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anko3385 ちぇんはがんばった(飼いゆ編)
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『ちぇんはがんばった(飼いゆ編)』 36KB
飼いゆ 現代 10作目
「ねぇおにーしゃん。しちゅもんがありゅんだねー」
「はいなんですか?」
「ちぇんのパパやママにはいちゅあえるようににゃるのー? わからにゃいよー……」
ゴルフボールサイズほどの赤ちぇんはゆっくりトレーナーの青年にそう質問し、少し寂しげに尻尾を垂らした。
赤ん坊のゆっくりが好みそうなおもちゃやベッド、それに《まよひがハウス》が揃った十畳ほどの部屋に、青年と赤ちぇんは一人と一匹だけで対面して座り込んでいた。チリ一つないカーペットに染み一つない真っ白な壁はペット用部屋でないとしても清潔なものであり、逆に言えば生物的な匂いが全くしない人工的な空間とも言える。
この部屋でちぇんは茎から産まれ落ち、この部屋で産まれてからの三日間をちぇんは過ごしてきた。
その間、他の個体のゆっくりは見てもいない。
(目は開けたまま……しかしぼくの目を見て言っていない。尻尾は元気が無い。ため息は……あったな。しかしぐずって喚き散らすほどではない。ぼくの言いつけをきちんと守ろうとする意思の方がまだ勝っているというわけか。生後三日目だから両親への想いを断ち切れないのは当然だな。その気持ち、どの程度のものか確かめてみるか)
にこりと優しく笑った眼鏡の奥の瞳で青年はちぇんの様子からそれだけの情報を読み取ると、穏やかな声で話しかけた。
「ちぇんはお父さんやお母さんに会えたら、何をしたいんですか?」
「すーりすりしちぇ、ゆっくりしちゃいんだねー! わかりゅよー!」
「そうですね。きっとゆっくりできますよ。ところでちぇんのお父さんやお母さんは、どっちかはちぇんだというのは間違いないとは思うんですが、もう片方はどんなゆっくりだったらゆっくりできますか?」
「え? しょれは……やっぱりらんしゃまにゃんだねー! わきゃりゅよー!」
そう元気よく言ったちぇんに、青年はそうですねきっととってもゆっくりしたらんしゃまに違いないですよ、と適当に流しながら
(自分の両親も受け継いだ餡子から読み取れもしないし、平凡だなぁ……。せっかく希少種の中の希少種のゆかり種と、プラチナバッジのらんの交配に成功したっていうのに、せいぜい平均的な金バッジクラス程度のちぇんしか産まれなかったなんてな。これだから希少種同士の交配はリターンが少ないんだ。これならぼくがどれだけがんばっても五十万くらいが限度かな……全く、こんな奴のせいで丸々一週間もこんな所に拘束されるなんてやってられないよ。違う職場探した方がいっかなー)
などと考えていた。
「らんしゃまは、パパがいいんだねー! ちぇぇぇん! っていっちぇもらっちぇ、たきゃいたきゃいさんしちぇほしーんだねー! それから、それから……」
ちぇんの語る夢をうんうんと青年は相槌を打ち、きっと優しいご両親ですよ、きっとちぇんがいい子にしていたらいつか会えますよ、などと言って流していた。
ちぇんはがんばった
ブランド物でフル装備したその女を出迎えて、青年は「あ、こいつドラクエ5やると息子に天空装備させたまんまエスタークに突っ込ませるタイプだな。吹雪の剣とかわかんねーんだろーなぁ」と直感的に判断した。
どこぞの社長夫人だとかいうその女はソファに脚を組んで座り込んだ。その靴がヒールだということに気づき、青年はげー、とげんなりする。ゆっくりを飼いに来た人間が、ヒールなんて赤ゆっくりを一撃で踏み殺しそうな凶悪なものを履いてくるなどありえない。
「お客様はちぇんをご所望でしたね」
「ええ、ええ。いいですよねー、かわいいですよねー。あの『わかるよー』っていうのが。あとあのネコっぽいお耳とか尻尾さんとか! あ、でも、あれ、なんていうですか。ほら、えーと……あの緑色の髪の……そうそう、ゆかりんにゃんでしたっけ。あれはなんか嫌ですわよね。『ゆかりんにゃんだにゃん』だなんて、まるでキャラ作っているみたいじゃありませんか。こういってはなんですが、まるで下品なメイド喫茶の風俗嬢のようではありませんか。やはり人間もゆっくりも自然が一番ですわ」
「ええ、まことそのとおりです。我が社で育てたゆっくりは皆一匹一匹のんびりとトレーナーと一対一で育てた、ゆっくりらしい自然さと行き届いたしつけを兼ね備えた個体ばかりです」
「ねぇあなた」
「はい?」
立て板に水と話していた最初の言葉と打って変わって冷たい口調で社長夫人は営業の青年に話しかける。
「その『個体』っていうの、やめていただけませんこと?」
「もうしわけございませんでした」
「わかればいいのよ。なんというんですか。その、まるで研究機関のようじゃありませんか。悪趣味な加工所じゃないのですから、もっと愛を持った言い方をしてくださらないと、気分が悪くなっちゃうじゃありませんの」
「以後、気をつけます」
「それで、いつになったら私のちぇんちゃんを見せてくれるのかしら」
「はい。登嶺くん、入ってきて」
「はい」
眼鏡の青年が隣の部屋から入ってきて、二人の間を挟むテーブルの上に胸の前に抱えていたバスケットを降ろした。
その中に入っているものを見て、社長夫人はいやーん、と黄色い声を上げる。
「まぁかわいらしい!」
「んにゃ……?」
バスケットの中で眠りこけていたちぇんは、社長夫人の声で目を覚まし、物音のする方へと体を向けた。
野球ボールほどのサイズまで育った生後二週間前後といったところの赤ゆっくりである。ちぇんはまだ短い尾を立ててにっこり笑い、社長夫人に挨拶した。
「おはよーなんだねー! ゆっくりしていってねー!!!」
「はぁい、ゆっくりしていってねー」
「わかるよー! おねーさんはとってもゆっくりしているんだねー!」
既に赤ゆ言葉が抜けた饒舌な口調でちぇんは会話していた。「おいおいこりゃどこからどう見てもおばさんだろうがよ。お姉さんっていうように躾けたの俺らだけどさ」と青年二人の内心のツッコミは当の本人たちに届くはずもなく、社長夫人はトレーナーに声もかけずちぇんをいきなり手の平に抱き上げた。
しかしちぇんは初対面の相手の手の平に乗せられても驚いたり慌てたりすることもなく、器用にバランスを保ち、にこにこした笑顔を維持し続けている。
「ちぇーんちゃん。今日から私があなたのママでちゅよー」
「うにゃあん、くすぐったいんだねー! でも、気持ちいいんだよー、わかるよー!」
「あ、お客様。他のちぇんもご用意できますが。一通り見てから決めていただいても――」
「もう! 黙りなさいよ! 私は今ちぇんちゃんとお話ししているの! そんなことも見てわからないのかしら!?」
結局、一通りの手続きを終えて一時間後にはちぇんは社長夫人のリムジンに載せられて行ってしまった。
後に残された営業の青年とトレーナーの青年はうんざりした様子で息を吐く。
「でいぶってさ……いるよな」
「うん、人間にもね」
「いや、俺はさ。あのババァに実の子どもいなくて、ゆっくりを代用品にしようってんなら、めっさ歓迎するわ。俺いくら金持ちでもあれおふくろってイヤ。絶対イヤ。死んでもイヤ」
「あのちぇん、ロクなゆん生送らないだろうけどね」
「あー、まぁそうだな。って、あのちぇん育てた登嶺くんにこういうこと言うの無神経だったか。ごめんな」
「いや、別にいいよ。いちいち情なんて持っていたらこの商売やってられんし。それにしても、隣の部屋で聞いていたけどあれは傑作だったね」
「んあ?」
「ほら、ゆっくりも人間も自然が一番って」
「ああ、あれな。俺もフォローするべきか吹くべきか迷ったわ」
「生まれてから一切他のゆっくりには触れさせず、人間に飼われやすい金バッジゆっくりだけを卸す……ウチってそういう所でしょ? そんなところに来ておいて、何が自然だよ。自然がいいなら野山のちぇんに会いに行って、わかれよーって言われて来いって話さ」
「わかんねーだろうさ、あの手の人間は。自分の気持ちを理解するのは求めるくせに、自分は誰の気持ちも汲み取ろうとはしない。そんな奴は人間でもゆっくりでもゲスに違いないが、なぜか人間の場合そういう奴はそのまんまでしあわせー、な一生送れたりするからわけわかんねーよ」
「わかるよー」
死んだ目で愚痴をこぼし合った二人はため息をつき、各々の仕事に戻って行った。
社長夫人に買われたちぇんは彼女の多大な愛情を注がれながらすくすくと育っていった。
生まれ育った部屋以上に広いお部屋がいくつもある邸宅がちぇんの新たなおうちとなった。毎日メニューが変わる美味しい食事にねだらなくても数え切れないほどに買い与えられるおもちゃ、ちぇん専用のふかふかクッションが与えられ、毎晩夫人と同じベッドで眠る。毎日のシャワーとブラッシングは欠かされたことがなく、いつもさらさらヘアーにふっかりとしながらピンとしたおぼうしを被る実にゆっくりとした姿をしていた。
そしてちぇん自身もそんな全てが過不足なく与えられる生活に驕ることも調子に乗ることもなく、夫人に対する感謝と愛情の気持ちを忘れることがなかった。十世代以上に渡って続けられた躾と性格の選別の餡子血統は、値段相応の価値をちぇんに付与していたのである。
ゆっくりでなくとも人間ですら羨む生活を送るちぇんだったが、しかし不満が一切無いと言えば嘘になった。
「ちぇんちゃーん。ママと一緒におでかけしまちょーね!」
「わかるよー! お出かけさんはゆっくりたのしみなんだねー!」
昼寝をしていたちぇんは夫人の手に載せられ額にキスをされた。その際、例えばゆっくりに対する観察眼が鋭いトレーナーやブリーダーならちぇんのわずかな表情の強張りに築いただろう。
人間にとっても香水の匂いは好き嫌いがあり、子どもならば大抵の銘柄は『嫌な臭い』とバッサリしてしまうことは珍しくない。ゆっくりも例外ではなく、至って普通のOLが捨てゆっくりをかわいそうにと思って近づいただけで「くしゃひぃぃぃ~~!!」と逃げられることすらもあるのだ。
夫人にキスをされたり頬ずりをされるたびちぇんは鼻がひん曲がるような思いをするハメになっている。それを飼われてからの一ヶ月間、一度も言葉にするどころかわずかに唇を引きつらせる程度に抑えている根性は、人間で例えるなら夏場常時サウナに入っているかのように汗気を立ち昇らせているメタボな上司に笑顔で対応し続けているリーマンを想像していただければわかっていただけるであろうか。
