目次
(一九八六年十二月十五日の霊示)
1.イエスの働きは、地上を去ってからますます活発になってきている
内村鑑三です。今日は、第4章「イエスの働き」というテーマで、お話をしようと思います。イエス・キリストという名前は、世界中のだれもが知っているほど有名です。日本人であっても、少なくともまともな精神を持った人ならば、イエス・キリストの名前を知らぬ人はいないでしょう。釈迦の名前を知らぬ人がいないのと同じく、偉大なるイエスの名を知らぬ人もいないはずです。世界数十億の民が、その名を信じて、その名を呼びて止(や)まない人。長い、長い歴史のなかで、人類が、その名を呼び続けた人。その人こそ、イエス・キリストなのです。主が降臨されて以来、すでに二千年近い月日が経ったのです。
今、私は、この二十世紀末に、こうした形で、ひとつの聖霊降臨でありましょうが、聖霊として降臨して、地上のあなた方に、メッセージを送り続けておるわけであります。しかし、イエスもまた、我と共にあり、我を励ましてくれているのです。主はやがてまた、降臨されるでありましょう。ただ、その前の段階として、私たち、主の僕(しもべ)たちが、主の言葉を取り継いで、それを人びとに伝える。こういうことが、非常に大切なことであろうと私は思っております。
現代の聖書の学者たら、あるいは、クリスチャンたちは、イエス様という人が二千年前にナザレの地に生を受けて、三十三年の生涯を閉じて以後、まるで地上の人びとのことを忘れ去ったかのごとく思っているかもしれません。ところが、実際にはイエスの働きというものは、地上を去ってからますます活発になってきておるのであります。
イエス・キリストと言われるような方であっても、地上にありて、肉を持ち、ひとりの人間のなかに宿って、その魂は、いかに光輝を放とうとも、いかに輝きを放とうとも、やはり一個の人間たることを凌(しの)ぐことはできなかったと思うのです。しかし、イエスの魂は、この地上を去って我らが実在界に還り、今、かつてない光輝のなかに光っております。
地上のキリスト者たちよ、イエスが、あなた方のことを何も知らないと思い給うのか。そういうことはない。イエスは常にあなた方と共にあり、あなた方と共に悩み、あなた方と共に愛を分かちあっておるのです。この二千年間、イエスが、あなた方と共に愛を分かちあわなかった日は、一日とてないのです。
愛があるところ、イエスが、あなたの側にいたのです。愛があるところ、イエスは、あなた方と共に生きておったのです。たとえどのような悪人の心のなかにも、愛の心が芽生えたときには、イエス・キリストが降臨し給うたのです。なぜなら、イエスの魂は、愛そのものだからです。あなた方は、肉身のイエス、肉を持った身のイエスということしか考えないかもしれません。しかし、身長わずか一メートル数十センチ、十字架にかかったやせた男がイエスのすべてではないのです。
今、イエスの御魂(みたま)は、天上界にありて、光輝燦然と輝いている大きなエネルギーであり、大きな愛の流れ、愛の奔流なのです。愛あるところ、イエスあり。イエスは、イスラエルの地だけにあるのではありません。西洋世界だけにあるのではありません。無神論の国であっても、共産主義の国であっても、あるいはまた、未開の地、文明の発達した東の国、日本においても、イエスの力が働き給わぬところはないのです。すべての国にイエスの力は働き給うておるのです。すべての国、民の心のなかに、愛の心が芽生えるとき、イエスの胸から一条の光が射し込んでいるのです。これがイエスの働きなのです。
キリスト者たちは、イエス・キリストについて、この二千年間、議論することを止(や)めませんでした。わずかひとりの人間が三年間語った言行録を巡(めぐ)って、キリスト者たちは何派にも分かれて、ある者は教会をつくり、ある者はセクトをつくり、ある者はさまざまなことを言い、羊飼を失った羊のごとく、羊の群れのごとく、揺れております。何が真なるものかが分からない。だから、ある者たちは、イエスが行なった奇蹟というものは、二千年前にだけあって、現代には、もう行なわれない、あり得ないことだと思っている。奇蹟を起こしたイエスをあれほど信じる人たちが、もっとも奇蹟を信じない人たちの群を構成していることもあるのです。
2.今、日本において、かつてイエスが成したと同じ現象が起きている
