目次
(1986年8月16日の雲示)
1.流浪の人良寛は歌人でもあり、自由人
良寛 今までは、お偉いお方のお話のようで、その後、私がお話しするのは大変、恐縮でありますが、ま、こんな私でも、あなたの一晩の話し相手ぐらいには、まあ、なりますよ。なるんじゃないかと思っているんですけどね。
―― 良寛和尚さん、あなたは禅門に入られて、仏法を学ばれた。しかも、あなたは、非常に磊落(らいらく)な性格のお方で……。
良寛 磊落かどうかは分かりませんよ。あなた、磊落というのは、石三つ書くんですよ。ねえ、石が三つというのは、恐(こわ)いかもわからないですよ。石が三つ飛んできたら、あんた、頭に瘤(こぶ)ができますよ。それが、磊落でよければ落としますけど。
―― 子供さんを相手にして、庶民的な仏法をお説きになられたということでございますけど、私たちも、まあ、ご承知のとおり、いろんなお方のお説を承っておるのでありますけれども……。
良寛 まあ、皆さんね、勉強家だから、まあ、良寛よりはね、皆んないいことを言っている。私を出せば、皆んなが引き立っていいんじゃないですか。
―― 皆さんのお話、お聞き下さっていますか。
良寛 ええ、道元さんなども出ているんでしょう。道元さんもね、私があれですよ、私があれ、何だっけ、あれは最後にとるのは、"後塵(こうじん)を拝する"じゃなくて、戦(いくさ)を引き揚げるときにあるでしょう、交戦をしていて、軍が引き揚げるときに、最後にとるのは……何と言ったっけ、もう忘れちゃった。あれは、何て言いましたかねえ、最後を守るのは……。
―― 「殿(しんがり)」ですか。
良寛 あ、しんがり、殿、あなたよく知っていますね。しんがりですよ、やっと思い出した。良寛が殿を勤めると、道元さんだってね、そりゃ、光りますよ。ねえ、そう思いませんか。
―― そりゃね、だれもかれも、皆さん、光っている方ばかりですからね。
良寛 あなただって、光っていますよ。光っていますよ。頭は光っていませんがね。まあ、私に比較(くらべ)れば、あなたなど、よくやっていますよ。よくやってる、よくやっております。
―― いや、いや、私はまだ修行が足りませんが、先生は歌の名手であられたとのことですが。
良寛 いや、あなたも、なかなかの歌人だとうかがっていますよ。
―― いやいや、歌人ではないですよ……。
良寛 詩人ですか。あなたは、俳句か何かをつくられるんじゃないですか、聞いていますよ。私しゃ、長歌(ながうた)専門だけどね。
あなた、ジュースは如何(いかが)ですか。私は失礼していただきますよ。あなた、お嫌いですか、パイナップルジュースは……。これは失礼しました、無理強(じ)いしまして……。(注――このとき、卓上に飲みものがおいてあった)
―― いえいえ。
良寛 まあね、固くならないでね。ま、偉い方が、ここは多すぎるようだね――どうも、皆さん、固くなっちゃって、あなたなど、肩がこっちゃって、こっちゃって、大変でしょう。やはりね、書物をつくるときにもね、賢い人二人に馬鹿ひとりと、このぐらいの割合でつくると、一般の人もね、従(つ)いてくるんですよ。賢い人の数が少ないとね、いっぱい食わされた、金返せとなるんですよ。だから、馬鹿よりゃ、賢い人が多くなけりゃいけない。でも、馬鹿も入れとかないとね、読んでいて、安心する人がいるからね。もう、あんまりむつかしい話ばかりされると、皆んな、従いていけないからね――。
まあ、あんただって、目立たないしね、偉い人ばかり来るとね。何も言えなくなっちまって、お説ごもっともです、と。そればかりになってしまうからね。あんただって、ほんとうは偉い人なんでしょうけどね、言えないからね。良寛ぐらいで、あんた、いいですよ。やり込めたって、ああ、そんなこともあるだろうと、一般の人、思っちゃうから、いいですよ、それは。
―― 和尚は、飄々(ひょうひょう)と、日本国中を旅しておられたんですね。
良寛 山寺のお和尚さんは――、まあ、あんた、これですよ。まりはつきたし、まりはなし、と……
―― 詩人で言えば、一茶さんのような……。
良寛 まあ、どうですかね、一茶は仏教家ではない。私は坊さんだよね。まあ生臭だけどね。
