この離島がまだ人の住む場所として生きていた頃、此処は知る人ぞ知る通人の隠れ家的な店として親しまれていたのかもしれない。
いまや時は凍りつき、島は死の静寂に包まれた。氷河期の到来によって全ては終わってしまった。潮の香りも、海鳥の声も、灯りの点る夜の営みさえも過去のものとなり、ただ冷気が万物を支配している時代。
島の一隅――おそらくかつては飲み屋街であったと思しき、瓦礫と雪の積もった通りの傍らに佇む一軒の雑居ビル。地下へと続いて口を開けた階段を下り、凍りついた鉄の扉を押し開けば、永眠した憩いの場が現れる。
そこは、この離島に場違いなほど洒脱な空間であった。天井の梁は黒檀色に塗られ、壁面には今は色褪せた高級クロスが張られている。バーカウンターは重厚な一枚板が深い栗色の光沢を未だに残し、しかしその表面には薄氷が張り詰めていた。
棚にはもはや色とりどりのボトルが列を成して並び、冷気と霜と埃が、全ての隙間を埋め尽くしている。
壁の一隅には古いジュークボックスが朽ちたまま据え置かれ、その横には装飾の施された小さなランプ――ひび割れたガラスシェードが、凍てついた時間の名残を語っていた。
かつて此処には、造詣深いバーテンダーと、豊潤な酒を目当てに通う常連たちがいたのだろう。氷の浮かんだグラスが静かに置かれ、淡い照明のもと、誰かが物憂げに葉巻などくゆらせていた日々があったはずだ。それも今となってははただ遠い記憶の彼方に霞んでいる。沈黙こそが支配者となったこの空間で、過去の喧騒はあまりにも脆く、哀しいまでに遠かった。
冷たく息を潜めるように、氷の底で眠り続けている筈の小洒落た廃墟に、今日は珍客があった。
氷と静寂に支配されたその地下の空間にあって、ただ一人、なおも人の体温を持つ者がいる。山のような巨躯の白人で、髭は無造作に茂り、それがまるで猛獣の鬣のごとく顔を覆っていた。
頭には毛皮の縁取りが厚く縫い込まれたフライトキャップを被り、その奥からぎらつく青い眼が心地よい酩酊に揺れている。上半身を覆うのはかつて名を馳せた旧時代の高級ダウン。色褪せぬ威光の残り香を纏いながら、巨人は朽ちたスツールに難なく腰を据えていた。
彼の前にはただひとつ、澄んだ琥珀色の液体が満たされた厚底のグラスがあった。それは氷河を削って得たような冷たさと、逆説的なまでの火の力を宿し、彼の太い指に包まれながらじわりと傾けられる。
口元に運ばれるたび、髭の奥で唇がにやりと歪み、荒ぶる魂が悦楽に呻く。喉を焼くその滴を、一切の肴もなしに胃へと流し込む。
空間を満たすのは、霜に閉ざされた静寂と、中で浮き彫りになる獣のような呼気。彼の振る舞いは粗雑で、下品で、暴力的で、だがどこか不気味なまでに自信に満ちていた。琥珀の炎がその巨体を内側から燃やし、滅びの中に残された最後の火柱のように、彼はそこにある。
珍しい事というのは重なるもので、王が憩う場所に二人目の珍客が訪れた。
扉が掻き毟るような擦過音を立てながら開かれ、男達は互いに全く予期せず対面を果たす。白人の眼光が静かに向けられたが、対し今入ってきた日本人の青年は動じた風でもなく、へえ、と興味深げな声を漏らすのみだった。
「気持ちよく飲んでる所悪いな。まさか同じ魂胆の奴がいるとは思わなかったもんでよ」
「構わねえよ、日本人(ジャップ)の坊や。酒は人間を寛大にしてくれるもんさ」
二つ隣の座席に腰を下ろしたのは、確かに日本人の青年である。
だが彼は、一瞥しただけで尋常ならざる気配を漂わせていた。アジア人にしては異様に長身で、氷に閉ざされたこの地下にあっても身一つ震わせず、堂々とした佇まいをしている。
