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川藤幸三 - (2017/02/11 (土) 07:56:17) の1つ前との変更点
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*&link_wikipedia(川藤幸三){川藤 幸三}(かわとう こうぞう)
-本名は開田(かいだ)幸三で婿養子らしい
--姓は川藤→武田(母の実家に養子に入った時)→開田(結婚後)と変遷したが登録名や芸名は一貫して川藤姓
-ごちゃごちゃ言うとらんと、黙って見ぃ!
--……とりあえず、名前でぐぐって見てください。
-そんな川藤だが若狭高校時代、投手遊撃手として春夏甲子園出場したりしている
--実兄の龍之輔氏も元プロ野球選手だった(東京・ロッテ→巨人→太平洋)
---1973年だけだったが[[真弓明信]]とは太平洋クラブ時代のチームメートだった
-野球を始めたきっかけは小学校時代に同郷の山口良治氏(伏見工ラグビー部の元総監督、かつて山下真司がドラマで演じた『スクール☆ウォーズ』の教師のモデル)に数合わせに無理やり引き入れられたかららしい
-1969年に投手として阪神に入団のち内野手にコンバートされた
--ウェスタンリーグとはいえ1969年にリ-グのシーズン最多盗塁(30盗塁)の記録を作り盗塁王になったり1イニング3盗塁(二盗三盗本盗のサイクルスチール)とかもやってのけた
--強肩俊足の内野手だったが1973年に外野転向、翌1974年には20犠打を記録してセ・リーグ最多犠打をマーク
--この頃の川藤は打撃に難があったもののチーム一の俊足と元投手の強肩を活かした守備と器用さが持ち味の内野安打代守代走要員だった
-そんな川藤の野球人生が一変したのは74年のアキレス腱の部分断裂の大怪我であり、持ち味だった走塁と守備を活かせなくなり以降は代打稼業の道を歩むことになった
-「浪速の春団治」と呼ばれるのはそれから10年後のことである
*&link_wikipedia(川藤幸三){川藤 幸三}(かわとう こうぞう)
-本名は開田(かいだ)幸三で婿養子らしい
--姓は川藤→武田(母の実家に養子に入った時)→開田(結婚後)と変遷したが登録名や芸名は一貫して川藤姓
-ごちゃごちゃ言うとらんと、黙って見ぃ!
--……とりあえず、名前でぐぐって見てください。
-そんな川藤が野球を始めたきっかけは小学校時代に同郷の山口良治氏(伏見工ラグビー部の元総監督、かつて山下真司がドラマで演じた『スクール☆ウォーズ』の教師のモデル)に数合わせに無理やり引き入れられたから(本人談)
-若狭高校時代、投手遊撃手として春夏甲子園出場
-1967年、ドラフト9位で阪神に指名され入団
--実兄の龍之輔氏も元プロ野球選手(東京・ロッテ→巨人→太平洋)で太平洋時代(1973年)のチームメイト・[[真弓明信]]は1979年から阪神で弟・幸三のチームメイトにもなる
--最初は投手のち内野手、1973年から外野手登録
--ウェスタンリーグとはいえ1969年にリ-グのシーズン最多盗塁(30盗塁)の記録を作り盗塁王になったり1イニング3盗塁(二盗三盗本盗のサイクルスチール)とかもやってのけた
--1974年には20犠打を記録してセ・リーグ最多犠打をマークしている
--この頃の川藤は打撃に難があったもののチーム一の俊足と元投手の強肩を活かした守備と器用さが持ち味の内野安打代守代走要員だった
-そんな川藤の野球人生が一変したのは74年のアキレス腱の部分断裂の大怪我であり、持ち味だった走塁と守備を活かせなくなり以降は代打稼業の道を歩むことになった
-「浪速の春団治」と呼ばれるのはそれから10年後のことである