目次
14."道元禅"の限界について
6.他力の教えは、死の苦痛を和(やわ)らげる一時的な麻酔薬
道元 それに比べて、たとえば禅をやったりしてね、「自力門」で地獄へ堕ちている人もおります。ただ彼らは、もちろん自分のやり方が悪かったために十分悟っていなかったのですが、私たちが行ってですね、「いや、お前はね、ここのところを十分反省していないぞ。ここのところをもっと徹底的に考えなさい」と、こういうことを言うと、比較的早い時期にね、もう反省を終えて、天国へ還って来ます。彼らは知っていますから。自分自身やらなければ、だれもその借金を返してくれないということを、知っているんです。だから、悟りが早いんです、あの世へ行ってもね。
だから、私はね、"大衆救済"という美名はいいんですが、やはり大衆に受けるものというのは、どこかですね、どこか愚(おろ)かしいものがある。どこかやはりね、心を迷わす麻薬のようなところがある、と思うんです。
ですから、あなた方もね、今の時代であなた方に言うなら、たとえばですよ、『道元禅師霊示集』でも何でもいいから、この本を読めば救われる、と。この本一冊、たとえば、この本を五回読めば、極楽往生間違いなし。あなた、必ず天国へ行けます、と。たとえばですよ、あなたが本の扉に書いたとします。この『道元禅師霊示集』を五回読めば、必ず極楽浄土へ行けます。これは道元禅師が保証していることですから間違いありません、と。あなたがそう書いたとする。それが正しいかどうかです。
どうですか――。私はできるだけ真理を語りますが、しかし、その本が真理の書であるということと、それを各人が、たとえばですよ、五回読めば極楽往生できるということと、これは別のことです。それはその内容をどう受けとめるかという各人の問題があるからです。そうではありませんか。
ですから、他力の教えというのは、まあ一時的なですね、苦痛、死の苦痛をですね、和らげるための麻酔剤にしかすぎないのです。これは、徹底的な治療にならないです。ですから、他力から自力への道はいいんですよ。まだね、途中から心を入れかえて。しかし、それだけしかないと思えば、これはもう救う道がなくなってきます。
阿弥陀様が救って下さると思っていると、道元禅師が言ってもね、「いや、そんな人は救ってくれない」と、突っぱねるのです。「阿弥陀様のお使いですか、あなたは」と。そう聞かれるわけですね。「いや私は、阿弥陀様のお使いではありません」と。
「じゃあ、あなたは、私たちを救ってくれる人ではありません。私たちは阿弥陀如来様のお使いを待っているんです」と、こう言い張ってね、念仏行者が百人も、千人も固まってね、ナンマイダ、ナンマイダとやっているのです。未だにね。岩陰に隠れて、地獄の岩陰(いわかげ)で――ナンマイダ、ナンマイダーとやっているのです。
こんな人たちを他力行者たちは、一体どうやって救おうとしているのか、私はそれを聴いてみたいものです。
―― それでどうなんですか、そこであくまでも、"弥陀"の救いを待っているということですが、にもかかわらず、一向にお救いがないということに対して、その人たちはイライラと、じりじりとして、反対に、その懐(おも)いを反感の方向へ持っていくような危険性はないのでしょうか。
道元 ですからね、そこがむずかしいのです。五十年、百年やると、まだ南無阿弥陀仏と言っているのに、だれも迎えに来てくれない、と。これはね、やはりこの信仰は間違っているのか、これを捨てて、やはりちょくちょく来る自力の人の言う意見に従おうとする人が、たとえば五百人の集団がおったらね、そういう人が五人、六人とパラパラと出て来るのです。
そうすると、仲間割れがはじまりましてね。地獄でね。そして、あいつらは邪宗にまどわされた異教徒だと。あいつらは破門だと。ののしるわけですね。行こうとすると、破門だと、破門だ、仲間にしてやらないぞと言う。そうすると、行きかけていた人も気になって、やっぱりそうかな、やはりそうだな、念仏で救われるということを私は信じたのだが、やっぱり数の上からいうと多いのだから、皆んなの流れに従って行ったほうがいいかなと、七人抜けようとしたのが四人ぐらい帰って来るのですね、念仏のほうに。で、三人だけが出て行く、そして、皆んな、ののしっているのですね。「あいつら、バカだ。あれは、もっと深い地獄に堕とされるのを知らないのだ。わしらは、まだこんな浅い地獄におるのは、これは念仏のおかげなんだ。それがわかっていないんだ」と。
