目次
(道元禅師の霊示)
1.禅の真髄は、釈迦の八正道のなかの正定(しょうじょう)にある
今日は禅の瞑想ということで、ひとつ、皆様にお話をしたいと思います。現在、禅というものは、けっこう大を成しております。そして、各地の禅寺において、さまざまな坐禅が行なわれておるようであります。
禅の精神はすでに、日本精神のなかの基底を流れ、底深く流れておって、日本ということを語るときに、禅を抜きにして話をすることは、もはや不可能ともなってきたと言えると思います。この禅は、日本だけではなく、アメリカもヨーロッパもこの思想を学ぼう、この禅の実践を学ぼうという人たちが次第に人口を増してきておるようです。
そこで、本日は、瞑想ということに関係づけながら、禅とは何か、禅とはいかなることを行なうことなのか、そして、禅の瞑想とは何なのか、その極致はどこにあるのか、こうしたことについて、順番に話をしてゆきたいと思います。
まず、禅とは何かというところからお話をしようと思います。もちろん、禅宗そのものも釈迦の仏教の流れを汲(く)むひとつであることは疑いを容(い)れないものであります。では釈迦の教えのなかの、一体どの流れを引くものでありましょうか。
釈迦は、有名な八正道のなかにおいて、正見(しょうけん)、正思(しょうし)、正語(しょうご)、正業(しょうぎょう)、正命(しょうみょう)、正精進(しょうしょうじん)、まあ、こういうことをいろいろと言ってきて、さらに正念(しょうねん)、正定(しょうじょう)というふうに続いてきております。そして、つまりは、八正道のなかの最後の正定、「正しく定(じょう)に入るべし」という部分が、まさしく禅の真髄なのであります。
この正定ということは、八正道のなかでも最後に置かれております。なぜ最後に置かれておるか。それは、これをもって、仏教がひとつの完成を見るからです。
2.正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念の完成後、はじめて正定に入れる
この正定に入るまでの間に、人びとはさまざまな自分自身の問題というものを解決してゆかねばならんのです。人間が苦悩をつくる原因のひとつは、「目」です。一日のうち、目に映るさまざまなできごと、人びと、こうしたものを見ることによって、人間は心のなかに、あるときには過(あやま)ちをつくり、あるときには歪みをつくっていきます。そういうことで、正しく見るという訓練が必要なのです。
あるいは、正しく語るということも大事ですね。正しく語ることによって、自分自身も素晴らしくなり、人も良くなるということもあります。
あるいはまた、正しく生活をしていくという道もあります。毎日毎日の生活のなかに、神の子としての、仏の子としての理想的なる規律、正しいリズムを持った生活をしていくこと。そういう考えもありますし、正業(しょうぎょう)、つまり、一生懸命、神理にそった仕事に打ち込ませるということですね、自分を。そういう生き方もまたあるでしょう。
あるいは、仏教と言えば、精進(しょうじん)という言葉がつきものです。精進とは、精進料理の精進でもありますけれども、正精進、正しく精進するという考え方もあります。まあこれはね、どちらかと言うと、努力するということで置き換(か)えていいかもしれません。つまり、常日頃の努力ですね。
あるいは、正念(しょうねん)、正しく念ずる。まず、念ずるということを調整していく。この念ずるということは、先程の正見、正語の間に、正思、正しく思うという言葉がありますが、正しく思うと、正しく念ずるとはどう違うか。
思うということは、漠然とした心の働きを言います。一日の間、人間は目が覚めているときに、さまざまな思いが心のなかに去来します。このさまざまな思いというものを、統制して、うまく並び換えていくのが正思(しょうし)でありますけれども、正念というのはそうではありません。
正念というのは、目的意識を持った思いのことです。つまり、何かの実現を目指しての思い、とくにこうしたいという、こういうふうにあるべきだという、何々すべきだという思い、これが、正念です。
そうして、こうした七つのことの完成を見てはじめて、人間は、正定(しょうじょう)、すなわち、正しく定に入るということができるのであります。心のなかがさまざまなもので揺れておるときに、正しき定には入ることができんのです。正しき定に入るということ、これを禅定(ぜんじょう)とも言います。
3.この世ならざるものの把握のために禅定がある
では、何のために禅定があるのか。何のために禅定があるのかということは、さかのぼってみれば、仏教の根本、悟りということと関係しているのです。
悟りというものの根本を見極めていくとき、そこにあるのは、この世ならざるものの把握であります。この世的なるものをつかむことによっては、ほんとうの悟りを得るということは、不可能に近いのです。
この世ならざるものを見、この世ならざるものを聞き、この世ならざるものを感じ取り、この世ならざるものを理解し、この世ならざるものを自分自身のものとし、そして、それと一体になることこそが、悟りであるわけです。
