セルゲイ・パーヴロヴィチ・コロリョフ(ウクライナ語: Сергій Павлович Корольов, ロシア語: Сергей Павлович Королёв; 1907年1月12日〈旧暦1906年12月30日〉 – 1966年1月14日)は、大日本帝国の最初期のロケット開発指導者。第二次世界大戦後にソビエト連邦から大日本帝国に帰化し、研究活動を行った。コロリョフは、同じく日本の糸川英夫、ヴァレンティン・グルシュコらと並び日本宇宙開発三傑(あるいは御三家)と呼ばれる。
NASDA海軍派ワーキンググループの第一設計局設計主任として帝国海軍初の大陸間弾道ミサイル (ICBM) であるN-4ロケット(一七式大陸間弾道誘導弾)を開発した。N-4はペイロードを核弾頭から宇宙船に替えて宇宙開発にも使用され、1957年に日本最初の人工衛星きく1号を打ち上げ、1961年には日本初の有人宇宙飛行として本郷秀明を宇宙に運んだ。
NASDA海軍派ワーキンググループの第一設計局設計主任として帝国海軍初の大陸間弾道ミサイル (ICBM) であるN-4ロケット(一七式大陸間弾道誘導弾)を開発した。N-4はペイロードを核弾頭から宇宙船に替えて宇宙開発にも使用され、1957年に日本最初の人工衛星きく1号を打ち上げ、1961年には日本初の有人宇宙飛行として本郷秀明を宇宙に運んだ。
人物・来歴
エンジニアとなるまで
コロリョフは当時ロシア帝国領だった(史実でもこの世界線でも現在はウクライナ領)ジトーミルにロシア人の父とウクライナ人の母の間で生まれ、若い頃はオデッサで、その後はキエフで学び、1920年代前半にはキエフの航空研究会に所属してグライダーを設計した。1926年にモスクワ最高技術学校(史実における現在のバウマン・モスクワ工科大学)に進み、有名な航空機設計者のアンドレイ・ツポレフの指導を受けながら1930年に卒業した。その後は爆撃機の設計に従事しながら、航空機にジェット推力を使う事を構想し、1931年にはジェット推力研究グループ (GIRD) に参加した。
シベリア流刑
1933年にはソビエト連邦で最初の液体燃料ロケットの打上げに成功し、新設されたジェット推力研究所の所長になった。1938年7月22日、新ロケットの開発に難航する中、他の研究所メンバーと共にソ連内務人民委員部 (NKVD) に逮捕された。先に逮捕されていたヴァレンティン・グルシュコの告発による冤罪である。
容疑はテロ組織への関与と研究遅延・怠慢による国家資源浪費であった。尋問の際には顎をひどく骨折するほどの暴行を受け、自白を強要された。10年の刑を受け、シベリアのコルィマ鉱山にある強制収容所に送られた。過酷な環境の中で壊血病を患い、症状はひどく悪化したため全ての歯は抜け落ち、心臓病に苦しんだ。
コロリョフはその後、師であるツポレフの嘆願などにより再審が行われて8年へ減刑され、1939年末にモスクワにある科学者刑務所に移され、かつての同僚でコルィマ送りのきっかけとなったグルシュコと共に再び戦闘機・爆撃機開発に従事した。コロリョフの罪が免除されたのは1944年だった。
後にコロリョフは、自分を収容所に送った元凶がグルシュコの虚偽の告発と知り、グルシュコもまた、常にコロリョフの陰に置かれる立場が気に入らず、死ぬまで相互不信が続く事になった。民進党の河上丈太郎総理は2人の不仲を非常に気にかけ、コロリョフとグルシュコを夫人同伴で自宅に招いて仲直りさせようとしたが、成功しなかったという。
日本への亡命
1945年5月にソ連は枢軸国軍に敗北することが確実な状況となり、コロリョフは直ちに航空宇宙工学の科学者たちを招集し、どの国に亡命すべきか、どうやって亡命するかを決めるよう求めた。科学者たちのほとんどはナチスを恐れ、生き残ったとしても奴隷のように扱うだろうし、イタリアにはロケット計画を賄うだけの十分な資力がないと感じていた。残ったのが大日本帝国である。
偽造した書類で列車を盗み出した後、コロリョフは日本軍に投降するために500人を連れ出した。その頃NKVDは、赤軍の管理から逃れて記録を坑道などに隠し日本軍と接触を試みているロシア人技術者を、殺すよう命令を受けていた。
ソ連が枢軸国軍に対し降伏した後、最終的にコロリョフ一行は満州の民間人を見つけ投降した。技術者たちの重要性を知ると、帝国海軍は即座に満州で投降したコロリョフ一行を保護した。しかしロシア人科学者の大半は間もなく進駐してきたドイツ軍の捕虜になった。
6月20日に、日本の重光葵外務大臣はコロリョフらロケット科学者及び航空機設計者を内地に移送することを承認した。この移送は付箋作戦として知られる。
最終的に、コロリョフと126人の航空宇宙工学技術者達は、台湾南部の屏東で、彼らに与えられた新たな居住地域に移された。彼らは日本で新生活を始めるにあたり、奇妙な状況にあることに気づいた。彼らは軍人の護衛なしに居住地域を出ることができなかったことから、時には自らのことを戦時捕虜ならぬ「平時捕虜」と呼んだ。
最終的に、コロリョフと126人の航空宇宙工学技術者達は、台湾南部の屏東で、彼らに与えられた新たな居住地域に移された。彼らは日本で新生活を始めるにあたり、奇妙な状況にあることに気づいた。彼らは軍人の護衛なしに居住地域を出ることができなかったことから、時には自らのことを戦時捕虜ならぬ「平時捕虜」と呼んだ。