まあ、こういう仲間割れをずいぶんやっております。まあ、やがてそういうふうに、三人、四人と、パラパラ出て行くんですが、その後、彼らがどうなったかは、残った彼ら念仏行者らは知らないんです。念仏地獄から出て行った人が、その後、どうなったか、知らないですからね。出て行った者たちは、おそらくもっと深い地獄に堕ちて行っていると思われているのでしょう。
7.自力の誤りと「自他力、混一」の悟りへ
道元 もちろん私は、他力というものを否定するものではありません。宗教のなかには、他力というのはあります。祈れば確かに、高級霊が応(こた)えてくれることはあります。それは、あるんですよ――。それは、自カとの相関関係なんですよ。実を言うと、自力によって悟りが高まれば高まるほど、他力の協力がまた、大きくなってくるのです。それは、あなた方にとってもそうです。
あなた方が自分として悟れば悟るほど、私たちの言葉をキャッチしやすくなるはずです。さらに上級の霊たちと話せるようになります。それは、上級の霊たちは、全然悟っていない人のところで、むずかしい説を説くわけにいかないからです。ですから、自力と他力というのは、切り離したものじゃないんです。自他力ですね。やはり自力の程度に応じた他力が与えられる。こういう相関関係があるんです。
まあ、もちろんね、今のは、自力だけをよくして、他力だけを悪く言いましたけれども、私もそういうことでは片手落ちですので、自分のことを反省しておきます。もちろん、自力で地獄へ堕ちた人もおります。先程、言いました。そうした人でも、正しく反省の仕方を教えると、天国へ来るのは早いと言いました。
ただ、自力でもね、また深い地獄に堕ちている人がおります。これは、自分の力を過信した人たちで、これは他力が秀れているところなんです。自分を過信しない。他力の人たちは、それは確かなんですよ。ところが、自力の場合には、自分を過信したと思う人がおるんですね。そして、悟りというのは、非常に個人的なもので、絶対的なもので、相対的にね、あれは悟ったというような状態というのは、なかなかわからないものなんです。
しかし、「正師」ですね。正しい師がおれば、お前は悟ったということを教えてくれるけれども、そういう人というのにはなかなか出会えませんから、実際上は分からないんですね。で、山のなかに篭って五年、十年と修行したら、もう俺は、悟ったんだと、天狗になっちゃう人がおるんですね。実際には、まったく悟っていない。が、悟っちゃった考えを持っておるんですね。自惚(うぬぼれ)ですね。自惚の世界で生きている。こういう人がおるんです。
こういう人というのは、生きていたときにすでに天狗になって、有頂天になっておる。そのまま死んで地獄に行ってしまったら、今度は、また逆に、慣性の法則というのがありまして、そうした修行で悟ったと思ったから、今度はもう、逆の方向へ動くのが大変なんですね。何でまた、自力で悟ったはずなのに、これが間違ったのか、これがわからなくなってくるんですね。正しいモノサシがないと。
ですから、自力門でも、道を間違うと地獄のどん底に行くことがあります。過信してね、天狗になって、間違っているのに、悟ったと思っている人びとに嘘を教えたりしているとそういうことになります。そういう意味で、自力の危険性も、もちろんあります。
おもしろいことに、他力信仰で地獄に堕ちた人たちは、私たち自力で悟った人たちが、高級霊が行って、救っているのですね。そして、自力門で地獄の底へ堕ちている人は、他力門の人が行って、救っているのですね。これもまあ、おかしなことだなと、私は思っているのですが、そういう自力門で地獄に堕ちたという人は、要するに、そうした謙虚さがないのですね。神仏の前に謙虚さがないんで、他力門の人が行ってね、それこそ、「阿弥陀如来」の救いの大切さを一生懸命説いています。神仏の前に掌を合わせなさいと、頭を低くして、その慈悲に期待しなさいなどと、他力門の人が行って、救っている姿があります。
