NASDA設立まで
結局1956年12月6日に陸軍が打ち上げたおおすみ1号はQ-Ⅲロケットの打ち上げ失敗と翌年2月1日に打ち上げに成功した海軍のN-4ロケットときく1号(ETS-1)によって海軍の影響力が増したが、対立は沈静化しないどころか激化した。しかし、これら陸海軍ですら困惑するドロドロの権力闘争が後に海軍系のロケット開発チームの間で行われることになるとはこの頃はまだ誰も知るよしもなかった。
NASDA設立後
1961年、第1設計局が主導する日本初の有人宇宙飛行計画であるしののめ計画が成功すると、ますます第1設計局の影響力は拡大し、大きな設計局となって行った。しかし、その過程でしののめ計画に使用するロケットを巡ってN-4ロケットに上段を追加した「N-4Aロケット」を使用することで速やかに有人宇宙飛行を成し遂げようとするコロリョフやミーシン率いるケロシン派と、ハイパーゴリック推進剤(ヒドラジン燃料)を使用したロケットを開発し、今後の宇宙計画の為の「投資」をするべきだと主張したグルシュコやチェロメイ率いる「ヒドラジン派」に分裂。コロリョフとグルシュコの技術思想が真逆なこと、人間関係が最悪なこと(*4)、特に陸軍がヒドラジン燃料に対して好感触を示したこと、同じ屋根の下に置いておくと開発が止まるということをを官僚が嫌ったことなどが重なり、ヴァレンティン・グルシュコ率いるヒドラジン派が第3設計局として独立する運びとなった。
かぐや計画とPLANET計画
これにより、NASDA内では案の定どこの設計局が月着陸を行うのか、そしてどこの設計局がロケットを作り、更にどこの設計局が月探査機を製造するのか揉めに揉める結果となった。
続いて第1設計局が提案したのは「同盟」宇宙船で、同盟A有人船、同盟B推進船、同盟C補給船をそれぞれ別のロケットで打ち上げ、軌道上で一列にドッキングして月接近飛行を行うというコンセプトであった。そして、同時に「上昇段・下降段を大型ロケットで打ち上げて軌道上でドッキング、そしてまた大型ロケットで宇宙船に燃料補給を行い、また別のロケットで宇宙飛行士を着陸船まで運び月に着陸する」という所謂「地球周回ランデブー方式」を採用した有人月着陸プランを提案した。しかし、具体的にどのロケットで打ち上げるかは決まっておらず、どのロケットで打ち上げるかは追々決めるという形だった。
最後に第2設計局は、同盟A宇宙船と類似した軌道船(拡張モジュール)、帰還船(期間モジュール)、機械船(推進モジュール)を持つ「ふじ」宇宙船を超大型ロケット「CR-01」で打ち上げて月周回を行い、更に拡張モジュールを月着陸船に置き換えることによって将来の月面着陸も可能であるというプランを提示した。
このコンペは、当初の予想では明確なプランを提示している第三設計局か第2設計局が勝つと思われており、第1設計局のプランは通らないという見方が大多数であった。しかし、陸海軍対立よりも第1設計局・第3設計局間の対立の方が深刻であることを察知した糸川英夫は第1設計局に接触、「ふじ宇宙船を取り下げる代わりにコロリョフさんの月着陸船をCR-01に乗せて打ち上げないか」と提案した。コロリョフ側は最初は難色を示したものの、糸川が「コロリョフさん、このままでは第三設計局の計画が通ってしまいますよ。おそらく宇宙船も彼らのものが使われることでしょう。仮にコロリョフさんの宇宙船が通ったとしてもあなたはこれからはグルシュコさんに頭を下げて宇宙船を打ち上げさせてくれと頼むことになる。それでいいんですか」と熱い説得をしたことで、コロリョフも第1設計局もCR-01開発に関与させてもらう事、第2設計局が既にHロケットで実用化していた液体水素・液体酸素を使用したエンジンや燃料取り扱いの技術を移転してもらうという交換条件を突きつけこれに糸川が合意。第1設計局と第2設計局の計画は統合され、後のかぐや計画の正式なプランに近いものが出来上がった。
コロリョフ・糸川合同プランはコロリョフと糸川の短所をお互いの長所でカバーし合う理想的な計画へと仕上がり、これによりヒドラジン燃料を使用した第3設計局の計画が劣勢となり、最終的にコロリョフ・糸川連合チームが勝利し、かぐや計画は第1設計局と第2設計局が合同で行うこととなった。
一方グルシュコはこのコロリョフと糸川の連合が逆転勝利したことに激怒。グルシュコは糸川に詰め寄るが、糸川はすぐさまISAS主導の月探査計画(*5)と惑星探査を目的とした「PLANET計画」の共同実施を提案。これにグルシュコが渋々ではあるものの飲んだことにより、第2設計局を中心に有人探査を第1設計局が、無人探査を第3設計局が行うという分業体制が成立することとなる。