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小樽とフランス語教育

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水の江瀧子 https://w.wiki/88PU

左川 ちか(さがわ ちか、1911年〈明治44年〉2月14日 - 1936年〈昭和11年〉1月7日)は、昭和時代初期の日本の詩人。https://w.wiki/88Pd
本名は川崎愛。名の「愛」は「ちか」と読むが、「あい」とも呼ばれていた。
生涯
北海道余市郡余市町大字黒川村に生まれる。4歳までは歩行も困難なほど虚弱であった。父親はいなかったが、異父兄の昇が終生の支えとなる。1923年3月に余市町立大川尋常小学校を卒業。親族の反対を押し切るかたちで庁立小樽高等女学校(現・小樽桜陽高校)に入学し、4年後に同校補習科師範部に進学し、小学校の教員免許を取得する。1928年8月から、先に上京していた兄・昇の自宅に同居を始め、兄の友人として小樽時代から知っていた伊藤整や百田宗治などの作家、詩人たちとの交流が広がる。1931年から雑誌に発表される詩や訳詩が注目を集め新進気鋭の詩人として期待されるが、1935年4月から腹痛を訴えるようになり、10月に入院し胃ガンの末期症状と診断される。12月に自ら希望して退院し、翌年に世田谷の自宅で死去。享年24。
作品
左川ちかの詩人としての出発点は、東京で流行していた新しい詩の型を知ることから始まる。北園克衛・江間章子・春山行夫・阪本越郎などと同じ雑誌に投稿していたので、詩の叙情を否定するモダニズムの詩人と分類される。彼女の詩は最初から「女性」「生活」をうたうことを拒んでいる。しかしそれとは別に「死」「衰え」「病」を思わせるメタファーを用いるのが特徴である。
詩の他に、ジェイムズ・ジョイス「室内楽」をはじめとして、オルダス・ハクスリー、モルナール・フェレンツ、シャーウッド・アンダーソン、ヴァージニア・ウルフなどの翻訳が残されている。

⚫︎左川ちか 黒衣の明星 https://www.h-bungaku.or.jp/exhibition/index.html

会期:2023年11月18日(土)~2024年1月21日(日)

北海道余市町生まれの詩人・左川ちか(さがわ・ちか、1911~1936年)は本別町で幼少期を過ごし、小樽の高等女学校を卒業後、昭和初期に10代で上京。 兄の友人で同郷の伊藤整らとともに、新しい詩の形を求めて翻訳や詩作を始めました。故郷の風景を詩想へと昇華しながら、J.ジョイスやV.ウルフなどの翻訳も時代に先駆けて行い、 優れた言語感覚と独自の美学によって当時のモダニズム詩壇の最前線に立ちます。 しかし道半ば、24歳で病没しました。近年、再評価の機運が高まる左川ちかの短くも鮮烈な生涯とその詩の世界を、北海道の風土と文芸、モダニズム詩壇の興隆、翻訳の時代、現代における再生といった視点で探ります。

観覧料一般500(400)円、高大生250(200)円、中学生以下・65歳以上無料



⚫︎大野 百合子(おおの ゆりこ、1908年〈明治41年〉4月24日[1][2] - 1938年〈昭和13年〉9月26日[3])は、日本の詩人。才能に恵まれながらも早世した女流詩人とされる[4]。 https://w.wiki/88QX

経歴
1908年(明治41年)4月24日、北海道余市町で誕生した[1][5]。1917年(大正6年)に小樽区に転居[2]。小樽高等女学校(後の北海道小樽桜陽高等学校)に入学したが、病気により中退[1][4]。上京して洋裁を学び[2][6]、1926年(大正15年)に小樽洋服裁縫女学院を設立した[1][7]。1932年(昭和7年)の解院までに、約200人の卒業生を送り出した[2][8]。

