悲しみの空(前編) ◆Ok1sMSayUQ
後には引けない。
八雲藍の救援もない。
どうすれば博麗霊夢を止められるかも分からない。
そもそもがないものねだりの上、これは霧雨魔理沙という女の我が侭に過ぎない。
それでもやると決意した。
諦めたくはないから。
友達を見殺しにするなんて、そんな真似はしたくなかったから。
友達が間違っているのなら、それを正せるのも友達。
そう、いつだって自分達魔女は――貪欲なのだ。
「数え切れないくらい、対戦はしてきたわよね? 勝敗はどうだったかしら」
「さあね。……でも覚えてる限りじゃ私の負け越しだ」
いつもの口調、いつもの調子。
血に染まった服で、折れた刀を抱えてさえいなければ、魔理沙は日常の一部と錯覚したかもしれなかった。
霊夢の寄越す、全てを無と肯定する瞳を受け止めながら、勝てるのかと自身に問いかけてみる。
遊び半分の試合でさえ霊夢に勝てたことは少ない。まして手加減無用の殺し合いとなればどうだろうか。
実力差があるとは思わなかった。だが霊夢には天性の才覚と、事象そのものが味方していると思えるくらいの強運がある。
弾幕を撃てば弾幕の方が避けて行くようにさえ感じられるくらいだ。はっきり言って、弾幕主体で戦う魔理沙には相性が悪い。
だが一度も勝てなかったわけではない。
フランドール・スカーレットが自分を友達だと言ってくれたように、
こうして霊夢ともう一度巡り会ったように、あらゆる可能性はゼロではない。
霊夢が天才の感覚ならば、知恵と努力でなんとかしてみせるのが今の魔理沙にできる最善の方法だった。
「でもな、今までの勝敗なんて関係ない。この一回を勝てばいいんだからな」
「……事象は回数を重ねる度に真実に近づくって分からないのかしら」
「悪いね、私は人間だ。人間にその論理は通じないんだぜ」
「不死の化物になったくせに?」
まるで遠慮を知らない口調で霊夢が言った。
霊夢なら察知しているのも頷ける一方、霊夢とさえ同じ立場でなくなってしまった現実が重く圧し掛かる。
霊夢を止める術も分からないまま、のこのことここまでやってきてしまった自分。
そんな自分は全てを失いたくないと言いながら、その実自分の身はどうなってもいいと考えているのではないだろうか。
心を満足させられればいいとだけ思うようになって、だが我が侭を押し通そうとする自分が嫌いで、
罪を清算した後に死にたいと心の奥底で願うようになってしまったのではないか。
フランはそれを敏感に察知して、戦場から遠ざけようとしてくれていたのではないか。
やっぱり、私は大馬鹿だ。
そんな事にも気付けないで、霊夢と対峙しようだなんておこがましい。
フランにはあの時、こう言ってさえいればあんな目には遭わせずに済んだのに。
死にたくないから、ずっと私を守っててくれ、と。
だから。
魔理沙は強く一歩を踏み出す。
フランへの借りを返すために。
守ってくれ、と今度こそ言うために。
「だったら、化物の意地を見せてやる」
ミニ八卦炉を持つ手とは反対の手で、魔理沙が星型の光弾を射出した。
扇状に広がる弾幕は、しかし簡単に霊夢に避けられる。
それも当然と魔理沙は判断して、次に隠し持っていたダーツを一本、霊夢へと向けて投擲する。
小さいダーツの矢は、完全に霊夢の死角にあったようだった。
咄嗟に刀を振って矢を弾いた霊夢に、やはりという確信が生まれた。
弾幕への対応力は目を見張るものがあるが、こと格闘戦や実弾での投擲・射撃への対応は弾幕のそれより僅かにではあるが鈍い。
つまり弾幕に対してはほぼ無敵であると考えてもいいが、攻撃方法を変えれば話は別だ。
魔理沙が勝ち取った数少ない勝負では、いずれも格闘戦が決定打だった。
なんとなく予測はしていたのだが、他の投擲武器ではどうだという疑問があり、
ダーツでの攻撃は半ばそれを確かめるためのものであったのだ。
ならば、霊夢を黙らせる戦術はたったの一つしかない。
即ち弾幕で動かせ、止まったところを他の武器で仕留める。
問題はその武器が極めて少ないということであったが、やるしかない。
ここで霊夢を逃がさないためにも、誰かを殺させないためにも、そして自分のためにも――!
