消えた歴史 ◆Ok1sMSayUQ
獣道、とはそこをたまたま通った動物に踏み均され、長年の時を経て視認できるほどの道になったものを言うらしい。
博麗神社への途上もその例に漏れず、木々の間に細い路地がうねり、蛇の体のように続いている。
月面探査車が来ることができたのは神社に連なる林道の一歩手前までで、最後は結局歩く羽目になった。
車のキーを懐にしまい、殆ど先の見えない暗闇を懐中電灯で照らしながら八雲紫が先導する。
東風谷早苗もそれに習い、全員に支給されたものである、紫と同じ懐中電灯のスイッチを入れて後に続いた。
ここに来るのは三度目ではあるが、こうも先の見えない暗闇であると博麗神社に参拝客が少ない理由の一端が分かるような気がする。
守矢の神社も同じく山に本殿を構えてはいても、参拝客に配慮して道には明かりをつけているし、整備もしている。
博麗神社にはそういった配慮のようなものが見られない。ただぽつんと置いてあるだけでそれ以外の一切を行っていないのだ。
一応、博麗霊夢自身は生活のために必要な金銭は妖怪退治で得ているとは聞いている。
蓄えはないことはないだろうし、その気になれば道の整備だって行えるだろうが、どうもその気配は見られなかった。
霊夢が参拝客への興味を失っているのかもしれなかったが、実際はどうであるかは分からない。なにぶん、早苗自身は幻想郷に来てから日が浅すぎた。
だが他人に聞くことはできる。ふと気になっただけの疑問だったが、車を降りて以降の沈黙を紛らわせるにはいいと結論して、早苗は目の前にいる、
金糸の長髪を揺らして歩く背中へと向かって問いかけた。
「紫さん。博麗神社って、いつからあったんでしょう?」
「いきなりね。また無駄話?」
「はい、無駄話です」
妖怪は本質的にそうであるのか、それとも紫のひねくれた根性ゆえなのか、こちらから話を振るとどうにも小馬鹿にしたような返事が来る。
とはいってもきちんと返事をしてくれるあたり、紫はまだ誠実な部類ではあるのかもしれない。
ふーむ、と僅かに顎を傾けて紫は「確か……幻想郷縁起が編纂され始めたときにはもうあったかしら」と思い出すように答える。
「げんそうきょうえんぎ?」
「歴史書みたいなものよ。もっとも……編纂者は既にいないけど」
「それ、何年くらい前なんです?」
「稗田阿一からだから……ざっと千二百年くらいは前になるかしら」
「はぁ~……そんな昔から……」
歴史の重さだけで言えば、早苗の仕えていた二柱も同等かそれ以上ではあるが、博麗神社も由緒あるものには違いない。
しかしそれだけ昔からあるものなら、何かしら有名な神様が奉られていそうなものだったが、博麗の神が何であるのかは聞いたことがない。
いやそもそも千二百年の昔から存続していたことの方が驚きと言うべきで、一体何をどうすれば歴史に埋もれずにここまで続いてきたのか不思議でならない。
幻想郷の外につい最近までいた早苗にとっては、流行り廃りはとても早いものであり、ふとした拍子に消えてしまうものという印象が強かった。
「……なんか、よく分からないですね。それだけ強固な信仰があるのに、参拝客はいないなんて」
「博麗神社はなくてはならないものだからね。幻想を生きるものにとって、結界の恩恵がなければそれは死を意味するも同然だったから」
「妖怪の信仰を得ていたってことですか?」
「信仰……というより、利用していたってところかしらね。幻想郷では貴女達が来るまでは唯一の神社だったし、神事を利用するにはうってつけだった」
「……それ、変じゃありません?」
気がつけば、博麗神社の麓までたどり着いていた。既に石段を登り始めていた紫へと向けて、早苗は疑問を投げる。
聞けば聞くほど、博麗神社は本来の意味を為す存在には思えなかった。
神を奉り、畏れ敬っていたのでもなければ、博麗の神が幻想郷に安寧をもたらしてきたわけでもない。
妖怪と博麗の人間が勝手に取り決め、お互いに力を利用して今の幻想郷を作り上げたようにしか思えなかった。
違和感が早苗の中で急速に膨れ上がってゆく。博麗神社の歴史が、信仰の歴史ではなく、人為的に作られた歴史だとしたら。
「だって、神社を利用していたって……普通、そこの神様にお願いするものなんじゃないですか?」
「とは言ってもね。妖怪は基本的に自分よりも力が上でないと納得しないから、徳だけじゃ信仰を得るに足りなかったのよ。ただ、そこの巫女の力は強かったから……」
「それがおかしいんです! 妖怪は神を信仰しない。神も力を持たない。でも巫女の力は必要って、神社の体裁を整える理由がないですよ!」
紫の弁を遮って早苗は言っていた。神に近しい位置にいた早苗にとって、奉る神ではなく、神社でもなく、そこに仕える巫女を重要視しているかのような紫の言動が、