これからの現代において、かつて二千年前に、イエス・キリストがイスラエルにおいて成したと同じ奇蹟が起きていくでありましょう。イエス・キリストは聖書のなかで、何度も語っております。イエスは、「我が父なる神」ということを言いましたが、地上の人びとには、父なる神とは何であるかが分からない。そこで人びとは、「主よ、父なる神と言い給うならば、その父なる神を、主なる神を、お見せ下さい。私たちにお見せ下さい」とイエスに問いかけました。そのとき、イエスは、何と答えたのでしょうか。すなわち、「子を見る者は、父を見る者である。子の言葉を聞く者は、父の言葉を聞く者である。我が業(わざ)を見よ、我が業のなかに父の御業(みわざ)あり」と。イエスは、そういうことを言ったのです。
なぜならば、イエスが行なう業というものは、奇蹟の連続であり、一般の人びとには、とうてい人間業であるとは信じられぬことであったからであります。「我が業を見よ」とは、「我が業を見れば、父が我に来給いて、この業を成し給うことを知るであろう」という意味です。また、イエスは、「我が言葉を聞け。我が言葉のなかに、父の言葉を汝らは聞くであろう」と答えられましたが、それは、実際そのとおりであって、これは比喩ではなかったのです。父なる聖霊がイエスの体のなかに宿られて、イエスをして言葉を発せしめ、さまざまな言葉を残されたのです。
ですから、現在聖書として残っている言葉のなかにも、肉体を持ったイエスの言葉だけではなくて、父なる神とイエスが言っていた「エホバの神」「ヤーヴェの神」、あるいは、「アラーの神」とも言ってよい、そうした゛独り神゛の声がたくさん混ざっているのです。それは、ちょうど今、大川隆法が人びとの前に聖霊の言葉を伝えているのと同じだと言えます。まったく同じ現象が起きているのです。
3.イエスが「主」と言った方は、人格を持った神であった
つまり、イエス・キリストも、今から約二千年の前に、聖霊たちの言葉や父と言うべき人の言葉を伝えていたのです。では、イエスが父と言った方は、一体、だれであったのか。これについて、二千年間、人びとは知らされることがありませんでした。イエスが主と言った方は、創造神ではないのです。
旧約聖書のなかには、アラーと言う神があり、天と地を分け、さまざまなものをつくられたことになっておりますが、実際の創造神と、イエスが言った父なる神とは、また別なものであったのです。イエスが言った父なる神というのは、やはり人格を持った神であり、巨大なひとつの光であったのです。
天地創造の神、あるいは、宇宙開闢(かいびゃく)の神というものは、無限の過去から存在していた生きとし生けるものを生かしめる力であり、意志であります。それは、人格を持ったものではないのです。すなわち、それは、創造する力であり、エネルギーであり、生命の源であったのです。
ですから、イエスが父と呼んだのは、その力のことではなくて、その力を体現している大きな魂であったということです。九次元のなかに、九次元の如来界のなかに、あるいはまた、宇宙界といわれる世界のなかに、そうした偉大な神霊のひとりがいらしたのです。九次元には、偉大な神霊がたくさんいらっしゃる。現在、イエス・キリストと言われる方も、もちろん偉大な神霊のひとりであります。しかし、それ以外にも、たとえて言えば、釈迦、ゴーダマ・ブッダと言われた方の九次元意識というものがある。また、モーゼと言われる方の意識もありましたし、それ以外の幾人かの人たちの意識というものもあります。
そのなかで、とくにきわだって大きな力を持った魂がいたのです。この大きな力を持った魂のことを、人びとは、あるときはエホバと言い、あるときは、アラーと言い、あるときはヤーヴェと言い、また、あるときは、アブラハムの神と言い、イサクの神と言い、父なる神、万軍の主と言ったり、いろんな形で言っておりました。それは、巨大なひとつの力であり、イエスたちを地上に遺(つか)わしながら、自らは地上に降りて来られない魂があったということを意味しているのです。
4.エル・ランテイと言われる巨大な神霊の存在
さて、その方は、一体、だれであるか。地上にいるあなた方の一部の人は、その名を聞いたことがあるかもしれません。アール・エル・ランティ。そういう名前で呼ばれていた方がいたのです。これは、現実の歴史にある実在の人物ではないために、世の多くの人たちは信じることができないでありましょう。
