行き止まりの絶望(後編) ◆Ok1sMSayUQ
いつまで逃げればいいのだろう。
いつまで、この先の見えない暗闇を走り続ければいいのだろう。
サニーミルクを小脇に抱え、河城にとりは俯きながら闇雲に足を動かしていた。
情けないという言葉ひとつがにとりを支配し、無力という事実を押し付けてくる。
逃げてばかりで、守られてばかりで、なにひとつ出来てやしない。
状況に翻弄され、流されるがままで、報いることも変えることも出来ないままだ。
生き別れになったままの伊吹萃香、
レミリア・スカーレットを引きつけて戦いに身を投じていった射命丸文、
そして十六夜咲夜との戦いで傷つき、疲弊して動けなくなった
レティ・ホワイトロックの姿が次々と思い出される。
彼女らが身を挺して作ってくれた時間で、自分はただ命を長らえているだけだ。
この地獄から脱出するための算段も、目の前の恐怖を終わらせる術すら浮かんではいない。
考えてはいる。いるけれども、どうすればいいのかも分からない。
目の前に広がり続ける無明の闇。明けない夜を、一体どうすれば――
「にとりにとり! 見て、ほら、川!」
内省の時間を終わらせたのは、脇でじたばたと暴れるサニーミルクだった。
顔を上げてみると、確かにそこには大きな水の溜まる、湖があった。
「違うよ、川じゃなくて湖。……霧の湖まで来てたのか」
夜間であるため霧はかかっていなかったものの、遠大に広がる水面は霧の湖に違いなかった。
そうすると、自分達は逆戻りしてきたことになる。
進むどころか、戻っている有様じゃないかとにとりは内心で失笑する。
「ねえねえ、どうしよう……? この先って紅魔館しかないんでしょ?」
「そうだけど……あそこに逃げるわけにもいかないしなあ……」
レミリア達に襲われている現状を鑑みるに、あそこに逃げ込む理由はない。
あそこを拠点にしているという根拠もなかったが、吸血鬼の根城たる紅魔館を拠点にしない理由というのもない。
サニーミルクも感づいているのか、うんうんと必死に頷いている。
ならば別方向に進路を取るしかない。ますます逆戻りしている現実に辟易しかけたとき、ばさばさと翼を羽ばたかせる音が聞こえた。
文が戻ってきた、と抱きかけた期待は一瞬のうちに打ち砕かれた。
「鼠が二匹か……人間は使えないわね」
羽ばたく音は、悪魔の羽を動かす音だった。
夜空に陣取り、傲岸不遜に見下ろしていたのは、レミリア・スカーレット。
文が引きつけてくれているはずの悪魔の姿に、なぜと思うよりも恐ろしい想像が浮かんでいた。
やられたのか。妖怪の山では指折りの強さを誇るはずの天狗が、こうもあっさりと。
「……いい顔ね。そう、お前達はそういう顔でなくてはね」
絶句している自分達の姿を眺めて、レミリアは皮相な笑みを浮かべていた。
恐怖で引き攣った顔になっていると理解して、にとりは必死に悪い想像を振り払って叫ぶ。
「あ、文はどうしたんだ!」
「天狗なら片付けたわ」
さらりと言い放った、その一言こそが真実であることをにとりに伝えていた。
嘘だ、と言う気すら起こらず、かくんと膝を落とす。
絶望の証明と受け取ったレミリアは哄笑を交えながら、するりと地面に降り立ちにとりの目の前まで歩を進める。
上品を装いながらも、自らの優位を恥じない物腰だったが、反感すら持つことができずにいた。
にとりを、サニーミルクを包んでいたのは支配者の空気。服従を強いる傲慢を纏った空気だった。
「ふん、お前らは尻尾を巻いて逃げ出したか。所詮はその程度、話にもならない」
「ち、ちが」
「自分が助かりたかっただけなんだろう? もう一匹を差し出して。
そこの妖精も、あれだけ大口を叩いておいて結局は我が身可愛さか」
「そんなんじゃない! レティは私達をかばって……!」
「結果が全てだ。現にお前達は逃げ出しているじゃないの。逃げろといわれて逃げるのは弱者の理屈だ」
サニーミルクの反論もあっさり打ちのめされ、にとり達は返す言葉がなかった。
そうだ。どんな理由があるにしろ、逃げたという事実には何ら変わりはない。
後ろめたいと思うなら戻ればよかったのだし、あれこれ理屈をつけて自分の行為を正当化しようとするのは自分が狡いことの証明ではないのか。
自分さえ良ければいい――サニーミルクの言葉がそのまま返ってきたように思われ、にとりは心を突かれた気分になった。
サニーミルクもサニーミルクで、自分がやっていることも妖怪と同じだという実感に悔しさを感じていた。
口論でも勝利を収めたレミリアは満足そうに胸を張り、ふんと鼻息を漏らした。
「そうさ、誰だって死にたくはない。死んでしまえば何もできなくなる。それは敗者だ」
