闇、闇、闇――
一寸先も一分先も、それどころか自分の手さえもこの闇は覆い隠してしまう。
その中は『黒』でいっぱいだった。ここは水龍ワダツミの体内。
一寸先も一分先も、それどころか自分の手さえもこの闇は覆い隠してしまう。
その中は『黒』でいっぱいだった。ここは水龍ワダツミの体内。
Chapter16「水銀」
黒い闇の空間を蒼い炎がぼんやりと照らす。イザヨイの妖術が起こした狐火だ。
この海中の世界にあって、シエラが魔法で水を押し退けてくれているので、彼女らは溺れることも水圧に押し負けることもなく平然としていられる。そんな空間の中であるからこそ、海中でありながら狐火は明々と燃え盛ることができる。
狐火は本物の火とは少し性質が異なる。この類の妖術はシエラが使うような魔法とは異なり、むしろ幻術に近い特徴を持つ。
すなわちその狐火自体には熱はなく、それにものを燃やす力もない。ただ蒼白い光で火の姿をもって周囲を照らすのみだ。しかし、火花を散らしパチパチと音を上げながら燃え盛る蒼い火に誰もが騙されてそれを本物の火だと思いこんでしまう。それゆえに、偽りの火でありながら狐火に触れた者は熱さを感じたり、時には火傷してしまうことさえある。
イザヨイはそんな狐火でこの暗い空間を照らす。体内で燃え盛る狐火を水龍は感知していないため、それによって水龍が熱さを感じたり火傷することはなく、イザヨイから火の説明を受けた仲間たちも同様だ。
そんな虚ろの火で照らされた景色は赤黒い肉やずらりと並んだ鋭い歯に囲まれている。方々に走る血管が脈打ち、奥のほうからはごうごうと不思議な音が聴こえてくる。それにひどい悪臭だ。
「ね。言ったでしょ、なまぐさい…」
顔をしわくちゃにしながらステイが言った。
「そりゃ水龍の体内だからね…。こんな気味の悪いところ早く出たいよ。なんか落ち着かないもん」
「それにあまり長くいては水龍さんにも負担になるはず。できるだけ急いで、できるだけ傷つけずに、病気の原因を特定してここを出ましょう」
恐る恐る慎重に警戒しながら進む仲間たちとは対照的に、コテツだけは軽快な様子で先頭を小走りに進んでいた。体内に入ってもらう代わりに、と水龍から前払い的に授けられた新しい刀を背にコテツは気分がいい。
「やっぱこれだよ! この重さ、この感触。これがねぇとどうもしっくりこねぇンだ。ムサシにゃ悪いが、やっぱ木刀じゃだめだぜぃ」
刀は侍の魂。サムライわんこであったとしてもそれは同様らしい。こんな落ち着かない場所にあって、コテツただ一人だけが上機嫌だった。
外では水龍が身体を横たえてくれているので、体内では激しい上下の起伏もあまりなく、それほど難なく奥へ進むことができる。
一行は口腔、咽頭を経由して奥を目指す。その道中、ステイが不思議なものを見つけたと声を上げた。
「何これ! こんなとこにサンドバッグがぶら下がってる。そうか、ワダツミは身体の中も鍛えてたんだね。さっすが、あんなに大きな水龍様となるとやっぱりそういうところから違うんだなぁ」
などと感心しながら、垂れ下がるそれを指でつついている。
「ステイさん、それは口蓋垂ですよ」とイザヨイが説明した。
「え、何? コーガイスイ? よくわかんないけど、なんだか強そうな名前だね」
「サンドバッグじゃありませんよ。まぁ私もそんなに詳しいわけじゃありませんけど、体内に異物が侵入するのを防ぐためのものだとか、誤飲防止、はたまたただの不要な部位だとか、いろいろと説があるみたいですね」
「ゴイン…? ブイ? なんか難しいんだね、そのゴーカイナントカって。おいらにもわかるように説明してよ。なんか通称とかないの」
そうステイが訊くと、イザヨイが驚いた顔をした。
「えっ! ……つ、通称ですか。それを聞きたいんですか。それを私に訊くんですか…」
なんで? というような表情をしながらステイは頷いた。一方でイザヨイは顔を赤らめながら何かを言いかけている。
「それは、その。の…のど……」
「わかんないなら、わかんないって言ってくれればいいよ」
「いえ、そうじゃないんです。でも、その……いえ、言います。それは、の……の…」
「の?」
首を傾げながらステイがイザヨイの顔を覗き込む。するとイザヨイはさらに顔を赤らめるのだった。
そこで見かねたシエラが言った。
「口蓋垂はのどちんこのことだよ」
ああ、なるほど。とステイは合点がいったように手を叩いた。
平然と言ってのけたシエラにイザヨイがそっと耳打ちする。
「ありがとう、シエラ…」
「べっつにぃ。ステイも悪気があるわけじゃないんだから、気にしなくていいのに。コテツじゃあるまいし」
そんな様子を頬づえをつきながらコテツが眺める。先頭を進んでいたコテツは後ろがなかなか着いて来ないので、こうして仲間たちを待っていたのだ。決して一人で進むのが怖いなンてことはないンだからな。
「なーにがコテツじゃあるまいし、だよ。お約束な展開しやがって」
言ってうつ伏せの姿勢のまま、退屈そうに目の前に垂れている口蓋垂をつつく。水龍の口蓋垂はふたつあった。
この海中の世界にあって、シエラが魔法で水を押し退けてくれているので、彼女らは溺れることも水圧に押し負けることもなく平然としていられる。そんな空間の中であるからこそ、海中でありながら狐火は明々と燃え盛ることができる。
狐火は本物の火とは少し性質が異なる。この類の妖術はシエラが使うような魔法とは異なり、むしろ幻術に近い特徴を持つ。
すなわちその狐火自体には熱はなく、それにものを燃やす力もない。ただ蒼白い光で火の姿をもって周囲を照らすのみだ。しかし、火花を散らしパチパチと音を上げながら燃え盛る蒼い火に誰もが騙されてそれを本物の火だと思いこんでしまう。それゆえに、偽りの火でありながら狐火に触れた者は熱さを感じたり、時には火傷してしまうことさえある。
イザヨイはそんな狐火でこの暗い空間を照らす。体内で燃え盛る狐火を水龍は感知していないため、それによって水龍が熱さを感じたり火傷することはなく、イザヨイから火の説明を受けた仲間たちも同様だ。
そんな虚ろの火で照らされた景色は赤黒い肉やずらりと並んだ鋭い歯に囲まれている。方々に走る血管が脈打ち、奥のほうからはごうごうと不思議な音が聴こえてくる。それにひどい悪臭だ。
「ね。言ったでしょ、なまぐさい…」
顔をしわくちゃにしながらステイが言った。
「そりゃ水龍の体内だからね…。こんな気味の悪いところ早く出たいよ。なんか落ち着かないもん」
「それにあまり長くいては水龍さんにも負担になるはず。できるだけ急いで、できるだけ傷つけずに、病気の原因を特定してここを出ましょう」
恐る恐る慎重に警戒しながら進む仲間たちとは対照的に、コテツだけは軽快な様子で先頭を小走りに進んでいた。体内に入ってもらう代わりに、と水龍から前払い的に授けられた新しい刀を背にコテツは気分がいい。
「やっぱこれだよ! この重さ、この感触。これがねぇとどうもしっくりこねぇンだ。ムサシにゃ悪いが、やっぱ木刀じゃだめだぜぃ」
刀は侍の魂。サムライわんこであったとしてもそれは同様らしい。こんな落ち着かない場所にあって、コテツただ一人だけが上機嫌だった。
外では水龍が身体を横たえてくれているので、体内では激しい上下の起伏もあまりなく、それほど難なく奥へ進むことができる。
一行は口腔、咽頭を経由して奥を目指す。その道中、ステイが不思議なものを見つけたと声を上げた。
「何これ! こんなとこにサンドバッグがぶら下がってる。そうか、ワダツミは身体の中も鍛えてたんだね。さっすが、あんなに大きな水龍様となるとやっぱりそういうところから違うんだなぁ」
などと感心しながら、垂れ下がるそれを指でつついている。
「ステイさん、それは口蓋垂ですよ」とイザヨイが説明した。