しかし、アール・エル・ランティと言われた、巨大な神霊がいたのです。しかも、この方は、他の名前をいくつも持っていると同時に、さまざまな顔も持っていらっしゃる。ですから、あるときは厳しい裁きの神のエホバの姿のように現われたり、また、あるときはモーゼの奇蹟を起こした神として現われたり。さまざまな形として現われております。しかし、それはすべて、その方の顔の一面をのぞかせておるだけであって、地上において、その方のすべての姿を知っている人は、今だにおりません。こうした偉大な神霊という方がいらしたのです。
この方のことを、イエスは、「主」と呼んでいらっしゃった。もらろん父と子、父なる神と子なるキリスト、イエスとが本来、同じ世界に住んでおる人間であり、聖霊であり、高級霊であるわけです。しかし、彼が、そうした救世主を、この世に遣(つか)わしていたという役割を持っていたために、その偉大な徳を讃えて、「父なる神」と呼んでいたのです。こうした大きな力を持った神霊がいらしたのです。
5.エル・ランティの一部分が、近年、「高橋信次」として地上に出た
この神霊の魂のひとつの面が、近年になって、日本で肉体を持ちました。すべてではありません。しかし、アール・エル・ランティの一部分、ヤーヴエ、あるいは、エホバ、あるいはまた、アラーと呼ばれた方の一面、魂の一面、魂の部分が、地上に現われたのです。すなわち、あなた方が、高橋信次という名前で知っているあの方がそうです。
高橋信次自身は、肉体を持って、生命を持って生きていた以上、やはり、この方の、本来のすべての力を出してはおられませんでした。ただ、高橋信次のような方がはじめて出て来たことで、人びとは、エホバの神の顔というものを見ることができたのです。そして、彼もまた、そういう形で肉体を持ったことで、人びとをより明確に指導することができるようになったのです。
アール・エル・ランティという神が実在しても、それを人びとが知らない以上、その名を持って人びとを説き導くことはできません。しかし、彼は、最近、肉体を持ちました。その肉体を持った個性という意識でもって、今後とも、人びとを導いていくことでありましょう。そして、おそらくそれが、現代人及び、未来人に対するヤーヴェの神となり、エホバの神となっていくはずです。
かつてエホバやヤーヴェがモーゼを導き、イエスを導き、あるいは、過去世のいろんな預言者たちを導いたように、高橋信次として、最近に肉体を持った人が、やがては、今世及び、来世の人たちを導いていくでありましょう。その人の大きさを知るには、人びとは、まだ時聞が足りないようです。しかし、やがては、その大きさが分かってくるようになってくるはずです。
6.イエスは、今、起きている救世運動の天上界における陣頭指揮者である
イエスは、今、何をしておられるのか。イエスは、過去二千年間、一体、何をされてきたのか。そのことについてお話をしていきたいと思います。現在、地上において、日本の国を中心として、一大救世運動が起きているわけですが、この救世運動の天上界における陣頭指揮をしている方が、イエス・キリスト、その人なのです。
従って、イエス自ら、陣頭指揮をとり、指導霊をしている以上、この救世運動の核となるものは、おそらく愛であるはずです。そして、この二千年間説かれなかった愛の本義ですが、イエスを指導霊として説いていかれるでありましょう。これが新たな愛の教えとなっていき、新たな地上の人びとにとっての導きの光となっていくであろうと思います。
7.現在、人びとにとってもっとも必要なのは、愛の教えである
今、地上の人びとにとっていちばん必要な教えとは、一体何であろうかと考えるに、私は、やはり愛の教えであろうと思うのです。
今、時代は進み、世界中に、数十億の民が栄え、滅びています。あるいは、いがみあい、憎しみあっている。あるいはまた、緊張のなかに生きている。一部の人たちは信じあっております。このように文明国がさまざまな形で発達しているにもかかわらず、ある国とある国とが永遠に平行線をたどるがごとき姿を見せております。たとえば、アメリカという国がある。この国は、キリスト者の国であります。しかし、このキリスト者の国も、地上にある多くの人びとを苦しめたことがあります。罪なき人びとに爆弾の雨を降らしたこともあります。