―― まあ、良寛和尚さんは、非常にくつろいだ感じの方だったようですし、まあ、絵などに残っているお姿では、布袋(ほてい)のような大きな腹を出して……。
良寛 いや、肥(ふと)っていたといっても、それは一時期ですよ。わたしゃ、妊婦じゃあるまいし、あなた、お腹、そんなに出ませんよ。とんがり頭してましたよ。まあ、天狗さんが夏やせすると、あんな顔になるんかな、という顔ですな。まあ、あんなに鼻は高くはないけどね。
―― 和尚さんは、越後、新潟のご出身でしたね。それで四国へも渡られたんですね。
良寛 四国へも行きましたよ。それから、高知から岡山へも廻ってね。あちらこちらと諸国を廻ったが、どこへ行っても、乞食坊主さ。
―― それで、七十四歳でお亡くなりになったそうですが……。
良寛 ああ、けっこう長生きしたねえ。
―― 結局、どこの地で亡くなられましたか。故郷へは帰られたのですか。
良寛 死んだときはね、もちろん新潟ですよ。越後のほうで死にましたよ。……最後は、あなた、晩年はよかったんですよ、意外にね。若い女性に看取(みと)られて死にましてね。
まあ、いいもんですな、人生に女性がおるということは。
―― 一休さんなどもそうでしたね。晩年は、"しん女"という女性とご一緒されていたようですが。
良寛 一休さんと一緒にされると、ちっと語弊(ごへい)があるんですがね。
―― 晩年は"しん女"さんに巡り会って、幸せだったんでしょう……。
良寛 まあ、一体さんだって、私よりも禅の先輩だったんだから、偉かったんでしょう。
―― まあ、一体さん、晩年がよくなかったようですね。
良寛 私しゃ、知りません、私しゃ、よく知りませんね。そんなことは言うもんじゃないです。お互いに、同業者たちは悪口は言わない、ということになっているんですね。これ、言うといけませんからね。
―― 先生はどうなんですか、禅宗をやっておられたようですが。禅宗にも派がありますが、何派に属されておられたのですか。
良寛 まあ、あえて言えば、道元さんの系統だね。
―― では、曹洞宗ですね。
良寛 そう言われるもんでもないんだが………道元さんからいやあ、もう四百年、五百年経っていたからね、仏教ももう末だからね。
―― やはり、能登(のと)の「総持寺」などにも行かれたんですか。
良寛 私の生まれは越後なんだけどね、ずいぶん、旅したんですよ。ずっと越後にいたわけじゃなくてね、越後から今の日本海側のね、ずうっと廻って、もちろん能登も廻って、若狭(わかさ)通って吉備(きび)の国ね、岡山ね、若い頃は、あそこで修行したこともあるんですよ。岡山のお寺さんでね。それから、もちょっと年取ってからだったと思うけど、ま、四国へも来てね、けっこう放浪しているんですよ、私は。
―― まあ、そうやって旅をされておられたんですが、やっぱりお寺さんへ寄られて、わらじのひもをとかれたんですか。
良寛 お寺ね、いや、まあ、どちらかというと、私しゃ、お寺はあまり好きじゃなかったね。どちらかと言うと、私しゃ、見るからに、いかにも乞食坊主みたいな恰好だからね、いろんな人が気にかけてくれるんですよ。だから、困ったことはあまりなかったんですよ。
日が暮れかけてね、――どうしようかなあ――と思っているとね、「お坊さん、お坊さん。お坊さんでしょう。どうですか、泊っていきませんか――」と、ね、村の人がよく声を掛けてくれてね。どうですか、泊っていきませんか、と。よく言われるんですよ。まあ、そう言われることが多くてね。まあ、だれにも言われなけりゃ、野宿もしたし、馬小屋でもあれば、そこへ入って寝たし、わらでも積んであれば、そのなかに寝たしね。私は、わりに気にしなかったですよ。どこでもいいですよ。
―― それで諸国を廻って行かれたんですが、これは物見遊山ではなかったんでしょう。
良寛 まあね。あんたも、若い頃から、宗教をいろいろ渡り歩かれただろうけどね。まあ、いつの時代でも一緒でしてね。まあ、私らがいつの時代でもやることは二つなんですよ。ひとつはね、先生を探すということ。それがひとつだね。どっかに、偉い人がいないか、と。昔は、今のように情報がないから、自分で渡り歩いて、どこかで噂などを聴いていかないとね、分かんないからね。まあ、そういう、先生を探すということがひとつだし。
