灰色の空。吐息すらも凍りつきそうな氷点下。
しかし氷結の大地に佇むその男の体は、じっとりと汗ばんでいた。
タツミヤはフードの奥で息を吐いた。空気は重い。先ほど聞かされた話と今ここにある状況がそう感じさせていることは言うまでもなかった。
慣れている。殺し合うのも、死体を見るのも。
けれどこんなことに巻き込むなら、せめて"あの頃"にしてくれよと頭を抱えたい気分だった。
「死にたくは……ないな。流石にまだ」
ぼそりと呟くように言葉が落ちる。
誰に聞かせるでもない独白だ。死は馴染み深いが、拒絶の念はそれ以上に深く根を張っていた。
こんなふざけた茶番のような儀式の中で命を落とすなど、冗談ではない。
振り返れば空虚な人生だった。生誕を祝福する名前もなく、感情を持つこともなく、ただ命じられた標的をいるかも分からない神のために屠る日々。 そんな自分が今ただの生存のために牙を剥こうとしているのは、見方によっては進歩と呼べたのかもしれないが。
――生きていたいという思いは、本物だった。
もはや、人形のように役目をこなすだけだったタツミヤはいないのだ。
いつかの、ひどい吹雪の日。雨宿りならぬ雪宿りのつもりで入った図書館で見つけた一冊の画集。
虫食いで見るも無残な有様だったが、それでもそこに描かれていた艷やかな美は空洞の魂に灯を点してくれた。
悟りと呼ぶには不純すぎる動機だと自分でも思うが、それは確かにタツミヤにとっての幼年期の終わりだったのだ。
生きていて楽しいことよりも、目を覆いたくなるような苦難の方が圧倒的に多い世界。
だとしても、やはり死にたいとは思えない。
ましてや耳通りのいい"誰か"の大義の轍になるなんてまっぴらごめんだった。
だからこそ、タツミヤの心には既に決意が浮かんでいた。
そして。
ちょうどそんなタイミングで――ざり、と雪の上に足音がした。視線を動かす。そこにいたのは、幼い少女だ。
小柄。風景に溶け込みそうな銀白の髪。
民族調の防寒衣は、どこかシャーマニックな印象を抱かせる。
普段なら背伸びした子どものようで愛らしい姿も、この状況では与える印象を変える。
寒さをものともしない身のこなしでとてとてと足を進めている姿はあまりに無防備で、芽生えたばかりの決意を実行に移させるには十分すぎた。
(仕方ない。恨みはないが、今更聖人君子をやるのもおかしな話だ)
一瞬の、おそらくは人間的と呼ぶべき逡巡。
タツミヤはフードの奥で目を細め、神禍を起動させた。
「"深愛なる抱擁(ディープ・アフェクション)"――来たれ我が欲、我が憧憬」
小さく呟いた降臨のコマンドワード。
それに合わせて両腕の袖が破れ、ぬるりと赤紫色の触手が伸び出る。
全部で八本。粘液状の塩水を滴らせるそれらには無数の吸盤が犇めいており、まさしく蛸の触腕そのものだった。
こんな状況だというのに下腹に熱を覚えてしまう自分に辟易するが、妄想に酔っている時間はない。
体温が一気に上がる。心拍数が跳ねる。禍者との戦闘は、いつも肝が冷えるものだから。
「……行け」
呟いた直後、触手が獲物に向けて一斉に躍った。
地を抉るほどの勢いで地面を滑り、少女へと殺到していく。
自然界の蛸がそうするように、縦横無尽に包囲を形成しながら迫る――だが。
ひゅ、と風が鳴いたかと思った次の瞬間、一閃。
銀白の残像が弾けた。触手の一本が斬られ、ぼとりと地面に落ちてのたくっている。
(――速い)
タツミヤの目が見開かれる。
既に少女の姿は消えていた。
刹那、小動物めいた痩身はタツミヤの懐にあった。
風圧と共にナイフが迫る。反射的に残る触手で防御を試みた結果、今度は三本が纏めて斬られる。
「ちッ……」
皮膚が裂ける鋭い痛みに、小さく呻きが漏れた。
タツミヤの神禍は異界の神を召喚するだとか、そんな大それたものではない。
肉体を媒介にした、蛸の特性の再現。それが彼の力の正体である。
よって斬られればちゃんと痛いし、蛸足の末路次第では気絶ものの地獄を味わう羽目にもなってしまう。
たまに現れる狂信者などはこの神禍を様々な美辞麗句で褒めそやすが、本人に言わせればまったくもって取り回しの悪い力だった。