その黒髪は艶やかに長く、無造作に後頭部で結い上げられた一本の束が、まるで峻厳な刃のように空間に線を引く。首元から覗く皮膚は冷気に晒されても血色を失わず、まるで灼けた鉄の芯を秘めているかのようだ。
眉目秀麗という言葉の範疇にありながら、それを表面で感じさせぬのは、その眼差しに籠められた毒のせいだろう。細く切れ長な双眸は笑っても笑わず、他者の内奥を抉るように冷たく、鋭い。
口元に浮かぶ笑みは隠す事もなく歪んでおり、他人の柔らかい部分に付け入る事を目的とした悪辣な戯れに満ちている。礼節も、柔和さも、日本人に期待されるいかなる美徳も、彼が纏う空気には一切含まれていない。
「お……悪くねえ品揃えだな。酒にありつけるのはありがたいねぇ、カラダ火照らせとかねえとおちおち探索もできやしねえからな」
カウンターの奥にずかずか踏み込むと、青年は多少吟味してから、一本のアイリッシュウイスキーを手に取った。
スツールに腰を下ろせば並々注ぎ入れて喉へ流し込み、靴底を卓上に乗せて品性とは無縁の姿で寛ぎ出す。
「下品な飲み方しやがって。俺のシマならこの場で袋叩きだぜ」
「カハッ、お説教出来る身分かよテメー」
一杯目を瞬く間に飲み終えると、青年の視線は白人へ向く。
「――アンタ、“ハード・ボイルダー”だろ」
その名は、荒廃した世界に響く渾名に過ぎない。
荒涼とした旧ラスベガス、かつて煌びやかなギャンブルの都として知られた廃墟のカジノ群を自らの城とし、略奪と暴力によって勢力を築いてきた凍土の支配者。
王の権威として横暴を働き、暴力による服従を世界の理と叫ぶ。
暴力と支配欲を解き放ち、この混乱した世界でならず者の王となった男の異名は、氷の世界にも毒々しい震えのように広がっていた。
尤も青年が彼を知っていた理由は、少しばかりそれとは違っていたのだが。
「ラスベガスの王、荒れ狂う馬、凍土の支配者……いつかお目にかかりたいと思っちゃいたが、まさかこんな場末の酒場でしっぽり呑ってるとはな。人生何があるか分からねえもんだ」
ならず者の王に負けず劣らず下品に笑って言う日本人に、ハード・ボイルダーも同じ顔で応えた。
先の彼の言葉をわざと真似て、今度は王がその名を言い当てる。
「そういう坊やは、“カルラ・ワダチ”だな」
全球凍結後に名を轟かせたのがハード・ボイルダーなら、星の崩壊に先立って俗人に己の存在を知らしめたのが轍迦楼羅だ。年齢も国籍も違う二人の間にある第一の共通点。彼らはどちらも粗暴で、下品で、そしてそれ故に悪名高い。
「『ボクシングを終わらせた男』。俺はファンボーイじゃないから詳しくねえが、随分酷え荒らし方をしてたと聞くぜ」
「世界にでも出りゃちったあマシな喧嘩が出来ると期待したんだけどな。あれなら其処らの破落戸の方がよっぽど腹の足しになったよ」
轍迦楼羅。まだ世界に興行という概念が残っていた時代、彼はプロボクサーとして世界中を敵にした。
それまで伝説と呼ばれていた先人達を次々と一撃で蹴散らし、自分は一発も被弾する事なく、史上最速でチャンピオンベルトを勝ち取り……次の日にオークションへ投げ捨てて、ボクシングを愛する全ての人間に怒りと絶望を刻み込んだ“戦闘の天才”だ。
「その点、今のアメリカは退屈しなくてよかったぜ。ただほっつき歩いてるだけで禍者がノコノコ出てきてくれるんだ、これ以上の暇潰しはねえ」
挑発の意思を明け透けに、迦楼羅はそこに拠点を持つ王へ言ってのけた。
全球凍結後、轍迦楼羅はアメリカに根を下ろしていた。堂々と家を持ち、付き人も付けずに歩き回っては、獲物を見つけたと勘違いして飛び出してくる禍者達を殴り倒して金品を奪う。王は王でもハード・ボイルダーとは違う、百獣の王の暮らしだ。無論神をも恐れぬ迦楼羅には、虎の尾を踏まないよう慎ましく生きるという感性が備わっていない。