魔理沙はポケットからもう一つダーツの矢を取り出し、逆手に握って走る。
一直線に駆ける魔理沙を、霊夢は博麗アミュレット――魔理沙の通称では『座布団』――で迎撃してくる。
『座布団』は一発あたりの破壊力は大したことはないものの、極めて追尾性が高く魔理沙の苦手とするタイプの射撃だ。
普通なら、ここで避ける。普通の弾幕ごっこなら。
しかしこれはお遊戯ではない。防御を無視して際どい回避が賛美されるのは
ルールに則った闘いでの話。
必要なのは、いかに相手を戦闘不能にさせる一撃を叩き込めるかだ。
そのために魔理沙が選んだ行動は……正面からの突撃。
何の躊躇も無く突っ込む魔理沙に、霊夢が取った選択は更なる追撃だった。
いや『座布団』を放った瞬間に、まるで先読みするかのように威力を重視した射撃『妖怪バスター』を放っていたのだ。
「魔理沙。匹夫の勇、一人に敵するものなりって言葉があるのよ」
本来ならお札に霊力を込めて使うはずの『妖怪バスター』は、お札がないからなのか楕円に近い形状をした薄紅色の光弾となっていた。
お札は退魔の効力が宿る一方、人間にとっては威力を緩衝する媒介でもあるために人に対しては若干威力が低下する。
しかし今はそれがない。加えて遠慮など皆無の『妖怪バスター』が直撃すれば魔理沙は大きくダメージを受け、吹き飛ばされるはずだった。
「知ってるか、霊夢。敵を知り、己を知れば、百戦危うからずって言葉があるんだぜ」
だが、『妖怪バスター』をものともせず、魔理沙は弾幕を突っ切ってきたのだ。
『座布団』に突っ込む寸前に、魔理沙は自身に魔法をかけていたのだ。
『ダイアモンドハードネス』。
パチュリー・ノーレッジも使用していた、大地の力を借りて防御能力を高める魔法だ。
土属性の基本的な魔法であること、魔法の森という魔理沙には慣れ親しんだ場所であること、
そして魔理沙自身優秀な魔法使いであることが完璧とは言わないまでも急場での使用を可能にさせたのだ。
「パチュリー、〝借りた〟ぜ! ついでにこいつも喰らえっ!」
懐から一歩手前の距離で先程よりも大きく、速度の速い星型弾『メテオニックデブリ』を展開する。
『妖怪バスター』と同等以上の威力を誇るそれが直撃すればいくら霊夢といっても戦闘続行は不可能だ。
しかし『メテオニックデブリ』はいささか隙が大きすぎた。
咄嗟の判断で霊夢は『亜空穴』を使用して後方へと退避。魔理沙の射撃は不発に終わった……
が、魔理沙は元より当たることなど期待していない。『亜空穴』の着地の時に起きる隙を狙っていた。
地上を駆け、まずはその憎たらしい無表情に一発パンチを入れる。そのはずだった。
走り出した直後、背中に走った鈍い衝撃に、魔理沙は前のめりに倒れる羽目になった。矢も取り落としてしまう。
「『座布団』か……!? くそっ!」
恐らく当たり損ねた『座布団』が引き返し、直撃したのだ。
ある程度の追尾性は認めていたが、まさかここまでとは予想もしていなかった。
普段の『座布団』は手加減していたとでもいうのか。
決して埋めようのない実力差を意識し、歯噛みしながらも立ち上がると、
霊夢は既に体勢を立て直してこちらへと仕掛けてきていた。
弾幕はなく、一見無警戒に突進している。まるで先程の自分のように。
逃げるか、迎え撃つか。
咄嗟に浮かんだ選択はその二つだったが、逃げたところで追尾性の高い『座布団』などで追撃されるだけだ。
かといって霊夢が何の考えもなしに突っ込んでくるはずはない。仕掛けがあると見るべきだったが、他に道はない。
こうなれば読み合いだと腹を括って、魔理沙はまず出の早い射撃で迎撃する。
ところが霊夢は避けるそぶりさえ見せない。そう、自分と同じ戦術をなぞるように。
まさかという思いが魔理沙に浮かぶ。
霊夢は巫女。いつだったか見せた神下ろしなる術で擬似的に自分と似たようなことは出来なくもない。
しかし神下ろしは儀式が必要なはず。ノンリアクションで可能なわけではない。
だから霊夢に無理矢理弾幕を突破する方法はないはずなのだ。霊夢は魔法使いではないのだから。
だが、或いは、霊夢なら。
あらゆる異変をたちどころに解決してきた実績と、霊夢への無条件の信頼が魔理沙に分の悪い賭けを選択させた。
思い違いであれば大きな隙を晒し、倒れ伏すのは間違いなくこちらになるだろう。
それでも私は、霊夢を信じる。
横に旋回しようと浮かしかけた足をだん、と地面を踏みつけ、魔理沙はミニ八卦炉を持つ手に力を込めた。
「きつい肘鉄を食らわせてやる!」
ミニ八卦炉が向けられたのは霊夢にではなく、その真後ろ。
