷惑に思うようになった。
ちょっとした由縁があって、未亡人の棲む家には昔から観音菩薩像が安置されていた。一家は代々この像を大切にし、日頃から熱心に祈りを捧げていた。
そこで未亡人は、「ここ最近起きている災難からお救いください。」と観音像に一心に祈った。するとその夜、未亡人の夢に仏が現れ次のように言った。
※現代仏教では通常、菩薩は如来の次に偉い階級です。観音菩薩は「七難を退ける程度の能力」を持つとされ、現世利益が多い仏様です。

「他人に頼っても何も解決しない。強い意志を持って自分で何とかするやで。」と。ここにつけ未亡人は、ついに女性の敵と直接対決する覚悟を決めた。

そしてその夜も、例の不埒者は未亡人の元にやって来た。これに対し未亡人は、今までになく強い拒絶を示してみせた。すると不埒者はこの上なく怒り、
「言う通りにしないのなら、お前の大事な菩薩像をぶっこわす!」とすごんだ。その手中にはすでに、仏壇からひきずり出された観音様が握られていた。
この瞬間、未亡人はついにプッツンした。おだやかな心を持ちながらも激しい怒りによって覚醒し、隠していた鎌を振り上げると、不埒者を斬りつけた。
予想すらしていなかった反撃を受けた不埒者は、びびって逃げた。未亡人の息子が村中を駆けまわり「奴が出た!」と告げると、すぐに人々が集まった。
未亡人に斬られた不埒者は、あまたの血痕を残しつつ逃げていた。村人達がこれを辿ってみると、善兵衛の家の縁の下を抜け、村外の山へと続いていた。
この事件後、黒ん坊が村へ来ることはなくなった。そう、未亡人に夜這いをしかけていた不埒者は黒ん坊で、黒ん坊は玃(やまこ)のたぐいだったのだ。
玃(やまこ)のことは『本草綱目』の中にも記載が見られる。牡ばかりで雌がなく、人間の婦女に接すると「さかり」がつき、子を産ませるのだという。
美濃飛騨は深い山が多いので、黒ん坊のような者も住んでいるのである。

麦畑(むぎはた)は ほにあらわれし 黒ん坊 みのりの爲(ため)の 障りなるべし ※
※「麦畑の穂に出る黒い斑点はみのり(実り/三の里)をさまたげる障害だ」という意味。暗に黒ん坊の妖異がかかっていると思われます。

黒ん坊を探しに行ってみました。

 以上、この『享和雑記』の一節が、黒ん坊に関する史上最も詳細な描写だと思う。このほかに大正14年(西暦1925年)7月刊行の『文藝倶楽部』には、記者であり劇作家でもある岡本綺堂(おかもときどう)が、”叔父から聞いた話”として黒ん坊談を非常に詳しく寄稿している。ただ、こちらは冒頭しょっぱなから自ら『享和雑記』の話を挙げており、『享和雑記』の二次創作臭がとても強い。また、いかにも作家らしいというか、内容が怪談話として上手にまとまりすぎており、かえって真実性が乏しい。よって、ここでは仔細を割愛する。興味がある人はぜひこちらをどうぞ

※岡本綺堂の黒ん坊談では、徳山ではなく根尾の下大須が舞台となっている。写真は、現代の根尾下大須集落

 さて、原題に立ち返る。この『享和雑記』に記されている事が「妖怪黒ん坊の真実を記しているか?」と言うと、編集者は「説得力に欠ける。」と考える。なぜなら『享和雑記』に登場する黒ん坊の描写が、単に容姿のみならずその言い回し順序まで『和漢三才図会』とあまりに一致しすぎているからである。参考文献に『本草綱目』を挙げている所も『和漢三才図会』と同じである。よって『享和雑記』の黒ん坊奇談が『和漢三才図会』の影響の元に成立しているのは確定的に明らかだろう。故に『享和雑記』の中で黒ん坊が玃(かく)の一種だと明言されている事も、『今昔画図続百鬼』と同じように、『和漢三才図会』を焼き直したんだろうな、程度のリアリティしか含まないのである。加えて話の終盤で黒ん坊が無謀な行動に走り、特に何の特殊能力もなさそうな未亡人に手痛い反撃を喰らう流れもいただけない。「神のように人の心を読むって設定はどこ言ったんだよ!」とつっこみたくもなるこの展開こそまさに、「黒ん坊は玃(かく)の一種だ」という結論ありきに引っ張られたものに他ならないのではないだろうか。せめて神仏の加護で一時的に未亡人の心が読めなかったとか、その程度のフォローはほしかった。

 しかし、『享和雑記』の真価はそれとは別な所にある。黒ん坊に関する話の筋はイマイチだとしても、黒ん坊の生息地とされる場所が極めて詳細に、そして正確に記されているという点である。この点においては、『享和雑記』は恐ろしいほどのリアリティを持っており、黒ん坊ひいては後に黒ん坊からすげ変わった覚(さとり)伝説の故郷は「ここだ」と、かなり厳密に絞り込むこともできる。では『享和雑記』の記載より、黒ん坊が現れたとされる土地がどこになのかを、精緻に考えていきたい。聖地wikiだけにな。

