目次
(1986年1月2日の霊示)
1.『学問のすすめ』は二百万部のベストセラー
―― 福沢諭吉先生の招霊を行う。――
福沢 ――福沢です。
善川 ああ福沢先生ですか、先生は明治の元勲として数々の功績を残されましたが、特に先生は、わが国国民の教育ということに非常にお力をそそがれたお方だとうけたまわっておりますが、まあ今日わが国も明治、大正を経まして昭和も今年は既に六十一年を迎えるに至りました。この間いろいろのことがありましたが、第二次大戦後四十年にしてわが国の経済は非常な隆昌をみるに至りましたが、教育、科学、文化の面でもそれなりの進展はしてまいったとは思いますが、ただ今日いささか案ぜられますことは、その理念において正しい把握がなされておらず、とかく、すべての分野において唯物志向に傾いている如くにみられるのであります。
先生は現在高い霊域に在られて、高邁なる思想識見を往時からお持ちになられたお方ですが、今日のわが国政治、教育文化のあり方と、将来の方向について何かお教え賜わらば幸いと存じますが。
福沢 私は、このような場に呼ばれたのは初めてでございますから、あなた方に十分なことを申しあげることができるかどうか内心いささか不安ではありますけれども、あなた方の期待を裏切らない程度に何らかの話をしてみたいと思います。――あまり慣れない話し方かも知れませんが、その点についてはご容赦を願いたいものです。まずどのようなことから話していきましょうか。
善川 まあ先生の生い立ち、ご経歴等については史書により明らかにされているところでありますが、まず、私どものこの度の企画というものは既にご高承のことと存じますが、これが書物として著わされた場合、果たしてこのお話が真の福沢先生のご霊訓であるかどうかという不必要な不安を無くするためにも、明治初期における先生のわが国文明文化開発にご努力されたご苦心の一端なりとお聴かせ願えれば幸甚と存じますが。
福沢 わたくしが主として力をそそいだのはやはり人々の啓蒙、あるいは学問の普及、教育という問題でした。
誰もが知っている私の書物としては、『学問のすすめ』というのがありますでしょう。この書物は、当時としては、大変な、今でいうベストセラーとなりました。≪天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらずと言えり≫そのようなことから書き始めたこの文章でありますが、これがなぜか明治の時代において、当時としては、百万部も二百万部も売れたわけです。あなた方の時代においても、百万部も売れるような書物というのは、そうざらにはないはずです。
当時の人口からいくならば、百万人以上ということは、知識人はすべてということです。では、なぜこの書物がそのように多くの人びとに読まれたのでしょうか。これは単に作家として私が書いて、それが面白いから人びとに読まれたわけではないのです。当時、私としては、このような霊的な指導というものが、行われるということについては、私自身は、不覚にも、不明にも、何も知らなかったのでありますけれども、『学問のすすめ』という書物でさえ、やはり霊天上界からの指導によって書かれていた本なのです。
当時の日本は、幕藩体制を脱し、新たな近代国日本を造ろうとしていました。こういったときにおいて、何らかの精神的な原動力が必要であったのです。明治維新の志士たちは、政治的な変革ということにおいて活躍をされました。しかし私の活躍の舞台は、それとは違ったものでした。彼らはいわば手荒い大工であり、手荒い作業人であったわけですけれども、私はその彼らがやった土台づくりの上に、新たな草花の種を蒔くような仕事が私の仕事でもあったわけです。
私は、当時、これは私個人の考えではなくて、既に私がこの日本という国に生まれる前に計画をしていたことではあるのですけれど、やはり精神的な水準を高めるということによって、近代国家を造っていくべきではなかろうかと思ったのです。――そういう意味において新生日本、明治の国において、何らかの精神的な指導者として、私は自らの役割を果たしたいと思ったのです。ですから当時の私としては、あなた方のような宗数的な自覚もなく、また宗教者的な指導も私はやりませんでした。
私はそういうことではなくて、非常に文明開化的な、合理的な考えに基づいて、精神的な指導というものをなしたのです。それはまた、そうした時代であったからこそ、そのような指導が必要であったわけです。むしろ私などは、神仏などは平気で批判し、無視していたようなことが多かったわけです。それはいまとなってみれば、非常に大人気ない恥ずかしいことでありましたけれども、しかし、時代の要請というものはいつもあるわけです。時代の要請としてそういった宗教を説くよりも、むしろ人びとを啓蒙するといった方向に進んだ方が、いい場合もあるということです。
