ここでは、既存の史料に登場する沖ノ鳥島の様子について解説する。
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伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)の黄泉(ヨミ)の国伝説(出典:古事記)
内容
伊邪那岐命と伊邪那美命は、日本神話の冒頭に登場する神でありこの二柱は夫婦である。二柱はオノゴロ島にて国産みと神産みを繰り返し、無辺に空虚たる世界に土地や神を数多と産み出した。しかし、伊邪那美命が火の神である火之迦具土神(ホノカグツチノカミ)を産んだ際、その炎により伊邪那美命は女陰を火傷し、その傷が原因で死んでしまった。これを悲しんだ夫の伊邪那岐命は、伊邪那美命を復活させようと思い立ち、死者がいるとされる黄泉国(よもつくに)に向かった。漸く黄泉国に至った伊邪那岐は伊邪那美を連れて帰ろうとするが、既に黄泉国の食べ物を口にしてしまった伊邪那美命は元の国に帰ることができなかった。そこで、伊邪那美命は黄泉国の神に相談するから待つように伊邪那岐に言って去ってしまった。また、その際決して自身の姿を見ないよう伊邪那岐に伝えた。長い間待たされ待ち切れなくなった伊邪那岐命は、ついに我慢できず伊邪那美命を探すと、見るも恐ろしき様相の妻を発見してしまう。辱めを受けたと感じた伊邪那美命は、黄泉国の者に追いかけるよう指示し、伊邪那岐命は追われることとなった。ようやっと、黄泉国を抜け出した伊邪那岐命は急いで岩で入り口を塞ぐのであった。
沖ノ鳥島との関係
この伝説は、日本のある地点での伝承が比喩的に誇張されたことで生まれた。その伝承とは、ある集団が古代に遥か南方の沖ノ鳥島へ至った仲間たちを呼び止めようと、遥々沖ノ鳥島まで追ったものの、島に着いた頃には渡った集団はすでに生活基盤を築いていて帰郷を拒否していたため、呼び止めに行った人物が泣く泣く帰宅したという話が元となっている。これにより沖ノ鳥島の先住民(=ムー人)との小規模な戦闘が発生したようで、それが伊邪那岐命の逃避行の伝説の元となった。
田道間守(タヂマモリ)伝説(出典:『日本書紀』『古事記』 だが、内容の大筋は変わらないので、ここでは『日本書紀』に拠る)
内容
田道間守は日本書紀の登場する人物で、垂仁(スイニン)天皇に仕えていた。垂仁天皇90年(西暦61年?)2月1日に田道間守は垂仁天皇の命に従い、非時香菓(トキジクノカグノミ)を求めに常世(トコヨ)の国に向かった。なお、非時香菓とは当時不老長寿の効果があると信じられていた果物で、現在でいう橘のことである。また、常世の国とは古代日本で信じられた、海の彼方にある理想郷のことである。常世の国に向けて万里とも言える広大な海を渡り、まさしく命を賭した旅の末、田道間守はついに非時香菓を手に入れ、垂仁天皇99年(西暦70年?)3月12日に遂に帰還した。しかし、垂仁天皇はその半年と少し前に亡くなっていて、田道間守は悲しみに明け暮れた末に跡を追って自死した。
沖ノ鳥島との関係
この伝説における「常世の国」とはまさに沖ノ鳥島のことであり、また「非時香菓」とは沖ノ鳥島に自生していたマンゴーのことである。沖ノ鳥島は遥か遠路の先の秘境であり、また南方に位置するがために独特の自然環境であったため、その異質性からか日本ではいつしか常世の国という理想郷として語られるようになったのだ。
ニライカナイ伝説(出典:琉球各地の伝承)
内容
ニライカナイとは琉球の遙か巽の方角、すなわち南東方向の海の先にあると考えられた異界であり理想郷である。琉球ではニライカナイより神がやってきて豊穣を齎すと考えられていた。
沖ノ鳥島との関係
沖ノ鳥島は琉球のちょうど南東の海の先にあり、地理的関係性から明らかにニライカナイと同一である。ニライカナイから神が来て豊穣を齎すという信仰は、沖ノ鳥島から来た人々が琉球に革新的な稲作技術を伝えたことが元となっている。なお、沖ノ鳥島の理想郷性については、田道間守伝説の項目にて詳述している。
浦島太郎(出典:日本のお伽話から上代の文献に至る様々)
内容
有名なため省略。
沖ノ鳥島との関係
竜宮城とはすなわち沖ノ鳥島を指す。浦島太郎の元ネタとなった「浦島子」の伝承は、かつて「亀」を名乗る女に連れられて沖ノ鳥島に誘われた人物の話が元となっている。300年歳を取ったというのはあくまで誇張された表現であり、浦島太郎が4,50年の歳月を豊かであった沖ノ鳥島で過ごしたというだけである。
邪馬台国の記述(出典:『三国志』「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条、通称『魏志』倭人伝)
内容
倭の各地の地名とその経路や位置、役人の名前を羅列的に説明した上で、倭人の風俗や歴史を書く。うち邪馬台国について、以下に記す。邪馬台国の王は卑弥呼という人物であり諸国を鬼道によって治めていた。邪馬台国は南にある狗奴国と敵対し、相攻撃していた。そんな中、卑弥呼は魏に遣いを送り魏より『親魏倭王』という称号を得た。卑弥呼の死後、卑弥呼は巨大な墓に収められ百数人が殉死した。
沖ノ鳥島との関係
魏志倭人伝に記された通りに邪馬台国の位置を計算すると、遥南方の海上となってしまうため、記載された距離か方位に誤りがあるのだろうというのは通説だが、実は魏志倭人伝の距離も方位もあながち間違いではないのだ。なぜなら、邪馬台国とは沖ノ鳥島にあった王国を指していて、卑弥呼も沖ノ鳥島の王であるからだ。邪馬台国の名残として、沖ノ鳥島には「舍(ヤド)」がある。また、狗奴国の名残として、「狐野」という地名がある。どちらも言語学的に、邪馬台国と狗奴国に関係することが示されている。また、卑弥呼の墓は意紀古墳群の北部にある前方後円墳ではないかと考えられている。
早い話が、沖ノ鳥島=黄泉国=常世の国=ニライカナイ=邪馬台国=ムー大陸なのである。