矛盾を含んでいるようにしか思えなかったのだ。巫女は所詮神の代弁者、もしくは依代でしかなく、それ自体が強い力があるわけではない。
仮に巫女の力が神よりも強いのだとしたら、その時点で神社という存在は意味を為さない。
なぜなら、より力の強い方が取って代わり、神の座席に居座るからだ。守矢がそうであったように。
「結界だとかなんだとか、そういう専門知識だって知ってしまえばなんでもない話ですし、第一妖怪の都合のいいように動かしたいなら手元に置いておくはずです。
要は……ええと……博麗神社があることに意味がないのに、どうして今もそこにあるんだろうって話なんです」
「それは……」
紫が言葉に詰まる。いや、答えられないというよりは、彼女自身新たに生まれた可能性について頭を巡らせているようだった。
気がつけばそこは博麗神社の麓の石段であり、ここを登れば境内だ。目的地まであと少し。
だが、そこで紫と早苗は足を止めていた。これから向かう先の不可解について、いま少し手繰り寄せる必要があったのだ。
「紫さん。私達は、あることが当たり前になりすぎていて、どうしてあるのか、を考えてこなかったんじゃないでしょうか」
「……認めましょう。確かにおかしい。どうして私達は、歴代の博麗の巫女を博麗にいさせたのか」
「……もしかして、理由、忘れてたり?」
「というより」
紫がそこで初めて早苗の方に向き直った。
暗闇の中に照らし出された紫の表情は、若干強張っているようにも思えた。
「覚えてないのよ。何があったか、は覚えていても、どうしてそういう考えに至ったか、は覚えてない」
「それって……」
「結果だけ覚えている。過程は覚えてない。そう、分かりやすく言うなら……歴史の丸暗記ね」
それが意味する事態。ゾッとするようなひとつの悪寒を覚えた早苗に対して、紫は自身信じられないというように両腕で体を抱え、首肯していた。
幻想郷には、矛盾がある。その矛盾を覆い隠すために、何者かが仕掛けていた事柄。それは。
「私達は、記憶を改竄されている。もしくは……忘れさせられている」
予想はできた言葉だったとはいえ、紫の一言が胸に突き立ち、じわりと浸透してゆくのが感じられた。
今ある記憶が偽物であるかもしれないという可能性。こうやって考えている自分が、紛い物の記憶によって形作られているかもしれない可能性。
我知らず胸に手を当てていた早苗は、搾り出すように反論を口にする。
「可能性のひとつ……ですよね?」
「ええ、可能性の一つには違いないわ。でも、あり得ないとは言い切れない」
妖怪の大賢者という肩書きを持っているだけに、否定しない紫の言葉が尚更胸に突き立った。
そう、記憶の改竄と考えればいくらか辻褄が合うことがある。
殺し合いの始め、知らぬうちに全員が一箇所に集められていたことがそうだ。
集められる直前までのことを早苗自身覚えていない。
そもそも記憶の改変などを行えるのかという疑問は、こんな状況になっていること自体が答えとなる。
「だから、私達は私達の歴史を知る必要がある」
早苗の内に生じた暗雲を振り払うように、紫は鋭い口調で言い切り、石段の途中で足を止め、顔を上げて境内の方へと向けた。
恐らくは紫にとって……いや、幻想郷にとっての始まりであろう場所。妖怪も神も飲み込み、桃源郷の原初となった神社。
そこにこそ秘密が隠されていると確信しているかのように、紫の声は凛として響いていた。
大妖怪であり、賢者。肩書きを思い出し、そうなのだろうと雰囲気を以って実感した早苗はするすると不安が抜け落ちてゆくのを感じていた。
それまで不明瞭だった道が示され、目の前を覆っていた霧が晴れてゆく感覚だった。
のらりくらりと自分をからかっていたかと思えば、鋭い洞察力で物事を言い当てる。
可能性の一つと釘を刺したものの、ようやく見えた可能性には違いなかった。
「まあ、言い方は大袈裟だけれどね。覚えていないことを思い出せれば敵の意表をつけるかもしれないってことよ」
「というと?」
「覚えていないということは、覚えていられると不都合ってことよ」
「……つまり、幻想郷の歴史の中にこそ永琳って人の弱点があるってことですか」
「あいつが首謀者だと決まったわけでもないけど。というより、あいつはほぼ間違いなく白――」
そこまで言ったとき、「おーい! そこの胡散臭いの、紫だろー!?」という調子っぱずれに元気のいいハスキーボイスが木霊していた。
む、と不機嫌そうに唇を釣り上げる紫。邪魔されたのが気に入らなかったのか、それとも胡散臭いと言われたのが気に入らなかったのか。
多分、どちらもだろうと思った早苗は苦笑しつつ、声の主の方角へと振り向いた。
「珍しいのと一緒だな? 早苗もいるのかー!? っていうかなんで私の服着てんだよ!?」