たとえば、自力門の人のところに、私、道元が行ってね、「お前は、こういうふうにしろ」と言っても、「いや、派が違う」と、言い返す人がおるんです。「お前のやり方ではない」とね。同じ自力でも、俺は違うんだ、と。とくに密教をやった人などは、まあ、あなたもご関係があるかもしれないけれど、密教をやった人などは、どうもいけないですね。密教をやった人などは、どうもね、悟りというのは、超能力を持つような方向にとられる傾向があるのです。
そして、自分は超能力を受けたのに地獄におるのはどうもおかしいと言い張っているのですね。私は、「いや、そんなんじゃないんですよ、心静かにね、自分の心を鎮(しず)めて、自分のやってきたことを静かに振り顧(かえ)ることが大事ですよ」と訓えるんです。しかし、そういう人は、「それは道徳論じゃありませんか。あなた、そんなこと悟りじゃありません。悟りというのはね、こういう"即身成仏"です。こういうふうな構えをして、こういうふうに念力を込めていると、偉大な奇蹟が起きるんです。それが悟りなんです」と。こう言っている人がおるんです。
こういうのは、密教の行者にとくに多いです。法力ってやつですね。実際、彼らは法力を持っているんです。それは、密教でね。修行すると、法力がついている人がおるんです。法力というものがあって、これは、ある意味では、念の大きさですね。念が強く、大きくなることがあるのです。
ですから、地獄へ行っても力を持っているんですね。自分らは、まだ悟っていると思っているんです。そして、地獄で力を持っているもんだから、けっこう大きい顔しているんです。地獄というのは力の世界なんです。力の強いものが勝つんですね。弱い者は、言うことを聞かざるを得ない。そうするとね、そうした密教の行者などで地獄へ行っている人は、法力があるもんですから、地獄でいばっているんですね。
地獄で何人もの人がね、五人、十人の人が襲いかかっても、「エイッ」とね、手で九字を切るとね、皆んな、ボーンと遠くへ飛ばされてしまう。どうだ。俺様の力はと言っているのですね。そうすると、皆んな、ヘェヘーと平伏しているわけですね。最初来たときにはね、自分は地獄におるんじゃないかと、暗くて、うす暗くて、どうも変だなと思っていたんでしょう。そういう人が、だんだん眼が慣れてきて、棲(す)むのに慣れてきて、そして、自分の法力を過信してやりはじめると、今度は、周囲(まわり)の人を従えていくのに快感を覚えていくようになります。だんだんね、――俺の言うことをきかないと、お前を動けなくしてしまうぞとかね、金縛(かなしば)りですね。こんなことをやっているわけです。あるいは、岩を持ち上げたり、砕いたり、こんなことがだんだんできるようになるわけです。
日本の山岳信仰の行者にも、滝行やっていた人たち、皆んな、念力が強くなっていますから、地獄でいばっているわけです。で、こういう人たちが、千年ぐらい経つと、地獄の悪魔になってくるんです。最初は元の行者として、あるいは、密教行者として、仏の道を修行していたという気持ちがあったのが、だんだんそれもなくなって、力だけを過信して、要するに、他人が自分に従うのが楽しいものだから、子分をどれだけつくるかと、そういうことに奔走しはじめるのです。言うことをきかすのにね。まあ、人間そういうところありますわね。自分の力に、人が従うのがおもしろいですからね。ただ、こういうのをいけないと思うか、思わないかという一線があるわけですね。こういう世界なのです。
大体悪魔とかいうのは、東洋で言うと、そういう自力論者の法力だけを求めた人たちだけが悪魔になっているし、西洋でももちろんあります。そういう人たちは、これはまた、始末におえないのですね。念仏行者では、まだ、なかなか悪魔になりにくいのですけどね、お題目唱えているだけでは。そういう意味では、他力信仰の方がたというのは、地獄に堕ちても、まあ低いところの地獄におるということは、確かに言えるかもしれない。そう深い地獄までは、なかなか行かないかもしれない。ところが、自力の人で、間違って地獄へ行った場合には、かなり深いところまで行ってしまうこともあります。方向が間違えばね。
