⚫︎ 2018/4/30小樽ジャーナル https://www.otaru-journal.com/2018/04/2018-0430-1/#google_vignette
宣教師と植物採集家! フォリー神父の生涯
宣教師と植物採集家! フォリー神父の生涯
小樽市総合博物館(手宮1)本館2階企画展示室で、4月28日(土)から始まった「フォリー神父とオタルスゲ~小樽に来た伝説の植物採集家~」は、宣教師と植物採集家の二足のわらじを履くユルバン・ジャン・フォリー(1847~1915年)の生涯と、明治小樽の自然や小樽とのつながりを紹介している。7月16日(月・祝)まで。
京都大学総合博物館や同館所蔵のフォリー神父が小樽で採集した植物の標本20点と直筆の研究ノート2点、北海道大学文書館所蔵の札幌農学校出身の植物研究学者宮部金吾への直筆の年賀状や手紙、関係資料100点を展示している。
一昨年に、動植物の名前をテーマにした企画展を実施し、小樽の地名がついている動植物を集めたところ、「オタルスゲ」を見つけた。小樽が付く理由を調べたところ、フォリー氏が発見したことで名付けたことが分かった。植物学で有名な人で、神父が本業であり、富岡教会に深い関わりがあった。同氏が頻繁に小樽を訪れ、小樽にゆかりがある人物であることも分かった。
fory2.jpg フォリー氏は、パリ外国宣教会所属のフランス人宣教師で、新潟や東京・北海道・樺太等で巡回宣教として、青森で17年間主任司祭として勤め、40年間日本で過ごした。その間、パリ自然史博物館の通信員として、植物標本を研究者へ送る仕事(植物採集家)も熱心に続け、最後は教会を辞め、台湾へ渡航し68歳で亡くなった。
1884(明治17)年から、同氏は神父として、小樽でのカトリックの巡回宣教をはじめ、1891(明治24)年にカトリック小樽教会を開設した小樽にゆかりのある人物。
植物採集に没頭し、新種を次々と発見。小樽の地名がつけられたスゲの一種「オタルスゲ」も、同氏が教会を開設した年に発見した植物のひとつ。
京都大学総合博物館には、同氏が採集した標本が6万点もある。そのうち数100点が小樽で採集した植物標本。今回は、タヌキラン(1885年)・イヌホオズキ(1886年)・ゲンノショウコ(1904年)など11点を借りて展示。
標本には、年月日・採集者・採集場所などが書かれ、明治の小樽の様子を知る手がかりとなる。オタルスゲ基準標本は、フランス国立自然史博物館が所蔵。
fory3.jpg 同館所蔵の同氏標本も合わせて展示。イグサ科の多年草で、海岸近くの湿地に生育する「イヌイ」のラベルには、学名「Juncus fauriei」も表記されている。1893(明治26)年に、同氏が知床などで採集した標本に基づき、1904(明治37)年に新種として発見されたことが読み取れる。200種以上に「fauriei」の学名が付けられている。
植物よりも採集や鑑定が困難な苔の仲間の「蘚苔類(せんたいるい)」や、「地衣類(ちいるい)」も得意とし、広く植物全体にわたって採集した。
同氏の活動拠点だった、青森浜町教会の6万点以上の植物標本は、神戸の実業家岡崎忠雄が購入して、京都大学総合博物館に保存され、植物分類学の分野では極めて重要なものだと、研究家達に注目を集めている。
会場では、同氏の伝説的なエピソードも紹介され、ユニークな人柄も窺い知ることできる。
山本亜生学芸員は、「宣教師であり、植物採集家の面白い人物・フォリーが、何度も小樽に来ていたこと、明治の小樽の自然を知ってもらいたい」と話した。
講演会「採集地Azumaの謎を解け!フォリーの植物標本ラベルから」
5月12日(土)10:30~12:00 総合博物館本館研修室 申込不要
講師:札幌市博物館活動センター・山崎真実学芸員
京都大学総合博物館や同館所蔵のフォリー神父が小樽で採集した植物の標本20点と直筆の研究ノート2点、北海道大学文書館所蔵の札幌農学校出身の植物研究学者宮部金吾への直筆の年賀状や手紙、関係資料100点を展示している。