「それじゃちぇんちゃん、いつもの所にお座りしてね。じゃ、しゅっぱーつ♪」
「出発なんだねー、わかるよー!」
車のダッシュボードに乗せられたちぇんは、徐々に加速していく風景を窓ガラス越しいっぱいに見ながらやっぱり唇を引きつらせていた。もはやプロでなくとも、普通のゆっくり好きが観察していればわかるほどに笑顔が堅くなっているのだが運転に集中している夫人は全く気づいていない。
彼女はただ単に自分が運転している時もちぇんを愛でたいから視界の端に置いているだけなのだが、ゆっくりを車のダッシュボードに載せるなど虐待も同然の所業である。すぃーを用いたゆっくりレースが世の中にはあるが、そのすぃーですら最高速度は概ね水平な道路におけるママチャリの本気漕ぎ程度とそんなに差はない。にも関わらず、レーサーになれる素質を持つゆっくりは少ない。なぜならその速度で感じる吐き気を催すほどのストレスを抑えられる個体はごくごく限られるからだ。
ましてや時速60kmにも80kmにもなる車などにまだ生後三ヶ月かそこらのゆっくりを載せれば、死に至ってしまう個体すら珍しくない。
「ねぇちぇんちゃん、このバッグなんかどうかしら?」
「ママさんは何でも似合っちゃうんだねー。わかるよー!」
到着したデパートのブランドバッグ売り場で夫人は肩に載せたちぇんに話しかけ、人間のファッションセンスなどよくわからないちぇんは適当におだてて流していた。
するとその様子に気づいた店員が少し困ったように愛想笑いを浮かべながら、夫人に話しかけてくる。
「お客様。申し訳ございませんが、当デパートの中にペットの連れ込みは……」
「何? うちのちぇんちゃんの金バッジが見えないの!? そんじょそこらのゆっくりと一緒にしないでくれる? うちのちぇんちゃんは一個だって粗相なんかしたことがないんですからね!!」
「いえ、ですが……」
耳の奥がキーン、となるほどの大声に店員は肩を小さくした。そしてけたたましく喚いた夫人の肩で何事もないかのようにバランスを保ち、けろっとしているちぇんの様子に内心で舌を巻く。
もちろんちぇんが一切ストレスを感じていないわけではない。それ以前に、がやがやとやかましく自分より何十倍も大きい人間という怪物がひしめくように右往左往し、時には子どもが喚き散らしながら駆け回るようなデパートという空間自体がゆっくりにとってはストレスなのだ。
車での移動から始まり、ここまで来るともはやちぇんのストレスは飽和状態となり一時的に何も感じなくなっているのである。その反動は当然他の所に出ており、ちぇんが夫人の気配に気づいて素早く目を覚ますのも勘が良かったり感覚が鋭いだからというわけではなく、単に眠りが浅いからである。
また、生後三ヶ月にもなっていくら体格の小さいちぇんと言えど、中年女性の肩に余裕で乗れるというのは少々成長不全といえる。このままちぇんが成体となれば他の個体よりずっと体力が無く、病気にかかれば対抗する力もなく一発で逝ってしまう貧弱な体に育ってしまうだろう。
「ゆっくりだからってこの店は追い出すの!? 支配人呼びなさいよ! 直接話しつけてやりますわ!」
大声で喚き散らす夫人は周囲の人々から好奇の視線を浴びていた。その中にはちぇんに対する視線も含まれており、同情や感心といった感情が含まれていた。
と、その感心の目を向けていた若いスーツ姿の男が、にこやかな笑顔で店員と夫人の間に
「素晴らしい!」
と歓喜の声を上げながら近づいてきた。
男は夫人から険のある視線を向けられたが、次の瞬間彼女の態度は軟化した。理由は一つ。イケメンだったからである。
「なんてしつけの行き届いたちぇんちゃんでしょう。感激しました。あ、すみません、申し送れました。わたくしこういうものです」
出された名刺を夫人は読み上げた。
「ペット芸能プロダクション ゆっくりん事務所所属プロデューサー 風路(ふうろ)出由(いずよし)……?」
「はい。おたくのちぇんちゃん、芸能ゆにしてみませんか?」
爽やかな笑顔を浮かべる風路という男を、ちぇんはハイライトの消えた目で見上げた。
海面に直立する鳥居は夕焼けに照らされオレンジに輝き、潮風がそよいでいた。
テトラポッドに乗って二本の尻尾を垂れ流し鳥居を見つめていたちぇんは、やがてがっくりと下げていた表情をキッ、と上げた。
「落ち込んでちゃだめなんだねー。ここにもママはいなかったけど、きっと次の街にはいるはずだよー。次の街にもいなくたって、次の次の街にはきっと……」
そう自分に言い聞かせてテトラポッドを駆け下りたちぇんは夕陽に向かって叫んだ。
「ちぇんは絶対諦めないよー! 明日もきっと、がんばるんだねー! わかるよーーー!!」
そしてちぇんは駆け出した。いずこともなく――
エンディングの流れ出した液晶画面の傍で、ちぇんはくわえたハンコを朱肉に突き、続いてサイン色紙にぺったんと押し込んだ。
「ありがとうなんだねー! 来週も絶対見てほしいんだねー! わかるよー!」
「はい、絶対見ます! ありがとうございます!」
サインを貰った女性は握手のかわりにちぇんの尻尾を軽く握った。
そして列の次の相手がちぇんの前に現れ、再びサイン色紙が机に置かれる。
厳島神社の見える海岸に用意されたサイン会場には長蛇の列ができていた。中にはちぇんの画像がプリントされたTシャツを着込んだ人物も混じっており、熱狂的な人気があることが伺える。
ちぇんの姿が地上デジタルの電波に乗り、全国のお茶の間に現れるようになってから二ヶ月ほどが経過した。
芸能ゆっくりとは俗称で、タレントゆっくりともモデルゆっくりとも言われている。主にCMやポスターなどの仕事をこなすゆっくりであるが、時にテレビ番組に出演することもある。ちぇんはその中でも異例の速さで人気を獲得した天才俳ゆんと言えた。
ちぇんが最初にテレビ番組のオファーを獲得したのは「ありす探偵事務所」というゆっくり主演の連続ドラマ番組のゲスト役であった。たまたま子ちぇんの役が必要とされており、そのオーディションに受かったことでちぇんの人間の言うことを忠実に聞く能力の高さが評価されたのだ。
そしてその時、もう一つゆっくり主演のドラマ番組の企画が進んでいた。「らんを訪ねて三千ゆん」というその番組のストーリーは、不治の病気を治療するためと親元から離された飼いゆっくりの子ちぇんが、母親のらんを探して日本全国を放浪するという内容である。旅先でちぇんは様々なゆっくりと出会い、助け助けられることで成長してゆく冒険譚であるのだが、脚本は既に最終回まで完成していても主演の子ちぇん役が見つかっていないのが問題であった。
何せ脚本の出来は良い分ゆっくりに要求される演技力の高さも大きかったのだ。生後三ヶ月からせいぜい九ヶ月程度といった短い期間の間にそれだけの演技力を獲得できる子ちぇんなどそうそうおらず、企画側は設定の根本的な変更を考えていたところにちぇんが業界にデビューしたのだ。
ちぇんの熱演は日本全国を駆け巡り、放送一ヶ月でブームが起きていた。それはこのドラマのコラボ企画である、放送した週で舞台となった日本の観光地にちぇんが行きサイン会を催すというイベントも当たったと言える。
何度かの小休止と昼の休憩を挟み、とっぷり日も暮れる頃になってようやく解放されたちぇんは一仕事終わった後のオレンジジュースをストローから吸い上げていた。
飼い主の夫人は現在、次のちぇんの行く先でのサイン会の段取りの相談をスタッフとしている。一匹だけ置かれたちぇんは、へとへとに疲れた体を机の上に横たわらせてひたすらにぼーっとしていた。
「おつかれさま、ちぇん」
「んにゃ……?」
頭上からゆっくりした声をかけられ、ちぇんは視線を上げた。するとそこには美しい顔立ちをしたありすを連れた人間さんがいる。
見覚えのある顔にびくんと反応したちぇんは、垂直に起き上がってびしっと尻尾を立たせた。
「ありすさんお久しぶりですなんだねー!」
「楽にしてていいわ。ちょっと様子を見に来させてもらっただけだから……」
ちぇんの体を労わるようにありすは言い、机の上に降り立った。
このありすはただのありすではない。見る人が見ればわかる大女優のオーラを放つ、かの五年連続放送し続けている人気ドラマ「ありす探偵事務所」の主演役のありすなのである。
一度ゲスト役としてしか登場していないちぇんはロクに話すこともできない相手だったが、偉大な先輩として尊敬していることに変わりはない。頭を下げて挨拶するちぇんにありすは苦笑いを浮かべた。
「今売り出し中のアイドルがそんなに安く頭を下げちゃいけないわ。それよりちぇん……あまりオレンジジュースさんばかり飲んではいけないわよ」
「え? にゃんでー? オレンジジュースさんを飲むと、疲れもばっちり吹き飛ぶんだよー。これを飲んでないととてもじゃないけど明日もお仕事なんてできないよー。わからないよー?」
飼い主の夫人から与えられたオレンジジュースは、ちぇんにとって欠かせない栄養ドリンクだった。しかしありすは首を振り、飼い主に視線を向ける。
ありすの飼い主であるお兄さんは困ったように笑いながら言った。
「君はまだ生後半年くらいの子ゆっくりだからね。成長途上の体にムチ打つのはいい。けど、それで消費したエネルギーは正規の食事でまかなった方が健康的なんだよ。オレンジジュースは栄養満点だけど、これに頼りすぎるとそのうちオレンジジュースでしか栄養が吸収できない体になるんだ。それも成長途上の体だと、一生に響きかねない」
「ゆにゃー……じゃ、あんまり飲みすぎるのはやめるんだねー。わかったよー」
「それでいいのよ。ところでね。今日は挨拶に来ただけだけれど、このドラマに出るようになってから一度ちぇんにありすは聞いておきたいことがあったの」
「ちぇんにわかることなら、なんだって答えちゃうよー」
「あのねちぇん。ちぇんはなんで、こんなに演技は上手なの……? いえ、本当に演技なの?」
ありすの問いにちぇんは首を傾げた。
ブームの理由は巷で色々と話題にされているが、その一つとして揺るぎないものは「ちぇんの演技力」に尽きた。らんを探し回って時に泣き時に笑うちぇんの姿はとても演技では思えない迫真の出来であり、大女優といわれるありすですら気圧されるものだったのである。
ちぇんはうーん、と考えてからこう言った。