そのような時には、神仏は必ずしも、光の指導者達にも、そのような変った形での役割を果たさせようとされるのです。ですから科学者の中で、優れた科学者であって宗教的なことに対して関心を持たない人も居ります。それはそうした方面が、ある意味においてもとより塞がれているのです。余りそちらに関心がいくよりは、科学的な方向でその興味、関心を伸ばしていった方が世の中のためになるという意味において、その方面が塞がれているのです。私も明治維新のあの時代において、人びとを開明していくという、いわば、古い因習とか、伝統から脱するための原動力を、私自身が発見し、それを広めるというような役割であったわけです。
ですから、今あなた方の時代においては、あなた方はまた霊的なこと、神仏のことを、新たな角度から人びとに広めようとしていますが、それもまた一つの啓蒙の手段でありますけれども、当時私達としては、その前段階として、やはり、科学的、合理的な近代主義というものを、つくっていく必要があったということです。ですから、例えば私の『学問のすすめ』自体は、決して宗教的な本でもないし、いわゆる過去からいわれているような道徳的な本でもないのです。あくまでも、自分というものをつくるということを教えた書物なのです。
2.私は身分制度を脱皮するため、学歴主義の物差を採った
人間はみな平等に作られています。平等に作られているということは、可能性において平等だということなのです。自らを錬えていくことによって、どのような人間にもなっていくこともできます。これは古い身分制度社会からの脱出、脱皮であります。まず人間に身分の差があるというような意識が当時としては大半であったわけです。
あなた方はいま、そういった身分意識が日本の国においてはないでしょう。まあ皇族というようなのはありますが、あなた方のうちで皇族として生まれたかったなんて思う人は今はいないはずです。ほとんど居ないでしょう。恐らく居ないはずです。それで極端なお金持ちが居るかというと、そんな極端なお金持ちも今の日本には居ません。まああなた方のうち大部分の日本人が、今望むこととしたら何であろうかというと、非常にやはり優秀な人間として生まれたいということだと思うんですね。いまの日本においては、優秀であれば、頭脳明晰、学力優秀であれば、どのような方面にでも自分の個性を伸ばしていくことができるようになっていると思います。それは例えば、どのような、たとえば言葉は悪いですが百姓の子供であったとしても、あるいは漁師の子供であったとしても、石工の伜(せがれ)であったとしてもですね、学問を積めば一国の総理大臣にもなれれば、優秀な科学者にもなれるし、外国で活躍することもできると、このような機会が与えられているということですね。
いま、日本の国では学歴批判、あるいは学力重視というのは疑問であるという言葉が投げかけられていると思います。この批判を真向から受け止めねばならないのは、実は、この福沢なのです。――この学力、学校学歴主義の原因となったのは、他ならぬこの私であります。これは私が長年にわたって考えて編み出したものなのであります。今までの身分制社会に代るものは何であろうか、生まれをもってその人の貴賤が決ったのでは努力のしがいがないではないか、何のために人間が生まれてくるのか分らないではないか、人間はその生まれによるのではなく、門地に依るのでなく、その人の努力によってその人の値打ちが決められるべきである。そういうことを私は考えました。それでは近代日本、新生日本において、その努力は如何なる方向に向けられねばならないのでしょうか――。
それを私は考えたのです。決して古い宗教家的な努力、山の中に篭ったり、滝に打たれたり、そういった努力で優れた人間が選ばれるわけではあり得ません。当時は西欧合理主義が入って来た時代です。やはり先生は西欧でありました。西欧的な近代化ということを考えていたために、ある意味でその西欧主義、西欧的なものの考え方、これを学ぶ必要があったわけです。それをうまく学んだ人間が、人の上に立てるような世の中、こういった世の中になっていったわけです。ですから私は学問ということによって、身を立てるということを人びとに説きました。そしてそれは、その後百年間の日本の、日本人の行動指針となったはずです。
私は必ずしもこれはすべてとは思わないです。これが総てとは思いません。ただ百年間、その後百年間の日本の動きを見ていると、私の説いたことも八割は正しかったと思っています。その高度な学力、教育によって日本人は、優秀な人びとを、人材を世の中に送り出し、それが各産業界での活躍となり、また諸外国へも現在影響を与えるようになってきているのではないでしょうか。そういう意味で現在強く批判されて来ては居りますけれども、私はまだこれも、次に新たな物差が見つかるまでは、しばらくの間は有用な物差、規準であると思うのです。
