| ヤーディシア大戦 |
画像 時期:1910年8月18日-1915年9月20日 場所:イクファターナ及びタヴェリア 結果:連合国の勝利、ヤードゴ二エ連邦の成立 |
| 交戦勢力 |
ソフィア王国 立憲王政アーカルソン=リペルニア |
ヤード帝国 |
| 指揮官 |
ルイ国王 アン4世
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ドミトリー3世
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| 戦力 |
ソフィア王国:延べ約250万人
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ヤード帝国:延べ約2300万人
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| 被害者数 |
ソフィア王国 死傷者:約500万人 |
ヤード帝国 死傷者:約900万人 |
背景
1800年代後半のヤード帝国のイクファターナにおける拡大政策
1800年代後半、ヤード帝国はイクファターナにおける拡大政策を実施していた。国土、人口、軍事力において当時世界一を誇り、他の追随を許さないヤード帝国の拡大政策はイクファターナ諸国の政府にとっては懸念すべき問題の一つだった。とはいえこの時のヤード帝国政府はこれ以上の拡大政策は政治的に危険であると判断しており、ヤード帝国皇帝ドミトリー3世も政府の見解に同意見であった。ヤード帝国は更なる拡大は行わない方向に舵を切っていた。
軍備拡大競争
ヤード帝国が拡大政策を転換していたとはいえ、各国はヤード帝国の動向を警戒していた。特に
ソフィア王国はクラリッサ・ヤード戦争の経験からヤード帝国を強く警戒しており、ヤード帝国に警戒して1800年代の後半におけるヤード帝国の拡大政策に対抗するように急激に軍事力を増強していた。
これに対するヤード帝国の反応は、ソフィア王国を警戒してソフィア王国との国境周辺の帝国軍兵力を増強するというもので、これはソフィア王国にさらなる警戒心を抱かせ、更に軍事力を増強させる結果となった。
ソフィア王国、ヤード帝国の相互の軍事力拡大は1900年から留まる事を知らず、1910年5月にはソフィア・ヤード国境のソフィア王国軍は10万人、ヤード帝国軍は100万人を超えていた。これはソフィア王国30万人のうちの33%、ヤード帝国軍常備兵力400万人のうち25%に相当しており、両国が如何に互いをを警戒していたかを示している。
1910年7月、国境に100万人のヤード帝国軍が集結している事実はソフィア王国を恐怖させ、ソフィア王国は「戦争の意志はないが、ヤード帝国の兵力増強、圧迫政策に対抗する」ために戦時動員体制を発動した。実際にソフィア王国としては強大なヤード帝国との戦争は避けるつもりであったが、これはヤード帝国からは宣戦布告に等しい行為と受け止められた。これは両国間の関係がクラリッサ・ヤード戦争以降険悪なまま一向に改善しなかったことも悪く作用した。ヤード帝国は「ソフィア王国は戦争を企画している」と判断して戦時動員を発動した。両国は一触即発の事態となった。
立憲王政アーカルソン=リペルニアの仲介と外交交渉の失敗
ソフィア、ヤード関係が危機的になるに及んで、
立憲王政アーカルソン=リペルニアは戦争による自国の被害を回避するべく、立憲王政の仲介の下で1910年8月1日、会議が設けられた。
この会議は如何に緊張を緩和し、戦争を回避するかが議題であったが、むしろソフィア・ヤード両国間の、絶望的なほどの憎悪に近い相互不信の為に失敗に終わった。
立憲王政の大使は会議終了後、すべてを絶望した様子で短く語った。
「子供じみた相互不信と憎悪の為に…会議は終わった。この会議の終わりは平和の終わりとなるだろう…」
