0-3.日曜(昼2):物語_3
開けた扉の先では、信じられぬほど濃密な妖気が充満していた。靄に視界を阻まれそうになりながらも、サングラスの奥から心眼を凝らし、前進する。
この廊下の奥で、何かが起こっているのは間違いない。
「うわあぁぁあああ……」
不に悲鳴を聞き取る聴覚はなかった。だが、崩れ落ちる長身の生徒の姿を見、思わず舌打ちを漏らした。
「間に合わなかったかっ」
背を強く打ちつけ倒れた生徒に駆け寄り、その身を抱かえ起こす。私服で学年は分からないが、耳の三連ピアスには見覚えがあった。確か、高等部1-Dの問題児三人組の一人だったか。
苦しげに歪む顔を手で軽く叩いてみたが、反応はない。失神しているようだ。
そっと、その身を元に戻し、廊下の先を見やる。
点々と連なるように蹲る三人の生徒。そして、その先に悠然と一人の女生徒が立っている。
「和田、忍……?」
高等部生徒会長、和田忍。生徒会室前だ、彼女の存在はそれほど特異ではない。しかし、その表情は、驚愕、焦燥、恐怖のいずれでもない。目の前に四人の生徒が倒れていると理解しているのか怪しくなるほど、泰然とした微笑みだった。
生徒会室前の妖気の濃密さは半端でなく、何処が出元が瞬時に察するにはきつい。
けれど、不の本能が告げていた。
この場を作り出した中心人物は、和田忍だと。
「お前、何を……した?」
立ち上がり、向き合う。
サングラス越しに睨めば、和田忍の目が面白げに細まった。
「ほほ、そなた……そう、教師とかいう存在だったか」
人というには、あまりに妖然とした姿だった。不を認識し、和田忍の浮かべた表情は、余裕というよりも捕食対象を捉えた蛇のようだった。湧き上がる悪寒につつと冷や汗が背筋を辿る。
不の眼は、全く感覚のない五感の内、一つだけ感覚を許されているだけあって、特異なものも全てが見えた。人に見えない、幽霊や超能力という類の存在も分かる。だが、目の前の存在を何かと問われると、その答えは持たなかった。
自分の存在を問うて、その答えがないのと同じように。
不意に、『鬼』という言葉を思い出した。先程の受験生に問われた言葉だ。
「人にしては良い気配を持っておる。まだ、配下が居れば器にしてやったものを」
口の形を見て読み取る言葉は、理解の範疇を超えていた。
「まぁ、良い。そこもと、食ろうてやろうぞ。我が力となりや」
くろうてやろう。
唇の間をちろりと舌が舐めずる。不がか弱きただの人間だったなら、その微笑みひとつに身をすくませていたろう。だが、違った。彼は不敵に口端を吊り上げた。
短く、ハッ、と息を吐く。
「冗談なら、そこまでにしておく事だ。生徒会長さん?」
食べるなんて、そんないけない言葉は成人になってから聞きたいものだ。困ったように笑って、不はサングラスを外した。
黒い影の落ちていたそこに鮮やかな色彩が宿る。エメラルドグリーンの右目と薄い赤紫の左目が顕になった。
不は特異能力保持者だった。簡単に言えば、異能者だ。そして、その代わりに一般的な人間が有するだろう感覚器官を殆ど持ち合わせて居なかった。彼が有することができたのは視覚だけ。しかし、瞳を合わせた者の器官を一時的に自分に移すことのできる特異能力を保持していた。
自己は他者の認識によって成るもの。心理学の一遍を思い浮かべる。
その通り、自己認識の支点のない虚ろな肉体を、不は他人の認識によって確立させてきた。
鬼が、鬼であるように。そう、自分は人の側に立つものだ。
自分の特異能力を理解せず、あるがままに暴走させていた幼い日の過ちを胸に、その力は普段使わないようにしている。だが、明らかに自分を襲おうとしている相手にさえ使わないほど、不はお人好しでもない。
「悪戯が過ぎたな」
左右で色の違う瞳が光る。ざわり、と空気が揺れた。部室棟三階廊下に充満した妖気が、これまでと異質な動きを始めた。和田忍、そして倒れる四人の生徒から立ち上っていた何らかの気配が、不の放つ眼光に圧倒された。