 まず『享和雑記』で最初に出てくる地名、「大垣」について考える。これは現在の岐阜県大垣市近辺を言っていると見て間違いないだろう。1630年代頃より大垣藩は戸田氏を大名とし、10万石を数える一大地方都市であった。松尾芭蕉の紀行文『奥の細道』の結びの地としても知られる。この大垣より北に進むと、美濃と越前の国境が迫って来る。能郷白山や屏風山、平家岳など1,200mを越える越美山脈が横に連なるこの一帯は、きわめて山深い、寒冷な山岳地帯であり、米や麦の生育に適さないという『享和雑記』の記述はその特徴を極めて端的かつ正確にとらえている。

 次に大垣から10里の所にあるとされている外山であるが、これは現岐阜県本巣市にその名を残す、外山の字(あざ)一帯だと考えられる。かつては美濃和紙の生産が盛んに行われ、鎌倉幕府に年貢として届けられていたことも明らかになっている。また中世、根尾筋から越美山脈の峠を越える道は越前と美濃とを結ぶ最短経路でもあり、外山はその道すがらにあった。このため戦国時代には、織田信長方についた鷲見氏によって「外山城」という小規模な要塞が建てられていたことも分かっている。大垣の中心地からこの外山までは30キロほど離れており、これは1里を約4キロとして8~9里にあたるから、『享和雑記』中で「大垣から10里」と表現されているのは、当時の道筋を勘案してかなり正確な数字だと言えるだろう。

※現代の外山

 外山を過ぎて登り下り3里の先にあると言われる根尾もまた、古代から現代まで多くの文献に登場する有名な地名である。元来根尾の名で呼ばれるのは、おおむね東は板取(現郡上市)、美山(現山形市)に、南は本巣(現本巣市)、谷汲(現揖斐川町)に、西は久瀬や徳山(ともに現揖斐川町)、北は大野、泉(ともに現福井県大野市)に接する、およそ300平方キロメートルにわたる広大な領域である。建武4年(西暦1339)年の『佐竹義基軍忠状写』によれば、南朝軍に味方した根尾のMURABITOが凶徒と化し、義基軍を襲撃したとある。慶長9年(西暦1604年)に作られた『慶長郷帖』では、能郷白山の麓にあたる能郷村地域を除き、上根尾村(938石)・下根尾村(711石)としてまとめられている。また同書には小物成(副業にかけられる税)で米70石や紙、舟役の駄賃から5両を徴収したとある。正保元年(西暦1644年)に作られた『正保郷帖』では、根尾の諸集落は細かく27の村々に分けられ、うち宇津志などの5村が大野群に属するものとして記録されている。また主な生産業として段木伐、製紙、養蚕が挙げられている。明治施制以後もこれらの村々は独立した行政区域として存続する。この中のいくつかが寄り合い、明治22年(西暦1889年)には本巣郡板所村、板屋村、小鹿村、大野郡西根尾村などが成立。明治30年(西暦1897年)に大野郡だった全域が本巣郡に編入され、西根尾村を除く諸村が東根尾村と中根尾村にまとめられた。さらに明治37年(1904年)には西根尾村、東根尾村、中根尾村が合併し、中世以前の根尾区域が一つに復古、自治体としての「根尾村」が誕生した。そして奇しくもジャスト100年後にあたる平成16年(西暦2004年)に、世に言う平成の大合併の波に乗って根尾村及び他の本巣郡3町が合併。新たに本巣市が誕生した。よって平成28年(西暦2016年)現在、根尾村は本巣市の一部である。春には第26代継体天皇(西暦500年代)のお手植えとも伝わる「淡墨桜(うすずみざくら)」が咲くことで、根尾の名は古来やんごと無き世界でも非常によく知られていた。

※ライトアップされる淡墨夜桜(満開。2016年4月6日撮影)。手前の人影と比べていただくと、ギャグかってレベルの巨大さがお分かりいただけるかと思う。

 さて、根尾の次には「泉除川(いづぬきがわ)」という川名が出てくる。これが一番難しい。現地に行ってくわしそうな人に片っ端から聞いてみたが、「旧根尾村域の中に、そんな名前の川は支流・異名としても存在しないです。」とのことだった。ところで、岡本綺堂はこの「泉除川」を「糸貫川(いとぬきがわ)」の雅称だと考えている。糸貫川と呼ばれる川は確かに実在するが、現在その名で呼ばれている川は、根尾よりもずっと南、旧本巣郡本巣町内で席田用水(むしろだようすい)から水を分けられ、濃尾平野の生活用水や工業排水を集めながら国道157号筋を南下し、本巣郡北方町で南西に転じ、中山道筋でさらに南東に転じ、JR東海道線の線路に交差するあたり(瑞穂市生津付近)で長良川に注ぐ川である。総じて細々とした河川で、一部地下に潜っていたり、水路ほどの幅しかない部分もある。