この点に関してあなたの方から疑問なり質問があれば聴きます。お伺い致します。
3.学問は有用性のみでなく、魂の進化を促進させる
善川 勿論現在まで、また今日でも学問を修めた者が、社会に出て用いられるチャンスがあるし、またそのうえ学校格差によって実社会での地位、身分獲得の規準ともなっているということが強いわけでありますが、そういうことのために今日ではすべての子弟が、一流会社での採用度の高い有名校、もしくはこれに次ぐ知名校を目指しているのでありますが、それ自体は今日までは当然なことでありますが、人はすべてそのような好ましい状態を望むのではありますが、しかしながら、またその反面においては、人には等しくそのような才能なり経済的環境が与えられているものではありませんために、この局面にのみ人の価値基準が据えられると、そこに今日問題化してきた落ちこぼれによる子供自身の失意、劣等感から生じる不良化、あるいは社会悲劇や、家庭破壊を引き起こしているというのが一面の実情であります。
こういう現状からして、そのような不安定要素を改善するためにも、これからの教育制度というものは、一律平均的な各科主義に固執するのではなく、能力に応じた科目の単科重点型というものに視座を転換すべきだとの意見も出ております。換言すると、才能教育、あるいは職能教育というものの道を開き、不得意科目からの解放を図り、無駄なエネルギーの消耗を防ぐべきだと思うのです。またこういう子弟についての将来の職場保証については国において、しかるべき助成がなさるべきだとの見解もありますが、私どもといたしましてはこの道の専門でもありませんために、しかとした教育制度についてのシステムというようなものは未だ見出し得てはおりません。これは今後の課題になろうと思います。
福沢 ただいまあなたが申された社会的問題ですね、学力学歴偏重の問題ということをあなたは申されましたが、これについて私の意見を言って置きたいと思います。問題はむしろね、学力や学歴を偏重することではなくて、人びとが結果主義に陥入っているということなんです。結果成功すればよいのだけれども、結果成功しなければもともこもないという考えが裏にあると思うのです。けれどもね、そんなものではないのです。この世の中において、人間が努力したことは、決して報われないことはないんです。無駄というものはないのです。たとえば一生懸命受験勉強したとしましょう。希望の第一志望の大学に入れなかったかも知れない。第二志望にも入れなかったかも知れない。その結果、その人は、世の人びとが羨むような職業にはつけなかったかも知れない。けれども、その人が一生懸命勉強したことというのは、決して無駄にはなっていないのです。結果主義でものごとをみるからこそ、無駄に思えるだけであって、ではそういった第一志望、第二志望の大学に入らないからといってね、当初からじゃあそういう希望を持たない、だから勉強しないで現在あるがままの自分になっていたとして、努力した結果、駄目で現在の自分があると、努力しかいで現在の自分があるということ、出ているものとしては一緒かも知れない、結果としては一緒かも知れないけれども、別な観点からみるとこれは非常に違うのです。無駄というものは何もないのです。学習においては――いわんや魂の学習においておやです。人びとが学問に励むということは、その学問的な達成度によって、世の中の道を切り拓いていける人も居るでしょう。それは成功者です。しかし成功者でない方も多いと思います。けれどもね、そうした知識を得るということは、永い転生輪廻の過程の中において魂の学修としては非常な意味を持っているのです。大部分の人間はね、これまでというものは、大抵農業とかですね、あるいは武士のようなものとか、あるいは漁師とか、そういった非常に原始的な職業をやって来た人達が殆どなのです。このような方々が近代の文明国に生まれてはじめて学問というものをやり、新しい世界観を得ることができたんです。
学問というのはある意味において世界観の獲得なんです。この地球、この地球の中にある様々な国、様々な人種、その中にどのような思想があり、どのような学問があるかということを、みんなが学べるような時代になったということなんです。これはね、結果としてはそういったことを勉強して大臣になれなかったり、医者になれなかったりするけれども、それを学んだということ自体は、非常に素晴しいことなんです。