初めは、聴力。和田忍の余裕の表情から、微笑が消えた。奪われた方は最初、ただの違和感にしか思わないだろう。
だが、確実に不の耳に飛び込んでくる空気の震え。久しぶりのそれに不は軽く眩暈を起こした。普段、人が第六感というもので感じ取っているだけに、直接の感覚に慣れるまで数秒掛かる。
奪われたことに気づかず、和田忍が再び喋り出すその前に、不は二つ目の感覚を奪った。
触覚。肌で感じる空気を奪う。布擦れにさえ反応する肌に、若干の不快さを覚えた。だが、これで気付いただろう。眉間を軽く押さえながらも、鋭い視線で目前を見やる。
声を僅かに出して、目前の彼女の表情は怪訝なものに変った。
「おぬし……っ」
何をした、と。問い詰めようとしたのだろう。だが、一歩踏み出したその身体が、平衡感覚を失って崩れた。華奢な足が震え、体重の重みに膝が折れる。艶やかな黒髪が、形を崩して床に落ちた。
「何をしたって? ……交換しただけさ」
不の言葉も、聞こえてはいまい。
「おぬし、人間ではないな……!?」
耳に入る驚愕の声に、不は目を眇め、曖昧な笑みを浮かべた。
頷く事に意味はない。だから、応えない。
『そうだ。人間じゃア、ねぇヨ。分からなかったのか?』
しかし、不に代わって応えた声があった。クククッと喉を鳴らすような笑みが聞こえる。
はっと気付くと、不と和田忍の間に、小さな物体が浮いていた。
ピンポン玉ほどの大きさの、人の眼球に酷似した物体だ。
『悪魔、悪魔、悪魔ァ……。そうだ、半分は同じ悪魔の匂ぃい……』
くるり、と宙で眼球が回転する。回る方向とは別に動く瞳孔が、不を嘲笑う。
『見える。分かる。ハハッ、面白ぇヨ……なぁ、ハイブリッド?』
突然現れた物体に、不は咄嗟的にその目玉の視覚を奪った。『うぉ!?』と眼球は驚愕の声を上げ、ぽとりと宙から床に落ちた。
不は大きく息を吐き、自分が息を止めていた事に気付いた。なんだったんだ、と床に落ちた眼球を覗く。あまりの突飛さに驚いたか、呼吸がおかしくなっていた。肩で息を繰り返す。
床に転がった眼球は、その場で再びクククッと笑い出した。笑い声に身を震わせながら、眼球は二つに分裂する。ぐるり、と新しく生まれ出た眼球が不に視点を合わせる。
『ヒャァッハッハッハッハ!』
跳び出で、不の顔面間近に迫り来る眼球。
思わず腕で顔を庇った不をからかうかのように、眼球は鼻の先で止まり、不の顔の前を八の字に飛ぶ。
顔を顰めて、目玉を振り払う。振り払いざま、不は廊下に奇妙な影が落ちている事に気がついた。段々と薄暗くなる廊下。悪魔の瘴気故でなく、日光が物理的に遮断されている。
窓を見る。
そこには、何十、何百もの眼球が張り付いていた。
異様な光景だった。眼球がガラス窓を圧迫し、ミシミシと音を立てる。せめぎ合い、肉を摺り寄せる目玉。ガラスの一点に、亀裂が入った。
同時に五枚のガラスが割れる。飛び散る破片と共に、千の眼球が廊下へと飛び込んだ。
「面白そうじゃねェか。俺様も混ぜてくれよなァ……!」
目玉の発していた声と同じ、けれどハッキリ肉声と分かる声と同時に、飛び交う眼球が一点に集中し、一本の刀になる。
眼球で出来た妖刀を持つのは、割れた窓枠に手を掛けた一人の青年。
ガラスの破片を素手で握り、血の出るのも構っていない。
「斎木、廉也……!」
知った顔だった。
だが、青年はにやりと笑い、ゆるく首を横に振った。
「違うね。俺様の名はミーレクレス。悪魔ミーレクレスだ」
覚えておけよ。
哄笑が、廊下に響き渡った。
好奇心は猫をも殺す。それって、まさにこんな状況の事を言うんじゃないか。
階段を上りながら、庄司数弥は唾を飲み込んだ。なんだか、咽喉がカラカラだ。コーヒー、アメリカン。飲みたい。なるべく他の事を考えて、気を落ち着かせる。