実際その通りとなった。ヤード帝国は戦争を回避するための会議によってソフィア王国の敵意を感じとり、開戦を決意した。ソフィア王国もまた、ヤード帝国は我国を侵略するだろうと確信した。
ソフィア戦線
開戦、第1次ビアンカ会戦
ヤーディア歴1910年8月18日、ヤード帝国は「ソフィア・ヤード国境におけるソフィア王国の侵略の意図を砕き、我国の脅威を排除するために」ソフィア王国に侵攻した。
ソフィア王国に侵攻したのはニコライ・メレツコフ大将の第5軍集団100万人で、クラリッサ方面に60万人、ヴェラリア方面に40万人が越境した。
この時ソフィア王国軍はクラリッサ、ヴェラリアにそれぞれ1個軍が展開しており、兵力が当初より劣勢であったことから防御戦術に徹した。ヴェラリア方面はそもそも国境が森林と険しい山々に遮られており、ヤード帝国軍の進撃は困難を極めた。
ヴェラリア方面の指揮を執っていたイワノフ大将は山岳と森林、そして効果的に展開したソフィア王国第2軍に阻まれて作戦どおりに進撃できないと見るや速やかに陣地を構築して防御態勢に入った。イワノフはクラリッサ方面をヤード帝国軍が突破する事により、進撃を楽にしようと考えていた。
クラリッサ方面ではメレツコフが直接指揮する第5軍集団主力(帝国クラリッサ方面軍)60万が進撃したが、クラリッサのソフィア王国軍要塞ビアンカ近郊でソフィア王国軍と第1次ビアンカ会戦が勃発する。この会戦ではヤード帝国軍は得意とする白兵戦と人海戦術でソフィア王国軍を圧倒しようとしたものの、機関銃の前になぎ倒されて攻撃はとん挫、7日間で20万人の死傷者をだしてヤード軍の攻撃は失敗する。
ソフィア王国第3軍のロアン大将はヤード軍の攻撃を撥ね退けると直ちに反撃に転じたが、ソフィア王国軍の反撃は1日で失敗に終わり、前線で指揮を執っていたロアン大将も戦死する。一連の戦闘はヤード帝国軍20万人、ソフィア王国軍は4万人の死傷者を出して双方痛み分けに終わった。
ソフィア王国第3軍指揮官、ロアンの後任ラ・クレオルは簡単な陣地でも機関銃に援護された防衛陣営は敵に多大な出血を与えられる事、攻撃側の損害(そしてソフィア王国軍の)の余りの大きさに驚き、以降この方面では徹底して防御に専念する事となる。
第2次ビアンカ会戦
1910年10月1日、ソフィア王国軍の防御専念を逆手に取り、ヤード帝国第5軍集団ニコライ・メレツコフは第1次ビアンカ会戦で大きな損害を受けたヤード帝国第5軍集団クラリッサ方面軍を立て直し、再攻撃を開始する。本次攻撃ではクラリッサ方面軍1000門の砲により7日間猛砲撃を加えた後攻撃を開始したが、砲撃によって撲滅されていると想定されていた機関銃巣は健在であり、ソフィア王国軍砲兵の反撃と突撃破砕射撃によりまたも大きな損害を受けた。しかもソフィア王国軍ラ・クレオルは砲撃により帝国軍の主攻撃方面を割り出したため、帝国軍の攻撃が予想される前線の後方にあらゆる輸送手段を動員して予備兵力を移送。効果的な防御と反撃を実施して帝国軍の5日間に及ぶ攻撃を撃退した。この会戦で帝国軍は13万人の死傷者を出し、王国軍は7万人の死傷者を出した。死傷者数で見た場合、ヤード帝国軍の方が倍近い被害を受けていたが、ソフィア王国第3軍は殆どの戦力を損耗しつくし、一時的に戦闘能力を損失してしまうほどの損害を受けた。しかし、帝国軍司令官メレツコフは敵情を正確に分析できず、我損害が大であることを理由に攻撃を中止してしまった為、ソフィア王国軍は難を逃れることが出来た。第2次ビアンカ会戦後まもなく王国第3軍には予備兵力が大量に投入され、更に塹壕を奥深く構築して防御に専念する事となる。
第3次、第4次ビアンカ会戦
