NASDA設立まで
日本の宇宙開発における設計局同士の対立のルーツは戦前の陸海軍の対立に遡ることができる。帝国陸海軍は戦前から関係が悪く、その理由の一つが陸軍は戦闘を重視し海軍は技術開発や経済的利益を得ることに重きを置いていたことである。これらの差異から、ロケット開発でも陸軍系の糸川英夫を重宝する一方でロシア系科学者の受け入れを認めなかった陸軍とロシア系科学者も積極的に受け入れた海軍など、ロケットの開発方針や設計思想にも影響を与えていた。宇宙開発において1番陸海軍間の対立が高まった出来事は、1955年にISAS(宇宙科学研究所)と陸軍合同のおおすみ衛星とQ-Ⅲロケットが海軍のETS衛星(後のきくシリーズ)とN-4ロケットにコンペティションで勝利したことである。これに対し、セルゲイ・コロリョフは「日本初、いや世界初の人工衛星を打ち上げたのがロシア人だということになるのが気に入らなかったのだろう。」と後に述べている。(*1)
結局1956年12月6日に陸軍が打ち上げたおおすみ1号はQ-Ⅲロケットの打ち上げ失敗と翌年2月1日に打ち上げに成功した海軍のN-4ロケットときく1号(ETS-1)によって海軍の影響力が増したが、対立は沈静化しないどころか激化した。しかし、これら陸海軍ですら困惑するドロドロの権力闘争が後に海軍系のロケット開発チームの間で行われることになるとはこの頃はまだ誰も知るよしもなかった。
結局1956年12月6日に陸軍が打ち上げたおおすみ1号はQ-Ⅲロケットの打ち上げ失敗と翌年2月1日に打ち上げに成功した海軍のN-4ロケットときく1号(ETS-1)によって海軍の影響力が増したが、対立は沈静化しないどころか激化した。しかし、これら陸海軍ですら困惑するドロドロの権力闘争が後に海軍系のロケット開発チームの間で行われることになるとはこの頃はまだ誰も知るよしもなかった。
NASDA設立後
1958年7月29日、日本の宇宙開発を統括する機関である「宇宙開発事業団(NASDA)」が設立され、島秀雄が初代理事長に就任。陸軍と海軍の宇宙計画が吸収され、旧海軍技術研究所ロケット開発チーム(コロリョフ、グルシュコらロシア人科学者も含む)が組織内ワーキンググループ(WG)の第1設計局(*2)に、旧陸軍のロケット開発チームとISASとの掛け持ちである糸川英夫らISASの1部メンバーが同じく組織内WGの第2設計局に編入された。(*3)
1961年、第1設計局が主導する日本初の有人宇宙飛行計画であるしののめ計画が成功すると、ますます第1設計局の影響力は拡大し、大きな設計局となって行った。しかし、その過程でしののめ計画に使用するロケットを巡ってN-4ロケットに上段を追加した「N-4Aロケット」を使用することで速やかに有人宇宙飛行を成し遂げようとするコロリョフやミーシン率いるケロシン派と、ハイパーゴリック推進剤(ヒドラジン燃料)を使用したロケットを開発し、今後の宇宙計画の為の「投資」をするべきだと主張したグルシュコやチェロメイ率いる「ヒドラジン派」に分裂。コロリョフとグルシュコの技術思想が真逆なこと、人間関係が最悪なこと(*4)、特に陸軍がヒドラジン燃料に対して好感触を示したこと、同じ屋根の下に置いておくと開発が止まるということをを官僚が嫌ったことなどが重なり、ヴァレンティン・グルシュコ率いるヒドラジン派が第3設計局として独立する運びとなった。
1961年、第1設計局が主導する日本初の有人宇宙飛行計画であるしののめ計画が成功すると、ますます第1設計局の影響力は拡大し、大きな設計局となって行った。しかし、その過程でしののめ計画に使用するロケットを巡ってN-4ロケットに上段を追加した「N-4Aロケット」を使用することで速やかに有人宇宙飛行を成し遂げようとするコロリョフやミーシン率いるケロシン派と、ハイパーゴリック推進剤(ヒドラジン燃料)を使用したロケットを開発し、今後の宇宙計画の為の「投資」をするべきだと主張したグルシュコやチェロメイ率いる「ヒドラジン派」に分裂。コロリョフとグルシュコの技術思想が真逆なこと、人間関係が最悪なこと(*4)、特に陸軍がヒドラジン燃料に対して好感触を示したこと、同じ屋根の下に置いておくと開発が止まるということをを官僚が嫌ったことなどが重なり、ヴァレンティン・グルシュコ率いるヒドラジン派が第3設計局として独立する運びとなった。
かぐや計画とPLANET計画
1960年に民進党の河上丈太郎が総理大臣になり、日独の弾道弾格差(ミサイル・ギャップ)を埋めるためにかぐや計画を推進することを決定。少なくとも1名以上の人間を月に着陸させ、無事に帰還させることを1960年代の終わりまでに達成させると宣言した。