なんだ、あの女。つか、健太サン大丈夫かよ。
用があって学校に来た数弥は、裏門の前で言い争う三人の姿を見つけた。その内二人は学園でも有名な部類に入る、斎木健太と水本修羅。斎木健太は三年の名物双子の片割れで、そして、密かに女子どころか男子にまで人気のある先輩だ。水本はローラーブレードで学園中走り回っている事で有名な少女。教師をも歯牙に掛けず手玉に取る度胸で有名。その二人が休日に裏門で密会していたというだけで興味を引くのに、その上、健太サンの腕に絡んでいたのは、この学園で終ぞ見かけることのないような垢抜けた金髪美女だった。首と手首と腰にアクセジャラジャラ。駅の裏路地だって見掛ける事の少ない、商売女の臭いがした。私立の学園と遊園地に挟まれた駅は、周辺の健全化に力を入れている。補導員は多く居るわけではないが、そういったソープランド系の店が殆どない。珍しい出で立ちの彼女に、思わず口笛を鳴らし、物陰に隠れて三人の様子を伺った。
そもそも、数弥がこの休日に学校に来たのは、大した用事があったわけでなく、ただ文則を迎えに来ただけだった。
朝起き、昼に暇になって外に出た。適当に駅で飯食うか、と自転車を引き摺り出す時に、近所のオバサン連中が騒いでいるのが聞こえた。何を騒いでいるのか、と耳を澄ましながら、自転車をゆっくり外に出す。
曰く、近所で死体が発見されたという事。
しかも、めちゃくちゃに切り付けられ、内臓をぶちまけていたという惨殺死体。
閉口しながらも、殺害現場の町名だけを聞き取って、自転車を出した。
現場は川を挟んで学園側にある住宅街の一角にあった。事件があったのだろう場所には人だかりが出来、分かり易かった。どうやら、事件は一軒家の家屋で起こったようだ。流石に周囲は立ち入り禁止の囲いが張られ、加えて既に近所の野次馬で埋め尽くされていた。野次馬達の口から、『イッカザンサツ』やら『ヒノニシ』やらと聞こえてきた。話しかけたこともないが、顔だけなら知っている同級生の死体が思い浮ぶ。聞いていてあまり気分のいい話でなく、数弥は踵を返して駅へと向かった。
予定通り、駅前のマックで昼食を取っていた数弥だったが、頭の中は先程知った惨殺死体の事で溢れていた。ズズッと音を鳴らしてバヤリースオレンジを飲み、おもむろに携帯を取り出し、永津子に電話を掛ける。5回、コールが鳴る。留守番電話サービスに変わる前に切り、念の為にもう一度電話を掛けた。
繋がらない電話に、溜息を着いて天井を仰ぐ。そのまま、背凭れに腰を沈めた。
多分、寝ているか、出る気がないか、携帯を携帯していないかのどれか。永津子ならよくあることだ。文則か数弥がいるなら取らせるが、あの無気力娘は独りでは何もしようとしないだろう。文則は模試に出掛けていた。文則は携帯電話を持っていないからこの場では連絡のつけようもない。
こんな時に限って。
そう思いが掠める。身を起こし、再びストローを咥えたが、もうカップに液体が入っていなかった。蓋を開けて中を確認し、氷だけになったカップに蓋をもう一度閉めた。空になったビックマックの包みをぐしゃりと握り潰す。
もう一度、深く溜息を吐いて、数弥は立ち上がった。学校へ行くしかないだろう。
しかし、いざ、校門近くまで来てみると『模試開場』との立て看板に、数弥は二の足を踏んだ。関係者以外立ち入り禁止なのは目に見えている。丁度昼飯時ではあったが、自転車で入る生徒は居ないだろう。考えて、裏門に回った。
来たはいいが、実際学校に入るのはちょっと躊躇ってしまう。文則を待つにしても、まだ昼過ぎ。あと二時間は模試が続いているだろう。何をしていようか、途方に暮れた。
と、そこで、目を引く三人の言い争い。興味がそちらに行くのは仕方ない。