いっそ本当に邪神なり何なりと"繋げて"くれる力だったらどれほど良かったかと、こうして痛みのフィードバックを受ける度に思っている。
少女の手にあったのはサバイバルナイフだった。
恐らくは支給された武器なのだろうが、問題はそこではない。
本人の身のこなしだ。まるで踊るように触手を躱し、無駄のない身のこなしで凶刃を振るってくる。
(手練れだな……あの教団にも、ここまでやれる奴はそういなかったぞ)
厚着をしているとはいえ寒さの影響を感じさせず、呼吸も乱れていない。
神禍の影響というよりかは、身体機能として効率のよい体力の使い方を体得しているのだろう。
気を抜けば喉笛を掻っ捌かれそうな、その攻撃精度の異常さに心底ゾッとする。
自分の触手は見た目こそ蛸そのものだが、実際は高密度な筋肉で形成された殺傷器官だ。
軌道は変幻自在で、そんな得物がまったく不規則な軌道で襲ってくるのだから対処するのは決して容易ではない筈。
なのにそれに、初見でこうもあっさり適応してくるとは。
直感が告げている。あれは――"生き延びてきた者"の眼だ。
白紙化され、そこかしこに凶暴な禍者が彷徨く地獄と化した地球を、身ひとつで生き抜いてきた手練れの眼。
タツミヤは後退しながら片膝を突き、姿勢を低くした。
防御に使った二本が新たに損傷し、もはや残る触手の数は二本にまで減少している。
呼吸を整えながらフードの奥で目を細めるタツミヤに、少女は何も喋らなかった。ただ静かに、次の攻撃のための構えを取っている。
確信する――手加減はできない。
そんな無駄を抱えて挑めば、返り討ちに遭うのは必然だと理解した。
「……いいさ。なら、見せてやる」
呟くと同時、腹の底から呻くような息が漏れた。
背中が膨らみ、ダウンジャケットが裂ける。それなりに気に入っていたので惜しいが、四の五の言ってはいられない。
更に肩からも、新たな触手がうねるように生えてくる。
水音が響き、墨の匂いが空気に混じる。圧縮された神経と筋肉の塊――それは彼の"想い"の顕現だ。
「出力(ギア)を上げるぞ……!」
新たに生やした触手の数は、蛸の限界を超越した驚異の三十本。
生物学的にはあり得ない数字だったが、端からタツミヤはそんな常識になど興味がない。
彼にとってこれはあの日出会った憧憬であり、魂の芯に刻まれた癖(へき)なのだ。
最果てのない憧れは理論上、タツミヤをどこまでも怪物に変えることができる。
神話のクラーケン宛らの姿を晒すや否や、無数の触手が水飛沫のように四方へ展開されていく。
「っ――――」
濃密な水音と触手の擦れ合うおぞましい音が、戦場の空気を塗り替えた。
少女がここで初めて息を呑んだが、それは詮無きことだったと言えよう。
タツミヤの全身、その随所から伸びた触手は地を這い、空を裂き、彼女の視界を埋め尽くす勢いで広がっていた。
墨混じりの霧が広がる。吐き出される体液は、この氷点下の世界では比喩でなく熱を奪う致死の猛毒に等しい。
とはいえやはり、対峙する少女も只者ではなかった。
その姿は、再び掻き消える。
刃を片手に駆け回る少女の機動力は、タツミヤをして超人的と言う他ないものだ。
しかし、そうであろうと――。
「何のこともない。数で圧すれば、罷り通るだけだろう」
低く呟き、タツミヤは躊躇なくそれを実行に移した。
触手の一本が地を叩く。跳ね上がる雪煙。続いて残りすべてが娘の周囲を囲い込み、空間そのものを閉ざしにかかる。
それはもはや障壁だった。個の攻撃ではなく、空間そのものを支配する圧殺の波状攻撃。
触手はタツミヤの意思を忠実に反映してそれぞれ絡み合い、蛇の巣のように動線を遮断し、隙間という隙間を潰していく。
遂に、跳ね回る少女の足が止まった。反応の遅れか、それとも臆病風にでも吹かれたか。
いずれにせよ、好機である。
「……終わりだ」
それでも少女は健気な抵抗を続けていたが、この本数と軌道にナイフ一本で対処しきるのはどうあがいても不可能だ。
少女の足首を触手が絡め取ったのを皮切りに、触手が一気に巻き付く。
足首から胴、肩へと順に拘束が広がり、少女の小柄な身体は、宙に持ち上げられるようにして浮かんだ。