では、なぜそのようなことが起こったのでしょうか。すなわち、彼らが信じている神は、愛の神であるにもかかわらず、どこかに古代ユダヤ的な裁きの神の面が出ているからです。彼らは、地上には正義が行なわれるべきだと思っている。地上は悪魔と天使の戦いの場であり、悪魔に対しては、徹底的に戦わねばならぬ、と。彼らは、こう思っている。ですから、彼らが信じている神のなかに、いつかしら裁きの神という者が入ってきて、まちがった者は潰(つぶ)さねばならぬと、こういう考えが全面に出てきているのだと思います。しかし、それは、愛の神を信じておりながらも、愛の本質を知らない人たちなのです。
愛を知るということは、一体どういうことでしょうか。ほんとうに愛を知るということは、人間の生命の起源を知るということです。人間の生命が、唯一の神から分かれてきたものであるということを知ることです。これが、愛を知るということです。
それでは、地上にある異人種、異国の民というものは、これはどうなのでしょうかね。彼らは、サタンの手下なのでしょうか。いや、そうではないはずです。イエスは、こうおっしゃった。「私は、ユダヤの人たちのためだけに来たのではない。むしろ、ユダヤの人たちは、私を辱(はずか)しめた。そこで、後の世においては、彼らが私を辱しめたことによって、辱しめられるであろう」と。イエスは、こう預言しました。
「その代わりに、あなた方が、異国の人びととして蔑(さげす)んでいる人たちが、私を王として崇(あが)め、私を救世主として崇め、やがて、彼らの国にて、私の言葉が伝わっていくであろう」とも、イエスはおっしゃった。イエス自身は、異国の民であるかどうかというようなことには、重きをおいておられなかったのです。
ところが、狭い心の人間たちが、ある人はサマリヤ人だと言い、ある人は何とか人だと言い、争った。人種がちがう、民族がちがうということで、あるいは、住んでいる町がちがうということで、争っておったのです。馬鹿な人びとは、救世主は必ずベツレヘムから出て来るはずであって、ガリラヤから出るはずがないと信じていた。だから、イエスがベツレヘムから出なかったということでもって、救世主ではないと愚かなことを言った人もいます。このように、地上の人間の心というのは非常に狭く、地域とか、血筋とかというものに非常にとらわれてしまうものです。
8.イエスが説いた愛は、地域を越え、民族を越えた愛であった
しかし、イエスが説いたほんとうの愛の教えというものは、国境を越え、海を越え、陸地を越えて伝わっていった教えなのです。魂と魂だけが共感するのであって、民族同士が共感したりするものではない。同じ地域に住んでいる者同士が共感するものでもないのです。地域を越え、民族を越えたもの。それが、ほんとうの愛だと言えます。
なぜなら、唯一の神というものは、単なる民族神ではないからです。イエスが出たのは、ユダヤ人のためだけではない。そのことについては、あなた方は、もうすでに、知っているはずです。とはいえ、仏教徒たちとキリスト教徒たちというのは、残念ながら、この地上において、まだ和解をしておりません。手をつなぎあっておりません。それ以外にも、ヒンズー教であるとか、回教であるとか、さまざまな教えがあります。しかし、こうした異なった教え同士も今だに手をつなぎあってはいないのです。
なぜ手をつなぎあえないのか。つまり、彼らの教祖という人たちが、こうした時代的なこと、地域的なことについて、あまり説かなかったからです。その時代における認識が、住んでいる一定の地域を越えるものとはならなかったからです。あくまでも、その地域に住んでいる人びとのみを相手に説かれたために、そういった世界的な立場に立って説かれなかったからだと言えます。
9.あなた方は、すべての宗教、宗派の統合のために出て来ている
これからも、あなた方は、地上においてさまざまな「霊言」の刊行をしていくでありましょう。これは、キリスト教のなかで分かれている宗派、仏教のなかで分かれている宗派を統合する。すなわち、すべての宗教をひとつにするということですが、あなた方は、このように、大きな統合を目的とするために出て来たのです。