「ただまあ、迎え撃つだけってのも退屈でな。ボクサー時代の話じゃねえが、今度は乗り込んでみるのもアリかと思ってた矢先にこの出会いだ。神の思し召しってやつかもな、かははは」
「ジャップに微笑む神なぞいねえよ。おたくの国のシンボルは無神論者と“おたく”だろう」
「違いない。わが祖国ながら陰湿な国さ」
よって当然、彼は何度となくハード・ボイルダーの支配するラスベガスでも武勇を轟かせていた。王者の靡下を殴り飛ばし、裏の市場を荒らし、シノギを奪うような真似も数知れず。
命知らずの蛮行の理由は、言うまでもなくこのギャングスターを殿上に引き摺り出す事にあった。
何故? その答えは彼自身さえ持っていない。轍迦楼羅にとって人生とは刹那の快楽であり、彼の中で『面白そう』という欲望以上に優先されるものはないのだ。迦楼羅がそうまでして誘っていた男が目の前にいて、一緒のカウンターで酒を飲んでいる。
「名簿は見たか、ワダチ」
「ああ、見た」
「錚々たるメンバーだったろう。俺でさえ迂闊に関わりたかねえ奴らが揃い踏みだ、久々に天を仰ぐって事をしたくなった」
「大統領閣下が重役出勤させられてて笑ったわ。あのラッパー、此処でもいつも宜しく公務に勤しんでんのかね」
ハード・ボイルダーにとっても、迦楼羅は目障りな糞餓鬼以外の何物でもなかった。
もしソピアが殺し合いを催していなかったら、彼は今頃轍迦楼羅討伐の為に本腰を入れ始めていたかもしれない。
王とは天で、天とは王。それに唾吐く者を見過ごしては、自分の権威を損ねる事になる。念願叶ったのは迦楼羅だけでなく、ハード・ボイルダーの方もそうだった。にも関わらず髭面の王者は牙を剥く事もなく、付き合いの長い友人に世間話をするような調子でグラス片手に話している。
それはある意味、拍子抜けする程牧歌的な光景で。そして同時に、起爆寸前の核爆弾を前にしたような異様な緊張感を孕んでもいた。
「あんなジャンキーなんざどうでもいいだろ。それより先に見るべき名前があった筈だぜ」
「かっはっはっ! オイ、何だよハード・ボイルダー。テメーまさかあんな“もどき”共にビビってんのか」
滅ぼしの魁を担った十二の崩壊、その四体。中東圏に巨大な地獄を築いて、砂漠の王を謳っている鋼の魔王。
無軌道に氷の星を彷徨って汚染の神禍を振り撒いている少女。アジアで無双の限りを尽くすという皆殺しの観音菩薩。
気を重くする名前なら山程ある。だが迦楼羅は、それら全てをまともに視界へ入れてすらいないようだった。
「そんな奴らは怖かねぇ、それこそゴールドスミス顔負けのジャンキーだろうよ。地に足付けて生まれた分際で自分はこんなにすごい化物なんだって勝ち誇ってるような連中、本気で向き合うだけ無駄ってもんだ。
幻滅させんなよ、ラスベガスの王様。俺達が生きてるのはこんな有様でも人間の世界だぜ」
「そうかい」
まさに神をも恐れぬ物言いだったが、奇妙な事に、彼の大言を皮切りとしてバーの室温が上がり始めた。
言わずもがな外は極寒であり、室内とはいえ暖房なんて気の利いた設備がこの時代に存在する筈もない。まして此処は地下階だ。壁はある、天井もある、だが実際の体感温度は外気とほぼほぼ変わらない。
だというのに寒さが淘汰されていく。エアコンで暖気を流し込んでいるかのように暑くなり、気付けば吐く息さえ色を帯びないようになっていた。
「実はな、俺はお前を買ってた。ジャップは好きじゃねえが、てめえの西部開拓時代から抜け出してきたみたいなアウトローぶりは嫌いじゃなかったよ。だから適度に鼻っ柱をへし折って、首輪を付けて飼ってやろうと思ってたんだ」
温度変化はそれだけに終わらず、汗さえ滲み出す程になる。地上から消えた過去の概念に夏というものがあるが、今このバーの室温は伝聞に残る真夏日のそれにまで上げられている。
