朱に交わる/切れた糸(前編) ◆Ok1sMSayUQ
竹林から見上げる夜空は自分が思っているよりも明るく、真っ直ぐに伸びきった竹の筋一本一本までが見え、
笹の葉の生命力に満ち満ちた濃い緑色がはっきりと窺える。
恐らくはまだ成長を続けているのだろう。天まで高く。月まで目指せと言わんばかりに留まるところを知らない彼らは、
ただ希望を信じているもの。生きているものの姿に見えた。
月は人を狂わせる。そう言われているが、それは違うのではないかと思う。
きっとみんな、憧れるのだ。あんなに美しい存在に、孤高の美として存在する月を間近で眺めたいのだ。
けれども月に手は届かない。ゆめまぼろしのように、手を伸ばしても遠くへ逃げられる。
だからみんな狂ってしまうのだろう。追っても追っても届かないから。
そういえばこんな物語があるそうだ。
月を手に入れたいと願ってやまない一匹の猿が、水面に映る月を見かけた。
ゆらゆらと不安定に揺れるそれは、しかし確かにそこに存在しているようにしか見えなかった。
猿はたゆたう水面に飛び込んだ。水面の月を手に入れんと欲した。
だが手に入れること叶わず、猿は溺れ死んでしまった。……俗に言う、猿猴促月図である。
身の程を知れという意味合いがあるらしいが、それほどまでに手に入れたくなるものなのだろう。
そこに潜む、永遠という幻想を知ろうとして……
「妹紅」
ぼーっとしていたからか、いつの間にか隣に座っていた上白沢慧音が妖怪の姿をしたままに微笑んでいた。
間が少し空いているのは、角が当たってしまうからだろうか。藤原妹紅はそんなことを考え、「なに?」と返した。
「綺麗な月だな」
いつも真面目な彼女が言うので、妹紅は意外なように思った。
他愛ない世間話。不死の身体を持ち、常に異形の我が身と隣り合わせの妹紅からすればあまりにも新鮮なように思えた。
今夜は満月。煌々と輝く空の黄金色に、慧音も雅を刺激されたらしい。
「そうね……眺めることしか、できないけど」
「どうだろうな。案外、そう遠くない未来にでも月には行けるのかもしれないぞ」
「少なくとも、私は行けないわよ」
溜息交じりの言葉は、今の妹紅の身分貴賎から来る言葉ではなく、
同じ永遠を有しながらも対極にあり過ぎる己の姿を顧みた言葉だった。
こんなにも人を惹き付ける月に対して、自分は人から疎んじられ、隠れ、逃げている。
そんな状況にも慣れ、諦観を含んだ生しか送れなくなった卑しい有り様。
自分の身を振り返るのに嫌気が差した妹紅は、「それより」と話題を切り替えた。
「夜分遅くに呼び出して済まないわね」
「構わないさ。まだここに慣れちゃいないのだろう?」
遠慮も気遣いもなく、実直に接してくれる慧音には不思議と心を許せるなにかがあった。
正体が分からないのは、あまりにも自分が人との交わりを絶ちすぎていたからだろうか。
ぎこちなく笑みを返して、妹紅は慧音に紙袋を差し出した。
常日頃から慧音には色々と良くしてもらっている。食事に、様々な土産物、よく分からない見世物品までくれる。
世話になりっ放しでは気が引けたので、妹紅なりに考えて謝礼をしようと思ったのだった。
もっとも、その品を包む紙ですら、元は慧音が持ってきたものであるのには自分でも情けないと思うのだが、
隠れるようにして生きてきた妹紅が人里に出るには、もうしばらくの時間が必要だった。
「……くれるのか?」
「今日の慧音が、あんまりにも無骨だからね」
素直に頷けず余計な言葉を挟んでしまうのは、距離を取ろうとする習い性だった。
結局のところ、こんな風なのだから疎んじられるのかもしれない。
その気になりさえすれば、こんな生き方をせずに済んだかもしれないのに……