一昨年に、動植物の名前をテーマにした企画展を実施し、小樽の地名がついている動植物を集めたところ、「オタルスゲ」を見つけた。小樽が付く理由を調べたところ、フォリー氏が発見したことで名付けたことが分かった。植物学で有名な人で、神父が本業であり、富岡教会に深い関わりがあった。同氏が頻繁に小樽を訪れ、小樽にゆかりがある人物であることも分かった。
fory2.jpg フォリー氏は、パリ外国宣教会所属のフランス人宣教師で、新潟や東京・北海道・樺太等で巡回宣教として、青森で17年間主任司祭として勤め、40年間日本で過ごした。その間、パリ自然史博物館の通信員として、植物標本を研究者へ送る仕事(植物採集家)も熱心に続け、最後は教会を辞め、台湾へ渡航し68歳で亡くなった。
1884(明治17)年から、同氏は神父として、小樽でのカトリックの巡回宣教をはじめ、1891(明治24)年にカトリック小樽教会を開設した小樽にゆかりのある人物。
植物採集に没頭し、新種を次々と発見。小樽の地名がつけられたスゲの一種「オタルスゲ」も、同氏が教会を開設した年に発見した植物のひとつ。
京都大学総合博物館には、同氏が採集した標本が6万点もある。そのうち数100点が小樽で採集した植物標本。今回は、タヌキラン(1885年)・イヌホオズキ(1886年)・ゲンノショウコ(1904年)など11点を借りて展示。
標本には、年月日・採集者・採集場所などが書かれ、明治の小樽の様子を知る手がかりとなる。オタルスゲ基準標本は、フランス国立自然史博物館が所蔵。
fory3.jpg 同館所蔵の同氏標本も合わせて展示。イグサ科の多年草で、海岸近くの湿地に生育する「イヌイ」のラベルには、学名「Juncus fauriei」も表記されている。1893(明治26)年に、同氏が知床などで採集した標本に基づき、1904(明治37)年に新種として発見されたことが読み取れる。200種以上に「fauriei」の学名が付けられている。
植物よりも採集や鑑定が困難な苔の仲間の「蘚苔類(せんたいるい)」や、「地衣類(ちいるい)」も得意とし、広く植物全体にわたって採集した。
同氏の活動拠点だった、青森浜町教会の6万点以上の植物標本は、神戸の実業家岡崎忠雄が購入して、京都大学総合博物館に保存され、植物分類学の分野では極めて重要なものだと、研究家達に注目を集めている。
会場では、同氏の伝説的なエピソードも紹介され、ユニークな人柄も窺い知ることできる。
山本亜生学芸員は、「宣教師であり、植物採集家の面白い人物・フォリーが、何度も小樽に来ていたこと、明治の小樽の自然を知ってもらいたい」と話した。
講演会「採集地Azumaの謎を解け!フォリーの植物標本ラベルから」
5月12日(土)10:30~12:00 総合博物館本館研修室 申込不要
講師:札幌市博物館活動センター・山崎真実学芸員
札幌市博物館活動センター https://www.city.sapporo.jp/museum/
〒062-0935 札幌市豊平区平岸5条15丁目1-6
電話番号:011-374-5002
ファクス番号:011-374-5014
〒062-0935 札幌市豊平区平岸5条15丁目1-6
電話番号:011-374-5002
ファクス番号:011-374-5014
⚫︎ユルバン・ジャン・フォーリー Wikipedia https://w.wiki/88P6
来日後、しばらくは日本語学修の傍らカトリック神田教会の前身である外国語学校でフランス語を教える教師をしていたが、1873年(明治6年)の秋には助任司祭として新潟教会へ赴任した。新潟での布教活動はまったく成果が上がらず、フォーリーは悲嘆する日々を送っていたが、1874年(明治7年)に植物学者のアドリアン・ルネ・フランシェより依頼を受け、日本の植物採集を始めた[4]。また同年4月には新潟教会の主任司祭だったイブラードのもとへ原敬が書生として働く事となったため、フォーリーは原と日常生活を共にし日本語を学んだ[5]。
