命短し恋せよ乙女(前編) ◆LJ21nQDqcs
彼女は歩を止めて深呼吸すると屈伸し、ストレッチ運動の限りを尽くした後にふと振り向いた。
どのくらい走ったか、と戦場ヶ原ひたぎが腕時計を見つめるとおおよそ10分。
つまりは第二回放送の直前であった。
ひとつの呼吸の乱れもないその様子は、さすが陸上部のエースだった人間と言える。
いくらハンデがありまくるとはいえ、もはや息も絶え絶えになっている男子生徒とは大違いだ。
「遅いわね、上条くん。あなたが普段どのような生活を送っているのか、
などと言ったことには全く興味はないけれど、
せめてもうちょっと不摂生を慎んだらどうなのかしら」
はんのうがない。ただのしかばねのようだ。
「あら、走りすぎて死んでしまうなんて、まるでマラトンの伝令ね。
でも、せめてわたしのディバックを手渡してから死んでいただけないかしら」
上条当麻はorzの状態から何とか片腕を上げると、素直にディバックを手渡した。
戦場ヶ原ひたぎにとって前準備もそこそこな、ほぼならしの走りでも、
部活動も殆どこなしていない上条当麻にとっては、全力疾走。
まさにマイペースで走り続ける戦場ヶ原を追いかけると言う、精神的にもきつい状況の中、
上条当麻のスタミナはガリガリと削られ、僅か十分でほぼ底を尽きかけた。
口を開いても吐息しか漏れない。
不平を言おうモノなら、辛辣な毒舌が待っている。
泣き言さえ言えず、定番の台詞も封印された上条にとって、現在出来ることは
まるで犬のように、ただただ口を開けっ放しにして、ぜえぜえと呼吸を繰り返すのみだった。
一方、戦場ヶ原といえばディバックから三匹の子猫を取り出してニャーニャーと撫でるのみ。
やがて第二回定時放送が始まった。
■
放送を聞きながら地図に放送禁止エリアを書き込み、さて死者発表となったとき、
自分がやはり相当に緊張していることを、戦場ヶ原は自覚した。
彼女の恋人が相当強力な人間たちと同行していることは知っていたが、
それでもやはり心配せずにはいられない。
ここに居る、どのような危険でも無鉄砲に突っ込んで行く無謀の塊とはやや違うが、
阿良々木暦はある人物いわく「胸がむかつくほど優しくていい人」なのだ。
トラブルが少女とネギを背負って怒涛のように現れる、そのような人間なのだ。
またなにか他の女と出会って危険に巻き込まれでもしたら、などと考えると
怒りで太いマジックペンすらへし折りそうになってしまう。
そんなか弱い少女の願いはギリギリのところで、すんでのところで守られた。
発表された死者の中には阿良々木暦の名は、無かった。
ただし同行者と聞いたセイバー、幸村両名が死亡した。
つまり、やはり、案の定、絶望的なことに、
阿良々木暦はトラブルに巻き込まれた。
それもかなり逼迫した命の危険のある大事に。
そういう事だろう。
放送で発表される順番は第一回と同じく死亡した時間順、と言うことならば
幸村が死亡してかなりの時間、逃走もしくは応戦の後にセイバーが死んだと思われる。
D-6に一行が居たとするならば、幸村が死亡したのは、やはりあの列車暴走の際だろう。
とするならば最大で正午までの三時間ほど。
阿良々木暦がどのようして、強力な個人を打倒するに至るほどの脅威から身を守ったのか。
戦場ヶ原には想像もつかないし、阿良々木がそのような事態に直面した際、
わざわざ同行者を見殺しにするような人間とも、思えなかった。
と、するならば。何らかの事情で各人散り散りになったところを、
一人ずつ始末されたと考えるのが無理のないところではないのか。
これも想像が妄想を呼ぶ、晴れない霧の中を歩くような予測でしかない。
しかしここに至るまでの10行の文章の、
遥か数十倍のテキスト量を誇る考察を脳内で巡らせていなければ、
自己というものを失ってしまいそうなくらい、彼女は混乱していた。
ロクでもないことに、激しい呼吸を繰り返す作業に飽きた上条にすら、その動揺を悟られるほど。
その上条も、インデックスのあまりに作業的な機械的な放送の次に、
男によって語られた【首輪換金制度】には動揺を隠せなかった。
いくらこの場で葬る必要も意志もないと見栄を斬ったものの、
見知った人間が首輪目当てに漁られる光景は、上条をもってしても耐え難かった。
故に上条当麻は戦場ヶ原ひたぎに提案する。
「あの~戦場ヶ原さん?」
「何かしら、上条くん。わたしは今ご覧の通り子猫たちの毛づくろいで忙しいの。
要件なら手短に頼むわ」
とても悠長な事をしているように上条さんは思うんですけどねぇ、などという皮肉も口に出さず、
上条当麻はひどく真面目な顔をする。
「…御坂の遺体を、何処か人目につかないところに隠したいんだ」
「いいわ、十秒で帰ってきなさい」
簡潔ながら、なんとも矛盾に満ちた言葉だ。
「なんだよ、十秒って!ここに来るまで全力疾走で、ええっと」
「十分ね」
「そう十分!それくらいの時間がかかったっていうのに十秒って!