スッと心に影が差し込むのを、慧音の柔らかい笑みがかき消した。
「ありがとう。嬉しいよ」
たったそれだけの言葉が、それまで滞っていたように思われる体内の血を良く巡らせ、芯から熱くなるような感覚があった。
自分も嬉しいのだと気付いた妹紅は、今度は何の言葉も挟まなかった。
「開けてもいいか」
「うん」
子供のように無邪気に顔を綻ばせる慧音の姿は微笑ましい。
この瞬間だけは、自分の内奥に潜む余計な芥を感じずに済む。いま、この時を純粋に楽しんでいる自分がいる。
竹林がざわざわと揺れた。自分たちを囃し立てているように思え、
少々照れ臭くなる思いで、妹紅は慧音が取り出す自分の贈り物を見つめていた。
「これは?」
慧音が取り出したのは真っ赤な布だった。布とはいっても細長いそれはどちらかというと帯なのかもしれなかったが、
そんなことは些細なな事柄だった。「貸して」と言って慧音から布を受け取り、頭へと手を伸ばす。
正確には頭の角だったが。触られたのを察して慧音が体を浮かせたが、すぐに収まった。どうやら慣れていないだけのようだった。
「ここを、こうして……ほら、できた」
「何をしたんだ?」
「慧音の角にお洒落をしてあげたのよ」
慧音が頭に手を伸ばし、どうなっているのか確認する。すぐに気付いたらしい慧音は苦笑して、「似合うのか」と尋ねた。
「私には似合うと思うけど」
「……そうか。鏡を持ってくるべきだったか」
さも残念そうに肩を落とした慧音を見て、妹紅は何故だか可笑しさが込み上げた。
可愛らしいちょうちょ結びが慧音の角に結ばれ、ひとつの花を添えている。
普段堅苦しい彼女が愛らしくなったというのに本人は残念そうで、
意地悪な気持ちからではなく、その姿がただ可笑しくて妹紅は笑った。
笑って、笑って、久しぶりに笑い疲れた妹紅は、ふとこんなことを思った。
もう、いいんじゃないだろうか。
妹紅は知っている。この先にある自分の結末も、慧音が知るべくもない自分の結末も。
これは、夢なんだ。
記憶では、自分は笑えなかった。可笑しいと思いはしながらも声に出して笑うことはできなかった。
あのときはまだ、変な意地があったのだろう。
それとも今笑っているのは、自分が楽になれたと思っているからだろうか。
つまるところ、藤原妹紅は何も変わりはしていない。
自分の生にも死にも鈍感で諦めることしかできない。
だからもういいんだ。
ここまで来られただけでいい。その先を知る資格なんてないのだ。
色鮮やかだった世界が急速に色を失う。色づいているのはただまん丸で黄金色のお月様。
虚無が体の周囲を取り巻き、何もかもを見えなくさせていく。
ああ、これが夢の終わりなのだと――そう、藤原妹紅は思っていた。
* * *
遮蔽物は皆無。
視界の両端には民家がずらりと並んでいるが、それは障害物の用を為さない。
逃げも隠れもできない、一騎打ちの状況。
上等だ、と己を一喝して妹紅はナイフを持った手とは反対の手から炎を生成する。
ゆらと風に靡いたこぶし大の炎の塊は、妹紅が長年の間に身につけた妖術の一種だ。
外敵から身を守るために、というのもあるが、それ以上に火という媒体を選んだのにはもっと簡潔な理由があった。
火は調理に使える。肉を焼き、水を沸騰させ煮たり茹でたり。
不死の体は空腹で死ぬことはなかったが、死ぬほど苦しむことではあった。
幾度も復活する肉体と炎の術から不死鳥・フェニックス・鳳凰などと評する者もいるが、実際はこんな所帯じみた理由だ。
そんなことを思いながら、妹紅はゆっくりと前進してくる博麗霊夢へと炎を放った。
同時、霊夢が加速する。簡単に軌道を読まれ、少し横に逸れただけで避けられる。