フォーリーは新潟を中心に新発田や五泉、三条地方へ布教活動も兼ねて植物採集を行い、標本をフランスのフランシェへ送った。1875年(明治8年)、フランシェはフォーリーの標本を元にルドヴィク・サバティエと共に『日本植物目録』(Enumeratio Plantarum in Japonia Sponte Crescentium) を発表した。更に1879年(明治12年)には『フランス植物学会誌』第26巻82項に自身の研究を発表した。その後、フランシェはパリ自然史博物館に勤務するようになったため、フォーリーもパリ自然史博物館との関係を結ぶようになった。
フォーリーは新潟を中心に新発田や五泉、三条地方へ布教活動も兼ねて植物採集を行い、標本をフランスのフランシェへ送った。1875年(明治8年)、フランシェはフォーリーの標本を元にルドヴィク・サバティエと共に『日本植物目録』(Enumeratio Plantarum in Japonia Sponte Crescentium) を発表した。更に1879年(明治12年)には『フランス植物学会誌』第26巻82項に自身の研究を発表した。その後、フランシェはパリ自然史博物館に勤務するようになったため、フォーリーもパリ自然史博物館との関係を結ぶようになった。
⚫︎リュドヴィク・サヴァティエ Wikipedia https://w.wiki/88Nz
ポール・アメデ・リュドヴィク・サヴァティエ(Paul Amédée Ludovic Savatier, 1830年10月19日 – 1891年8月27日)はフランス人の医師・植物学者である。横須賀製鉄所の医師として1866年から日本に滞在した。アドリアン・ルネ・フランシェと共著で『日本植物目録』を発表した。
明治9年に日本を離れた後はフランスの探検船 "La Magicienne" に乗り組み世界各地で採集を行った。100種の新種の植物を含め1800種の植物を分類した。彼のコレクションはパリ自然史博物館などに収められている。
明治9年に日本を離れた後はフランスの探検船 "La Magicienne" に乗り組み世界各地で採集を行った。100種の新種の植物を含め1800種の植物を分類した。彼のコレクションはパリ自然史博物館などに収められている。
医官として
横須賀製鉄所 (後の横須賀造船所)の首長に任命されたレオンス・ヴェルニーは、製鉄所のフランス人技師が急病になった際、既にあった横浜のフランス病院まで行くには間に合わないため、製鉄所で医師を雇うことを主張した。医師であるのみならず、植物学の知識もあることから日本の殖産にも貢献し得る、との理由で、当時ロシュフォール造船所海軍一等医官であったサヴァティエを推薦した。サヴァティエは年俸5千ドルで (ヴェルニーは1万ドル) 横須賀製鉄所に雇われ、1868年から1871年まで日本に滞在した。静養を理由に一時帰国した後、1873年から1876年に再度滞日した。経費節減のために、高給取りであった、造船所のいわゆるお雇い外国人の削減を目指した明治政府は、サヴァティエをヴェルニーらと共に、1875年12月31日付で解雇した。
横須賀製鉄所 (後の横須賀造船所)の首長に任命されたレオンス・ヴェルニーは、製鉄所のフランス人技師が急病になった際、既にあった横浜のフランス病院まで行くには間に合わないため、製鉄所で医師を雇うことを主張した。医師であるのみならず、植物学の知識もあることから日本の殖産にも貢献し得る、との理由で、当時ロシュフォール造船所海軍一等医官であったサヴァティエを推薦した。サヴァティエは年俸5千ドルで (ヴェルニーは1万ドル) 横須賀製鉄所に雇われ、1868年から1871年まで日本に滞在した。静養を理由に一時帰国した後、1873年から1876年に再度滞日した。経費節減のために、高給取りであった、造船所のいわゆるお雇い外国人の削減を目指した明治政府は、サヴァティエをヴェルニーらと共に、1875年12月31日付で解雇した。