「ちぇんは、本当にパパかママのらんしゃまに会いたいだけだよー。それを忘れないでいれば、みんなが褒めてくれるだけなんだねー。わかるよー」
「そう……いつか本当のパパママに会えるといいわね」
微笑んでそう言い残したありすに、ちぇんは再び頭を下げてさよならと尻尾を振り続けた。
そのちぇんに手を振り返し続けていた飼い主のお兄さんは、ありすがふぅとため息をついたのに気づく。
「おや、どうかしたのかい、ありす?」
「いえ……お兄さん。あのちぇん、この業界にあと何年いられると思う?」
「そうだね……来年の今頃にはいないのは絶対だろうね」
「やっぱり……ああいう純真な子は、ここじゃやっていけないのよね。かわいそうだけれど……」
「飼い主がもう少しまともなら話もしようがあるんだけれどね。ま……ぼくらには、せいぜい引退が幸せな幕引きであることを祈ることくらいしかできないよ」
「りゅうせいに~またが~ってぇ~♪」
「違う、違うわよちぇんちゃん! もっとね、腰はこう! こうよ!」
「わかったよー! がんばるんだねー!」
広間の絨毯をぴょこぴょこ跳ね回りながらおうたを歌うちぇんに、夫人は身振り手振りでダンスの指導をしていた。
ちぇんのデビュー作である「らんを訪ねて三千ゆん」は無事最終回を終え、日本全国の視聴者たちに涙と勇気と感動を与えた。一方、ちぇんはあっちこっちから引っ張りだこのオファーの嵐を受けており、現在は特に歌って踊れるゆっくりを目指して猛特訓中なのである。
ゆっくりが人間に感動を与えるレベルの歌を習得することは至難の業とされている。歌詞をきちんと覚えきることが難しいこと。リズムやメロディに乗せて歌うという概念を理解すること。そもそもゆっくりと人間の音楽感覚は違っているため、人間にとって耳心地の良いメロディは決してゆっくりにとってはゆっくりできるものではないということ。これにさらにダンスが加わるのだから並大抵の努力では公共電波に乗せられるものにはならない。
「だめよ、だめよちぇんちゃん! そんなんじゃてんでダメ! いい!?」
指導に熱が入る夫人のバッグから携帯電話の着信メロディが流れ出した。ちぇんに対する仕事の依頼はまず飼い主である夫人を通してから始まるので、夫人も決して暇ではないのだ。
「ちぇんちゃん、ママはちょっとお電話があるけれど、練習をサボっちゃいけませんわよ?」
「わかったよー! もっともっとがんばるんだねー!!」
全身からだらだら砂糖水の汗を流しながら、ちぇんは夫人の声に応えた。
夫人はちぇんの練習のために流している楽曲の音が会話の邪魔になるので、その場から離れて電話を始める。ちぇんはそんなことにも気づかずひたすら練習に明け暮れており、サッカーボールにも満たない体で広場中を駆け回り跳ね回り歌いまくっていた。
「……やっているね。最近、家にいる間はずっと練習浸けだな、ちぇん君」
「あ、パパさんなんだねー! こんばんはなんだよー!」
夫人の旦那であるこの屋敷の主人に、ちぇんは元気良く挨拶した。
主人もまたちぇんの飼い主の一人ではあるのだが、彼は彼で仕事が忙しくちぇんと顔を合わせ話し合う機会は少なく、今回を含めても片手の指に数えられるほどである。そのためちぇんは少しばかり緊張していた。
ソファに座った主人はそんなちぇんの様子に気づいたのか、自分のネクタイを緩めてにやりと笑う。
「楽にしたまえ。君が私に粗相などすることはないと確信しているし、したとしても追い出しなどしやしないさ」
「は、はいなんだねー。わかったよー」
「まぁ……あれの面倒を見るのはしんどいだろうな。君には本当に感謝している……君が来てからあれに振り回されることが少なくなってね。君の収入もまた、あれの散財を埋めるには十分な額だ。本当に助かっているんだよ」
「きょ、恐縮なんだねー」
「ははっ、君はテレビで見るより思った以上に謙虚だな。いや、私も一応君の主人だからな。普段の君の姿を聞かれて、困ることがあるのさ。……ところでね、ちぇん君」
「んにゃ?」
「あれの指導は真面目に聞かない方がいい」
主人の言葉をいまいち理解できなかったちぇんは、体全体を傾けて「わからないよー?」と答えた。
「アレって……なんなのかわからないよー?」
しかしこの疑問に主人は答えることなく、話の続きを一方的に始める。
「あれの指導はめちゃくちゃだ……ただ君を叱咤激励しているだけで、それだけで自分が頑張っている満足感に浸りたいだけなのさ。君はただ、見本のビデオやきちんとしたダンスや歌の教官たちの言うことを素直に聞いていればいい。そうでないと出る成果も出ない」
「え、えーっと……」
「本来なら無理な練習もやめて、きちんとしたスケジュール通りに休養と練習を繰り返すべきなんだがね。君の場合、他の仕事も掛け持ちしているから自然本来なら休むべき時間を練習に割り当てなければいけない……あれにはそれとなく私から言っておくから、君はあまり無理をせず手を抜くということも覚えた方がいい」
「わ、わからないよー? 手抜きはダメなんだよー。どんな時でも一生懸命がんばらなきゃいけないんだよー?」
「それは違う……いいかいちぇん君。サッカー選手がなぜ90分もあんなに広大なフィールドを走り続けることができると思う? 一人一人の選手をよく観察すればわかる。彼らは自分が必要とされるタイミング、場所を読んで走る速度を緩めたり歩いたりしているものなんだ。そうでなければここぞという時に全力を発揮できない。スタミナ体力に限らず、リソース管理は重要だ。君に欠点があるとすれば、そのリソース管理が下手だということだよ」
「パパの言っていることは難しくてよくわからないよー……だって、がんばれば……がんばれば……」
「ちぇん君。がんばってもどうにもならないことも、世の中にはあるんだよ」
「それは違うよー!!!」
突然叫んだちぇんの様子に主人は目を見開いて驚いた。
ちぇんは自分の中の大切なものを守ろうというかのように、自分に言い聞かせるように呟き始める。
「だって、がんばれば、がんばればいつかきっとママやパパに会えるんだよー……お仕事で会ったらんしゃまは本当のパパでもママでもなかったけど、ちぇんががんばればいつかきっと会えるって言ってくれたんだよー……わかるよー! だから、だからちぇんはいつでもどんな時だって手なんか抜かないよー! がんばってがんばってがんばり続けるよー!!!」
「……そうか。すまない。失言だったよ」
「ゆにゃ……? い、いえちぇんこそパパさんに失礼だったんだねー。ごめんなさいなんだねー」
「いいさ。……ま、それより練習の邪魔をしてすまなかったね。引き続き、がんばってくれたまえ」
「はいなんだねー!」
威勢よく主人の励ましの言葉に答えたちぇんは、再び練習に没頭し始めた。
一方席を立った主人は携帯電話を取り出し、手持ちの手帳をめくりだした。
「……確かあれがあのちぇんを買ったところはどこだったかな……」
「お疲れ様でしたーっ」
「おつかれさまでしたーっ」
スタジオの収録が終わり、ゆっくりも人間もめいめいに楽屋裏へと戻り帰り支度や次の仕事の用意を始めていた。
そんな中、ちぇんは自分にあてがわれた部屋のクッションでぐったりと横たわりか細い呼吸を繰り返していた。
「何やってるのちぇんちゃん! ほらっ、立ちなさい! 今日のここの番組が終わったら、次は雑誌のインタビューがあったでしょ! それからその後はラジオに出て、新曲の練習もしなきゃいけないんだから! 休憩時間はまだ! サボろうったってダメよ!」
「わ、わかる……よー……で、でも。あと、あと10秒でいいから……」
「いいえ、今すぐ立ちなさい! 早く!!」
ばしっ、と夫人にビンタを入れられたちぇんはクッションから転がり落ち、べっちゃりと床に這いつくばった。
ちぇん自身は全身に力を入れ、立ち上がろうとしている。しかしなぜか全く力が入らず、まるで陸に揚げられたクラゲのようにちぇんは力なく倒れこんでいるのだ。
(なんで? どうしてなのー? 番組さんを録っている時はなんにもなかったはずなのに……わからないよー!!)
心の中でちぇんは叫ぶ。いや、本当は声に出したいくらいなのだが、それすらできないほどに体が言うことを聞かないのだ。
もしゆん医がちぇんの普段の生活を知り、この状態を見たのなら原因は一発で特定できただろう。
ちぇんは精神性脱力症状にかかっていた。日々度重なる苦労と疲労に心労、それを癒すことも許されない詰め詰めのスケジュール、飼い主にファンや仕事に関わる人々への期待に応えなければいけないとうプレッシャー、いつ限界が来てもおかしくないはずだったのだ。
その張り詰めていた限界の糸が今、一仕事が終わって楽屋裏に入りほんの少しだけ気を緩めたとたんに切れ、ちぇんの体の制御権を奪った。
現在ちぇんは、もうこれ以上の仕事をこなすと死んでしまうという本能的な直感から体を強制的にスリープ状態にしたのである。
だが残念なことに、その事実を理解している者はこの楽屋裏にちぇん自身を含め一人もいなかった。
「ママ、ちぇんちゃんには失望しました! こんなことしてママに迷惑かけるだなんて! 疲れているフリなんかしたってダメよ!」
(ママが怒っているんだねー! 早く起きなきゃだめなんだねー! ちぇんはもっともっとがんばるんだよー! がんばらなきゃいけないんだよー! なんで動けないんだよー! わかれよー!)
必死の心の叫びも虚しく、ちぇんの体は一ミリ足りとて動かない。そんなちぇんの様子にヒステリックな声で渇を入れようとする夫人の声に気づいたのか、ドアが開き一匹のまりさを連れた若い女が入ってきた。
「どうしたんですかー……って、ちぇんちゃん!? わ、だ、大丈夫なんですか!?」
「何よあなた、勝手に入って来ないでちょうだい! ほらちぇんちゃんも、みっともない格好晒してないで早く立ちなさいってば!」
夫人が地団駄を踏むようにちぇんの目の前にヒール靴を叩きつける。それをまぁまぁと若い女はなだめ、その間に女の手から床に下りたまりさはちぇんを見下ろした。
「ゆー。ちぇん、無理しすぎたんだぜ。ありすが言っていた通りだったんだぜ」
(ゆにゃ……まりさ先輩?)
そのまりさは、先ほどのバラエティ番組でも共演し、ちぇんにとってのデビュー作である「ありす探偵事務所」でもレギュラーとして出演しているまりさだった。
まりさは夫人と女のやり取りをちらりと後ろ目で見てから、こっそりと帽子から三角に折られた紙包みを取り出した。
「ちぇん、これをやるんだぜ」
(……なぁにこれぇ? わからないよー?)