自らの論理を認めたと断じて疑わないレミリアが、次の演説に移っていた。
「誰だって負けたくもない。馬鹿にされるのは嫌だ。当然だ。後に待っているのは惨めな余生なのだからね。
――だから、貴様らにももう一度だけ機会を与えてやる。ここは逃げるがいいわ。武器を持たせる猶予くらいはくれてやる」
「に、逃がすって言うの……?」
「別に貴様らなどいつでも殺せる。でも少しくらい希望は与えてやらないと、ね? そうしないと殺し甲斐がない」
困惑するにとりを他所に、レミリアは悠々と言葉を続ける。
今この場で抵抗されるなどとは微塵も感じていない様子だった。
「そんな絶望くらいで死なれては困るのよ。お前らのような弱者には、もっと強い恐怖を抱いて死んでくれないと。
私が聞きたいのは、いやだ、いやだ、死にたくない――そういう絶望なの。あのクソ天狗も黙るくらいのね」
ゾクリとした悪寒をにとりは感じた。
他者を支配するばかりではない。殺戮を楽しみ、意に沿わぬ者には極限までの絶望を味わわせる。
それこそがレミリアのとっての恐怖なのだろうとにとりは本能的に感じていた。
恐怖であるから、それを意のままに操り、実践してみせることこそが『自らが恐怖になる』というのに違いなかった。
恐ろしい、と思った。レミリアの行う恐怖を目の前にして、従わないものがいないはずがない。
だから十六夜咲夜は従っていた。恐怖から逃れるために、彼女もまたレミリアと化す道を選んだ。
絶対の支配者からは逃れられないことを知り、支配される一方で自らもまた支配を行うようになった。
そうしてレミリアの恐怖は広がる。瞬く間に感情から伝播し、幻想郷をも覆いつくす巨大な存在となる。
抵抗したところで、その頂点たるレミリアに敵うはずもない。屈服させられ、哀れな犠牲者となるだけなのだ。
――でも、なら、どうしてレミリアは紅魔館という居を構え、多くの住人と共に暮らしていたのだ?
レミリアの恐怖に触れる一方で、彼女本人のことを考えられる猶予があったにとりは、ふとそのことに疑問を抱いていた。
他者を支配し、何もいらないと言っておきながら仲間とも言える存在を傍に置いておいたのはなぜだ?
門番。魔女。メイド。いずれも彼女にとっては取るに足らない存在であるのに、彼女の論理を信ずるならば不要でしかないはずなのに。
いや、今だって十六夜咲夜を側に置いている。支配者として命令するだけの立場になりながらも、
それでも彼女にはレミリア本人の言う絶望を与えていないように思える。
「先の無礼は非を詫びれば許してあげるわ。這い蹲って、ごめんなさいとでも言えば――」
「あなた、怖いんだ。仲間をこれ以上失うのが」
王の口調で続けていたレミリアを遮って、にとりは静かに声を発していた。
恐怖を拭い去れたわけではなかった。今この瞬間にも殺されてしまうかもしれないと感じながらも、
気付いてしまった一つの事実が、レミリアを『支配者』から『哀しい支配者』という印象に変えてしまっていたからだった。
咎めることもなければ、反論すらせず絶句していたレミリアへ、にとりはさらに言葉を続ける。
「もう誰もいらないなんて言うのも、関わってから失くしてしまうのが怖いんだ。
サニーの言うように、誰かと一緒にいるのだって信じられない。咲夜のような身内以外は。
本当は一人は嫌なはずなのに、恐怖で何も信じられなくなった哀しい奴なんだ」
「……お前」
顔を引き攣らせ、よろと一歩後ろに下がったレミリアは、その瞬間幽霊でも見たような表情になっていた。
しかしそれもほんの僅かな間だけのことで、すぐに怒りの感情へと変貌させ激昂したレミリアは、
手に持っていた剣を乱暴に振りかざした。
「貴様が、私を語るなっ!」
最速の剣戟と言ってもいい、見えないくらいの一撃ではあったが、いささか単調に過ぎる攻撃でしかなかった。
咄嗟にサニーミルクを突き飛ばし、にとりもまた前のめりに転がってレミリアの斬撃を避ける。
すぐさま反転して第二撃を打ち込んできたが、感情に任せただけの攻撃はにとりにも読み切ることができる。
突進しての突きをひらりと回避して、にとりは上空へと飛翔して逃げる。
また、逃げている。弱者の逃走であり、言い訳にもならない逃走。
けれど、今度は迷いはなかった。なにをすればいいのかが、一つだが分かったからだ。
恐怖を少しでも否定できる心を持つことだ。
助からないかもしれない。今はどうにもならないかもしれない。
だがそこで足を止めてしまっては可能性すらなくなってしまう。
レミリアがそうなったように、望むことすら望めず、他のものに自分を委託する生を送るようになってしまう。
自分が自分でなくなる。そんなの、一番哀しいことだってレミリアも分かっているだろうに……!