20歳代から、詩作に本格的に取り組み[4][8]、文学雑誌『新短歌時代』『詩歌建築』などに詩を投稿した[1]。詩人の宮崎丈二に認められたことで[1][7]、宮崎に師事し[9]、1931年(昭和6年)[2]、同人誌『河』に参加した[1]。当時の同人の1人は百合子を「不意に窓から吹き込んできたような微風」と表現した[6]。1933年(昭和8年)までに、61編の詩を発表した[1][7]。『婦人公論』1932年(昭和7年)正月号の付録「全国代表婦人」では、職業婦人の1人として名が挙げられた[2][8]。
1935年(昭和10年)に結婚して満州に渡った後[3][4]、結核により[9]、1938年(昭和13年)9月に30歳で早世した[3]。

評価
大野百合子の詩風は、高村光太郎や宇野浩二といった作家たちからも絶賛を受けた[1][7]。「真面目で豊かに満ちた感性」とも評価された[1]。宮崎丈二は、百合子の死去の翌年に発行された遺稿集『雪はただ白く降りて』の序文において、その詩を、孔子の言葉を引用して「全く思ひ邪(よこしま)なしと云ふ感じがする」と述べた[10][11]。

平成期には、北海道小樽市の市立小樽文学館で「絵と書で描く小樽・詩の世界コンクール全応募作品展」が2006年(平成18年)に開催され、小樽界隈ゆかりの作家の詩からイメージした絵や書を子供たちから募集したところ、百合子の詩に最も多くの絵が寄せられた。このことで、「平明でやさしい百合子の詩が、思っていたよりずっと力強いことに気がついた」との声もあった[11]。
同時期に詩人として活動した左川ちかは、北海道余市町で誕生、小樽高等女学校出身、早世と大野との共通点が多く、二人が並べて紹介されることも多い[6][9]。


百田 宗治(ももた そうじ、1893年1月25日 - 1955年12月12日)は大正・昭和期の詩人、児童文学者、作詞家。本名は百田宗次。少年時代の号は楓花。現在の大阪府大阪市西区新町出身[1]。童謡『どこかで春が』(草川信作曲)の作詞で知られる。https://w.wiki/88Pg
来歴
高等小学校卒業後、フランス語を独学する[1]。1911年ごろより詩を書き始め、1915年に個人雑誌『表現』を発行。翌1916年に詩集『一人と全体』を発表[1]。詩の傾向としてはホイットマンやロマン・ロランの影響を受けた人道主義的・民主主義的傾向で、1918年に創刊された『民衆』を契機として、富田砕花や白鳥省吾とともに民衆詩派の一員として数えられるようになる[1]。
新潮社が創刊した「日本詩人」の編集にあたり、1926年に発刊した『椎の木』では三好達治、丸山薫、伊藤整、春山行夫、阪本越郎など若手詩人を起用し、一時代を築いた[1]。その頃から、モダニズムを取り入れた俳句系の詩風へ変化[1]。1932年ごろより児童詩・作文教育に携わるようになり、波多野完治、滑川道夫、巽聖歌ら作文教育の指導者を育てた[1]。戦中期には報道部員として大陸に渡った。東京大空襲で家を焼かれ、戦後間もない時期は3年ほど北海道に転住。1953年からは千葉県に住み、終の棲家とした。墓所は、千葉県南房総市(旧・安房郡富山町)高崎[1]。