「この白い粉さんを吸えば、疲れだって一発で吹き飛ぶんだぜ。……でも、誰にも内緒だぜ? また欲しくなったらまりさに声をかけるといいんだぜ……」
そう言いながらまりさは自分の体で紙包みとちぇんの口元を隠し、中身の粉をちぇんの鼻や口に吹きつけた。
ちぇんの半開きの舌が白い粉――小麦粉を受け止め、唾液で溶かし、喉の奥に滑り込んだ。すると見る見るうちにちぇんの体に精気が漲り、肌に艶が照り、帽子は張りを取り戻し、尻尾は力強く立ち上がった。
「わっかるよおおおおーーー!!!」
「ちぇんちゃん? もう、いつまでもふざけているんじゃありませんよ! ママ、本当に怒ってしまいますからね!」
「ごめんなさいなんだねー! でも、もう大丈夫なんだよー! 問題ないんだねー!!」
元気良く立ち上がったちぇんはそんな調子で夫人に抱きかかえられると、何事もなかったかのように楽屋裏から出て行った。
その時わずかにちぇんはまりさへと振り返ったが、まりさはいたずらっぽくウィンクするだけで飼い主の若い女も人差し指を唇に当てていた。
残されたまりさとその飼い主は、一人と一匹でくつくつと笑い出す。
「……うふふ、なんてバカな子。なーんて餡子脳なババァなのかしら。ねぇまーりさ♪」
「おねーさんの言うとおりなんだぜ。へっへっへ、このまりさ様を差し置いてあのちぇんはちょっと調子に乗りすぎたんだぜ」
「そうよねぇ~、わかるわー。さ、これから私たちであの子に芸能界の素晴らしさってものを教えてあげなくっちゃね」
それから三日後、再びちぇんは同じように倒れた。
今回ばかりはまりさの助けが入らず当日の仕事を全てキャンセルしゆん医に運び込まれたちぇんは、一週間の療養を言いつけられた。
だが大人しくちぇんが休むはずもなかった。
「ねえママ~。まりささんと連絡を取りたいんだよ~」
「何? ちぇんちゃん何か用なの?」
「まりささんは健康の秘訣を知っているんだねー。ちぇんはそれを教えてもらいたいんだよー。わかってねー」
「うーん……そういうことなら仕方ありませんね」
そうして、当日まりさとその飼い主の女はちぇんの見舞いにやってきた。
人間は人間同士、ゆっくりはゆっくり同士で話を、と女は夫人に話を持って行き、ちぇんとまりさは応接室で向かい合って話を始める。
「まりささん~。あの白い粉さんがまた欲しいんだよー。わかってねー」
「ゆへへ、いいぜちぇん。かわいい後輩が困ってるんならまりさも放っておけないんだぜ。それじゃ、今日はこれだけ置いていくんだぜ。一気に吸っちゃだめだぜ? 一日一回一つっきりだぜ? まりささんとの約束だぜ」
「約束なんだねー。わかったよー」
そう言って一週間分の包みを受け取ったちぇんだったが、結局粉は五日で切れた。
ただでさえちぇんの体は既に限界を迎えたのである。それを無理矢理動かしているのだから、規定の量だけで補えるものではない。ましてや常用すれば麻薬というものは耐性がつく。
ちぇんが渡された粉は、ただの小麦粉だ。だがゆっくりにとってはなぜか人間にとっての麻薬と似たような効能を示し、疲労や痛みを和らげ精神状態を良くする効果がある。適切適量をゆん医の指示の下に使用すれば健康に害を及ばさないが、常用し続ければやがて小麦粉無しでは精神状態が落ち着けず、常に倦怠感を伴うといった禁断症状に悩まされることになる。
一週間後、まりさと落ち合う約束をつけていたちぇんは二匹っきりになった楽屋裏の個室でまりさに縋りついた。
「まりささぁ~ん! たすけてほしいんだよ~! しろいこなさんがほしいんだねー! わかってねえぇ~~!」
「はぁ……あの白い粉さんも結構高いんだぜ? それをタダで何度も貰おうだなんて、ちぇんは都合が良すぎるんだぜ」
「それならママにいってくれればおかねははらってくれるんだねー! もう、しろこなさんをすわないとちぇんはあたまがぐーるぐるしてげーろげろなきぶんでいーらいらするんだよー! あしたもがんばれないんだねー! わかってよぉ~~!」
「ゆへへ……お金なんていらないんだぜ」
「ゆにゃ……? わからないよー。それじゃ、ちぇんはなにをはらえばいいのー?」
「それは……ちぇんの体で払ってもらうんだぜ!!」
「ゆにゃああ!?」
突然覆いかぶさってきたまりさを避けきれず、ちぇんは壁に押しつけられた。はぁはぁとまりさの荒い息が耳をくすぐるが、ちぇんは抵抗する体力など残っていない。
「まりささん! やめてほしいんだねー! かってなすっきりは、ゆ、ゆっくり、できな、できなぁっ」
「ゆへへ、そう言いながらちぇんのまむまむはまりさのぺにぺにを咥えて離さないんだぜ! す、す、すっ」
「「すっきり~~~~~!!」」
そして、結局ちぇんはまりさに強制的なすっきりを強要され、三回ほどその胎内に精餡を流し込まれた。
息も絶え絶えで動けず、実ゆをぶら下げた茎を三本生やしたちぇんにまりさは帽子の中から大量の粉が入った包みを落としてやる。
だがちぇんはそれを拾い集め吸う気力も体力も残っていなかった。
「ちぇん、中々良いまむまむだったんだぜ。お礼の粉さんはそこに置いておくから、いくらでも吸えばいいんだぜ。あ、でもぐったりしているみたいだから親切なまりささんは人を呼んできておいてあげるんだぜ~♪」
そして十分後、まりさの飼い主の誘導で部屋の中に入ってきた数人のゆっくりの飼い主とスタッフたちはまむまむから精餡を垂れ流し麻薬に溺れ妊娠中の体でぐったりするちぇんの姿を見つけたのであった。
ちぇんのスキャンダルなその姿はまりさの飼い主によってデジタルカメラで撮影され、ゴシップ雑誌に売られ、ネットに流出し、テレビで幾度も放送された。
「らんを訪ねて三千ゆん」で素直で純真でひたむきに夢を追いかけ続けるちぇんが、肉欲とドラッグに溺れ堕落しきったようにしか見えない姿につい昨日までちぇんのファンであった人々は好奇と嫌悪の視線を浴びせかけた。また、今までちぇんに対して一言も言及したことのなかった『事情通』はこの行いと体たらくをなじり、今まで全く顔も声も出なかった『関係者』は訳知り顔で過去ちぇんが犯した些細なミスを誇張表現で伝えた。
そんな世間の評判を知らず、堅牢なケージの中に閉じ込められたちぇんは傷だらけの体を這いつくばらせ、あふれ出る涙を流れるままにしていた。
既に生後一年近くになるちぇんは成体と言っても良いサイズなのだが、ただでさえ小柄なちぇん種の中でも半回りほど小さい体で成長が終わってしまった。その小さな体の皮膚にはあちこちに引っかき傷が刻まれ、打ち身のせいでへこんでおり、テレビの中で笑顔を振りまいていた美しい面影はなく、まるでそこらの野良が人間にボコボコにされた後のようだった。
そんな満身創痍のちぇんの傷の中でも、特に痛々しいのは額の皮膚ごとひっぺがされた直径十センチほどの傷痕である。
ちぇんはその傷痕をいつまでも見上げ、時折
「おちびちゃん……ちぇんのおちびちゃん……かえしてよぉ……」
と嘆くのだった。
ちぇんの惨状の第一発見者が事態を仕組んだまりさの飼い主だったことは、ある意味ちぇんにとって不幸中の幸いと言えた。
第一発見から即ゆん医に運び込まれ治療を受けてから、ようやくちぇんは夫人と面会できた。信頼していた先輩役者に裏切られ、処女を奪われ、望まぬ子を孕まされ、身も心もズタボロになったちぇんは世界中で誰よりも敬愛し絶対なる信頼を寄せる飼い主の夫人に会ったとたん、今まで張り詰めていた緊張の糸が切れ「ままぁ~~!!」と飛びつこうとした。
そのちぇんを、面会を許可したゆん医の前で夫人はしばき倒し踏みつけネイルアーティストにケアさせている爪で引っかき何度も床に投げ落とした。
『よくも私に恥をかかせてくれたわねェえ!!』
ぽかんとして呆気に取られるゆん医が夫人を取り押さえようとしたとたん、彼女はちぇんの額の茎を掴み取り、全て引っこ抜いてしまった。
再び治療を受け、ちぇんは一週間後退院させられた。ゆん医はちぇんの身柄を要求する夫人を拒否したが、法的に訴えるという脅しを跳ね除けることはできず、引き取られ家に帰ったちぇんはまるっきり虐待用に飼われたゆっくりと同じような生活を送らされている。
それでもちぇんは、自分の体の痛みならいくらでも耐えられた。どうしても耐えられなかったのは、失った我が子たちのことであった。
「おちびちゃん……おちびちゃあん……」
ちぇんには夢があった。それはいつか両親を探し出し一緒にゆっくりした幸せな暮らしを送るというものである。
だが、自分が大人になっていくにつれ、子どもを作れるようになったと自覚し始めてからやがてもう一つの夢が芽生えてきたのである。
それは、自分が受けられなかった親の愛情を我が子に思う存分与えてあげること。一緒に幸せな暮らしをすること。
もちろん、ちぇんの望むお婿さんは格好のいい素敵ならんしゃましか考えていなかった。それが予想外の悲劇で望まぬ子を抱えてしまったわけだが、それでも我が子であることに変わりはない。
ちぇんは夫人に何度も我が子を返してくれと頼んだ。そのたび夫人のちぇんに向ける暴力は苛烈さを増した。
『この淫売猫め! 育ててあげてあれほど人気者にしてあげた恩を仇で返して!」
皮肉にもひっきりなしに夫人あてにかかってくる電話がなければ、ちぇんはとっくの昔に死んでいただろう。もっとも、その電話がまた夫人を苛立たせることになっているのではあるが。
アイスピックでずたずたに突き刺しまくられた耳が、かつ、かつ、という靴音をとらえた。それに怯える気力も体力もちぇんはもう失っていた。ただ、おちびちゃんを守れず一緒にゆっくりさせてやれなかったという申し訳なさでいっぱいだった。
「ちぇん君。しっかりしたまえ」
そういう低い声と共に、ちぇんの頭にびちゃびちゃと何かがかけられ全身の傷が塞がり体に力がみなぎるのをちぇんは感じ取った。
頭から流れる雫を舐め取ると、それは濃縮されたオレンジジュースだとわかった。
額の傷痕から焦点を少しずらすと、そこには上等なスーツを着た主人が空になったオレンジジュースのパックを付き従っている秘書に渡している姿が見えた。
「……ぱぱさん?」
「いや、今日から私はもう君のパパではない。ただのおじさんだ。いいかい、ちぇん。今から君をここから出してやる。そのかわりバッジは貰う。君は今日からうちの飼いゆっくりではなくなる。ただの野良ゆっくりだ。……そうだ。私は君を捨てるんだ」
「……そんなこと……しなくていいんだねー……ちぇんはもう……おちびちゃんをなくしたちぇんは……なにもしたくないよー……」
それを聞いた主人は秘書に目配せした。すると秘書は抱えていた小さな箱を開け、中身のピンポン玉ほどのボールを主人に渡す。
そのボールを、主人はケージの隙間からちぇんの前に置いてやった。