艶やかに揺れる銀白の髪が粘液で濡れる光景はどこか官能的だったが、こうなってはもう誰であろうと抜け出せない。
後はもう、一瞬で終わる。
それでいい。たとえ相手が幼い少女でも、ここは生きるか死ぬかの戦場だ。
こちらから仕掛けたとはいえ、彼女には明確に自分を討とうとする意思もあった。であれば何も迷う必要はない。
だが、その時。
「――マッサージにしては微妙。ぬるぬるしてあんまし気持ちよくない」
少女が、やや不満げに口を開いた。
意表を突く一言だった。そこには殺気も怒気も、焦りの一片さえ窺えない。
痛みを訴えるでもなく、哀訴でもなかった。ただの、率直な感想だ。
「……なに?」
思わず零れた、タツミヤの言葉。
だが結論から言えば、その一瞬が彼にとっての命取りだった。
「あとちょっと臭い。ぬめりはちゃんと取ってほしい」
触手の檻が――内側から破裂した。
巻き付いていた触手のすべてが、内部から鋭く裂けたのだ。
血のような体液が飛び散り、遅れて、タツミヤの身体に神経を引き毟られるような激痛が走る。
「がッ、ぐ……!!」
それでも、暗殺者として鍛えられてきた肉体は忘我の隙を晒さない。
気をやらないだけでも大したものだったが、触手を一瞬で全滅させられたのは言うまでもなく致命的だった。
当然次を出そうとするものの、身体機能の延長として生じさせる都合、どうしてもそこには遅延が発生してしまう。
その一瞬を見逃さず、解き放たれた少女は地を蹴った。
音もなく、獣じみた身体運動。
空気を貫いて踏み込み、最接近。慌てて腕を構えようとした時には、既に遅かった。
少女の細足から繰り出される、鋭利な瞬速のハイキック。
狙い通りそれはタツミヤの顎に直撃し――衝撃と共に、視界が回転する。
思考が止まった。脳が揺れる。内耳が焼けついたような感覚に神経が一瞬で麻痺し、重力の感覚が消える。
最後に見えたのは、無表情で佇む少女の瞳。それは飽きるほど見てきた、あの凍てついた空の色とまったく同じだった。
「――――くそ」
そのまま、タツミヤの身体は崩れ落ちた。
生えかけていた触手は消失し、溶けるように霧散していく。
昏倒した襲撃者の姿を、少女は顔色ひとつ変えずに、見下ろしているのであった。
◇◇
温もりが、頬を撫でている。
乾いた熱。焦げた匂い。
パチパチと薪が弾ける音。
氷に閉ざされたこの世界には不釣り合いなぬくもりに、タツミヤの意識が引き戻された。
瞼が重い。全身が倦怠感に包まれている。偏頭痛のように頭が痛む中、記憶が徐々にかたちを成していく。
触手の裂ける痛み。
スローモーションになった視界で見つめる、恐ろしく鋭いハイキック。
――そうだ、俺は負けたのだ。
瞬間、タツミヤはハッと目を見開く。
跳ね起きようとしたが、身体が上手く動かない。
筋肉がだるく、まともに力が入らなかった。無理やり意識を断ち切られた分、思いの外ダメージが残っているらしい。
辺りは仄暗い。暗いのではなく、仄暗い。
見れば焚き火が設けられており、それが周囲を微かに赤く染めていた。
火の前に、あの少女がいた。
名も知らない、幼い娘。自分を打ち倒した張本人。
しかし当の本人は、相変わらず何を考えているのかよくわからない顔で焚き火を見つめている。
が、よく見ると、手に木の枝を持っていた。先端には焦げ目の付いた何かが刺さっている。
炙られているものの正体を理解してタツミヤ、思わず絶句。
串焼きにされているのは、さっきの戦闘で切断された蛸(じぶん)の触手だった。
「……おい。何してる」
低く呻くように声を出すと、少女はこちらを振り返った。
「あ。起きた?」
あっさりとした声。敵意もなければ、緊張もない。
まるで、戦いなどなかったかのように。
彼女はそのまま触手の串焼きを火から外すと、躊躇なく口へ運んだ。
「んぐ。もにゅもにゅ」
「いや待て。二、三ほど聞きたいんだが……それは俺の神禍だぞ。何故食ってる……?」
「珍しいものはとりあえず食べてみる主義。
だけど……うん、微妙。タコっていうよりイカ……ダイオウイカに近いかな」
咀嚼しながら、少女は淡々と述べる。