※席田用水

しかし、かつて「糸貫川」と呼ばれていた川は根尾川の本流にあたり、越美山脈根尾谷の水を集め、現本巣市山口から現本巣市糸貫の方向へと南へ進んで長良川に注ぐ流路延長約50キロの長大な川筋であったという。ところが享禄3年(西暦1530年)に大洪水が発生し、現本巣市山口で流入口が埋まってしまったことから、以後根尾川の本流は糸貫川の西にある川(藪川)へと変わったのである。『享和雑記』が記されたのは1800年代であり、むろんこの時代にはすでに、糸貫川は根尾川の本流どころではなかった。渇水期には水が無くなっていたとも言われ、現代と同等かそれよりもさらに貧弱な川だったと思われる。しかし、柳川亭が根尾川の事をあえて古称で泉除川(糸貫川)と呼んだという可能性は、決して低くないと思う。というのも、糸貫川は昔から京の都でも音に聞こえるほど雅やかな川として称えられており、例えば平安時代に流行した歌謡曲「催馬楽」にも、「席田(むしろだ)の 伊津貫川に 棲む鶴の 千歳を予(か)ねてぞ 遊びあへる」というフレーズがある。また、『金葉集』には藤原道経の「君が代は 幾よろづ代か 重ぬべき いつぬき川の 鶴の毛衣」という歌が載り、一条兼良は『藤川の記』において「むしろ田を 織物ならば 敷波や 糸貫川の たてとならまし」と詠んでいる。清少納言もまた『枕草子』の中で、催馬楽をひいて糸貫川に言及している。『享和雑記』の著者である柳川亭がひとかどの狂歌人を標榜していたとするならば、恐らくこれらの古典歌集にも精通していたことだろう。だとすれば、自身の教養の発揮として敢えて根尾川を糸貫川と表現したくなる気持ちも分からなくはないし、現に当時はまだ根尾川を糸貫川と呼ぶことが通用していたのかもしれない。なお、確認のため現地のくわしそうな方々に再度聞いてまわったが、「(現代では)根尾川のことを糸貫川とは 絶 対 に 呼ばない」と重ねて明言された。根尾川を愛しているのである。

※糸貫川の歌碑。糸貫川が"いつぬき"と読まれている。かなり苦しいが、『享和雑記』では"いつぬき"に泉除(いづ(み)の(ぞ)き)の漢字を充てているか。

 根尾村は中央に高屋山(標高1136m)、岩岳(標高999m)などの山々がそびえており、人の棲む集落はこれらを避けるようにYの字に分布している。現在、旧根尾村内を走る基幹道路として根尾地区の南端付近を起点に国道157号線が北西に、県道255号線が北東に伸びているが、この両道沿いにいくつかの集落があったと見ればばわかりやすい。そして両道に並走するような形で、川が本巣方面に流れている。これらは両川とも「根尾川」であり、いずれ下流で合流する。『享和雑記』の記述をかんがみると、根尾から5里(20キロ)ほど行くと徳の山に至ると書いてある。国道157号と県道255号との分岐を国道157号(北西)方面に、根尾川に沿って4キロほど進むと、左手に県道270号線への分岐が現れる。この県道270号を14キロほど進むと、徳山(現揖斐川町)へと辿り着く。よって、この地こそ『享和雑記』に記された「徳の山」に間違いないだろう。なお、県道270号線は車同士のすれ違いにも難儀するような道で急坂で、冬季は通行止めとなる。落石や崩落も多く、平成27年9月~平成28年4月にかけては一部崩落のため通行禁止になっていたほどにか細い。よってもし徳山に行きたければ、揖斐川町市外方面から国道417号を北上する方が(現代では)無難である。まあ、こっちもわりかし相当だけどな。道はまだそれなりに広い。

 『享和雑記』の記された時代の徳山は、根尾に接する大野群の小さな村であった。旗本(1万石以下の領主)徳山氏が支配し、その中心地である本郷に徳山城が築かれていた。その後明治22年には、隣接する山手村、櫨原村、漆原村、池田村、戸入村、門入村等と合併して「大きな徳山村」となった。四方を山に取り囲まれたばかりか、村域の実に99.3パーセントが森林だったいう「大きな徳山村」は、文句のつけようもないほどの秘境である。ところがなぜか、この地域には2万年以上も前(旧石器時代)から人々が住んでいたという痕跡が存在しており、これが岐阜県下全体でも最古の人類の歴史の一つとなっている。農耕技術の無かった古代では、平地より山林の方が住食を得やすく、棲むのに適していたからかもしれないが、それにつけても驚くべき話である。以上の事からも徳山の特異性は歴史的に際立っており、ある種の異郷的な雰囲気があったとしても、さほど不思議ではない。『享和雑記』には「徳山の人々はみんな肌白く美しく、話す言葉も他の美濃の地方とは異なる」という一説あるが、柳川亭自身の山村を見つめる好奇なまなざしから、桃源郷的雰囲気をまろび出そうとしている感がそこはかとなく漂っている(江戸時代にありがちなこと)。さて、明治22年に誕生した「大きな徳山村」がその後どうなったかと言うと、まず昭和62年に、徳山村の南にあった揖斐郡藤橋村と合併し「大きな藤橋村」となることで、単独村としての歴史に幕を下ろす。さらにその藤橋村も「平成の大合併」のビックウェーブに乗って2005年に他の揖斐郡五町(揖斐川町・谷汲村・春日村・久瀬村・坂内村)と合併。新たに揖斐川町を形成したことで、自治体としては姿を消した。そして現代に至るわけである。

