0-3.日曜(昼2):物語_6

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0-3.日曜(昼2):物語_6


 なんとか、模試は受けきれた。午後の科目も試験官(いつの間にか午前中のあの黒ずくめではなくて、普通の事務員然とした人間に代わっていた)に頼み込んで時間ぎりぎり……というか遅刻しながらも何とか受けられた。まあ、あんなことがあったあとなので、予想通り出来は最悪だったが。
 ――そう、あんな、とても『厄介なこと』が。
 ともあれ、『厄介なこと』も、コレで終わりだ。緋夕は安堵しきっていた。
 事態は完全に収束はしていない。けれど、自分が立ち入ったところで、どうこうなるものでもない。
 符を使ったのなんて、随分と久しぶりな気がする。大体にして自分は父や兄のような霊能者じゃない。符を持ち歩いているのだって元は自分の身を護るためだ。
 気力も体力も使い果たすくらい使って身体は妙に重くて痛い。そうだ、シエに殴られたところだってズキズキ痛む。
 大体、いきなり腹蹴りってどうなんだ、腹蹴りって。俺が女子だったらどう責任とってくれるんだ。
 などと、意味のない怒りさえふっと覚えて――けれど、後にこぼれてくるのは自然な笑み。
 どうしようもない。
 自分では何もできない。引き受けようにもその力がない。だから、『厄介ごと』もこれで終わりだ。
 せめて、家に帰って、いるかどうかわからないそういうことが本職の父か、悔しいけれどそれでも少しは自分より力の使い方をわきまえている兄に、相談してみよう。そう、思っていたのだ。
 悔しいけれど、足取りは軽い。何かを期待しているのかもしれない。それが何かなんて、わからないけど。
 駅前につく頃には、参考書置き忘れてきてないよな、とか、やっぱり模試代無駄にしちゃったな、とか。そんな程度のことしか考えは浮かばなくなってきていた。
 けれど――もちろん、この程度で、緋夕の『厄介ごと』が終わるはずもなかった。
「そういえば、昼飯ありつけなかったんだよなぁ……」
 不意に鳴り出した腹を抱えて、ふと緋夕は呟く。
 荷物になるので、弁当は持ってこなかった。思えば、その時点で失敗だったのだ。
 それがなければ、こんなことにも巻き込まれずに済んだかもしれないんだし。
 そんな少々悔しさもこもった気持ちで駅前のコンビニをのぞいてみれば、こんな中途半端な時間だというのに煮物がメインの弁当が残っていて、思わず飲み物やデザートとともに買い込んでしまった。
「けど、サスガに駅のホームじゃ食えないよなぁ……」
 レジ袋を抱えて、店を出てからふと思う。そうだ、確か駅の裏の方に、公園があった気がする。行きの電車の窓から申し訳程度の遊具が並んでいる公園が見えた。
 考え無しに行動してしまったが、決めてしまえば後は早い。高架の下をくぐって、車窓から見えた風景と勘を頼りに歩いていく。このあたりの地図も、大体緋夕の頭の中にできはじめていた。
 着いた公園は、かなり小規模なもので人気もなかった。日当たりが随分悪いし、お寺とお墓も近くにあるようだ。なるほど、これなら夕刻でも子どもたちが遊んでいないのもうなずける。まあ、一人寂しく中途半端な時間にコンビニ弁当食べてる様を指差されてみたりしないのはかえってありがたいのかもしれない。
 荷物をいったんベンチに置いて、ほっと一息ついたところで。
 緋夕はとうとう、その『厄介なこと』の本質に、本格的に関わらなければならなくなった。
「……え?」
 一瞬、何が起きたか理解できなかった。
 普通、こういう状況ならはでな音がしそうなものだが、などと無意味で無関係なことがふっと脳裏をよぎったりするのは、恒常性を求める人間の本能がなせる業だろうか。
 つまり、その状況を一言で説明すれば……
「人……が、降ってきた、ぁ!?」
 目の前で起きたことを確認するために、自分で口にしてみて。しかしそのありえない状況に自分の眼を疑う。
 ありえない状況くらい、慣れている。けれど、学園での状況にそれは少々似ていて思わず身構える。符に手を伸ばす。
 乱れる呼吸を無理やり整えて、眼を凝らす、感じようとする。
 赤。
 眼に焼き付けられるのは、その一色。
 それは正確には『人』ではなかった。形は確かに人間に似ている。
 『悪魔』。
 学園で戦った存在に、その言葉が自然に浮かぶ。
 思わず、身構える。呼吸が荒くなる。……符はまだ、残っていたか?