無表情のまま、口の中で味を探るように舌を動かしていた。
「新鮮だからか臭みはそこまでないけど、飲み込んだ後にえぐみが残る。
熱を通したから筋が固まって歯ごたえも微妙。コリコリっていうかゴリゴリって感じ。安い回転寿司の生貝みたい。がっかり」
「人の神禍を食レポするなよ……」
タツミヤは思わず呟いた。
本当に、いろんな意味で目の前の状況に頭が追いつかない。
ついさっきまで戦っていた相手が、かつて自分だった残骸(もの)を焼いて食レポしている。悪夢のような光景だった。
なんだか真面目に向き合うのも馬鹿らしい気がしてならず、タツミヤが苦し紛れに口にした台詞は。
「……ダイオウイカは深海の生き物だろ」
「うん。前に獲りに行ったことがある。あれはかなりの死闘だった」
「水圧って知ってるか?」
さすがに呆れ顔を禁じ得ない、タツミヤ。
だが少女は、当然のようにこくりと頷いた。
「私の神禍はいろんな環境に適応できる。まあ、深海は流石にちょっとしんどかったけど」
言葉が詰まる。
タツミヤは唖然としながら、再び焚き火に目をやった。
頭の中でパズルのピースが噛み合う感覚を覚えていると、彼女の方から答え合わせをしてくれた。
「あなたの神禍に対応できたのもそのおかげ。
圧迫感とかぬめり気とか、そういう諸々を無視した」
少女はそう続ける。
微かな炎の揺らぎが、彼女の銀白の髪を照らす。
あの瞬間の出来事はまったく不明な事態だったが、そう聞くと納得だった。
要するに、力技で押し潰そうとしたのが間違いだったというわけだ。
もっと根気強く戦いを演じていればよかったものを、勝負を急いだせいで逆に彼女の土俵に上がらされてしまったらしい。
禍者同士の戦いはこれだから嫌なのだ。
平然と後出しジャンケンのような真似をされるから、暗殺者として築いた積み重ねが状況によってはまったく活きない。
内心でぼやきながら、タツミヤは身体を起こす。
ようやく手足に力が戻ってきていた。怪我は軽微。だが――なぜ生きているのか。その一点だけが、あまりに不可解だった。
自分は明確に殺意を持って彼女に襲いかかった。
神禍も惜しみなく使ったし、殺されてもおかしくない狼藉を働いた自覚はある。
なのに目覚めてみれば、待っていたのは温かい焚き火と触手の串焼きだ。
おかしい。どう考えても、おかしい。タツミヤがそう感じるのも当然だろう。
「……なんで殺さない。あのソピアとかいう女の話を聞いてなかったのか?」
焚き火の炎が、薪をゆっくりと食らっていた。
風は冷たいが、火の回りだけは眠気がしてくるほど温かい。
問われた少女は、ちらと横目でタツミヤの様子を見やり。
「……確かに、殺すこともちょっとは考えた。
でも私の神禍じゃ、この殺し合いを一人で生き抜くのは難しそうだったから」
焚き火を見つめたまま、彼女はタツミヤに淡々と告げる。
表情には変わらず起伏がない。
だがその声には、幼い少女らしからぬ聡明さが滲んでいた。
「あらゆる状況に適応できるって言えば聞こえはいいけど、適応しようのない攻撃には無力なの。
例えば銃でいきなり後ろから撃たれるとか、剣の達人に間合いでずんばらりんとやられるとか。
そういうのに私はとても弱い。で、名簿をちらっと見た感じ、ここにはそれをしてきそうな奴がそこそこいる」
そこで、言葉を区切る。
灰の中に落ちた炭がはぜる音が、ぽん、と空気を弾いた。
「だから、殺すのは組めるかどうか見てからでも遅くないと思った。理由はこれでいい?」
それはあまりにも、同じ状況に置かれた身として見習いたくなるほど合理的な判断。
けれどその合理の裏に少しだけ人間らしい感情が混じっているように、タツミヤには思えた。
「……それに、私だってあんまり殺しはしたくない。避けられる殺人は避けて通るよ」
ぽつりと呟きながら、リズは手元の串をくるりと回す。
焦げ目のついた触手の肉片がくすぶるように煙を上げていた。
「ん」
無言で、リズはそれを差し出してくる。
タツミヤは眉を顰めたまま、しばらく見つめていた
いや、正気か。この幼女は正気で言っているのか。
自分の身体を食えと言っているようなものだぞ、これは。