その瞬間、ミニ八卦炉から膨大なエネルギーがレーザーの形となって爆発し、後ろにあった木々がめきりとへし折れた。
破壊力だけならばあらゆる魔法の中でも最大級の威力を誇るそれは、しかし今回はその反動を利用するために使われた。
力が生じる際には反発力もまた発生する。
ミニ八卦炉が誇る火力は、同時に反発力を伴って使用者への大きな負担となることが弱点の一つだった。
そこを利用すべく、魔理沙が考案したのはその反発力を用いて敵に攻撃するという手法だった。
一瞬でも最大出力にしてしまえば人間一人など吹き飛ばすことなど造作もない力に身を任せ、勢いを以って突撃する。
その名を、自身を尾を引く彗星になぞらえて――『ブレイジングスター』という。
ミニ八卦炉の力を借り、高速で突撃した魔理沙の速さは自身が射出した弾幕に追いつこうとする程の速さだった。
『ブレイジングスター』はその性質上制御が利き辛く、回避されると完全に隙を晒してしまうという弱点を持っている。
しかし、もし霊夢が自分と同じ戦術を取っているのだとしたら。
弾幕にほぼ重なる形で向かってくる『ブレイジングスター』を回避する術はない。
正面からのぶつかり合いならば断然こちらの方が有利。後は気合だ。
風圧に顔を押し潰されそうになりながら、魔理沙はしっかりと前を見据える。
霊夢はいる。必ずそこにいる。
戦ってはいても、霊夢は友達だと魔理沙は信じていたから。
弾幕の途切れ目、魔理沙の信用に応えるかのように……そこに霊夢はいた。
魔理沙と同じように、だが一方で凍りつくような敵意しかない視線を含ませて。
「勝負だぜ……霊夢っ!」
少しでも前に進むように。魔理沙は前のめりになって突撃する。
ぶつかり合いなら負けるはずがない。パワーなら絶対の自信があった。
『ブレイジングスター』に今さら気付いたらしい霊夢は前方に『警醒陣』を設置してきたが、遅い。
止められるはずがない。魔理沙は何の懸念もなく『警醒陣』に突っ込んだ。
「そんなもんで私は止められないぜ! ぶち抜けぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」
大抵の弾幕は突き通さないはずの『警醒陣』が一瞬のうちにミシリと音を立て、パリンと割れた。
多少威力は削がれたようだが問題などない。殺し合い用に調整でも施されたのか、
出力が低下してはいたがそれでも霊夢を気絶させるのには十分な威力だったし、
もう数枚『警醒陣』を設置されているなら話は別だが、もうそんな間合いはない。
このまま突っ込むと息巻いていた魔理沙の目が驚愕に見開かれたのは、霊夢の前方に展開されたあるアイテムを発見したからだった。
「矛盾っていう故事があるけど」
ペンデュラム。最近香霖堂で発見した、物を捜索するアイテムであると同時に高い防御力を誇るアイテム。
霊夢が突撃してきた理由が判明した一方、
それが『ブレイジングスター』にとって相性が最悪なものだとも気付き、魔理沙は己の運を呪いたくなった。
貫通射撃以外の殆どの打撃・射撃を反射してしまうほどの硬度を持ったペンデュラムに、
ただ高速で突撃しているだけの『ブレイジングスター』はあまりにも分が悪すぎる。
「私は最強の盾を持っている。でも、魔理沙はどうかしら? あなたは最強の矛ですらない」
勢いよくペンデュラムにぶつかるも、当然突き抜けることなど出来ない。
徐々に勢いが削がれていく。霊夢が狙うのは完全に勢いをなくしたとき。そこに、最大威力の弾幕なり打撃を叩き込むだけでいい。
チェックメイト。詰みの状況であることを理解した頭から血の気が引いてゆく。
これが結果だというのか。知恵と努力程度では、天才の霊夢にはどう足掻いても勝てないというのか。
「ペンデュラムを展開するために少しだけ隙があればよかったわ。そのために『警醒陣』を設置した。
あんたの得意なマスタースパークかと思ったけど……寧ろ好都合だったわね。あんたの知恵はサルの浅知恵なのよ」
そうかもしれないと納得する一方、冗談じゃないといういつもの対抗意識が持ち上がり、萎えかけていた魔理沙の闘志を奮い立たせた。
こんなところで負けてたまるか。異変解決人は霊夢だけじゃない。
知恵と、努力が無意味なんかじゃないことを一番知っているのは、自分を近くで見てきた霊夢だったはずだ。
だからここで霊夢の言葉に膝を折ってはならない。霊夢の論理に屈してはならない。
断固として立ち向かわなければならない。それが自分の、霧雨魔理沙が進むと決めた道なのだから――!