1/60の時間で、どうやって御坂の遺体をどうにかしろっていうんだよ?!」
それを聞くと戦場ヶ原はなんだそんな事、とばかりに上条を見下げた。
「じゃあ五分でも十分でも一時間でも。好きなだけ彼女の元に走ればいいわ。
さぁ行ってきなさい。別に引き止めはしないわ」
「よし分かった!その間、襲われるなよ!」
許可が下りるや否や、上条は戦場ヶ原から見て右の方向へ全力疾走し、
そして十秒後、戦場ヶ原から見て左側から現れた。
■
上条はそれに気づかず三回ほどループして、ようやく異変に気がついた。
「上条くんってバカだと思っていたけど、想像以上に判断力がないのね」
これでよく今まで生きてこれたものね。と言外に漏らしながら、
戦場ヶ原はペットボトルに口を付けて、軽く口の中を湿らすと、
目の前で奇妙な顔をしている少年を見る。
「なんだよ、これ!?わけがわからねぇぞ!」
「訳がわからないのは体験すれば分かることでしょ。そんな自明のことをわざわざ口に出さないで。
それに唾を飛ばさないで頂けるかしら。唾がかかると妊娠してしまいそうだわ」
そもそも、と戦場ヶ原は続ける。
「仮にも陸上部のエースだったわたしが。ならしとは言え十分も走っていて、
たかが二キロに満たないであろう距離を走り終えられないなんて思うのかしら。
あなたの滅茶苦茶なフォームで、わたしに一、二分程度の遅れで済むと思っているのかしら。
それは私を過小評価しすぎな上に、自分を過大評価しすぎというものだわ」
いくらなんでも五分も六分も差がつくはずはないだろう、と反論しようとしてとりあえずひっこめる。
「じゃあここは、この公園は堂々巡りさせられる結界でも張ってあるってことか」
「そうね、いま客観的に見たところ、あの無駄に大きいモニュメント、献花台かしら、から、
このベンチのすぐ横までが範囲みたいだわ。おそらくはそれを直径とした円形の結界ね」
入るのは自由だが出ることを許されない。
まるでGを冠するあの生き物ホイホイのようね、という言葉を戦場ヶ原は飲み込んだ。
いくらなんでもG呼ばわりは自分を瑣末に扱いすぎだと思ったからだ。
「あの~戦場ヶ原さん?それはもしかして上条さんをモルモットに使ったってことなのかな?」
精一杯の引きつった笑顔を見せつけて、上条は戦場ヶ原を見やる。
「今は考え事をしているの。くだらない確認でわたしの気を散らさないでくれないかしら」
そう、戦場ヶ原は考えを巡らせていた。焦っていた。
出来うることならば、彼女は放送までにD-6駅に着こうとしていた。
全ては最愛の人を阿良々木暦に少しでも早く再会するため。
危機に陥っているだろう恋人に多少なりとも力になるため。
それを、この空間は阻んだ。
理不尽な、魔法とも怪異ともとれるこの奇妙な空間に。
「前にこんな事態に陥ったことがあるの。その時は地縛霊が原因でね。
その地縛霊の怪異を鎮めたら、その事件は解決したわ。
さっき上条くんを向かわせたのは、確認のためもあるけど、その右手」
そう言って上条の"幻想殺し"を見る。
「もしかしたらこの空間を切り開いてくれるかと思ったのだけれども。どうやら無駄だったようね」
あらゆる魔術・超能力の類を打ち消す幻想殺しも、限度や限界は当然ある。
その一つが空間にかけられた魔術は消すことが出来無い、と言うものだ。
「この右手は結界の類は打ち消せない。ワリィ、戦場ヶ原。役に立てなくて」
「呼び捨てにしないでくれないかしら。と、何回も言ったわよね?