1910年11月1日、1910年中にソフィア王国に対する勝利を厳命されていたヤード帝国第5軍集団メレツコフは14日間に及びビアンカ正面で猛砲撃を実施した後、総攻撃を開始したが、攻撃開始翌日より悪天候が続き、ソフィア王国軍は迅速に攻撃地点に予備兵力を投入したため5日間で攻撃は中止された。しかしヤード帝国総司令部から再攻撃を厳命されたメレツコフは10日間に及ぶ猛砲撃を実施し、攻撃を再開した。この攻撃は11月30日まで継続されたが、いたずらに損害を拡大して攻撃は失敗に終わり、メレツコフは本年中のソフィア王国打倒を諦めた。帝国軍は一か月で18万人の死傷者を出し、ソフィア王国軍は9万人の死傷者を出した。
ソフィア王国軍の総動員命令
第1次~第4次までの一連の戦闘で20万人もの死傷者を出したソフィア王国軍は重大な衝撃を受けていた。20万人とはソフィア王国の1個軍が(非戦闘部隊も含めて)まるまる消失するのと同等の損害であり、ラ・クレオルの第3軍は戦闘力を消失していた。
この事態にソフィア王国軍は男性だけを徴兵するのでは兵力が不足する事を訴え、参謀部のヴァレンタイン将軍が女性の動員を政府に要求した。政府はこの要求に困惑したが、結局国王ルイの圧力もあり、政府はヴァレンタイン法と呼ばれる女性の徴兵を開始した。ヴァレンタイン法により18歳から35歳までの女性が動員されることになり、また、徴兵忌避者や徴兵を拒む家族はその場で銃殺された。
ソフィア沖海戦と立憲王政アーカルソン・リペルニアの参戦
ヤードゴニエ帝国軍は第4次ビアンカ会戦の失敗を受けて陸戦による正面攻勢を中止した。帝国軍は代わりにソフィア王国海軍を撃滅して海上封鎖し、ソフィア沿岸から敵前上陸、ソフィア王国首都を強襲する計画を企画した。この計画の為には、ヤードゴニエ帝国艦隊が立憲王政アーカルソン・リペルニア、
オルテンシア共和国両国の領海を通過しなければならなかった。
ヤードゴニエ帝国政府は両国と艦隊の通過について交渉したが、両国は帝国艦隊の通行を中立違反として拒否した。立憲王政、オルテンシア共に戦争に関わる意思はなかったが、ソフィアが敗北して一帯がヤード帝国の支配下に置かれることは避けたかったのである。
ヤードゴニエ帝国は交渉に失敗したが、交渉の印象から中立国領海を強行突破したとしても、立憲王政、オルテンシア共に帝国に敵対しないであろうという印象をうけていた。実際両国は本戦争には中立を堅持する意思を抱いていた。このことから、ヤード帝国は艦隊に中立国領海を強行突破させる事を決定した。
1911年3月10日、ヤードゴニエ帝国海軍イクファターナ艦隊(戦艦12、巡洋艦18、駆逐艦24、輸送船16)は立憲王政領海を不法に侵入して強引に突破を図った。この際、帝国艦隊は近辺を航行していた立憲王政の食料商船3隻を拿捕して通信装置を封印或いは破壊し、連行した。しかし拿捕直前に商船が帝国艦隊の存在を立憲王政に通報していた。立憲王政は即座に対応し、在立憲王政帝国大使を呼び出して厳重に抗議し、商船の安否を確認したが、帝国大使は曖昧な回答で濁した。
1911年3月12日、ソフィア王国領海に侵入した帝国艦隊をソフィア王国海軍が捕捉し、王国艦隊(戦艦4、巡洋艦8、駆逐艦14)が帝国艦隊迎撃に出撃。ソフィア沖で会敵し、海戦となった。戦闘は終始帝国艦隊の優位に進み、先頭終了時にはソフィア王国艦隊は戦艦1、巡洋艦3、駆逐艦2隻を残して壊滅。残存艦艇もソフィア港に引き返した。
1911年3月15日、帝国艦隊はソフィア沿岸で艦砲射撃を実施し、輸送船にて輸送されていた帝国第35師団が上陸作戦を開始したが、既にソフィア王国第1軍が防御陣地を構築していた。ソフィア王国軍の隠蔽は巧みであり、帝国軍上陸部隊は不慣れな上陸作戦の不手際に加えてソフィア王国軍の強力な射撃により甚大な被害を被った。
上陸部隊を支援するため帝国艦隊が艦砲射撃を試みたが、今度は帝国艦隊がソフィア王国軍砲兵の砲撃をうけ、幾つかの艦船に損傷を被った。帝国軍は状況が芳しくない事を受けて、上陸作戦を15日中には一度停止せざるを得なかった。