伊藤 整(いとう せい、1905年(明治38年)1月16日 - 1969年(昭和44年)11月15日)は、日本の小説家、詩人、文芸評論家、翻訳家。本名:伊藤整(いとう ひとし)。https://w.wiki/4Rkn
抒情派詩人として出発したが、その後詩作を離れて小説・評論に重心を移し、ジェイムズ・ジョイスらの影響を受けて「新心理主義」を提言。戦後は旺盛な著作活動に加え、ベストセラーや裁判の影響もあり、もっとも著名な評論家の一人となった。私小説的文学の理論化をめざすとともに自身も創作を行い、評論では『小説の方法』「近代日本人の発想の諸形式」「近代日本における『愛』の虚偽」『日本文壇史』などがあり、『氾濫』『変容』『発掘』は、夏目漱石の衣鉢を継ぐ近代小説三部作である。
社団法人日本文藝家協会理事、東京工業大学教授、社団法人日本ペンクラブ副会長、財団法人日本近代文学館理事長などを歴任した。日本芸術院会員。位階は正五位。勲等は勲三等。
生涯
詩人としての出発
北海道松前郡炭焼沢村(現松前町)で小学校教員の父伊藤昌整と母タマ(旧姓鳴海)の間に、姉1人と弟妹10人の12人兄弟の長男として生まれた。父は広島県高田郡粟谷村(現三次市)出身で、教導団出身の陸軍少尉だったが、日清戦争出征後、海軍の水路部測量員(灯台看守兵)に志願して北海道に渡った[1]。まもなく辞職して白神尋常高等小学校の教員となり、整が生まれた年に父は日露戦争出征で203高地で重傷を受けて帰国し、旭川の官舎に移る。1909年に父は塩谷村(現小樽市)村役場書記となり、塩谷村へ移る。
旧制小樽中学(北海道小樽潮陵高等学校の前身)を経て小樽高等商業学校(小樽商科大学の前身)に学ぶ。中学3年生の時に、2年先輩の鈴木重道(北見恂吉)の影響で詩に関心を持ち[2]、級友と同人誌『踏絵』を発行。小樽高商在学中の上級生に小林多喜二や高濱年尾がおり、一緒にフランス語劇に出演したこともある。卒業後、旧制小樽市立中学の英語教師に就任。1923年に友人川崎昇(左川ちかの兄)と同人誌『青空』発行。1926年に百田宗治主宰の『椎の木』に手紙を出して同人となり、自費出版した抒情詩詩集『雪明りの路』で百田宗治、三好達治に高く評価された。小樽で教員を続けながら、1928年に河原直一郎、川崎昇と同人誌『信天翁』刊行。宿直室に泊まり込んで下宿代を浮かせたり、夜間学校の教師の副職をするなどして、1300円の貯金を蓄え、2年後に教師を退職し上京し、北川冬彦、仲町貞子らと同居。
小説と評論
1927年旧制東京商科大学(一橋大学の前身)本科入学。内藤濯教授のゼミナールに所属し、フランス文学を学ぶ。また北川冬彦の紹介で入った下宿屋にいた梶井基次郎、三好達治、瀬沼茂樹らと知り合い親交を結び、瀬沼茂樹の主催していた『一橋文芸』に短編小説を寄稿し[3]、瀬沼とはその後も生涯にわたって親交を結んだ[4]。また河原、川崎と批評誌『文芸レビュー』刊行、処女小説「飛躍の型」を同誌に発表、続いて「鸚鵡」「パルナス座」「繭」などを発表。1930年には小説「送還」「感情細胞の断面」を川端康成に推奨された他、評論「文学領域の移動」「ジェイムス・ジョイスのメトオド『意識の流れ』に就いて」などを『文芸レビュー』『詩・現実』『新科学的』各誌に発表。また小川貞子と結婚、『科学画報』に掲載した小説「潜在意識の注意」で初めて原稿料を手にし、ジョイス『ユリシーズ』の翻訳を永松定、辻野久憲と『詩・現実』に連載[5]。
1931年に20世紀文学の翻訳に力点を置いた『新文学研究』を編集し金星堂から発行、東京商科大を退学し、『文芸レビュー』『風車』の同人と『新作家』を創刊。1932年に処女評論集『新心理主義文学』で、ジェイムズ・ジョイスやヴァージニア・ウルフらの影響による「新心理主義」を提言し、川端康成や横光利一など当時の文壇にも影響を与え、自身も実験作『生物祭』『イカルス失墜』などを執筆し、一連の作品は文芸評論で批判にも晒されたが、吉本隆明は現代文学体の代表作として横光利一「機械」と並ぶものと評している[6]。