 一度がくりと膝を憑いた『それ』が、ゆっくりと起き上がる。
 つぅ、と一筋、背筋を冷たいものが伝う感覚。
 だが、その『悪魔』は口を開いたと思ったら意外な言葉を口にした。
「に…げろ」
 かすれた声。実際にはたぶんそう『感じる』だけで、普通の人間には聞こえない声。
「え?」
 瞬間。背後から膨れ上がるような妖気。
 ――まだ、ほかの『悪魔』がいた!?
「行け!」
 身をかわし、通り過ぎる影にとっさに呪縛の印を切れたのが奇跡のような気がする。たぶん、目の前にいる『悪魔』のおかげだ。
「……灰になれ」
 にぃ、と目の前にいるほうの悪魔が笑う。
 呪縛が聞いたかどうかはわからないが、それは炎に包まれて燃え尽きた。
 すぐに燃えてしまったのでよくわからなかったが、たぶん、カラスに似た異形のもの。
「悪魔っていうよりはアヤカシだったのかな。まあ、似たようなもんか」
 ……助けて、くれたのか? 『悪魔』が『人間』を?
 疑問ばかりが頭の中に浮かんできて、まじまじと相手を見つめる。赤い色。赤い長い髪。背の高い女、ひらひらとした見慣れない衣装。
 けれど、自分が勝手にそんなイメージを再現しているだけなのかもしれないけれど、ずいぶんと疲労しているように見える。服も、だいぶぼろぼろだ。
 うなだれていた顔をゆっくりと持ち上げて、『彼女』はこちらを見つめた。
 赤い瞳。こちらを見つめ返す、まっすぐとした、けれどどこか憂いを含んだ目。
 ……似ている、と不意に思った。思った自分が恥ずかしくなって、何かを言おうとしたとき、意外にも向こうから声をかけられた。さっき以上にかすれた声。弱って、いるのか?
「おまえ、わたしが見えるのか?」
 何を、いまさら。というか、見えていないの覚悟で声をかけた、のか?
 ……無茶をする。
 いざとなったら相手が誰だろうと信念を貫き、手を差し伸べる。……やっぱり、どこか、似ている。
「大丈夫か?」
 そういって、手を差し伸べる。どうやらこの『悪魔』は邪悪な存在ではない。
 つないだ手に一瞬だけ走る違和感。まるで、焼けるような、炎が燃え移るような感じ。なのに不思議と、いやな感じがしない。伝った炎が、自分のうちの何かを呼び覚ます。自分の中に自分でないものが入ってくる。だがその感覚の進入を、緋夕は赦した。それはたぶん、お互いの利害と願いが一致したから。
 そう、どこかで感じていたし、願っていた。
 ――『力』が欲しいと。




 どれくらいの間、意識を失っていただろう。
 赤い色がぼやけた視界に入ってくる。数度の瞬きの後、澄んでいく視界には、夕焼けに染まった空が写っていた。
 無意味に自分の手を見つめてみる。
 たしかに、自分の手だ。昨日切ったばかりの爪。自分の意思で。きちんと動く。
 ならば、あの『悪魔』は? 昼間会った不良たちのように、取り憑かれて自分のうちに取り込まれた?それにしては、何かが少し違う。
 赤い視界。赤い悪魔。緋色の髪、緋色の夕焼け。違う、自分で認識できる。精神だけは別個の存在として、でもひとつの肉体に共有されている。
 なるほど、悪魔を『取り込む』か『取り込まれる』か以外にもこんな悪魔との共生の道もあるというわけか。
 『彼女』は何をしているんだろう。あの動作は……食事?