1911年3月16日、立憲王政領海近海を航行していた王政商船が帝国艦隊の駆逐艦に拿捕する事件が発生する。商船がSOSを発進したため、付近を航行していた立憲王政駆逐隊が現場に急行し、一触即発の事態となった。この時戦闘は辛うじて回避され、商船も解放されたものの、立憲王政は帝国が中立国の主権を全く考慮する意思がないと判断せざるを得なかった。
立憲王政議会は紛糾し、立憲王政政府も、立憲王政の殆どの国民も全く戦争に対する意欲が無かったが、航洋船舶輸送の安全確保と、域内の安定化のため、1911年3月20日、やむを得ずソフィア王国側に立ち、ヤードゴニエ帝国に宣戦布告した。ヤード帝国はこの行動に驚き、ヤード帝国イクファターナ艦隊は優勢な立憲王政艦隊により背後を攻撃されることを防ぐため、上陸作戦を中止して立憲王政領海を強行突破して艦隊を帰還させた。立憲王政艦隊の活動は終始消極的で、決戦を挑むことはせずに帝国艦隊と一定距離を保ちつつ追跡したにとどまり、海戦は生起しなかった。
立憲王政陸軍ソフィア派遣軍団のソフィア展開。
立憲王政政府は参戦したものの、終始消極的な姿勢を崩さなかった。立憲王政の戦争目的は、ソフィア王国の戦争勝利ではなく、王国がヤード帝国に占領されることを防ぐことであった。立憲王政政府はソフィア王国に軍事支援と協力を申し出、ソフィア王国の首都ソフィアに1個軍団(派遣軍団)を派遣した。派遣軍団はソフィア近郊に展開すると、ソフィア王国軍との連絡は密にするものの指揮権は譲らず、徹底して防衛戦における穴を埋める火消し役に従事した。
第1次ヴェラリアの戦い
数度にわたるビアンカ会戦の攻撃失敗をうけて、第5軍集団メレツコフはヴェラリア方面に展開するイワノフにヴェラリア方面での攻撃を命じた。イワノフはヴェラリアの山岳と森林は防御側に圧倒的に優位だとして反対したが、メレツコフはビアンカにおける敵を側面から脅威し、首都ソフィアを伺うためにも攻撃を厳命した。
1911年4月8日、イワノフの第15軍がヴェラリアでの攻勢を開始する。当時ヴェラリアを防衛していたソフィア王国軍第2軍は攻撃に狼狽したが、間もなく体制を立て直して立地を生かして防衛に転じた。開戦当初に経験した通り、ヴェラリアの森林地帯と山岳は攻撃に不適だった。しかしイワノフは確かに攻撃に反対していたが、森林と山岳地帯を突破し、開けた地域にまで突出できれば帝国軍は優位に立てるとして積極的に攻撃を指揮し、5月18日までにヴェラリア山脈の60%を占領した。だが立憲王政派遣軍団がヴェラリア方面に進出すると王国第2軍コルベールは予備兵力を投じて反撃に転じ、結局5月末までに占領した地域を一部残して奪還されてしまう。
帝国第15軍は2ヶ月の戦いで4万名の死傷者を出し、王国第2軍は3万4千名の死傷者を出した。立憲王政軍の死傷者は6名である。
第5次ビアンカ会戦
5月18日、第1次ヴェラリア会戦でイワノフの第15軍がヴェラリア方面で優位に立つと、それに呼応してメレツコフはビアンカで攻勢を開始した。メレツコフの狙いはそれまでの観察によりソフィア軍の女性兵士(それらの多くは新兵だった)の配置数の多い区域を突破地点とし、突破から遮二無二突進し、敵を大混乱に陥れる事をめざした。4日間の砲撃の後に毒ガス攻撃を実施。毒ガス散布の後に突進すると、ソフィア王国軍第32師団は大混乱に陥り壊滅した。
1週間の間帝国軍は大穴を突進し、28km前進したが、前進部隊は補給が続かず停止を余儀なくされた。
この段階でラ・クレオルは混乱を収拾し、反撃に転じたが、4km程突出部を奪還した段階で反撃はとん挫した。ラ・クレオルは突出部により延長された前線を縮小するために王国軍総司令部に撤退を提案。総司令部は撤退を承認してほぼ全域で24km後退した。帝国軍はヴェラリアの王国第2軍の総反撃の為に予備兵力を第15軍へ派遣したため効果的な追撃は出来なかった。