おっ、健太サンが動いた。女同士の一番勝負は、謎の金髪美女の勝ちか。金髪美女に引き摺られるまま、健太サンが中等部校舎の中に入り、しばらくして、水本が動いた。後をつけるらしい。
数弥は自転車を校舎裏に置き、その後を付けた。二人の後を付ける水本を付ける、という随分間抜けな構図だったが、この際気にしないことにする。誰もいない廊下は響きがよく、例え水本が間に入っても、二人の会話は良く聞こえた。
立ち止まる二人に水本が物陰に隠れる。じり、と後ろに下がった動作に、数弥も慌てて階段の下側に隠れた。
そして、突然の健太サンの悲鳴。驚いて顔を出すと、飛び出てゆく水本、体勢を崩し倒れる健太サン、彼の前に立ち、妖艶に佇む謎の美女が見えた。水本を見たのだろう、こちらを眺める瞳に、薄ら寒いものを感じて、数弥は我知らず震えた。謎の女はくるりと方向を変え、階段を上がっていった。
数弥は階段の下から出、水本がこちらを振り返る前に、階段を上った。背筋がぞくぞくと震える。
興味があった。あの謎の美女に。
上り切る直前、二階の廊下に足を書けた所で、不意に見えた影に数弥ははっと顔を上げた。謎の女が廊下を渡ってここまで来るには早すぎる。
「『視えない』というのは、人間と悪魔を隔絶するものだと思っていたけど」
顔を上げた先には、数弥よりも背の低い少年がいた。
「逆に、危険を危険と感知する能力を失ってしまうものらしい」
まぁ、その方が人は平和に暮らせるのだけれどね?
少年は銀の眼を輝かせ、笑った。
「こっちだ」
校門で歩を止め、継理が向かったのは中等部の校舎だった。仰人は顔に怪訝な色を載せたが、継理はそのままずんずんと歩いていった。ちょっとどころじゃなく、お怒り気味だ。見たところ普通の女の子と思っていた相手に一本取られたのだから仕方ない。壁に立てかけるように置いてある自転車を尻目に、黙って仰人は主人の後に付いて行った。
「水本!」
目的の少女は、継理が『視た』通り、中等部校舎1階の廊下にいた。継理が鋭く声を上げ、名を呼ぶ。
修羅はその声にはっと顔を上げた。追ってくるとは思っていたが、まさか。
「あんた達、どうして」
継理は応えず、つかつかと歩み寄ると、周囲を見渡し始めた。ムッと顔を顰める修羅に、仰人は慌てて説明した。
「継理には『視える』んだよ、『時』が」
「は?」
「ええーと、だから……」
修羅が疑問符を浮かべるのは承知の上。仰人は苦笑しながら言った。
「残ってる気配、てか、人の思考みたいなもんが」
「残留思念だろ」
「そうそれ。じゃなくて、それじゃあ分かりにくいから違う言葉で説明してんじゃん」
継理の横槍に咆える。
「大丈夫、分かるから」
「だろ? 解らねぇのは仰人の頭だけだ」
不機嫌なのは、分かっているが。あくまで突っかかる継理に、仰人は大袈裟に溜息をついて、肩を落とす。そんな親友を脇目に、継理は鼻を鳴らした。
「説明は後でいい。で、どうなっている」
「そいつは?」足元に倒れる人物を見、継理は修羅に尋ねた。修羅は咎める目付きで継理を睨み、健太に眼をやった。
「ケンタ先輩。ユキヤ先輩の双子の兄弟」
「ユキヤってのはさっきのか」継理が一人ごちた。修羅は目を眇めて倒れる先輩を眺め、呻く。
「ケンタ先輩、魔に取り憑かれてる。けど、……追わなきゃ」
拳を握り締め、二人に構っていられない、と勢い良く立ち上がる。
「ちょ、ちょっと待とうよ! この人は」
「あんた達、保健室に運んでおいて。今、縛魔の呪を掛けるから」
素早く印を結び、今にも去ろうとする修羅を、継理が引き止めた。
「待て。何を追うんだ」
「説明は要らないんじゃなかったの」
「不必要なもんだけだ」
真っ直ぐに修羅を見る瞳は、どこか強い光を持っていた。こんな光彩を持っていたか。
「どうせ、あんた達には必要ない。生徒を守るのは私の役目なんだから」
「俺は『時』を視る」
断言する口調が強く、修羅の足を留まらせる。