過去何回か生まれ変って得ることができなかったようなものを一回の人生において得ることができたということなんです。ですからね、私は今の学力、学歴偏重に対する批判に対する反批判としてはね、結果主義に陥ってはならないということを言いたいと思います。人生において無駄というものはないのです。それは何もないのです。ではね、英語なら英語の勉強一生懸命して何かの試験に通らなかったからといってね、では、その英語の勉強をしたことが、果たして無駄になるでしょうか。そういった学問、新たな外国の学問をやることによって、様々なことを見聞することもできるようになったろうし、その人間無駄なことは何もないのです。学修するということについて、無駄は一つもないし、その結果本当の意味における結果において落伍者は一人も居ないということなのです――。
これに対し、またあなたの方から疑問があれば続けて下さい。
4.教育制度の改革、能力促進教育について
善川 まあ現代の社会というものは経済生活の水準が非常に高くなって来ておりますから、一応の目標は中流もしくはそれ以上の経済生活の確立ということになって来ていると思うのですが、そういう中で、先程申された第一志望、第二志望というものを希(ねが)っている若者達の窮極的な目標といいますか、それは職業即生活の安定がそこに約束されるような状況、そういう状況をねらっているわけですが、それが達せられないということ、つまり平均的な学力成績が得られなければそれが達せられないということで、それでは困るということとなると思うのであります。
たとえば数学においてはその才能に殆ど恵まれていない者でも、絵画においては、あるいは音楽においてはずば抜けた才能の持ち主が居るといたしますと、そういう人達の進むべき道というものは、それはそれなりの方向なり職業というものが与えられるべきであろうと思うのであります。ところが、ここに自己の才能を生かすその出発点において、その不得意とする科目の得点によって既に篩(ふるい)にかけられ、志望校への入学が不可能となるということは、矛盾があるのではないかと思うのであります。まあ一例を申しあげるとこういうことになるのですが、これらについての入試制度の見直し、あるいは改善策というものについてはどのようなものがございましょうか。
5.問題点一についての考察
福沢 今のあなたのご意見に関しては、二つの面から検討ができると思うのです。一つは擁護論ですけれども、例えば美術の学生としましてもですね、非常にたとえば今までは好きな活動だけをやっておれば、それでよいという考えがあったかと思いますけれども、例えばこれからの画家というものを考えてみると、舞台は非常に広がっていくわけです。日本の中でも、画家でも一流になってきますと、各界の人とも話をしなければいけない。また海外に行って絵を描いたり、展覧会に絵を出す機会も増えてくるわけです。そうするとね、この時代における常識はやはり身につけておく必要があると思うのです。
受験勉強というようなことになると非常にレべルが落ちるようにも聞こえるかも知れないけれども、ある意味においてはこれは今の時代における常識の獲得、ということなんですね、ですからまず優れた人間である前に、常識人であれといった考えもあるわけです。絵だけ描いてね、絵がうまくなりましたと、では次ぎにはパリの何とか祭に出てですね、絵についての議論しましょう。芸術論をやりましょうといった時にですね、『私は職人ですと、絵は描けますけどほかのことはわかりません』と、これだけでは通用しない世の中になって来ていることも事実なんです。そういう意味において傑出した人物になる前に、まず常識人として自分を確立しなさいと、方法論としてはこれは正しいことであると私は思います。
6.問題点二についての考察
福沢 もう一点、これは別の観点から申しあげます。これはいま私が言ったことに対して反論のような形になりますけれども、自分の説に対する反論のように聴こえるかも知れませんが、今の日本に欠けているものは逆に何かといいますと、天才教育です。それはあなたの仰しゃる通りなんです。私は平等ということを説きましたけれども、人間の能力において差がないという意味では本当はないのです。しかし、そういった差を強調することはね、新たな人びとの間の不平等ということを生み出すもととなりますから、やはりスタートラインということはね、仕切り直す必要があったということです。特に明治のような新たな学問が入って来たような時代においてはね、誰もがそれを学んでなかったわけですね、ある特定の家に生まれたから学問が進んでいるということはないわけですね。新たな学問が西洋から入って来たわけですから、皆さんが同じスタートラインに立ったというわけですね。そういう意味においてはまあ能力的に賢い人が居たにしてもですね、新たな学問を吸収しなければ何もならないわけです。能力的に劣っていたにしても新たな学問を吸収することに努力すれば、他の人が達し得ないような知識を得ることができたという時代だったわけですね。ところが今ではかなり学歴化も進みまして教育環境も変ってきました。そして能力の差というのは非常に出て来たと思うんですね、で必ずしもこの能力の差というものは否定いたしません。