サヴァティエはフランス人のみならず、日本人も診療した。これには周辺の住民らも診療し、また横須賀村の通称「ラシャメン村」の売春婦らを性病予防の観点から検診したりもした事も含まれる。これらは当時としては特筆される事として感謝され、その事は後の明治天皇からの勅語でも触れられている。
植物学の知識を生かした、艦材の鑑定も職務の一つであった。
サヴァティエの官舎はヴェルニーの官舎に近い、丘の上にあり、後に横須賀鎮守府参謀長の官舎として使われた。サヴァティエの診療所は官舎の隣にあった。
サヴァティエは下関戦争などにも従軍し、日本の内線状態を手紙でフランスに紹介している。[1]
サヴァティエは明治天皇との接点が何回かある。明治5年の横須賀造船所への行幸は、横浜の写真館を経営するオーストリア人ラインムント・フォン・スティルフリートが隠し撮りをしたが、その写真では三条実美やヴェルニーらと共に姿が見える。[1][注 1] 明治8年の行幸は初の国産軍艦の清輝の進水式に臨むためであったが、この際にはヴェルニーと共に白紋縮緬を与えられている。横須賀造船所を解雇される前にも、ヴェルニーと共に明治天皇に謁見している。この時は勅語で働きを労われ、対して奉答文を呈上した。[2]
植物学の知識を生かした、艦材の鑑定も職務の一つであった。
サヴァティエの官舎はヴェルニーの官舎に近い、丘の上にあり、後に横須賀鎮守府参謀長の官舎として使われた。サヴァティエの診療所は官舎の隣にあった。
サヴァティエは下関戦争などにも従軍し、日本の内線状態を手紙でフランスに紹介している。[1]
サヴァティエは明治天皇との接点が何回かある。明治5年の横須賀造船所への行幸は、横浜の写真館を経営するオーストリア人ラインムント・フォン・スティルフリートが隠し撮りをしたが、その写真では三条実美やヴェルニーらと共に姿が見える。[1][注 1] 明治8年の行幸は初の国産軍艦の清輝の進水式に臨むためであったが、この際にはヴェルニーと共に白紋縮緬を与えられている。横須賀造船所を解雇される前にも、ヴェルニーと共に明治天皇に謁見している。この時は勅語で働きを労われ、対して奉答文を呈上した。[2]
植物学などへの貢献
現在の日本では、サヴァティエは本来の職務である医療よりも、むしろ日本の植物他の生物の調査で知られている。日本滞在中に1800種の植物を分類し、標本をヨーロッパに送った中には、100以上の新種が含まれた。逆に、ヨーロッパの植物を取り寄せて日本の研究者に提供もした。[1]
現在の日本では、サヴァティエは本来の職務である医療よりも、むしろ日本の植物他の生物の調査で知られている。日本滞在中に1800種の植物を分類し、標本をヨーロッパに送った中には、100以上の新種が含まれた。逆に、ヨーロッパの植物を取り寄せて日本の研究者に提供もした。[1]
サヴァティエ自身は仕事のため横須賀を離れることが難しかった。自身での植物の採集は、遠くても横浜や鎌倉などに限られた。一方で明治政府に雇われたフランス人技師エミール・デュポンや、デュポンの随員である佐波一郎の協力のもとに、サヴァティエは日本各地の植物を収集した。(デュポンは、艦材の選定を職務として日本に招かれ、日本各地の官有林を視察した。フランスに帰国後、1880年に「日本森林概要」を出版した。319種の森林植物に関する著作である。)
サヴァティエは日本人の本草家(植物学者)との関係でも知られる。伊藤圭介や田中芳男などから標本を入手している。[要出典]また伊藤圭介の原稿を、息子の伊藤謙が編集し出版した「日本植物図説」の序文をサヴァティエが書いている。そこでサヴァティエは島田充房の「花彙」、飯沼慾斎の「草木図説」、岩崎灌園の「本草図譜」などに触れ、日本の植物学のレベルの高さを称揚している。「花彙」に関しては、佐波一郎の協力でフランス語に翻訳し、1873年にパリで出版している。
