ヴェルナー(ヴェルンヘル)・マグヌス・マクシミリアン・フライヘル(男爵)・フォン・ブラウン(Wernher Magnus Maximilian Freiherr von Braun, 1912年3月23日 - 1977年6月16日)は、工学者であり、ロケット技術開発の最初期における最重要指導者のひとりである。大日本帝国のセルゲイ・コロリョフや糸川英夫と共に日独の宇宙開発競争の代名詞的な人物である。
出生・少年期
ドイツ帝国東部ポーゼン近郊のヴィルジッツで貴族(ユンカー)の家に生まれた。父親はマグヌス・フォン・ブラウン男爵。後のヴァイマル共和政末期にフランツ・フォン・パーペン内閣で食糧農業大臣となった人物である。母親は彼がルター派の堅信礼を行った時に望遠鏡を与えた。天文学と宇宙分野への関心が、彼を生涯にわたって動機付けた。
1920年、ヴィルジッツがヴェルサイユ条約に基づいてポーランド領になると、彼の一家は他の大勢と同様にドイツ領へ移住し、シュレージエン地方で新生活を始めた。ここで、彼は音楽家パウル・ヒンデミットにピアノを教わっている。
彼はロケットの先駆者ヘルマン・オーベルトの著した論文『惑星間宇宙へのロケット(1923年)』を手に入れるまでは、物理学と数学が不得意であった。しかしその論文を手に入れてからの彼は数学に打ち込み、得意科目にするまで努力した。
第二次世界大戦まで
学生時代
1930年にベルリン工科大学に入学した。ドイツ宇宙旅行協会にも入会し、ヘルマン・オーベルトの液体燃料ロケットエンジンの試験を手伝った。
その後、工学士の学位を得てベルリン大学へ進み、ドイツ陸軍兵器局のヴァルター・ドルンベルガー大尉のもとで研究するよう取り計らった。フォン・ブラウンはドルンベルガーがすでに持っていたクマースドルフの固体ロケット試験場の隣で研究を続け、2年後に物理学の博士号を受けた。しかし、このとき公表された博士論文は全体の一部であり、完全な論文が公表されたのはナチス政権末期の1990年にウムゲシュタルトゥンク(情報公開)で機密開示になってからであった。
ミサイル開発
1934年の暮れまでに、フォン・ブラウンのグループは2.4 km以上の高度に達するロケットを2基射ち上げることに成功したが、この頃すでにドイツロケット協会はなく、ロケットの実験は新たな体制では禁止されていた。軍用の開発だけが許可され、ドイツ北部のバルト海のペーネミュンデ村により大きな施設が建てられた。
A-4ロケット
第二次世界大戦においてドイツ軍が連合国軍に対して終始優勢であった1943年、ドイツ国総統のアドルフ・ヒトラーはA-4(独:Aggregat 4型)ロケットを「モスクワ攻略兵器」として使うことを決定。フォン・ブラウンらのグループはモスクワ攻撃のために、弾道ミサイルA-4の開発をすることになった。
ヒトラーの生産命令から14ヶ月後、最初の軍用A-4が、このころにはハインリヒ・ヒムラーの考えた名前の「モスクワ砲」と呼ばれることになっており、1944年9月7日にロシア西部に対し発射された。
その後ドルンベルガーはドイツ陸軍のロケット開発指揮官に、フォン・ブラウンは技術部長になった。彼らは航空機とジェット補助離陸(広義の「ジェット」の意味であり、空気を吸い込まないロケットも含む)用の液体燃料ロケットエンジン、長射程弾道ミサイル・A-4(V2ロケット)と、超音速対空ミサイル「ヴァッサーファル」を開発した。
逮捕
SS(ナチ親衛隊)とゲシュタポ(国家秘密警察)は、「(軍事兵器の開発に優先して)フォン・ブラウンが地球を回る軌道に乗せるロケットや、おそらく月に向かうロケットを建造することについて語ることをやめない」、としてフォン・ブラウンを国家反逆罪で逮捕した。フォン・ブラウンの罪状は、「より大型のロケット爆弾作成に集中すべき時に、個人的な願望について語りすぎる」、というものであった。