「役目というなら、俺達にも役目がある。……詳しい性質は省略するが、結果的に『時』はお前の言う所の『魔』を呼び込む。この地帯は『時』の坩堝、『時食み』が『時』を喰らって鎮めてきた」
「あんた達は」
「俺達が『時食み』だ」
継理は眼を閉じ、フン、と鼻を鳴らした。
「どんなお役目を担ってやってるかは分からないが、つまりは同じ異能者、しかも守る方に向いてんだろ。一旦手を組め」
「なっ……」
「ツギっちゃ~ん、それじゃあ仲間になる子も仲間になってくれないよー」
あまりの高圧的な態度に反論しようとした言葉は、仰人が茶化したおかげで咽喉の奥に留まった。修羅は言葉を飲み込み、不機嫌をあらわに継理を睨みつける。
「手を組めるわけがない」
修羅は眼を逸らし、言い捨てた。
「あんた、魔の眷族にしかかからない私の技に掛かってたじゃない」
つまりは、魔の者。仰人はともかく、継理に効いていたのは。言われ、継理は眉をしかめて、舌打ちした。
「自覚、あるんでしょ? あんたがこの学園の生徒で、しかも一応は守る方向に向いているらしいから見逃してあげる」
キッと相手の顔を見据える。
継理は何かを言おうとして押し黙り、仰人は溜息をついた。
沈黙が落ちる。決別の言葉か、継理が再び何か言おうとした時、突然仰人の携帯が鳴り出した。慌てて仰人はポケットから携帯を取り出す。
「レグ?」
気まずい空気の中、表示される名前にこの場は切ろうか一瞬悩む。はっと顔を上げると鋭い視線が継理と修羅の双方から投げかけられている。やはり、出ずに切るべきだ。仰人は視線の圧力に負けて着信を切った。
しかし、すぐにまた着信がなり始める。
「出ろ」
通常に掛け直したとしてもありえない速さだった。不思議に思う間もなく、継理の一声に仰人は通話ボタンを押す。耳にあて、向こうの言葉を待った。が、しかし。
「……?」
「どうした」
怪訝な顔の仰人に継理が問う。
「なんか、変だ。しかも――……」
仰人は意味のない通話を切ろうとした。だが、電源ボタンを押しても、通話が途切れない。継理の出した手に、携帯を手渡す。継理は仰人の携帯に耳を澄ました。
「!!」
「何?」
修羅の聞き返す言葉に、継理は黙ってそれを修羅に渡す。修羅も通話を聞き、表情を硬くした。
「誰……?」
「さぁな」
思わず発した修羅の言葉に、継理が応える。
「だが、そこで何かが起きてるのは確実らしい」
修羅も頷く。修羅から携帯を奪い、仰人の手に戻す。受け取り、一人解らず仰人は抗議の声を上げた。
「え、待ってよ。そこってどこだよ」
「生徒会室だ!」
仰人はもう一度携帯を耳に当てるが、聞こえる声はない。
「獅子ヶ谷じゃない、何者かが呼んでる」
お前には聞こえないだろうが。継理の言葉に、仰人はそれが仰人の感知できないものの存在だと気付いた。継理だけでなく、修羅も分かるらしい。走り出した二人に、出遅れ、仰人は二の足を踏む。
「この人は!」
「コウト、運んどけ!」
「ちょ、ツギリ、オレなしで……!?」
継理はそれ以上応えず、脇目も振らず走っていった。修羅の駆ける速さに追いつくのでやっとなのだろう。それだってついていけていない。
残された仰人は、呆然と倒れる健太を見下ろした。
「つか、この人重いからッ」
脇の下に手を通すようにして持ち上げる。
保健室に運べ、と言われた気がする。そうでなくとも、倒れている人間をこのまま放置しておくわけには行かない。今日は高等部で模試が開かれ、中等部は本来なら鍵で閉鎖されているはずなのだ。人通りもない場所に放置しておけない。
とはいえ、高等部から入学した仰人には中等部校舎の保健室の位置が分からなかった。連想とともに、保健室の鍵が開かないことも容易に想像できる。運ぶとしたら、高等部の校舎の方。もしくは、この場に放置する。けれど一旦持ち上げてしまった身体を手放すなど、非情に過ぎることができない。