 ああ、悪魔も食事をするんだ、人間みたいな食べ方、人間みたいな食べ物……
 寝起きの状態に似た頭は、現状を把握しそれを思考することによって活動しだした。
「俺の弁当ーッ!!」
 思わず、叫ぶ。目が覚めた。
「だいぶ力が戻った。礼を言うぞ、少年」
 ひとをゆびさしちゃいけません。びっ、と人差し指を立ててそういわれて、思わずなんとなくそう言いたくなる。
「口の周りに米粒つけながらだと迫力に欠けます」
 さよなら俺のまいたけ五目ごはん。さよなら俺のたまごやき。プラスチックの黒いトレイは、見事に空になっていた。
 何なんだ、この『悪魔』は。わけがわからない。
「米!」
「は!?」
 急にそう叫ばれて、思わず変な声が出る。口の周りについた米粒でさえ、きちんと食べきって、また指さされる。
「米には7人の神様が宿るという伝説を知らんのか!」
 いや、聞いたことくらいはありますけどね。しかし、ご飯一粒のこせば怒られる大昔じゃあるまいし。……まあ、一粒たりとてのこしたりはしないけど。そしてこの懐かしいノリはなぜだろう。そんなところまでどこか似ていなくてもいいのに。
「大体米が好きってどんな悪魔だ……」
 だけど、そう呟いて、ああ、なるほど、と思う。なんとなく、わかった。
 『悪魔』などというからには人の精神を食らうのだろう。精神を源とする力。ただ、その性質に悪魔ごとに好みがあるのかもしれない。
 それこそ、どこかのファンタジー小説の類のように『絶望』を食らうのが好きだとかそういう。
 で、たぶんこの『悪魔』、変わったことに人間の『勤勉さ』のようなものを好むのだろう。穀物は、その凝集体だ、好まないはずもない。
 ところでキンベンという字は年賀状に書くあの字と同じでよかっただろうか。模試に出てたような気がしたが。
「少年、名はなんと言う?」
 にぃ、と彼女が笑う。どこか、わざとらしく。
「人に自己紹介するときはまず自分から……」
 なんとなく悔しくて、緋夕はそう呟く。
 たぶん、ホントはお互いもう知っている。自分たちの名前もどんな存在であるかもお互いの望みも。だから、これは一種の確認の儀式に過ぎない。
「ブリジット。おまえの想像通り、『悪魔』」
 彼女は簡潔にそう言った。予想通りの答え。それって何かの女神サマの名前だったような気もするんだけどなぁ、と思うが、本人が『悪魔』だと名乗っているんだから、あまり気にせず受け入れる。
「緋夕。望月緋夕。ただの人間」
 知らない人間に、というか信用できない人間や存在に、自分の本名は名乗らない。名前とはひとつの式、ひとつの術。名前には力が宿るもの。いつもならそうするが、今の状況では、それは無意味。
 だから素直に、緋夕は自分の名を告げた。
「ただの、ねぇ?」
 赤い悪魔が、唇の端を吊り上げる。
 まぁ、たしかに自分でも少々語弊がある気はするけれど、何か人とは違っていても、どうして人と違うのか自分は知らないのだからどうしようもない。
「……異能者か。面白い目の色だ」
 結局、彼女はその言葉でおさめることにしたようだ。そして、言われて気づく。そうだ、すっかり忘れていたけれど。自分の右目は、魔力の発動中に銀色に変光する。……必ずしも起こるわけではなかったりするし、かと思えば感情が昂ぶっただけでもそうなるらしいが、自分できちんと確認したことはないので実はよく知らない。だけど、考えてみれば今日はかなりの無茶をしたし、というかとんでもない状況に見舞われたし、戦闘中も、もしかしたら誰にも特に何も言われなかっただけで、変光が起こっててもおかしくないくらい力を使った。
 もし変光しっぱなしだったら目立つかなぁ、などと無意味なことを考える。
