東北大学SF研究会 短篇部会(2018/6/21)
バナナ剝きには最適の日々 円城塔

著者紹介

1972年北海道札幌市生まれ。博士(学術)。代表作は『Self-Reference ENGINE』、『これはペンです』、『道化師の蝶』、『エピローグ』など。
われらが円城塔である。91年東北大学理学部物理第二学科(現在の地球物理学科)に入学。在学中は当会に所属し、SFではなく南米文学や前衛文学を中心に読んでいた。95年に学部を卒業し、東京大学大学院総合文化研究科に進学し、00年博士課程修了。以後ポスドクとして北大や京大、東大で勤務するも、次年度の研究費と給料が確保出来なくなったためウェブエンジニアとして07年に知り合いの経営する民間企業に就職。
一方、研究の合間に書き溜めた原稿を指導教官の東大教授金子邦彦に見せたところ、小松左京賞か日本ファンタジーノベル大賞に応募することを勧められた。そののち阪大教授菊池誠にも読んでもらい、日本ファンタジーノベル大賞を勧められるが締め切りが過ぎていた。そのため06年第7回小松左京賞に応募したものの最終候補作に留まる(受賞作無し)。同じく最終候補作だった伊藤計劃『虐殺器官』とともに早川書房に持ち込み、07年デビュー。これを機に伊藤計劃と親交を深めた。
同年『オブ・ザ・ベースボール』で第104回文學界新人賞受賞、第137回芥川龍之介賞候補。したがって、ほぼ同時期にSFと純文学の両方面で才能を認められてデビューしたことになる。(そもそも円城塔の前ではもはやジャンルなど存在しないのかもしれない)
「レムの論理性とヴォネガットの筆致(大森談)」「ボルヘスとユアグローとテッド・チャンを足して5で割る(本人談)」などと言われる作風で、「分からないけど面白い」「ちゃんと文章を読み進めているのになにも頭に入ってこない」のが特徴。一応本人曰く「見たままを書いている」らしい。言葉そのものの欠陥や小説という構造に対して非常に挑戦的で、その点では高度に文学的で前衛的。しかし、難解なのはひとつの側面であり、ナンセンスギャグを得意とする側面もある。円城塔の作品を完全に理解するのは不可能なので、気軽に訳の分からない世界を楽しんでほしい。この分からなさこそが、センス・オブ・ワンダーである。
 以下、主な受賞歴
  『烏有此譚』 第32回野間文芸新人賞
  『これはペンです』 第3回早稲田大学坪内逍遥大賞 奨励賞
  『道化師の蝶』 第146回芥川龍之介賞
  『屍者の帝国』 第31回日本SF大賞特別賞、第44回星雲賞
  『Self-Reference ENGINE』 フィリップ・K・ディック賞特別賞(次席にあたる)
  『文字渦』 第43回川端康成文学賞

各短篇紹介

まず大前提として、円城塔の作品を理解しようとしてはいけない。そもそも作者以外完全な理解など出来るはずがないのだから。理解出来ないはないはあるのだ。

『パラダイス行』

一作目から訳が分からないが、これでも比較的分かりやすい部類には入る。円城塔作品の特徴として、自明であるものをわざわざ定義してから、次第に意味不明なものの議論を展開するというものがある。しかし、作中の議論をちゃんと経ていくと、その論理性を理解出来るつくりになっている。訳の分からない議論から普遍的な結論を導き出す物語は必読。

『バナナ剝きには最適の日々』

本作品集の表題作。「難解で知られる芥川賞受賞作家の、すこし分かりやすい入門作」という文句の通り、円城塔作品の中では非常に分かりやすい。まあ『Self-Reference ENGINE』や『オブ・ザ・ベースボール』も大分手加減して書いたらしいのだが。この作品には、いつものような難解な議論はあまり出てこず、三枚族と四枚族のバナナに関するナンセンスなギャグが披露される。円城塔はこういうものの見方をする、ということを学ぶ上で確かに入門的な作品か。しかし、これが本当に入門的なのだろうかという疑問も残る。

『祖母の記憶』

祖母を喪った祖父は、地下にホームシアターを作った。しかし祖父は地下室へ下りる階段から転げ落ち、寝たきりになってしまった。唐突に登場する「彼女」や道路のシミであるジョン、そして「祖父の記憶」がなぜ「祖母の記憶」になるのか。やはり訳が分からない。

『AUTOMATICA』

便宜上、題名として『AUTOMATICA』と書いたが、それも仕掛けの一部。3!通りの楽しみ方がある小説で、「もっとも自由であるはずの表現形態」である小説という無意識の枠組みに挑戦した純文学としても、そこから広がる世界を想起させるSFとしても読める。