「え、何? コーガイスイ? よくわかんないけど、なんだか強そうな名前だね」
「サンドバッグじゃありませんよ。まぁ私もそんなに詳しいわけじゃありませんけど、体内に異物が侵入するのを防ぐためのものだとか、誤飲防止、はたまたただの不要な部位だとか、いろいろと説があるみたいですね」
「ゴイン…? ブイ? なんか難しいんだね、そのゴーカイナントカって。おいらにもわかるように説明してよ。なんか通称とかないの」
そうステイが訊くと、イザヨイが驚いた顔をした。
「えっ! ……つ、通称ですか。それを聞きたいんですか。それを私に訊くんですか…」
なんで? というような表情をしながらステイは頷いた。一方でイザヨイは顔を赤らめながら何かを言いかけている。
「それは、その。の…のど……」
「わかんないなら、わかんないって言ってくれればいいよ」
「いえ、そうじゃないんです。でも、その……いえ、言います。それは、の……の…」
「の?」
首を傾げながらステイがイザヨイの顔を覗き込む。するとイザヨイはさらに顔を赤らめるのだった。
そこで見かねたシエラが言った。
「口蓋垂はのどちんこのことだよ」
ああ、なるほど。とステイは合点がいったように手を叩いた。
平然と言ってのけたシエラにイザヨイがそっと耳打ちする。
「ありがとう、シエラ…」
「べっつにぃ。ステイも悪気があるわけじゃないんだから、気にしなくていいのに。コテツじゃあるまいし」
そんな様子を頬づえをつきながらコテツが眺める。先頭を進んでいたコテツは後ろがなかなか着いて来ないので、こうして仲間たちを待っていたのだ。決して一人で進むのが怖いなンてことはないンだからな。
「なーにがコテツじゃあるまいし、だよ。お約束な展開しやがって」
言ってうつ伏せの姿勢のまま、退屈そうに目の前に垂れている口蓋垂をつつく。水龍の口蓋垂はふたつあった。
咽頭、食道を経由して胃の入口までやってきた。途中でステイが鰓裂に迷い込んで水龍が大きくむせ込んだが、それ以外にはとくに水龍の身体を傷つけることなくここまで来れたようだ。ちなみに鰓裂とはエラ穴のことである。
先頭を行くコテツが足を止めた。
「さすがにこれ以上行くのは危険だなァ」
胃は食べたものを消化する場所。さすがのステイもこれは知っていた。迂闊に足を踏み入れれば、胃酸によってあっという間に溶かされてしまうだろう。
「おいら、水龍のうんこになるのはいやだよ」
「まァそういうことだ。探索できるのはここまでってことだな。さて、どうしたモンかね」
ここに至るまでに水龍を苦しめている原因と思われるようなものは発見できなかった。その原因が目に見てすぐにわかるようなものならいいが、水龍を苦しめているものが必ずしもそうであるとは限らない。そもそも彼らは医者ではない。もしかしたらそれを見落としている可能性も十分にあるし、あるいはこの胃のさらに向こうにある可能性も捨て切れなかった。
「どうやら私たちにできるのはここまでのようですね」
イザヨイが残念そうに言った。
「ここまで来て諦めンのかよ!」
「お手上げなのはあなた自身もわかっているはずでしょう? これ以上は仕方ありません。戻って正直に話せば水龍さんも乙姫様もきっとわかってくれるはずですよ。それから別の方法を考えましょう。海の世界にもお医者さんはいるはずですから」
「よかった…。そうしようよ! あたいはもう我慢できないよ。魚を食べるのは好きだけど、食べられるのはもう勘弁!」
シエラはほっとため息、ステイは大きなあくびを、そしてコテツは鼻息を漏らした。
「だからと言って、手ぶらで帰れるかってンだ。これじゃ面目が立たねぇぜ」
「こんなときに体面の心配ですか。そんなことよりも水龍さんのことを考えるべきでしょう」
「なンだよ。だからこうやって、水龍の病の原因を探そうとしてンじゃねぇか!」
「私たちにできるのはここまでです。あとはお医者さんに任せたほうが賢明だと思いますけど?」
「何言ってンだ! 乙姫や水龍はオイラたちを信用してこれを任せてくれたンだろうが。それをあっさり無理でしたって帰っちまったンじゃあ、あいつらの顔に泥を塗っちまう。そうはいかねぇよ」
「だからって無理をして余計に悪化させてしまっては元も子もないでしょう! ここは専門家に任せるべきよ」
「それじゃあ何だ。オイラたちは役立たずだと、そう言いてぇのか!」
「そうは言ってないでしょ! だから私はお医者さんのほうがより確実だと言ってるのよ」
「呼びに行ってる間に悪化するかもしれねぇ。乙姫の顔を立てるためにも、オイラたちがなンとかすべきだ!」
「いいえ、お医者さんです!」
再び睨み合うコテツとイザヨイ。このままでは乙姫の謁見のときの二の舞だ。ステイやシエラが仲裁に入るも、二人はまるで静まる様子は見せず、口論の熱はますます上昇するばかりだ。
そこでシエラは空気の膜の外から水を引き呼んで二人の顔に正面から被せた。
「二人とも頭を冷やしなよ。まったくコテツもイザヨイも退かないんだから」
「「だって…!」」
「でももだってもなし!」
水をかぶって尻餅をついたままの体勢で、二人は互いを指差しながらまだ自分に非はないと主張する。そんな二人をシエラが一喝した。互いにいつまでも言い合っていては、それこそ何も解決しない。
「わんこも狐もプライド高いんだから~」
ステイに指摘されると二人は「フン!」と互いに顔を背け合った。
(やれやれ。どうしたらいいんだろう…)
どうも反りの合わない二人に頭を悩ませるシエラ。海中でただえさえ空気が少ないというのに、水龍の体内でただえさえ閉塞感を感じるというのに、この気まずくて重い空気。こんな落ち着かない場所が、さらに落ち着かない雰囲気になってしまう。あるいはこんな場所だからこそ、みんな気が立ってしまっているのだろうか。
入って来たときと同じようにしんと静まり返る。どくどくと聴こえてくるのは水龍の鼓動か、それとも自分の心臓の音か。
そんな静寂を破って最初に言葉を発したのはステイだった。
「ねぇ。あっちから何か聞こえない?」
さっきまではコテツとイザヨイの怒鳴り声で気がつかなかったが、胃のほうから二人とは別の騒ぎ声が聴こえてくるのがわかる。
ということはつまり、この水龍の体内には自分たち以外にも誰かがいるということなのか。あるいはつまり、それが水龍を苦しめている原因だという可能性も考えられる。
胃の入口あたりからそっと中を覗く。と、胃の中は胃液で溢れかえっていた。
「食物が胃の中に入ると、刺激を受けた胃壁から胃酸が分泌されると聞きます」
「ということはさっきの声といい、水龍の苦しみといい、胃の中に何かいるってこと?」
「まぁあたいたちもいるけどね。その先客が悪さをしてるって可能性はあるね」
「だったら話は早ぇ。その先客を追い出せばいいンだろ」
とは言ったものの、下手に進めば自分たちが消化されてしまう。
そこで翼を持ち飛ぶことのできるステイが先行して様子を見ることになった。
「気をつけろよ! 疲れたからって落下でもすりゃ溶かされちまう」
「わかってる。今日はコテツを背中に乗せてないから平気だよ」
空中から胃を偵察する。あの大きな水龍の胃だ、その広さはちょっとしたドームのようなものだった。
足下には酸の海が広がっている。その海の中でステイは水が跳ねているのを見つけた。
「あれは…?」
近づいてみると、なんと数匹のどんこが胃酸の海で溺れているではないか。それらはばしゃばしゃと液をかき分けながら、胃酸の海をぐるぐると泳ぎ回っている。そんなどんこたちの近くには溶けかけた何かの残骸も浮かんでいた。欠片程度しか残っていないので断言はできないが、木製の小舟といったところだろうか。その残骸にはぼろぼろになった布切れが引っかかっていて、そこには下手くそなメフィアの絵が描かれている。ステイはその絵に見覚えがあった。