今ひとつは、新たないろんな経験、何か経験が積めるんじゃないかということだね。やっぱり、他国へ出て修行しないと分からないですよ。ほんとうのことはね。まあ、そういうことを、だいたい皆さん、やっていたんでしょう。だけど、私は、それで悟ったかと言えば、悟れなかったね、一生……。
―― しかし、どなたかを対象にしてお話しされるとか、そういうことはなさったのではありませんか。
良寛 まあ、子供相手に遊んでいることが多かったけどね、ハハ……。
―― しかし、それでは、"法"は伝わらなかったでしょう。
良寛 いや、まあ、それも悟りよ。私しゃ、あんたらが本を書いているのを知っているけれど、「老荘思想」などと言っても、似たようなもんでしょう。何もしないでいいってんでしょうが。
―― "無為自然"という言葉はありますね。
良寛 何もしないでいいんなら、手鞠(てまり)ついてる私だって、仕事しているようなもんだ……。まあ、共感するところはありますね。私しや、道元さんも好きだったけど、老荘思想も、けっこう好きでしたね、勉強しました。と言っても、勉強したということではなくてね、まあ、ボロっちい本かなんかをもらって、かすかに読んだぐらいですが、まあ、老荘というのはいいですよ。
まあ、時代は変わり、世は移り、人の人情も変わるけれど、老荘思想には、何と言うか、そのなかに、やっぱり森か林のなかを歩いていて、木漏日(こもれび)がこう漏(も)れてくるような、そういう何とも言えない静けさ、暖かさがある。そういうものが、老荘思想にはあるね。あれはいいよ。何とも言えない。時代を超えているね。今でも時代遅れにならないしね。古くも新しくもならないもの。あれはいいね。どうも人間というのは、こせこせしていけないね。
まあ、道元さんなどは、大変なご秀才だけどね、私もまあ、秀才、目指してやったこともあって、まあ、村じゃ、できましたけどね。でも、まあ、自分の性(しょう)にはあっていないなあとは思っていたんですよ。私しゃね、いや、"ものぐさ"だと言われたら不快を感じますが、そりゃ、若いときは勉強しましたよ。まあ、賢いという評判が立ったときだってないわけじゃないんですよ。
ただね、仕事はあまりしなかったんでね。庄屋なんですよ、家がね、私しゃ、長男だったんですよ。普通は継ぐでしょう。ところが、継がないでねえ、悪い男でね。家の仕事は何もせん。まあ、昼行灯(ひるあんどん)でね。庄屋の仕事なんか、私にゃ向いてやあしないです。まあ、勉強は好きだったけどね、家の仕事は何もしないで、ほったらかしで、あっちへ走り、こっちへ走りしているからね、ずいぶん、近所から言われましたよ。「あの悴(せがれ)の代になりゃあ、あすこもつぶれるぜ――」とね。皆んな、言っていましたよ。
まあ、私しゃ、自由人だね。自由人だと思う。あんたも自由人だろうし、まあ、他にもあんたのお身内には、自由人は多いだろうが、まあ、自由人ですよ。やはりねえ、法などを求めている人は、束縛、これを嫌うんですよ。まあ、引っ張られてね、これだけのことしなけりゃいけないと期待されると、どうしてもそれがね、重荷になるんかね。
まあ、どうかね………私は今の世の中の人を見ていて、まあ、かわいそうに思うね。皆んな、やはり窮屈だね。皆さん、何であんな長いひもなどを首からぶら下げて、暑いなか、会社とやらに行くのかね。私しゃ、ときどき、雲の間から見ているんですよ。雲の裂け目から、オッ、下界はどうしておるかなあと見ると、電車は走っておるのう、長い蛇みたいだのう。これはサラリーマンちゅう種族かのう。
皆んな、首に長いひもぶら下げて、「わしゃ、サラリーマンじゃ」と、どうやら自己顕示しているのう。見たら、種類が一瞥(いちべつ)でわかるのう。首からひもぶら下げて、夏じゃから、暑いのう。汗いっぱいかいて、背広片手に握って、吊革にぶら下がっているぞ。まあ、ご苦労じゃのう。そうあくせくして定年とやらになって、どうするのかのう。私しゃ、そんな気持ちでいつも見ているがのう。まあ、かわいそうじゃのう。あんた、そう思わんか、あんたどうかね。勤めの経験もあるじゃろが。
―― まあ、そうですね、皆、箱から箱への生活を毎日しているんですが……。