これにより、NASDA内では案の定どこの設計局が月着陸を行うのか、そしてどこの設計局がロケットを作り、更にどこの設計局が月探査機を製造するのか揉めに揉める結果となった。
これにより、NASDA内では案の定どこの設計局が月着陸を行うのか、そしてどこの設計局がロケットを作り、更にどこの設計局が月探査機を製造するのか揉めに揉める結果となった。
1962年、第1設計局・第2設計局・第3設計局は有人月着陸ミッションのコンペティションに挑んだ。最初に第三設計局が提示したのは「LK-1」月周回船と「LK-700」月着陸船であった。LK-1は、UR-500で打ち上げられた後に月を周回して地球に帰還するというミッションであり、LK-700はUR-700で一気に月軌道まで打ち上げ、そのまま着陸・離陸するという所謂「直接降下・着陸方式」をとるというものであった。
続いて第1設計局が提案したのは「同盟」宇宙船で、同盟A有人船、同盟B推進船、同盟C補給船をそれぞれ別のロケットで打ち上げ、軌道上で一列にドッキングして月接近飛行を行うというコンセプトであった。そして、同時に「上昇段・下降段を大型ロケットで打ち上げて軌道上でドッキング、そしてまた大型ロケットで宇宙船に燃料補給を行い、また別のロケットで宇宙飛行士を着陸船まで運び月に着陸する」という所謂「地球周回ランデブー方式」を採用した有人月着陸プランを提案した。しかし、具体的にどのロケットで打ち上げるかは決まっておらず、どのロケットで打ち上げるかは追々決めるという形だった。
最後に第2設計局は、同盟A宇宙船と類似した軌道船(拡張モジュール)、帰還船(期間モジュール)、機械船(推進モジュール)を持つ「ふじ」宇宙船を超大型ロケット「CR-01」で打ち上げて月周回を行い、更に拡張モジュールを月着陸船に置き換えることによって将来の月面着陸も可能であるというプランを提示した。
このコンペは、当初の予想では明確なプランを提示している第三設計局か第2設計局が勝つと思われており、第1設計局のプランは通らないという見方が大多数であった。しかし、陸海軍対立よりも第1設計局・第3設計局間の対立の方が深刻であることを察知した糸川英夫は第1設計局に接触、「ふじ宇宙船を取り下げる代わりにコロリョフさんの月着陸船をCR-01に乗せて打ち上げないか」と提案した。コロリョフ側は最初は難色を示したものの、糸川が「コロリョフさん、このままでは第三設計局の計画が通ってしまいますよ。おそらく宇宙船も彼らのものが使われることでしょう。仮にコロリョフさんの宇宙船が通ったとしてもあなたはこれからはグルシュコさんに頭を下げて宇宙船を打ち上げさせてくれと頼むことになる。それでいいんですか」と熱い説得をしたことで、コロリョフも第1設計局もCR-01開発に関与させてもらう事、第2設計局が既にHロケットで実用化していた液体水素・液体酸素を使用したエンジンや燃料取り扱いの技術を移転してもらうという交換条件を突きつけこれに糸川が合意。第1設計局と第2設計局の計画は統合され、後のかぐや計画の正式なプランに近いものが出来上がった。
コロリョフ・糸川合同プランはコロリョフと糸川の短所をお互いの長所でカバーし合う理想的な計画へと仕上がり、これによりヒドラジン燃料を使用した第3設計局の計画が劣勢となり、最終的にコロリョフ・糸川連合チームが勝利し、かぐや計画は第1設計局と第2設計局が合同で行うこととなった。
一方グルシュコはこのコロリョフと糸川の連合が逆転勝利したことに激怒。グルシュコは糸川に詰め寄るが、糸川はすぐさまISAS主導の月探査計画(*5)と惑星探査を目的とした「PLANET計画」の共同実施を提案。これにグルシュコが渋々ではあるものの飲んだことにより、第2設計局を中心に有人探査を第1設計局が、無人探査を第3設計局が行うという分業体制が成立することとなる。
続いて第1設計局が提案したのは「同盟」宇宙船で、同盟A有人船、同盟B推進船、同盟C補給船をそれぞれ別のロケットで打ち上げ、軌道上で一列にドッキングして月接近飛行を行うというコンセプトであった。そして、同時に「上昇段・下降段を大型ロケットで打ち上げて軌道上でドッキング、そしてまた大型ロケットで宇宙船に燃料補給を行い、また別のロケットで宇宙飛行士を着陸船まで運び月に着陸する」という所謂「地球周回ランデブー方式」を採用した有人月着陸プランを提案した。しかし、具体的にどのロケットで打ち上げるかは決まっておらず、どのロケットで打ち上げるかは追々決めるという形だった。
最後に第2設計局は、同盟A宇宙船と類似した軌道船(拡張モジュール)、帰還船(期間モジュール)、機械船(推進モジュール)を持つ「ふじ」宇宙船を超大型ロケット「CR-01」で打ち上げて月周回を行い、更に拡張モジュールを月着陸船に置き換えることによって将来の月面着陸も可能であるというプランを提示した。