それはステイがエルナトからコテツと共に旅だった初日もすぐのこと。癒へ向かう船を探して西の海岸へ赴いたときのことだ。結局あのときは船には乗れなかったが、船着場でどんこたちがぼろぼろの小舟で海に飛び出していったのをステイは目撃している。そしてその舟にはあれと同じ絵のメフィアの旗が立てられていた。
「まさかこんなところで再会するなんて!」
このどんこたちは胃酸の中にあって溶けたりしないのだろうか。そんな疑問を頭に浮かべながらもステイが槍を差し出すと、どんこたちはその柄を登り始めた。
どんこたちを背中に乗せるとステイは引き返して仲間の下へ戻る。そして自分が見たことを説明するのだった。
もしかするとこれが水龍の胃に刺激を与え続けていて、それが水龍を苦しめる原因になっていたのかもしれない。症状が改善したのかどうかを直接本人に聞くために、一行はようやくこの落ち着かない場所から出ることにした。こんどはコテツもイザヨイも意見が一致した。
先頭を行くコテツが足を止めた。
「さすがにこれ以上行くのは危険だなァ」
胃は食べたものを消化する場所。さすがのステイもこれは知っていた。迂闊に足を踏み入れれば、胃酸によってあっという間に溶かされてしまうだろう。
「おいら、水龍のうんこになるのはいやだよ」
「まァそういうことだ。探索できるのはここまでってことだな。さて、どうしたモンかね」
ここに至るまでに水龍を苦しめている原因と思われるようなものは発見できなかった。その原因が目に見てすぐにわかるようなものならいいが、水龍を苦しめているものが必ずしもそうであるとは限らない。そもそも彼らは医者ではない。もしかしたらそれを見落としている可能性も十分にあるし、あるいはこの胃のさらに向こうにある可能性も捨て切れなかった。
「どうやら私たちにできるのはここまでのようですね」
イザヨイが残念そうに言った。
「ここまで来て諦めンのかよ!」
「お手上げなのはあなた自身もわかっているはずでしょう? これ以上は仕方ありません。戻って正直に話せば水龍さんも乙姫様もきっとわかってくれるはずですよ。それから別の方法を考えましょう。海の世界にもお医者さんはいるはずですから」
「よかった…。そうしようよ! あたいはもう我慢できないよ。魚を食べるのは好きだけど、食べられるのはもう勘弁!」
シエラはほっとため息、ステイは大きなあくびを、そしてコテツは鼻息を漏らした。
「だからと言って、手ぶらで帰れるかってンだ。これじゃ面目が立たねぇぜ」
「こんなときに体面の心配ですか。そんなことよりも水龍さんのことを考えるべきでしょう」
「なンだよ。だからこうやって、水龍の病の原因を探そうとしてンじゃねぇか!」
「私たちにできるのはここまでです。あとはお医者さんに任せたほうが賢明だと思いますけど?」
「何言ってンだ! 乙姫や水龍はオイラたちを信用してこれを任せてくれたンだろうが。それをあっさり無理でしたって帰っちまったンじゃあ、あいつらの顔に泥を塗っちまう。そうはいかねぇよ」
「だからって無理をして余計に悪化させてしまっては元も子もないでしょう! ここは専門家に任せるべきよ」
「それじゃあ何だ。オイラたちは役立たずだと、そう言いてぇのか!」
「そうは言ってないでしょ! だから私はお医者さんのほうがより確実だと言ってるのよ」
「呼びに行ってる間に悪化するかもしれねぇ。乙姫の顔を立てるためにも、オイラたちがなンとかすべきだ!」
「いいえ、お医者さんです!」
再び睨み合うコテツとイザヨイ。このままでは乙姫の謁見のときの二の舞だ。ステイやシエラが仲裁に入るも、二人はまるで静まる様子は見せず、口論の熱はますます上昇するばかりだ。
そこでシエラは空気の膜の外から水を引き呼んで二人の顔に正面から被せた。
「二人とも頭を冷やしなよ。まったくコテツもイザヨイも退かないんだから」
「「だって…!」」
「でももだってもなし!」
水をかぶって尻餅をついたままの体勢で、二人は互いを指差しながらまだ自分に非はないと主張する。そんな二人をシエラが一喝した。互いにいつまでも言い合っていては、それこそ何も解決しない。
「わんこも狐もプライド高いんだから~」
ステイに指摘されると二人は「フン!」と互いに顔を背け合った。
(やれやれ。どうしたらいいんだろう…)
どうも反りの合わない二人に頭を悩ませるシエラ。海中でただえさえ空気が少ないというのに、水龍の体内でただえさえ閉塞感を感じるというのに、この気まずくて重い空気。こんな落ち着かない場所が、さらに落ち着かない雰囲気になってしまう。あるいはこんな場所だからこそ、みんな気が立ってしまっているのだろうか。
入って来たときと同じようにしんと静まり返る。どくどくと聴こえてくるのは水龍の鼓動か、それとも自分の心臓の音か。
そんな静寂を破って最初に言葉を発したのはステイだった。
「ねぇ。あっちから何か聞こえない?」
さっきまではコテツとイザヨイの怒鳴り声で気がつかなかったが、胃のほうから二人とは別の騒ぎ声が聴こえてくるのがわかる。
ということはつまり、この水龍の体内には自分たち以外にも誰かがいるということなのか。あるいはつまり、それが水龍を苦しめている原因だという可能性も考えられる。
胃の入口あたりからそっと中を覗く。と、胃の中は胃液で溢れかえっていた。
「食物が胃の中に入ると、刺激を受けた胃壁から胃酸が分泌されると聞きます」
「ということはさっきの声といい、水龍の苦しみといい、胃の中に何かいるってこと?」
「まぁあたいたちもいるけどね。その先客が悪さをしてるって可能性はあるね」
「だったら話は早ぇ。その先客を追い出せばいいンだろ」
とは言ったものの、下手に進めば自分たちが消化されてしまう。
そこで翼を持ち飛ぶことのできるステイが先行して様子を見ることになった。
「気をつけろよ! 疲れたからって落下でもすりゃ溶かされちまう」
「わかってる。今日はコテツを背中に乗せてないから平気だよ」
空中から胃を偵察する。あの大きな水龍の胃だ、その広さはちょっとしたドームのようなものだった。
足下には酸の海が広がっている。その海の中でステイは水が跳ねているのを見つけた。
「あれは…?」
近づいてみると、なんと数匹のどんこが胃酸の海で溺れているではないか。それらはばしゃばしゃと液をかき分けながら、胃酸の海をぐるぐると泳ぎ回っている。そんなどんこたちの近くには溶けかけた何かの残骸も浮かんでいた。欠片程度しか残っていないので断言はできないが、木製の小舟といったところだろうか。その残骸にはぼろぼろになった布切れが引っかかっていて、そこには下手くそなメフィアの絵が描かれている。ステイはその絵に見覚えがあった。
それはステイがエルナトからコテツと共に旅だった初日もすぐのこと。癒へ向かう船を探して西の海岸へ赴いたときのことだ。結局あのときは船には乗れなかったが、船着場でどんこたちがぼろぼろの小舟で海に飛び出していったのをステイは目撃している。そしてその舟にはあれと同じ絵のメフィアの旗が立てられていた。
「まさかこんなところで再会するなんて!」
このどんこたちは胃酸の中にあって溶けたりしないのだろうか。そんな疑問を頭に浮かべながらもステイが槍を差し出すと、どんこたちはその柄を登り始めた。
どんこたちを背中に乗せるとステイは引き返して仲間の下へ戻る。そして自分が見たことを説明するのだった。
もしかするとこれが水龍の胃に刺激を与え続けていて、それが水龍を苦しめる原因になっていたのかもしれない。症状が改善したのかどうかを直接本人に聞くために、一行はようやくこの落ち着かない場所から出ることにした。こんどはコテツもイザヨイも意見が一致した。