「ちょこまかと……! 私を愚弄するなら、バラバラに切り刻んで天狗の前に突き出してやる!」
弾幕を撃つことも忘れ、ひたすら突進しては斬撃を繰り返すレミリアから器用に避けながら、
にとりは湖の方角へと移動していた。頭に血が上りきっているらしいレミリアはそのことにも気付いていない。
「頭に来てるんだろ! 図星なんだろ! 本当のことだって分かってるんなら、子供みたいに意地を張るのはやめろよ!」
「違う! 貴様に、私の感じているものが分かってたまるか! 吸血鬼が屈辱を受けることが、どんなことかも分からない貴様には……!」
「分からないよ! 私はあんたじゃない! でもこれだけ言ってやる! お前も妖怪なら怖いのを否定できる勇気くらい持てっ!」
「逃げ出した河童風情が私に説教するな! 忌々しい……貴様も四季映姫の同類だ!」
狂気を孕みつつある視線に震えそうになりながらも、にとりは必死で体を動かしていた。
怒りから思わず発されたのだろう、天狗の前に突き出すという言葉がにとりに一筋の光を見せていた。
文は生きている。レミリアに敗北しながらも、きっと逃げ延びて再起の機会を窺っている。
自分達を見捨ててどこかに行ってしまったという可能性もないではなかった。所詮は口約束。保障なんてどこにもない。
それでも、文は仲間だという自信がにとりの中にあった。身を挺してサニーミルクを守ってくれた文は、
レミリアの論理なんかに縛られずに助けに来てくれる。
ようやく、目が覚めただけのことですよと不敵に笑いながら言った文は、
かつて自分達河童を仲間と認め、手を取ってくれていた頃の頼もしさがあった。
だからその時まで、精一杯に抵抗してみせる。
頃合だと見計らったにとりはレミリアの方角へと向き直り、両腕を真っ直ぐ天へと突き上げる。
同時、レミリアの足元からそれまでのにとりの攻撃とは比較にならない、水の瀑布が押し寄せる。
洪水『ウーズフラッティング』と呼称される、水の直線射撃型弾幕である。
真下は湖。にとりの『水を操る程度の能力』により大幅に威力を増強された『ウーズフラッティング』がレミリアの行く手を遮る。
「吸血鬼は流水が苦手なんだったね! これが抜けられる!?」
元々当てることは狙っていない。水による壁を作り時間稼ぎをすることがにとりの目的だった。
次々と迫る瀑布の壁に、さしものレミリアも怯み、後退を始める。
が、そのまま優位に事を運べるほど目の前の吸血鬼は生易しい相手ではなかった。
「たかが水ごときで私が止められるか!」
剣戟を封じられたレミリアは剣を持っていない方の手に魔力を集中させ、手裏剣のような弾幕を生成し始めた。
『スティグマナイザー』と呼ばれるその弾幕は、射撃を切り裂きつつ相手を追尾する、非常に強度の高い弾幕だった。
レミリアの手から離れた『スティグマナイザー』が弧を描きながら瀑布を突き抜けてにとりに迫る。
レティから譲り受けた氷のトライデントで咄嗟に弾き返そうとしたが、吸血鬼の弾幕に太刀打ちできるものではなかった。
一発目は力を一杯に振り絞って叩き落すことに成功したが、
直後瀑布を突き抜けてきた二発目の『スティグマナイザー』をどうこうできる余裕は既に失われていた。
強力な圧に押し切られ、氷のトライデントがバラバラに砕け散る。
さらにその衝撃でにとりも吹き飛ばされ、水の防壁外へと飛び出してしまっていた。
その様を発見したレミリアが、全身の毛もそそけ立つような凄惨な笑みを浮かべる。
望みどおり、バラバラにしてやる。口にこそ出していなかったが、レミリアの全身から立ち上る殺気がそう伝えていた。
もう一度水の弾幕を張ろうにも、この安定しない姿勢では弾幕の撃ちようがなかった。
「まずは腕から毟り取ってやる――」
剣を突き出したレミリアに、ここまでか? と弱気が囁きかけた、その時だった。
ふわりと風に乗ってにとりの目の前に流れてきたのは、真っ黒な鳥の羽だった。
この色と形を、自分は知っている。