しかし、人間というものは、忙しく口を動かしておっては、なかなかこの世ならざるものをつかむことはできんのです。忙しくものを見て廻っておったのでも、この世ならざるものを見て廻ることはできんのです。この世ならざるものをつかむためには、やはり人間は、ひとりにて、神仏と対話せねばならんということです。このために禅定があり、このために精神統一の方法があるのです。
4.没我の世界に没入していくために、道元禅においても作法を重視している
精神統一の方法というのは、ある意味において、この世的なるものと、あの世的なるものとの遮断(しゃだん)です。これが、即座に悟ったブッダのごとく、いきなり日常生活のなかにおいて、悟りの境地に入ることができるものであるならば、何の苦労もいらぬであろう。
しかしながら、凡人はそうはいかぬがために、そうした没我の世界に、そうした真善美の世界に没入していくために、ひとつの作法というものが必要とされているのです。そうした作法を通すことによって、自分自身が、日常生活から脱却したのだと、新たな神仏の世界へ、荘厳(そうごん)なる世界に、今、跳入(ちょうにゅう)していったのだということを感じ取る必要があるのです。
そのために、我が道元禅においても、作法ということは重視しております。まず、禅定の目的そのものは、もちろん心というものの統一にあるわけでありますけれども、心を統一する前に、肉体の準備から入っていく必要があるのです。この点、まあ、現代のヨガなどに通じるものもあるかと思います。
まず人間は、禅定に入る前に、日常生活から去って、そうした悠久(ゆうきゅう)の世界、永遠の世界に入っていくための旅立ちの準備ということをする必要があります。そのためには、精神というものを一番働く状態にしておく必要があるのです。
寝てて神仏と話ができるかと言えば、なかなかそうは参らぬし、また、体の姿勢を崩(くず)してもそういうわけにはいかぬ。本来ならば、もちろん正坐が一番相応(ふさわ)しいのであろうけれども、まあ、正坐には長時間耐え得ないという難点があろう。そこで、さまざまな坐り方とか、そうしたものが発明されてきたのである。
5.私が勧(すす)める精神統一の方法 ― 姿勢について
まず、現在において、私がお勧めをする精神統一の方法について、簡単に述べていきたいと思います。男性であれば、簡単な形で、あぐらを組んでよろしい。女性であれば、まあ、正坐は少しきついであろうから、少々足の位置を変えて、長時間坐れる形にしてもよろしい。
そうして、まず最初の段階においては、両手を腿(もも)の上に置き、手のひらを大腿(だいたい)につける。手の甲ではなく、手のひらを大腿につける「八」の字のような形をつくって、大腿の上に手を置く。そうして、背筋を伸ばす。自分の頭、首、背中、腰、こうしたものが、一本の針金が通ったがごとくすっきりとなっていることが重要である。このときに、肩がいかりすぎていないかを点検する必要がある。力が入りすぎて、自分の肩がいかっている形になっていると思えば、もう少し眉を落としなさい。
6.私が勧める精神統一の方法 ― 呼吸について
そうして、その形で、最初の呼吸法をやってゆきます。まず、大きく息を吸(す)います。そして、その息を喉(のど)から胸に、つまり肺ですね、肺に入れて、肺から今度は、もっと下に落としていきます。丹田(たんでん)のほうへと入れていくつもりでいきます。丹田に達したと思えば、そこで、いったん呼吸を止めます。
そして、今度は、徐々に徐々に、鼻から息を抜いていきます。少しずつ抜いていきます。三分の一ずつぐらいを抜いていくつもりで、抜いていきなさい。息が抜けたなら、また息を吸います。そのときにも、やはり喉を開けて、胸に、そして胸から下に、丹田のほうへ落ちていくつもりでやってゆきなさい。こうした呼吸法を、とりあえずは心が静まるまで続けてみなさい。
人によっては、四、五回すれば落ち着いてくる人もいよう。人によっては、数十回する必要もあろうと思う。とりあえず、心が非常に和(なご)んできて、日常生活のことを忘れることができるようになるということが、この呼吸法の根本です。日常生活のことを忘れて、自分がリラックスしてきたと感じるまでの間、それをしばらく続けてみます。
そして、どうやら心が落ち着いてきて、全身のどこにも力が入らないように、肩とか、手とかに力が入っていないかをよく確かめる。とくに背筋だけは伸びているかどうかの確認は必要です。そうして、幾度か呼吸法をする。まあこれが、初歩の禅定の入り方です。ただし、これはまだ、心を落ち着けるという段階でのやり方であります。
7.さらに高度な禅定のやり方 ― 守護、指導霊たちを招霊し、対話をする
さらに高度な禅定のやり方というのは何かと言うと、今度は合掌(がっしょう)の形を取ります。手を合わせます。手の角度が、ちょうど手首と手首の形が円を三分の一に切るような形で取ります。百二十度ぐらいの形です。手のひらと手のひらは重ねてけっこうです。そうしてちょうど、親指の先と、つけ根の間に簡単なすきまができますけれども、そのあたりが、まず口の前にくるように、最初してみます。