水龍の体内から脱出すると、どんこたちは一目散に逃げ出して深海の海を地上目指して泳ぎ去って行った。あいつら水圧も空気も平気なのだろうか。
「それで痛みは取れたの?」とステイが訊く。
しかしワダツミは首を縦には振らなかった。
「どんこじゃないみたいだね」
「そもそもオイラたちは大事なことを聞き忘れてた。なァ、水龍。おめぇはどこがどう痛いンだ?」
するとワダツミはわからないと答えた。
「腹や腸が痛むのとは違う、ということだけは言える。だが具体的にどこがどう悪いのかは我輩にもわからんのだ。意識が飛ぶほどに頭が痛いときもあれば、心臓を鷲掴みにされたような苦しみを感じることもある」
イザヨイが医者にかかることを提案すると、すでに別の海底都市マリンボトムで医者に診てもらったことがあるとワダツミは言う。曰く水龍自身はそういった症状を訴えるものの、いくら検査してもその原因は特定できず目立った異常もなし。一見すれば身体としては健康そのものなのだという。
「原因不明の不治の病ってわけか」
「ふーん。トシなんじゃないの?」
「老化が原因ならお医者さんにもわかるんじゃない? ってことは病気とは別の原因を考えるべきだと思うな、あたいは。そう……例えば魔法とか。誰かに呪いをかけられた覚えとかないの?」
「我輩はとくには…」
ワダツミは心当たりがなさそうに答えた。しかし、代わりにイザヨイには心当たりがある様子だった。
「呪い……。だとしたら、あれが有効かもしれませんね」
「あれっていうのは?」
「聖水です!」
邪を祓う聖水。妖怪に取り憑かれたと思った父親を救うためにイザヨイが先刃まで赴き手に入れ、九尾の手にかかりそうになったコテツを救ったあの聖なる水。
病気が原因でないのなら、シエラがいうように呪いか何かがかけられているのかもしれない。あるいは今度こそ妖怪が取り憑いているのかもしれない。そうだとすれば、今度も聖水が役に立ってくれるだろう。イザヨイはそう考えた。
「その効果ならオイラが保証するぜぃ。それならさっそくそいつを試してみようじゃねぇか」
「やっと意見が合いましたね。ですがまずはその聖水を手に入れる必要があります。あなたを助けるために使ってしまいましたからね」
「それに関しては感謝してるさ。構わねぇぜ。ちょっくら先刃まで行って水をもらってくりゃいいンだろ」
先刃は東西に伸びる癒島の北東の端、最果ての地だ。対してこの竜宮及び鳴都は西南の端。距離にして最も遠い位置関係にある。
そこでワダツミは自分が一行を先刃まで送り届けることを申し出た。水龍の巨体であれば先刃まではあっという間だ。
水龍は頼みを聞いてくれればその礼にいつでも力を貸すとコテツたちに約束した。それが少し早くなっただけのことだ。それに彼らは自分のために先刃まで行ってくれることになったのだ。それならば、少しでも力になりたいとワダツミは考えたのだった。
「だがおめぇは病床にあるようなモンだろ。あまり無理はしてくれなくてもいいンだぜぃ」
「構わんさ。言っただろう? 我輩はこれ以上周囲に迷惑をかけたくはないと」
「コテツ、ここは水龍さんのご厚意に甘えることにしましょう。取りに行ってる間に悪化するかもしれねぇ、でしょ?」
「それもそうだ。それなら先刃まで頼むぜぃ」
水龍はその巨体で物凄い速度で海中を舞う。それは海流を生み出し、潮の満ち引きを起こすとさえ言う。そんな水龍の背中にしがみついて海を渡ることはとても困難だ。
そこで四人が再び水龍の口内に入り、その状態で先刃までワダツミが泳ぐことになった。
「ええー。またあの中に入るの!?」
シエラは露骨に嫌そうな顔をして見せたが、一回目に水龍の中に入るときと同じことを言ってコテツが説得した。
「おめぇ魚好きだろ」
「うう…。水龍は魚じゃないのに…」
こうしてワダツミは体内に一行を乗せて竜宮を発った。
さて、ここで一度、水龍の暴走について確認しておこう。まず水龍ワダツミは原因不明の病のようなものを患っている。そしてそれが原因で痛みや苦しみを感じて、時に暴走してしまうこともある。それによって海上では嵐が起きたり大潮が押し寄せたりの被害が引き起こされている。この事態を遺憾に思い、この海底世界の中枢都市マリンボトムの海帝は、水龍を崇めている竜宮の代表である乙姫にこの問題を解決するように命じたのだ。そして丸投げされた問題は今こうしてコテツたちにたらい回しにされている。
それはそれで問題だが、それよりも今はもっと気にしておかなければならない問題があった。そう、”あった”のだ。
水龍はその苦しみから時に暴走することがあるが、その際のことを水龍自身は覚えていない。つまり暴走時はワダツミは意識を失ってしまうのだ。こうなってしまっては、いくらワダツミが注意していてもどうしようもない。そして、そういう困ったことというのは、時に最も望まないタイミングでやってくることがあるということ。それが問題”だった”のだ。
水龍に運ばれて先刃へ向かう一行は、その体内で到着の知らせを待ちわびていた。
まさかこんな居心地の悪い場所に二度も来る羽目になるとは誰が予想しただろう。早く到着して、こんなところすぐに出てしまいたい。そう考えていたときにそれは起こった。
身体が激しく揺さぶられたかと思うと、物凄い勢いで水龍の体内に水が流れ込んでくる。水棲の水龍はエラ呼吸のため、絶えず体内に水は出入りしていたが、これはさっきまでの比ではない。
それまでの水流をものともせず水を押し退け続けていたシエラだったが、この大量の水には力で押し負けてしまいそれまで張っていた空気の膜がとうとう弾けてしまった。そして一行はそのまま水に押し流されるまま散り散りになってしまった。
「それで痛みは取れたの?」とステイが訊く。
しかしワダツミは首を縦には振らなかった。
「どんこじゃないみたいだね」
「そもそもオイラたちは大事なことを聞き忘れてた。なァ、水龍。おめぇはどこがどう痛いンだ?」
するとワダツミはわからないと答えた。
「腹や腸が痛むのとは違う、ということだけは言える。だが具体的にどこがどう悪いのかは我輩にもわからんのだ。意識が飛ぶほどに頭が痛いときもあれば、心臓を鷲掴みにされたような苦しみを感じることもある」
イザヨイが医者にかかることを提案すると、すでに別の海底都市マリンボトムで医者に診てもらったことがあるとワダツミは言う。曰く水龍自身はそういった症状を訴えるものの、いくら検査してもその原因は特定できず目立った異常もなし。一見すれば身体としては健康そのものなのだという。
「原因不明の不治の病ってわけか」
「ふーん。トシなんじゃないの?」
「老化が原因ならお医者さんにもわかるんじゃない? ってことは病気とは別の原因を考えるべきだと思うな、あたいは。そう……例えば魔法とか。誰かに呪いをかけられた覚えとかないの?」
「我輩はとくには…」
ワダツミは心当たりがなさそうに答えた。しかし、代わりにイザヨイには心当たりがある様子だった。
「呪い……。だとしたら、あれが有効かもしれませんね」
「あれっていうのは?」
「聖水です!」
邪を祓う聖水。妖怪に取り憑かれたと思った父親を救うためにイザヨイが先刃まで赴き手に入れ、九尾の手にかかりそうになったコテツを救ったあの聖なる水。
病気が原因でないのなら、シエラがいうように呪いか何かがかけられているのかもしれない。あるいは今度こそ妖怪が取り憑いているのかもしれない。そうだとすれば、今度も聖水が役に立ってくれるだろう。イザヨイはそう考えた。
「その効果ならオイラが保証するぜぃ。それならさっそくそいつを試してみようじゃねぇか」
「やっと意見が合いましたね。ですがまずはその聖水を手に入れる必要があります。あなたを助けるために使ってしまいましたからね」