相変わらず掠り(グレイズ)の精度は一級品だと感心しつつ、今度は放射状に広がる炎を散らす。
これも結果は一緒だった。最初から分かっているかのように移動し、足止めすることもできない。
「私に、弾幕は通じないわよ」
一言そう告げた霊夢は既に刀を抜いていた。
ちっと舌打ちしながら妹紅もナイフを振りかざす。
刃と刃がぶつかる。しかし刃渡りの短いナイフと戦闘用にあしらえられた刀とでは武器の性能差は覆しようもなく、
押し込まれたところを返す刀で斬りつけられる。
腕に鋭い痛みが走り、赤い線が妹紅の肌に刻まれる。咄嗟に体を後ろにずらしたからか掠った程度で済んだ。
あまり回避行動を得手としない自分にしては中々上出来だった。今回ばかりは『リザレクション』が通用しない。
死ねばそこまで。たった一枚の命の札を賭けて戦う。実際のところ、妹紅は初めて殺し合いというものの恐ろしさを実感していた。
一瞬でも気を抜けば、待つのは敗北と途切れる意識。
次などありようはずもない、もう二度とやり直せない命。
体が緊張する一方で、これが死の甘美さか、と惹かれている己がいるのにも気付く。
自分を孤独から、絶望から、永遠から解放してくれる唯一の救世主。
そこに身を委ねれば、後は勝手に向こうが連れていってくれる。
もう苦しむことはない。あるべき姿に戻れるというのなら……
「遅い」
そんな感慨に囚われた隙をあの霊夢が見逃してくれるはずはなかった。
どこまでも合理的に、的確に、霊夢は最適な間合いから刀を振っていた。
全身の筋肉を総動員させて飛び退く。避けたと感じたのは一瞬だった。
「霊符『夢想妙珠』」
霊夢の周囲に出現した光弾が一直線に妹紅へと向かってきた。単調な動きながらも早い上に回避直後で身動きが取れない。
光弾の直撃を受け、妹紅の体が衝撃で吹き飛ぶ。蓬莱人の体は頑丈にできているのか、それとも霊夢が威力を抑えたのか、
骨が折れることも内臓が破裂することもなく、体を民家の壁に打ち付けただけで済んだ妹紅だったが、
衝撃の総量は無視できるものではなかった。
全身に鈍痛が回り、意識が朦朧とする。気絶しないだけマシだったが、吐き出したくなるような気持ち悪さはいかんともしがたく、
不死であったこと以外は人間の体なのだなと妹紅は今さらのように思った。
「悪いけど、こっちも本調子じゃないのよね。さっさと決着をつけさせてもらうわ」
「……速戦即決ってわけね」
正しい判断だ、と場違いに感心する。元々死なないのをいいことに回避も戦闘技量も磨いていない、
『死なないだけの人間』の妹紅の実力は大したものではない。耐久力だけは凄まじいけれども、この場ではなくなっているも同然。
一度戦っただけで自分の性質を見抜ききっている霊夢は、流石に博麗の巫女の風格があった。
案外分の悪い勝負かもしれない、と思ったところに、甘い芳香がたち込めた。
湿気のように肌にまとわりつき、べた付くそれは死の匂い。自分を今も尚誘い続ける虚無の香りだった。
鼻腔をくすぐり、意識を溶かそうとするそれに嫌悪感を覚えながらも身体は反抗の意識を示さない。
当然だ。未だ惹かれているのだ。自分は、この期に及んで死を受け入れようとしている。
不死の体が苦しいから、辛いからというだけで諦めに浸り、逃げ続けてきた過去の己が先導して、楽な方向へと流そうとしている。
堕落し、腐りきった人間の姿。命の価値を捨ててしまった、唾棄すべき存在があった。
こんな人間のために、あの化け猫は死んだのか。
自分などよりもよほど生を謳歌していたはずの彼女を犠牲にしてまで、なぜ自分は生きているのだろう。
暗い疑問が鎌をもたげ、首筋に突きつけられるのに合わせて、香りが強くなった。