ぶんぶんと手を振りつつ現れたのは、早苗もよく知る人間、霧雨魔理沙だった。
* * *
「博麗神社に行ってみてもいいか?」
霧雨魔理沙の発した一言に、因幡てゐは内心肝が冷える思いを味わった。
人間の里に仲間を探しに、と目的を伝えた直後の寄り道提案。
これだから人間というやつは、とてゐは軽く苛立ちを覚え、そしてそれ以上に因縁の場所であることに怯えを感じていた。
まだ誰かを騙しきれると根拠もなく思っていた始まりの地。今となっては遠い昔にすら思える、
パチュリー・ノーレッジを殺害してしまった場所だ。
その博麗神社に魔理沙は行ってみたいのだという。行きたくないという抗弁を拳を握り締めることで抑え、
てゐは「なんであんなとこに」と出来うる限り冷静な声で喋りかけた。
「そもそもまだ言ってなかった話になるんだが……霊夢が殺し合いを進める側に回ってる、って話はしたな」
「……まあ。あの能天気巫女がやってるなんて信じられないけど」
「ウソ言ったってしょーがないでしょ。実際、私と魔理沙は何度か戦ってる。友達だって……殺された」
「わ、わかってるよ。実感がないだけだって!」
フランドール・スカーレットが重い口を開き、怒りに震えるように七色の羽を上下させる。
気分を害せばロクなことにならないと直感したてゐは慌ててフォローに回るが、
フランドールは溜息をひとつついただけでそれ以上何も言うことはなかった。
「続けるぞ。てゐの言う事にも一理はあるんだ。なんで霊夢がこんなことをしてるのか。私には分からん」
「分かる必要なんてないでしょ。あいつは……」
「フラン」
魔理沙が強く名前を呼ぶと、フランドールは納得がいかない様子ながらも渋々黙り込んだ。
どうやら想像以上に霊夢との確執は強いものになっているらしい。とんだ貧乏くじを引いたかもしれないと感じたが、
このハズレだらけのくじを引かないという選択肢はなかったのも事実で、だったら深く突っ込まない方がいい、というのがてゐの結論だった。
もう何もない。何も残されていない自分には、こうしてのそのそと隅にでもいるしかないのだ。
「ともかくだ。あいつは理由もなしにこんな決断をしたとは思えない。だから私は知りたいんだ。霊夢が殺し合いをするって決めた理由を」
「その理由っつーのが神社にあるって言いたいわけね」
「かもしれないってだけさ。いつもの勘だよ」
「……知ってどうするのよ。知ったところで、どうせまた霊夢とは戦うんでしょ? 説得だって無理そうじゃない」
フランドールも頷く。まさか同意を得られるとは思わなかったが、ともかくこれで反対の大義名分は立った。
もっとも、反対の理由は自分とは違うだろうとてゐは思っていた。
魔理沙の言うことをよく聞いているあたり、信じられない話ではあるがこの吸血鬼は魔理沙に懐いている。
実力など天と地の差があるはずなのに、特に縛り付けているわけでもないのに、フランドールは『まるで友達のように』接している。
内情はおおまかにしか分からないものの、恐らくは霊夢と魔理沙を接触させたくないのだろう。
自分は違う。自らの罪状を暴き出されるのが怖く、保身を求めているだけだ。
魔理沙のように問題を解決したいと思っているのでもなければ、フランドールのように友人を心配しているわけでもない。
あれだけ痛い目に遭わされておきながら、事ここに至って自らの安寧しか考えていない自己中心ぶりには失笑を通り越して呆れるしかない。
でも、とてゐは自分以外の何に報いればいいのだと誰にでもなく問いかけた。
仲間もなく、家族もなく。全てを失くしてしまった我が身に、他者のために行動できる気力など残っているはずがなかった。
別に見返りを求めているわけではない。見返りを求めずとも行動できる誰かがいなくなってしまったのだ。
自分から裏切り、あるいは裏切られ。気付いたときには何もかもが灰燼に帰していた。
やり直す気概も持てなかった。やり直すには、あまりに遅過ぎた。
「……霊夢のためじゃないかもしれない。正直に言うと、私は私のことしか考えていないのかもしれない」
誰のためにも動けず、諦めきっているてゐに呼応するように、魔理沙はそう言っていた。
お人よし馬鹿の魔法使い。そう思い込んでいただけに、魔理沙の言葉は意外に感じられた。
怪訝に首を傾けたてゐに「霊夢なんて、もう説得もできないって分かってる。いやもう、したくもないってすら考え始めてる」と魔理沙は重ねた。
「よく分からないんだよ、自分でも。あいつは、香霖を殺して……でも、友達だった奴で……いい奴だったんだよ。つい昨日まで。
昨日まで、私ら縁側で一緒にお茶飲んでたんだぜ? でも急に皆を殺し始めて、それが当然だって言い張って……