「それに関しては感謝してるさ。構わねぇぜ。ちょっくら先刃まで行って水をもらってくりゃいいンだろ」
先刃は東西に伸びる癒島の北東の端、最果ての地だ。対してこの竜宮及び鳴都は西南の端。距離にして最も遠い位置関係にある。
そこでワダツミは自分が一行を先刃まで送り届けることを申し出た。水龍の巨体であれば先刃まではあっという間だ。
水龍は頼みを聞いてくれればその礼にいつでも力を貸すとコテツたちに約束した。それが少し早くなっただけのことだ。それに彼らは自分のために先刃まで行ってくれることになったのだ。それならば、少しでも力になりたいとワダツミは考えたのだった。
「だがおめぇは病床にあるようなモンだろ。あまり無理はしてくれなくてもいいンだぜぃ」
「構わんさ。言っただろう? 我輩はこれ以上周囲に迷惑をかけたくはないと」
「コテツ、ここは水龍さんのご厚意に甘えることにしましょう。取りに行ってる間に悪化するかもしれねぇ、でしょ?」
「それもそうだ。それなら先刃まで頼むぜぃ」
水龍はその巨体で物凄い速度で海中を舞う。それは海流を生み出し、潮の満ち引きを起こすとさえ言う。そんな水龍の背中にしがみついて海を渡ることはとても困難だ。
そこで四人が再び水龍の口内に入り、その状態で先刃までワダツミが泳ぐことになった。
「ええー。またあの中に入るの!?」
シエラは露骨に嫌そうな顔をして見せたが、一回目に水龍の中に入るときと同じことを言ってコテツが説得した。
「おめぇ魚好きだろ」
「うう…。水龍は魚じゃないのに…」
こうしてワダツミは体内に一行を乗せて竜宮を発った。
さて、ここで一度、水龍の暴走について確認しておこう。まず水龍ワダツミは原因不明の病のようなものを患っている。そしてそれが原因で痛みや苦しみを感じて、時に暴走してしまうこともある。それによって海上では嵐が起きたり大潮が押し寄せたりの被害が引き起こされている。この事態を遺憾に思い、この海底世界の中枢都市マリンボトムの海帝は、水龍を崇めている竜宮の代表である乙姫にこの問題を解決するように命じたのだ。そして丸投げされた問題は今こうしてコテツたちにたらい回しにされている。
それはそれで問題だが、それよりも今はもっと気にしておかなければならない問題があった。そう、”あった”のだ。
水龍はその苦しみから時に暴走することがあるが、その際のことを水龍自身は覚えていない。つまり暴走時はワダツミは意識を失ってしまうのだ。こうなってしまっては、いくらワダツミが注意していてもどうしようもない。そして、そういう困ったことというのは、時に最も望まないタイミングでやってくることがあるということ。それが問題”だった”のだ。
水龍に運ばれて先刃へ向かう一行は、その体内で到着の知らせを待ちわびていた。
まさかこんな居心地の悪い場所に二度も来る羽目になるとは誰が予想しただろう。早く到着して、こんなところすぐに出てしまいたい。そう考えていたときにそれは起こった。
身体が激しく揺さぶられたかと思うと、物凄い勢いで水龍の体内に水が流れ込んでくる。水棲の水龍はエラ呼吸のため、絶えず体内に水は出入りしていたが、これはさっきまでの比ではない。
それまでの水流をものともせず水を押し退け続けていたシエラだったが、この大量の水には力で押し負けてしまいそれまで張っていた空気の膜がとうとう弾けてしまった。そして一行はそのまま水に押し流されるまま散り散りになってしまった。
耳元で水の流れる音が聴こえる。頭がくらくらするが、どうやらまだ生きているらしい。
顔を上げるとそこは砂浜だった。水龍の体内にこんな場所があるはずがない。どうやら自分は水と一緒に水龍のエラが体外に放り出されて、そのあとここに流れ着いたようだ。周囲には他の三人も同様に流れ着いており、後に続いてそれぞれが目を覚ました。
まずは全員が無事だったことに胸をなで下ろす。
「くそッ……何だってンだ…?」
よろよろと起き上がったコテツが、ばたばたと身を振るって水を飛ばしながら言った。
「どうやら……水龍さんがまた暴走してしまった、というところでしょうね…」
同じくよろめきながら体勢を立て直すイザヨイが冷静に分析した。
流れ着いた場所を見渡すと、少し離れたところに見覚えのある港が見えた。どうやらここは鳴都の近くらしい。どれだけ先刃に近づいただろうと思えば、まだ全然進んでもいなかったようだ。深海から地上まではそんなにも遠いということか。
地上と空もずいぶん距離があるとはいえ、今は大樹に蔦の道があるので三日もあれば簡単に行き来できる。そういうものがないから海底の国々とは交流もほとんどなく、伝説だとさえ言われてしまっているのかもしれない。
(もしかして、昔は空の国々も地上からは伝説だと思われてたのかな…)
そんなことを考えながら空を眺めているとイザヨイに声をかけられた。
「シエラ、大丈夫? なんだかぼんやりしてるようだけど…。空に何かあるの?」
「えっ。う、ううん。なんともないよ! ちょっと考え事してただけ…」
いけないいけない。もうあたいは空のことは忘れることにしたんだった。
今のあたいにはイザヨイたちがいる。過去のことはもう水に流すと決めたんだ。
頭を振って水と一緒に雑念を振り払う。
「そ、それよりステイの声が聞こえないけど、あっちは大丈夫なの?」
はぐらかすように話題を変えると、代わってコテツがそれに答えた。
「あいつは殺しても死なねぇようなやつさ。何か見つけたってンで、もう元気に走って行ったぜぃ」
イザヨイと共に、コテツに言われるままにそのステイが見つけた何かを見に砂浜を歩く。
すると港から西にしばらく行った先に水龍が浜辺に打ち上げられているのを発見した。ステイはその周囲を飛び回っている。
どうやら暴走したワダツミは海上に飛び出してこの浜辺にぶつかったらしい。身体の半分以上が陸に乗り上げて砂地に大きく擦れた痕を残している。そしてそのまま大口を開けて気を失っている。
「やれやれ、エラいことになってンなァ…」
「ワダツミ死んじゃった?」
「龍はそンな簡単に死にゃしねぇよ。まァ、だからこそ不治の病なンかにかかるとよっぽど辛いンだろうけどな。どンなに辛くても苦しくても簡単にゃ死ねないンだから、オイラたちとじゃ苦しみと闘う期間がまるで違うってわけだ」
「この水龍さんはエラ呼吸でしたよね。ということは簡単に死んでしまう心配はなくても、やっぱりこのままじゃ苦しいはずです」
「そうだね。陸よりは水の中のほうがいいはず。おいらたちで戻してあげようよ」
ステイが提案し、まずは水龍を海に戻そうということになった。しかし水龍は見ての通りの巨体。これをあたいたちだけの力で運ぶのは無理だ。かと言って、散々港を襲った水龍のために鳴都の住人達が手をかしてくれるとも思えない。
どうしようかと考えていたときにステイが驚いた声を上げた。
「うわっ! 何だこれ!」
見るとワダツミの口から何やら黒い液体が漏れ出している。それはどろどろと粘り気があり、真っ黒でありながら金属のような光沢がある。まるで融けたコールタールか水銀のような……そんな液体がねっとりと糸を引きながら水龍から垂れ落ちている。
「ひぇぇ…。これ何の病気!?」
こんな気味の悪いものが体内から出てくれば誰だって驚くだろう。でも驚くのはそれだけじゃなかった。
黒い水銀は独りでに動き出し、蛇のような細長い首を黒い塊から伸ばすと、血のように赤い眼を見開いてこちらを見た。
「う、動いた!? なにこれ気持ち悪い…」
魔法が使えない二人はもちろん、もしかしたらイザヨイにもわからないかもしれないが、あたいにはそれを感じることができた。これは……似ている。大蛇と戦ったときに見たあれにとてもよく似ている!