香りは既に色を帯び、甘ったるさを具現したかのような薄い赤色を纏って妹紅の周囲に蔓延している。
ふざけるなという思いよりも、しょうがないことなのかもしれないと考え始めている自分がいることに気付く。
生きるということの意味も忘れ、長い間諦めに浸り続けてきた我が身が簡単に変えられるはずもなかった。
それだけのことなのだろうと思う頭は死を納得し、それまであった決意をどこか遠くに押しやっていた。
もういい。殺すなら早く殺してよ。
抵抗さえしなければ速やかに、痛みに苦しむこともなく死ねる。
民家の壁に背をもたれさせ、妹紅は目を閉じた。死が、自分を楽にしてくれると信じて。
私なんて、生きている価値もないのよ。
不死の人間なんて、存在していてはいけないんだ。
死なないだけで、誰の役にも何の役にも立てない化け物なんて、いちゃいけないんだ。
だって、そもそも、私の居場所なんて、どこにも――
「死ぬなっ! 生きろ!」
怒声が耳元で弾け、妹紅はそれに衝き動かされるように体を逸らした。
霊夢が振り下ろしていた刀が耳元を掠め、ぱらぱらと白髪の一部を散らす。
呆気に取られた霊夢の顔を見ながら妹紅は思い切り蹴飛ばす。
思いの他体重が軽かったらしい霊夢の体が浮き、やや離れた地面を転がってゆく。
妹紅はその間に立ち上がり、しっかりと地に足をつけて走り出す。
死ぬな。生きろ。鼓膜を震わせ、脳を根底から揺さぶった声は上白沢慧音の声だった。
そうだ。
諦めのまま目を閉じ、
見ていた夢には続きがあった。
慧音を彩ってあげたあの日には、まだ。
『私が生きている間は、ずっと藤原妹紅の友達であると約束する。
この姿でいるときはずっとこの贈り物をつけていると約束する。
だから、その間だけでいい。――生きてくれ』
私は、そのとき、心の底から『生きていたい』って思ったのに。
なんで忘れてしまっていたんだろう。
まとわりついていた霧を払うかのように、あの化け猫が前を走っている。
その隣では先導するかのように慧音が時折こちらを振り向いてくれている。
慧音であり、化け猫である形をしたそれが死の芳香を霧散させ、妹紅を現実へと引き戻させた。
もう、死には憧れない。
「生きるんだ、私は」
あの臭気も、色も、もう何も見えない。
見えるのは煙。
どこまでも高く、高く昇ってゆく灰色の煙だ。
「凱風、快晴……!」
ありったけの妖力をつぎ込み、収束させる。
狙うは霊夢ただ一人。死ぬために死ぬのではなく、生きるために生きる。
なぜ。何のために。そんなことは些細なことだった。生きたいと思ったから。それだけのことだ。
「フジヤマ、ヴォルケイノッ!」
放たれた火球は霊夢のいた地点に着弾し、更に熱を膨張させ熱風を吹き荒れさせた。
民家の瓦造りの屋根が揺れ、障子のいくつかが吹き飛ぶ。
火球の付近にあった可燃物は炎に包まれ、既に炭化を始めているものさえあった。
威力は十分過ぎるほどだった。普段より範囲が狭いのは、恐らく蓬莱人としての力が弱まっているせいだろう。
霊夢のことだ、この程度で焼死するような奴ではない。
それでも最大限の力で放ったフジヤマヴォルケイノの衝撃波には巻き込まれたはずで、
どこかで気絶している可能性くらいは期待しても良さそうなものだ。
「だから、言ったでしょう」
だが、そんな淡い期待はあっけなく打ち破られた。
どこか淡々とした、これが当たり前と断じているかのような、霊夢の声によって。
「私に、弾幕は通じない。パターン化しているから」
「上……っ!」
ハッとして見上げると、そこには宙に浮きつつ弾幕の反撃に転じていた霊夢の姿があった。
冗談じゃない、と思う。あの一瞬でフジヤマヴォルケイノを避けるために飛び上がっていたというのか?