「ゆや!? わきゃりゅよー! おきゃーしゃんにゃんだねー!!」
「ゆえ……おちび……ちゃん?」
「わきゃりゅよー! ゆっくちちぇいっちぇね!!!」
小さな小さな赤ちぇんが、これ以上ないほどゆっくりした笑顔を浮かべていた。
長い間離れており、誕生の瞬間にも立ち会えなかった。それでも親子は一瞬にして、お互いを親子だと認識した。
「おちびちゃん!! ちぇんのおちびちゃんなんだねー! わかるよーー!!!」
「おきゃーしゃん! おきゃーしゃーん! あいたきゃったんだにぇー! わきゃりゅよー!!」
「すまない。オレンジジュースに浸した茎から無事生まれたのは、その子だけだった。今日から野良ゆになる君には大きな負担となるだろう。だが、それでも君には何よりも力強い今を生きる希望となるはずだ」
「はい! はいいぃぃ! ありがとうなんだねー! とっても、とってもありがとうなんだねー!!」
「にゃんだねー!!」
「それじゃあちぇん。バッジを、貰うよ」
主人はちぇんのおぼうしに手を伸ばし、ピンで留められたバッジを外し胸ポケットに入れた。
ケージの鍵を開け、主人はちぇんを秘書に持たせていた箱の中に入れる。そうして秘書だけをこの場から送り出し、入れ替わって部屋の中に入ってきた部下が持ってきた傷だらけのちぇんにバッジを着け、ケージの中に閉じ込めた。
「社長、このようなことをして奥様にバレないのでしょうか」
「問題ない。あれがほしいのはただのサンドバッグだ」
「では、ないと思いますがあのちぇんが芸能ゆのちぇんだと言って、信じる人間が現われたならばいかが致しましょう。そうなれば我が社の信用にも響きかねないスキャンダルに発展しかねません。あのちぇんを助けて、一体社長になんのメリットがあるのか私には理解しかねます」
「何を言ってるんだ君は。私は本気であのちぇんを助けるつもりなら、信用できる部下……例えば君に飼ってもらうよう頼むよ」
「はい? ならば、なぜ」
「君に負担をかけたくなかったからな。迷惑だろう?」
「はぁ」
「端的に言って、どうでもいいんだよ私は。野良ゆっくりの言うことを真に受けて我が社に影響を与えるほど大きい声で叫べる人間がいるのならば、むしろぜひお目にかかりたいものだ」
そう言って社長は煙草をくわえた。
(野良ゆ編へ続く)
飼いゆ 現代 10作目
「ねぇおにーしゃん。しちゅもんがありゅんだねー」
「はいなんですか?」
「ちぇんのパパやママにはいちゅあえるようににゃるのー? わからにゃいよー……」
ゴルフボールサイズほどの赤ちぇんはゆっくりトレーナーの青年にそう質問し、少し寂しげに尻尾を垂らした。
赤ん坊のゆっくりが好みそうなおもちゃやベッド、それに《まよひがハウス》が揃った十畳ほどの部屋に、青年と赤ちぇんは一人と一匹だけで対面して座り込んでいた。チリ一つないカーペットに染み一つない真っ白な壁はペット用部屋でないとしても清潔なものであり、逆に言えば生物的な匂いが全くしない人工的な空間とも言える。
この部屋でちぇんは茎から産まれ落ち、この部屋で産まれてからの三日間をちぇんは過ごしてきた。
その間、他の個体のゆっくりは見てもいない。
(目は開けたまま……しかしぼくの目を見て言っていない。尻尾は元気が無い。ため息は……あったな。しかしぐずって喚き散らすほどではない。ぼくの言いつけをきちんと守ろうとする意思の方がまだ勝っているというわけか。生後三日目だから両親への想いを断ち切れないのは当然だな。その気持ち、どの程度のものか確かめてみるか)
にこりと優しく笑った眼鏡の奥の瞳で青年はちぇんの様子からそれだけの情報を読み取ると、穏やかな声で話しかけた。
「ちぇんはお父さんやお母さんに会えたら、何をしたいんですか?」
「すーりすりしちぇ、ゆっくりしちゃいんだねー! わかりゅよー!」
「そうですね。きっとゆっくりできますよ。ところでちぇんのお父さんやお母さんは、どっちかはちぇんだというのは間違いないとは思うんですが、もう片方はどんなゆっくりだったらゆっくりできますか?」
「え? しょれは……やっぱりらんしゃまにゃんだねー! わきゃりゅよー!」
そう元気よく言ったちぇんに、青年はそうですねきっととってもゆっくりしたらんしゃまに違いないですよ、と適当に流しながら
(自分の両親も受け継いだ餡子から読み取れもしないし、平凡だなぁ……。せっかく希少種の中の希少種のゆかり種と、プラチナバッジのらんの交配に成功したっていうのに、せいぜい平均的な金バッジクラス程度のちぇんしか産まれなかったなんてな。これだから希少種同士の交配はリターンが少ないんだ。これならぼくがどれだけがんばっても五十万くらいが限度かな……全く、こんな奴のせいで丸々一週間もこんな所に拘束されるなんてやってられないよ。違う職場探した方がいっかなー)
などと考えていた。
「らんしゃまは、パパがいいんだねー! ちぇぇぇん! っていっちぇもらっちぇ、たきゃいたきゃいさんしちぇほしーんだねー! それから、それから……」
ちぇんの語る夢をうんうんと青年は相槌を打ち、きっと優しいご両親ですよ、きっとちぇんがいい子にしていたらいつか会えますよ、などと言って流していた。
ちぇんはがんばった
ブランド物でフル装備したその女を出迎えて、青年は「あ、こいつドラクエ5やると息子に天空装備させたまんまエスタークに突っ込ませるタイプだな。吹雪の剣とかわかんねーんだろーなぁ」と直感的に判断した。
どこぞの社長夫人だとかいうその女はソファに脚を組んで座り込んだ。その靴がヒールだということに気づき、青年はげー、とげんなりする。ゆっくりを飼いに来た人間が、ヒールなんて赤ゆっくりを一撃で踏み殺しそうな凶悪なものを履いてくるなどありえない。
「お客様はちぇんをご所望でしたね」
「ええ、ええ。いいですよねー、かわいいですよねー。あの『わかるよー』っていうのが。あとあのネコっぽいお耳とか尻尾さんとか! あ、でも、あれ、なんていうですか。ほら、えーと……あの緑色の髪の……そうそう、ゆかりんにゃんでしたっけ。あれはなんか嫌ですわよね。『ゆかりんにゃんだにゃん』だなんて、まるでキャラ作っているみたいじゃありませんか。こういってはなんですが、まるで下品なメイド喫茶の風俗嬢のようではありませんか。やはり人間もゆっくりも自然が一番ですわ」
「ええ、まことそのとおりです。我が社で育てたゆっくりは皆一匹一匹のんびりとトレーナーと一対一で育てた、ゆっくりらしい自然さと行き届いたしつけを兼ね備えた個体ばかりです」
「ねぇあなた」
「はい?」
立て板に水と話していた最初の言葉と打って変わって冷たい口調で社長夫人は営業の青年に話しかける。
「その『個体』っていうの、やめていただけませんこと?」
「もうしわけございませんでした」
「わかればいいのよ。なんというんですか。その、まるで研究機関のようじゃありませんか。悪趣味な加工所じゃないのですから、もっと愛を持った言い方をしてくださらないと、気分が悪くなっちゃうじゃありませんの」
「以後、気をつけます」
「それで、いつになったら私のちぇんちゃんを見せてくれるのかしら」
「はい。登嶺くん、入ってきて」
「はい」
眼鏡の青年が隣の部屋から入ってきて、二人の間を挟むテーブルの上に胸の前に抱えていたバスケットを降ろした。
その中に入っているものを見て、社長夫人はいやーん、と黄色い声を上げる。
「まぁかわいらしい!」
「んにゃ……?」
バスケットの中で眠りこけていたちぇんは、社長夫人の声で目を覚まし、物音のする方へと体を向けた。
野球ボールほどのサイズまで育った生後二週間前後といったところの赤ゆっくりである。ちぇんはまだ短い尾を立ててにっこり笑い、社長夫人に挨拶した。
「おはよーなんだねー! ゆっくりしていってねー!!!」
「はぁい、ゆっくりしていってねー」
「わかるよー! おねーさんはとってもゆっくりしているんだねー!」
既に赤ゆ言葉が抜けた饒舌な口調でちぇんは会話していた。「おいおいこりゃどこからどう見てもおばさんだろうがよ。お姉さんっていうように躾けたの俺らだけどさ」と青年二人の内心のツッコミは当の本人たちに届くはずもなく、社長夫人はトレーナーに声もかけずちぇんをいきなり手の平に抱き上げた。
しかしちぇんは初対面の相手の手の平に乗せられても驚いたり慌てたりすることもなく、器用にバランスを保ち、にこにこした笑顔を維持し続けている。
「ちぇーんちゃん。今日から私があなたのママでちゅよー」
「うにゃあん、くすぐったいんだねー! でも、気持ちいいんだよー、わかるよー!」
「あ、お客様。他のちぇんもご用意できますが。一通り見てから決めていただいても――」
「もう! 黙りなさいよ! 私は今ちぇんちゃんとお話ししているの! そんなことも見てわからないのかしら!?」
結局、一通りの手続きを終えて一時間後にはちぇんは社長夫人のリムジンに載せられて行ってしまった。
後に残された営業の青年とトレーナーの青年はうんざりした様子で息を吐く。
「でいぶってさ……いるよな」
「うん、人間にもね」
「いや、俺はさ。あのババァに実の子どもいなくて、ゆっくりを代用品にしようってんなら、めっさ歓迎するわ。俺いくら金持ちでもあれおふくろってイヤ。絶対イヤ。死んでもイヤ」
「あのちぇん、ロクなゆん生送らないだろうけどね」
「あー、まぁそうだな。って、あのちぇん育てた登嶺くんにこういうこと言うの無神経だったか。ごめんな」
「いや、別にいいよ。いちいち情なんて持っていたらこの商売やってられんし。それにしても、隣の部屋で聞いていたけどあれは傑作だったね」
「んあ?」
「ほら、ゆっくりも人間も自然が一番って」
「ああ、あれな。俺もフォローするべきか吹くべきか迷ったわ」
「生まれてから一切他のゆっくりには触れさせず、人間に飼われやすい金バッジゆっくりだけを卸す……ウチってそういう所でしょ? そんなところに来ておいて、何が自然だよ。自然がいいなら野山のちぇんに会いに行って、わかれよーって言われて来いって話さ」
「わかんねーだろうさ、あの手の人間は。自分の気持ちを理解するのは求めるくせに、自分は誰の気持ちも汲み取ろうとはしない。そんな奴は人間でもゆっくりでもゲスに違いないが、なぜか人間の場合そういう奴はそのまんまでしあわせー、な一生送れたりするからわけわかんねーよ」
「わかるよー」
死んだ目で愚痴をこぼし合った二人はため息をつき、各々の仕事に戻って行った。
社長夫人に買われたちぇんは彼女の多大な愛情を注がれながらすくすくと育っていった。