まぁあまり誠意のこもってない謝罪も付け加えてのことだったから、この場は引いてあげるわ」
とてもそうは見えなかったが、戦場ヶ原は相当に精神的に参っていた。
唯一心当たりのある解決法が有効でなかったのだ。
あとは此処で状況が好転することを祈りつつ待つしかない。
それはつまり時間の浪費につながる。
それはつまり阿良々木暦の死につながりかねない。
それはつまり戦場ヶ原ひたぎと言う、パーソナリティの崩壊につながりかねない。
つまり戦場ヶ原は焦りまくっていたのだ。
■
(なんでこんな事になっちまったんだ)
ベンチの端と端に座りながら、上条もまた、焦っていた。
上条の事情は戦場ヶ原と比べれば遥かにマシだ。
ただこの場に足止めを食らっているに過ぎない。
だが自分が動かないことで、周りの状況が悪化して行くのが、許せなかった。
阿良々木暦が危険に侵されて行くのが、許せなかった。
主催者の企むこのゲームが進行することが、許せなかった。
そして立ち往生するしかない自分の無力が、許せなかった。
(無力。そうだ、アーチャーのように力があればこんな所、飛び越えていけるだろうに。
ん?アーチャー?)
ハタ、と上条は気づく。
アーチャーはこの団地を、この公園を視察したとか言ってなかったか?
そしてC.Cも、最初にこの公園でライダーと言う人間に襲撃されたとか言ってなかったか?
この二人、いや三人は特に公園で足止めされたとは言っていなかった。
「なぁ戦場ヶ原、さん」
上条が口を開いた刹那、戦場ヶ原の右手からコンパスの光が漏れ出たのを見て、
慌てて呼び捨てにすることをやめる。
「いや、あのさ。なんでアーチャーやC.Cがこの結界に引っかからなかったのかな~、と」
「彼らが強いからでしょ」
あっさりと言い放つ。
顔中をはてなマークで支配させた上条をよそに、戦場ヶ原は続けた。
「ここを出る際に特に注意を払った様子も彼らには無かったようだし、
なにか資格があれば容易に出られるのでしょうね。
そしてゲーム開始直後にライダーと言う人間がここから出られたと言うことは、
何らかの儀式やフラグが必要と言うわけでもなさそうだし、
じゃあ単純になんらかの要素が強い人間なら無条件で出られる、と言うことじゃないかしら」
いずれにしても待つしか無いわね、と戦場ヶ原は溜息をついた。
確かに自分たちではどうしようもなさそうな脱出方法だな、と上条は認めた。
しかしここで時間をただ救助を待つ事は、上条当麻には出来なかった。
まだなにか方法があるはずだ、と悪あがきをしなくては気が済まなかった。
「じゃあよ、この結界のなにか核となるものを破壊出来れば、なんとかなるかもしれねぇ!」
すっくと立ち上がると、上条はやおら走り出す。
何もあてがなく、見当も付けずにがむしゃらに。
まぁせめて見当くらいは付けたいものね、と戦場ヶ原もまたベンチから立ち上がり、
とりあえずはこの空間の範囲を見極めてみようかしら、と歩き出す。
なにかしていなければ、気が滅入る一方で性格が悪くなってしまいそうだったからだ。
そんな彼と彼女らの努力をあざ笑うかのように、すぐに一人がこの場に登場する。
ダダダダダ
ダダダダダダダ
ダダダダダダダダダダダダダダダダダダ
愛と言う名の狂気そのものとなった、哀れな襲撃者。
黄色い雨合羽にその身を包んだ、狂信者。
胸に刺さった二本の剣も気にせず近づく、左腕全てを獣毛に覆われた破壊者。
神原駿河。
その成れの果て。
■
献花台を調べてみようとそのモニュメントに登った上条は、異音に気づき振り返る。
目にうつるのは眼前に迫る、雨合羽から除く狂気の瞳。
その直後、
神原駿河の"左腕"が、モニュメントを一撃のもとに完全破壊した。
振り返った時に足を踏み外して転落し、偶然にも攻撃を回避した上条当麻は、果たして幸運なのか不幸なのか。