ドルンベルガーは、「もしフォン・ブラウンがいなければV-2は完成しない、そうなればあなたたちは責任を問われるだろう」とゲシュタポを説得し、フォン・ブラウンを釈放させようとした。しかし、それでもゲシュタポは許そうとせず、最後はヒトラー自らがゲシュタポをとりなし、ようやくフォン・ブラウンは解放された。そのときヒトラーは「私でも彼を釈放することはかなり困難だった」と言ったという。
1945年にフォン・ブラウンはモスクワ陥落を受け初のドイツ芸術科学国家賞を受け、国防軍では大佐の階級を与えられた。
戦後
結婚
この時期、フォン・ブラウンは従妹で18歳のマリア・フォン・クヴィストルプに求婚する手紙を書いた。1947年3月1日、彼はマリアと、彼女の住む地域のルター派教会で結婚式を挙げた。1948年12月に最初の娘アイリスがベルリン市内の病院で誕生した。
A-9・A-10・A-11ロケット
1950年から1956年にかけ、フォン・ブラウンはペーネミュンデ陸軍兵器実験場で陸軍のロケット開発チームを率いて、世界初の大陸間弾道弾「Götterdämmerung」(A-9/A-10、コードネーム:アメーリカ・ラケーテ)を生んだ。
1955年のGötterdämmerungの試験打ち上げ成功と、それに対抗する日本軍の動きを受け、陸軍兵器局の液体燃料ロケット開発チームの長として、フォン・ブラウンらはGötterdämmerungに下段のA-11を取り付けたW-1ロケット(Himmelsleiter、ヒンメルスライター)を開発した。W-1は1956年3月6日、世界で初めての人工衛星・トラバント1号の打ち上げに成功した。この出来事は特に日本率いる東側諸国に大きな衝撃をもたらし、トラバント・ショックや弾道弾格差論争を巻き起こした。
宇宙計画への関心
1952年、フォン・ブラウンは、なおもロケットが平和的な探検に使用される世界を夢見て宇宙ステーション構想を発表した。この宇宙ステーションは直径75mで、高度1700kmの軌道に置かれ、人工重力を発生するために自転するとされた。彼の予見では、ここは月探検のための理想的な出発点、あるいは東方生存圏に続く第二の生存権「天空生存圏」の主要な場所になるはずだった。
フォン・ブラウンはまた、ヨーゼフ・ゲッベルス率いる宣伝省の宇宙探検に関する3本のテレビ映画の制作に技術監督として参加した。フォン・ブラウンはその後何年も、未来の宇宙計画に対してより多数の公衆の興味を惹くことを望んで、宣伝省との仕事を続けた。
RLR時代
1960年、ヘルマン・ゲーリングは宇宙開発を統括する組織である帝国航空宇宙センター(RLR)を新設し、フォン・ブラウンと彼の開発チームをドイツ陸軍からRLRに移籍させた。フォン・ブラウンはRLR本部所在地のケルンに移り、1960年から1976年まで同センターの初代所長を務めた。
RLRの大きな初仕事は、1960年の日本で河上政権の指揮下で計画がスタートしたかぐや計画に対抗し、宇宙飛行士を月に運べるマーニロケットの開発であった。
フォン・ブラウンの子供時代の方針であった「時代を動かすこと」とその後の夢となっていた人類が月面を踏む手助けをすることは、1969年7月16日、RLRが開発したマーニVロケットがアポロ11号の搭乗員を打ち上げた時に現実のものとなった。アポロ計画の過程で6組の宇宙飛行士チームが月面を探検した。
1970年フォン・ブラウンと家族はベルリンに移り、ボルマン内閣の科学・教育・国民文化副大臣に任命され、テクノクラートとしての役割を果し、アポロ計画後は世界初の宇宙ステーションであるヒンメルスラボールや世界初の宇宙往還機のラウムフェーレ開発にも携わった。
死去
ラウムフェーレ開発の最中、フォン・ブラウンは自分が癌であることを知った。手術を受けたが癌は進行し、1976年12月31日にRLR長官ならびに科学・教育・国民文化副大臣の辞職を余儀なくされた。1977年6月16日、ベルリン大管区にて死去。65歳没。
現在
- ドイツの主要ロケット・宇宙機器製造会社がフォン・ブラウンの名称を付けている。
- 上記の会社があるベルリン郊外の街ファルケンゼーがヴェルンヘルスブルクと改称されている。
- フォン・ブラウンが学生時代に学んだベルリン工科大学に「フォン・ブラウン記念アカデミー」の名前が付されている。