良寛 皆んな、行くのは嫌なのに、皆、急いでいるんだな、どいつも、こいつも。早く会社に着かなければ、上役に叱られるとか、ボーナスが滅るんじゃないかとかね、やってるみたいだな。嫌なところに急いで行って、帰りは帰りで、上役が帰るのを待って、もう帰りたくて帰りたくてしょうがないのにね、上がいなくなって十分ぐらいたって、それを見計らってから帰るとか、皆さん、なかなかご苦労されているようだね。まあ、つらいね、現代人も。
―― ときに、和尚さんは、ご在世になったのは幕末にかかる前ですか。
良寛 どのぐらいだろうね――、今から言うと、二百年ぐらい前ではないのかな、ちょうど二百年、二百年足らずかな。
―― その時代の世相と現代の世相と、どう違いますか。
良寛 私しゃ、世相を知らんのですよ。山猿でね、申し訳ない――。そりゃ、旅してね、感じてたけど、世の中はずいぶん変わりましたよ。あの頃と今とでは、まあ、食べものをみても、わずか百数十年か、そんなもんかな。あなた、調べて言っているなら、そのとおりでしょう。とにかく、そのぐらいでねえ、ずいぶん変わりましたよ。
私しゃ、木の実を食べていたこともあるし、まあ、たいていは、もらいもんだからね、いやあ、生産しない人間なんて、ダメだね。もらいもんでね。でも、味にはうるさくてね、けっこう、近所の人が米だとか、味噌だとかくれるんだけど、味噌など、やっぱりね、好みがあってね。
―― まあ、育ちが育ちで、大家だったから。
良寛 この味噌ダメだ、辛いから。もちょっと甘い味噌に替えて下されたく――なんてね、手紙つけて、冗談半分によくやっていたもんですよ。
2.恋する心は若さを保つ秘訣
―― 和尚さんは、結局、生涯妻帯はされずに終わったのですか。
良寛 妻帯とは、ハハ……、あなた、何をもって妻帯というのですか。その定義をして下されば、私は答えてみましょう。
―― 奥さんを正式に娶(めと)られたかということです。
良寛 正式とは、どういうことなんでしょう。何をもって、正式と言うんですか……。仏のもとにと言えば、私も正式にもちろんしておりますが、役所に届けたかと言えば、そういうことはありません。まあ、若いときはね、私は遊びましたがね。まあ、あなたは、そらあ、清廉潔白(せいれんけっぱく)だろうと私は思います。でも、あなたのことは、私は知りません。私は女郎屋通いもしました。庄屋のぼんでね、お金がありましたからね。私しや、自慢じゃないですが、女性にはよくもてましてね。けっこうね。あなた、もてますかな。
女性にもてるには、秘訣があるんです。秘訣がね。いろいろあるんですが、あなた、銭金(ぜにかね)でもてると思っているところが、間違っている。私しゃ、一文なしでももてる。いや、金があったときでももてたが、なくてももてた。これはね、天性の気立てなんです。やはりね、あなたね、馬の尻っ尾の毛でね、女の鼻の下、クスクスとくすぐるとね、もてるんですよ。秘訣があるんですよ。若いうちはね、こう言っちゃ、あなた方の読者にや悪いけど、女郎屋通いもしましたわな。女郎屋へ行って、三味線も弾きましたわ。まあ、当時の女郎屋というのは、そんなに悪いところではなくてね、まあ、ひとつのサロンですよ、現代で言やあね……。
―― 沢庵(たくあん)さんも、たびたび行かれたらしいですね。
良寛 サロン、サロンと言うかね、女郎屋っていうのがひとつの文化だったんだな。
―― 廓(くるわ)って言うところでしょう、当時の……。
良寛 廓と言うとちょっと誤解を受けるが、当時の女性としてはけっこうね、当時の女性としては、教養を持っているんだな。歌を持ってるとかね、三味線が弾ける、唄が歌える、と。けっこう知ってるんですよ。教養があってね、おもしろいんですよ。庄屋のおばちゃんなど相手にしとってもおもしろくないけど、けっこう教養人が多くてね。交際に上客も多かったからね。
そうそう貧しい世の中で、女郎屋へ行くっていやあ、上客が多いもんだからね。まあ、ひとつの文化交流(つきあい)の場だな。ま、だから、放蕩(ほうとう)と言ってしまえばそれまでだが、まあ、けっこう楽しいところもあるんですよ。
―― そういうところへ袈裟衣(けさごろも)で行けるんですか。