明らかに異常な現象だったが、轍迦楼羅も、そしてハード・ボイルダーも、そこに疑問を持つ事はない。
「だが俺の方こそ幻滅だぜ、カルラ・ワダチ。俺はな、そういう“色”を嫌悪してる」
迦楼羅は現象の正体を理解していたし、ハード・ボイルダーに至っては引き起こした当人だった。
この熱は凍土の王者の神禍によるものだ。スツールに座り、酒が半分程残ったグラスを握ったままの巨漢。彼が指一本動かす事なく到来させている暖気――冬の拒絶に他ならない。
琥珀の液体がゆるやかに揺れる。巨漢の手がグラスを傾けるたび、陽炎のように立ち上る熱気が、この場を異様な仮想現実へと変貌させていく。汗ばむ額を気にもせずハード・ボイルダーはじっと中空を見据えている。
「組織ってのはな、火薬庫みてえなもんなのさ。湿気った思想や軟弱な絆でくくっちゃあ、いざってときに火がつかねえ。かと言って余計な爆ぜ方をすれば俺の手が焼ける。だからこそ、俺はてめえの組織に火種は入れねえ。そいつは俺の玉座を脅かすからな」
その声は度が過ぎた傲慢を含みながら、しかし何処かで乾いていた。凍土の王として生きてきた男の理路は真っ直ぐそのもの。迦楼羅の祖国の比でない程に荒れ果て、力が価値を持つ廃したアメリカ・ラスベガス。
それを如何に律してきたかという、彼の理の開陳のようでもあった。
「俺の組織に“色”はいらねえ。尖った感性も、信仰心も、誇りもだ。俺が飼う犬は、迂愚でいい」
熱はなおも高まっていた。壁に張りついた霜が音を立てて弾け、凍りついたカウンターの木目が、じりじりと歪みさえ見せている。だが彼は構わない。この熱こそが彼に力を与える燃料であり、彼が築く秩序であり、この混沌の時代に君臨出来た理由だ。
ハード・ボイルダーが轍迦楼羅を買っていたのは誓って本当である。人種など秩序の廃された社会にあっては些細。力が何より雄弁に物を語る時代において、迦楼羅のような解りやすく強い兵力は値千金の価値を持つ。
だがそれはあくまでも、従順に自分へ従うのならばの話だ。
反骨心は力で折ってやればいいとして、胸に一本通った芯まではどうにもならない。
「人間の誇り、世界がどうなろうと変わらない魂……全く大したもんさ。是非その志を使って、街角で葉巻が買える世の中に戻してほしいもんだ」
真の男とは俺一人。それだけいれば十分であって、同じ視点で語り合える誰かなど全くもって不要だ。
そう信じるハード・ボイルダーにとって、轍迦楼羅は見事なまでに問題外だった。
恐れを知らず、超人の存在を信じない精神の形を示した事で晴れて彼はラスベガスの王に失望された。王は従順を愛するが、恭順しない跳ねっ返りを忌み嫌っている。
採用試験は不合格。そうと分かれば、礼儀を知らない狂犬に王が示す采配は決まっている。
「身の程を知りやがれ、クソガキ」
空を満たす熱の気配が、害意となって王の裁定を象徴した。
ハード・ボイルダーが放った蹴りは、股関節にロケットエンジンを搭載したかのような絶速で轍迦楼羅の横面を打ち砕かんとする。
常人であれば間違いなく防御はおろか、反応する事すら不可能であろう速度であったが、しかしそれは空を切る事になった。
軽々と首を横に傾けて、薄皮一枚裂かれる事もなく凌いでみせたのは無頼漢。彼は突如行われた攻撃に反撃を返すでもなく、ただ口を開いた。
「嫌われたもんだな、悲しいぜクソ野郎。短い間とはいえ一緒に酒飲んだ仲なのによ……ハードボイルドの名が泣くぞ」
ハード・ボイルダーもこの崩壊した世界を今日まで生き延びてきた猛者である。禍者同士の戦闘など数え切れない程こなしているし、打ち破った中には自分と同じだけの権勢を誇示した強者もいた。