サヴァティエは収集した標本をフランスに送っていた。パリの博物館員のアドリアン・ルネ・フランシェは、サヴァティエの収集した植物を研究し、後にサヴァティエと共著で『日本植物目録』(Enumeratio Plantarum in Japonia Sponte Crescentium)を1875年から1879年にかけて、パリで出版した。ラテン語による日本の植物目録としては、初めてのものである。[1]フランシェが報告した新種の植物の中には、学名の命名者がフランシェとサヴァティエの連名("Franch. et Sav.")になっているものが多くある。(例: コシアブラ、タテヤマギク)彼らによって(再)報告されたフラサバソウの和名は、彼らを記念してつけられたものである。
サヴァティエは藻類の採集もした。またサヴァティエが1867年に横須賀製鉄所のドック建設中に発見したとされる「バクに似た動物」の頭骨と脊椎骨は、ハインリッヒ・エドムント・ナウマンによって研究、報告された。これは現在では日本で最初に発見されたナウマンゾウの骨である事が知られている。[2]
⚫︎エクトル・レヴェイエ Wikipedia https://w.wiki/88P3
1900年に国立自然史博物館の植物学者、アドリアン・ルネ・フランシェ(Adrien René Franchet)に勧められ、ボディニエ(Émile-Marie Bodinier)らの多くのフランス宣教師が極東で集めて、科学アカデミーに寄付された35000もの植物標本の研究を始めた。同じ聖職者のヴァニオ(Eugene Vaniot)とともに、植物学を含む広範な知識を生かして、2000種近い中国や韓国の新種植物の記載を行った。
1900年に国立自然史博物館の植物学者、アドリアン・ルネ・フランシェ(Adrien René Franchet)に勧められ、ボディニエ(Émile-Marie Bodinier)らの多くのフランス宣教師が極東で集めて、科学アカデミーに寄付された35000もの植物標本の研究を始めた。同じ聖職者のヴァニオ(Eugene Vaniot)とともに、植物学を含む広範な知識を生かして、2000種近い中国や韓国の新種植物の記載を行った。
⚫︎アドリアン・ルネ・フランシェ Wikipedia https://w.wiki/88P5
1881年からフランス国立自然史博物館の標本館などで働き、中国や日本などの植物の専門家となった。アジアの植物の研究は、フランスの宣教師が集めた標本をもとにしたもので、アルマン・ダヴィドの集めたチベットやモンゴルの植物や、デラヴェ(Pierre Jean Marie Delavay)やファルジュやボディニエ(Émile-Marie Bodinier)や日本の植物を採集したフォーリーらの標本を研究した。ボンヴァロ(Gabriel Bonvalot)とドルレアンの中央アジア探検で集められた標本も研究した。アジアの植物を研究した、カール・ヨハン・マキシモヴィッチやキューガーデンのウィリアム・ヘムズリーと密接な交流を行い研究を進めた。
特に高山植物の分類の分野で働き、ヨーロッパの高山植物の起源を研究したが、突然の死によって研究は完成しなかった。生涯に28の属を同定し、2000以上の種について研究した。1898年にフランス植物学会の会長を務めた。
1881年からフランス国立自然史博物館の標本館などで働き、中国や日本などの植物の専門家となった。アジアの植物の研究は、フランスの宣教師が集めた標本をもとにしたもので、アルマン・ダヴィドの集めたチベットやモンゴルの植物や、デラヴェ(Pierre Jean Marie Delavay)やファルジュやボディニエ(Émile-Marie Bodinier)や日本の植物を採集したフォーリーらの標本を研究した。ボンヴァロ(Gabriel Bonvalot)とドルレアンの中央アジア探検で集められた標本も研究した。アジアの植物を研究した、カール・ヨハン・マキシモヴィッチやキューガーデンのウィリアム・ヘムズリーと密接な交流を行い研究を進めた。
特に高山植物の分類の分野で働き、ヨーロッパの高山植物の起源を研究したが、突然の死によって研究は完成しなかった。生涯に28の属を同定し、2000以上の種について研究した。1898年にフランス植物学会の会長を務めた。