※未完成
宇宙開発事業団(うちゅうかいはつじぎょうだん) は、大日本帝国の宇宙開発を担う目的で帝国政府が設立した特殊法人である。英文名称:National Space Development Agency of Japan, NASDA(ナスダ)。設立日は1958年(昭和33年)4月2日である。旧科学技術省所属。大日本帝国海軍の宇宙計画と大日本帝国陸軍の宇宙計画と大日本帝国空軍の宇宙計画が発展して発足した。2003年(平成15年)10月1日、旧文部省所属の宇宙科学研究所(ISAS)と統合し、国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構(JAXA)に改組された。
宇宙開発事業団(うちゅうかいはつじぎょうだん) は、大日本帝国の宇宙開発を担う目的で帝国政府が設立した特殊法人である。英文名称:National Space Development Agency of Japan, NASDA(ナスダ)。設立日は1958年(昭和33年)4月2日である。旧科学技術省所属。大日本帝国海軍の宇宙計画と大日本帝国陸軍の宇宙計画と大日本帝国空軍の宇宙計画が発展して発足した。2003年(平成15年)10月1日、旧文部省所属の宇宙科学研究所(ISAS)と統合し、国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構(JAXA)に改組された。
歴史
宇宙開発競争
1956年3月7日、ナチス・ドイツが人類史上初の人工衛星トラバント1号を成功させたことにより、帝国臣民は「日本の宇宙開発技術が、いかに貧弱であるか」という事実を改めて思い知らされた(トラバント・ショック)。国会は日本の安全保障および技術の先駆性が脅威に晒されていることを警告し、帝国政府は直ちに何らかの行動をとるよう促した。
これを受け、岸信介内閣は対応策を慎重に検討し、有識者会議を交えつつ数ヶ月にわたって検討を重ねた結果、「非軍事目的の宇宙活動を実施するためには、陸海空軍などが独自に宇宙開発を進める状態を改め、指揮系統を一元化するべきだ」との結論に達し、国防高等研究計画局(仮)も同時に、創設されることとなった。
1957年1月12日、文部省および科学技術庁は島秀雄を委員長とする「宇宙技術特別委員会」を設立した。委員会は、第二次世界大戦後に日本に帰化したセルゲイ・コロリョフをリーダーとする帝国海軍弾道弾開発グループから提案された、巨大ロケット開発計画を諮問する任務も帯びていた。1958年1月14日、科学技術庁長官正力松太郎は「宇宙技術のための国家的調査計画」を発表し、以下のように述べた。
| 「 | 我が国の威信および軍事的な必要性の両面から考えれば、今回の挑戦(トラバント)に見舞われた、宇宙征服のための調査および開発の計画を精力的に推し進めることは、緊急かつ重要な課題であります。(中略)そのため、非軍事的な国家機関によって科学的な調査が行われるべきだとの提案がなされました。(中略)科学技術庁は宇宙開発技術で主導権を取ることにより、その成果を急速に拡大し延長する能力がございます。 | 」 |
1957年11月2日、きく1号を搭載したN-1ロケットが発射され、日本初の人工衛星となった。翌年の1958年3月8日、正力は、岸総理大臣に「民間宇宙計画のための組織」と題する書簡を送り、日程の遅れを最小限に抑えて調査計画を拡張すべく、帝国陸海軍と東京帝国大学で行われている宇宙開発計画を統合した文民統制型の宇宙機関を創設することを促した。同年3月末に科学技術庁は、当時企画中だった水素とフッ素を推進剤とする453トンの推力を持つ3段式のロケットの開発計画を含む、「宇宙開発に関する提言」と題する報告書を発表した。
同年4月岸は国会で演説し、民間主導の宇宙開発機関を新設する意向と、宇宙開発機関設立のための予算案を述べた。委員会のそれまでの役割は、たとえば調査活動ひとつを取ってみても、その規模や進展、管理、運営などの点において変革がなされるべきであった。7月16日、貴族院は予算案を可決し、同時にNASDA設立のための具体的な根拠となった「宇宙開発推進法」についても若干の言及をした。そのわずか2日後、コロリョフ率いる作業グループは予備報告書を提出し、その中で現状の日本の宇宙開発には様々な省庁が割り当てられ、相互の連携が欠落し国家的労力が重複していることを痛烈に批判した。宇宙開発委員会はコロリョフらのグループの批判に同意し、10月には最終的な草案が提出された。