「結構だ! サルの一念、岩をも通すってな!」
「……っ!? こいつ……!」
弱まりつつあった突撃の勢いが取り戻され、俄かに霊夢がこちらを睨んだ。
互角とまではいかない。まだこちらが押し負けている。
それでも諦めるわけにはいかない。力が続く限り、絶対に前へと進み続ける。
霊夢の瞳に狼狽の色が宿り、やがてそれは哀れみに近いものへと変わる。
無駄だと告げる瞳。どうして最後の最後まで抵抗するのか分からないと問いかける瞳に、
魔理沙はしっかりとした意志を持って睨み返した。
何のことはない。それが私だからだ。
「あんたじゃ絶対私には敵わない。分かりきってることでしょう……? 自分でも理解しているはずなのに」
「そうだ……! 確かに分かってるさ! でもな……!」
「――魔理沙には、友達が、私がいるもの!」
横合いから飛び込んだ影に、今度こそ霊夢の顔色が変わった。
フランドール・スカーレット。完全に硬直していた霊夢にフランの拳を避けられるはずはなかった。
脇腹にフランの直撃を受けた霊夢がペンデュラム共々吹き飛ばされ、木にしたたか体を打ちつけた。
呆気に取られた魔理沙は少しの間、これは現実なのかと考えてさえいた。
先程まで気絶していて、身もボロボロだったはずのフランが助けに来た。
言葉もなくただフランの方を見ていると、こちらに少しだけ振り向いたフランがニヤと笑うのを魔理沙は見逃さなかった。
一人じゃない。何の抵抗もなく浮かび上がってきた考えに勇気付けられるのを感じた魔理沙は、
そこでようやく言葉を返すことが出来た。
「大丈夫なのか?」
「まだちょっとばかしよく見えないところもあるけど……すぐに治るわ。だって私は吸血鬼だから」
「そいつは頼もしいな。……さて、後はおいたをした奴にお仕置きしてやらないと、な」
霊夢が身動きの取れない今、捕縛するならこのタイミングしかない。
ゴホゴホと咳き込み、それでも無表情を保ったままこちらを見返してきた霊夢は機械というよりもやせ我慢している印象があった。
お前はそれでいいのか? 辛いことや苦しいことを我慢して、ひとりで何もかもをやろうとして、それで納得しているのか?