本会戦で帝国軍は5万人の死傷者を出し、王国軍は9万人の死傷者を出した。
攻勢阻止作戦
第5次ビアンカ会戦での手痛い敗北をうけて、王国軍は態勢を立て直す必要に迫られた。第3軍には兵員が補充され、新たに7個師団が追加増設された。しかしそれらは徴兵されたばかりの新兵や、現役を離れて久しい退役軍人の割合がさらに増えていた。第3軍のラ・クレオルはアルピナの第4軍かソフィアの第1軍との交代を要請したが、王国軍総司令部は却下した。ラ・クレオルは猛訓練を麾下の部隊に課して練度を底上げするほかなかった。
王国軍総司令部は、先の会戦で用いられた毒ガスについての対策を策定すると、直ちに全軍に通達するとともに、毒ガスマスクを大量に発注した。これらのガスマスクは国産のモノから立憲王政やオルテンシアから輸入されたものまでさまざまであったが、王国軍総司令部は際立て優れた能力を発揮して速やかに毒ガスマスクを全軍にいきわたらせた。
そして、帝国軍の再攻撃を防ぐために、王国軍はクラリッサ、ヴェラリアの戦線の全域で毒ガス攻撃を実施した。またこの時には敵に占領された地域や都市に対して飛行船や航空機による無差別航空爆撃や毒ガスの散布がおこなわれ、帝国国内に対しても航空爆撃、毒ガス散布が実施された。
帝国軍はこの航空爆撃や毒ガス攻勢に混乱を強いられたが、もっとも被害が大きかったのは被占領地におけるソフィア市民であった。彼らは帝国からの保護も受けられず(寧ろ日常的に虐待されたり、殺害されたりしていた)祖国の毒ガス攻撃の為に苦しんで死んでいった。
この毒ガス攻撃、航空攻撃は終戦まで延々と継続され、クラリッサの特にビアンカ地域では現在も汚染が続いている所がある。
第6次ビアンカ会戦
第7次、第8次、第9次ビアンカ会戦
ジガーノフ攻勢とソフィア砲
ビアンカで膠着状態が続く一方で戦線西部ではヤード軍による大攻勢が開始された。ミハイル・ジガーノフ率いる第1軍集団は当時机上の空論と批判された浸透戦術を実施し、わずか3日間で戦線を約50km前進させた。これにより王都ソフィアを大砲の射程圏内に収めたヤード軍はソフィア市内に対して無差別砲撃を実施し、多くの民間人を殺害した。
第10次、第11次ビアンカ会戦
第2次ヴェラリアの戦い
第12次ビアンカ会戦
立憲王政アーカルソン=リペルニア戦線
オルテンシア沖海戦
1911年3月20日に宣戦布告した立憲王政は25日にリチャード・グルムソン海軍中将率いる重巡洋艦8、駆逐艦7、水雷艇10を派遣し、ヤード水道における制海権奪取を目的とした作戦を実施した。ヤード海軍もこの動きに呼応し、セルゲイ・プチャーチン提督率いる巡洋艦6、水雷艇8、潜水艦5を派遣して対抗した。26日明朝オルテンシア沖東方200km沖の海上で両軍によるはじめての海上戦が展開された。
この日は濃霧のため両軍は500mほどまで接近するまで気づかずいち早く気づいたヤード海軍の巡洋艦「ヘルベルト」は直ちに迎撃、06:11に砲撃開始、最接近していたアトリオン海軍駆逐艦「ペイン」が06:25に大破、続いてアトリオン海軍重巡洋艦「ハーパー」が06:32に中破するも、直ちに反撃に移り07:13にヤード海軍巡洋艦「ヘルベルト」「コジェフニコフ」、水雷艇「ハルパゴス」が轟沈、07:55に同巡洋艦「サラシナ」が大破停止(後に降伏)し、大打撃を受け撤退した。これにより大戦序盤にアトリオンがヤード水道の制海権を握り、ヤード帝国は東西で領土を分断されるという戦略的にも大きな損害を被った。
ヤード水道海戦
オルテンシア沖海戦で大戦果を収めたものの、ヤード帝国海軍にはまだ多数の艦艇が残されており、ヤード帝国は分断された国土を再度統一するためにヤード水道の制海権奪還を東部戦線における最優先課題とした。面目を潰されたヤード海軍はこの敗北を挽回すべく、海軍司令部を総入れ替えした。まず海軍総司令官を貴族出身のアレクサンドル・ヴィシンスキー海軍元帥から理論派で知られる叩き上げの平民出身イワン・コルニーロフ海軍大将にすげ替えられた。