※旧徳山村全図。根尾方面から県道270号の道筋をつたって侵入した場合、最初に辿り着くのが本郷である。



以上、大垣から北へ向かい、外山から根尾へ入り、深く細い道を踏み越えて徳山へ至る旅路にお付き合いいただいたところで



それではいよいよ、妖怪「覚(さとり)」の元ネタ、「黒ん坊」のふるさと、徳山の現在をご覧いただきたい。









※本郷地区

幻想入りしてました。

そう、伝説の地である徳山は、今はもう湖の底に沈んでいる。この湖は名を徳山湖(とくやまこ)と言い、まあ早い話がダム湖である。すなわち、かつて確かに地上に存在していた徳山は、東海地方の人々に豊かな水資源を確保し、濃尾平野に実りかがやく作物たちを潤(うるお)し、ついでに土建屋と一部官僚と政治家のふところをも潤すために犠牲となったのだった。これまでも湖の底に消えた秘境の村を本wikiの題材に取り上げてきたことはあったが、地方自治体クラスの集落がまるっと湖の底に沈むというのは、ひとしおスケールのでかい話である。故にダムの建設には、現地住民による猛烈な反対もあったという。

戦争の荒廃から抜け出した我が国が、再び世界に耀こうとしていた昭和38年(西暦1963年)。東京オリンピック開催の前年にあたるその年に、徳山村に電気の光が届くようになった。村の人々は近代文明の光に歓喜し、明るい未来に夢をはせたという。しかしこの頃すでに、徳山村には電源開発(株)から発電用ダムの建設計画がもちかけられていた。四半世紀以上も電気を待ちわびていた村が電気のために貴い犠牲になろうとは、致し方ないにしても皮肉な話である。昭和32年(西暦1957年)頃に提示された建設交渉に、同年の村議会では全会一致の採決をもって「お断り」をつきつけた。だが一方で、"徳山村の中には閉塞感もあり、ダムによる変化を望む声もあった。"らしく、電源開発(株)らによる立入調査等は普通に認められていた。ただしいずれもダム建設の実現に直接結びつくようなものではなく、ダムの着工はおろか補償に関する具体的な交渉等もないまま昭和40年代を迎えた。

一方この時期、徳山に利水用のダムを建設してやろうと目を光らせる組織が、もう一つ存在していた。お国(おかみ)の建設省である。深山にくぼむ徳山の地形は、なにかとダム建設に向いていたのである。昭和45年(西暦1970年)、電源開発(株)と建設省による2つのダム計画は統合され、洪水調節、新規利水、発電等の多目的ダムの建設計画(建設省が主導)として徳山に提案された。建設省側の残している資料によると、この計画を聞いた村の人々の間では"賛否が分かれた"らしいが、いずれにせよ平穏な生活を大いに乱された。なぜならその計画は、徳山村内の居住地ほぼ全域を飲み込むようにしてダム湖を建設するというものだったからである。唯一水没をまのがれる門入(かどにゅう)地区も水没地域に囲まれるため交通が遮断され、人が住むことは不可能であった。すなわち、ダムが完成したあかつきには、当時の徳山村民466戸・522世帯(約1,500名)もの人々が原住地を放棄せねばならず、まるっと村が消滅することを意味していた。この計画を聞いた徳山村の人々が最も噛みついたのは、「立ち退くのはいいけど、その代わり十分な補償は得られるんだろうな?」という点だったらしい。少なくとも建設省側の残している資料ではそうなっている。先祖から受け継いだ里山を守りたいからダム反対とか、ムダなダム(回文)作んなとか、そういう論点は公式記録上あんまりなかったことになっている。どう考えても、なかったわけがないと思うんですが、金やハコモノ以外にあがなえるものが無ければ、あらゆる感情処理をひっくるめて「補償」と表現するのも我が国らしいっちゃらしい。