良寛 イヤハハ……。私しゃ、袈裟衣を着たのはその後ですよ。もちろん、その後ですよ。仏の道に入ってね、そんなことするわけないですよ。いや、あなたが何をもって妻とされるかと言うから私が言っておるのであって、まあ、朝帰り、その朝さえも帰らないこともありました。
年取ってからね、私に恋した人もいてね。尼さんがいましてね、そりゃあ、史実でも調べてみりゃ分かるでしょう。私に恋焦(こ)がれた尼さんがいてね、若い子がいてね。私しゃ、七十ぐらいでね、向こうは三十ぐらいで、老らくの恋をしたこともある。あなた、まだこれからですよ、まだまだ青二才だ。これからですよ。まあ、七十で、三十ぐらいの女性のお尻をなでるぐらいでないと、まあ、仏の悟りもね、やっぱり、究極までいかないんですよ。生命の躍動を感じる。まあ、これはひとつの悟りですな。老い込んではいけませんよ。
―― 若草の萌えるような――。
良寛 そうそ、そうそ。どうも、あなた、萌えていないからね。私しゃ、不安でしかたないです。あなた、七十すぎて恋をするぐらいの余裕がなくて、あなた、どうしますか。風流人というのはそういうものですよ。まあ、少しぐらい悪いようなことしてもね、個性ね、人柄の大らかさで包んでしまうんですよ。そうすればね、仏様というのは、罪を罪として見ないんですよ。大きなものでくるんで。
―― まあ、先般、坂本竜馬様のお話もございましたが、「平均的な人間より瘤(こぶ)のある人間になれ」とね、教えられましたが。
3.人間、斜めから見られて、ちょうどよい
良寛 まあ、龍馬さんは油ぎっているからね、私とは、多少違うでしょう。私とは違うでしょう。私は思うんだが、宗教家というのは、世のため、人のためとよく考えておるんだが、けっこう人間嫌いが多いんだなあ。結局のところな、あんた、わしゃどうか知らんよ、ただ、人間嫌いが多くてな。
人間嫌いというのは、診断するのは簡単ですよ。交際(つきあ)っている人がおるかどうかね、自分がやるその用以外で、つきあっている人がおるかどうかだな。そういうことを見りゃね、人間嫌いかどうかわかるんですよ。あなた、人間嫌いだな。私しゃ、そう思うな。現代の世捨て人ですな。やむを得ず家を構えて、交際(つきあい)もあるが、あんた、人間嫌いだな。まあ、現代の「良寛」だな――。
―― ハハ、良寛さんですかな……。
良寛 絵でも描いて、あなた、俳句でもひねっておれば、あなた、現代の良寛ですよ。
―― 私もね、絵でも描いたり、俳句でもやっていたらいいんですが、どうも雲行きがそういうことにならなくて、えらい大そうなお役を仰せつかって、こうせっせと働かなくてはならないようになってしまって、これはどうもね……。
良寛 そうだね、まあ、どうも気の毒だがねえ、まあ、私だって、遺(のこ)っているものと言えば、当時の私の面影を伝える伝説と、まあ、書が遺っているだけのものかな。書が遺っているか、歌がちょっと遺っているかだな。「書」はよく書いたな。
私がつくった、歌じゃない、あれは俳句かな、よくわからんが、私しゃ、最高の傑作(けっさく)だと思っているのが、いや、ある男がね、私のところへ来ましてね。私しゃ、そう達筆(たっぴつ)とも思わんのだけどね、書をせがまれましたね。鍋蓋(なべぶた)持って来てね、これに書けって言うんですよ。どうしてもね。まあ、その男は近所にいて、そうだ、私が通りかかったときに、つかまったんだよね。私が歩いてましたらね、その男が柿を椀(も)いでいたんだよね、柿の木に登ってね。
それで、「あっ、良寛さん、来よったな、よおし、今日はつかまえて、ひとつ書かすぞ」とね。「さあ、良寛さん、書を書けっ――」ってね。書いてもよいが、そのまま書いたんではおもしろくないから、何か賭けごとしようじゃないか、と。なんてね、まあ、その男、将棋がなかなかに強くてね、将棋で私は負けたわけですよ。それで、その男が、「良寛さん、この鍋蓋(なべぶた)に書を書け」って言うんでね、その男が、柿の実を椀(も)いでいたこともあってね、私は、じゃあと、季節に因(ちな)んだ、こういう句を書いて遺しました。よろしいかな。
柿椀(も)ぎの きんたま寒し 秋の風
名句でしょう。柿椀ぎのきんたま寒し秋の風ですよ。なかなか名句ですなあ。あなたもそう思うでしょう。