落ちきる前に破壊、いや爆破と言った方が状態としては適切だろう、された献花台の破片と爆風により、
さらに放り飛ばされる。
ドン!と身体を地面に打ち付け、さらにバウンドする上条のその身に、
さらに追撃をしようと雨合羽の襲撃者が飛びかかる。
空中から振り下ろされる圧倒的パワーとスピード。
もはや確定となった死を前に、上条当麻は走馬灯も見ることも出来なかった。
知覚が全く追いつかない。
上条から見た世界は、未だ足を踏み外してモニュメントから転落する最中。
故に身を捩るなどといった回避行動をなんら取ることも出来無い。
饒舌に神原駿河を説得し、その道を是正することも出来無い。
死んでしまった御坂美琴へ想いを馳せることも出来無い。
ここにいる戦場ヶ原ひたぎを心配することも出来無い。
インデックスに対して無念を馳せることも出来無い。
上条当麻には、最早なにをすることも出来無い。
振り下ろされる"左腕"が奏でる、
音速を超えた故に弾き出される暴力的な爆音が、
辺りに響き渡った。
◇
征天魔王は一路、南を目指していた。
真っ黒な瘴気を身につけ、調整の済んだ我が身と先程の戦いに満足し、
これより殺戮の宴ぞ、と息巻いたところに突如として感じた、
己を纏う瘴気と同質の存在を南方に認めたからだ。
彼は魔王である。
故に世界にただ一つの王でなければならなかった。
彼は魔王である。
故にこの世で最も最悪でなければならなかった。
彼は魔王である。
故に自らの一成分であろうと同質の存在など、この世に存在することすら許せなかった。
故に織田信長という存在は、全てに憤怒し、全てを破壊し、全てを殺し尽くしてきた。
ましてや自らの手足ともいえる瘴気と同質の存在など、許容出来ようはずが無い。
故に織田信長は疾走する。爆走する。激走する。
その姿は傍から見れば最早、黒い衝撃波としか認識出来無いであろう。
身を纏う瘴気は憤怒によりさらに濃さを増し、金色に輝くその鎧をすら漆黒の鎧へと変貌させた。
マントは何時の間にやら信長の背に生える、片羽根の黒き翼へと生まれ変わった。
最早万全となった彼の行く手を阻むものは無し。
敵はE-6公園にあり。
◇
あの時の神原駿河は、阿良々木暦を抹殺せんと閉鎖された空間で殺し合ったあの時、
戦場ヶ原ひたぎの姿を認めた瞬間、攻撃の手を止めた。
レイニーデビルだけでなく、神原自身が明確な殺意を抱いて行動したあの時ですらそうだった。
だがこの神原駿河の成れの果ては、戦場ヶ原の姿を認めた上で、
彼女が目の前にいることを認知した上で、上条当麻を攻撃した。
まるで見せつけるかのように。
獲物の捕殺に成功した犬が、これよみがしに主人に獲物を見せつける行為。
褒めてもらいたいが故の、誇りをもって胸を張るがごとき行為。
その為の全力。その為の殺人。その為の行動。
ああそうか
この神原は犬なのだ
上条に初撃を食らわせ損ねた神原を見て、戦場ヶ原ひたぎはそう直感した。
目の前でスローモーションのように落下し、爆風に吹き飛ばされ、そして地面に激しくバウンドする上条と、
その中でただ一人変わらぬに動く神原。
逡巡している間に、神原はそのまま上条を粉砕するであろう。
戦場ヶ原にとってみれば、上条はただほんの半日ともに行動しただけの存在だ。
常ならば、それほど思い入れも何も無いはず。
なぜ彼を救いたいと思ったのかと聞いても、ただ夢見が悪くなりそうだから、と返すだろう。
無論本心ではない。確かに本心ではないが、真意が何処にあるかは彼女自身も判断がついていない。
彼が自分と阿良々木暦を助ける、と言ったからだろうか。
神原に後戻りの出来ぬ行為をさせたくなかっただけなのもしれない。
そのように戦場ヶ原としては珍しく、遊びの無い、余裕の無い思考を巡らす。
ではどうすれば、可愛い後輩に殺人を犯さずに済むのか。上条を救うことが出来るのか。
もはや猶予はない。