この合掌の姿は、実は、招霊するときの姿です。高級霊たちを招霊して、その光を自分に入れるときの姿です。まずこの姿で、たとえば、自分の守護霊なり、指導霊を呼ぶときに、この高さで招霊をします。
こうして、いったん招霊ということができて、霊的なバイブレーションを感じはしめたとき、すなわち、守護、指導霊が自分に語りかけてきたことを感じたときには、その合掌の手を少し下に下げます。下に下げていきます。
このようにして、一番落ち着くところまで下げていきます。ちょうど手のひらが胃の前ぐらいにくるところまで下げていきます。そして手の先は、やはり上を向いているように合掌します。この合掌の姿が、長く形を続けていけるやり方なのです。
この姿を取り、心のなかで、自分の守護、指導霊たちと対話をしていきます。そのなかにおいて、自分の悩んでいることとかいろんなことがあれば、それをひとつひとつ思い浮かべて、守護霊と対話をしていくようなつもりで、考えていきます。
まず最初は、ここから入るのがいいと思います。その形での合掌をして、目の前に、自分の目の前に、自分の守護霊がいると想定して、そうして、対話を続ける。
目というものは、全部瞑(つぶ)ってしまってはいけない。全部開けてしまってもいけない。やはり半眼ということで、ちょうど自分の一メートルぐらい先が、ぼんやり見えるぐらいの形の半眼でいいと思う。次の段階では、人間の精神はこの世的なことを離れて、次第にあの世の世界へと旅立っていくのです。そうして、禅定をし、無念無想のなかで、光の世界へ、夢の世界へ、魂の世界へと自分の心をどんどんどんどんと飛翔(ひしょう)させてゆくのです。
魂は本来、自由自在です。肉体というものに仮(かり)に宿っているだけであって、魂は本来、肉体のなかに宿るべきものではないのです。魂というものは自由自在で、肉体から離れて、天上界へ飛び立っていきます。そして、いろんな世界を見てきます。
それが、昔から言われている桃源郷(とうげんきょう)の世界でもありますし、理想郷の世界でもあります。ちょうど人が来ない山奥、奥深い秘境の山のなかに入っていくと、目の前に、眼下に桃の花が一面に咲き乱れているような景色、そういう、はっとするような景色を目にしたような、そうした感動というものが、次第に高まってきます。そうしたときに、ひとつの恍惚感、素晴らしい、嬉しいという恍惚感が込み上げてくるはずです。あなたの精神は自由自在に飛翔して、今、そうした桃源郷に遊んでおります。
目の前に、素晴らしい桃の花が、パノラマのように開けています。そうした青い山の向こうには、銀色の河が流れています。遙(はる)か向こうには、真青(まっさお)な空が澄んでいます。空気はきれいです。鳥たちは素晴らしいコーラスをさえずっています。そうした世界に自分は生きているのだということを感じ取ります。これが至福の世界、幸福の世界であり、本来人間がいた世界なのです。
すなわち、禅定とは、そうした本来の世界へと自分を旅立たせる手段なのです。そのために、自分を無にするとか、空にするとか言っているわけです。
8.本来自由自在な心を縛りつけている鎖(くさり)を切るために、心を無にする
無にする、空にするということは、この世的な束縛、執着を持っておっては、心がそうした異次元世界の桃源郷に遊ぶことができないからです。空のための空ではなく、無のための無ではないのです。心という、本来自由自在なものを縛りつけている鎖というものを、一本一本切っていくのです。そうすると、あなたの心は、気球のごとく大空へと舞い上がっていくのです。そうした姿が本来の自分であり、本来の心なのです。
9.禅定の目的は、桃源郷への旅である
これが禅定のあり方で、通常の人は、今言ったような形で、まず坐るということからはじめて、簡単な呼吸法をする。次に、半眼を開いて、守護、指導霊に祈るような気持ちで合掌をする。やがて合掌を解いて、下のほうへ降ろしてくる。そして、しばらく対話を続ける。対話が終わったら、今度は、手を両膝の上に戻して、楽な形にして、今度は無の境地、空の境地へと入っていきます。
その目的は旅です。桃源郷へと旅立っていくということ。半眼のなかで、心を遊ばせながら、そうした桃源郷の世界がもし見えてきたのなら、もし心がそのなかにあるということを感じることができたのならば、あなたの禅定は一定のところまでいったということです。
すなわち、禅定のほんとうの究極の目的は、ただ坐るなかにおいて、あの世の異次元への旅まで経験するということなのです。そうすることによって、人間は本来の自分自身の姿というのを悟り、この世に生きているときの過ちに気がついていくのです。この世は仮の世だということに気がついてくるのです。
そこまでいったときはじめて、ほんとうの瞑想家になることができるのであるし、ほんとうの宗数的な神秘感というものを感じ取ることができるのです。
ほんものの宗教には神秘感がつきものです。しかも、そうした神秘な体験というのは、だれでもができるのです。まあ、そうした経験を大切にやってみて下さい。以上です。