だからこそ彼は、今の一瞬のやり取りだけで轍迦楼羅の二つ名が事実である事を理解した。
圧倒的な反応速度と、目の前の敵を僅か程も恐れず、而してつぶさに観察し見抜く洞察力。そしてそれら度の外れた能力値に破綻なく付いていける、冗談のような身体能力。
「戦闘の天才、だったか。看板に偽りはねえようだ」
初撃で潰す算段をへし折られた形になったにも関わらず、ハード・ボイルダーは胆気を崩さず目の前の無頼漢を見つめていた。
重ねて言うが、ラスベガスの王の名は伊達ではないのだ。たかが戦闘の巧者に臆して芋を引くようでは、凍土の支配者は務まらない。
巨漢の口元が歪む。ようやく思い通りに熱が上がりはじめた機関車のような、愉悦にも似た軋みであった。
「――なあワダチよ。いい時代になったと思わねえか?」
巨漢の口から洩れた呟きは、熱気に滲む空間に染み込むように低く、重かった。真夏日を超えた室温の中で、フライトキャップの毛皮はうっすらと汗に濡れている。だが彼は拭おうともしなかった。額から垂れるその一滴にすら、彼は生の実感を感じている。
「くだらねえ倫理も法も建前も……今となっちゃ全部氷の下だ。どこで誰が殺されようが、誰が何を奪おうが、咎める奴はいねえ。声を上げる奴がいたとしても、それを守る仕組みがもうない。誰もが黙って、自分の番が来ないように祈ってる。
美味い汁を吸えるのはいつだって俺やお前のような強い人間だけさ。こんな素晴らしい時代が、かつてあったか?」
正義と呼ばれていた幻影が、季節とともに葬られた今。ハード・ボイルダーはその喪失を惜しむどころか、讃えてさえいた。
彼は堕ちた秩序の使徒。よって他の誰よりも、それのある世界の生き辛さを知っている。
「奪って、殺して、勝ち取った者だけが生き残る。異論を唱えたかったらねじ伏せてみせればいいってんだから実にシンプルだ。どんなバカでも分かる簡単な理屈で、今この世界は回ってる」
彼の声に、酔いの熱が混じる。だが、それは決して酩酊による脆弱な揺らぎではなかった。酒という燃料によって、普段は鉄鎖の奥に沈めている本音の歯車が、軋みを立てて回転し始めたに過ぎない。
「上も下も、右も左もねえ。真に優れた人間が頂点に立って、弱え奴は咀嚼されるか恭順するかを選ぶ。理想郷(ユートピア)だ」
琥珀のグラスをもう一度煽る。喉がごくりと動き、次いで獣のような息を吐いた。
テーブルに置かれたグラスの縁には指の脂が白く残っている。
「だからこそ、俺はお前が惜しいよカルラ・ワダチ。お前が俺の下で働いたら、そりゃあもう最高に使える部下だっただろうに。なあ、今からでもそう遅くはねえだろう。無駄な色なんて捨てちまえ。そしたらお前はもっと高く飛べる。俺の下でな」
そこまで言って、彼は一つ、ひび割れた笑みを浮かべた。燃え尽きた世界の中で、尚燃え続ける火柱のような男。
その炎は周囲を焼くだけでなく、自らをも焼いて歓喜する。男として生まれたからには燃え盛っていなきゃ寂しいぜと、恥知らずな傲慢を隠さない。
熱し恭順を迫る王者に、迦楼羅はどこか肩の力を抜いたように、緩やかに笑った。
「俺は誰の下にもつかねえよ。どうしてもって言うんなら、力で叩き伏せてみな」
言葉は平坦だったが、そこには一切の躊躇がなかった。信念というには粗野すぎる。だが、その分揺らぎがない。獣がただ獣として生きるように、彼はただ“轍迦楼羅”としてこの世界を闊歩している。それ以上でも以下でもない、迦楼羅というゼロ地点の中庸だ。
「えらく買って貰えてるようで光栄だが……俺は正直安心したぜ。なにせラスベガスの王様だ、権威が過ぎて痛ぇ親父にでもなってんじゃねえかと思ったが――」