この情景描写ね。柿を椀いでいる男の下を通りかかって、ムッと上を見ると、まあ、褌(ふんどし)もしておらんわ。とき、あたかも秋、澄み渡った空には雁(かり)が翔(と)んでおってだな、はっと見上げると、金二両が揺ら、揺らと秋風に揺れていた。機(お)りしも、近くには柿の実がたわわに実っている。柿と、きんたまとの対比がまた素晴らしい。
こんな素晴らしい情景をさらさらと私は書いたわけだから、その男は感動すればいいんだ。こんな名句はめったにもらえるもんじゃあない。ところが、その男は、「いや、良寛さん、こんなもの恥ずかしくて、人には、見せられん。もうひと勝負しろ」と、もう一度勝負した。将棋して、私しゃ、また、負けました。それでまた、「書けっ」と言うので、「よし、紙、もう一枚持って来い」と言って、また書いたのが、柿椀ぎのきんたま寒し秋の風。同じもの、また書きました。すると男、また怒りました。「もう一回する、許さん」と。で、また負けました。三回目、それで、私はまた、同じことを書きました。
その男はカンカンになって怒りました。「良寛さん、こんなもの恥ずかしくて見られたもんじゃないでしょう」と怒るもんだからね、「何言っているんだ。お前だって、同じ将棋三回やって、三回俺に勝っただけじゃないか。同じ句を三回書いて、何が悪い」と。私しゃ、性格的にこんな性格でね、まあニヒルなんでしょうかね。おちょくるんでしょうかね。私は、これ、名句だと思います。あなただったら、掛けるでしょう、家に。「良寛」と署名して、「柿椀ぎの」この句境は、芭蕉にも見られないものでしょう。まあ、こんなことがあったんですよ。
―― あなたの歌に、こんなのがありますね、
霞立つ長き春日を子どもらと手まりつきつつ今日もくらしつ
良寛 まあ、これは有名になっとるらしいですな。教科書か何かに使われとるということで、これは、まあ歌だね。これで、まあ、名前が遺(のこ)っとるのかしらんが、これで良寛がわかったと思やあ、世の中の人は、ちと甘い。こんなやさしいもので、良寛はわからない。良寛の本音は、「柿椀ぎ」の句に出ておるんだよね。こんな、子供らと手まりつきつつ、なんて、こりゃあ、まあ、ええ格好しているわね。
まあ、こういう句は、だれが見たって、あなた、私しゃ、善人としか思えませんからね。そうでしょう、あなたがつくったって、こりゃ善人ですよ。あまりにもできすぎている。子供を愛している。手まりをついている。一日その日を過ごしている。これでまあ、良寛の人間が規定されているようだ。
いや、しかし、これは良寛の半面であって、やはり、「柿椀ぎのきんたま」を鋭く見つけるのが、良寛の冷静な批判眼だったというものであります。だから、良寛は、ここを見ないとね、わかったつもりでいてはいけない。私もね、「仏法」をやったから、けっこう人を見る眼があるんです。
―― 真実を詠(よ)む、ということですね。
良寛 まあ、どっちかと言うとな、まあ、ちょっと斜(しゃ)に構えとるかもしらん、見たとこはね、まあ、その「長き春日」は、斜には構えてはおらん。まあ、人生というものは、あんまり真向から見ると、肩はこるわ、馬鹿馬鹿しいわ、でね、あんまり世捨て人であってもいかん。まあ、斜から見るのがちょうどよい。まあ、あなたもそうだな、世捨人にならず、また、あんまり世の中に俗されず、俗塵に塗(まみ)れず、ま、斜(ななめ)に見ていくのが一番だな。まあ、鹿か狸のようなもんで生きりゃいいんですよ。人里近くに住んでおってだな、餌がなくなりゃ、狸が出てくる。まあ、罠にかかっちゃ終わりだけれども、仕方ないわな、ま、腹が減りゃ、悪さもするわ。
4.狐(きつね)、狸(たぬき)はかわいい。嘘はつかんです
良寛 ま、こんなことでは本にはならんかの。も少しましな話を所望(しょもう)されたら言わんでもないがの。どうやらあんたは「睾丸(きんたま)」に感銘を受けて、ずいぶん感動しているようなので、どうも後が話しづらくてしょうがない。まあ、子供は好きであったと、というのはね、やはりね、これは逆説になるかも知らんが、まあ、大人の世界というのはどうもね、いただけないね。
―― 嘘が多いから――。