何があったって訊いても異変だからの一点張りで……もうあいつ、化け物になっちまったんじゃないかって……」
戸惑いと、憎しみと、信じたいという気持ちの混ざり合った声はどこか淡々としていて、しかし空気を震わせる力があった。
つい昨日まで、普通の友達だった。この一日が長過ぎて、忘れそうになっていた事実。
魔理沙だけではない。フランドールも、自分も……つい昨日までは、平和を謳歌し、日常を笑って過ごしていたはずだった。
「でも化け物だって認めてしまったら、もう私は霊夢を、何も感じずに殺しちまう。友達を殺すのって哀しいはずなのに、哀しいとも思わなくなって……
そう思いたくないから、せめて理由が知りたかったんだ。なんで香霖が殺されなきゃいけなかったのか。本当に異変のためだけに犠牲になったのかをな」
「魔理沙、それって」
「……霊夢は、許すにはもう殺しすぎたよ」
フランドールが息を飲む。てゐも、一瞬だけ見せられた冷たさに全身が総毛立っていた。
お人よしなどではない。どこにでもいる、喜怒哀楽を併せ持ち、感情を手放しきれない、本当にありふれた人間だ。
恨みもするし、理由なく誰かを助けたりする。そういう存在なのだと理解していた。
「でも、悔しいからって、哀しいからって……感じることをやめて、誰かに押し付けるってわけにはいかないんだ」
だが、普通でありながら魔理沙はやはり強かった。
これから先、必ず訪れるであろう苦しみから目を背けず、受け止められるように精一杯足を踏ん張っている。
それはてゐの脳裏に、あのときの藤原妹紅の姿を思い出させた。
敢然と、勇敢に、『感じることをやめてしまった』であろう蓬莱山輝夜に立ち向かい、人間として生きようとしていたあの姿を……
人間のくせに。ただの嫉妬心だとは分かりきっていたが、それでもてゐは魔理沙を羨まずにはいられなかった。
吸血鬼を味方につけて、逃げ出したりもしないで。この心根が少しでもあれば、鈴仙を説得できたかもしれなかったのに。
鈴仙・優曇華院・イナバのことを忘れられず、まだ未練を残している自分に辟易して、
情けない我が身を再三確認したてゐは博麗神社に向かうのはもう決定事項だろうと諦めていた。
これほどの覚悟を持った魔理沙に、口先だけの言葉が通じるわけがないし、論破されるに決まっている。
だから言い出される前に、自分から譲歩してみせることがてゐの最後の尊厳の保ち方だった。
「わかったよ。付き合うよ、神社まで」
「私も……その、さっきは生意気言って悪かったわ」
「ばーか。まだ自暴自棄だと思ってたのかよ、お前」
言うや、魔理沙はフランドールの頭を乱暴に撫でる。手のひらを押し付けるようにぐりぐりとされ、前傾姿勢になったフランドールが「ちょ、ちょっと!」と慌てる。
しかし悪い気分ではないらしく、腕を跳ね除けることはせずぱたぱたと羽を動かすだけだった。
こうしてみると友達と言うより姉と妹のような関係に見えてきて、恐ろしい吸血鬼という印象が薄れてくる。
「私の命は私だけのもんじゃないからな」
「わ、わかったから! その、もうちょっと……」
「……くく、なっさけないの」
人間にいいようにしてやられている吸血鬼がおかしく、てゐはいつの間にか口に出してしまっていた。
当然、言葉を聞きつけたフランドールの目がてゐに向いていた。恥ずかしい現場を見られたからなのか、陶器のように白い肌に赤みが差していた。
「笑った!」
「あ、いや、その」
「笑ったなぁ!」
「ま、魔理沙! 先行ってるから……」
やばいと思い、逃げ出そうとしたときには手遅れだった。
妖怪兎ごときの身体能力では為す術がなく、がー、と飛びついてきたフランドールに組み伏せられて頬をつねられていた。
手加減はしてあるのかさほど痛くはなかったものの、これをどうにかできる術もなかった。
魔理沙はその様子を見ながらケタケタと笑っている。助けてくれる気はないらしかった。
「仲いいなお前ら。じゃ、こっちはお先に」
「ちょ、ちょっと待って魔理沙」
「別に! あれは! ちょっと慣れてなかっただけなのよ! 分かってる!?」
「わ、わかったから! 引っ張るのやめれー!」
笑いっぱなしの魔理沙が手を振りながら先に行く。
餅のように伸びきりつつある頬を他人事のように見つめながら、てゐはさほどフランドールに恐ろしさを感じなくなりつつある現状を不思議に思っていた。
つい先ほどまでは、あんなに恐れていたのに。彼女の子供のような行動を垣間見たからなのかもしれなかったが、それを含めても安心している自分の心が信じられなかった。
無論こんなもの、一時の気まぐれにつき合わされているだけなのかもしれない。こんな遊びなど、一瞬のうちに壊れてしまうことを嫌になるほど経験もしてきた。
なのに、それなのに。どうして安らぎを求める。どうして日常を求めようとする。