こうして徳山村VS建設省のバトルが始まった。建設省側の残した資料によると、徳山の人々は"立合調査の日当をもっとよこせ!"だとか"山林の踏み荒らし料を別途払え!"だとか、さながらストーブリーグのプロ野球選手ばりに金銭面でゴネたらしい。しかしそれらは恐らく交渉を難化させるための徳山村民側の策略であり、問題のほんの表層にすぎないだろう。こうして交渉は暗礁に乗り上げ、一時は建設省職員が徳山村に入る事さえままならないという、さながら魔境の様相すら呈したとwiki様に書いてある。昭和48年には、唯一水没をまのがれる門入地区から「(ダムができても立ち退く気がないので、調査とか)いいです。」との異議申入書が提出される。しかし昭和49年には再度門入地区より「門入からの離村者にも、水没地区と同じ補償をすべきだよね。村に残る人のために、門入と外部をつなぐ交通手段を確保する義務がお前らにはあるよね。」との差入書があり、この頃から少しずつ態度が軟化してきた事がうかがえる。昭和50年、最後まで残っていた櫨原地区が立入調査を受け入れる。昭和52年(西暦1977年)、徳山の諸集落に対し水源地域対策特別措置法第9条の適用が決定。ダム計画によって犠牲になる人が多い場合は、国がより手厚く補償しますよという規定である。これを聞いてもなお「札束で顔をひっぱたかれたって故郷は見捨てない」とばかりに抵抗を続ける人々もいたが、金という名の誠意をくみ取った村民の空気は「移転の受け容れ」へと傾いていく。一度堰(せき)を切った流れは止めようもなく(ダムだけにな。)、昭和58年(西暦1983年)11月21日、ついに「徳山ダム建設事業に伴う損失補償基準」が調印される。特別な申し立てを除く、一般的な補償についての包括的な妥結である。さらに昭和60年(西暦1985年)、建設省は「個別の問題も含み、申し立てられていた全ての案件との交渉が完了」したことを通告し、以後補償交渉を行わないことを決定した。これに至り将来の徳山ダム建設は決定的なものとなり、村民たちは順次離脱を開始。その多くは糸貫町(現本巣市)に集団で移転したという。昭和62年(西暦1987年)4月1日、村民の移転によって人口が153名(109世帯)にまで減少していた徳山村は、隣の藤橋村に吸収合併されて消滅。98年間続いた村制に幕を下ろした。平成元年(西暦1989年)、ついに水没全世帯の移転が完了。その後西暦1990年代に入ると、左の翼っぽい団体やその御用聞きっぽい新聞、環境保護を訴えるっぽい団体など、外部の人々が元徳山村民の一部を抱き込んでダム建設反対の声を挙げたが、時すでにおそしってレベルじゃなかった。「貴方様の言い分はわかりました。時流を見極め、善処します。」といった具合にお国から「のらり」とかわされたきり、世論の静まった平成12年(西暦2000年)頃にはダム建設が着工される。西暦2006年、ダム堤防が完成。7月29日にはいよいよ試験湛水(ダムが正常に機能するか見極めるために水を注ぐ作業)が開始されるにあたり、徳山ダム建設工事現場で『徳山ダムふるさと湖底コンサート』が開催される。旧村民の人々とそうでもない人々約5,000人が集まり、沈みゆく徳山村を偲んで最後の別れを告げたという(wiki様より)。そして西暦2008年5月、徳山ダムの運用が開始。こうして、かつて確かに存在していた徳山という村落、イヌワシやクマタカも棲んだという森、20以上も存在した太古の遺跡らは、その記憶だけを「本巣民俗資料館」等のハコモノや写真の中に残し、最大水量6億6千万立法メートル、最大水位401メートルの水に飲まれて幻と消えた。ちなみに西暦2008年と言えば、そう、諸兄もご存知のとおり東方地霊殿(とうほうちれいでん)が発売された年である。まるで地上に突き返されるかのように吹き上がった温泉をゴングに、我らが博麗霊夢さんが地底へと殴り込み。地上への反抗をたくらむアホの子お空、友人の暴走を止めるべく奔走したり、時々当初の目的を忘れたりする心優しきお燐、ここぞとばかりに駆け付けた野次馬のみなさん(水橋さんほか)、飼い主責任を問われることとなった古明地姉妹、ついでに常識に囚われない守矢さんとこの巫女がまとめてボッコボコにされるというストーリー・・・だが、まあさすがに時事ネタとして狙ってリリースされたわけではない、とは思う。

人間も大いなる自然の一部であることに疑いを持たない、というか人間とそれ以外を対置させることに一種のエゴや防衛機制としての内罰的動機以上のものを見出す事ができない編集者は、人間のあらゆる経済的所作もまた自然であり、徳山の消滅もまた自然淘汰と呼ぶべきものだと考える。冷酷に言えば、徳山に価値を認める人間のパワーがダムに価値を認める人間のパワーに及ばなかったというだけの話である。だからこそ、かえって人々は、民主主義があくまでも圧力的なシステムであることは忘れてはならないと思う。生んでしまった不幸をいくら金銭で代償しようが、喪失した価値が返って来るわけではないし、また、補償の掌(てのひら)からこぼれたものは、本当に救われないのである。当然、動物や植物に補償が及ぶわけでもないし、いわんや、神霊その他の概念に現代法が報いられるわけがない(それを現代法の欠陥だと言っているわけではありません。そこまで編集者の脳は狂ってません)。かつて徳山には、「おひらぎつね」「シオーン」「シキビ姫」「漆原姫」など、さながら遠野を思わせるような豊かな妖怪や神が語り継がれていたと言うが、里山と伝承者が消えたことで、間もなく消滅していくだろう。西暦1925年10月、柳田国男に師事する民俗学者の橋浦泰雄が徳山へと入り、6日間にわたって徳山に残された独特の地名について研究をおこなったが、これも対象大地そのものが地上から消えた今となっては、もはや学術上の記録としてのみ残されるものとなってしまった。無論この話に"被害者"などなく、ただ民主主義の生んだ一つの結果を述べているだけである。被害者がいないからこそ、無関係の愛好家の誰かが自然淘汰の勝者や世論に感情で訴える、あるいは地権者等の具体的権利者に共感を得て論点をすり替えてもらうという手段でもってのみ、現代社会では折衝がはかられている。

※ダムの巨大さは、そのまま人間の力の大きさでもある。

さて、幻想的な話に立ち返る。故郷が湖に沈み、帰るべき場所を失ったのは人間も妖怪もおそらく同じである。では、妖怪「黒ん坊」は今どこで何をしているのだろうか。なじみの徳山村民と共に、現本巣町糸貫付近の里山へと引っ越したのだろうか。越前や根尾方面の、より深く厳しい山の中に逃げ込んだのだろうか。それとも、ニホンオオカミと同じように、とっくに人間に愛想を尽かせて幻想郷旧地獄へと移り住んだのだろうか。あるいは旧徳山の中でも唯一水没しなかった門入地区で、今でもよろしく生活しているのだろうか。もし黒ん坊に興味を持っていただけた方がいらっしゃったら、是非徳山まで足を運んでみてください。簡単に行ける場所じゃないけどな。ちなみにダムの完成とともに廃集落となった門入地区ではあるが、実は現在でもまだ数名の村民が生活しているという情報がある。立ち退きに応じず、また補償も拒絶した数名の元徳山村民が、自費購入したボートをダム湖に走らせて往来し、年の半分くらいを門入で生活しているというのである。すごすぎる、郷土愛。ちなみに湖によって遮断されている門入地区であるが、唯一、"ホハレ峠"という、もはや道では無いような道を横断すると陸路で到達することも可能である。人間という名の天敵が立ち退いた門入地区では、川魚や山菜らが我が世の春を謳歌するドリームランドになっているという情報もあり、いくばくかの人々がダム湖を無断で横断したり峠を無断で越えたりして侵入することがあるらしい。言うまでもないが、とても誉められる行動ではない。