だからだろうか。普段の彼女ならば陳腐と言って切って捨てるような台詞が口に出た。
「おやめなさい、神原!」
■
その言葉に上条の顔面へのインパクトの、本当に直前で拳を止めた神原は、
器用なことにそのまま空中でバク宙し、物理法則などをすべて無視して後方の戦場ヶ原の許へ飛びかかる。
戦場ヶ原は跳びかかった神原を御し来れずに芝生の上へ押し倒され、両肘で身を起こして前方を見ると、
上条は神原のグレィトォな一撃の拳圧のみで数メートル吹っ飛んでいた。
「不幸だあああああああああああああああああああああああ!!」
そして地上に激突し、なおもガコンガコンと後転して何度も頭を強打し、樹にぶつかってようやく止まった。
まぁ生きてはいるようだからから心配ないわね。
上条はとりあえず置いて、戦場ヶ原は自分の胸の谷間で頭をグリグリと擦りつけている神原を見やる。
神原にもし尻尾が生えていたのなら、まず間違いなくそれは左右に振られていただろう。ゴキゲンってやつだ。
「もう少し感動的な再会をしたかったものね」
立ち塞がる者を全てを粉砕する覚悟で自分の許へ至った、変わり果てた可愛い後輩の頭を撫でる。
そして肩の付け根まで獣毛で覆われた"左腕"を見て、やっぱりね、とため息をつく。
神原駿河は恋する乙女である。
恋に命を賭けられる、男前な乙女である。
想い人の前では、可愛い自分でありたいと思う乙女である。
戦場ヶ原ひたぎが死ねといえば、喜んで死ぬような乙女である。
逆に言えば、戦場ヶ原ひたぎが死の危機に陥ったとするならば。
そのような理不尽に対して、自分がどうしようも出来無いような状況に陥っていたら。
戦場ヶ原ひたぎを救うためならば、悪魔に魂を捧げるだろうことは想像に難くない。
自分を抱きしめる神原の、その背中をさする戦場ヶ原は、
果たして彼女が悪魔に魂を捧げざるを得ない状況に陥っていたことを、察した。
背中に開いた大きな刺し傷。
怪物的な力で殴られたのか、大きく凹んだ背中。
鼓動を止めた心臓。
バトルロワイアルという、いつ誰が死んでもおかしくない異常な状況。
致命傷を負い、もはや呼吸することすら困難であろう、自らの身体。
もはや手詰まりなところまで、神原駿河は追い詰められていた。
ならば手を出してもおかしくない。全てを御破算にする最後の手段。
レイニーデビル。
三つの願いを叶える低級悪魔。
■
「魂と引き替えに、"三つ"願いを叶えてやろう」
どうしようもなく焦がれて、努力して、それでも到達出来無いことを諦めきれない、そんな理不尽。
生きていれば誰しも衝突するであろう、そんな高い壁を、
「魂さえ捧げれば、ひょいと飛び越えることが出来ますよ」と誘惑されて、躊躇しない人間がいるだろうか。
そもそも魂と言う概念自体が、どのようなものか現代人とかく日本人には理解し難い。
死後の世界や神を信じない、信じようとしないものにとって、魂の清濁はあまり頓着するべき問題ではない。
だが神原駿河には神はいた。
戦場ヶ原ひたぎと言う名の神。
手段を問わず、魂を穢して願いを叶えるには、その神は熾烈だった。
故に悪魔に魂を捧げるなどと言う行為は、最大のタブーとして彼女の胸の内にしまわれた。
だが狂信するが故に、愛するが故に、彼女は絶望した。
絶望するが故に、彼女は神を裏切った。
そんな事をすれば、神は彼女を許さぬであろうことを承知の上で。
果たして三つ目の願いは唱えられた。
ここに居るのは哀れな殉教者、神原駿河の成れの果て。
■
アーチャーが公園に着いた時、そこにあったのは瓦礫と化した献花台と、その脇でピクピクと痙攣する上条。
そしてそこからやや離れた所で、戦場ヶ原の膝枕にゴロゴロと甘える雨合羽の少女の姿だった。
「なにが起こった」
想定外の事態に、アーチャーはそのような凡庸な台詞しか出せなかった。
ついぞ先程まで交戦していた時の張り詰めた殺気は、神原からは一欠片も感じられなかった。