良寛 あなたもそうは思わないかね、嘘が多いね。嘘が多いね、できたらつきあいたくないね。あまり深くね。嘘が多い、真実じゃないですよ。つきあえばつきあうほど、自分が毒されていくのが目に見える。その点、子供は正直ですよ。いや、子供だって嘘は言うけどね、嘘は言うけど、その嘘に毒がない。
―― 子供の嘘は無邪気(むじゃき)ですからね。
良寛 まあ、子供と毬(まり)ついたり、鬼ごっこしていると、やはりちょうどいいんですよ。
―― まあ、和尚さんの心性にあっておったということでしょうね。
良寛 私はね、まあ、それほど人間好きでないと言ったけど、結局ね、偽善が嫌いだったんですな。偽善家は嫌いでね、まあ、人間が素直ではなかったのかのう。人のねえ、偽善とか、偽りとか、そういうものが嫌いでのう。なに、あんたもそうだろうが、いやなもんだね。あえて自分を何と言うかね、そこまでおとしめて、偽善の世界で生きたいとは思わん。庄屋の長男だからって、庄屋を継ぐのが世の常だ、なんて言って、世の習いに従ってやれば、私は世の中からさすがよくやっている、よい息子さんだと、言われるんじゃろうが、どっこいそうはいかんところがある。まあ、これが「求道心」というものさ。良寛は庄屋の後継やってたんじゃ、高校の教科書にも残らんよ。
―― あなたはあまり関係はなかったのかもしれませんが、どうなんですか。つまり、ときの権力とか、封建社会とかいう社会制度に対し、反感はなかったのでしょうか。
良寛 まあ、いい気持ちはないね。まあ、抵抗する気持ちもないけど。
―― たとえば、町役人とか、目明(めあか)し、つまり、当時の岡っ引き、あるいは、地回りとかいろいろおりましたわねえ。
良寛 あまり好きじゃないねえ。私が世を捨てた理由のひとつは、それがあるんです。ときの役人ね、役人がいばってね。役人がいばっているのを見てね、庶民を罪人扱いして引っ立ててね、私しゃ、拷問で殺すのも見ましたよ。私しゃ、これで世を捨てる決心がつきました。こんな世の中に俗人に混って生きていきたくない。私しゃ、野山で狸や狐と一緒に生きていきたい。そう思いましたよ。あなた方、狸も狐も、人を化(ば)かすと言っているが、狸や狐は正直です。彼らはお腹が空けば里に出てきて、畑のものを食べるが、お腹がいっぱいだと出てきません。仲間同士で睦(むつ)まじく生きています。
狸や狐には嘘がありません。人間には嘘があります。一体何様だからと言って、役人だからと言って、人を責め殺すだけの権利があるんでしょうかね。私しゃ、嫌いですね、そういうものは。
―― では、和尚さんの場合はそれを見定めて、そういう人たちとは遠ざかって、つきあわなかったということですね。
良寛 まあ、私にゃ、先生が二人おりました。正確に言えば、三人かもしれません。ひとりは道元さんです。あとのひとり、または二人は、老子様と荘子様です。時代を越えてね、同時代にお師匠様がおれば、それにこしたことはないですが、なかなか同時代にはいないですよ。あなた方もそうでしょう。あなたのお師匠さんは、同時代にはいなかったはずです。時代を越えていることがあるはずです。どうですか、今、過去の人を見ていて、時間を越えてお師匠様と言って、師事できるような方と言ったら、だれがあなたに一番あっていますかな。
―― 私は各時代、時代に生まれて来ておりますから、そのときどきに、師がありましたが……。
良寛 いや、偽善者とならずに、自分の気持ちを正直に言えばどうですかな、だれが一番、あなたにあっていますかな。
―― お師匠さんですか……。まあ、イエス様あたりは立派な方だと思いますね。
良寛 イエス様ねえ……。なるほどねえ。
―― まあ、それは、私が弟子として過去に師事したことがある人ということを前提としてですよ。
良寛 まあね、あんた、日蓮さんが横にいたの、ご存知なかったのですね。
―― まあ、日蓮さんは、その後の師匠さんですわね。
良寛 まあ、それはいいでしょう。あまりこんなこと言うと、どこで恨みを買うかわかりませんから、こういう話は……。よしておくにこしたことはありません。
5.芭蕉も「仏法」を俳句のなかに観(み)た