コルニーロフ大将は現有戦力で可能な作戦を立案し、ヤード水道の奪還を実施するための作戦準備期間を設けた。その期間は2年かかると皇帝に進言したが、皇帝は東部領土の早期統合をせねば連合軍に奪取される恐れがあるとして作戦の早期実行を命令した。
かくして準備期間は2年から半年に大幅に短縮されオルテンシア沖海戦から7ヶ月後の10月3日にニキータ・ジェノベーゼ提督率いる東部艦隊20隻(戦艦3、巡洋戦艦3、駆逐艦7、水雷艇6)がヤドロノフ港から出撃した。この動きを事前に察知していたアトリオン海軍はグルムソン中将率いるリペルニア第2艦隊(戦艦2、重巡洋艦5、駆逐艦7、潜水艦3)が出撃し迎撃した。前回の海戦とは違い、この日は快晴でかなり早い段階で両軍は互いの存在を察知した。
10月4日10:03にアトリオン海軍の戦艦クイーン・ヴィクトリア3世と戦艦キング・エドワード2世が砲撃を開始すると、ヤード海軍の戦艦クトゥーゾフ、ブリストル、シャイデマンが応戦。激しい打ち合いとなったのち、12:41にクイーン・ヴィクトリア3世が航行不能となりキングエドワード2世と重巡洋艦3隻が半ば包囲される状況となった。ところが水深の浅い水域で12:55に戦艦クトゥーゾフが座礁し動きが取れなくなりその間にアトリオン海軍は包囲を脱出することに成功し逆包囲の形となった。ヤード海軍はこの形勢はもはや覆し難いものと判断し海域からの脱出を図る。追撃するアトリオン海軍を振り切ったものの、戦艦1隻と駆逐艦3隻を失い、制海権も奪取できなかった。対してアトリオン海軍も重巡洋艦3隻、駆逐艦5隻、を失ったが、制海権は保持することが出来た。
このため、戦略的にはアトリオンが勝利したとも言われている。
これ以後ヤード海軍は積極的な攻勢に出ることがなくなり大戦期を通じて大規模な海戦は末期の南イクファターナ海海戦までなかった。
スタックバラ空襲
海戦では敗戦続きだったが、航空戦では優位に立つことが出来た。当時黎明期だった飛行船や航空機を軍事用にいち早く利用したヤード軍は航空戦艦リヴォ―フを用いてアトリオンの領土上空を自由に往来し、首都への戦略爆撃を実施した。最初のスタックバラ空襲は1911年4月5日に実施された。リヴォーフの出す独特のエンジン音はスタックバラ市民の恐怖の象徴となった。
以後1913年まで36回空襲が実施され、のべ10万人以上が犠牲になったといわれている。
後にアトリオン軍が防空体制を整えるようになると動きの鈍い航空戦艦では格好の的になり、戦略爆撃は実施困難となった。
南イクファターナ海海戦(ソフィア沖海戦)
大戦末期になると各戦線でヤード軍も疲弊し始め、戦線の維持すら困難な部隊すら続出する有様であった。
とくにソフィア戦線での膠着を打開することに迫られたヤード軍は一発逆転で有利な条件で講和するために南イクファターナ海の制海権を奪取し、ソフィア王国東海岸から陸軍を上陸させソフィア王国軍を南北から挟撃するという陸海軍共同の大規模な作戦を計画した。ヤード海軍はこの作戦に必要な艦艇は全海軍の艦隊であるとして、その実施には慎重になるべきと年を押したものの、結局大本営では実施が決定された。
海における一大決戦に、艦隊の総司令として、コルニーロフが海軍総司令官として直々に指揮することを命じられた。
1915年5月2日、ヤード帝国海軍総合艦隊はヤード半島から出撃を開始した。
ソフィア王国海軍とアトリオン海軍は連合してこれを迎撃することを決め、南イクファターナ海に海軍を展開した。
連合軍の艦隊はソフィア海軍の戦艦ディアーナを総旗艦とし、アトリオン海軍のキングエドワード2世が主力艦として配置された。その他ソフィア海軍からは巡洋艦4隻、駆逐艦16隻、水雷艇16隻が参加、アトリオン海軍から重巡洋艦8隻、駆逐艦19隻、水雷艇14隻、潜水艦5隻が派遣された。