イエスが悪霊を追い出して、病気を癒しているのを見て、それを信じなかった会堂の司(つかさ)たちは、「あれは、ベルゼベフが入って、悪霊を追い出しているのだ」と言いましたが、それに対して、イエスは、何と言ったか。「我が、もしベルゼベフならば、なぜ悪霊を追い出すのか。サタンの国であろうとも、そのなかで争いをやっておっては、サタンの国は成りゆかぬであろう。分かたれたる家は建たずと言う。悪霊を追い出すものは、聖霊である」と。「分かたれたる家は建たず」、イエスのこの言葉は、まさしくそのとおりです。
ところが、現在では、その分かたれたる家というものが、悪霊のなかだけにあるのではありません。本来、聖なる宮のなかにおいて、キリスト教の派閥のなかにおいても、争いが続いております。たとえば、聖霊降臨派といって、聖霊の異言をすることだけが正しいと主張しているところもあれば、儀式だけを取り行なうところもある。まあ、いろいろです。また、仏教の派閥のなかにおいても、争いが続いている。仏教のなかにおいても、自分のところの教えこそが正法だということで、他宗派と争いをしているのです。お互いに、自分のところのものこそが真実の道だということで、他のものを顧(かえり)みようとしない。困ったことです。
だから、キリスト教の宣教師たちは、日本にやって来て、仏教徒たちが仏壇を焼き捨てたら、それで神の国は広まった、成果を上げたといって、主に感謝をしている。仏教徒は、仏教徒で、クリスチャンを折伏(しゃくぶく)したといって喜んでいる。地上人たちは、実につまらないことのために喜んでいるのです。
しかし、私は思うのです。そうした彼らを責めるよりも、彼らにほんとうのことを教えなかったことが悪かったのではないか、と。彼らにほんとうのことを語りましょう。そのために、今、私たちが一堂に会しているのではないでしょうか。そのために今、私が、キリストの本心を、打ち明けていくのではないでしょうか。
ほんとうの愛を知るためには、先ほども言いましたように、すべての民族を越え、地域を越え、人びとの肌の色、考え方、思想、習慣、教育を越えていかなくてはならない。そして、魂というものは、ひとつなる、ただひとつなる神から分かれてきているのだということを知ることです。
また、もうひとつには、魂というものは、永遠の転生輪廻を繰り返しておるということです。あるときはキリスト救国に生まれて、クリスチャンであった者が、別のときには仏教国に生まれて、仏教徒であったかもしれないのです。こうした永遠の転生輪廻の仕組みを知り、人間の魂が唯一の神からきていることを知るならば、人間同士が、単なる外見的なものによって派閥争いをすることの無意味さがわかるはずです。
10.まさに、今、イエスの真の愛の教えが甦るとき
今、なぜキリストの愛の力が、この地上においても、伝播していくべく強くなってきておるのだろうか。すなわち、今後、地上において、おおいなる争乱が起きるからです。争いが起きるからです。現在、地上にある核兵器、これを総合すれば、地球を何回破壊することができるか。それほど、大きな破壊力を持った兵器があるのです。ソ連も、アメリカも、単に他国を潰(つぶ)すだけではなくて、地球をも破壊し得るような核兵器を持っております。また、自分の国のなかにおいては、飢え死をするような人が出ている国ですら、懸命になって核兵器を開発しているのです。
しかし、他人を殺すことによって、はたして幸せを得ることができるのですか。他国を叩き潰すことによって、自分たちの幸せを守れたら、それでよいのですか。何かが、どこかが、まちかっています。その愛の考え方は、いわゆる自己愛であり、自己保存愛でしかすぎません。また、自分たちの地域にいる者だけがよければいいという仲間愛にしかすぎないでしょう。
今まさに、イエスの、イエス・キリストの、真の愛の教えが甦(よみがえ)るべきときがきているのです。イエスは、こう言っています。「自分の仲間だけを愛するのだったら、一体、それに何の値打ちがあるのか。汝(なんじ)に好意を持ってくれる人だけを愛するとしたら、それに何の意味があるのか。好意を示してくれる人だけを愛するのなら、これは、動物でも示す愛であろう。あるいは、悪人でも示す愛ではないか。自分に好意を示す者を愛することぐらいは、だれにでもできる。それは簡単なことだ。また、親が子を愛する。それは自然な感情であり、これとて、だれにでも備わっているものだ。そうした努力なしに生ずる愛だけが、ほんとうの愛だと思っているのならば、あなた方には進歩はないはずだ」