生まれ育った部屋以上に広いお部屋がいくつもある邸宅がちぇんの新たなおうちとなった。毎日メニューが変わる美味しい食事にねだらなくても数え切れないほどに買い与えられるおもちゃ、ちぇん専用のふかふかクッションが与えられ、毎晩夫人と同じベッドで眠る。毎日のシャワーとブラッシングは欠かされたことがなく、いつもさらさらヘアーにふっかりとしながらピンとしたおぼうしを被る実にゆっくりとした姿をしていた。
そしてちぇん自身もそんな全てが過不足なく与えられる生活に驕ることも調子に乗ることもなく、夫人に対する感謝と愛情の気持ちを忘れることがなかった。十世代以上に渡って続けられた躾と性格の選別の餡子血統は、値段相応の価値をちぇんに付与していたのである。
ゆっくりでなくとも人間ですら羨む生活を送るちぇんだったが、しかし不満が一切無いと言えば嘘になった。
「ちぇんちゃーん。ママと一緒におでかけしまちょーね!」
「わかるよー! お出かけさんはゆっくりたのしみなんだねー!」
昼寝をしていたちぇんは夫人の手に載せられ額にキスをされた。その際、例えばゆっくりに対する観察眼が鋭いトレーナーやブリーダーならちぇんのわずかな表情の強張りに築いただろう。
人間にとっても香水の匂いは好き嫌いがあり、子どもならば大抵の銘柄は『嫌な臭い』とバッサリしてしまうことは珍しくない。ゆっくりも例外ではなく、至って普通のOLが捨てゆっくりをかわいそうにと思って近づいただけで「くしゃひぃぃぃ~~!!」と逃げられることすらもあるのだ。
夫人にキスをされたり頬ずりをされるたびちぇんは鼻がひん曲がるような思いをするハメになっている。それを飼われてからの一ヶ月間、一度も言葉にするどころかわずかに唇を引きつらせる程度に抑えている根性は、人間で例えるなら夏場常時サウナに入っているかのように汗気を立ち昇らせているメタボな上司に笑顔で対応し続けているリーマンを想像していただければわかっていただけるであろうか。
「それじゃちぇんちゃん、いつもの所にお座りしてね。じゃ、しゅっぱーつ♪」
「出発なんだねー、わかるよー!」
車のダッシュボードに乗せられたちぇんは、徐々に加速していく風景を窓ガラス越しいっぱいに見ながらやっぱり唇を引きつらせていた。もはやプロでなくとも、普通のゆっくり好きが観察していればわかるほどに笑顔が堅くなっているのだが運転に集中している夫人は全く気づいていない。
彼女はただ単に自分が運転している時もちぇんを愛でたいから視界の端に置いているだけなのだが、ゆっくりを車のダッシュボードに載せるなど虐待も同然の所業である。すぃーを用いたゆっくりレースが世の中にはあるが、そのすぃーですら最高速度は概ね水平な道路におけるママチャリの本気漕ぎ程度とそんなに差はない。にも関わらず、レーサーになれる素質を持つゆっくりは少ない。なぜならその速度で感じる吐き気を催すほどのストレスを抑えられる個体はごくごく限られるからだ。
ましてや時速60kmにも80kmにもなる車などにまだ生後三ヶ月かそこらのゆっくりを載せれば、死に至ってしまう個体すら珍しくない。
「ねぇちぇんちゃん、このバッグなんかどうかしら?」
「ママさんは何でも似合っちゃうんだねー。わかるよー!」
到着したデパートのブランドバッグ売り場で夫人は肩に載せたちぇんに話しかけ、人間のファッションセンスなどよくわからないちぇんは適当におだてて流していた。
するとその様子に気づいた店員が少し困ったように愛想笑いを浮かべながら、夫人に話しかけてくる。
「お客様。申し訳ございませんが、当デパートの中にペットの連れ込みは……」
「何? うちのちぇんちゃんの金バッジが見えないの!? そんじょそこらのゆっくりと一緒にしないでくれる? うちのちぇんちゃんは一個だって粗相なんかしたことがないんですからね!!」
「いえ、ですが……」
耳の奥がキーン、となるほどの大声に店員は肩を小さくした。そしてけたたましく喚いた夫人の肩で何事もないかのようにバランスを保ち、けろっとしているちぇんの様子に内心で舌を巻く。
もちろんちぇんが一切ストレスを感じていないわけではない。それ以前に、がやがやとやかましく自分より何十倍も大きい人間という怪物がひしめくように右往左往し、時には子どもが喚き散らしながら駆け回るようなデパートという空間自体がゆっくりにとってはストレスなのだ。
車での移動から始まり、ここまで来るともはやちぇんのストレスは飽和状態となり一時的に何も感じなくなっているのである。その反動は当然他の所に出ており、ちぇんが夫人の気配に気づいて素早く目を覚ますのも勘が良かったり感覚が鋭いだからというわけではなく、単に眠りが浅いからである。
また、生後三ヶ月にもなっていくら体格の小さいちぇんと言えど、中年女性の肩に余裕で乗れるというのは少々成長不全といえる。このままちぇんが成体となれば他の個体よりずっと体力が無く、病気にかかれば対抗する力もなく一発で逝ってしまう貧弱な体に育ってしまうだろう。
「ゆっくりだからってこの店は追い出すの!? 支配人呼びなさいよ! 直接話しつけてやりますわ!」
大声で喚き散らす夫人は周囲の人々から好奇の視線を浴びていた。その中にはちぇんに対する視線も含まれており、同情や感心といった感情が含まれていた。
と、その感心の目を向けていた若いスーツ姿の男が、にこやかな笑顔で店員と夫人の間に
「素晴らしい!」
と歓喜の声を上げながら近づいてきた。
男は夫人から険のある視線を向けられたが、次の瞬間彼女の態度は軟化した。理由は一つ。イケメンだったからである。
「なんてしつけの行き届いたちぇんちゃんでしょう。感激しました。あ、すみません、申し送れました。わたくしこういうものです」
出された名刺を夫人は読み上げた。
「ペット芸能プロダクション ゆっくりん事務所所属プロデューサー 風路(ふうろ)出由(いずよし)……?」
「はい。おたくのちぇんちゃん、芸能ゆにしてみませんか?」
爽やかな笑顔を浮かべる風路という男を、ちぇんはハイライトの消えた目で見上げた。
海面に直立する鳥居は夕焼けに照らされオレンジに輝き、潮風がそよいでいた。
テトラポッドに乗って二本の尻尾を垂れ流し鳥居を見つめていたちぇんは、やがてがっくりと下げていた表情をキッ、と上げた。
「落ち込んでちゃだめなんだねー。ここにもママはいなかったけど、きっと次の街にはいるはずだよー。次の街にもいなくたって、次の次の街にはきっと……」
そう自分に言い聞かせてテトラポッドを駆け下りたちぇんは夕陽に向かって叫んだ。
「ちぇんは絶対諦めないよー! 明日もきっと、がんばるんだねー! わかるよーーー!!」
そしてちぇんは駆け出した。いずこともなく――
エンディングの流れ出した液晶画面の傍で、ちぇんはくわえたハンコを朱肉に突き、続いてサイン色紙にぺったんと押し込んだ。
「ありがとうなんだねー! 来週も絶対見てほしいんだねー! わかるよー!」
「はい、絶対見ます! ありがとうございます!」
サインを貰った女性は握手のかわりにちぇんの尻尾を軽く握った。
そして列の次の相手がちぇんの前に現れ、再びサイン色紙が机に置かれる。
厳島神社の見える海岸に用意されたサイン会場には長蛇の列ができていた。中にはちぇんの画像がプリントされたTシャツを着込んだ人物も混じっており、熱狂的な人気があることが伺える。
ちぇんの姿が地上デジタルの電波に乗り、全国のお茶の間に現れるようになってから二ヶ月ほどが経過した。
芸能ゆっくりとは俗称で、タレントゆっくりともモデルゆっくりとも言われている。主にCMやポスターなどの仕事をこなすゆっくりであるが、時にテレビ番組に出演することもある。ちぇんはその中でも異例の速さで人気を獲得した天才俳ゆんと言えた。
ちぇんが最初にテレビ番組のオファーを獲得したのは「ありす探偵事務所」というゆっくり主演の連続ドラマ番組のゲスト役であった。たまたま子ちぇんの役が必要とされており、そのオーディションに受かったことでちぇんの人間の言うことを忠実に聞く能力の高さが評価されたのだ。
そしてその時、もう一つゆっくり主演のドラマ番組の企画が進んでいた。「らんを訪ねて三千ゆん」というその番組のストーリーは、不治の病気を治療するためと親元から離された飼いゆっくりの子ちぇんが、母親のらんを探して日本全国を放浪するという内容である。旅先でちぇんは様々なゆっくりと出会い、助け助けられることで成長してゆく冒険譚であるのだが、脚本は既に最終回まで完成していても主演の子ちぇん役が見つかっていないのが問題であった。
何せ脚本の出来は良い分ゆっくりに要求される演技力の高さも大きかったのだ。生後三ヶ月からせいぜい九ヶ月程度といった短い期間の間にそれだけの演技力を獲得できる子ちぇんなどそうそうおらず、企画側は設定の根本的な変更を考えていたところにちぇんが業界にデビューしたのだ。
ちぇんの熱演は日本全国を駆け巡り、放送一ヶ月でブームが起きていた。それはこのドラマのコラボ企画である、放送した週で舞台となった日本の観光地にちぇんが行きサイン会を催すというイベントも当たったと言える。
何度かの小休止と昼の休憩を挟み、とっぷり日も暮れる頃になってようやく解放されたちぇんは一仕事終わった後のオレンジジュースをストローから吸い上げていた。
飼い主の夫人は現在、次のちぇんの行く先でのサイン会の段取りの相談をスタッフとしている。一匹だけ置かれたちぇんは、へとへとに疲れた体を机の上に横たわらせてひたすらにぼーっとしていた。
「おつかれさま、ちぇん」
「んにゃ……?」
頭上からゆっくりした声をかけられ、ちぇんは視線を上げた。するとそこには美しい顔立ちをしたありすを連れた人間さんがいる。
見覚えのある顔にびくんと反応したちぇんは、垂直に起き上がってびしっと尻尾を立たせた。
「ありすさんお久しぶりですなんだねー!」
「楽にしてていいわ。ちょっと様子を見に来させてもらっただけだから……」
ちぇんの体を労わるようにありすは言い、机の上に降り立った。
このありすはただのありすではない。見る人が見ればわかる大女優のオーラを放つ、かの五年連続放送し続けている人気ドラマ「ありす探偵事務所」の主演役のありすなのである。
一度ゲスト役としてしか登場していないちぇんはロクに話すこともできない相手だったが、偉大な先輩として尊敬していることに変わりはない。頭を下げて挨拶するちぇんにありすは苦笑いを浮かべた。
「今売り出し中のアイドルがそんなに安く頭を下げちゃいけないわ。それよりちぇん……あまりオレンジジュースさんばかり飲んではいけないわよ」
「え? にゃんでー? オレンジジュースさんを飲むと、疲れもばっちり吹き飛ぶんだよー。これを飲んでないととてもじゃないけど明日もお仕事なんてできないよー。わからないよー?」