今聞いても霊夢の心に届く気がせず、その言葉を飲み込んだ魔理沙が近づこうとして、唐突に現れた光の群れに遮断された。
まるで雨と降り注ぐ矢のように押し寄せた光の槍が魔理沙とフランのいた地点に押し寄せ、フランもろとも直撃を受けた。
『ダイアモンドハードネス』の効果が残っていたからなのか、運良く数が当たらなかったからなのか、
魔理沙は多少仰け反るだけで済んだものの、視界が悪いと言っていたフランは避けることも防御することも出来なかった。
光に呑まれ、先程の霊夢よろしく大きく吹き飛ばされたフランは気絶こそしなかったものの、苦痛の呻きを上げた。
「フランっ!」
霊夢を捕縛することも忘れ、魔理沙はフランへと駆け寄ろうとする。
しかしその行為さえも横合いから聞こえた声で体が凍りつき、遮断される。
「何をしているのかしら、霧雨魔理沙」
霊夢と同じく感情の籠もっていない声に、魔理沙は冗談だろ、と言いたくなった。
最悪としか言いようのないタイミングで、敵に回すには最悪の相手が……八雲紫が現れたのだった。
* * *
森の中に木霊する破裂音の連続に、八雲藍にまた一つ冷たい汗が落ちる。
フランドール・スカーレットが突如として行方を眩ませた。
霧雨魔理沙の呼びかけに応じ、二手に別れて探すことにしたのだが、一向に消息は掴めない。
徐々に近づいている感覚はあるものの、不案内な魔法の森では方向感覚が鈍りきってしまっていた。
藍が奔走している現在も、森のどこからともなく音が……恐らくはフランと戦っている誰かとの争いの音が聞こえてくる。
藍の知る限りでの知識では考えられないことだった。
情緒不安定などと言われているフランだが、それは精神的に幼いが故のものだ。
霧雨魔理沙と行動するようになって以来、フランはどこか落ち着きを覚え、思慮分別を考えるようにもなった。
主観だけでなく、客観的に物事を見れるようになった彼女を、少しは信頼するようになっていたのに。
「……信頼、か」
自分が言う事でもないと思い、しかし否定しきれないまま藍は走る速度を早めた。
主人の八雲紫を探し、紫の言うことに従っていればいいと思っていただけの自分も、
今はこうして仲間のために奔走し、助けたいとさえ思っている。
紫にしてみれば、式がこのように自我を持つのは力を下げるとしてお叱りを貰うのだろう。
それでもなお『八雲藍』として、魔理沙に協力したいと思っているのは……
彼女の、理屈を超えた行動力に惹かれているからなのかもしれない。
幻想郷のレプリカかもしれない土地を生み出し、あまつさえ強大な力を持つ妖怪を攫い、
閉じ込めるだけの力を持つ存在など藍には最早想像の外だった。
正直に言って、抵抗する手段など分からない。自分などでは到底覆しようのない、圧倒的な絶望が横たわっている。
頭の回転の早い藍は、既にどうにもならないのではないかという推測に至っていた。
遊びと称して殺し合いをさせるような奴のことだ、こちら側に対する策は必要以上に練ってあるに違いなかった。
そう、幾重にも施錠を施された巨大な鳥籠から、小鳥がどうやって脱出するかを考えるのに近い。
魔理沙だって分かっていないはずはない。いつだって異変を解決してきた博麗霊夢が殺し合いに乗っているのを目撃したというのなら、
或いは魔理沙の感じている絶望は自分以上のものなのかもしれない。霊夢でさえ諦めた異変を、自分達如きが解決できるのか。
それでも魔理沙は全てを放り捨てて殺し合いに乗ることはしなかった。
友達や、知り合い同士で殺しあうなんてしたくない。ただそれだけの思いに従って。
だがその一途な、どんなに曲げようとしても曲がらない信念が吸血鬼のフランをも動かし、自分の心も動かした。
理屈だけの力など大きく超える、正体不明の力がそうさせているとしか考えられなかった。
そして愚かにも、自分はその力に賭けようとしている。
馬鹿馬鹿しいと一蹴する気が起こらないのは、安心して身を委ねていられるものがあるからなのかもしれなかった。
「そうか、それを『信頼』というのかもしれないな」
この一語で全てが納得できると分かったとき、藍はこの発見を紫にも伝えたい、と思った。
紫は常に強者の威厳を保とうとしていた。孤高であることの強さを誰よりも知っていたのが紫だったからだ。
大妖怪は強者であれ。だから紫は常に一歩距離を置いていた。