※失われた本郷の地名。くろん坊との関係は不明だが、「くわん谷」という地名がある。なお、柳田国男は『妖怪談義』にも収録されている談話「妖怪名彙」において
 「ヤマノコゾウ」について触れた際に妖怪サトリにも言及し、サトリはヤマノコゾウ同様に、山谷に共鳴する山彦が妖怪化されたものではないかと自説を述べている。

古明地姉妹について本気出して空想してみる

 ここからはいよいよ、東方projectの諸作品群に登場し、かつその種族が「サトリ」であるとされる古明地さとり古明地こいし姉妹について、妖怪覚(さとり)との関連性を考察していきたい。ちなみに古明地姉妹の種族名は、『東方地霊殿』キャラ設定テキストにおいては「さとり」と表記されており、稗田阿求の著作に仮託されている『東方求聞口授』においては宗教家対談中ならびに古明地姉妹の紹介記事のいずれにおいても「サトリ」と表記されている。以後、本記事で古明地姉妹の種族名を表す場合は、口授の例にならいカタカナで「サトリ」と表記する。それが一番便利なので。あと、あっきゅんまじリスペクトの意を込めて。

 さて、本項でまず最初に申し上げたいことは、鳥山石燕らが語る覚(さとり)と東方project中に登場する妖怪種族「サトリ」とは、明らかに矛盾している。という事である。

覚(さとり)とサトリの最大の違い、それは、覚(さとり)が玃(かく)の一種だと書かれてる点である。『捜神記』『本草網目』『和漢三才図会』など、玃(かく)に関する伝承を読み取ると、おおむね玃(かく)にはオスしか存在しないとされている。というよりも玃(かく)にはオスしか存在せず、故に人間の女性をさらうのだから、オスしか存在しない事は玃(かく)の妖怪アイデンティティそのものである。しかしながら、皆様も重々ご承知のとおり、古明地姉妹は少女である。万が一、「否!!古明地姉妹は男の娘♂だったのだ!」と主張されたい輩(やから)がいらっしゃったら、ちょっと別室で2、3時間ほど話し合おうか。ただ原理には必ず例外もあるもので、『本草網目』等では玃(かく)の一種でしかもメスである"しゅう(豸へんに周)"という妖怪についての記載があることから、玃(かく)にメスがいる可能性も否定はできない。しかし"しゅう"はその大きさが驢馬(ろば)ほどもあるとされていることから、これを直接古明地姉妹に当てはめるには、いくらなんでもちょっとデカすぎて無理があるだろう。さらに「他者との接触を避け、地底に引きこもる姉」と「他人から嫌われることを恐れ、瞳を閉じた妹」という、実はわりとメンタル弱そうな古明地姉妹の素の性格も、アゲアゲで繁殖にいそしむ玃(かく)一派のチャラい性質とは相容れないものがある(古明地姉妹が実はドすけべな性格だったら主に薄い本界隈で需要はあるかもしれんけど)。以上をふまえた上で、古明地姉妹の正体についていくつかの仮説を妄想してみた。

①古明地姉妹はやっぱり覚(さとり)じゃね?説ニヒリズム派
東方projectに登場する古明地姉妹は、石燕の覚(さとり)そのものである説。そもそも東方projectはフィクションであり、現実の"デフォルメ"なのです。だから仮に原典の覚(さとり)がオスしか存在しないはずの玃(かく)の一種だろうが、そんな事は問題ではないのです。今般その実在が疑われている古代の聖人だって、女体化された挙句にコノハズクみたいな髪型で幻想入りしたじゃないか。という説。もっと端的に言えば、「原作者はそんな細かいこと考えてねーよ。」という説である。これを出されると、世界中の諸ジャンルの考察好きさん達は総じて「お、おう」としか言えない、リーサルウェポン。ただし原作者が「考えていない」と断ずるためには、相応の論理的根拠も示していただかない限り単なる思考停止と同義である。本件の場合、古明地姉妹というキャラクターが全く無意図かつ単一に覚(さとり)のデフォルメとして設計されたというのなら、例えば「じゃあ古明地っていう苗字はどっから来たんだろう?」とか「作中で種族名覚(さとり)ではなく、わざわざ平仮名や片仮名でさとりと表記してあるのはなぜ?」といった問いについては、何らかの具体的な論拠が必要だと思う。本説は常に、“最後の可能性”として位置付けたいところである。