「気をつけて! その黒いの強い魔力を発してるよ!」
「な、なンだって! ってことは大蛇のときと同じやつか。魔力の化け物め!」
そのとき黒い水銀が沸騰したかのようにぼこぼこと泡立ち始めると、そこから黒いメーが糸を引きながら誕生した。
「黒メー! 前に見たことがある。たしかコノハメーを追っかけてた…」
「あれが母体ってことか? だがなンで水龍の中に」
「な、なんですあれ!? 何か知ってるんですか? もしかしてあれが病気の原因…!?」
「詳しい話は後だ。とりあえず言えるのは、あれは敵ってことだぜぃ!」
黒水銀から次々に黒メーが生まれると、それらは一斉にこちらに襲い掛かり始めた。
コテツやステイが武器を振り回すが、それは黒メーの身体をすり抜けてしまう。刀や槍の刃が黒メーに当たると、その部分はまるで煙のように霧散してしまうが、すぐに再生して黒メーの身体が再構成される。大蛇との戦いでもそうだったが、どうもあの黒いものは再生能力に優れているのが共通の特徴らしい。そして強い魔力を秘めているということも……
「どういうことなンだ! 大蛇と黒メーは何か関係があったってことなのか!?」
「えーと、メーはメタディアだから大蛇もメタディア? で、あの黒いドロドロもメタディア?」
「ええい、わけわかンねぇ。攻撃も効かねぇ! シエラ、よろしく頼むぜぃ」
メーにはメーを、ハニワにはハニワを。魔力には魔力だ。
大蛇との戦いですでにあの黒いものとの戦い方は心得ている。やつらは魔力の塊、魔力のゴーストのようなもの。どういうわけかはわからないけど、濃縮された液体の魔力が意思を持って動き出している。そんな存在だ。
だからやつらの身体は100%魔力で構成されている。ということはつまり、その身体を構成している魔力がなくなってしまえばやつらは消滅してしまう。敵に魔法を使わせて自滅してもらうのもいいけど、そんなのを待っているほど暇じゃない。それならこちらから魔法をぶつけて、魔力同士を反発させて散らしてしまえばいい。
「任せといて!」
幸いここは海辺、水ならいくらでもある。つまりはあたいの本領発揮というわけだ。
魔法で水を操りスプリンクラーのように拡散させて前方に発射。魔力を帯びた水は無数に発生する黒メーの身体を確実に捉え、そして貫く。すると黒メーは弾けて消滅してしまった。予想通り、あの黒メーも魔力の塊だったわけだ。
「なるほど。そういうことなら私もお役に立てるはずです」
そう言ってイザヨイは炎で黒メーを焼き落としていく。妖術のことはよく知らないけど、どうやらイザヨイの炎も同様にあの黒いメーたちの魔力を散らせる効果があるらしい。そのままイザヨイと協力して攻撃を続けると黒メーの数は見る見るうちに減って行った。
「いいぞ! 順調に減ってるぜぃ。その調子だァ!」
「なんかおいらたちお客さんみたいだね。おいらたちも魔法とか使えたらいいのに」
黒メーを吐き出し続けてきたあの水銀のような母体は、黒メーが生み出されるたびに小さくなっていった。
これも予想通りだ。やっぱりあれも魔力でできた生き物なんだ。つまり魔力を消費し尽くしてしまえば消滅する!
確信のもとに、そのまま攻撃を続けてかなりの数の黒メーを退治した。あの母体はもう消えてしまっただろうか、とその姿を確認しようとすると……
「あ、あれ? あのドロドロはどこ行っちゃったの。もう消えた?」
その姿を探して振り返ったときにはもう遅かった。
「シエラ、危ねぇ!!」
視界には飛びかかる黒い塊とコテツの姿が見えた。
強い衝撃を受けた次の瞬間にはあたいは砂浜に転がっていた。
「シ、シエラ! コテツも、大丈夫!?」
慌ててイザヨイが駆けつけてくるのがわかった。
でもどっちから? 声が上からも下からも、身体の奥からも聴こえる。
視界がおかしい。まるで世界の白と黒が反転してしまったかのように目がチカチカする。
身体がひどい寒気にがたがたと震える。なのに、身体の奥のほうはむしろ焼けるように暑い。熱い!