食事を摂るときも、仕事をしているときも、縁側で戯れているときでさえ無防備ではなかった。
藍は知っていた。珍しく遊んでくれと言ってきた橙に付き合っていると、その様子を物陰から紫が見ていたのだ。
その時にほんの少しだけ、一度だけ見せた寂しそうな表情を、藍は忘れられなかった。
従者として解決できる方法はないかとずっと考えていた。
ようやく……糸口が見つかったのかもしれないと藍は思った。
信頼という言葉が持つ、力の意味を伝えたかった。
故に今の仲間を絶対に守り通す必要がある。
「……ああ、そうか」
自我を持ち、紫に逆らおうとしているのではないと藍は思った。
なんだかんだで、自分は紫を敬い、尽くしたいと思っているのだ。
仲間を守るという行為が、紫のために出来る行動でもある。
結局はそういうことなのだろうと思いを結んだ藍は搾り出すような声で「間に合ってくれ……!」と願った。
誰も死なないように。
その考えが霧雨魔理沙の考えそのものであることに、八雲藍は気付かなかった。
* * *
森の木の陰で、石ころのようにうずくまっていたものが低い唸り声を上げた。
苦痛に歪んだ顔を土で汚し、よろよろと力なく立ち上がったのは森近霖之助だった。
倒れたときの衝撃で大きくズレてしまった眼鏡をかけ直しながら、
霖之助は鈍痛の残る腹部をさすりつつキッと森の奥を睨んだ。
「紫め……」
やっとの思いで吐き出した言葉はしわがれていて、己の貧弱さを表しているようで情けなく思った。
先程まで同行していたはずの相手――八雲紫の姿はない。
当然の話だった。何故なら、彼女は霖之助を悶絶させると同時に、一人で霊夢が戦っている現場へと行ってしまったのだから。
幸いというべきなのか、忍びないとでも思ったのだろうか、
霖之助が持っていた武器はそのままで持っていかれていることはなかった。
まさか自分の身を気遣ったわけではあるまいと思いながら、改めて持ち物を確認する。
散弾銃の弾数は変わっていない。煙草も揃っている。あまり意味のない新聞もある。そして……酒は抜かれている。
こんな時に酒だけ抜き取っていく紫を図々しく感じる一方、酔っていた姿も思い出して、霖之助はどうしても憎む気にはなれなかった。
隣で酒を呷り、滅多に驚くことのない自分が思わず思考を止めてしまうくらいに美しかった紫は、
裏を返せば酒の力を借りなければ己を保てなかったのかもしれない。
霖之助はあんな紫の姿を見たことがなかった。これまで見てきた紫といえばどこか掴みどころがなく、
飄々としてかつこちらの何もかもを見通しているかのような余裕が感じられたものだが、酔っていた紫にはそれがない。
驚いていたあまりに思索を巡らせるのを忘れていた。ひょっとすると紫は紫で、今の状況に対して相当焦っているのではないのか。
大妖怪としての手前、みっともない姿を晒すわけにもいかず、こちらを煙に巻くことで誤魔化したのではないのか。
そう考えると少女を感じさせたあの姿も、寧ろ不安の現れのような気がして、霖之助は痛む体をおして走り出した。
悶絶する前、立ち去った彼女の姿はどうだっただろうか?
記憶を辿ってゆく。そう、あの時の彼女は――
「霖之助さん」
聞き慣れない呼び名に、霖之助は一瞬別の誰かに名前を呼ばれた気がして、きょろきょろと周りを見渡した。
無論そこには紫しかいない。呼んだのは彼女かと結論を至らせるに数秒を要し、「誰かと思った」とまずは正直な返答をする。
だが紫はからかうでもなく、いつものように冗談を言うでもなく、どこか人形のような無表情のままで続けた。
「戦っているのは霊夢でしょう。まず間違いないですわ」
「それはさっき聞いたな」
「では……戦っているのは誰だと思います?」
虚を突く質問に、霖之助は言いよどんだ。古道具屋に篭りきりの霖之助は霊夢が普段何をしているかなど知る由もないが、
数々の異変を解決している妖怪退治屋であることくらいは知っていた。
「戦い好きな妖怪じゃないのか」
「浅慮な妖怪ならばそうかもしれません。ですが、そのような妖怪は……言い方は悪いけど、もう既に死んでいますわ。
それにその程度の妖怪なら、霊夢がここからでも目に見えるような出力で戦うのもおかしな話」
「相手は大妖怪だと?」
「かも、しれません」
「やけに自信がなさそうじゃないか」
