ファルミニア王国は旧
テリニア王国領を、ほぼそのまま奪い興った国である.
またフェルミニアとは
古代フラウル語で”光とある人”、”光と共にある人”を意味する。
統一紀元前1386年に建国宣言が成されるが、各国は
テリニア王国が滅亡した統一紀元前1385年を持って国として認められた。
旧
テリニア王国の弊害を全て取り、改善出来る物は改善され、建国後に至って旧王国を懐かしがる者は少ないと言えよう。
初代国王
シャル王は、並み居る知将、勇将を引き連れてドトーフとカグライシャの中ほどにある海岸の乗り込むと、その地に大きな港を作ると共に内陸部へ攻め入る。
港を起点にそこから人材と資材が運び込まれ、僅か数ヶ月で
ルシリア大陸最大の港を作り、王都フェルミニアを作ってしまう。
資材、人材に関しては多くを隣接する
キリシア王国から購入されたとされるが、後期には
サガト王国や商国から購入された事が伺い知れる。
テリニア王国が何故これほどまでに手を拱いていたのかは、未だに謎であるが当時のテリニア王が占いに従ったと言う説と、傾国の美女に惑わされたと言う説が有力である。
兵は送るが弱兵である民兵を先兵として送り込むが、当時の
シャル王が率いる兵は三千にも満たないと言われれいる事から、弱兵とは言え倍する兵力であれば強ちこれを責める事は出来ないかもしれない。
だが最終的に民兵は捕虜としてフェルミニア国内に拘束され、フェルミニア開国の礎として働かされてしまう。
とは言え、民兵時代よりも良い食事、戦う事の無い地を与えられ、最終的にはフェルミニアを去るも自由、残って興した土地を維持する事も自由とされ、多く者がの
テリニア王国から離れる事を望んだ。
シャル王が
稀種である事から、この地では
カウマ教排他の色が強い。
統一紀元前1386年から
カウマ教僧侶の出国は後を絶たず、建国時に
カウマ教を名乗る教会は西部に僅か三つを残すだけに成って居る。
稀種ではあるが、王は宗教的差別は行わず、反対に目差別に対しては果断に裁いた事が記録に残って居る。
これが各地で噂と成り、
稀種である事を悩んでいる者、森などに隠れ住む者は勇んでフェルミニアに向かい、多くの
バリッシュがフェルミニアに流入してきた。
これは当初人材不足に悩むフェルミニアに大いなる幸いであり、一気に人材不足が解消された。
建国当初は驚く事にほぼ無税である、フェルミニア建国に発生した金がどこから湧いて出てのかは謎である。
キリシア王国が
テリニア王国の併呑を望んで、
シャル王にその金を貸したと言うのが尤もな説であるが、そうであるなら当時のキリシア国王
セバノスは取って返された刃を受ける事に成ったと言えよう。
それを裏付ける様に、国の開発と並行して閉じらていたキリシア-テリニア間の道が切り開かれ、早々に国交が樹立している。
また、ルシリア北東部最大の港街ガルリアの存在は、今後の海洋開発や航路開発を見据えての行動であると共に、海に生きる者には
目の戒律が薄い事もあり、明らかに
カウマ教団への挑戦と言う事が見て取れる。
フェルミニア建国後、自給率は一気に160%を超える様になっている。
各地に学校を設け国民の識字率の向上、民度の向上を狙い色々な方策が建てられ、その業績はその後の国益と成る。
識字率は
バリッシュの流入で一時30%を下回る様になったが、上記の功績により僅か15年で識字率は80%以上を誇る様に改善される。
特産は
トトル商国が握っていた
ギヤルマンの利権、及びフェルミニア建国後に開発された金鉱、銀鉱を後ろ盾に調金細工。
他、農作物、大理石、良質では無い塩を保存食用の塩として活用し、保存食の作成が活発に行われる様になり、海での長期間滞在が可能に成る様に工夫がなされている。
最終更新:2012年09月08日 08:31