『equal』

もともとCDのブックレットだったらしい。私の手には負えないので巻末解説に譲る。

『捧ぐ緑』

科研費の定番ネタとして、「象の卵」というのがある。そこから転じてゾウリムシになったのかもしれない。ぞうの卵はおいしいぞう。ぞうの卵はおいしいぞう。ぞうの卵はおいしいぞう。ぞうの卵はおいしいぞう。ぞうの卵はおいしいぞう。ぞうの卵はおいしいぞう。
(参考:http://osksn2.hep.sci.osaka-u.ac.jp/~taku/kakenhiLaTeX/2013/kiban_ab.pdf

『Jail Over』

のたうちまわる人型の何か、といわれると「くねくね」を思い出す。それは置いておくといても、今回はさほど分かりにくくはない。円城塔の得意とする語り手の立場に関する問題がはっきりと提示されるので、“らしさ”を残しつつも楽しめる一作。

『墓石に、と彼女は言う』

円城塔の量子力学SF。観察者問題は円城塔の文学的主題のひとつである。

『エデン逆行』

なんとSF短篇集の中にあってファンタジーなのである。ファンタジーといえば見知らぬ街や世界へのワクワク感で読み進めるものだが、円城塔の描くファンタジーではその舞台への理解さえも拒絶してしまう。そうあるものはそうあるのである。しかしながら、この街がミンコフスキー時空に存在していると表現すれば、SF的だし、理解しやすくなるのではないか。難解ながらも、SFとしての魅力とファンタジーとしての魅力の入り混じった傑作。

『コルタサル・パス』

『エピローグ』につづく話らしい。(『エピローグ』を全く読んでいないので何も言えない)『エピローグ』は円城塔の最高傑作と評価されているので、興味のある人はぜひ。

解説

『バナナ剝きには最適の日々』

29頁2行目「どこぞの凶暴な兄妹」

「ヘンゼルとグレーテル」のことだろう。

33頁12~16行目

古き良きSFジャンルである「スペースオペラ」のお約束の列挙。

34頁5行目「人智を越えてうねり逆巻く大海原」

スタニスワフ・レム『ソラリス』に登場する、惑星ソラリスの全面を覆う知性をもった海のことだろう。円城塔が『ソラリス』について言及する機会は多いので、好きなのかもしれない。(一方、ソダーバーグとタルコフスキーの手による映画化版2作は見ていないらしい)同じ文内で語られているものも、古典的なSFに登場したものである可能性が高い。

36頁16行目~「今日の日記。特になし。……」「時間があるなら、時間を食べれば……」

1789年7月14日、フランス革命のきっかけとなった「バスティーユ襲撃」の報告を聞いた国王ルイ16世が残したとされる日記。実際には、毎日のように行っていた趣味の狩猟の成果に関する日記であり、バスティーユ襲撃の事実を意図的に無視したものではない。
ふたつめは言わずと知れたルイ16世王妃マリ・アントワネットの(ものとされる)言葉。

38頁1行目「チャッキー」

語り手のイマジナリーフレンドだと思われる。この存在から逆説的に、語り手には相応のストレスに晒されていたか、もしくは語り手の精神年齢が幼めであることが分かる。

42頁11行目「方程式の温度は3K」

トム・ゴドウィンの歴史的名作『冷たい方程式』から。この作品も外宇宙を航行中の宇宙船内を舞台にした作品。3Kという温度は、宇宙背景放射による「宇宙の温度」から。

43頁8行目~ バナナ星人のエピソード

この作品の本題。皮が三枚に剝けるバナナ星人と四枚に剝けるバナナ星人は互いに憎みあい、長いこと紛争を続けていた。しかし何枚に剝けるかは実際に剝いてみるまで分からない上、皮を剝かれたバナナ星人は死んでしまう。ナンセンス・オブ・ナンセンス。

46頁16行目~ 超光速航法に関する考察

超光速航法は、物理学的には相対論で禁止されている。特殊相対論・一般相対論が正しいと確認出来る事象は数多く報告されているため、今のところ相対論は正しいと言える。
「想像力は宇宙をも超えるはず」というのはSF界隈で幾度となく唱えられてきた言葉。「内宇宙は、外宇宙よりも遥かに広い」というのは、60年代に英国で提唱され、70年代にかけて推進されていた「ニュー・ウェーヴ」というSFサブジャンルで提唱されていた言葉。特にJ・G・バラードの「SFは外宇宙よりも内宇宙を目指すべきだ」という言葉は有名。

48頁10行目「群速度は光速度を容易く超える」

群速度とは、複数の波高の重ね合わせの波高(うねり)が伝わる速度のこと。群速度は確かに光速を超え得るが、物質自体が光速を越えているわけではなく、文中にもあったように波の波高自体は何ら情報をもたないので相対論に縛られない。詳細は各自検索していただきたい。

『エデン逆行』

185頁9行目~「時間の経過と塔を巡ることが等価……」

ミンコフスキー時空において、時間(×光速)と空間は等価になる。これと同じことが時間の街が含まれる時空にも言えるということだろう。逆に言えば、時間が流れるならば時間の街の人々は動き続けなければならない。それが続く文に現れている。