良寛 それとね、私は言おうと思ってたんだが、やはり芸術だな。芸術ってのは、宗教家にとっては、最後の逃げ道になる場合もありますよ。まあ、あなた方も、「神理」の伝道普及をやっておられるんですが、それでね、純粋な理想に燃えてやっておられるんでしょうが、そういう教えが広がって、いろんな人が入って来て、いろんな組織が出てくると、また、嫌な面がけっこう出てきますよ。ただ、真理に接する機会と言えば、まあ、そういう教えだけではなくてね、芸術もまたひとつですから。
かつて芸術家として出たなかにね、ほんとうは仏法を説く予定だった人が、そうなった場合もなきにしもあらずなんですな。芭蕉さんなども、そうなんですよ。ああいう人はね、もともと仏弟子になるような人なんだがね、どうやらうまくいかなかったようで、ああいうふうにね、俳人になって、一家を構えてしまいましたがね。
―― 私も俳句を学んでいました頃、先生がおりまして、この先生は今でも尊敬しておりますが。
良寛 いや、意外に分かりませんよ。あなたの名前が遺らなくてね、善川三朗の俳句ひとつが遺ったりしてね。
―― その方は、すでにご他界されて、天上界におられますが。
良寛 何と言われる方ですか。
―― この方は、松村巨湫(きょしゅう)さんと言ってね、旧"石楠(しゃくなげ)"系の臼田亜浪(うすだあろう)の高弟で、"樹海(きのうみ)"を主宰した方です。晩年に至って、「格はいく」を開発、唱道することによって、俳句革命を図られた方ですが、その志半ばで、ご他界されました。しかし、そのお弟子さんのなかに、一部の方ですが、師の心を継いでやっておられる方がたがおります。
その主張とするところは、いわゆる定型に執われないということです。五・七・五の俳句という枠のなかに泳いでいるような人間ではなく、人間の正しい生き方のなかに芸術というジャンルがあり、そのなかに、「はいく」という短詩系の文学があるとする、人間道、主導型で、しかも、日本語の文格を正しく守ろうというのが、「格はいく」でして、私もそのグループの一員なのです。
良寛 松村巨漱さんね、私は面識ありませんが、お聞きしておいて、またお会いしたら、よろしく云えておきましょう。
―― この方は、人生に非常に厳しい方で、ご自分に厳しい人で、自分に嘘をつくなと、こういうことを、たえず弟子たちに訓(おし)えておられた方です。まあ、近代の俳人のなかでは、もっとも尊敬される人格者だったと思います。
良寛 まあ、あなたもね、俳句などなさるのであれば、こういう「霊言」集を編集するのもいいけれど、まあ、そうしたものを遺せるうちに遺しとかないとね。いやあ、人の意見は聴いたが、じゃああなたの考えは何だったのかと言うと、何も遺らなかったりしてね。結局、私の「長き春日を」じゃないが、あなたの俳句ひとつが遺ったりすることがあるんです。まあ、あなたを見ていると`共感するところはひとつ、そこだな。やはり現世に生きておりながら、やはり世捨人の風貌(ふうぼう)がどことなくあるし、ま、どうやら人間嫌いのようだから、私も一緒じゃ、子供が好きだって言う人は、言葉を換えりゃあ、人間嫌いさ。
6.今の女性には、昔にない「したたかさ」がある
良寛 それと女性問題だけど、あなたの前世もそうだけど、過去世の僧侶たちがね、皆さん結婚しなかった理由もね、結局は何と言うかな、話し相手がなかなか出て来んわけだ。女性のなかには。女性というのはどうしてもその時代を抜けるということはできん。わしが老子や、荘子を枕にして寝ているなんて言っても、わかってはくれん。まあ、女は、やはりどこか淋し気な動物じゃのう。
―― ところが現代では、反対に、男が淋し気な顔をして歩いていますね。
良寛 男はもう出家せにゃいかんな。女にまかしてな、子供を産むのは女の役目、働くのも女の役目、子育てだけ男の役目にすりゃあいい。子供相手にして遊んでおりゃいいんではなかろうかの――。
―― 近頃の子供は、和尚さんのときのように遊んでくれやせんですよ。
良寛 塾通いかの。
―― 塾ならいいが、テレビゲームやパソコンにうつつを抜かして、年寄りなど相手になりませんわ。
良寛 長き夏日をパソコンと」と言うことになるかの……。
―― なら、いいが、「汗を流して子らを探しぬ」になりますよ。
良寛 そうなるかのう……。ウアッハハ……。