「ったく、オレってお人好し……っ」
おりゃ、と眠る男のつま先を引き摺りながら移動する。
継理はどうしているのか。具合悪そうだったのに、オレがいなくて平気なのかよ。水本さんは大丈夫なのか。何らかの霊感があるっていったって、女の子なんだから。自分に平素から霊感の一つでもあれば、すぐに異変に気付いて真っ先に走れたのに。携帯を閉じても、呼出音はまだ鳴り続けている。留守電機能も働いていない。
階段横を過ぎ、高等部と中等部を繋ぐ渡り廊下に出る。重い、と思った瞬間、段差に躓いていた。よろめいて、ずり下がる先輩の身体を慌てて持ち直す。再び前へ歩き出そうとすると、引き摺っていた足先がドアのレールに引っ掛かり、前に行こうとする仰人の肩を後ろへと引く。またよろめいて、健太を落としかけた。
ギリギリで支え、仰人は深く息を吐く。疲労の色の濃い溜息だった。
もう一度、腕を肩に掛けさせ、身体を持ち上げる。
「……う」
「え?」
小さな呻き声とともに、首に回させた腕に力が入るのが分かる。
「……うるせぇ……」
「け、ケンタ先輩?」
「んだ、頭が痛ぇ……誰だ、手前ぇは」
起きるなり、身体を支える仰人を見やって、睨み付ける。
三年の健太先輩といえば、陽気で人懐こい性格で有名な人だ。なのに、このドスの効いた声は噂の全てを否定するかのようだった。
ま、誰だって寝起きはこんなものか。継理の寝起きの悪さが身に沁みている仰人は苦笑して、肩に担いだ手を降ろし、健太が一人で立つのを支えてやった。
「った、うるせ……ソレ、止めろ」
健太は仰人の腕の中で頭を抱え、苦しげに呟いた。
ああ、と気付いて仰人はポケットに突っ込んであった携帯を取り出す。音は鳴りっぱなしで、仰人は既に頭の中から取り除いていた。対処の仕様がなく、携帯をただ持ち上げただけの仰人に健太は顔を歪ませ、携帯を奪い取る。
携帯の電源ボタンを押しても、意味はない。苛ついて、健太が通話ボタンを押すまで数秒といらなかった。
まるで電話の向こうに怒鳴りでもするかの勢いで、耳に当てる健太。
大きく口を開いたところで、言おうとした文句は咽喉の奥に引っ込んだようだった。
目を大きく見開き、次第に眉間に皺が寄っていく。携帯を強く抱え込み、音を僅かでも拾おうとしているようだった。まさか、この健太先輩にも、霊感があるのか。仰人は驚いて眼の前の男を見つめる。健太は神妙な顔付きで、怪訝に伺う仰人を睨んだ。
「どこだか分かるか」
「え?」
「これが繋がってんの、何処だって言ってるんだ」
どうやら、継理が聞いたような『声』は聞いて居ないらしい。
「せ、生徒会室……?」
そう、継理は言っていた。仰人が答えると、健太は「そうか」と拳を握る。
「今、助けに行く」
健太は携帯の通話口に小さく、しかし力強く囁いた。携帯は、もはや呼出音を立てることなく、静かに健太の手の中で閉じられた。
携帯を投げ渡され、「すまねぇな、サンキュ」と短い礼に仰人は反射的に頭を下げる。
「廉也……」
一人呟き、健太がよろめきながら進む背を、仰人は慌てて支えた。
健太が、驚いたように仰人を見る。
「オレも、行きます」
助けに行く、の一言で呼出音は止まった。それは、本当は自分が言わなければいけない言葉だったはずだ。仰人は支える手に力を込めた。
守らなければいけないものがある。
健太の見開いた眼が細まり、口端が笑う。
「あぁ……、行こうぜ」
頷き、二人は生徒会室を目指した。
「……お前、誰だ?」
次の言葉は、数弥から先に出た。乾いてかさついた声だったのが、唯一反省点だな。取り敢えず新しい思考を挟んで息を吸い直した。続きは、ちゃんといつも通りの音で出た。
「危険って、何の事だよ」
言いながら、階下で聞いた健太サンの絶叫を思い出す。それから順に、彼に同行していた金髪美女、切迫した感じだった水本を。