迦楼羅とハード・ボイルダーは、生まれた国は違えども本質的に似た者同士だ。
真の男を恥ずかしげもなく自称し、恥も悔いも知らずに生きる。彼らにとって他人とは強いか弱いか、自分に従うか否かで区別されるものでしかなく、だからこそ言動に配慮なんてある訳もない。
が、一つだけ決定的に違う所があるとすればそれは、迦楼羅は周り全てを見下している一方で、彼なりの愛を持って傍若無人を働いている事だ。
「――杞憂だった。ハード・ボイルダー、テメーはちゃんと人間だ」
その言葉が空気を裂いた刹那、巨漢はまるで雷撃の如く動いた。
躊躇いも、警告もない。椅子を蹴り飛ばして瞬間的に放たれたのは、怒号を纏った灼熱の蹴撃だった。脚部より噴き上がる神禍の推進が空気を灼き焦がし、爆発にも等しい衝撃を生み出す。
もはや蹴りというより、熱と質量の塊を用いた砲の一撃だ。だが。
「かはッ。気に障ったかい、王様」
それを、轍迦楼羅は真っ向から迎え撃った。
脚を引かず、腰も退かず。ただ右拳を捻り上げ、真っ直ぐにぶつけた。対の拳同士が衝突する音ではなく、熱を粉砕するような、鈍くも甲高い金属音めいた音響が鈍い低音で響き渡る。
瞬間、空間全体が逆流した。熱が引き、気圧が巻き戻る。熱波に包まれていた空間が、本来の温度を思い出したように白んだ。
「てめえ……」
巨漢の口元がわずかに歪む。その場に踏みとどまりながらも、彼の目は此処で初めての苦渋を浮かべていた。
神禍という超常が生み出す熱量は、徒手空拳で戦う迦楼羅との間に計り知れない程のアドバンテージを生み出している。だというのに拳一つで本気の一撃を止めてみせたというだけでも驚愕に値するのは言わずもがな。だが――問題は他にあった。
(熱が消えてやがる。“神禍殺し”か、このガキ――)
自らが放った火が、神禍によって搭載した《燃焼》そのものが、轍迦楼羅の拳によって奪われたのだ。吹き飛ばされたのではない。削られたわけでもない。
まるでその存在を否定されたかのように、拳のぶつかった一点から、周囲へ向かって熱が拡散せず霧散していくのをハード・ボイルダーは感じていた。
小さく、だが確かに舌打ちをする。実際お目にかかるのは初めてだったが、極稀に神禍を殺す神禍というものを宿す禍者がいると聞いた事はあった。
迦楼羅程の技量を持った人間が無効化、ないしそれに似た性質の力を宿しているとは余りに面倒だ。
しかしそれ以上に、ハード・ボイルダーの胸奥に湧き上がるのは別の感情――怒り、苛立ち、その両方。身に滾るどの熱よりも根深く、感情の芯を灼くような感覚が、王者の内面を煮え立たせている。
そんな彼の様子を見透かしたように、いや事実見透かしながら、迦楼羅は薄笑いを浮かべる。
「テメーは色と呼んだが、実際間違っちゃいねえ。嫌いなんだよ、自分が弱く儚い人間であるって事から逃げて、化物だの超人だの気取ってる連中が。
昨日まで定時出社で上司にぺこぺこ媚び売ってた野郎が、力を持った途端さも別物にでもなったように振る舞いやがる。情けねえ、みっともなすぎて笑えねえし反吐が出る」
ハード・ボイルダーの顔が、皮肉にもありし日の、秩序の番人を勤め上げていた頃のように歪む。
追い詰められた者の罵詈雑言など彼は聞き飽きているし、今更眉一つ動かす事はない。だが今の彼は、ジャケットの下に隠した逆鱗をおちょくるように撫でられ、張り裂けんばかりの怒気を香らせている。
度を越えた怒りを覚えれば酩酊も引く。その証拠に彼は憤激する内心とは裏腹に、顔の赤みを失せさせていた。
「道徳の授業じゃ落第生でも、人間としちゃテメーのスタイルは実に正しい。好きに食う、好きに殺す、好きに犯して猿山の王様を気取る……煽ってる訳じゃねえぜ、本当に感心してんだ。