その代わり、天上界でも同じことが言えるのですね。念仏唱えていて天上界へ入った人も、そう高い悟りではないですね、はっきり言って、念仏というのは。念仏だけ唱えて、如来菩薩にはなれませんよ。それで、菩薩に還った人は、もともとの心性の高い人ですからね。宗教として、はじめて念仏に出会って、天国に来たという人は、それだけじゃあ無理です。
念仏には、たとえば、人を愛する「愛」がありません。あるいは、自分をつくっていこうとする「努力」がありません。たとえば、六次元神界というのは、自分をつくっていこうとしている人ばっかりが集まっています。努力してね、勉強して自分をつくっていこうとしている人が六次元に集まっていますが、そういう念仏行者では、六次元へさえ入って行けません。それはそのはずです。自分をつくっていこうとしないからです。救いばっかりを求めているんですからね。ましてや、人に愛を与えて生きていくような生き方、七次元の菩薩界の生き方というのは、もっとむずかしいです。そういう意味で、「念仏」による悟りというのは、非常に浅い悟りでしかありません。悟った人もね。
ところが、自力の場合は、体当たりで悟った場合には、やはり菩薩、如来の境地まで行く可能性というのが非常に強いわけです。それは、自分で高めていく、自分で自分を高めていく道というのは、限りがないからです。限りがないのです。そういう自力の修行というのは。
それに比べると念仏には限りがあるのです。限りがないとすれば、何百万回唱えるかということに限りがないぐらいあってね、そんなもので偉くなれるわけがないぐらいは当然のことです。ですから、自分の境地を高めて行くという「段階の法」があるという意味において、自力というのは秀れているのですね。ところが、他力門には、段階の法がないんです。底辺を救おうとしたのかもしれませんが、いわゆる段階の法がない。その意味においては、他力門では、その後、傑出(けっしゅつ)した人物が出ていないはずなのです。出ないのです。
ですから、自力門というのは、そういう師ですね、ちゃんとした指導者さえおれば、皆んな、正しい方向へ行けるのです。ただしかし、その正しい指導者を出すということがむずかしい。そのために、素晴らしい光の指導霊たちが出て、しっかりした教えを残しておかねばいけないということですね。きちんとした"テキスト"を残しておくべきです。そのテキストが間違うと、皆んな、狂ってしまうから。
そういう意味では、あなた方が出している「霊言集」もね、これもひとつのテキストだと思うのです。これを読んでね、心を修正して、間違いのない方向で修行せよということでいいと思うのです。やはりなかを読んでね、書物の中味を読んで、自分の血や肉にして、悟っていただかないといけないんです。
『道元禅師霊示集』の本を置いてね、カバーを枕元に置いてね、――道元さん、救って下さい。道元さん、救って下さい――と言っても、私は返事はしません。私たちは、あの世で修行しているんです。ですから、――道元さん、どうか救って下さい。極楽往生、お願いします――と言っても、私は聴きません。そんなことではないからです。まあ、自力、他力のことをお話ししてきたわけですが、これについて、何かご質問がございますか。
8.光一元、善一元の「絶対力論」は、そのまま現世では通用しない
―― 「自力門」「他力門」のそれぞれの欠陥、長所というもの、あるいは、この教えを信ずる者たちの悟りの浅さ深さによって、その行く霊域というもの、とくにその認識の過った場合の地獄での各人の様態というものを、くわしくお説きになり、お教え下さったと思います。
さて、今ひとつ、第三の境地と申しますか、自力、他力という単一の教えではなく、自、他が合一された「絶対力」の教えというものが、現在日本神道系の方によって称えられているわけでありますが、このような教えに対するお考えというものは、如何なものでしょうか。
道元 まあ、絶対力と言葉で言うのは簡単ですが、その教義の内容について、少し教えていただけますか――。
―― それは――、神は光一元である。愛一元、善一元である。従って、本来、闇なし、病なし、悪なしである。この高度な光一元の教えを信ずることによって、人びとは、精神だけではなく、この世的にも、物質、家庭、環境にも恵まれ、幸せな人生が送れるということであります。