見れば胸に刺さった干将莫耶も、引き抜かれたのか前に置かれている。
致命傷なまでに押し込まれたそれを引き抜いた場合、ショック死しかねない衝撃を肉体に受けるであろうに、
この少女は未だピンピンとしている、というか喉を撫でられてどうやらゴロゴロと鳴いている。
「あら、誰かと思えば露出狂のアーチャーさん。
よくも私の可愛い後輩に傷つけて頂けたわね、などといった芸の無い台詞はこの場に似あわないわね。
そう、それはもう別にいいの。問題はもっと別のこと。
わざわざ神原を傷つけて、のこのことここに戻ってきて、それでなんの土産もないってどういう事かしら」
まるでハワイ旅行から行ってきた同僚に、土産がないことをなじるサラリーマンのように突っかかる戦場ヶ原。
まぁそういう奴は両者ともにロクでも無いことが多いから、
そのような会話を聞き及んだら、そういう二人にはあまり近づかない方がいい。
ともかくとして、状況を見るにつれ上条当麻はどうやらなんの役にも立たず、
かえって戦場ヶ原が事態を収めた、ということだろうか。
アーチャーは破壊され尽くした献花台を見てそう判断した。
第四次聖杯戦争。
その最後の決戦場に残された災厄の残滓であるあの献花台が造成された時点で、
死者の魂は弔われて久しい。
にも関わらず、それから十年後の第五次聖杯戦争に到るまで、
死者の怨念は冬木市自然公園に染み付き、瘴気によって人が寄り付くのをよしとしなかった。
この島のこの場はそれの完全なるコピー、もしくはそれそのもの。
献花台によって鎮められていた死者の怨念が、今解放されてこの空間に漂っているのか。
偵察に立ち寄った時よりも嫌悪感が激しくなっているな、とアーチャーは感じ取った。
とりあえずヒステリーを起こしている女性に逆らう度胸は、アーチャーにはない。
事の次第を戦場ヶ原に伝えると、痙攣している上条の様子をみる。
どうやら命に別状はなさそうだが、意識を取り戻すにはもう少し時間が必要だろう。
「それで、気絶している上条くんの身体を丹念に調べてナニをするつもり?
などという下衆なことは聞かないでおくわ。気持ち悪いもの。
まぁ神原はそういう趣向を大層気に入っていたようだけども」
今はそのようなシチュエーションにも反応はしないのね、と
膝の上で頓着せずにじゃれつく神原を見つめ溜息を漏らしかけるも、寸前に押しとどめる。
「言わなかったけれども、この公園は結界で取り囲まれていて私達では出ることは出来ないの。
私はまぁ神原に頼むとして、上条くんをここから出して頂けないかしら」
それを聞いてアーチャーが僅かに顔をしかめる。
確かにここは忌むべき怨念の巣ではあったが、
オリジナルの冬木市公園は、そのような不可思議な現象が起こる場所では決して無かった。
さらに言えば午前中に回ったときにも、そのような仕掛けは無かったはず。
なにか仕掛けがあれば、探索した際に気が付くはずだ。
ならば、この場はその間に変容を遂げた、と言うことか。
◇
一方その頃C.Cは確かにアーチャーが入っていったと思われる空間に入れずにいた。
緊急を要する移動であったため、彼は彼女を連れては行かなかった。
故にとことこと、マイペースに徒歩でここに来ていたわけだが。
《絶望の城》と表された、この団地の中心にあるだろう公園。
だがその場所は今、なにやら真っ黒な球体に覆われていた。
無論、前に立ち寄った、というか転送されてきた時にはこのようなことにはなっていなかった。
目の前の真黒き壁に手を触れてみると、僅かに反発を感じ壁それ自体に触れることも出来無い。
力を入れれば触れること自体は可能であろうが、進入不可能であることには変わりないだろう。
それよりも問題なのは、壁に触れた際に頭に響いた呪詛の念。
様々な人の思念と通り過ぎてきた、魔女である自分にならば理解出来る。