イエスが教えたのは、「汝の隣り人を愛せよ」ということです。まず、この教えです。隣り人とは何か。あなた方の生命に直接係わりのない他人です。しかし、縁あって、人生の途上で出会う他人であります。そこで、こういう他人を幸せにしなさいということです。他人を幸せにするためには、どうしたらいいか。それに対して、心を砕く。これが、汝の隣り人を愛せよということです。
ただし、まだ、これだけでは足りません。この隣り人という考えは、中立的であり、愛する仲間でもなければ、敵でもないというような関係に取られるでしょう。そこでまた、イエスは言いました。「汝の敵を愛せよ。そして、汝を迫害する者のために祈れ」と。この愛の大きさを、今、地上にある人びとは、知るべきなのではないでしょうか。
核兵器を海岸線に備えて、必要とあれば、いつでも他国を攻撃できるようにしている国々。潜水艦を浮かべて、そのなかから敵を叩き潰さんとしている国々。あるいは、大気圏内に人工衛星を飛ばして、敵国の情報を探っている国々。こうした国々の人びとに、汝の敵を愛せよ、の意味が分かりますか。汝を迫害する者のために祈れという言葉が分かりますか。
大統領が、就任の宣誓のときに、いかに聖書の上に手を翳(かざ)して宣誓をしたところで、やっていることを見れば、イエスの教えを守っていないことは明らかであります。これでもって、はたしてクリスチャンの国だと言えましょうか。もう一度、繰り返します。イエスは、はっきりと言っているのです。「汝の敵を愛し、汝の敵を許し、汝を迫害する者のために祈れ」と。
イエスの弟子たちが、「先生、何回ぐらい許せばよいのですか」とたずねたときに、「七度の七十度許せ」と、イエスは答えております。七度、七十度とは、数が多いことを示します。すなわち、数限りなく許しなさいという意味なのです。
11.今こそ、愛の本義が知られるべきときである
生きていく途上において、地上に住むあなた方は、一体どれだけ、人びとを愛したことがありましょうか。どれだけ多くの人びとの罪を許し、彼らを愛してきたでしょうか。あなたの悪口を言う者のために祈ったことがあるでしょうか。あなたに唾(つばき)をかける者に対して、「幸せよ安かれ」と祈った人がいましょうか。
今、求められているのは、まさしく、こうした愛の原理なのです。敵さえをも愛する偉大なる愛のなかには、不調和な行為はありません。不調和な地上はないのです。私は、今、それを知るべきときがきたと思います。
キリスト教者たちよ、汝の敵を愛せよ。また、キリスト教を信じない人たちよ、あなた方も汝の敵を愛しなさい。たとえ聖書を知らなくても、あなた方の心のなかには、人類の永遠の魂が築き上げてきたところの道徳律があるはずです。どこの国の道徳においても、人を殺すことが正しいことだとか、人を迫害することが正しいことだとか、そういうことを説いているものはありません。
今こそ、愛の本義というものが知られるべきときなのです。そして今、知られるべき愛とは、正しく愛する愛であり、与える愛なのです。二十世紀の後半において、地上の人間のなかにも、さまざまな文献、書物、新聞、あるいは、ラジオ、テレビのような電波通信、そうしたものが開発されて、いろいろな言葉が飛び交っております。そのなかに、「愛」と言う言葉が数多くあります。また、毎日毎日読まれる数多くの文学書のなかにも、たくさん「愛」という言葉が出てきます。
しかし、実際には、それらのなかに、一体どれだけ与える愛のことを書いた本があるでしょうか。与える愛のことを述べた記事があるでしょうか。与える愛のことを伝えたテレビ番組があるでしょうか。
どの人も、この人も、愛とは奪う愛だと思い、執着の愛だと思っているのではないでしょうか。女性の多くは、夫の愛を得られないために苦しみ、また夫の多くは、妻の愛を得られないことのために苦しんでいます。あるいは、世の中には、自分が世に愛されないことに対して、苦しんでいる人がたくさんいるのです。
12.愛を与えることが、ひとりひとりの使命である
愛を求めるのではなくて、愛を与える。それが、あなた方の使命です。愛を与えて、損をすることがあるでしょうか。そのことについて、よく考えていただきたい。愛とは、財布のなかのお金ではないのです。財布のなかのお金を道に撒(ま)いたり、人に投げ与えるのと、愛を与えるのとは、もちろんちがうのです。お金は投げ与えていたら、お金はなくなるでしょう。