②古明地姉妹はやっぱり覚(さとり)じゃね?説ロマンティシズム派
東方projectに登場する古明地姉妹は、石燕の著した覚(さとり)そのものではないが、やはり覚(さとり)だとする説。覚(さとり)という妖怪は、元々は確かに玃(かく)の一種だった。しかし、今日に至るまでに何らかの変節があったために、少女の姿をとるようになったという考え方である。何らかの変節とは、例えば覚(さとり)と覚(さとり)ではない別種の妖怪の伝説がフュージョンして、新たな妖怪「サトリ」が誕生した等である。ちょうど、本来神であった河伯が渡来人のイメージその他を取り込んで妖怪になったようなものである。覚(さとり)と融合し、サトリのエッセンスとなった妖怪としては、先述した「ヤマノコゾウ」など、覚(さとり)同様に"心を読む"とされる妖怪たちが最有力候補に挙げられるだろう。特に山梨県には、「おもい」と呼ばれる心を読む妖怪の話が伝わっており、古明地姉妹との関連が強く疑われる。というのも「古明地」という姓が、明治維新の前後に山梨県で発祥した苗字だからである。「おもい」から苗字を継承して「古明地」を名乗り、覚(さとり)から名を継承して「さとり」を名乗っているとは、考えられないだろうか。以上のように古明地姉妹は石燕の覚(さとり)そのものではなく、新たに他の妖怪の性質をも得たからこそ、東方projectでは敢えてサトリという表記でそれが表現されているというのも、つじつまが合う。ちなみにこの説の最大の弱点は、「覚(さとり)の誕生」から現在までの、期間の短さである。石燕が『今昔画図続百鬼』を著したのはわずか250年あまり前のことであり、その歴史はあのスカーレット姉妹より遥かに若い。その短い期間に猿の妖怪が小五ロリに生まれ変わるほどの神話(怪談)の再編成が、果たして劇的に起こりうるだろうか。また、古明地姉妹はその誕生後、人々に嫌われ、旧地獄に移り住み、やがてその管理を任されるようになったことが明らかになっている。これらの経歴を考えると、地上にいた時間はことさらに短くなり、神話(怪談)の再編成が起こりうるほどの十分な時間があったのかがさらに疑わしくなってくる。また、古明地姉妹が旧地獄に移り住んだ時期が石燕の著作より前であったとすれば、その時点で本説の間違いが確定するという脆弱さがある。

③古明地姉妹はやっぱ覚(さとり)じゃね?説リアリズム派
並存不能な二つの概念が存在する場合、一方がもう一方を打ち倒すことで「真実はいつも一つ」になるという、武闘派なスタンス。シロクロはっきりつけたんぞって意味で、現代人が意外と日常的に好きな思想でもある。ここで対決するのは、「古明地姉妹は少女だぞ。」という概念Aと「覚(さとり)はオスの猿の妖怪だと石燕が言っているぞ。」という概念Bである。と言っても東方キャラ設定考察において、古明地姉妹に関する既存の公式設定を否定することはナンセンスなので、真実Bが一方的に蹂躙(じゅうりん)されるだけである。早い話が「覚(さとり)は心を読む少女の妖怪である。」というのが唯一無二の真実であり、「おい石燕。お前の記した覚(さとり)は全部デタラメだ間違いだ!この変な妖怪オタクヤロー!」ということになる。本説最大の弱点は、もう言うまでもなく、石燕をインチキ呼ばわりすることの無謀さにある。なぜなら東方諸作品群の成り立ちにおいて、石燕の影響は非常に大きいからである。そもそも覚、酒呑童子、鵺、山彦、琴古主、琵琶牧々、幽谷響、猫また、舟幽霊、土蜘蛛、天逆毎、蜃(しん)、炎々羅(えんえんら)、沓頬(くつつら)等々々、これまでに東方projectに登場した妖怪の多くは「百鬼夜行シリーズ」に登場する妖怪でもある。よってともすれば、原作者ZUNは東方projectの創作にあたって「百鬼夜行シリーズ」を参考書の一つとしている可能性すらある。またキャラクターの意匠についても、百鬼夜行シリーズのそれを参考にしているのではないか推測できるケースもある(例えば橙の帽子とか響子の耳とか)。さらに2016年5月に発売された秘封倶楽部楽曲集『燕石博物誌』は、中国の妖怪百科兼なんちゃって地理誌『山海経』等に登場する燕石(つばめいし)のみならず、鳥山石燕のしたためた博物誌、すなわち「百鬼夜行シリーズ」を暗喩する意図があるのではないかと推察される。以上、石燕及びその著作は、柳田及び『遠野物語』と並び東方projectの世界観形成に深く関与していると考えられることから、石燕をインチキおじさん扱いすることは、あたかも恣意的(ご都合主義的)な情報の取捨にもあたりかねない。