「……さぁ? ただの、光の具合とかじゃない?」
 わざとらしくそういって、なるべく感情を押し殺す。たとえ邪悪な存在でないとわかっても、『悪魔』に深く自分を探られるのはそれでも快いものではない。
「ふぅん? ……たしかに、今は普通の色だ」
 向こうのほうも、どこかわざとらしくそういった。
「何が望みだ、『悪魔』?」
 それでも相手がよくわからない存在なのは確か。強い口調で、緋夕は問う。こういうときに、自分の弱みを見せちゃいけない。
「『契約』を持ちかけてきたのはお前じゃないのか?」
 ケイヤク。『悪魔』がそんな言葉を口にすれば、やっぱり重みが違う。そう、たしかに思い起こしてみれば、あれはたぶん、一種の契約。  そして、手を差し伸べたのは自分のほう。
 気づいて、いまさらながらに身をすくめる。口の中が乾く。何か言葉をつなげようとして、少しあせる。言葉は向こうのほうがつなげた。
「たぶん、お互いの望みはもう叶っているし、一応助けてもらった形になるからお前に対する恩は返す」
 ――『力』を。本当に、貸してくれるというのか?
「……変な悪魔」
 ブリジットに唯一取られなかったリプトンの紅茶の紙パックをストローですすりながら、緋夕は立ち上がる。残ったごみをくずかごに捨てて、駅に向かうことにした。
 さすがに人前では、彼女との会話は控えた。
「何をしようとしている?」
 だから、しばらくたって急に彼女がそう切り出して、いぶかしむ。
「何って、家にもう帰らないと。気づいたらこんな時間だったし、ここ、うちから電車乗り継がないといけないから結構時間かかるんだよ」
 なるべく小声で、遠くを見るようにして話す。携帯を使うフリも思いついたが、さすがにそれはわざとらしすぎるか、と思ってやめた。
「あれに、乗るのか?」
 電車を指さして、ブリジットが呟く。
 ……あれに乗らないと帰れないんだが。
「……街は結界で覆われてる。悪魔の力を奪うための結界」
 急に神妙な顔になって、彼女が伝える。急速に、緋夕はいろんなことを納得した。
「ああ、それであんなに」
 弱っていたのか。たぶん、人間の器には入れれば、それが抑えられる。だから、お互いの利害は一致した。悪魔は器を、器は力を求めたから。
 そして、そこまで弱っていた悪魔がなぜかこの人間をかばった。本当に、よくわからない。
「悪魔は結界の外に出られない。たぶん、天使でさえも」
 天使。『悪魔』がいるのだから、そんな存在がいたって不思議ではないのだけど。ひとつのキィ・ワードを切欠に、緋夕は幼馴染の顔を思い出す。この悪魔に、なぜかどこか少し似た。
 いやいや、と急に恥ずかしくなって頭を振ったところでふと思いつく。
「結界の外に出られない……って、人間に取り付いた悪魔でも?」
「おそらくは」
 状況が、なんとなく飲み込めた。あの、これってまさかもしかして。
「……出ようとした場合、どうなる?」
 ああちょっとまって言わないで。いやちゃんと言ってもらって確認しなくては。自分の中で対立する二つの感情。
「さぁ、移動する乗り物で出ようとするなら、人間だけすり抜けるか、あるいは最悪の場合……」
 両の人差し指を立てて動かしながら、ブリジットはなんとも言えない表情で呟く。
「……全部言わなくてもいいです」
 というかその哀れな小動物を見るような目はやめてください。
 うっかりリアルに押しつぶされるところを想像してしまった自分を、緋夕は悔いた。
「まぁ、お前の場合は特殊な人間のようだから、お前だけでも結界に囚われた危険性もあるがな」
 そう言われて、気づく。たしかに、それが何をどう捉えているどんな結界なのかはよくわからないが、もしそれが一緒くたに『そういったもの』を捉える結界であった場合……