しかし、愛とは、たとえどんなにたくさん投げ与えても、決してなくなりはしないものなのです。それどころか、愛とは、与えれば与えられるほどに増えていく。なぜならば、愛とは、神の国からくるものであり、人間の体を通って出ていった愛は、さらに大きな愛として、人から人へと伝わっていくものだからです。
たとえば今、あるひとりの人が、別のある人に、愛を棒げたとしましょう。別のある人は、幸福になるはすです。そこで、幸福になった人は、また他の人を愛するでしょう。そして、その人が幸福になると、また、その人が愛した人が幸福になっていく。つまり、人に与えた愛が三倍になり、五倍になり、十倍にもなっていくのでず。最初に愛を与えた人は、それによって、何か損をしたでしょうか。何かを失ったでしょうか。お金は利子を産むことはあっても、このように、数倍、数十倍、数百倍にも広がっていくことはありません。
「真理は真空をきらう」と言います。自分の心のなかから愛を与えた人には、その心のなかに、より偉大な神の愛というものが降(ふ)り注いでくるものです。これは、私たちの目で見れば、明らかです。光を与えた者のところには、必ず、より大きな光が降(お)りてくるのです。
地上において、人びとに、最大の愛を与えた方はだれですか。それは、イエス・キリストに他なりません。最大の愛を与えに与え、与えきって、与えつくしたイエス・キリスト。イエスこそが、もっとも神の愛を受けた人ではありませんでしょうか。私は、そのことについて、考えてほしいと思うのです。人びとは、自分の蔵(くら)のなかに、愛という金貨を貯えることばかりを考えています。しかし、自分の蔵のなかに、愛という金貨を貯えても、それは一向に増えはしません。「愛の金貨」は人に配ることによって、人に与えることによってはじめて、無限の富を供給していくものなのです。
13.「生命の愛」とは、イエスが説いた「与える愛」である
ですから、地上の人びとよ、まずは、与えることからはじめていきましょう。与えるという行為のなかに、見返りを期待してはいけません。見返りを考えて与える愛は、死んだ愛です。死体です。生命ではないのです。「生命の愛」とは、ただ単に、与えていくだけの愛です。見返りを求めない愛であり、無償の愛なのです。他を生かすだけの、生かしきるだけの愛であるのです。自分を生かすための愛ではなくて、他を生かすための愛なのです。
それは、まさしく、イエスが説いた愛なのです。それこそが、「生命の愛」、すなわち、「与える愛」だと言えます。私は今、地上に住むひとりでも多くの人たちが、この与える愛というものを実践してくださることを祈ります。そうしたことによって、より多くの人びとが幸せになっていくことを祈ります。「与える愛」、まず、これからはじめましょう。
14.人びとよ、「与える愛」と「与えられる愛」について、過去を反省してみなさい
与えられる愛ばかりを考えている人たちは、立ち止まって、考えてごらんなさい。自分は、与えられることばかりを考えてきたけれども、はたして、人に与えたことがあっただろうか、と。そのことについて、ちょっと踏み止まって、考えていただきたいのです。おそらく、どの人も、どの人も、反省すべき材料があるでしょう。
反省は、仏教のなかだけにあるのではありません。キリスト教のなかにも、もちろんあるのです。反省とは何ですか。まず、あなたの愛を反省してごらんなさい。あなたの愛とは何ですか。他人からもらうことだけを考えている愛ではなかったでしょうか。他人からもらうことだけの愛を考えていたから、その愛が足りないと言って愚痴(ぐち)ったりしたのではないですか。嫉妬したり、不平不満を言ったり、人を責めたり、怒ったり、叱ったりしたのではないですか。それはつまり、与えられる愛だけを考えていたからに他なりません。
ですから、仏教者も、キリスト教者も、共に考えるべきなのです。愛について考えなさい。愛について反省しなさい。あなた方は、もらう愛、人から与えられる愛ばかりをほしがっていなかったかどうか。その点を、考えるべきです。どれだけ人に愛を与えてきたか。どれだけの人たちに愛されてきたか。自分の人生を振り返って、その二つのことを考えてごらんなさい。そうすれば、与えることのいかに少なく、与えられることのいかに大きいかを知るでしょう。まず、キリスト者たちは、この愛ということについて、「与える愛」と「与えられる愛」の二つのモノサシでもって、自分の過去を反省してごらんなさい。