あれは死者の怨念、そのものだ。
その怨念らは「アーチャー」「エミヤ」「サーヴァント」「許さぬ」などとほざいていたようだ。
怨念が実体化し、空間を取り囲み、対象がこの地にやってきたことで、呪いが結実した。
魔術的な素養など欠片も無い、
テレビバラエティなどで報じられるオカルト話や怖い怪談程度しか知らぬC.Cではあるが、
現実にこのような有様を見てしまうと、そのような結論しか思い浮かばない。
要するに理屈は分からぬが、現象はここに存在するわけだ。
「さて困った。少なくとも、あいつが怨念などに遅れをとるとも思えぬが」
このような怨念は執念深く、しかもこれだけの規模となると内側から破壊するのは骨が折れるであろう。
まぁ少なくとも自分はなんの役にも立つまい。
C.Cはとりあえず物陰に隠れ、状況が好転するのを待った。
どれほどの時間が経ったのか。
それともすぐそれは起こったのか。
気がつけばC.Cの足元に、壁を形成する怨念よりも遥かに凝縮した闇が足元を覆っていた。
それは辺りの団地を全て覆い尽くし、日中だというのに空を黒く染め上げた。
かの闇の中心に立つは、闇を凝縮したかのような鎧に身を包む一人の男。
地面に長大な剣を突き刺し、念を集中させ周囲の空気を激しく歪ませている。
男は裂帛の気合とともに剣を振り上げ、再び大地に突き立て
爆発
C.Cの視界が炎熱と爆風と瓦礫と破片で覆いつくされた。
◇
「ふむ。どうやらこれを突破するのは骨だぞ」
アーチャーは何時の間にやら公園を取り囲んだ黒い壁をコンコンと叩いて、率直な感想を述べた。
戦場ヶ原の説明を聞き、おそらくは人払いの類だろうと見当を付け、
さてそれでは、と辺りを見渡したところで異変に気づいた。
心眼スキルすら騙すとは、なかなか気の利いた結界と言える。
実体化した結界を調べる限り、壊せないことはなさそうだが、突破するまでとなるとそれなりに時間がかかる。
しかも結界の核となっている部分は公園内にはなく、
おそらくは周りを取り囲む団地の配置そのものが結界を形成している事までは、調べが着いた。
五行風水の流れをくむ陰陽道による陣地形成、
さらにはどうやら鬼門もしくは裏鬼門からの瘴気を含んだ魔力供給を受けていると思しきこの結界は、
無尽蔵な実的質量をもって行く手を阻む。
十分な魔力を一点から放出すれば、力技での脱出は可能だろう。
しかしそれではこちらの魔力を大量に消費してしまう。
外にいる人間に団地の一角を爆破してもらうのが一番手堅いが、あいにく外と連絡をとる手段が手元に無い。
さらに言えば、発破技術に長けた人物自体に心当たりがない。
「簡単な話しね。結界の変容はどうやらあなたがここに入ったことが原因なのだから、
あなたが結界を打ち破る責任と義務があるわ」
「この結界を早急に打ち壊す手段は、ある。だが代償はそれなりに高くつく。
結論から言えば、君が焼け死ぬ。
さらに私の魔力がやや消費され、なにか強力な敵、たとえばD-6駅を襲撃した連中と遭遇した場合、
かなりの苦戦が予想されるな。端的に言えば、実行するのにやや躊躇してしまう策だ」
「あら、なんとも素敵ね。ここで未だに寝ている上条くんにも聴かせて上げたい策だわ」
「あぁだから次善策にとりかかる」
そういうとアーチャーはディバックから岩剣を取り出し、
戦場ヶ原に膝枕される神原の目前に突き刺すと、そこらの樹に寄りかかる。
「なんの冗談かしら」
「果報は寝て待て、だ。君も彼や彼女のように休養を取りたまえ」
◇
果たして織田信長はE-6公園に至った。正確には公園を取り囲む結界の前にいた。
結界に触れてみれば、なるほど、それは実体化するほどの量と質を誇る怨念と瘴気。
それが吹き溜まりとなって、ここにうず高くそびえていた。
「ほう、南西の方角より瘴気を取り込んでおるのか」
信長はニアミスしたが、太陽炉の爆発によって西南を守る結界は破壊されている。