お調子者で、自信家で、けれどもどこか律儀で頼りになる仲間の……
「上……取りましたよ!」
「な……天狗!?」
レミリアが気付き、そちらへと振り向いた時にはもう遅かった。
真っ直ぐに天狗の高下駄で踏みつけるように急降下していたのは、射命丸文だった。
背中に突き刺すようにして、文の足元から強大な風が巻き起こる。
「『天狗のマクロバースト』ッ!」
一点に風を収縮させ、圧縮したエネルギーを爆発させる『天狗のマクロバースト』はにとりの知る限り天狗の中でも最大級の威力を誇る技である。
射程が極短く、加えて高低差を利用して突進しなければならないため、普段ならば吸血鬼クラスの相手に当たるはずもない技だったが、
にとりにのみ意識を向けていたレミリアが、不意を突かれたとはいえ避けられる道理はない。
背中に天狗の全力を受けたレミリアが、きりもみ回転を起こしながら湖へと急落下し、落ちた水面から盛大な水柱を吹き上げた。
文句なしの直撃と言ってよかった。加えて落ちた先は吸血鬼の苦手とする水の中である。
無傷では済まないどころか決定打になったという理解がにとりの中に染み込み、空中で静止している文に「文ーっ!」と弾けた体で飛び込んでいた。
「ぐえっ!? ちょ、ちょっと……こちとらアバラ折れてるんで……」
「え、そうなの? だ、大丈夫?」
「ま、まあ……正直、もう限界です」
珍しい弱音だと思ったが、一度はレミリアに敗北したというのだから当然の怪我なのかもしれなかった。
加えて全力の『天狗のマクロバースト』を撃ったのだから疲弊度は考える以上に高いのだろうとにとりは思った。
そういえば、妙に息切れもしているし腹部を押さえている。これは本格的にまずいかもしれないと考え、肩を貸してやろうかと尋ねる。
プライドの高い天狗ゆえ受けてくれるかどうか心配だったが、案外あっさりと文は頷いてくれた。
「必要なときくらい力は借りますよ……同じお山のよしみもありますしね」
「……仲間、だろ?」
わざと口に出さないのを察して、そう言ってみると文はふんとそっぽを向いた。
やっぱり、仲間だと思ってくれているんだ。嬉しい理解がにとりの中で広がる。
後はサニーミルクを見つけて、出来るならばレティも回収して、どこか休める場所を探そう。
頭の中で方針を組み立て、文の肩に手を回しかけたとき、ヒュッと空を切る鋭い音がしていた。
「え?」
文の足に、鎖が巻き付いていた。
どこか怪しい輝きを放つ、赤錆びた鎖だった。
これは何だと考える暇はにとりには与えられなかった。
鎖にぐいと引っ張られ、文が水面へと急降下してゆく。
鎖の伸びる先、水面の下に、怒りに燃える真紅の瞳があった。
「……おい、嘘、だろ」
文を搦め取り、水中へと引きずり込んでいたのは、先ほど撃ち落としたはずのレミリア・スカーレットだった。
* * *
水底で最初に文が捉えたものは、この世の全てを憎む瞳だった。
自らの論理を否定されかけ、それに対して怒り狂っている子供の瞳だ。
「仲間……そんなもので私が倒せるか! そんなので、そんなもので!」
吸血鬼だからなのだろう、水中において尚、レミリアの放つ声を文は完全に聞き取っていた。
逃れようと必死にもがく文だったが、体力の尽きかけた体ではレミリアの放った魔力の鎖、『チェーンギャング』を壊すこともできない。
加えて水中では息が持たない。このままでは溺死を待つほかなかったが、抵抗する術がなかった。
ごぼごぼと気泡を吐き出すだけの文を見て、レミリアが嘲笑う。
「吸血鬼が水に落ちたくらいで死ぬわけがないだろう。流れのない湖など、私にとっては水溜りに過ぎない」
流水ではなかったことが、圧倒的な力で文をねじ伏せていられる道理だった。
息苦しくなり、顔を歪ませる文を見ながら、レミリアは「そうだ、もっと苦しめ」と手に持った剣を光らせてサディスティックな声を出す。
「あがけ。もがけ。そして絶望に死ね。私の恐怖の前に貴様らの力など無力だということを分からせてやる!