15.「悔い改め」とは、仏教で言う「反省」と同義である
仏教で言うところの「反省」とは、二千年の昔に、イエスが言った、「汝ら、悔い改めよ」と同じ意味なのです。すなわち、「汝ら、己れ自身のためだけに生きるな。汝ら、自己保存のためだけに生きるな。汝ら、自我我欲のために生きるなかれ。利己主義者で、神の国に入れる人はいないのだ」ということです。
キリストは言いました。「富者が天国に入るのは、ラクダが針の穴を通るのよりもむずかしい」と。キリストの言う「富者」とは何か。地上における財貨を漁(あさ)っている人のことです。
つまり、所有欲の大きな人間たち、与えられることばかりを願っている人たちです。どれだけたくさんのものを集めても集めても満足しない人たち。これが、富者であります。こういう人たちが天国に入るのは、ラクダが針の穴を通るよりもむずかしい、と。それは、そのとおりです。なぜならば、彼らの心が、執着の塊になっているからです。取ることばかりを考えているからです。
地上において、取ることばかりを考えている人が満ち満ちたら、どうなるか。この地上は、どこもかしこも、残らす蟻地獄になってしまいます。擂鉢(すりばち)地獄です。ひとりひとりの人間が、蟻地獄の蟻となって、蟻地獄の動物となって、他の人間を喰い込むことばかりを考えていたならば、どうして地上が天国となり得ましようか。決して、天国にはなりません。私たちは、地上に蟻地獄をつくってはならないのです。与えられることばかりを望む愛は、蟻地獄の愛です。
そうではなくて、大切なのは、ひとりひとりに分け与える愛なのです。つまりは、今一度、原始キリスト教の精神に立ち戻るときがやってきたと言えるのでないでしょうか。私は、そう思います。
とくに、クリスチャンたちよ、あなた方は、ほんとうに与える愛がどういうものであるかを知っているでしょうか。よく考えるべきです。また、悔い改めということのほんとうの意味を知っているでしょうか。
悔い改めるとは、自我我欲、すなわち、自分の欲望のままに生きてきた自分自身を悔い改めるということです。もう一度、言います。仏教でいう「反省」と同じ意義です。そこをまちがわないようにしてほしいのです。
16.ほんとうの洗礼とは、悔悟(かいご)のための一語を与えること
たとえ「水」にて洗礼したところで、人間の魂が甦(よみがえ)ることはないのです。イエス・キリストが言ったことを思い出してごらんなさい。キリストは、霊にて、聖霊にて、人を洗礼したのです。ですから、あなた方も、「聖霊」にて、人を洗礼しなくてはいけないのです。
では、聖霊とは何ですか。聖霊とは、天降る神の光であり、神の愛の息吹であるはずであります。神の愛の息吹は、どういうときに降りてくるのですか。すなわち、その人間が悔い改めたときです。悔い改めて、愛に生きることを誓ったときにはじめて、神の愛の息吹を受けるのです。
とすれば、ほんとうの洗礼とは何ですか。それは、その人に対して、悔悟のため一語を与えることではないですか。悟りのための導きの言葉を与えることではないですか。それがほんとうの洗礼である。私は、そう思うのです。
キリスト者たちよ、よく耳を傾けなさい。人びとを教会に連れて来て、水にて洗礼をする。これは、ほんとうの洗礼ではないのです。彼らに神理の言葉を語って、彼らの人生を百八十度変えていくことこそが、ほんとうの洗礼なのです。洗礼の意義を見失ってはなりません。まちがってはなりません。
聖霊として、人間の魂が生まれ変わること。これが、洗礼なのです。それを忘れてはなりません。その辺を誤解している人たちが多いので、私は、この場を借りて、改めて言っておきたいのです。
今日は、愛について語りました。それは、すなわち、イエスについて語るということです。イエスは、地上の人びとを愛するだけではなく、天上の人びとをも愛しています。私たちも、イエスに習って、より多くの人びとを愛していきましょう。それが、イエスの働きに対する私たちの協力であり、助力でもあるからです。