使うことを予期していたのではなく、一瞬のうちに対処に移った霊夢の冷静さにおぞましさすら感じる。
これが博麗の巫女だというのか? 弾幕では勝てないと言った霊夢の言葉が圧し掛かり、恐怖となって知覚される前に、弾幕が直撃した。
先ほどと同じ『夢想妙珠』だが広範囲用に調整されたそれは弾幕の散弾となって妹紅付近の地面を抉り、足を奪った。
身動きが取れない。霊夢が接近する気配があった。最後は近距離で仕留めるつもりなのか。
「く……そっ!」
苦し紛れにナイフを投げてみたが軽く弾かれた。弾いたと同時、地面に着地した霊夢が横薙ぎに切り払った。
切り裂かれた腕の切り傷は先ほどとは比べ物にならず、痛みが全身を突き抜け悲鳴を上げるほどだった。
続けて霊夢が袈裟に切りかかろうとする。間違いなく止めの一撃だろう。
死んでたまるか。生きたいという思いを全身に漲らせている妹紅はただそれだけを考え、最後まで体を動かそうとする。
しかし、間に合うはずもなく――
「っ!」
斬られる、と覚悟した瞬間、霊夢が急に動きを止め、その場から飛び退いた。
なんだと思う間もなく、妹紅はその理由を知ることになった。
新たな弾幕の群れが妹紅に迫っていたのだった。
* * *
アリス・マーガトロイドが炎が爆ぜる音を聞きつけたのは、人里から紅魔館へと歩いていた途中のことだった。
結局、アリスは近い距離にある紅魔館へと向かうことを選んでいた。
そもそも自宅は遠いものだし、誰かが既に侵入している可能性もあった。
我が家に忍び込んではマジックアイテムを盗んでいく魔法使いの姿を脳裏に浮かべ、アリスは嘆息する。
無論紅魔館にだって誰かがいないわけはないだろうし、魔道書も持ち去られている可能性もある。
だが蔵書の量が自宅とは桁違いだ。
パチュリー・ノーレッジの一週間魔法は図書館の蔵書によって形作られたものだと推測している。
アリス自身はよく人形を媒体とした上での魔法を得意とするが、通常の魔法が使えないわけではない。
人形を行使した魔法を使うのはあくまでも見栄えと優美さを重視したからに過ぎない。
実力ではなく弾幕の華麗さ、美しさを競い合うスペルカード
ルールにおいて、アリスが選んだのは広範囲に人形を散らし、
その人形から弾幕を形成するという手段だった。
面倒極まりなく、その上人形に魔力を媒介するので威力や速度などは直接魔法を使うよりも悪くなってしまう。
それでもアリスはこの魔法に拘り続けた。
一人で生成できる弾幕量には限界があるが、人形を用いるならば話は別。
大量の弾幕を生成できる上人形によって調整も行えるので色や形を自由に変化させることが可能なのだ。
まさしくそれは弾幕という名の芸術。戦いの中にも一つの華を添える人形魔法は、アリスの美学、美徳と見事一致するものだった。
どんなときでも、余裕をもって戦いに望む。本気を出さないのはそういうことなのだ。
だから、私は人形を使い続ける。それが私の美徳なのだから……
「どうしたの、アリスさん」
明後日の方向を見据えたままのアリスに、古明地こいしが尋ねる。
今のアリスの『人形』。こちらの思い通りに動きながらも、ただそれだけではなくこちらの期待通りにしてくれる人形。
現時点ではほぼ目論み通り。自分に懐き、陶酔しているこいしに足りないものは殺人の経験と殺人に慣れる経験。
後一押しでこちらの望む形の人形になってくれるだろう。
つい先日までは自分だって人を殺したこともなかったのに。
殺人人形へと仕立て上げようとしている自分の思考を眺めたアリスは、なぜこうまでしてこいしを育てようと思っているのかと考えた。
そもそも、どうして殺し合いに参加すると決めたのだろう。
永江衣玖を殺害した瞬間の自分の思考は霞がかかっていて、もうはっきりと思い出すこともできない。
こうなってから遥かに長い年月が経過したようにさえ感じられる。
いや、どうだっていい。
既にこの道を歩み始め、変えることは許されるべくもない。必要なのはいかにして自分が生き残るかを考えること。
そのためにならどんな手段を使っても構わない。これは殺し合いなのだから。
――ならば、それは私の美徳に反するんじゃないか?