もう戻ってくるものも、取り戻せるのもないと分かっているのに――
「いだだだだだ! ギブ! ギブギブギブ!」
「ふん、分かればいいのよ分かれば。……魔理沙、追いましょ」
てゐがタップして降参したところで、フランドールはようやく満足したのか高慢ちきにそう言うとすたすたと先を歩いていってしまう。
こういう部分は
レミリア・スカーレットの妹かと鈍い感想を結んで自分も立ち上がろうとしたところで、不意に戻ってきたフランドールが手を差し出してくる。
立て、ということらしかった。
何も言わず、てゐはその手を取る。フランドールも何も言わなかった。
それで、十分だった。
じゃれている間に魔理沙とは距離を離されてしまったらしく、フランドールと並んで小走りに森を進む。
先ほどの出来事があったからなのか、フランドールに話しかけてみるかという気になり、てゐは思ったよりも気軽に「ねぇ」と声を発していた。
「なんで霧雨魔理沙と一緒に? 最初からいたわけじゃないんでしょ?」
「うん。でも、出会ったのも偶然で、ついていこうってことになったのも偶然だった」
やはり最初は気まぐれだったらしい。吸血鬼がそのようなものであると知っていたてゐには当然の納得だったが、分からないのはそこからだった。
「なんで今も一緒に?」
力が強く、プライドが高い故に、吸血鬼は同格に扱われることを嫌う。
それはつまり、上下の関係は認めても横の関係は認められないということだ。
魔理沙はずけずけとした物言いで踏み込んでくるから吸血鬼とは反りが合いにくいものだと思っていた。
だからこそ不思議だったのだ。フランドールがこんなに懐いているというその事実が。
「友達だから……ってのもあるけど、今はそれだけじゃない。色々なことを知ることができるから」
「知る? そりゃまあ、あんたは引きこもりだったからそうなんだろうけど」
「そうじゃなくって……なんというか、魔理沙といると、分かり合えるんじゃないかって気になるの。感覚を共有できるというか」
自身形にならない言葉にもやもやしているのか、フランドールは手のひらを開いたり閉じたりしながら紡ぐ。
てゐには尚更理解の出来ない言葉ではあった。分かり合える。いい言葉ではあるが、そんなことがあるはずがないとてゐは知っている。
差別し、いがみ合い、騙しあい、呪い合い、誰かが誰かを見下しながら続いてきた歴史は千数百年にも及ぶ。
誰も解決しようとはしなかったし、そうしようとした者は長過ぎる時間の中で潰されるか、さもなくば支配者の立場になるだけだった。
それだけ現在を変えることは難しい。妖怪の間に根付いた『自分は他者よりも優れている。だから自分は偉くあるべきだ』という認識と、
高位の存在になることで得られる優越感と実利の存在は大きい。人間ごときに変えられるわけがないのだ。
フランドールは分かっていないだけだ。この幻想郷を取り包む現実を。
「これだ! って言葉にならないのよね……でもさ、分かるんだ。自分が何をしちゃいけないとか、こういうときどんな感情が生まれるのか、みたいな」
「そりゃ、あんたが……物を知らなさ過ぎるだけだよ」
「かもしれない。でも……それでも、私には分かった。誰かが死ぬって、怖いことなんだって」
自分ではなく、誰かが。確かにフランドールはそう言った。
「……仲間が殺されたからでしょ? 八雲藍っての」
「それもあるけど……違う。はっきり感じたのは『香霖』ってやつが殺されたとき。魔理沙の家族みたいなやつなんだけど、
出会ったこともないし私には何の関係もないのに、そいつが殺された瞬間、怖い、って思ったの。
誰かが死んだら、そいつを大切に思ってた誰かの、ハートから何かが抜け落ちる。いなくなる。それが怖い、って思った」
喪失感のことを言っているのかとてゐは考えたが、そんな単純な言葉でくくれるようなものではないように感じていた。
フランドールは恐れている。恐らくは、虚無や、暗黒に近いなにか。復讐心や悲しみといった感情でさえ塗りつぶせなくなるなにかを。
感情にさえ置き換えられないもの――それは、てゐに死に掛けたときのことを思い出させた。
一人寂しく死ぬという実感を覚えたときの、あらゆるものに置き去りにされた感覚。あの時は全てが消失してしまった、そんな気分だった。
「だから私、そんなことしたくないんだ。誰かに怖さを押し付けるってことを。むかつくことも、ヤなこともある。
感じるのは別にいい。感じないのは生きていない証拠だから。でも、だからってそれを押し付けていい道理はない」
「魔理沙の言葉じゃない」
言って、てゐは笑った。――感じることをやめて、誰かに押し付けるってわけにはいかないんだ。
結局はフランドールも魔理沙と同じ結論に辿りついていた。種族も違えば、そもそもの考え方だって違うはずなのに。