「……大妖怪であるなら、霊夢の存在か分かっていない者などいるはずがありませんもの」
紫は説明口調で、霊夢が博麗大結界を維持するのにどれだけ必要不可欠な存在なのかを言った。
霊夢の死は、即ち幻想郷の死と同等であること。
そればかりか自分達妖怪の存在すら危うくなってしまうこと。
彼女だけは何があっても死なせてはならないことを紫は淡々と、しかし断固たる口調で語った。
「しかし、それを知らない妖怪だって多数いるんじゃないのか。僕もそうだった」
「恐らくはそうなのでしょう。貴方のような普通の妖怪は知らない者も大勢いる」
そこで霖之助は、紫がこちらを見上げてくるのを感じた。
まるで少女のような、脆さを含んだ生硬い決意がそこにあるように感じられた。
「つまり、貴方も知っているような人妖かもしれない」
人妖、という言葉に霖之助は息を呑んだ。妖怪だけではない。人間が、霊夢と戦っている可能性もある。
人同士が殺し合っている。人間と妖怪、どちらでもありどちらでもない霖之助でさえもそれはおぞましいもののように思えた。
霖之助の怯えを見て取ったかのように紫は畳み掛けた。
「もしも霊夢と、貴方の知り合いが殺しあっていても……本当に、霊夢に加勢出来ますか?」
霊夢に加勢するということ。紫の雰囲気に呑まれて助けに行くなどと大言を吐いてしまったが、
それは霊夢に敵対する誰かを殺さなければならないということ。
存在を根本から奪ってしまう。失くしてしまう。まして知り合いを、我が手で。
一介の古道具屋に出来ることではなかった。『殺傷できる』らしい武器を持つ手に力が入り、その重たさが圧し掛かる。
本当に助けに行けるのか? 霖之助の動揺を見て取った紫が、一歩こちらへと近づいた。
「私は、貴方にそんなことが出来るとは思えない」
紫の片手が拳の形を作っていることに、霖之助は気付けなかった。
鳩尾に鈍い衝撃が走り、か、と口が大きく開く。
肺の中の空気が搾り出される感覚。呼吸も不可能な感覚に叩き落され、ガクリと膝が折れる。
「ゆか、り……何、を」
地面に横たわりながら、霖之助は紫を見上げた。大妖怪で、不意討ちだったとはいえ女の拳一発で行動不能に陥った我が身を呪いながら、
視界に入れた紫はどこか暗い色を宿していた。
「だから、貴方は邪魔なのです。人を殺すのは、私の役目」
「待て……!」
「所詮貴方は古道具屋でしかない。ですから、そこで待っていて下さいませ」
僅かに唇を微笑の形にした紫には、やると決意した空気が滲んでいた。
行かせてはダメだ。咄嗟にその言葉が浮かび上がり、制止の言葉をかけようとしたが、苦痛にそれを阻まれる。
それだけではない。霖之助に恨まれるのを承知で誰かを殺しに行くと宣言した今の紫を、
言葉だけで止められるはずがないと分かっていたからだった。
荒い息を吐き出すことしか出来ずに、霖之助は去ってゆく紫の姿を見つめ続けた。
なぜ。
なぜ、君はそうする。
大妖怪だからか?
大妖怪だから、一人で全部辛いことも苦しいことも抱え込んでしまうのか?
ならばどうして僕達は交わりを持とうとする。ならばどうして言葉を交わし、酒を交わそうとする。
紫。賢い君なら、そんなことはとっくに分かっているはずじゃないのか……?
紫の背中は、何者をも寄せ付けぬ風でありながら、その実一人では立っていることさえも危うそうな弱さもがあるように見えた。
そんな時に、無理矢理にでも立ち上がることすら出来ない自分の不明を、霖之助は呪った。
そう、だからと霖之助は走る速度を上げる。
紫を一人にしてはならない。
大妖怪であるから一人で何もかもを背負わなければならないなどおかし過ぎる。
この事件はそんな生易しいものではない。
本当の意味で協力しなければ、絶対に解決など出来ない。
自分はいつもの自分を保とうとするあまりに、紫が何を考えているのかを思惟するのを忘れていた。
言葉の裏を読むということを忘れ、ありのままを伝えるということを忘れ、言葉遊びだけに興じていた。
いつもの自分であろうとしたことのツケが紫を追い詰めていたのだとしたら。
自惚れかもしれないが、それだけは絶対に自分の手で返さなければならないと霖之助は思った。
つまり、ありのままに今の自分を言い表すと……
霖之助は、紫の力になりたいと、そう思っていたのだった。
* * *
最終更新:2009年12月20日 16:57