ふと生まれた自分の考えに苦い薬を飲んだかのような気持ち悪さを覚えたアリスは、そんなはずはないと言い聞かせた。
私はちゃんと、人形を使っているじゃない。
自らの美学の結晶である人形。自分の生き方と切っても切れない宿縁を結んだ存在を忘れてなどいない。
どこもおかしくなんてない。アリス・マーガトロイドは人形使いの魔法使い。その生き方を貫くだけだ。
内奥に生まれた未知の物質から目を逸らすようにして、アリスはこいしとの会話に集中することにした。
「いや、どうもきな臭いように思ってね」
「……何も匂いなんてないけど」
ふんふんと匂いを嗅いでいるこいしに思わず苦笑してしまう。
何も知らぬ、純真無垢とはこういうのを指すのだろう。だからこそ最高の素材と言えるのかもしれない。
自分次第で白にも黒にも染まる。
嗜虐心を覚えたつもりはない。ただ彼女の分岐点は自分が握っているのだという思いがあるだけだった。
未知の物質がまたざわめき立つのを感じ始めたアリスは「そういう意味じゃないけど」と会話に集中する。
「多分、誰かが戦っているのでしょうね。……こいし、私の言ってることが分かるわよね」
「う、うん……アリスさんのために、戦う……」
上々だ。まだいくらかの躊躇いは見受けられるが、
緊張の中にも「やるのだ」という生硬い意思を押し込めた瞳の色は信用しても良さそうだった。
そう、誰かの命を奪うのには理由さえあればいい。
誰かのため、自分のため、信念のため。何だっていい、正当化する理由さえあれば容易く一歩は踏み出せる。
自分のように。
「私がここから真っ直ぐ、あちらの方に行くわ。あなたは向こうから回り込んでくれないかしら」
「どういうこと……?」
「私が先に戦う。あなたは機を見計らって私を援護すればいい」
「でも、それじゃ」
アリスさんが危ない、というのを制して、アリスは真剣な口調でこいしに言い聞かせる。
「確かに危ないかもしれない。あなたが助けてくれなければ、死ぬかもしれないわね」
死ぬ、と言ったアリスの言葉にこいしの顔色が変わり、青褪める。
喪失の恐怖を知り、依存することを覚えてしまった少女の姿だった。
憐憫の意思も哀れだと感じる意思もなかった。ただ、ほんの少しだけ何かが傷んだ。
傷つけられたのは、何なのだろう?
「でも、あなたが助けてくれればいい。あなたの強さを信じているわ、こいし」
「私の、強さ……」
殺せとは命じなかった。そうするのはこいし自身が選ぶことであり、自発的に選ばせることが重要だった。
こくりと頷いたこいしからは恐怖の色が消え、決然としたひとつの感情だけがあった。
いい子ね、とこいしの頭を撫でてアリスは人里の中央部へと向かい始めた。
愛用の上海人形と蓬莱人形はない。必然、人形なしの通常魔法で戦わなくてはならない。
とはいっても鍛錬を怠っているわけではないし、何よりも、自分は普通の魔法で戦うのではない。
戦うのは、人形なのだ。
* * *
最終更新:2009年08月08日 17:09