④古明地姉妹は覚(さとり)じゃなかったんだ!説水平思考派
古明地姉妹と石燕の覚(さとり)はまったく別種の妖怪だが、その上位概念として「サトリ」という種族表記がされているという説。先述のヤマノコゾウだろうが「おもい」だろうが、あるいは玃(かく)の一種とされる覚(さとり)だろうが、東方projectでは「心を読む力をもった妖怪」がそれ自体一つの種族として取りまとめられ、「サトリ」と呼ばれているんだよという説である。例えるならば、「鬼」というカテゴリーの中にしばしば橋姫や天邪鬼、吸血鬼までひっくるめることがあるのと同じだろう。故に、同じ種族サトリといっても古明地姉妹は覚(さとり)と全ての性質を共有しているわけではなく、覚(さとり)にはオスしかいないという命題にも縛られない。また同時に、東方project諸作品群中において古明地姉妹の種族名が「覚(さとり)」ではなく、常に「さとり」や「サトリ」と表記されていることにも説明がつく。この説の良いところは、非常に大らかかつロジカルであり、これといってムキになって批判するべきところが無い点だと思う。古明地姉妹の正体について別段深く考察する気がない方は、基本的にこのスタンスをとるのが良いのではなかろうか。強いて本説の問題点があるとするならば、「心を読む力をもった妖怪全般」をサトリとしてひっくるめるという手法自体に根拠や普遍性が無いことが挙げられよう。また、今後東方projectにおいて古明地姉妹が漢字で覚(さとり)と表記されることがあったり、あるいは心が読めるのに種族サトリに分類されないキャラクターが登場した際には、再度仮説の再構築を行わざるを得ないことになる。

⑤古明地姉妹は覚(さとり)じゃなかったんだ!説ロマンティシズム派
古明地姉妹と石燕の覚(さとり)はまったく別種の妖怪だが、古明地姉妹が敢えて混同を受け入れているか、あるいは覚(さとり)の概念を取り込んでいる説。つまり古明地姉妹は本当は覚(さとり)なんぞではないが、まあそう呼ばれることを受け入れているという説である。なぜ受け入れているのか、については「弁明するのも面倒くさいから。」「弁明する機会が与えられていないから。」「弁明する必要がないから。」「弁明しないほうが有利だから。覚(さとり)と混同され、その神話(怪談)も引き受けた方が、かえって妖怪的にハクがつくから。」等いくつかの推測ができる。また古明地姉妹の真の正体についても、「黒ん坊だ。」「おもいという、まったく別種の妖怪だ。」「元々は特殊能力(テレパス)をもっているだけの種族人間だ。異能により疎まれるうち、いつしか妖怪になったのだ。雲居一輪さんのように。」等の推測ができる。「とある心の読めるペット好きの妖怪が、飛騨美濃の山中で何匹か猿を飼って暮らしていた。そしたらなんか知らんけど、心を読める猿がいるという怪談にごっちゃにまとめ上げられ、黒ん坊だの覚(さとり)だの呼ばれるようになった。」とも推測できる(根拠?ないよ?)。この説の最もいい所は非常に柔軟で、解釈や二次的ストーリー創造の幅がきわめて広い点だろう。しかし逆に言えば、いかようにも空想を膨らませられてしまうので、公式で何らかの補足がない限り真実性を追及するには不向きなスタンスである。東方projectがフィクションであることにかんがみ、真実にとらわれず自由な空想を楽しみたい方向けの仮説と言えよう。だからロマンティシズム派なわけです。

⑥古明地姉妹は覚(さとり)じゃなかったんだ!説血統主義派
古明地姉妹及び石燕の覚(さとり)は別種の妖怪だが、何らかの血縁を持つという説。例えば、古明地姉妹が覚(さとり)の子孫である等である。石燕の言うとおり、覚(さとり)が玃(かく)の一種ならば、幸いにもその性質は極めて性欲旺盛で、子孫を残すことにもめちゃくちゃポジティブだろう。また玃(かく)が種族人間と混交して子孫を残せることも、種々の書物によって判明している。ひょっとしたら、神や妖怪を相手にも子孫を残せるのかもしれない。つーか中国2000年の歴史を持つエロ妖怪の玃(かく)先輩の一派ならやってくれると思う。よって、古明地姉妹は純粋に玃(かく)ではないし、覚(さとり)でもない。しかし、その血を引くものである。故に「心を読む程度の能力」を遺伝的に獲得していてもおかしくないし、母方に似て美少女であっても不思議ではない。また、遺伝学の世界では「雑種強勢(ざっしゅきょうせい)」というものがある。異種同士が配合した場合に、両親のそれぞれ優れた部分を継承することを言う。継承した能力を総合的に生かせる分野においては、親世代の完全上位互換ともなり得る。母方が人間や玃(かく)よりも優れた種族、例えば神や妖怪であればことさらだろう。玃(かく)や覚(さとり)に十分備わっているとは思えない(見た目的に)思慮深さを得たハイブリット種がサトリであり、「地球人とのハーフは優れた能力を発揮する」とのサイヤ人伝説よろしく、強大な力を持って地底に勇躍しているのである。この説もまた、古明地姉妹は覚じゃなかったんだ!説ロマンティシズム派同様に柔軟であり、ある意味その亜流と言えよう。従って、真実性の追求には向かないというデメリットも古明地姉妹は覚じゃなかったんだ!説ロマンティシズム派同様に持つ。

以上、古明地姉妹の正体について考えさせていただいたが、結局のところは、どうとでも言えるじゃねーか!ってことですね。はい。
+ タグ編集
  • タグ:
  • 東方
  • 聖地wiki
  • 奥美濃のさとり伝説
  • さとり
  • 古明地さとり
  • 古明地こいし
  • 古明地姉妹
  • 東方地霊殿
  • 岐阜県
  • 大垣
  • 本巣
  • 根尾
  • 淡墨桜
  • 徳山
  • 徳山ダム
  • 鳥山
  • 石燕
最終更新:2016年04月24日 13:11