次はあの忌々しい河童だ。妖精の前で惨たらしく虐めて、最後は妖精に殺させてやる。私に逆らうとどうなるかを思い知らせてやる……!」
間違いなく、この吸血鬼ならやってのけるだろうと文は思った。
仲間の存在を否定するために、仲間の力が恐怖よりも劣ると証明するためなら、この吸血鬼はどんな非道なことだって行う。
させてなるものか、と朦朧とする意識で、しかし確かに文はそう思っていた。
自分の我が侭のために、他者の歩みすら阻害しようとする、この吸血鬼を放ってはおけない。
そんな奴の思い通りにさせてしまうことも、たまらなく悔しい。
せめて弾幕の一発でも放ってやりたかったが、精魂尽き果てたこの体では――
体の中に残っていた気泡という気泡が漏れ、苦しさを通り越して倦怠感すら生まれてくる。
指先を動かすことすら億劫になり、目を閉じようとした文の視界に、見慣れた耐水服と帽子を着込んだ、
短いツーテールが特徴の河童が見えた。
……にとり?
水中だからなのか、にとりと思われる妖怪の全貌ははっきりとしない。
しかしそれでも、文はにとりが勇ましい顔で「今度は私が助ける番だ」と喋るのを捉えていた。
馬鹿。逃げなさいよ。せっかくこの私が体を張って助けてやったというのに。
言葉は言葉にならず、水に溶けて消え、届かない。
おぼろげな意識の中、文は思いを伝えられないことをひどく悔しく感じた。
違う。私が本当に言いたいことはそうじゃない。
同じ山の仲間を裏切ろうとしていた私が恥ずかしい。
妖精に指摘されるまで責任の文字を履き違えていた私が恥ずかしい。
この期に及んで慢心し、レミリアに反撃を許してしまったことが恥ずかしい。
あまりにも不甲斐なく、そんな自分をまだ認められないと思っているのが、一番恥ずかしい。
いつしか余裕を傲岸に変えてしまっていた私は、幻想郷には不要なものなのかもしれない。
所詮はレミリアの同類だった妖怪。正しい存在に戻ろうとしたところで、既に遅かったのかもしれない。
でも……それでも、私はにとりが来てくれたのが嬉しかった。
私を仲間と認め、助けてくれるのを嬉しく感じてしまった。
だから、本当に伝えるべき言葉は、「ありがとう」という単語ひとつのはずだったのに……
「……っ、が、あああああっ!」
レミリアが苦しげに悲鳴を上げ、文を縛っていた鎖をするりと手放す。
『チェーンギャング』が離れると同時に、虚脱状態にあるはずの体がするすると動いてゆく。
流されていると理解したのは、ひどく優しげな笑顔を浮かべていたにとりを見てしまったからだった。
水を操る能力で流水を起こし、レミリアにダメージを与えている。
『天狗のマクロバースト』でさえ致命傷とならなかった以上、吸血鬼の弱点を突くというにとりの発想は正しかった。
だが、それでトドメを刺せることはない。それほどまでに吸血鬼とは強大な存在だった。
レミリアの血走った目がにとりを向く。やめろと文が思ったのと同時、
とても水中にいるとは思えないスピードでにとりの懐にレミリアが飛び込んでいた。
「私を馬鹿にして……! 河童風情が! 消えろ!」
横薙ぎに払った剣が、にとりの胴体を一刀両断にしていた。
二つに分かたれた体が、水の中に血の華を咲かせた。
それでも流水は止まらない。体が流され、レミリアの憎悪に満ちた顔も、にとりの優しい笑顔も遠のいてゆく。
薄れゆく意識の中、文は必死に手を伸ばそうとした。
いなくなってしまう。自分の中に生まれた、仲間を思う気持ちすら伝えられずに――
水中であったがゆえに、その時文は自らが流した涙の存在にすら気付くことはなかった。
後悔が意識を押し包み、そこで文の意識は途絶えた。
* * *
片目を失ってしまったのは予想以上の被害だった。
安定しない視界の中、十六夜咲夜は霧の湖まで歩いてきていた。
河城にとりと妖精が逃走した方角はここだったはず。記憶力には自信のあった咲夜は、迷うことなく湖へと辿り着いていた。