高浜 年尾(たかはま としお、1900年12月16日 - 1979年10月26日)は、俳人[1]。ホトトギス代表[1]。俳人高浜虚子の実子。「年尾」の名は正岡子規の命名による。https://w.wiki/88Pm
経歴・人物
東京市神田区猿楽町に虚子・いと夫妻の長男として生まれる。開成中学校から小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)に進む。小樽高商時代は同期に小林多喜二、1期下に伊藤整がおり、全員でフランス語劇に出演したこともある。卒業後、旭シルクに入社する。のち転勤により兵庫県芦屋に転居する。句作は父虚子の手ほどきを受けて中学時代から始めていたが、この時期に一時中断、1938年に『俳諧』を発行し連句をはじめる。「俳諧」は俳句、連句、俳文、俳詩、俳論などのほか俳句の英・仏・独訳を載せるなど意欲的な俳誌であった。
1939年、旭シルクを退社し以後俳句に専念、関西の俳壇の中心として活躍する。1944年、戦時下の物資不足のため『俳諧』を『ホトトギス』に合併させる。1951年『ホトトギス』雑詠選者。1959年、朝日俳壇および愛媛俳壇選者。同年虚子より『ホトトギス』主宰を継承する。1979年10月26日死去、78歳。死後『ホトトギス』主宰は次女の稲畑汀子に引き継がれた。句集に『年尾句集』ほかに『俳諧手引』などの著書がある。
趣味は文学運動[1]。宗教は仏教[1]。住所は兵庫県芦屋市月若町[1][2][3]。


小林 多喜二 https://w.wiki/4mYx
小林 多喜二(こばやし たきじ、1903年(明治36年)12月1日[注釈 1] - 1933年(昭和8年)2月20日)は、日本のプロレタリア文学の代表的な小説家、共産主義者、社会主義者、政治運動家。日本プロレタリア作家同盟書記長。日本共産党党員。

4歳のとき、一家で北海道の小樽に移住、小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)に学ぶ。小樽で銀行に勤めてから、葉山嘉樹、ゴーリキーなどの作品を通じてプロレタリア作家の自覚を持ち、小樽の労働運動にも関わり始めた。

1928年、共産党関係者大検挙(三・一五事件)の小樽を題材にした『一九二八年三月十五日』をプロレタリア文学の機関誌「戦旗」に載せ、翌年には『蟹工船』を発表して評価を得た。また、大農場の小作人と小樽の労働者の共同闘争を描いた『不在地主』(1929年)が原因で銀行を解雇された。その後は投獄と保釈をくりかえし、1931年、非合法の共産党に正式に入党。しかし1933年、警察に逮捕・虐殺された。

生涯
多喜二は、秋田県北秋田郡下川沿村(現大館市川口)[1]に小作農家の[注釈 2] 次男として生まれた。当時北海道・小樽で苦難の末に事業に成功した伯父が自分の失敗によって傾いた実家の始末を負わせていた弟夫婦(多喜二の両親)への恩返しとして「小樽の学校に通わせたい」と言う提案により長男を移住させていたが間もなく病死した。多喜二が4歳の時に伯父の計らいによって一家全員で小樽・若竹町の伯父の別宅に移住する。
生活は豊かではなかったが、伯父の工場に住み込みで働く代わりに学資を受け小樽商業学校から小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)へ進学。在学中から創作に親しみ、絵画[注釈 3] や文芸誌への投稿[注釈 4] や、校友会誌の編集委員となって自らも作品を発表するなど、文学活動に積極的に取り組んだ。小樽高商の下級生に伊藤整がおり、また同校教授であった大熊信行の教えを受ける。

この前後から、自家の窮迫した境遇や、当時の深刻な不況から来る社会不安などの影響で労働運動への参加を始めている。実家からほどない小樽築港には幾つもタコ部屋が設けられ、労働者の酷使される姿は幼少期より多喜二の身近に在った[2]。