 改めて想像して、緋夕は意気消沈した。
 不運な状況の中、本当の最悪だけはもしかしたら避けられたかも、というわずかなわずかな薄い幸。いつものことだ。
「ところでさ」
 ……そう、だからこんなの、結局いつものことかもしれない。
「なんだ?」
「……そういった重要なことは改札を通る前に言っていただきたかったのですが」
 たぶん、自分の『厄介ごと』は始まったばかり。そして、自分の運の悪さもいつもどおり。そんな気がして、がっくりと緋夕は肩を落とした。


 悪魔に憑かれた人間は、おそらくこの結界の外へ出られない。それはつまり、この街の外へ出られない、ということを意味する。
「それってつまり要するにしばらく帰れない、ってコトだもんなぁ……」
 この場合、やっぱりまずは家に連絡を入れるとか言うとてもまっとうなことをしておくべきだろう。普通の外泊とは、わけが違う。
 携帯電話とか言う文明の利器は持っていないが、幸い駅前、公衆電話という非常用の通信手段は残されている。
 テレホンカードなんて懐かしいものは残念ながら持っていないので、財布の中身を確認する。こういうときに限って、10円玉が少ない。
「留守電だったら最悪だな……」
 そう呟いて、受話器を取る。暗記している10桁の番号を押せば、数回コール音が響く。留守電に切り替わる回数ではない。
「はい、どちらに御用ですか?」
 変わった電話の応対方法は、ひとつの住所に住んでいる人間の苗字が全員違うせいでいつの間にか慣習になったもの。
 けれど、聞き覚えのあるその声に、
「葉月……!」
 思わず、口にしてしまう。
 ああ、なんだろう、この声を聞くだけで変に落ち着く。こんな短い、他人向けのフレーズを聞いただけなのに。本当に自分は、どこかであいつに依存していると思い知らされる。
「……ユウ?」
 返答をするのをうっかり忘れて、向こうが不審そうに声をかける。葉月を『葉月』と呼ぶのは緋夕だけだし、緋夕を『ユウ』と呼ぶのも葉月だけだ。
「あ、ごめん、そう」
 気の抜けた返事。電話の上に古風に積み上げた小銭たちが、タイム・リミット。だから説明は簡潔に、確実に。
「どしたの? あ、そっち模試受けてるんだっけ?」
 のほほん、とした声。ああ、あっちはちゃんと日曜日満喫してるんだろうなぁ。
「ん。いま、その会場の最寄り駅。公衆電話からかけてる」
 しかし、いざ連絡は入れてみたもののどう伝えたらいいものか。
「帰るコール……なわけないか。何か用事?」
 わざわざ公衆電話からかけねばならないなら、よっぽどの用事になるだろう、と向こうが踏んでくれたようだ。
「用事って言うか用件、って言うか……、いま、うちにいるのおまえだけ?」
 葉月と話していたい。だけど、この用件を伝えるのにはたぶん一番不適切な人物。変に心配はかけさせたくないけど、どうしようもない異常事態なのは事実だし。雑談している暇はないので、不本意だがほかの人間がいればなぁ、と思いつつやはり望み薄だったようだ。
「ほかの人間がいたらとうの昔に電話取ってると思わない?」
 ちなみに葉月は結構な電話嫌いだ。あの取次ぎにとんでもない面倒くささを感じるらしい。
「ちょっといろいろとわけがあって、こっち異常事態で緊急事態な感じになった」
「どした? 財布でも落とした?」
 さすがに向こうも不審に思ったらしい。
「いやー……落し物というよりはむしろ厄介な拾い物をしたというか……」
 ようは現状今一番困っていて、向こうも知っておかなければならないことをまず伝えよう。『悪魔』だ『結界』だなんて厄介な言葉は使わずに。