俺はアンタが好きだぜ、ハード・ボイルダー。アンタはまさしく人間の強者、人間の大悪党だ。男の中の男って触れ込みもあながち嘘じゃねえかもな」
褒めるような口調だったが、迦楼羅の笑みは明らかな嘲笑だった。自分が今相手の地雷の上で踊っているという確信に満ちた戯れ。
生まれ育って自我を持ち、他者との関わりを覚えたその日から、轍迦楼羅の内面は何一つとして変わっていない。
彼にとって世界の全ては己の足元。嘲り、馬鹿にし、高笑いしながら愛し奉る付属品。
されど迦楼羅は、そんな弱くて情けない人間達を心の底から愛している。
「ところでよ。そんなに着込んで……アンタ随分寒がりなんだな」
決定的な地雷を踏み抜かれた瞬間、ハード・ボイルダーは今度こそ何の思案もなく、眼前の悪童を必ず此処で殺すと決定した。
それは、嗤ってはならぬ男の琴線だった。
刹那、空間が爆ぜる。
何の前触れもなく、バーの天井が軋み、壁が膨張した。まるで熱に膨れ上がった世界そのものが悲鳴を上げているかのように。次の瞬間、ハード・ボイルダーの全身から噴き上がった神禍(ねつ)の奔流が、空間そのものを焼き潰した。
逃げ場など無論存在しない。
『荒れ狂う馬』の本領は、火炎放射や自己強化のような単発的な熱量ではない。漲る熱を無制限に放出して空間そのものを焼き、息する事すら許さぬ灼熱の時代を作り出す事にある。
鉄骨が溶ける。床が波打ち、カウンターは音もなく崩れ落ちる。高熱に晒された棚のガラス瓶が一斉に破裂し、中の液体が音もなく蒸発した。木材の芯にまで炎が喰らいつき、梁という梁が軋みの絶叫を上げながら崩落を始める。
それでも、ハード・ボイルダーは止まらない。巨躯の全身から、呼気までもが燃え盛る大熱波となって放出される。その姿は、もはや人間の形を留めた熱源でしかなかった。
地獄めいた放熱の只中にあって、ただ一つ、男の両眼だけが冷え切った怒りを湛えていた。
やがて全てが鎮まり、空間が静けさを取り戻した時――そこに、轍迦楼羅の姿はなかった。
骨も残らず焼滅したかと思う程、ハード・ボイルダーは愚鈍ではない。
残響のように漂う熱風の中、天井が抜け、しかし落ちてくる天井さえ焼き尽くした事で大穴が見下ろす形になった廃墟のバー。足元の黒炭に、蒸気を纏ったブーツの先がぶつかる。
肩で息をしていた。呼吸というより、怒りの熱を吐き出すような、音のない荒れた息だった。
轍迦楼羅を殺す事は感情を除いても有意な行動だったと自信を持って言えるが、流石に熱を吐きすぎたらしい。
煩わしい疲労感と共に胡座をかき、王はデイパックから予め拝借しておいた酒瓶を取り出した。封も切らずに、歯でキャップをねじ切る。
そして迷いなく煽る。
焼けるような琥珀が喉を伝う音だけが、崩壊の静寂の中に響いていた。怒りの芯に流し込まれる冷却剤のように、それは彼の内側を通り抜けた。
ある程度飲むとボトルを投げ捨て、男は袖で口元を乱暴に拭う。
「……クソッタレが」
悪態をつくその姿は、迦楼羅の言葉を証明するかのように、酷く人間らしいものだった。
【G-1・雑居ビルB1F/1日目・深夜】
【ハード・ボイルダー】
[状態]:疲労(中)、酩酊、不快感
[装備]:
[道具]:支給品一式、くすねた酒類
[思考・行動]
基本:優勝する
1:その為に部下を集め、効率よく参加者を減らす
2:轍迦楼羅はいずれ必ず殺す。
[備考]
【轍迦楼羅】
[状態]:右腕に火傷
[装備]:
[道具]:支給品一式
[思考・行動]
基本:救世主だ何だに興味はない。思うままにこの状況を楽しむ。
1:化物はお呼びじゃねえ。欲しいのは弱く無様に足掻く人間さ。
[備考]
※儀式に呼ばれる前は渡米していたようです。
最終更新:2025年07月02日 22:10