何もかもが違うはずなのに、そうした垣根を乗り越えて同じ結論に達した。それぞれに考え、道は違いながらも。
フランドールの言う『分かり合える』とはそういうことなのかもしれない。
だったら、とてゐは新たに生じた身の内の疑問に耳を傾ける。
自分も、誰かと分かり合えるのか? 感じることさえやめなければ、誰かに押し付けようと考えなければ。
難しい話で、千年の歳月を経て身も心も汚れきった自分には困難な話なのかもしれない。
いや、不可能なくらいだろうとてゐは思った。分かり合おうとするには、自分は誰かを裏切り過ぎた。
不実を不実とも感じず生きてきたこの身体には、信じることですら重たすぎる。
「そうだけどさ――あ、魔理沙いた!」
木々に囲まれた道の先。博麗神社に連なる石段の麓で、魔理沙は何事かを騒いでいた。
誰かがいるのか? そう思ったてゐの脳裏に、嫌な予感が走る。
唾をごくりと飲み下し、足を止めた自分に気付かず、フランドールは「魔理沙ー!」と近づいてゆく。
「ねぇねぇ、誰かいるの?」
「お? 遅いぜ吸血鬼。夜が昼なんだろ?」
「私は低血圧なの……ん、あれは……」
「あっちの胡散臭いのは分かるな? で、あっちが最近こっちにやってきた新入りの――早苗だ」
魔理沙がここからは見えない石段の上を指差し、確かに『早苗』と言った。
早苗。東風谷早苗? 名前から即座に姿を、そして罪をなすりつけようとした事実を、
一度ならず二度裏切ろうとした事実を思い出したてゐの心臓が跳ね上がり、強烈なめまいにも似た感覚を起こさせていた。
息苦しくなり、これまで目を背け続けていた『罪の清算』という言葉が、裁かれるであろう未来がむらと沸き立ち、擦り寄ってくるのを感じる。
今度こそ、早苗は自分を許しはしないはずだ。
先ほどの魔理沙の言葉を確認する限り、早苗の他にはあのときの面子はもういないのだろうと確信できる。
しかもそのうちの一人は死亡をも確認している。上白沢慧音。殺し合いを否定し、なんとか皆を取りまとめようとしていた半人半獣。
何があったのか、逃げ出したてゐには知る由もなかったが、恐らくは……瓦解したのだ。あのときの集団は。
その結果慧音は死に、他の面子もバラバラとなった。――その誰もが、お互いにお互いを憎みながら。
裏切られた連中が次に為すことは何か。てゐには分かりきっていることだった。
復讐される。この一語が脳に突き立ち、殺されるという恐怖が再び身体を支配するのを感じていた。
今はなにもしていない。何もしたくないなどという言い訳が通じるはずもない。仕返しをするのに、相手の理由や事情など知ったことではない。
殺されるならまだいい。あっさりと、楽に死なせてくれるならまだマシだ。
だがこの地獄に等しい一日を生き延び、憎悪を頼りにして生きているであろう早苗は、まず控えめに言っても血に飢えた獣に違いない。
一撃で、などという生易しい話ではない。恐らくはじっくりと、恨みを晴らせるくらいには時間をかけて嬲り殺す。
助けてくれる味方なんていない。魔理沙もフランドールも、所詮は数刻前に出会ったばかりだ。
加えて、自分は事実という事実をひた隠しにしてきた。悪者だと知れれば味方をしてくれる道理などどこをつついても出てきやしない。
いやだ。てゐは同情の余地もない視線に見下されながら殺される光景を想像して絶望の悲鳴を上げた。
誰も助けてくれない。不憫にさえ思ってくれず、殺されて当然という顔しかしてくれない。
自業自得。今まで支払いを避け続けてきたツケがここで来ただけのこと。そうだと自分でも分かりきっている。
でも、それでも嫌なのだ。たった一人で、寂しく死ぬというのは。耐えられないことだった。
「――てゐ?」
気配が近くにないことを感じて、フランドールの赤い目がこちらに向けられる。
赤い目。血の色をした目。自分の未来を暗示する目……!
先ほど交わした会話も、不思議な安心感も、全て消し飛んでしまっていた。
怖さを押し付けるなんてしたくない。そう語ってくれたのは、自分が悪を為してきた妖怪だと知らないから。
嘘をつき、隠し、欺こうとしてきた自分を許してくれるはずなんかが、ない。
殺される。
制裁を、制裁を。
そんな声が、数百年以上の昔から、自分達弱者を虐げてきた声が聞こえる。
仕方がない。生き延びるためには仕方がなかった。虐げられないためには、先にこちらが欺くしかなかった。
制裁を、制裁を。
だが、それは所詮弱者の理屈。弱いから裏切っても許されるという法はない。
いや、法があったとしても許しはしないだろう。あらゆる手段を用いて、復讐は為される。
痛みは恨みとなり、恨みはさらに大きな痛みになる。そうしていつか、こちらに返ってくる。
制裁を――!