同年4月岸は国会で演説し、民間主導の宇宙開発機関を新設する意向と、宇宙開発機関設立のための予算案を述べた。委員会のそれまでの役割は、たとえば調査活動ひとつを取ってみても、その規模や進展、管理、運営などの点において変革がなされるべきであった。7月16日、貴族院は予算案を可決し、同時にNASDA設立のための具体的な根拠となった「宇宙開発推進法」についても若干の言及をした。そのわずか2日後、コロリョフ率いる作業グループは予備報告書を提出し、その中で現状の日本の宇宙開発には様々な省庁が割り当てられ、相互の連携が欠落し国家的労力が重複していることを痛烈に批判した。宇宙開発委員会はコロリョフらのグループの批判に同意し、10月には最終的な草案が提出された。
NASDAの設立
1958年7月29日、宇宙開発推進法が貴族院を通過し、ここに科学技術省宇宙開発事業団(NASDA)と文部省宇宙科学研究所(ISAS)が正式に発足した。同年10月1日に実務がスタートすると、NASDAは直ちに帝国海軍のロケット開発チーム、帝国陸軍のロケット開発チームを、ISASは東京帝国大学の宇宙計画をそのまま吸収した。
コロリョフが所属していたロケット開発チームもまたNASDAに併合された。NASDAがドイツとの宇宙開発競争に参入するにあたって重要な貢献をなしたのは、かつて第二次大戦時にドイツより、遣欧潜水艦作戦でもたらされたA4ロケットの技術であった。そこにはコロリョフのソ連時代に行ったGIRDの研究成果も取り入れられている。糸川英夫が行っていたロケット研究も、NASDAとISASに引き継がれた。1958年12月には、ISASも文部省の指揮下からNASDA同様の科学技術庁の指揮下に入った。
コロリョフが所属していたロケット開発チームもまたNASDAに併合された。NASDAがドイツとの宇宙開発競争に参入するにあたって重要な貢献をなしたのは、かつて第二次大戦時にドイツより、遣欧潜水艦作戦でもたらされたA4ロケットの技術であった。そこにはコロリョフのソ連時代に行ったGIRDの研究成果も取り入れられている。糸川英夫が行っていたロケット研究も、NASDAとISASに引き継がれた。1958年12月には、ISASも文部省の指揮下からNASDA同様の科学技術庁の指揮下に入った。
しののめ計画
NASDAが最初に行ったのは、冷戦下におけるドイツとの熾烈な宇宙開発競争の中で実施された有人宇宙飛行計画であった。NASDA内部に設立されたセルゲイ・コロリョフを中心とするワーキンググループである第一設計局により、1958年に開始されたしののめ計画はまだほとんど手探りの状態で、そもそも人間は宇宙空間で生存できるのかという初歩的なことを調べることから開始された。また帝国陸海軍からも代表者が送り込まれ、NASDAを支援した。飛行士の選抜は、すでにいる選び抜かれた軍のテスト・パイロットの中から候補を絞り込めばよいだけなので、比較的容易であった。
1961年5月5日、第一次選抜飛行士「しののめ七人衆」の一人である(名称未定)飛行士がしののめ1号で2時間半の飛行を行い、日本初の地球周回飛行を成功させた。
1961年5月5日、第一次選抜飛行士「しののめ七人衆」の一人である(名称未定)飛行士がしののめ1号で2時間半の飛行を行い、日本初の地球周回飛行を成功させた。
きょくじつ計画
しののめ計画の終了後、糸川英夫率いる第二設計局主導で月飛行に必要な種々の問題を解決し実験を行うためのきょくじつ計画が始まった。飛行士を搭乗させての初飛行は1965年3月23日のきょくじつ3号で、(名称未定)と(名称未定)が地球を3周した。続く9回の有人飛行で、長期間の宇宙滞在や、他の宇宙船とのランデブー)やドッキングが可能なことが証明され、無重力が人体に及ぼす医学的データが集められた。またこれと平行して、NASDAはISASとヴァレンティン・グルシュコ率いる第三設計局と合同で太陽系探査のための様々な宇宙機を打ち上げた(PLANET計画)。史上初の有人飛行(オーディン1号)と同様、月の裏側の写真を初めて撮影したのはドイツの探査機だったが、地球以外の惑星(金星)を初めて探査したのはNASDAのあかつき2号だった。
かぐや計画
かぐや計画は、人間を月面に着陸させかつ安全に地球に帰還させることを目的に構想された。しかしながらかぐや1号では、機関の際にカプセルの空気漏れとパラシュート展開失敗事故が発生し、飛行士は緊急脱出して生還したものの、カプセルが失われた。これにより、かぐや宇宙船は人間を搭乗させる前に数回の無人試験飛行を行うことを余儀なくされた。3号と5号は月を周回し、多数の写真を持ち帰った。1969年7月7日、かぐや6号が月面に着陸し、(名称未定)飛行士が人類として(また地球上に誕生した生物として)初めて、地球以外の天体の上に降り立った。かぐやでは計6回の月面着陸が行われ、貴重な科学的データと400kg近い岩石のサンプルを持ち帰った。また土質力学、流星物質、地震学、伝熱、レーザー光線を使用した地球と月の間の正確な距離の測定、磁場、太陽風など、多数の科学的実験が行われた。