ヤード海軍は戦艦ブリストル、戦艦シャイデマン、戦艦アルテナの3隻の戦艦を並べ、さらに巡洋戦艦10隻、巡洋艦11隻、駆逐艦30隻、水雷艇31隻、潜水艦10隻を参加させた。両軍ともに全海軍戦力を注力したのである。
連合軍の海軍総司令となったソフィア王国海軍大将オスカル・ジャルジェ提督はこの海戦がおそらくかつてない規模の艦隊決戦となるであろうことを予想し、電信で各艦隊に檄文を送った。曰くその内容は「ゼクスのごとく奮戦されたし」とのことであった。ゼクスとはスエビ戦争の英雄であり、海戦でことごとくヤード軍を打ち破った名将である。それになぞらえての檄文であった。
5月4日、11:09にアトリオン島西190km海上で両軍は激突した。
正面から連合軍の側面に侵入したヤード艦隊は激しい集中砲火にさらされたが、直ちに体制を整え戦艦3隻による集中砲火によってアトリオンの巡洋艦パーストマンを撃沈させた。
ついで戦艦シャイデマンはソフィア海軍の巡洋艦1隻を大破させた。水雷艇の魚雷攻撃によって戦艦ブリストルは一部損傷したが航行自体には問題はなかった。
一方で激しい砲撃戦により連合軍総旗艦ディアーナが被弾し、ほぼ大破状態となったが指揮官ジャルジェ提督が士気を維持するため総旗艦の自沈を固く禁じた。また、このときジャルジェ提督自身も重傷を負いながらも指揮を継続している。
戦艦ディアーナは接近したヤードの重巡洋艦シャルミを砲撃し撃沈したのを最後に一切の攻撃ができなくなった。
ソフィア艦隊は、巡洋艦の主力艦を損傷させまいとする本国からのアウトレンジ戦法によって、中破以下の軽微な損害を受けていたが、その代わりとして高速を以て水雷戦を仕掛け、ヤード艦隊に出血を強いていた巡洋艦以下の艦艇に撃沈2隻、大破8隻といった損害を受けていた。
この海戦の結果、ヤード中央艦隊はその主力艦の殆ど全てを失った。2隻の16インチ砲戦艦の1隻を失ったことは、ヤードの継戦能力に大きな喪失を与えた。加えて、ソフィア領中央部攻略に向けて準備した上陸軍10万の全てが喪失あるいは捕虜となったことはヤード世論を反戦に大きく傾けさせた。
なおソフィア王国海軍総旗艦・戦艦ディアーナは戦闘中なんとか航行能力を維持したものの、帰還直後についに沈没した。ジャルジェ提督はそれを見守ったあと静かに息を引き取った。
「国名」戦線
中立国の動向
ディヴィーカ
ヤード帝国より軍事的圧力を受けており、連合国よりの中立であった。しかし
ディヴィーカはアトリオンに2隻の戦艦の建造を依頼しており、納品直前の状態にあった。アトリオンがこの戦艦2隻を接収したため、ディヴィーカ内では反連合国の世論が高まった。ヤード側での参戦危険性も予測されたため、アトリオンは戦後の新鋭艦の建造を約束するなどしてようやくこれを収拾した。
ハダカンボ王国
アトリオン海軍タヴェリア艦隊が寄港し、食料及び水の供給を求めたためこれに応じた。また、ヤード帝国に与しないことをアトリオンから求められるも、当時の国王ハダカンボ10世は「イクファターナの情勢はよくわからないので求められれば誰であろうと物資を分け与える」と回答した。
ただし、戦前から傭兵としてイクファターナ各国に派遣されていた
ハダカンボ王国の戦士がソフィア戦線に傭兵として参加していたことが記録でわかっており、2431人のダハーカ兵が白兵戦で活躍したと言われる。そのうち1824人が戦死するなどの大損害を出しながらも、とくに森林や山岳地域での戦闘に力を発揮したと言われる。この時の傭兵隊長が後にドピゥ戦役で活躍した武将エガチャンとモフモフ族長リカオン(五将軍バセンジの父)と言われる。
終戦
影響
帝国の崩壊とヤードゴ二エ連邦の成立
スタックバラ講和会議とヤーディシア共同体の成立
最終更新:2018年12月29日 21:05