そして破壊されたことによる穴は、未だ塞がれずに放置され、外界よりの瘴気を無限に吸い込んでいた。
その瘴気は怨念の渦と化しているここ、自然公園に取り込まれ、積層され、結果としてこの有様である。
信長自身も漏れ出た瘴気の恩恵を受け、不完全ながらも復調を遂げたが、これは別の話。
公園に渦巻いた怨念はその濃度を上げて、もはや食虫植物のごとく獲物を待ち受ける結界となった。
そして怨念の究極対象。
災厄のただ中にあって、ただ一人生き残った少年の帰還。
憎悪の中心たるサーヴァントの帰還をもって、結界は結実を迎え閉ざされたのである。
瘴気を纏い、利用しているものがいたらその場で切り捨てる気であったが、
モノが単なる結界であるならば、奪うまでだ。
幸い地脈も瘴気も十分ある。怨念もあって信長にとっては好都合。
まともな魔術師ならば忌避して近寄らない、それらマイナスの因子も、
征天魔王にかかれば役に立つ道具でしかない。
どうやら結界の核となっている、周りに立ちそびえる簡素な城に自らの瘴気を纏わせる。
量的に膨大ではあるが、時間をかければこの程度、なんとするものぞ。
最終的に信長が張った瘴気の結界は、公園の結界を遥かに超える規模で展開された。
それは《絶望の城》全てを取り囲むほど。
ここまで強大な結界を彼が敷けたのは、公園に注がれる瘴気の殆どを横取りし、地脈を吸い上げた故。
前準備は全て整った。
あとは導火線に火をつけるのみ。
撃鉄は手に持つ長大な刀。
火花は裂帛の気合。
火薬は瘴気。
対象は、《絶望の城》全て!
「いざや開かん、冥底の門!」
瞬間地上に太陽が生まれ、莫大な熱量とともに全てを破壊し、崩壊し、瓦解させた。
炎上する全ての中で佇みながら信長は高笑いを浮かべる。
公園を取り囲んでいた瘴気全てが、第六天魔王の身体に取り込まれて行く。
戦国の世と変わらぬ、死に際して放たれる雑兵、愚民どもの怨念と呪詛。
それが周囲に振り撒かれ、また魔王に集約され凝縮され、
彼の手となり脚となり血となり肉となる。
「フゥハァーッハーッハーッハーッッ!我は第六天魔王!織田ァ信長ぞ!」
やがて瘴気を全て取り込み、視界が開けたその場には、
信長の姿と、焼け野原と、地面に倒れ伏せる者たちの姿のみであった。
◇
自らの膝枕で、すっかりと獣のようになってしまった可愛い後輩をあやす内に、
戦場ヶ原ひたぎは何時の間にやらうたた寝をしていた。夢も見ない、短い時間であったが。
膝にかかる圧力が無くなったことで目を覚ました彼女は、軽く伸びをすると辺りを見回して神原の姿を探す。
見れば献花台の残骸の上で壁の向こうに向かって唸っている。
アーチャーは、といえば上条当麻を抱えて、やはり神原と同じ一点を見つめていた。
野生の勘、千里眼、心眼、などなど全て合わせて警戒に値する敵が、この壁の向こう側にいる。
「果報が来たぞ。準備はいいか、女」
「せめて敬意をもって名前を呼んで頂けないものかしら。やる気が失せるわ」
減らず口を叩きながら、物陰に身を隠しつつもバールを取り出し、子猫たちをディバックに押し込む。
やがて漆黒の結界の内側からでも分かるような、激しい光と爆発が巻き起こり、
そして結界は崩壊した。
四方八方から爆風が襲いかかる。
「嘘」
もはや何処にも隠れ場所はない。
飽和された爆風は、その中心である公園に存在するもの全てを蹂躙する。
いついかなる状況に於いても、執念をもって報復をする気満々である戦場ヶ原ひたぎである。
自らの死の覚悟だなんてする気も無かったが、これには観念せざるを得ない。
血のような爆熱が自らに迫る刹那、雨合羽の少女が爆炎の中より飛び出し、戦場ヶ原に覆いかぶさった。
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最終更新:2010年02月06日 07:39