「嫌だっ! わ、私は……!」
何を言葉にしたかったのかも分からず、てゐは悲鳴にならない悲鳴を張り上げ、今来た方角を逆走し、逃げ出していた。
自分が弱いことなど百も承知だ。その上で裏切り続けてきたことも。
でも、死にたくなかった。たった一人で、みじめに殺されるのはいやだ。
逃げることで、さらに一人になってしまうことを分かっていながら、それでも殺されるという未来が怖く、てゐはまた無明の闇へと戻ることを選んだ。
* * *
フランドールは、突如として脱兎の如く駆け出したてゐの行動を呆然とした面持ちで見つめていた。
嫌だと絶叫し、化け物でも見るかのような表情を一方的に見せつけて森の奥へと消えてゆく。
何に触れた? さっきまでは普通に会話を交わし、笑ってさえいたてゐが、どうして、いきなり。
戸惑う魔理沙と、何が起こっているのか分からないという様子の紫と早苗を尻目に、フランドールは「待って!」と駆け出していた。
体調は本調子に戻っている。目は若干見えは悪いものの、行動に支障を来たすレベルではない。
「何があったんですか!?」
その背後から、早苗が息せき切って駆け下りてくる。ちらと視線を移してみると早苗の顔色はお世辞にも良さそうとはいえない。
体調が良くないのか? 咄嗟にそう思い、続けてフランドールが思ったのはそんな状況であるのに必死になっていることだった。
てゐと何か関係があるのではないか。直感し、フランドールは一度足を止め「てゐが逃げ出したの!」と叫んでいた。
「てゐ……? 因幡てゐさんですか!?」
「知ってるのかよ!?」
大声で魔理沙が問い質すと「知ってるも何も」と早苗も大声で返す。
「私と一緒にいたことがあるんです! でも、その時ちょっとしたすれ違いから揉めてしまって……」
「耳が切れてるのはそれが原因かよ!?」
「耳……? いや、それは……」
「なんでもいい! とにかく、てゐはあんたといざこざがあって、それで別れたんでしょ!」
乱暴な物言いにも関わらず、早苗は怒ることもなく「ええ」と頷いた。
てゐの過剰に怯えた態度。早苗のことをよく知らないフランドールからしてみれば、
早苗が全面的に悪いのではないかと思う気持ちもあったのだが、そう思い込んでしまうのは危険だとこの一日で培った経験が言っていた。
「因幡てゐ……?」
早苗の後に続いてやってきた紫が訝しげに語る。
フランドールにとってはあのときの……八雲藍と森近霖之助が死んで以来の再会となる。
正直今でも好印象を持っているとは言いがたかったが、悪い妖怪ではないという認識くらいは自分の中にもあった。
そう、藍が身を挺して守った主が悪いとは思いたくないし、魔理沙だってそう言っていた。
胸のわだかまりは抜けないし、気に食わなくもあるが……悪を為そうとして為すような妖怪ではない。
だから紫と一緒にいたのであろう、この早苗という奴も敵ではないはずだ。
この考えは正しいのか、と一度問い返してみて大丈夫だと結論付ける。
自分は、しっかりと感じている。感情に振り回されず、分かろうとしている。
誰かのせいにするな。感じることをやめるな。そして、誰が何をするのかを分かって、哀しくならないために行動しろ。
いなくなってしまうのは、とても怖いことだから――
「私、てゐさんともう一度きちんと話し合いたいんです。紫さん、行かせてください」
「……あの子、何度も嘘をついてきたのでしょう? 今回逃げ出したのも、自分の命が惜しいだけなのかもしれない」
「おい紫、嘘ってなんだ?」
「かいつまんで言うと、因幡てゐは一度早苗に罪を擦り付けようとしたのよ。パチュリー・ノーレッジ殺しの罪を」
「パチュリー……!?」
魔理沙が、そこで一度自分の方を見ていた。パチュリー、の名前を聞き、むらと熱が膨張するのを自覚していたが、
我を見失うほどの感情はどうにか抑えることができた。
まだ結論は出すな。許せないと思う前に、考えろ。必死に言い聞かせ、壊したくなる気持ちをこらえる。
我慢する必要はあるのか? 歯を食いしばっている最中、何度もそんな声が聞こえたが、それでも、とフランドールは反論する。
友達だったパチュリーがてゐに殺されたのだとしても、騙していたのだとしても。怨念返しで解決するものはない。
一度てゐに手を差し出した瞬間。暗闇の中で、首輪の爆発からてゐを助け出した瞬間。寂しさに怯えていたようなあの顔がまやかしだと思いたくない。
博麗霊夢のように問答無用で殺し合いを仕掛け、何も感じなくなったあの瞳とは違う。
必ず、何かがあるはずだった。
「……大丈夫。パチュリーが死んだのは……許せない、けど……だったら、なんで、って、聞く」
「フラン……」
だが、口に出してしまえば、やはり許せないと思ってしまう。
恨みはそう簡単には消えてくれない。自分に、本の面白さを誇らしげに紹介してくれた魔女を奪った事実は許せるものではない。