「言葉の通りだよ。関われば己の身を危険に晒す事になる。そして、今の君には関われるだけの『力』がない以上、危険を危険として認識出来ない。だから対処が出来ない」
それは、事の核心の表面を撫でるような、そう言う語り口だった。言っている事は物騒極まりないにも関わらず、少年の態度と語り口は数弥の頭を一段階落ち着かせる。相手を観察する余裕が出来た。最後の段に引っ掛けていた足に重心を移し、廊下にきちんと両足を乗せる。
背は自分より少し小さいだろう。しかも割と童顔だ。髪は茶色で、目を良く見ると灰色、と言うか、それよりも光の強い銀色のような瞳をしている。服装は私服。外国人だろうか。場所が場所なので中等部の生徒かとも思うが、状況が状況なのでそれも違う気がした。総合して、多分年下に見える。
「説明になってねえよ。一体何が危険なのか、それとおれにないその力ってのが何なのか、解るように説明してくれ」
すると、少年は寛ぐように身じろぎ一つ、それから落ち着いた笑顔を見せた。
「君は頭が良いね」
「はぁ?」
「余り、人にはそう言う事を言われたりはしないと思うけど」
「余り、ねぇ。そうだな、二人目かな」
事実ではあったが意外性を狙った回答に、相手は楽しそうな表情をする。
「一人目は?」
「友達。最初に言われた時は流石にびびったけどな。自分でも思った事なかったし」
背後、階段下から騒がしい声が反響して来た。注意が逸れた途端に、目の前の人物が言葉を返して来て意識を引き戻される。
「言われて、初めて気が付いたんだ?」
「そーだよ。それまでバカって言われた事は結構あったけどな」
「それは、表面で測れる所しか見なかったからだろうね。けど君はさっき、俺の答を『解らない』ではなく、『説明になっていない』と言った。つまりは、そう言う事」
「どっちにしろ、今のも説明になってないよな。つーか話逸れてる」
数弥の訝しげな表情を見て、相手の少年も対応を改めた。
「確かに。それじゃあ説明しようかな……それと」
ふと、笑みを深くして、後ろを振り返らずに、言った。
「挨拶だけはしておかないとね。こんにちは、お姉さん」
驚いた数弥の視界に、今までどうやって足音を殺していたのか、最後の一歩だけをこつりと鳴らして、謎の金髪美女が姿を見せた。
「ハァイ、お二人サン。Nice to meet you」
彼女は似非外国人をわざと演じるような発音の挨拶を述べると、緩く腕を組み、少年の斜め後ろに立つ。その笑顔は……この位の距離で見ると、何と言うか、目が合うと血の気が引くような気がした。もちろん気の所為の筈だが。
「ワタシもお話に加えて下サイな」
ここまで来てようやく、少年は金髪美女の方に視線を向けた。一歩下がり、数弥と金髪美女と自身で、上手く会話の出来そうな三角形を作る。
「構わないけど、余り脅かさないようにね。こっちのお兄さん、普通の人だから……それで、どこから話せば良いのかな」
銀眼の少年はこちらに話を振って来た。どうやら、会話の主導権は握って良いらしい。
「ワタシとしては、先にお二人サンの事を聞キたいデス」
「おれは逆に、あんた達二人の事が気になるんですけどね」
食い違った意見は、一つの矛盾しない方向に収束した。
「お前、何者?」
つまり、言葉を返さなかった銀眼の少年へと。少年は苦笑した。
「あー……名乗る程の者じゃ」
「ないってのは嘘だろ。どう考えても不審人物全開だぜ? 今日、高等部で模試があって部外者立ち入り禁止って知ってるか?」
「それは、お互い様だと思うんだけどな……まぁ、確かに部外者でも不審人物でも構わないけど、俺自体を疑問の対象にしていると、状況は進展しないよ」
「つまり黙秘、って事か?」
「そうじゃない。俺自身と状況が、関係ないからだよ」
「シカーシ、アナタはとてもソレにお詳シイようでス。関係ナイとは思えマセん」
「お、良い事言いますね。……えーと」