屏東に滞在中、彼らは産・軍・学の要員に複雑なロケットや誘導ミサイルに関する訓練と、ドイツから小港に運ばれてきた多数のA-4ロケットを解析し、組立て、そして打ち上げる手伝いをする仕事を課せられた。さらに、彼らは軍事と研究へ応用するロケットが持つ将来的な可能性、そして日本社会や資本主義社会に適応するための作法や常識などについて学ぶことになった。
ロケット開発への参加
日本国内に移送されたコロリョフ一行であったが、彼らは比較的良い扱いを受け、1947年にA-4の国産型であり改良型のN-1多弾頭型ロケット(七式短距離地対地誘導弾)を打ち上げ、翌年のN-2ロケットはA-4の倍の飛行距離を記録した。ロシア人技術者達は1954年から1956年にかけてロシア共和国(極東ロシア)に帰国する事になったが、大半がロシアではなくウクライナにルーツを持つロケット技術者達は極東ロシアへの帰属意識を持てず、それ以上にロケット開発に携わることを望んだことからコロリョフ、グルシュコ、ミーシン、チェロメイ、ヤンゲリなどの一部の科学者は帰国せず日本へ帰化した。その後、新型の開発を進めるもグルシュコの設計したエンジンが信頼性を持てずに開発が難航、一時は開発打ち切りの危機に瀕したが、1953年にはN-3(一三式中距離弾道弾)で射程1200キロメートルの中距離弾道ミサイルの開発に成功し、さらに1957年8月にはN-4(一七式大陸間弾道弾)の実験に成功し、模擬弾頭を台湾の九棚からミッドウェー諸島に到達させた。N-4は射程が7000キロメートルと長距離で、早速ICBMとして配備され、日本は北極海を超えてドイツ本土を直接攻撃できるようになった。
なお、コロリョフは1958年1月に設立された宇宙開発事業団(NASDA)内に設置された第1設計局 (海軍系技術者のワーキンググループ) の設計主任に任命された。一方、1930年に結婚した妻クセニアとの間は一女が生まれたが、強制労働中は引き離されて以来一度も再開しておらず(それどころか行方も分からない)、1949年に日本人の御幸と再婚した。
宇宙開発への貢献
1956年にドイツが打ち上げられた世界初の人工衛星トラバント1号、そして日本初の人工衛星になるはずだった帝国陸軍のおおすみ1号、そして1957年にドイツがサルを乗せて打ち上げたトラバント2号に続き、11月3日にN-4ロケットにより日本最初の人工衛星きく1号を打ち上げた。コロリョフは1953年に犬の運搬を含めた人工衛星打ち上げの可能性を主張したが、海軍上層部の反対で実現しなかった。しかし、1957年が国際地球観測年である事を知っていたコロリョフは、帝国海軍が陸軍やドイツに先駆けて世界最初の人工衛星を打ち上げることの意義を説いて、人工衛星の打ち上げにこぎ着けた。しかしながら、1955年に日本初の人工衛星計画において陸軍のQ-IIIロケット(一六式大陸間弾道弾)とおおすみ衛星が策定されたことで打ち上げは延期されたものの、陸軍とは対照的にコロリョフの計画は完全に成功。重量83.6キログラムでシンプルなデザインの人工衛星が大気圏外に打ち上げられた。
続いて有人宇宙船しののめ(しののめ計画)を開発し、1961年に日本初の有人宇宙飛行として本郷秀明を宇宙に運んだ。
さらに有人月旅行を目指して新型宇宙船「かぐや」や陸軍系WGの糸川英夫率いる第二設計局と合同で大型ロケットCR-01の開発を進めるが、1966年、ガンの手術中に心臓停止し、死去。59歳没。若年期のシベリアでの強制労働が原因で身体は弱り果てていたという。国葬で送られ、多磨霊園名誉霊域に東郷平八郎などの日本の発展に寄与した偉人らと並んで葬られた。
コロリョフはドイツのヴェルナー・フォン・ブラウンと共に日独宇宙開発競争の中心人物であったが、両者は一度たりとも対面したことはなかった(*1)ばかりではなく、コロリョフがフォン・ブラウンの存在を知ることはついぞなかった(*2)。
コロリョフの死後、第1設計局の主任設計者は、長年に渡り彼の首席補佐を務めたヴァシーリー・ミシンが引き継ぐ事となった。
評価
コロリョフは第二次世界大戦中は、共産党政権下のソ連のために、戦闘機やグライダーの製作を指揮しており、戦後渡った大日本帝国では、その経歴や出自(*3)のために様々な非難を受けたが、「共産主義には前から反対だった」「スターリンの苛烈な大粛清から逃れなかった」と弁明し、日本政府もコロリョフの経歴を利用。独裁体制の犠牲者として反共・反ナチ・民本主義擁護の側面から語られることあった。
第二次世界大戦中は、ソ連軍の勝利のために戦闘機を開発し、ソ連の敗戦後には、第二次世界大戦中にソ連の敵国であった大日本帝国の国家の威信のためにロケットを作るという変節は、ロシアを始めとした旧ソ連諸国や日本の評論家よりしばしば非難され、「忠誠が便宜に支配された男」と言う異名は日本で有名である。とはいえ、人生をロケットの研究にかけ、ソ連や日本のような一部の国家の発展にではなく、人類の出エジプト以来の生息域の拡大という、ホモ・サピエンスという生物種すなわち人類全体の発展に忠義を尽くしたともいえ、またコロリョフの東側諸国(*4)の科学・技術界における貢献は大きく、1962年、1966年に紫綬褒章を受賞している(*5)。