夜間であるので、真っ黒になった左半分の視界を除けば見晴らしは良い。
探せばすぐ見つかるはずだと断じて探索に乗り出そうとした瞬間、ざばりと淵から何者かがよじ登ってくるのが見えた。
「……お嬢様?」
「咲夜か」
妙に血走った目をしており、傍目にも尋常の事態ではないと想像をつかせる。
ずぶ濡れになったまま暗色のコートを着込む姿はどこかしら冷え冷えとしたものも纏っているのもそう思わせた一因だった。
「あの忌々しい河童め……何度殺しても飽き足りない」
そう言い捨てると、レミリアはぶんと地面に球状のものを投げ捨てていた。
ごろんごろんと転がり、やがて小さな岩にぶつかって静止したそれは、河童の生首だった。
ただ切り取られただけではなく、顔全体をズタズタにされた様子は見るに耐えず、また何があったのか聞く気も失せさせていた。
それどころか、河童の生首はレミリアの恐怖の顕現とさえ思え、
レティ・ホワイトロックを討ち取ったという報告さえ忘れさせるほどに咲夜を怯えさせた。
自分も見捨てられれば、ああなってしまう。何も残さないまま、無為な時間をさまよい続ける……
「怖いか?」
表情には出さないつもりでいたが、レミリアにはお見通しだったようだ。
は、と震える声で正直に告げると、少しは腹立ちが紛れたらしいレミリアが「それでいい」と歪んだ笑いを寄越していた。
「仲間だの、信頼だの……結局は私に負けている。クズの言い訳など私は聞きたくない」
それきりにとりに対する興味も失ったらしいレミリアは、もうそちらの方角を向くこともなかった。
「咲夜。他のクズどもはどうした」
「は……レティ・ホワイトロックを討ち取りましたが……」
「天狗と妖精は逃がしたか……まあいいわ。あいつらだけは私が絶対に殺す。たっぷりと絶望を味わわせてね」
「では、天狗と妖精を追跡する、ということでしょうか」
「そうね……そういえば咲夜、随分と手こずったようね」
閉じた片目を眺めながら、レミリアが近寄ってくる。
不覚を取ったことを不甲斐ないと吐き捨てられるかと思い、身を震わせた咲夜だったが、
思いの外優しくレミリアの指が頬を撫でていた。
「だが、お前は勝った。たった一人で、屈せずに支配した。そこは評価してやってもいいわ」
「あ……は、はい」
「私に支配される者だけが、勝利を得る。ねえ、咲夜?」
頬を撫でるレミリアに、狂喜の感情と、畏怖の感情が渾然一体となり、咲夜は歪んだ笑みを浮かべていた。
壊れていながらも敬愛する『お嬢様』が、そこにいるような気がしていたからだった。
* * *
「う……」
「あ……目、覚めたんだ……」
湖のほとり。紅魔館にほど近いそこで、私は射命丸文が目を覚ますのを待っていた。
にとりに突き飛ばされ、しばらく呆然としている間に、戦闘は終わっていた。
文がレミリアを湖に突き落としたかと思えば、そこからレミリアが反撃し、
助けようとしたにとりが後を追い、そして死んでいった。
流されてゆく文を追って、私は湖を迂回してレミリアに見つからないように移動していた。
その間、とても恐ろしい音が聞こえていた。
聞くのも辛くなるような罵詈雑言を飛ばし、なにかを壊していたレミリア。
確認するのも怖くて、私は耳を塞ぎながら必死に移動していた。
そして文を見つけた後は湖から引き上げ、レミリアにも見つからない場所まで運んできた。
レティは戻ってこない。にとりも戻ってこない。怖くて、寂しくて、私は泣きながら文が目覚めるのを祈っていたのだった。
「私……無様ですね……」
ぼんやりとした表情で、文はそう言う。その目頭には涙が溜まっていた。
すごく悔しかったのだろう。天狗はプライドが高い。レミリアにいいようにされたのだから、気持ちは分からなくもない。
「……そんな風に思える天狗が羨ましいよ。私なんて、こわくて、何もできなかった……」
「真っ先にケンカを売ったのはあなたでしょうに」
苦笑交じりに、涙を拭ってくれる。こんなに優しかっただろうか?