1924年に小樽高商を卒業し[1][3]、北海道拓殖銀行(拓銀)に入行して同行小樽支店に勤務し、そのころ5歳年下の恋人田口タキ[注釈 5]に出会う。タキは父親が残した多額の借金により13歳の頃より酌婦として飲み屋に売られていた。多喜二は友人からの借金でタキを身請けし、結婚ではなく家族という形で実家に引き取った。多喜二の家族も暖かく迎えたが、タキは身分の差に悩み7ヵ月後に家出をする[6]。1928年の総選挙のときに、北海道1区から立候補した山本懸蔵の選挙運動を手伝い、羊蹄山麓の村に応援演説に行く。この経験がのちの作品『東倶知安行』に生かされている。同年に起きた三・一五事件を題材に『一九二八年三月十五日』を『戦旗』に発表。作品中の特別高等警察(特高警察)による拷問の描写が、特高警察の憤激を買い、後に拷問死させられる引き金となったともいわれる。
1929年、拓銀に在職しながら、郷利基のペンネームで『海上生活者新聞』の文芸欄を担当する記者になる。1929年1月5日発行の第一号には「船員は何を読まなければならないか」を二号には「葉山嘉樹海に生くる人々の紹介」三号には『寄らば切るぞ!』を掲載した。[7][8]海上生活者新聞はこの三号をもって廃刊。
1929年5月に『蟹工船』を『戦旗』に発表し、一躍プロレタリア文学の旗手として注目を集め、同年7月には土方与志らの新築地劇団(築地小劇場より分裂)によって『北緯五十度以北』という題で帝国劇場にて上演された[9]。同時に特別高等警察から要注意人物としてマークされ始めた。

大熊 信行(おおくま のぶゆき、1893年2月18日 - 1977年6月20日)は、経済学者・文芸評論家・歌人。https://w.wiki/88Pv
富山大学教授、神奈川大学教授、創価大学教授などを歴任。福田徳三門下。

経歴
山形県米沢市元籠町生まれ。旧制米沢興譲館中学校(現山形県立米沢興譲館高等学校)を経て1916年東京高等商業学校(現一橋大学)卒。中学時代、浜田広介や上泉秀信と同人誌を作っていた。
1916年日清製粉入社。米沢商業学校で教鞭をとった後、1919年東京高等商業学校専攻部進学、1921年同卒。1941年経済学博士(東京商科大学)。論文の題は「経済理論における配分原理の所在並に適用に関する基礎的研究」[1]。
1921年小樽高等商業学校(現小樽商科大学)講師、1922年同教授、1923年病気で同校を退職。南湖院で闘病する。1927年高岡高等商業学校(現富山大学経済学部)教授、1929年から1931年まで文部省在外研究員として、イギリス、ドイツ、アメリカ合衆国に留学。戦時期は「政治経済学」の構築を唱道、1942年高岡高商を退職し海軍省大臣官房調査課嘱託、1943年大日本言論報国会理事。
小樽高等商業学校で小林多喜二伊藤整、高岡高等商業学校で篠原三代平西川義朗などを教えた。

1946年山形県地方労働委員会初代会長。1947年公職追放を受ける。1948年、米沢に教育思想研究会を創立主催し旺盛な研究執筆活動を行う。公職追放解除後は論壇で活動の傍ら、1952年神奈川大学教授、1953年富山大学経済学部長、1965年神奈川大第二経済学部長、1971年創価大学教授を歴任した。1975年に請われて竹岸食肉専門学校校長に就任するが、1977年劇症肝炎のため米沢市で死去。

没後2年の1979年に、大熊の人と思想・文学・学問上の業績をさまざまな角度から検討・研究・整理し、大熊が問題意識をいだいていたさまざまな領域について討論の場を設けるために大熊信行研究会が発足した[2]。1993年6月には生誕百年記念講演会が東京と山形で開催され、東京では板垣與一が主催者代表挨拶をし篠原三代平「大熊経済学の印象」、鶴見俊輔「国家の二重性と家の二重性」の講演が行われた[3]。山形では鶴見俊輔が姉の鶴見和子に替わり「大熊信行にとっての文学」と題する講演を行った[4]。大熊信行研究会は論創社内に事務局を置き2015年6月まで年に1回、東京で研究会・偲ぶ会を開いていた。

業績
経済学者としては、資源配分論として、ミクロ経済学の研究を、先駆的に行うなどした[5]。
歌人としては、旧制中学時代に石川啄木の影響で作歌を始め、土岐哀果の「生活と芸術」や反アララギの砦となった「日光」に短歌を発表。1927年に「香円(まるめら)」を創刊して主宰となり、「まるめら調」と呼ばれるようになる口語自由律短歌を世に送り出した。歌人としての活動は高く評価されていたが、出版された歌集は没後刊行の全歌集『母の手』のみである。