飼い主の夫人から与えられたオレンジジュースは、ちぇんにとって欠かせない栄養ドリンクだった。しかしありすは首を振り、飼い主に視線を向ける。
ありすの飼い主であるお兄さんは困ったように笑いながら言った。
「君はまだ生後半年くらいの子ゆっくりだからね。成長途上の体にムチ打つのはいい。けど、それで消費したエネルギーは正規の食事でまかなった方が健康的なんだよ。オレンジジュースは栄養満点だけど、これに頼りすぎるとそのうちオレンジジュースでしか栄養が吸収できない体になるんだ。それも成長途上の体だと、一生に響きかねない」
「ゆにゃー……じゃ、あんまり飲みすぎるのはやめるんだねー。わかったよー」
「それでいいのよ。ところでね。今日は挨拶に来ただけだけれど、このドラマに出るようになってから一度ちぇんにありすは聞いておきたいことがあったの」
「ちぇんにわかることなら、なんだって答えちゃうよー」
「あのねちぇん。ちぇんはなんで、こんなに演技は上手なの……? いえ、本当に演技なの?」
ありすの問いにちぇんは首を傾げた。
ブームの理由は巷で色々と話題にされているが、その一つとして揺るぎないものは「ちぇんの演技力」に尽きた。らんを探し回って時に泣き時に笑うちぇんの姿はとても演技では思えない迫真の出来であり、大女優といわれるありすですら気圧されるものだったのである。
ちぇんはうーん、と考えてからこう言った。
「ちぇんは、本当にパパかママのらんしゃまに会いたいだけだよー。それを忘れないでいれば、みんなが褒めてくれるだけなんだねー。わかるよー」
「そう……いつか本当のパパママに会えるといいわね」
微笑んでそう言い残したありすに、ちぇんは再び頭を下げてさよならと尻尾を振り続けた。
そのちぇんに手を振り返し続けていた飼い主のお兄さんは、ありすがふぅとため息をついたのに気づく。
「おや、どうかしたのかい、ありす?」
「いえ……お兄さん。あのちぇん、この業界にあと何年いられると思う?」
「そうだね……来年の今頃にはいないのは絶対だろうね」
「やっぱり……ああいう純真な子は、ここじゃやっていけないのよね。かわいそうだけれど……」
「飼い主がもう少しまともなら話もしようがあるんだけれどね。ま……ぼくらには、せいぜい引退が幸せな幕引きであることを祈ることくらいしかできないよ」
「りゅうせいに~またが~ってぇ~♪」
「違う、違うわよちぇんちゃん! もっとね、腰はこう! こうよ!」
「わかったよー! がんばるんだねー!」
広間の絨毯をぴょこぴょこ跳ね回りながらおうたを歌うちぇんに、夫人は身振り手振りでダンスの指導をしていた。
ちぇんのデビュー作である「らんを訪ねて三千ゆん」は無事最終回を終え、日本全国の視聴者たちに涙と勇気と感動を与えた。一方、ちぇんはあっちこっちから引っ張りだこのオファーの嵐を受けており、現在は特に歌って踊れるゆっくりを目指して猛特訓中なのである。
ゆっくりが人間に感動を与えるレベルの歌を習得することは至難の業とされている。歌詞をきちんと覚えきることが難しいこと。リズムやメロディに乗せて歌うという概念を理解すること。そもそもゆっくりと人間の音楽感覚は違っているため、人間にとって耳心地の良いメロディは決してゆっくりにとってはゆっくりできるものではないということ。これにさらにダンスが加わるのだから並大抵の努力では公共電波に乗せられるものにはならない。
「だめよ、だめよちぇんちゃん! そんなんじゃてんでダメ! いい!?」
指導に熱が入る夫人のバッグから携帯電話の着信メロディが流れ出した。ちぇんに対する仕事の依頼はまず飼い主である夫人を通してから始まるので、夫人も決して暇ではないのだ。
「ちぇんちゃん、ママはちょっとお電話があるけれど、練習をサボっちゃいけませんわよ?」
「わかったよー! もっともっとがんばるんだねー!!」
全身からだらだら砂糖水の汗を流しながら、ちぇんは夫人の声に応えた。
夫人はちぇんの練習のために流している楽曲の音が会話の邪魔になるので、その場から離れて電話を始める。ちぇんはそんなことにも気づかずひたすら練習に明け暮れており、サッカーボールにも満たない体で広場中を駆け回り跳ね回り歌いまくっていた。
「……やっているね。最近、家にいる間はずっと練習浸けだな、ちぇん君」
「あ、パパさんなんだねー! こんばんはなんだよー!」
夫人の旦那であるこの屋敷の主人に、ちぇんは元気良く挨拶した。
主人もまたちぇんの飼い主の一人ではあるのだが、彼は彼で仕事が忙しくちぇんと顔を合わせ話し合う機会は少なく、今回を含めても片手の指に数えられるほどである。そのためちぇんは少しばかり緊張していた。
ソファに座った主人はそんなちぇんの様子に気づいたのか、自分のネクタイを緩めてにやりと笑う。
「楽にしたまえ。君が私に粗相などすることはないと確信しているし、したとしても追い出しなどしやしないさ」
「は、はいなんだねー。わかったよー」
「まぁ……あれの面倒を見るのはしんどいだろうな。君には本当に感謝している……君が来てからあれに振り回されることが少なくなってね。君の収入もまた、あれの散財を埋めるには十分な額だ。本当に助かっているんだよ」
「きょ、恐縮なんだねー」
「ははっ、君はテレビで見るより思った以上に謙虚だな。いや、私も一応君の主人だからな。普段の君の姿を聞かれて、困ることがあるのさ。……ところでね、ちぇん君」
「んにゃ?」
「あれの指導は真面目に聞かない方がいい」
主人の言葉をいまいち理解できなかったちぇんは、体全体を傾けて「わからないよー?」と答えた。
「アレって……なんなのかわからないよー?」
しかしこの疑問に主人は答えることなく、話の続きを一方的に始める。
「あれの指導はめちゃくちゃだ……ただ君を叱咤激励しているだけで、それだけで自分が頑張っている満足感に浸りたいだけなのさ。君はただ、見本のビデオやきちんとしたダンスや歌の教官たちの言うことを素直に聞いていればいい。そうでないと出る成果も出ない」
「え、えーっと……」
「本来なら無理な練習もやめて、きちんとしたスケジュール通りに休養と練習を繰り返すべきなんだがね。君の場合、他の仕事も掛け持ちしているから自然本来なら休むべき時間を練習に割り当てなければいけない……あれにはそれとなく私から言っておくから、君はあまり無理をせず手を抜くということも覚えた方がいい」
「わ、わからないよー? 手抜きはダメなんだよー。どんな時でも一生懸命がんばらなきゃいけないんだよー?」
「それは違う……いいかいちぇん君。サッカー選手がなぜ90分もあんなに広大なフィールドを走り続けることができると思う? 一人一人の選手をよく観察すればわかる。彼らは自分が必要とされるタイミング、場所を読んで走る速度を緩めたり歩いたりしているものなんだ。そうでなければここぞという時に全力を発揮できない。スタミナ体力に限らず、リソース管理は重要だ。君に欠点があるとすれば、そのリソース管理が下手だということだよ」
「パパの言っていることは難しくてよくわからないよー……だって、がんばれば……がんばれば……」
「ちぇん君。がんばってもどうにもならないことも、世の中にはあるんだよ」
「それは違うよー!!!」
突然叫んだちぇんの様子に主人は目を見開いて驚いた。
ちぇんは自分の中の大切なものを守ろうというかのように、自分に言い聞かせるように呟き始める。
「だって、がんばれば、がんばればいつかきっとママやパパに会えるんだよー……お仕事で会ったらんしゃまは本当のパパでもママでもなかったけど、ちぇんががんばればいつかきっと会えるって言ってくれたんだよー……わかるよー! だから、だからちぇんはいつでもどんな時だって手なんか抜かないよー! がんばってがんばってがんばり続けるよー!!!」
「……そうか。すまない。失言だったよ」
「ゆにゃ……? い、いえちぇんこそパパさんに失礼だったんだねー。ごめんなさいなんだねー」
「いいさ。……ま、それより練習の邪魔をしてすまなかったね。引き続き、がんばってくれたまえ」
「はいなんだねー!」
威勢よく主人の励ましの言葉に答えたちぇんは、再び練習に没頭し始めた。
一方席を立った主人は携帯電話を取り出し、手持ちの手帳をめくりだした。
「……確かあれがあのちぇんを買ったところはどこだったかな……」
「お疲れ様でしたーっ」
「おつかれさまでしたーっ」
スタジオの収録が終わり、ゆっくりも人間もめいめいに楽屋裏へと戻り帰り支度や次の仕事の用意を始めていた。
そんな中、ちぇんは自分にあてがわれた部屋のクッションでぐったりと横たわりか細い呼吸を繰り返していた。
「何やってるのちぇんちゃん! ほらっ、立ちなさい! 今日のここの番組が終わったら、次は雑誌のインタビューがあったでしょ! それからその後はラジオに出て、新曲の練習もしなきゃいけないんだから! 休憩時間はまだ! サボろうったってダメよ!」
「わ、わかる……よー……で、でも。あと、あと10秒でいいから……」
「いいえ、今すぐ立ちなさい! 早く!!」
ばしっ、と夫人にビンタを入れられたちぇんはクッションから転がり落ち、べっちゃりと床に這いつくばった。
ちぇん自身は全身に力を入れ、立ち上がろうとしている。しかしなぜか全く力が入らず、まるで陸に揚げられたクラゲのようにちぇんは力なく倒れこんでいるのだ。
(なんで? どうしてなのー? 番組さんを録っている時はなんにもなかったはずなのに……わからないよー!!)
心の中でちぇんは叫ぶ。いや、本当は声に出したいくらいなのだが、それすらできないほどに体が言うことを聞かないのだ。
もしゆん医がちぇんの普段の生活を知り、この状態を見たのなら原因は一発で特定できただろう。
ちぇんは精神性脱力症状にかかっていた。日々度重なる苦労と疲労に心労、それを癒すことも許されない詰め詰めのスケジュール、飼い主にファンや仕事に関わる人々への期待に応えなければいけないとうプレッシャー、いつ限界が来てもおかしくないはずだったのだ。
その張り詰めていた限界の糸が今、一仕事が終わって楽屋裏に入りほんの少しだけ気を緩めたとたんに切れ、ちぇんの体の制御権を奪った。
現在ちぇんは、もうこれ以上の仕事をこなすと死んでしまうという本能的な直感から体を強制的にスリープ状態にしたのである。
だが残念なことに、その事実を理解している者はこの楽屋裏にちぇん自身を含め一人もいなかった。
「ママ、ちぇんちゃんには失望しました! こんなことしてママに迷惑かけるだなんて! 疲れているフリなんかしたってダメよ!」
(ママが怒っているんだねー! 早く起きなきゃだめなんだねー! ちぇんはもっともっとがんばるんだよー! がんばらなきゃいけないんだよー! なんで動けないんだよー! わかれよー!)