あるでしょう。それで今の日本の教育では逆にね、この平等主義ということが非常な弊害になっているかと思います。文部省というところがあってすべて同じような教育内容で人びとに教育しているわけですね、けれどもね、まあそれは三歳や四歳の時、あるいは七歳、八歳の時、にはそれ程各人の能力に差はないかも知れません。けれどもね、十代の後半になると、その差は非常に甚だしいものとなっているんです。その百万人なら百万人、百五十万人なら百五十万人が、同じ年齢であるということにおいてね、同じ学習内容をするということにおいては、これは本当は理に適ったことではないのです。やはり各人、遅い早いはあると思いますよ、どちらが優れているとは申しません。ただその内容に差はあると思うんですね、そういう意味において現在の六、三、三、四割ですか、こういうものは見直さなければならない時期にきていると思うんですね。
これは年齢によってですね、年齢、ある意味での平等観ですね、十八歳にならねば大学に入れないようになっていますね。十八歳以降なら入れるけれども十八歳までは入れない。これはある意味においておかしいと私は思うんです。昔には、たとえばあなた方のところに「吉田松陰先生」のような方が出られたと思いますけども、こうした天才肌の人というのはね、もう十代においてもね、普通の大人がやらないような知識を得ることができるんです。こういった天才を見逃すような世の中になっているということです。天才を生めないんです。そういう意味においては十割の人には当てはまらないけど、ごく一部の人のために、天才を磨くための道というのが開かれなければならないと思います。そういう意味においてはあなたが先程言われたようにね、絵が描ける人ということの本当の天才みたいな人がですね、たとえば高校三年間を了えて数学も、英語も、理科も、社会もね、なにもかも出来ないとね、美術大学に入れないと、いうのであればね、それは惜しいといえば惜しいんですよ。そういうことにおいて。
たとえば絵の天才が居れば、もう中学校からでもね、もう大学に入ってね、専門の絵の勉強がやれるようなね、時代であれば面白いと思うし、音楽の天才ならもっと早くてもいいですね。もう十代の前半で大学でね、音楽の勉強できるような、専門の勉強ができるような、そういう素地があればいいと思いますよ。その人が音楽の天才であるにも拘らずね、たとえば田舎の町に生まれたとしましょう。田舎の町の子供として生まれたとしましょう。小学校や中学校の音楽の先生では大した能力も才能もありません。彼らは天才を開発するだけの力はありません。じゃあその田舎の町なり村にそれだけ優れた音楽的施設があるかといえば、ありません。その家が金持ちであればまた別の道もあるでしょうが、普通の家の子であるならば、その才能は適当な時期が来るまでどうすることもできません。こういったことは惜しいと思うのです。ですからね、逆の方法も一つ考えていいと思うのです。そういう特殊な能力で天才的なものを持っている人はね、一気に専門教育に入っちゃうわけですね、早期に、年齢にかかわらず。で、例えばその代り逆にするわけですね、そういう専門教育をやって、後、補習の形で一般常識というものを、身につけて頂くようにするわけです。
十代なら十代でもう十代の前半で大学に入れる。美術大学に入れる。それで専門の勉強ができます。ただし、大学に居る何年かの間にですね、そういう一般常識を、高校で習うような課程もですよ、併せて補習を得るような形で段々に単位をとっていく、こういった勉強の方法ですね。これ大事なんじゃあないでしょうか。で、それをとったら大学は卒業できると、しかし専門教育は早朝に開始する。
あるいは大学の年限もね、そういう天才のためにはね、今の四年制じゃなくて、十代前半に入った天才のためには大学も七年でもいいと思うんです。芸術教育、専門領域の教育をやって残り卒業までの間ですね、自分の腕を磨きながら一般常識を獲得していく、こういった方法でもいいんじゃないですか。
今は前提条件が満たされなければ、後の部分が出来ないというような形、けれども逆でもいいんじゃないかと思うんです。専門領域をまず伸ばしてそれを勉強する。そして後順番にですね、補習の形でとっていく。あるいはね、大学の四年間で専門の勉強して、それから高校時代のカリキュラムのような、そういった学習科目をとり損ねたかも知れません、卒業させて了って、卒業後にですね、そういった数学でも国語でも何んでもいいです。科目をね、生涯教育ということで少しずつ埋めていくわけですね。取っていく、こういうことによって後から追加的にですね、ちゃんと卒業の資格が得られるようなこういったものでもいいです。