185頁13頁~「だんだん道は細まるが、……」

古典力学でいうところのローレンツ収縮にあたる。やはり時間の街の時空はミンコフスキー時空であるらしい。

186頁7行目~ 祖母に関する議論

相対論において、速度が光速に一致すると、因果律が破綻する。原因と結果が同時に生じるようになるからである。速度が超光速になると、因果律が逆転し、結果の後に原因が生じるようになる。記述からすると、時間の街では相対論効果によって因果律が破綻している可能性がある。まあそんなもんだと考えて聞き流すのがいいだろう。正直この議論は私の理解を超えているので、今回の部会ではこの部分を重点的に扱いたい。

所感

 ということで数年ぶりに円城塔の作品の部会を開催することになったが、いかがだっただろうか。
 まず『バナナ剝きには最適の日々』から。この作品は円城塔作品の中では非常に分かりやすく、また円城塔の科学的・SF的知識に基づく衒学的妄想とナンセンスギャグが絡み合って抜けた雰囲気を醸しだしている。特に、バナナ星人の謎の争いのくだりは非常に脱力的でナンセンス。しかし、この作品の語り手の状況に焦点を合わせると、かなり悲壮な状況であることが分かってくる。この語り手は、地球人の素朴な好奇心を満たすために、誰もいない外宇宙へと放り出されてしまったのだ。絶望的な状況の中、発狂寸前の意識を保つために、イマジナリーフレンドとの交流やナンセンスな妄想を展開することで何とか生きながらえている。作中では正気回路なるものが警告を出しているが、この正気回路が正しく動作しているという保証はどこにあるのだろうか。前回私が取り上げた『さあ、気ちがいになりなさい』もそうだが、正気と狂気を巡るSF的議論はどうしてこんなにも魅力的なのだろうか。
 次は『エデン逆行』。前半はミンコフスキー時空的な時空に存在するらしい時間の街に関するファンタジックな考察がメイン。途中までは物理学を用いて論理的に解釈出来るが、祖母を巡る理論からは読者を大きく突き放しにかかる。そして最後の最後で『エデン逆行』というタイトルを回収して物語は終わる。解釈出来そうで出来ない議論、そのギリギリを攻めているような内容で、非常に心惹かれる。後半の『シェルピンスキー=マズルキーウィチ辞典』に関する考察は、円城塔の好む部類の議論である。同類の議論はデビュー作のひとつ『Self-Reference ENGINE』冒頭で提示される。(「全ての可能な文字列。全ての本はその中に含まれている。」)創作に関するこの議論は円城塔の大きな疑問のひとつなのだろう。
 円城塔を楽しめたのならば、酉島伝法もぜひ読んでほしい。酉島伝法はデビュー作『皆勤の徒』で円城塔に「人類にはまだ早い系の作家」と称賛された作家。間違いなく現代日本SF最高峰の一角である。このレジュメが円城塔と酉島伝法への架け橋になれば幸いである。

付録

今回円城塔作品に入門したので、おすすめの作品を紹介する。

『Self-Reference ENGINE』(ハヤカワ文庫SF)

伊藤計劃『虐殺器官』と(ある意味で)対を成す作品。連作短篇集形式となっており、前半はより手加減した作品が多く、後半に向かうにつれて難解さを増していく。
基本的にはひとつひとつの短篇が独立しているので、よくわからないものは読み飛ばしても問題ないはず。ひとつひとつの物語を丁寧に読み解いていくうちに浮かび上がってくる「大きな物語」は圧巻。現代日本SFを語るならば欠かせない一作。SFマガジン700号記念の人気投票では国内長編部門16位にランクイン。

「これはペンです」(新潮文庫)

円城塔2度目の芥川賞候補作にもなった作品。中篇『これはペンです』『良い夜を持っている』の2作が収録されている。
「叔父は文字だ。文字通り。」というギャグから始まる『これはペンです』。基本的には語り手と世界各地からあらゆる記述法で手紙を送ってくる叔父とのやりとりで物語が進む。ナンセンスギャグだけで成り立った小説のようにも思えるが、円城塔らしい議論もばっちり含まれている。身体と意識の問題を扱ったSFとしても、言語が元来もつ「弱さ」に関する文学的考察としても読める。これで芥川賞を獲れなかったのが惜しいかぎり。
『良い夜を持っている』はSFマガジン700号記念の人気投票で国内短編部門23位にランクインした作品。記憶をめぐる良質なSFでありながら、小説という表現技法に果敢に挑戦した文学的側面も併せ持つ。文学的挑戦と物語とが高度な次元で融合する傑作。

(評判からすると、一番分かりやすいのは『屍者の帝国』で、一番面白いのは『エピローグ』なのだが、両方とも未読なので何も言えない。)


下村
最終更新:2018年06月22日 01:36