だから、許せなくとも納得するしかない。納得して、どうすれば哀しくならなくなるかを考えるしかない。
「えっと、あの、そっちの子は……」
「パチュリーの友達。紅魔館の、フランドール・スカーレット」
口調から雰囲気を察したのか、不安顔で尋ねた早苗に対し、魔理沙がフォローをしてくれた。
それだけで少しは重みが減るような感覚があった。自分にはこうして助けてくれる人がいる。
この怒りも、魔理沙が少し請け負ってくれる。分かち合える。だから分かろうとすることができる。
一人じゃない。その思いをもう一度温め直し、フランドールは大丈夫という視線を早苗に注いだ。
「話、戻すわよ。私は因幡てゐを追うのは賛成しないわ」
「嘘つくやつは何度でもつくって言うんでしょ、あんたは」
「かもしれないわね」
あえて紫が反対意見を言っているのは、涼しい顔をしているのを見れば明らかだった。
だがこれも紫なりに考えて、感じた結果なのかもしれない。いたずらに労力を費やすことの意味を問い質している。
それはそれで自分達を守るための理屈だと考えたフランドールは、しかしそれでも反論する。
「私は、嘘の回数じゃなくて理由が知りたい。それだけ」
視線を紫に移し、はっきりと見据えてフランドールは言った。
もう少し言いようはあるはずではあった。自分は『分かる』ための努力をしている。
それを伝えられれば良かったはずなのだが、伝える術が見つからない。まだ自分は、『分かる』を言葉に出来ていない。
だから今はやりたいことを示すだけで終わらせることにした。紫がそれで納得するとは、思えなかったけれど。
「……私もフランドールさんと同意見です。嘘をつくからって、それが悪であると私は信じたくないんです」
「そうでなけりゃ、嘘つきは生きてちゃいけないって理屈になるな」
早苗の後を引き取り、魔理沙は意地悪く続けた。
日常から茶化してくだらない嘘をついている魔理沙ならではの言葉に、紫が苦笑を漏らす。
一本取られた、という風のどこか清々しい笑いに、フランドールは紫も変わったのか、と不意にそんなことを思っていた。
今まであった硬質な雰囲気はなりを潜め、自分達の言葉を確かめようとしている空気がある。
ひょっとして、最初からこうなると分かってあえて反対していた……?
わけもない直感がフランドールを貫いた瞬間、紫がこちらを向いて笑みを深くする。
「馬鹿は伝染するものね。それもこんな短時間で」
自分の心を見通したような発言に、やはりこの女は大妖怪だという実感が湧き、どこか怖れにも似た気分を覚えていた。
紫を論破したつもりが、その実試されていたことに気付いたのは魔理沙もらしく、一本取られたのはこっちだ、と小声で呟く。
「……? えっと?」
分かっていないのは早苗ただ一人らしく、きょとんとした面持ちで周囲を見回していた。
「気にしないで。賛成はしないけど、反対する理由もないだけのこと。私も行きましょう」
「いいのかよ」
「早苗のサポートが必要でしょう。足の速い貴女達二人は置いておいて、早苗は体調が万全ではないもの」
「いや、それは大丈夫で……」
言おうとした瞬間、こほんと早苗が咳き込んだ。どうやら風邪を引いているらしい。
人間はこういうところが不便だ。ただ、風邪を引いた人間は優しくしてもらえると聞いたことがある。
そこは羨ましいと脈絡なく思っていると、魔理沙が肩を叩き「んじゃ、先行すっか。サポートは必要か?」と言ってきた。
「大丈夫よ、問題ないわ」
しっかりと『魔理沙の方』を見返してニヤリと不敵な笑みを返す。
風邪は引かなくても、気にはかけてもらえる。
いや、いつでも気にかけてもらえるなら自分は年中風邪であるのかもしれない。
時として迷い、躊躇い、間違ったことさえさせる心は不安定で、妖怪といえども不完全にさせてしまう病気だ。
けれども、その病気は自分の中に他者を自覚させ、他者がいてこそ形作られる自分を認識させる。
スター。妖夢。藍。香霖。それぞれに思い出のある名前を呼び起こし、次は正しくいられるように祈る。
霧雨魔理沙と一緒にいられるように。霧雨魔理沙のような友達をもっと作るために。
「そんじゃあ行くぜ! フラン、走るぞ! てゐをとっ捕まえるんだ!」
「あ、魔理沙さん! これ!」
「お?」
スタートを切ろうとした魔理沙に、早苗がなにかを投げ渡す。
片手で器用にキャッチした魔理沙の手には、人形が収まっていた。
「……アリスの、人形?」
「預かり物です」
深く言う暇はないと知っている早苗は簡単に済ませたが、魔理沙にはそれで十分なようだった。
もう一度空中に放り投げ、落ちてきたところを再度掴む。
久しぶりに晴れ渡った笑顔を見せた魔理沙は、こちらまでが元気になるような笑顔で――
「アリス、『借りる』ぜ。死ぬまでな」
恐らくは、悪友に向けて言ったその一言が、フランドールにはとても素敵なものであるように思えた。
最終更新:2011年05月25日 22:07