レミリアと出会う前までの、冷淡にしか思えなかった文の表情は安らかだった。
「私も、それに釣られて……戦って……負けて、何も守れなかった……私でも仲間だって認めてくれた、にとりも……」
「文……?」
プライドの高い、高慢ちきな天狗の姿はそこにはなかった。
ただ友達のことだけを思って、思いに応えられなかった悔しさだけを滲ませる、本当の『射命丸文』を見たような気がしていた。
「罰なんでしょうかね、これは……今まで役目役目で、自分の生活さえ守れればいいなんて考えていた妖怪のツケ……」
「だったら、なんで泣いてるのよ」
「え?」
手を伸ばし、目元を拭って涙を見せてやると、文は信じられないというように絶句していた。
そのまま何も言わない文に、私は感じたことを言っていた。
「あんたがどんな生活してきたのかわかんないけどさ……文は、そこまで冷たい妖怪じゃないって、私思うよ。
そんな風に泣く奴はいい奴なんだって、私でも知ってる」
「……私は」
何かを言いかけて、文はそれきり口を噤んで、泣いた。
あの天狗がここまでぽろぽろ泣く姿なんて、私は見たこともなかった。
自信家で、他人を馬鹿にして、意地悪だとばかり思っていた天狗が、こんな顔をする。
だったら、妖怪っていうのはもっともっと、私達が知らない側面を持っているのかもしれない。
そして文の感情を引き出させたにとりがすごいように思えて……だからこそ、とても寂しくなった。
にとりの存在を、こうも簡単に奪ってしまう幻想郷がとっても悲しかったからで……
私も、いっぱい泣いていた。
【C-2 湖のほとり 一日目 夜中】
【射命丸文】
[状態]瀕死(骨折複数、内臓損傷) 、疲労大
[装備]胸ポケットに小銭をいくつか、はたてのカメラ、折れた短刀、サニーミルク(S15缶のサクマ式ドロップス所有)
[道具]支給品一式、小銭たくさん、さまざまな本
[思考・状況]基本方針:自分勝手なだけの妖怪にはならない
1.仲間を守れなかった……
2.私死なないかな?
3.皆が楽しくいられる幻想郷に帰る
【C-3 湖近辺 一日目 夜中】
【十六夜咲夜】
[状態]腹部に刺創、左目失明
[装備]NRS ナイフ型消音拳銃(0/1)個人用暗視装置JGVS-V8
[道具]支給品一式*5、出店で蒐集した物、フラッシュバン(残り1個)、死神の鎌
NRSナイフ型消音拳銃予備弾薬16 食事用ナイフ(*4)・フォーク(*5)
ペンチ 白い携帯電話 5.56mm NATO弾(100発)
[思考・状況]お嬢様に従っていればいい
[行動方針]
1.このケイタイはどうやって使うの?
※出店で蒐集した物の中に、刃物や特殊な効果がある道具などはない。
※食事用ナイフ・フォークは愛用銀ナイフの様な切断用には使えません、思い切り投げれば刺さる可能性は有
※レティの支給品は死体とともに放置されています。
【レミリア・スカーレット】
[状態]背中に鈍痛、軽い疲労
[装備]霧雨の剣、戦闘雨具
[道具]支給品一式、キスメの遺体 (損傷あり)
[思考・状況]基本方針:威厳を回復するために支配者となる。もう誰とも組むつもりはない。最終的に城を落とす
1.文とサニーを存分に嬲り殺す
2.キスメの桶を探す
3.映姫・リリカの両名を最終的に、踏み躙って殺害する
4.咲夜は、道具だ
※名簿を確認していません
※霧雨の剣による天下統一は封印されています。
【レティ・ホワイトロック 死亡】
【河城にとり 死亡】
【残り18人】
最終更新:2011年09月14日 21:42