頭がくらくらする。平衡感覚がおかしい。目が回る……
顔を上げるとそこは砂浜だった。水龍の体内にこんな場所があるはずがない。どうやら自分は水と一緒に水龍のエラが体外に放り出されて、そのあとここに流れ着いたようだ。周囲には他の三人も同様に流れ着いており、後に続いてそれぞれが目を覚ました。
まずは全員が無事だったことに胸をなで下ろす。
「くそッ……何だってンだ…?」
よろよろと起き上がったコテツが、ばたばたと身を振るって水を飛ばしながら言った。
「どうやら……水龍さんがまた暴走してしまった、というところでしょうね…」
同じくよろめきながら体勢を立て直すイザヨイが冷静に分析した。
流れ着いた場所を見渡すと、少し離れたところに見覚えのある港が見えた。どうやらここは鳴都の近くらしい。どれだけ先刃に近づいただろうと思えば、まだ全然進んでもいなかったようだ。深海から地上まではそんなにも遠いということか。
地上と空もずいぶん距離があるとはいえ、今は大樹に蔦の道があるので三日もあれば簡単に行き来できる。そういうものがないから海底の国々とは交流もほとんどなく、伝説だとさえ言われてしまっているのかもしれない。
(もしかして、昔は空の国々も地上からは伝説だと思われてたのかな…)
そんなことを考えながら空を眺めているとイザヨイに声をかけられた。
「シエラ、大丈夫? なんだかぼんやりしてるようだけど…。空に何かあるの?」
「えっ。う、ううん。なんともないよ! ちょっと考え事してただけ…」
いけないいけない。もうあたいは空のことは忘れることにしたんだった。
今のあたいにはイザヨイたちがいる。過去のことはもう水に流すと決めたんだ。
頭を振って水と一緒に雑念を振り払う。
「そ、それよりステイの声が聞こえないけど、あっちは大丈夫なの?」
はぐらかすように話題を変えると、代わってコテツがそれに答えた。
「あいつは殺しても死なねぇようなやつさ。何か見つけたってンで、もう元気に走って行ったぜぃ」
イザヨイと共に、コテツに言われるままにそのステイが見つけた何かを見に砂浜を歩く。
すると港から西にしばらく行った先に水龍が浜辺に打ち上げられているのを発見した。ステイはその周囲を飛び回っている。
どうやら暴走したワダツミは海上に飛び出してこの浜辺にぶつかったらしい。身体の半分以上が陸に乗り上げて砂地に大きく擦れた痕を残している。そしてそのまま大口を開けて気を失っている。
「やれやれ、エラいことになってンなァ…」
「ワダツミ死んじゃった?」
「龍はそンな簡単に死にゃしねぇよ。まァ、だからこそ不治の病なンかにかかるとよっぽど辛いンだろうけどな。どンなに辛くても苦しくても簡単にゃ死ねないンだから、オイラたちとじゃ苦しみと闘う期間がまるで違うってわけだ」
「この水龍さんはエラ呼吸でしたよね。ということは簡単に死んでしまう心配はなくても、やっぱりこのままじゃ苦しいはずです」
「そうだね。陸よりは水の中のほうがいいはず。おいらたちで戻してあげようよ」
ステイが提案し、まずは水龍を海に戻そうということになった。しかし水龍は見ての通りの巨体。これをあたいたちだけの力で運ぶのは無理だ。かと言って、散々港を襲った水龍のために鳴都の住人達が手をかしてくれるとも思えない。
どうしようかと考えていたときにステイが驚いた声を上げた。
「うわっ! 何だこれ!」
見るとワダツミの口から何やら黒い液体が漏れ出している。それはどろどろと粘り気があり、真っ黒でありながら金属のような光沢がある。まるで融けたコールタールか水銀のような……そんな液体がねっとりと糸を引きながら水龍から垂れ落ちている。
「ひぇぇ…。これ何の病気!?」
こんな気味の悪いものが体内から出てくれば誰だって驚くだろう。でも驚くのはそれだけじゃなかった。
黒い水銀は独りでに動き出し、蛇のような細長い首を黒い塊から伸ばすと、血のように赤い眼を見開いてこちらを見た。
「う、動いた!? なにこれ気持ち悪い…」
魔法が使えない二人はもちろん、もしかしたらイザヨイにもわからないかもしれないが、あたいにはそれを感じることができた。これは……似ている。大蛇と戦ったときに見たあれにとてもよく似ている!
「気をつけて! その黒いの強い魔力を発してるよ!」
「な、なンだって! ってことは大蛇のときと同じやつか。魔力の化け物め!」
そのとき黒い水銀が沸騰したかのようにぼこぼこと泡立ち始めると、そこから黒いメーが糸を引きながら誕生した。
「黒メー! 前に見たことがある。たしかコノハメーを追っかけてた…」
「あれが母体ってことか? だがなンで水龍の中に」
「な、なんですあれ!? 何か知ってるんですか? もしかしてあれが病気の原因…!?」
「詳しい話は後だ。とりあえず言えるのは、あれは敵ってことだぜぃ!」
黒水銀から次々に黒メーが生まれると、それらは一斉にこちらに襲い掛かり始めた。
コテツやステイが武器を振り回すが、それは黒メーの身体をすり抜けてしまう。刀や槍の刃が黒メーに当たると、その部分はまるで煙のように霧散してしまうが、すぐに再生して黒メーの身体が再構成される。大蛇との戦いでもそうだったが、どうもあの黒いものは再生能力に優れているのが共通の特徴らしい。そして強い魔力を秘めているということも……
「どういうことなンだ! 大蛇と黒メーは何か関係があったってことなのか!?」
「えーと、メーはメタディアだから大蛇もメタディア? で、あの黒いドロドロもメタディア?」
「ええい、わけわかンねぇ。攻撃も効かねぇ! シエラ、よろしく頼むぜぃ」
メーにはメーを、ハニワにはハニワを。魔力には魔力だ。
大蛇との戦いですでにあの黒いものとの戦い方は心得ている。やつらは魔力の塊、魔力のゴーストのようなもの。どういうわけかはわからないけど、濃縮された液体の魔力が意思を持って動き出している。そんな存在だ。
だからやつらの身体は100%魔力で構成されている。ということはつまり、その身体を構成している魔力がなくなってしまえばやつらは消滅してしまう。敵に魔法を使わせて自滅してもらうのもいいけど、そんなのを待っているほど暇じゃない。それならこちらから魔法をぶつけて、魔力同士を反発させて散らしてしまえばいい。
「任せといて!」
幸いここは海辺、水ならいくらでもある。つまりはあたいの本領発揮というわけだ。
魔法で水を操りスプリンクラーのように拡散させて前方に発射。魔力を帯びた水は無数に発生する黒メーの身体を確実に捉え、そして貫く。すると黒メーは弾けて消滅してしまった。予想通り、あの黒メーも魔力の塊だったわけだ。
「なるほど。そういうことなら私もお役に立てるはずです」
そう言ってイザヨイは炎で黒メーを焼き落としていく。妖術のことはよく知らないけど、どうやらイザヨイの炎も同様にあの黒いメーたちの魔力を散らせる効果があるらしい。そのままイザヨイと協力して攻撃を続けると黒メーの数は見る見るうちに減って行った。
「いいぞ! 順調に減ってるぜぃ。その調子だァ!」
「なんかおいらたちお客さんみたいだね。おいらたちも魔法とか使えたらいいのに」
黒メーを吐き出し続けてきたあの水銀のような母体は、黒メーが生み出されるたびに小さくなっていった。
これも予想通りだ。やっぱりあれも魔力でできた生き物なんだ。つまり魔力を消費し尽くしてしまえば消滅する!
確信のもとに、そのまま攻撃を続けてかなりの数の黒メーを退治した。あの母体はもう消えてしまっただろうか、とその姿を確認しようとすると……
「あ、あれ? あのドロドロはどこ行っちゃったの。もう消えた?」
その姿を探して振り返ったときにはもう遅かった。
「シエラ、危ねぇ!!」
視界には飛びかかる黒い塊とコテツの姿が見えた。
強い衝撃を受けた次の瞬間にはあたいは砂浜に転がっていた。
「シ、シエラ! コテツも、大丈夫!?」
慌ててイザヨイが駆けつけてくるのがわかった。
でもどっちから? 声が上からも下からも、身体の奥からも聴こえる。
視界がおかしい。まるで世界の白と黒が反転してしまったかのように目がチカチカする。
身体がひどい寒気にがたがたと震える。なのに、身体の奥のほうはむしろ焼けるように暑い。熱い!