「アンです。アン=ノーン」
「アンさんな。覚えときます。んで、そこんとこどうなんだ?」
言い逃れを許さない両岸からの物言いに、銀眼の少年は肩を落として見せる。
「……いや、本当にさ。主犯は別人だし、意図も俺とは関係ない所にある」
すると、金髪美女は細い指先を顎に当てて思考する。ブレスレットの群れが涼しい音を立てた。
「こう言う時ハ……ソウソウ、『ネタはもう上がってンだよ』?」
そして口に乗せた言葉は中々の衝撃発言だ。
「何か知ってんですか?」
「ハァイ」
不敵な笑顔に、数弥は驚いて金髪美女を見、銀眼の少年は数弥の視界の外で目を細めた。
女は言う。
「『Demon』」
半端な英語の発音を、片仮名の発音に当てはめると。
「……デーモン?」
ふふふ、と、女は笑みを漏らす。そして、少年だけでなく彼女の方も、物騒な科白を口にした。
「知ラれたかラには、生かしては置けまセン」
「知られたってあんた今自分で」
「言い訳ムヨウですヨ、神妙にシナサイ」
「はぁあ!?」
ゲイシャーサムラーイな勘違い外国人の語りで、アンは数弥の方へ歩み出る。合わせて後ろに下がりそうになって、背後は下り階段だった事に気付く。バランスを崩しそうになって、手摺りに手を置いた。
悠然としたもう一歩が直ぐに追い着く。そちらに視線を戻すと、女とバッチリ目が合う。
……息が。
蛇に睨まれた蛙よりタチが悪い。いや、息じゃなくてこれ、
「ストップ」
視界が暗転するかと思った一瞬、横から少年の声。
『止まれ』と。ただそれだけの宣言が、世界を支配する。宣言は、いつも通りの呼吸を呼び戻した。
「それ以上は俺も黙っては見過ごせないよ、ジョーカー」
階段前にいた二人が、揃って銀眼の少年を見た。女は嫣然と笑み、数弥は呆然と。それに対して銀眼の少年は緩やかな笑顔を返した。
「……交換条件デス」
「要求は何かな」
「アナタのコトを」
突拍子もない要求に、少年は苦笑する。
「そう言われてもね。言った通り俺は単なる通りすがりで、見物人だ。それ以上の要素はないよ?」
「それが」
アンは数弥の首元に左手を上げる。
「カレの生命に値する言葉とお思いデスカ?」
過激な追求に、銀眼の少年は笑うのを止めた。数弥が背後の階段に足を伸ばそうとすると、女の視線が帰って来て足を止めざるを得ない。
「……要求は、何かな」
今度は笑わずに、少年は繰り返す。
「『混沌』ヲ、あルイは『混乱』を。アナタには、ソレをもたラス事の出来ル何かがある」
そして茫洋とした要求に、正確に答えて見せた。
「鍵は『至上の剣』。手にした者が状況を動かす」
「良いでショウ」
頷きはしなかったものの回答に満足したらしく、金髪美女は笑って手を引いた。
「命拾イしましたネ、オニイサン。それじゃ長居はムヨウでス、シーユーアゲン」
横を通り抜けて階段を下る姿を見送って、数弥はその場にずるりとへたり込んだ。
「……な……んだったんだ、今の……」
死ぬかと思った。
……何で?
「大丈夫かい」
横から差し伸べられた手は、いまだこの場にいる銀眼の少年の物で。手を取られるまで待って、彼は溜息をついた。
「済まないね。もう少し警戒するべきだった」
金髪美女のそれと違い、少年の眼は直視を受けても恐怖感が湧かない。軽く引っ張られてすんなり立ち上がると、数弥は再度アンが去った方を視線で示した。
「けど一応、アレは止めてくれてたんだろ? サンキュー」
しかし少年の方はそちらを見なかった。逆方向の校舎の向こうへと、壁を透かすような遠い視線を向ける。
「……下の人達は、皆行っちゃったみたいだね。状況は、どうやらもう片方に収束するようだ」
「もう片方?」
少年は、一つ頷いた。
「生徒会室だよ」
続く
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