「食べれる時に食べておかないと後悔する。食べた方がいい」
「……食料なら支給品に入ってる筈だが」
「あんな暖かみのないものは食べ物のうちに入らない。あれに手を付けるのは本当の最終手段」
渋い顔で呟きながらも、気付けばタツミヤは触手の串焼きを受け取っていた。
焚き火のぬくもりが、串の先端を通して手に伝わる。
確かに腹は減っていた。だがこれを食べるのは、本当に何か人間として大切な尊厳を失ってしまう気がする。
あの日、自分に電流にも似た感動を与えてくれた蛸の触手が串焼きになっている。しかも、なんか不味いらしい。北斎に土下座してほしかった。
「ほら。騙されたと思って、早く」
「……、……」
意を決して、かじる。
顔の渋さが増す。本当においしくなかった。
北斎のアレは不味いらしい。知りたくなかった。知りたくなかったな。
歯応えはあるが、いかにも粗悪な海産物って感じだ。焼いてるのに妙にぬめりがあって、筋繊維なのか筋ばってるようにも感じる。
旨味のようなものはあるものの微かで、後味にはわずかにえぐみが残る。吐き出すほどではないが、繰り返して食べたいとは思えない。
「……確かに、これは蛸じゃないな」
「でしょ」
リズの評価が妙に的を射ていたので、タツミヤは嘆息する。
しかし、よもやこんな機会がやってくるとは微塵も思っちゃいなかった。
どこの誰が自分の神禍を食する展開など予想できるのだ。ていうかこういう使い道もあったのか。素直に盲点だった。
また、薪の割れる音。
火が、静かに燃えている。
それはこの氷の世界に似つかわしくない、あまりに人間的な営みに思えた。
殺し合いの場でこうして人と人が膝を突き合わせて語らっているという状況自体、まあ傍から見ると正気ではないのだろうとも思う。
そこでふと、リズが呟く。
「私はリズ。趣味で旅人をやってる」
「旅人……。その歳でか?」
「うん。世界がこうなる前からあちこち歩いてたよ。ところであなた、タツミヤでしょ」
「…………まあ、知ってても不思議じゃないか。俺もそれなりに悪名を轟かせてる自覚はあるし。不本意ながら」
「そうじゃない。あなたのことはある人から聞いた」
「なに……?」
タツミヤは、訝しむようにリズを見た。
まず、自分は名乗っていない。とはいえそこは正直些細だ。
思い返すまでもなく、自分にはあまりに多くの過去がある。教団時代の仕事、都市圏での潜伏、全球凍結後に仕方なくやった殺し……なまじ目立つ神禍をしてるものだから、何かと悪名を撒き散らしてきたのは確かだ。
しかし人から聞いたとなると、少し話が変わってくる。
戸惑いを隠せないタツミヤに、リズは何気ない口調で続けた。
「玄じいが口開く度にタツミヤの話ばっかりするから、嫌でも覚えちゃった」
玄じい。
そのワードを聞いた瞬間、タツミヤの顔が分かりやすく引き攣った。
「は? いや待て。待て、待て待て待て待て……」
声が裏返る。空気が一瞬で凍ったような気がした。
反射的にデイパックから参加者名簿を取り出し、切羽詰まった顔で視線を這わせる。
嘘であってくれ。まさかそんな偶然は無いでくれ――そんな彼の懇願を嘲笑うように、その名はあった。
〈猿田玄九郎〉。名前を認めた瞬間、タツミヤはその場に崩れ落ちそうになった。
「最悪だ……。よりにもよって、あの天狗ジジイまでいるのか……」
火に照らされた額から脂汗が滲む。
頭を抱えたまま、長く深い溜息を吐く。
氷より冷たい世界の中で、蛸の住む海よりも深い呼気が静かに漏れた。
――猿田玄九郎。
焚き火の前で、タツミヤは苦虫を噛み潰したような顔で、その忌まわしい名の禍者について思い出していた。
黄色い袈裟を着た天狗もどき。求道者を気取りながら、口を開けば脳の溶けたみたいなことしか言わないクソジジイである。
火を見つめているはずの視線は、既に遠い過去を彷徨っていた。
痩せた体に不釣り合いな豪腕。羽団扇を背負い、吹雪をものともせず飛び回る奇怪な老人。
ひょんなことから目をつけられてしまったのが運の尽き。
それからというもの会うたびに妙な挑発をされ、わけも分からず喧嘩を売られた回数は数知れず。
