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フォリー神父

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1900年、青森県第一中学校(現在の青森県立弘前高等学校)を卒業。同年、旧津軽藩時代の旧姓郡場に改姓。第二高等学校を経て、1907年、東京帝国大学理科大学植物学科卒業。同大学院で三好学に師事し、生長現象と外部環境の関連など植物生理学の研究を行う。1909年10月から東京帝国大学副手(1913年11月まで)。1912年12月、東京帝国大学にて理学博士号を取得。1913年、東北帝国大学農科大学(現: #北海道大学農学部)講師となる。1915年、同教授に就任。

1917年、京都帝国大学理学部植物学教室創設顧問として京都帝大に移る。1918年から1920年まで欧米に留学、特にライプツィヒ大学で研究する。1920年に帰国して京都帝国大学植物生理生態学講座担当の初代教授を務める。1921年から京都府立植物園初代園長を兼任。1924年から1941年まで学術研究会議会員。この間、1929年にはジャワ島を、1932年には欧州・南米・中米・北米などを、1940年には満洲・内蒙古・中華民国を視察。1941年、京都帝国大学理学部長に就任。

 フォーリー神父の採集した植物の標本のなかで、新種と鑑定発表された約700種のうち、顕花植物(種子植物)と蘚類(スギゴケ・ミズゴケなど)が各200種、地衣類は100種を数えています。その中には「フォーリーガヤ」や「フォーリーアザミ」など、学名にフォーリーの名前が付いている植物もたくさん存在しています。
 このように、明治のころの青森における植物研究は、主に外国の人によって行われていて、フォーリー神父のおかげで、青森の名が海外にも知られるようになりました。
 フォーリー神父の死後、青森浜町教会(現カトリック本町教会)に収蔵してあった貴重な植物標本類は、京都帝国大学に寄贈されました。それは、当時、京都帝国大学理科大学生物学教室開設設計顧問だった #郡場寛 さん(後に弘前大学学長)や青森師範学校の #木梨延太郎 さんなどの尽力によるものでした。
【自然部会執筆編集員 原子一男】

※『広報あおもり』1999年10月15日号に掲載

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