道元 それじゃあ、「他力」と違わないじゃないですか、どこが違うというんですか――。
―― いや、それは、先程の他力論とはまた違うのであって、何もしないで、"阿弥陀仏"の名号だけを唱えておりさえすれば、それだけで、「弥陀」は救って下さるんだというのではなくて、あなたもご存知の"観法"によって、それもただ漠然と坐って、無心になろう、無心になろうと念っているのではなく、まず、神の愛を信じ、天地いっさいのものと和解し、すべての人、すべてのものに感謝の念を捧げる。
そして、神は光一元、愛一元、善一元であると信じ、その光と愛と、善なる神の無限の恵みを全身に浴びて、自分が心身ともに神の子として、清浄に浄化されていくと念ずる"観法"を日々行ずる。そうすることによって、自分も、また自分の環境もともに、円満具足(ぐそく)の世界を現出することができるのだという説であります。
道元 私は、その「絶対力」という考えはまやかしだと思います。どうもそれはね、自力と他力のいいところだけを合わせたようなつもりでいるけれども、実際上の問題として、他力のもっと極右ですね、極端な他力だと思いますよ。いわゆる他力以上の、極端な他力だと私は思います。それは、自力と他力のいいところだけを採ったようなつもりで、そして、自分はそれを総合したようなつもりでいるけれども、それは違うと思います、私は。ほんとうの意味で、自力が分かっていません。たとえばですよ、今の考えのなかでは……。
―― まあ、ご承知かもしれませんが、最近我が国で、"万教帰一"という教えが神道系に出ておりまして、そこでは、先程も申しましたように、三千世界は神の光一元、善一元の世界であるということを認識することであり、その認識の方法としては、その宗派から出ている「法典」を修得することである、と。あるいは、独特の「観法」によって、日々心の浄化をはかることであるというお説であります。
道元 やはり、それは他力です。自力ではありません。なぜなら、その教えには、"反省"というのがない。反省がありますか。
―― その反省というのが、今ひとつ足りないようにも思いますが――。
道元 ないはずです。少しないではないのです。ないんです、もともと。ただ、そういう仏教を学んでいるから、それらしきことも多少は言うかもしれないけれど、教えのなかに反省がないんです。
仏教の基礎は反省なんです。自分の心の曇りは自分自身が晴らさないでは、晴らしてくれないです。だれもが。これが仏教の基礎です。その考えで言えばですね、反省がないはずです。なぜないかと言えば、曇りが本来ないということなので、曇りがないというから、反省がいらないのです。だから、他力です。自力じゃありません。
―― 自分は神の子であり、本来善のみ、悪なし、病なしである。それが、曇りが、病があるように見えるのは心の迷いである。この迷える心に神の光を当てれば、それらの現象上の迷妄(めいもう)は消えていくのだと強く信じることであると説かれるわけです。
道元 もちろん、その方向は、素晴らしい人は、ますます素晴らしい人が出て来ます。ただ、間違えば、やはり傲慢(ごうまん)な人、あるいは、狂信者たちが出て来るはずです。あるいは、自分を非常に合理化する、自分の立場を合理化する、非常につごうがいいですね。こういう教えというのは、政治と結びつくと、非常に危険なところがあります。たとえば、政治と結びつけばですよ、闇なし、迷いなし、反省なし、で、好きなようにやればいいんです。そして、それは神の教えだと突っ走ってしまえば、大変な方向へ行ってしまいます。
非常に危険です。なぜなら、ブレーキがないからです。アクセルだけがあって、ブレーキがない教えというのは、非常に危険であります。その教え、あなた、よく見てみなさい。絶対力と言いながら、アクセルはあるけれど、ブレーキはないはずです。アクセルのみあって、ブレーキがない車というのは、非常に危険だということです。それは、道がまっすぐで、他の車がなければ事故は起きません。アクセルだけでいいです。皆んな、まっすぐ走っとればいいけれども、皆んな、同じ方向へ走っとればいいけど、ときどき横から出てきたり、向かいから対向車がくる場合、ブレーキがなくて、どうしますか。