本気で殺してやろうと思ったことも一度や二度じゃないが、なまじ腕が立つので排除も叶わず、玄九郎はタツミヤの胃痛の種として存分に君臨を続けていた。
「……まずい。本格的に吐き気がしてきた」
「玄じいがあんまりボロクソ言うからどんな人だろうと思ってたけど、正直、予想よりまともな感じでびっくりした」
「だろうな……。あのジジイの言うことは、全部話半分で聞くのが賢明だぞ……」
心底うんざりした顔でタツミヤは天を仰ぐ。
玄九郎の口ぶりからして、他人を褒める言葉など期待できない。
どうせ「根性が足りん」「欲が薄い」「何々をしていないのは人生の無駄遣い」などろくでもない論評ばかりなのが容易に察せられる。
「第一、どこであの天狗もどきと繋がったんだ……? あのジジイ、基本話が通じないだろう……」
「どうしても登ってみたい山があって。入ろうとしたら玄じいが飛んできて、『そこは儂の修行地じゃ。無断で入るな』って。こんな顔で」
ぎゅうっと顔のパーツを真ん中に寄せて皺を作り、声真似してみせるリズ。
あの老人の言いそうなことだった。なまじ求道者ぶっているのがあの年頃特有の老害ムーブに拍車をかけていることもよく知っている。
「だから何度も挑戦した。
断られて、また行って、話して、また断られて、話して……そんな感じ」
「そこまで食い下がるなよ。一回話したら分かるだろ、アレが関わっちゃいけない人種なことくらい」
「でも、最終的には許してくれたよ。仲良くなったら結構気のいい人だった」
あっさりと言ってのけるリズに、タツミヤは思わず絶句する。
気のいい人。あの老害天狗とはおよそいちばん結びつかない形容だ。
ヒトの悪癖を鍋で煮詰めて腐らせたみたいな人間だろうアレは。
「……あの玄九郎に、孫みたいな歳のガキを慈しむ感性があったとは。にわかには信じられないな」
「そう? 玄じいって確かに頑固な変人だけど、あの人なりに一本芯が通ってるから。私は最初からそういうタイプだと思って接してたよ」
言いながら、リズは串を手に取ってかじった。
小さな歯が、焼け焦げた触手に沈む。
そうしつつ、彼女は「それに」と続けた。
「玄じいがタツミヤにムキになるのも分かった。タツミヤ、相当強い」
「倒した相手にお世辞はやめろ……。嬉しくないぞ、別に……」
「お世辞じゃない」
タツミヤが苦々しげに吐き捨てるように言うと、リズは即座に否定する。
口元に焼けた触手の先を運びながら、彼の瞳を覗き込む。
「倒したって言うけど、タツミヤ、私を殺す気なかった」
「そんなことはない。……ちゃんと、殺すつもりで攻撃したよ」
タツミヤは焚き火の炎越しにリズを見ながら、曖昧にそう呟いた。
「俺は自分のために他人を犠牲にできる人間だ。
この意味の分からない儀式に参加させられて、真っ先に考えたのは"こんなところで死ねるか"だ。
その矢先にお前がのこのこ出てきたから、格好の獲物だと思ったよ。結果はこのザマだが」
嘘は言っていないし、今更取り繕って媚びるつもりもない。
第一そういうものは、この少女には通じないという確信があった。
リズは火の明かりを受けて、相変わらず表情に起伏のない瞳で、静かにタツミヤを見返していた。
その口がゆっくりと動き、「そうなんだ」と興味があるのかないのか分からない声音で言う。
「けど、話してみて分かった。少なくとも玄じいが言ってたほど、タツミヤは悪いやつじゃない」
「……参考までに聞きたいんだが、あのジジイ俺のことなんて言ってたんだ……?」
「『一匹蛸の臆病者』『墨しか出せぬ薄味人生』『大助平』『絵に描いた餅』『たこわさにして食うたろかい』……」
「聞いた俺が馬鹿だった。後お前も、そんな罵詈雑言を真に受けるな」
聞いているだけでげっそりする。
別に馬鹿にされて怒るようなプライドなんて持ち合わせちゃいないが、あのジジイはこんな小さな娘を捕まえてそんなこと吹き込んでいたのか。
やはり殺そう。いやそうじゃない、会いたくもないので最初の放送とかであっさり名前が呼ばれてくれることを切に祈ろう。
「捕まった時なんか特にそう。ノータイムで握り潰されてたら、正直為す術もなかった」