今、私が二つの異なる意見言いましたけれども、一般論としては優れた人である前に、常識人であれ、ということです。これは説かれなければいけません。大抵はね、あなたの言っているような議論というのは勉強嫌いな人によく使われる議論なのです。ほかに才能があってもね、こんなに学校に縛られていちゃあ何んにも出来ないと言っている人が多いのですが、大抵の場合は勉強をするのが嫌いなのです。それだけのことなんです。じゃあ他のことをやらせば、それだけの才能があるかといえば、まあそういった根気もない人が多いんです。そういった人が、言訳けでね、よく言っているんです。こんな詰め込み教育じゃあね、才能が開かないなんて言っているのは大抵は言訳けなんです。ですからそういった大部分の人に対してはね、まず優れた人になるよりは、常識人となれということです。
ただし、本当に天才的な人が居ますから、そういった人に対してはですね、年齢制限なしでですね、自由に能力を引き出せるような制度もつくって置く必要がある。これは国家の義務です。今の六、三、三、四割は、必ずしも万人に適用させる制度ではないということです。
7.教育制度の改革により雇用制度の変化発展が可能
福沢 また、今一つの観点から別なことを申しましょう。これはあなたの疑問でもあると思うのですで、問題は十八の春、あるいは二十そこそこの段階でね、人生の道筋が決ってしまうようなのがどうかという考えがあると思うのです。比較的若い年齢において、学問学修を了えて有利な道に乗ればですね、昇進していける。あるいは大会社へあるいは社会の重鎮へと進んでいけるというような道筋がありますが、これに対しあなたは疑問を持っておられると思うのです。
人間は早咲きの人もあれば、遅咲きの人もあると、こういったことに関してどう思うのかと、たとえば、経済的な不幸などはいま少なくなってきているかもしれないけれども、家庭環境において、子供を必ずしも大学に出せないような家庭もないとは言えません。そういう人が働いている。働いているうちにやはりもう一回勉強して出直したいなと思った時にですね、勇気を奮い起こして大学に入り直して、じゃあ就職できるかというと、もうほとんどできやしない。こういった問題があるわけでしょう。恐らくそうですね。
いま、三十代半ばで発心して何処かの学校へ行って学び直してもそれを生かす道がないということが現状ではないでしょうか。こういったことに対して社会はもう少し寛容でなければならないと思うのです。新卒、大学の新卒だけを採用するという今の企業のやり方、二十二、三で採用して後、定年まで同じところに止まっているという考え方ですね、これを改め直さねばならぬと思います。いま、定年まで居るということが段々少なくなってきて、途中で転職するなり独立するということが増えてきていますが、やはり人口においては、採用ということにおいては、いまだにその線が守られていると思うのです。まあ高校卒で採用する場合には十八歳ですね、短大卒は二十歳、大卒は二十二、三と、いうことで線引きがされていてそれを逃がすと、たとえどんな優秀な人であっても就職の道は厳しくなっております。これは日本的な年功序列の制度があるために、年を取った人を新しく雇い入れるということは、非常にその社会の中でですね、会社の中で使いにくいというようなことが基因していると思うのです。
これに関して、やはりもう少し多様な世の中というものを考えていかねばなりません。人間は、年齢だけで決っていくものではありません。だから年齢で採っているけれども新卒で入っていると新卒と同じように扱うのはむっかしいということでありましょうが、そうではなくて、もう少しその人が持っている知識なり、技能なりに対して一定の認定をしてあげねばいけないと思います。専門家として雇い入れるというわけですね。こういったことをも少しやって企業というものが、寛容というものを持たねばなりません。
社会に対してもそうです。公務員もそうですよ、四十歳、五十歳から公務員にはなれません。けれど考えてみなさい。民間会社でまあ四十歳、課長さんなら課長さんを勤めたとしましょう。非常な経験を積んでいます。役所では積めない様な経験を積んでいるわけです。様々なね、業種において、そういった方が、やはり私は公僕として国のために、あるいは地方公共団体のために尽したいと、たとえば四十歳で思った時に、それが実現できない世の中ですね、今は、――こういったことがいけないと思うのですね、例えば四十歳なら四十歳で、公務員の試験なら公務員の試験があってもいいと思うのです。それで受けて受かればですね、同じような地位で採用する。例えば公務員として課長職で採用できる。こういった新しい血を入れるということは役所の中においても決して無駄なことではないはずです。こういった制度が段々出て来なければいけないと思います。そうあなたは思いませんか。やはりその人の達成度に応じた処遇ができるような世の中になっていかねばなりません。