自分は神の子でいいですよ。他の人は、神の子だと思っている人ばかりならいいですよ。皆んな、同じ方向へ走る車だから、アクセルだけあればいいですよ。アクセルはずせば、自然に車は止まっていくでしょう。ところが、対向車というのがあります。人生においては。対向車というのは、これは神の子であると信じていない人たちなのです。ね、対向車がくるのです。そのときに、危ない! やはりブレーキは踏まないといけないではないですか。
ですから、確かにその教えは素晴らしいところがあります。天国においては、そのとおりです。神の子ばっかりが集まっているところでは、それは反省もありませんよ。ね、皆んな、素晴らしく活(い)かしあっていますから、大調和の世界です。それはそのとおりです。
ただ、地上においては、必ずしも正しくない。それは、"神理"の半面しか見ていないということです。地上においては、車でありながら、左側通行ではなくて、右側、走ってくる車もあるんです。地上ではね。そういう混乱した車、あるいは、酒酔い運転ですか、酒を飲んで車を運転することがあるんです。こういう車を避けるためには、やはりブレーキがなければいけないんです。
その教えではね、そういうブレーキというのは、酒を飲んで運転しているとか、右側を走ってくるような車を想定していないんだと、そんなものは、本来、ないんだと、神の子というのはまず間違いがないんだ。神の子というのは、皆んな、左側を通って、車間距離を守って走るんだと、神の子というのは、だからブレーキがいらない。本来、ブレーキいらずだ、と。アクセルのみあればいいと、神の子は、皆んな、左側を一列に並んで、車間距離をとって走るんだと言っているんです。
実際、そうじゃありません。いろんな人がおります。あの世では、そのとおりですよ、しかし、この世では違います。いろいろと乱暴に運転するのがおります。ブレーキがないと困るんです。他の人を信頼して、ブレーキはいらんと言っているけれど、ブレーキはいるんです。
この人生のブレーキというのは何かと言うと、これは反省であります。心の曇りはないと言い切ってもいいけど、やはり出てきます。これを三次元的に見れば、それは真理です。七次元、八次元の人に心の曇りがあるかと言えば、それはないでしょう。おそらく。それはそのとおりですよ。本来、ないです。神様に曇りがあるわけは、ありません。もっと高次元へ行けばです。ただ、三次元という立場に立つなら、それは間違っています。
ですから、その教えを、つまり、「絶対力」というような非常にいい教えだと思っているようだけれど、ブレーキがないところが、私には非常に危険が感じられます。とくに政治権力などと結びついたときには、大変なことになってしまいます。ひとつの権力者を出してしまうことになるでしょう。私は、その教えを知らないわけではありません。その教えを説いた人も、もちろん、光の指導霊であることを私は知っています。
ただね、そういう指導霊がおるときには、その教えは正しい方向におそらく導かれるでしょう。しかし、やがてね、それが時代を下ってきて、凡愚な指導者たちが出て来たときに、大変な間違いを犯すおそれがあるということです。先程も言ったように、その教えは、要するに、自分がやりたいことを合理化する、説得する材料になりやすいからです。反省というブレーキがありませんから、ときの権力と結びついて、神の国を実現するんだなどと、もうやりたい放題やれば、かつてのヒトラーみたいな人間が出ないとは限りません。
ブレーキがないということは、怖いことです。ブレーキをつけることによって、車の構造が変わって、スピードは出ないかもしれないけれど、やはりアクセルとブレーキとがあってはじめて、車というのは進むのです。人生というものも、やはり車によってね、道を運転するようなものです。ですから、アクセルとブレーキと、両方、いるんです。人生においては。まあ、反省のない教えというのは、非常に危険だということ、これだけを私は言っておきます。以上が、自力と他力の大体の話でございますが、それ以外にどうですか、何か質問がございますか。