「……だったらそれは俺が優しいんじゃなくて、衰えてるんだろうな」
答えながら、タツミヤの思考はあの画集と巡り合った"運命の日"を追憶していた。
あの日、廃墟の図書館。煤けた棚の奥で偶然見つけた、葛飾北斎の画集。
育ちが育ちなので、名前は知っていたが実際に何を書いているのかは知らなかった。
自分に芸術を介せる情緒があるとも思えなかったので、吹雪が止むまでの暇潰しにでもなればと思って手に取っただけだった。
ぱらぱらと頁をめくった瞬間、目に飛び込んできたあの作品を見た時の衝撃は今も忘れられない。
『蛸と海女』。海女のしなやかな肢体に絡みつく蛸の触腕。触れ合いながら、言葉では語れぬ情が流れる構図。
官能、崇敬、依存、渇望――それらが一枚の紙に凝縮されていた。
衝撃だった。自分の中にあった何かが、音を立てて崩れた。多分それは、固定観念とかそういう名で呼ぶべき概念なのだろうと思う。
それまでタツミヤという人間を構成したのは、物心ついた時から定められていた"役目"だけ。
感情など介在する余地はなく、むしろ親代わりの教官達からはそういうものは排除して仕事に徹する生き方を散々教え込まれてきた。
だがあの絵を見た瞬間、凡そ三十年をかけて培われたすべてが音を立てて崩壊するのを感じた。
欲望というものがこうまで人間を変えるのだと初めて知った。
生まれた情動は一過性ではなく、永遠に脳内にのさばって自分を突き動かし続けている。今だってそうだ。
自分の存在意義として繰り返してきた殺しのウェイトが、いつの間にか二番手以下の価値にまで成り下がっていた。
リズに負けたのは、ひとえにひとつの結実なのだろう。だからタツミヤはそれを、"衰え"と評したのだ。
そんな彼にリズは、少しだけ目を伏せた後、言った。
「タツミヤが本気だったら、勝負はわからなかったと思う」
「お前みたいなガキに褒められても、な……」
「もしそうだったなら、私は迷わずタツミヤを殺してた」
淡々と告げるその声に、無駄な感傷はなかった。
再び、静寂。焚き火の音が穏やかな雪夜を染める。
世辞や慰めではあり得ない、喉元に突きつけられる切っ先のような冷たさを含んだ言葉だった。
「これもなにかの縁。私と協力しない? タツミヤ」
「……酔狂だな。俺が衰えてると分かった上で、わざわざ足手まといを抱え込むのか……?」
「さっきも言ったけど私の神禍は"適応"が前提。だから情報が多ければ多いほど強くなるし、死ににくくなる。
そうでなくても私の経験上、別視点の知識や視点を持ってる人が側にいると、旅はぐっと安全になるから」
触手の筋を噛み切りながら、リズはさらに言う。
「……それに。
やっぱりタツミヤは私と違って、"躊躇できる"人間なんだと思う。そういう人が側にいると、私も助かる」
「まるで自分は躊躇しないみたいな言い方だな」
「そう。私はたぶん、そういう感性を持ってない」
タツミヤの眉が、わずかに動いた。
何の逡巡もない返事。その簡潔さが、むしろ重たかった。
リズは黙ったまま、焚き火に新しい薪をくべる。
ぱちぱちと木の裂ける音が耳に残る。
「人を殺しちゃいけない、それは分かってる。ただし感情じゃなく、理屈として」
火の粉が宙に舞う。彼女はそれを追いながら言葉を続けた。
「でも、私は生きるためなら誰でも殺せてしまう。
神禍を手に入れる前からできたんだから、今は尚更そう。たぶんここでも、必要ならすぐにやると思う」
「……、……」
「生きるために誰かを殺す。それが悪いとは思わない。選べないなら仕方ない。他人のために命を投げ出すほど、私はお人好しじゃない」
言葉を切る。
ややあって、けど、と旅人は目を伏せた。
「私だって、殺さず済むに越したことはないと思う。だから傍に、自分とは別の判断基準がほしい」
「買いかぶり過ぎだ。俺だって今まで散々殺してる……俺が善人に見えるならお前の眼は濁ってるぞ、リズ」
「根っからの悪人は、そんな風に人を諭したりしない」
そう言われるとタツミヤも黙るしかない。
口調はあいも変わらず、淡々としたものだ。
だがその内容はこんな小さな少女が語るにはあまりに冷たく、異常だった。
――この少女は、何者なのだ?