頭がくらくらする。平衡感覚がおかしい。目が回る……
シエラたちの活躍で黒メーはほとんど片付けられた。
だがオイラは見た。あの母体、水銀メタディアが背後からシエラににじり寄るのを。
魔法のことはよくわからなかったが、どうやらその力を使うためには意識を集中させる必要があるらしく、その間は無防備になりがちだ。あの水銀はその隙を狙ってきたらしい。
気付いたときにはもう遅かった。なんとか助けようとシエラと水銀の間に飛び出したが間に合わなかった。
「だ、大丈夫!?」
慌ててイザヨイが駆けつけてくる。
「オイラはなンともねぇ…。シエラは?」
「わ、わからない。なんだか様子がおかしくて…。コテツは本当に平気なんですか!?」
「ああ、どうってことねぇ」
「そ、そうなんですか? なんだか大変なことになってるように見えますが…」
「大変なこと?」
言われて自分の身体を見回すと全身が黒いネバネバしたものに覆われていた。シエラも同様だ。
「な、なンだこりゃァ!?」
どうやらぶつかった拍子にあの水銀野郎が弾けて飛び散ったらしい。黒いネバネバは糸を引いて体中の毛に纏わりついている。頭から濁った油をかけられたような感触がしてとても気持ち悪い。それにひどい悪臭だ。そういえば水龍の体内からもこれと同じ臭いがしていた気がする。
「うへェ…。きッたねぇな」
「ギトギトわんこだね」
様子を窺っていたステイがいつの間にか近づいてきていた。どうやら黒いメーはもういなくなったらしい。
「これがワダツミの病気の原因だったのかな」
「まァ、そりゃこンなのが腹の中にいたらおかしくもなるぜ…。見ろ、シエラなんてちょっとかかっただけであの様子だ」
シエラはぐったりした様子で目を回しながらイザヨイに介抱されている。
「とにかくこのままじゃいられねぇよ。汚ねぇッたらありゃしねぇ。さっさと洗い流しちまおうぜ。大蛇のときだってシエラの水で黒いのをなンとかできたンだ。これだって似たようなモンだろう」
「そうですね。シエラも具合が悪そうですし……ステイさん、手伝ってください」
「うん、わかった。けど、なんでおいらだけ『ステイさん』のままなのかな…」
黒いネバネバは幸い海水でなんとか洗い流すことができた。海を汚してしまったかもしれないのは、鳴都のやつらや乙姫たちに申し訳ない気分になったが、今だけは勘弁してほしいところだ。シエラの具合も悪いことだし仕方がない。
汚れを洗い落とすと、シエラはまだ調子が悪そうだったがなんとか話せる程度には回復したらしく、開口一番に「魔力中毒…」と呟いた。
「魔力中毒?」
あの水銀メタディアは強力な魔力の塊だった。それを一気に浴びたことによって自身の魔力の許容量を超えてしまうと、激しい頭痛や目眩などの諸症状に襲われることになるのだという。すぐに洗い流したために大事には至らなかったが、ひどい場合には精神が崩壊してしまうこともあり得るのだという。
「じゃあワダツミもそのマトリョーシカだったのかな。意識がなくなることがあるとも言ってたし」
「魔力中毒。うん、たぶん…ね。しかも体内にいたっていうんだから、あたいの何倍も苦しかったはずだよ…」
その原因は今こうして取り除かれ、そして水に流された。しばらくすればワダツミも回復して元気になるはずだ。そうすれば乙姫たちも鳴都も助かり、船の運航が再開してオイラたちも助かる万々歳というわけだ。
だがひとつだけ腑に落ちないことがあった。
「ところで同じものを浴びたのに、水龍やシエラの具合が悪くなってオイラだけ平気ってのはどういうことなンだァ?」
「ああ、それはね…。コテツはたぶん魔法のセンスがまるでないんだと思う。魔力がすっからかんだから、そもそも魔力中毒にはならないんだね」
「なるほど! 許容量ゼロだから吸収することもないんですね。よかったわね、コテツ」
「……それ喜ンでいいのか」
何はともあれ一件落着、まずはワダツミを起こして乙姫に事態が解決したことを伝えに行こう。と、水龍に近づいたそのときだった。
「そ、そんな…!?」
ステイが悲痛な叫びを上げた。
ぼたぼたと不吉な音を垂らしながら、その黒い水銀は滴り落ちる。
水龍の体内からは次々と、おびただしい量のそれが溢れ出してくる。
何十体ものどろどろした黒い塊。水銀のようなメタディア。
その名を『メルキュール』
だがオイラは見た。あの母体、水銀メタディアが背後からシエラににじり寄るのを。
魔法のことはよくわからなかったが、どうやらその力を使うためには意識を集中させる必要があるらしく、その間は無防備になりがちだ。あの水銀はその隙を狙ってきたらしい。
気付いたときにはもう遅かった。なんとか助けようとシエラと水銀の間に飛び出したが間に合わなかった。
「だ、大丈夫!?」
慌ててイザヨイが駆けつけてくる。
「オイラはなンともねぇ…。シエラは?」
「わ、わからない。なんだか様子がおかしくて…。コテツは本当に平気なんですか!?」
「ああ、どうってことねぇ」
「そ、そうなんですか? なんだか大変なことになってるように見えますが…」
「大変なこと?」
言われて自分の身体を見回すと全身が黒いネバネバしたものに覆われていた。シエラも同様だ。
「な、なンだこりゃァ!?」
どうやらぶつかった拍子にあの水銀野郎が弾けて飛び散ったらしい。黒いネバネバは糸を引いて体中の毛に纏わりついている。頭から濁った油をかけられたような感触がしてとても気持ち悪い。それにひどい悪臭だ。そういえば水龍の体内からもこれと同じ臭いがしていた気がする。
「うへェ…。きッたねぇな」
「ギトギトわんこだね」
様子を窺っていたステイがいつの間にか近づいてきていた。どうやら黒いメーはもういなくなったらしい。
「これがワダツミの病気の原因だったのかな」
「まァ、そりゃこンなのが腹の中にいたらおかしくもなるぜ…。見ろ、シエラなんてちょっとかかっただけであの様子だ」
シエラはぐったりした様子で目を回しながらイザヨイに介抱されている。
「とにかくこのままじゃいられねぇよ。汚ねぇッたらありゃしねぇ。さっさと洗い流しちまおうぜ。大蛇のときだってシエラの水で黒いのをなンとかできたンだ。これだって似たようなモンだろう」
「そうですね。シエラも具合が悪そうですし……ステイさん、手伝ってください」
「うん、わかった。けど、なんでおいらだけ『ステイさん』のままなのかな…」
黒いネバネバは幸い海水でなんとか洗い流すことができた。海を汚してしまったかもしれないのは、鳴都のやつらや乙姫たちに申し訳ない気分になったが、今だけは勘弁してほしいところだ。シエラの具合も悪いことだし仕方がない。
汚れを洗い落とすと、シエラはまだ調子が悪そうだったがなんとか話せる程度には回復したらしく、開口一番に「魔力中毒…」と呟いた。
「魔力中毒?」
あの水銀メタディアは強力な魔力の塊だった。それを一気に浴びたことによって自身の魔力の許容量を超えてしまうと、激しい頭痛や目眩などの諸症状に襲われることになるのだという。すぐに洗い流したために大事には至らなかったが、ひどい場合には精神が崩壊してしまうこともあり得るのだという。
「じゃあワダツミもそのマトリョーシカだったのかな。意識がなくなることがあるとも言ってたし」
「魔力中毒。うん、たぶん…ね。しかも体内にいたっていうんだから、あたいの何倍も苦しかったはずだよ…」
その原因は今こうして取り除かれ、そして水に流された。しばらくすればワダツミも回復して元気になるはずだ。そうすれば乙姫たちも鳴都も助かり、船の運航が再開してオイラたちも助かる万々歳というわけだ。
だがひとつだけ腑に落ちないことがあった。
「ところで同じものを浴びたのに、水龍やシエラの具合が悪くなってオイラだけ平気ってのはどういうことなンだァ?」
「ああ、それはね…。コテツはたぶん魔法のセンスがまるでないんだと思う。魔力がすっからかんだから、そもそも魔力中毒にはならないんだね」
「なるほど! 許容量ゼロだから吸収することもないんですね。よかったわね、コテツ」
「……それ喜ンでいいのか」
何はともあれ一件落着、まずはワダツミを起こして乙姫に事態が解決したことを伝えに行こう。と、水龍に近づいたそのときだった。
「そ、そんな…!?」
ステイが悲痛な叫びを上げた。
ぼたぼたと不吉な音を垂らしながら、その黒い水銀は滴り落ちる。
水龍の体内からは次々と、おびただしい量のそれが溢れ出してくる。
何十体ものどろどろした黒い塊。水銀のようなメタディア。
その名を『メルキュール』
黒、黒、黒――
右も左も、それどころかあたり一面をこの黒は覆い隠してしまう。
その中は『黒』でいっぱいだった。
右も左も、それどころかあたり一面をこの黒は覆い隠してしまう。
その中は『黒』でいっぱいだった。