「まあ、事情と理由がすごく説明しづらいんだけど、一言で言えば帰れなくなった。この街自体がちょっとしたトラブルに巻き込まれてるらしいんだ」
「帰れない、って今夜? あ、なんか事件とか事故とか? ニュースとかやってる?」
 そうわざわざ訊くってコトは、たぶん親機のほうの受話器を取ったのだろう。こんな状況なら何かの事件くらいどこかしらでは起きてるだろうが、この時間帯に全国区になるほどのニュースはやってるかどうか。
「たぶんやってないと思うけどな、微妙にそういうのと違う問題だし。今日帰れないのは確実かな。帰れるのは……。あー……どれくらいかかるかなぁ、これくらい大規模なことやらかそうって事は短期決戦なのか、それとも気づかぬうちに泥沼化してく危険性も?」
 少なすぎる情報ではどうしようもないが……と考えながら呟いていたのは向こうにかえって不信感を抱かせたらしい。
「もしもーし?」
 す、と息を吸ってはく。
「一週間」
 そして緋夕はきっぱりそう言い切る。目安になる区切りなら、これくらいがいいだろう。
「最後の連絡から一週間経っても、俺が帰れないような状況が続いてたら、あるいは、俺が連絡も取れないような状況が続いてたら、どんな手段をつかってもいいし誰を経由してもいいから、父さんに連絡つけて、この事態を説明して。家へはなるべく連絡入れるようにするから。あ、それと……」
 一気に言う。言っておいて、巻き込まれた事の危険性に自分で改めて気づかされる。だから。
「ぜったい、こっちには来るな」
 強い口調で、念押しする。葉月にまで、危険の及ぶようなことはさせたくない。
「………わか、った」
 少しだけ無言の時間が続いて、塊を飲み下すように葉月が呟いた。自分が入り込める領域でないことに気づいたのかもしれない。
「……ごめん」
 小さく、緋夕は呟いた。それくらいしか、何を言っていいのかわからなかった。
「ねぇ……」
 ふと、葉月が呟く。
「ん?」
「……ごめん、なんでもない」
 もどかしい。
「そっか。あの、さ……」
 言いたいことは、こっちにもある。あるけれど。
「何?」
「ごめん、やっぱこっちもなんでもない」
 はぁ、とひとつ緋夕はため息をついた。そうだ、この事態はむしろ、自分よりも『彼ら』の領域。
「もし、蒼天か父さんが帰ってくるようなら、このこと伝えといて」
「わかった」
『…………』
 続く無言。たしかに、言いたいことはあるのに。
 ふと響くブザー音。きっかけにしたように、重なる声。
『絶対、――』
 タイム、アウト。
 そこで、回線は非常にも時間切れを告げた。
 ホントは、きちんと約束したかった。絶対、――帰るから。
 ホントは、わがままをいいたかった。絶対、――帰ってきて。
「あー、ホント今日はすげー運悪い……」
 愚痴るように呟いて、受話器を元の位置に戻す。一枚だけ残った百円玉。
 立っている気力さえ抜けてしまって、思わず電話ボックスの中に座り込んでしまった。どうせ誰も気にしていない。
 だからといってここで泣くのもなんだか可笑しいよなぁ、とか思っていたところに、ブリジットから声をかけられた。
「いいのか?」
 そうだ、いたんだ。ずっと黙っていてくれたのか。
「何が?」
「何を言おうとしていたかはわからんが、言わなくて後悔するより、言って後悔したほうがマシだったろうに」
「うん……だけど、守れない約束はたぶん、お互いを必要以上に傷つけるだけだから」
 そういって立ち上がり、もう一度緋夕は受話器をとった。もうひとつ、連絡を入れておきたいところがあったのだ。


0-4へ続く

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