タツミヤの脳裏に、今更ながらそんな問いが浮かんだ。
全球凍結時点なら一桁の齢だろうに、その頃から旅をしていたという経歴。
禍者との戦闘に慣れている自分でさえ、目で追えない速度の体術。
戦闘では一切の迷いなく攻め落とし、即座に最善手を導き出す弩級の観察眼。
歳相応の無邪気さをまったく持ち合わせない、悪く言えばあまりに得体の知れない娘。
常軌を逸している。が、事実、目の前に存在している。
まるで氷の世界そのものが形を取ったような、そういう存在。
本来なら慎重になるべきなのだろう。この手の"異質"に深入りしすぎると、軋むのは自分の精神だ。
だが――。
タツミヤは深く息を吐いた。氷の空気を吸い込みながら、ゆっくりと焚き火の向こうの少女を見つめる。
「……分かった。俺は正直、救世主を嫁にするとかそういう話はどうでもいいクチだ。
生きてこの妙な儀式から抜け出せるなら、そこにこだわりを持ち込むつもりはない」
「そ。じゃあ、契約成立だね」
リズは顔を上げた。
その目には驚きも喜びもないが、だからこそ奸計の気配は窺えなかった。
雪の降る音すら吸い込む氷原の中で、赤い光だけがどこまでも穏やかに揺れている。
リズは手元のデイパックに手を伸ばすと、中から支給品の水入りペットボトルを引き抜く。
透明なプラスチックの容器。少女は蓋をくるくると外すと、そのキャップに並々水を注ぎ入れた。
そして何の前触れもなく、それを口元に運び、ごくりと半分ほど呑んでみせる。
残りを静かに手で持ち、タツミヤの前に差し出すから彼としては狐につままれたような顔をする他ない。
「これは……何の真似だ?」
「盃」
「は?」
呆れ顔のタツミヤが声を上げる。
キャップの水を盃に見立てて手渡してくるという理外の行動。
しかも相手はどう見積もっても自分より二周りは年下だろう幼女だ。
そんな相手に思いっきり口をつけたキャップを差し出されたものだから、さしものタツミヤも困惑と躊躇を禁じ得ない。
「……いや、まずいだろう。流石に。いろいろ」
「なんで」
「なんでって言われても……条例的に……?」
「こんな雪玉の星で、タツミヤは法律を気にするの? ヘンだね」
「ヘンなのはお前だ。間違いなく」
リズは小首を傾げる。
まるで意味が分からないという顔だった。
「ほら、早く。冷えちゃう」
「水だから冷えてもいいだろ」
「でも早く。私が気分的になんか嫌」
「はああぁあぁああ……。分かったよ、付き合えばいいんだろ……」
タツミヤは深く息を吐いた。
渋々キャップを受け取り、唇をつけて一気に飲み干す。
当たり前だが何の味もしない。なんだかすごく意味のないことをさせられた気分だったが、一方でリズはちょっと満足げに胸を張っていた。
「確かに見届けた。これで私とタツミヤは一蓮托生」
「……どこでこんな真似覚えたんだ?」
げっそりした顔でタツミヤが呟くと、リズはあっさりと答える。
「玄じいに教わった。ジャパニーズヤクザのお作法。殺し合いをする私達にはぴったり」
「……待て。じゃあお前、あの天狗ジジイとも……」
「もち。盃交わし済み。ぶい」
リズは手でVサインを作って見せた。
やっぱりあのクソジジイはマジで最悪の生命体らしい。
タツミヤは柄にもなく頭を抱えたい気分のまま、風変わりな同盟相手と共にしばし炎を囲んだのだった。
【F-5・民家前/一日目・深夜】
【リズ】
[状態]:健康、やや満腹(少食だから)
[装備]:触手の串焼き、サバイバルナイフ
[道具]:支給品一式
[思考・行動]
基本:生きる。あんまり人は殺したくないが、必要なら仕方ない。
1:タツミヤと行動する。慎重に会場を探っていきたい。
[備考]
※猿田玄九郎と面識があります。打ち解け、盃を交わした仲であるようです。
【タツミヤ】
[状態]:軽い頭痛、そして胃痛(主に玄九郎が原因)
[装備]:なし
[道具]:支給品一式
[思考・行動]
基本:生存優先。
1:リズと組む。ストッパー役としては期待しないでほしいが……。
2:クソジジイ(猿田玄九郎)がいることにたいへん憂鬱。マジで会う前に死んでてほしい。
[備考]
※触手はあんまりおいしくないようです。
最終更新:2025年06月26日 00:48