土岐 善麿(とき ぜんまろ、1885年(明治18年)6月8日 - 1980年(昭和55年)4月15日)は、日本の歌人・国語学者。歌人として土岐 哀果(とき あいか)の号も使用した。https://w.wiki/88Q7
哀果の号を用いたが、1918年以降は本名の善麿。独創的なローマ字三行書きの短歌集『NAKIWARAI』(1910年)で注目される。日常の哀歓をうたった生活歌が多い。ほかに『黄昏に』(1912年)など。

戦前
東京府東京市浅草区浅草松清町(現在の東京都台東区西浅草一丁目)の真宗大谷派の寺院、等光寺の二男として生まれる。等光寺は美濃国の守護大名土岐頼芸の遺児・大圓が創建した寺と伝えられる[1]。父・善静は柳営連歌最後の宗匠で、学僧として知られた。

東京府立第一中学校(現在の東京都立日比谷高等学校)では同級生に石坂泰三、三宅正太郎、一級下に谷崎潤一郎がいた。中学在学中より学友会雑誌に文章、短歌、俳句の投稿を始める。

1905年(明治38年)、金子薫園の「白菊会」に入会し、田波御白、吉植庄亮、平井晩村らと知り合う。早稲田大学英文科に進み、島村抱月に師事。学外では馬場孤蝶に学び、外国文学に親しむ。窪田空穂の第一歌集『まひる野』に感銘を受け、同級の若山牧水と共に作歌に励んだ。北原白秋も同級である。牧水との交流は特に深く、ともに回覧雑誌「北斗」を作ったり(他の会員には佐藤緑葉、安成貞雄らがいた)、父の納骨の際に京都へ同行したりした。

早稲田大学卒業後、読売新聞社会部記者となった1910年(明治43年)、第一歌集『NAKIWARAI』を「哀果」の号で出版。この歌集はローマ字綴りの一首三行書きという異色のものであり、これを契機にローマ字運動に参加する。『NAKIWARAI』はヘボン式を採用したが、すぐに日本式ローマ字に転向し、田中舘愛橘、芳賀矢一、田丸卓郎指導のもとに「ローマ字世界」の編集に当たる。その後も読売に勤務しながら歌作を続けた。翌1911年には第二歌集『黄昏に』を刊行。

1911年(大正元年)に大杉栄荒畑寒村らと「近代思想」の執筆者に加わり、大杉と知り合う。そこから社会主義的傾向を持つようになる。

1913年(大正2年)、読売新聞特派員として満州、朝鮮を視察。レフ・トルストイの短編集『隠遁』を翻訳する。石川啄木とともに刊行を計画して果たせなかった『樹木と果実』の後継として雑誌『生活と藝術』を創刊し、啄木の遺稿などを多く発表するが、1915年(大正4年)の2月号が発禁処分を受ける。「生活と藝術」の連載「歌壇警語」にて、半年にわたり斎藤茂吉と論争を展開する。
読売新聞社会部長の任にあった1917年(大正6年)、東京奠都50年の記念博覧会協賛事業として東京〜京都間のリレー競走「東海道駅伝徒歩競走」を企画し、大成功を収めた。これが今日の「駅伝」の起こりとなっている。しかしこの企画が予算オーバーだったために責任を取らされ、翌1918年(大正7年)に読売を退社、朝日新聞に転じる。

1919年(大正8年)、哀果の号を廃し、本名の善麿を名乗り始める。1923年(大正12年)、東京朝日新聞学芸部長に就任。1924年(大正13年)、白秋や前田夕暮、釈迢空らとともに雑誌「日光」の創刊に参加する。
1928年(昭和3年)に日本エスペラント学会の理事に選ばれ、また国語国字問題についての著書を出版。1934年(昭和9年)には日本放送協会の放送用語並発音改善調査委員となるなど、昭和初期には歌人としてよりも、国語の専門家として広く知られていた。

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