このコンペは、当初の予想では明確なプランを提示している第三設計局か第2設計局が勝つと思われており、第1設計局のプランは通らないという見方が大多数であった。しかし、陸海軍対立よりも第1設計局・第3設計局間の対立の方が深刻であることを察知した糸川英夫は第1設計局に接触、「ふじ宇宙船を取り下げる代わりにコロリョフさんの月着陸船をCR-01に乗せて打ち上げないか」と提案した。コロリョフ側は最初は難色を示したものの、糸川が「コロリョフさん、このままでは第三設計局の計画が通ってしまいますよ。おそらく宇宙船も彼らのものが使われることでしょう。仮にコロリョフさんの宇宙船が通ったとしてもあなたはこれからはグルシュコさんに頭を下げて宇宙船を打ち上げさせてくれと頼むことになる。それでいいんですか」と熱い説得をしたことで、コロリョフも第1設計局もCR-01開発に関与させてもらう事、第2設計局が既にHロケットで実用化していた液体水素・液体酸素を使用したエンジンや燃料取り扱いの技術を移転してもらうという交換条件を突きつけこれに糸川が合意。第1設計局と第2設計局の計画は統合され、後のかぐや計画の正式なプランに近いものが出来上がった。
コロリョフ・糸川合同プランはコロリョフと糸川の短所をお互いの長所でカバーし合う理想的な計画へと仕上がり、これによりヒドラジン燃料を使用した第3設計局の計画が劣勢となり、最終的にコロリョフ・糸川連合チームが勝利し、かぐや計画は第1設計局と第2設計局が合同で行うこととなった。
一方グルシュコはこのコロリョフと糸川の連合が逆転勝利したことに激怒。グルシュコは糸川に詰め寄るが、糸川はすぐさまISAS主導の月探査計画(*5)と惑星探査を目的とした「PLANET計画」の共同実施を提案。これにグルシュコが渋々ではあるものの飲んだことにより、第2設計局を中心に有人探査を第1設計局が、無人探査を第3設計局が行うという分業体制が成立することとなる。
かぐや計画を本格的に引き受けた第1設計局と第2設計局は、CR-01開発の方針を巡って多少対立することとなった。
PLANET計画の探査機設計と月探査機の設計、そしてそれらを打ち上げるロケットを一手に引き受けることとなった第3設計局は、金星探査機のあかつき計画と火星探査機のなつひぼし計画を片手間で行いつつ、第1設計局の月着陸のための情報収集を行った。1961年から1965年にかけては月インパクターであるひてん探査機を打ち上げ、月着陸地点候補の高画質画像を部分的ではあるものの確保した。1966年から1968年にかけては無人月ランダーのフクシア着陸機を打ち上げ、7回にわたり月面軟着陸の技術実証と月の地質調査を行った。フクシア計画と並行して、月周回衛星のつくよみ探査機を月に送り、かぐや計画の月着陸候補地の調査と月面地図作成に貢献。1968年から1969年にかけてはくと月面車による月表面の調査をする一方、かぐや計画のLK着陸船の無線誘導を行い、たまてばこ探査機のサンプルリターンで月面に有害物質がないか調査を行った。
しかし、これらのミッションは糸川との妥協で手に入れたものとは言え、グルシュコはこれらのミッションを自分の自尊心を満たすために使ったという側面も存在する。特に1967年に行われたあかつき3号と1969年に行われたなつひぼし3号と4号では、金星大気圏観測カプセルや火星表面ランダーの中に菊花紋章(大日本帝国の国章)の金属プレートだけでなく、第三設計局のロゴの金属プレートが書かれていた。これは、後世で関係者が語るには「コロリョフよりも先にほかの惑星に到達したのは我々第3設計局だ」「日本の惑星探査を背負ってるのは第1設計局でも第2設計局でもない、我々だ」という強い意志を表しているという。そして執拗なまでに用意周到な月探査機も、コロリョフの計画をやるまでもないほど徹底的に月の謎を解き明かすことによりかぐや計画の存在意義を消失させることを目的としていたという。事実、1969年6月14日に打ち上げられ、同年6月28日に帰還したたまてばこ2号によって世界初の月の石を入手することに成功した影響により、かぐや6号で世界初の有人着陸成功直後なのにも関わらず「もう無人探査で十分ではないか」というかぐや計画中止論を巻き起こすことに成功、実際に1972年のかぐや12号でかぐや計画は中止になり、第1設計局の後続の宇宙ステーション計画である「はなび」も最終的に第三設計局の宇宙ステーション計画「こんごう」に吸収されるなど、これらの計画はかぐや計画の成功に貢献した一方でかぐや計画打ち切りの原因にもなった。結果、第1設計局は宇宙ステーション計画の手柄すらも第3設計局に取られ、存在感を発揮できないまま1985年に設計局制度は終焉を迎え、没落した。