必死の心の叫びも虚しく、ちぇんの体は一ミリ足りとて動かない。そんなちぇんの様子にヒステリックな声で渇を入れようとする夫人の声に気づいたのか、ドアが開き一匹のまりさを連れた若い女が入ってきた。
「どうしたんですかー……って、ちぇんちゃん!? わ、だ、大丈夫なんですか!?」
「何よあなた、勝手に入って来ないでちょうだい! ほらちぇんちゃんも、みっともない格好晒してないで早く立ちなさいってば!」
夫人が地団駄を踏むようにちぇんの目の前にヒール靴を叩きつける。それをまぁまぁと若い女はなだめ、その間に女の手から床に下りたまりさはちぇんを見下ろした。
「ゆー。ちぇん、無理しすぎたんだぜ。ありすが言っていた通りだったんだぜ」
(ゆにゃ……まりさ先輩?)
そのまりさは、先ほどのバラエティ番組でも共演し、ちぇんにとってのデビュー作である「ありす探偵事務所」でもレギュラーとして出演しているまりさだった。
まりさは夫人と女のやり取りをちらりと後ろ目で見てから、こっそりと帽子から三角に折られた紙包みを取り出した。
「ちぇん、これをやるんだぜ」
(……なぁにこれぇ? わからないよー?)
「この白い粉さんを吸えば、疲れだって一発で吹き飛ぶんだぜ。……でも、誰にも内緒だぜ? また欲しくなったらまりさに声をかけるといいんだぜ……」
そう言いながらまりさは自分の体で紙包みとちぇんの口元を隠し、中身の粉をちぇんの鼻や口に吹きつけた。
ちぇんの半開きの舌が白い粉――小麦粉を受け止め、唾液で溶かし、喉の奥に滑り込んだ。すると見る見るうちにちぇんの体に精気が漲り、肌に艶が照り、帽子は張りを取り戻し、尻尾は力強く立ち上がった。
「わっかるよおおおおーーー!!!」
「ちぇんちゃん? もう、いつまでもふざけているんじゃありませんよ! ママ、本当に怒ってしまいますからね!」
「ごめんなさいなんだねー! でも、もう大丈夫なんだよー! 問題ないんだねー!!」
元気良く立ち上がったちぇんはそんな調子で夫人に抱きかかえられると、何事もなかったかのように楽屋裏から出て行った。
その時わずかにちぇんはまりさへと振り返ったが、まりさはいたずらっぽくウィンクするだけで飼い主の若い女も人差し指を唇に当てていた。
残されたまりさとその飼い主は、一人と一匹でくつくつと笑い出す。
「……うふふ、なんてバカな子。なーんて餡子脳なババァなのかしら。ねぇまーりさ♪」
「おねーさんの言うとおりなんだぜ。へっへっへ、このまりさ様を差し置いてあのちぇんはちょっと調子に乗りすぎたんだぜ」
「そうよねぇ~、わかるわー。さ、これから私たちであの子に芸能界の素晴らしさってものを教えてあげなくっちゃね」
それから三日後、再びちぇんは同じように倒れた。
今回ばかりはまりさの助けが入らず当日の仕事を全てキャンセルしゆん医に運び込まれたちぇんは、一週間の療養を言いつけられた。
だが大人しくちぇんが休むはずもなかった。
「ねえママ~。まりささんと連絡を取りたいんだよ~」
「何? ちぇんちゃん何か用なの?」
「まりささんは健康の秘訣を知っているんだねー。ちぇんはそれを教えてもらいたいんだよー。わかってねー」
「うーん……そういうことなら仕方ありませんね」
そうして、当日まりさとその飼い主の女はちぇんの見舞いにやってきた。
人間は人間同士、ゆっくりはゆっくり同士で話を、と女は夫人に話を持って行き、ちぇんとまりさは応接室で向かい合って話を始める。
「まりささん~。あの白い粉さんがまた欲しいんだよー。わかってねー」
「ゆへへ、いいぜちぇん。かわいい後輩が困ってるんならまりさも放っておけないんだぜ。それじゃ、今日はこれだけ置いていくんだぜ。一気に吸っちゃだめだぜ? 一日一回一つっきりだぜ? まりささんとの約束だぜ」
「約束なんだねー。わかったよー」
そう言って一週間分の包みを受け取ったちぇんだったが、結局粉は五日で切れた。
ただでさえちぇんの体は既に限界を迎えたのである。それを無理矢理動かしているのだから、規定の量だけで補えるものではない。ましてや常用すれば麻薬というものは耐性がつく。
ちぇんが渡された粉は、ただの小麦粉だ。だがゆっくりにとってはなぜか人間にとっての麻薬と似たような効能を示し、疲労や痛みを和らげ精神状態を良くする効果がある。適切適量をゆん医の指示の下に使用すれば健康に害を及ばさないが、常用し続ければやがて小麦粉無しでは精神状態が落ち着けず、常に倦怠感を伴うといった禁断症状に悩まされることになる。
一週間後、まりさと落ち合う約束をつけていたちぇんは二匹っきりになった楽屋裏の個室でまりさに縋りついた。
「まりささぁ~ん! たすけてほしいんだよ~! しろいこなさんがほしいんだねー! わかってねえぇ~~!」
「はぁ……あの白い粉さんも結構高いんだぜ? それをタダで何度も貰おうだなんて、ちぇんは都合が良すぎるんだぜ」
「それならママにいってくれればおかねははらってくれるんだねー! もう、しろこなさんをすわないとちぇんはあたまがぐーるぐるしてげーろげろなきぶんでいーらいらするんだよー! あしたもがんばれないんだねー! わかってよぉ~~!」
「ゆへへ……お金なんていらないんだぜ」
「ゆにゃ……? わからないよー。それじゃ、ちぇんはなにをはらえばいいのー?」
「それは……ちぇんの体で払ってもらうんだぜ!!」
「ゆにゃああ!?」
突然覆いかぶさってきたまりさを避けきれず、ちぇんは壁に押しつけられた。はぁはぁとまりさの荒い息が耳をくすぐるが、ちぇんは抵抗する体力など残っていない。
「まりささん! やめてほしいんだねー! かってなすっきりは、ゆ、ゆっくり、できな、できなぁっ」
「ゆへへ、そう言いながらちぇんのまむまむはまりさのぺにぺにを咥えて離さないんだぜ! す、す、すっ」
「「すっきり~~~~~!!」」
そして、結局ちぇんはまりさに強制的なすっきりを強要され、三回ほどその胎内に精餡を流し込まれた。
息も絶え絶えで動けず、実ゆをぶら下げた茎を三本生やしたちぇんにまりさは帽子の中から大量の粉が入った包みを落としてやる。
だがちぇんはそれを拾い集め吸う気力も体力も残っていなかった。
「ちぇん、中々良いまむまむだったんだぜ。お礼の粉さんはそこに置いておくから、いくらでも吸えばいいんだぜ。あ、でもぐったりしているみたいだから親切なまりささんは人を呼んできておいてあげるんだぜ~♪」
そして十分後、まりさの飼い主の誘導で部屋の中に入ってきた数人のゆっくりの飼い主とスタッフたちはまむまむから精餡を垂れ流し麻薬に溺れ妊娠中の体でぐったりするちぇんの姿を見つけたのであった。
ちぇんのスキャンダルなその姿はまりさの飼い主によってデジタルカメラで撮影され、ゴシップ雑誌に売られ、ネットに流出し、テレビで幾度も放送された。
「らんを訪ねて三千ゆん」で素直で純真でひたむきに夢を追いかけ続けるちぇんが、肉欲とドラッグに溺れ堕落しきったようにしか見えない姿につい昨日までちぇんのファンであった人々は好奇と嫌悪の視線を浴びせかけた。また、今までちぇんに対して一言も言及したことのなかった『事情通』はこの行いと体たらくをなじり、今まで全く顔も声も出なかった『関係者』は訳知り顔で過去ちぇんが犯した些細なミスを誇張表現で伝えた。
そんな世間の評判を知らず、堅牢なケージの中に閉じ込められたちぇんは傷だらけの体を這いつくばらせ、あふれ出る涙を流れるままにしていた。
既に生後一年近くになるちぇんは成体と言っても良いサイズなのだが、ただでさえ小柄なちぇん種の中でも半回りほど小さい体で成長が終わってしまった。その小さな体の皮膚にはあちこちに引っかき傷が刻まれ、打ち身のせいでへこんでおり、テレビの中で笑顔を振りまいていた美しい面影はなく、まるでそこらの野良が人間にボコボコにされた後のようだった。
そんな満身創痍のちぇんの傷の中でも、特に痛々しいのは額の皮膚ごとひっぺがされた直径十センチほどの傷痕である。
ちぇんはその傷痕をいつまでも見上げ、時折
「おちびちゃん……ちぇんのおちびちゃん……かえしてよぉ……」
と嘆くのだった。
ちぇんの惨状の第一発見者が事態を仕組んだまりさの飼い主だったことは、ある意味ちぇんにとって不幸中の幸いと言えた。
第一発見から即ゆん医に運び込まれ治療を受けてから、ようやくちぇんは夫人と面会できた。信頼していた先輩役者に裏切られ、処女を奪われ、望まぬ子を孕まされ、身も心もズタボロになったちぇんは世界中で誰よりも敬愛し絶対なる信頼を寄せる飼い主の夫人に会ったとたん、今まで張り詰めていた緊張の糸が切れ「ままぁ~~!!」と飛びつこうとした。
そのちぇんを、面会を許可したゆん医の前で夫人はしばき倒し踏みつけネイルアーティストにケアさせている爪で引っかき何度も床に投げ落とした。
『よくも私に恥をかかせてくれたわねェえ!!』
ぽかんとして呆気に取られるゆん医が夫人を取り押さえようとしたとたん、彼女はちぇんの額の茎を掴み取り、全て引っこ抜いてしまった。
再び治療を受け、ちぇんは一週間後退院させられた。ゆん医はちぇんの身柄を要求する夫人を拒否したが、法的に訴えるという脅しを跳ね除けることはできず、引き取られ家に帰ったちぇんはまるっきり虐待用に飼われたゆっくりと同じような生活を送らされている。
それでもちぇんは、自分の体の痛みならいくらでも耐えられた。どうしても耐えられなかったのは、失った我が子たちのことであった。
「おちびちゃん……おちびちゃあん……」
ちぇんには夢があった。それはいつか両親を探し出し一緒にゆっくりした幸せな暮らしを送るというものである。
だが、自分が大人になっていくにつれ、子どもを作れるようになったと自覚し始めてからやがてもう一つの夢が芽生えてきたのである。
それは、自分が受けられなかった親の愛情を我が子に思う存分与えてあげること。一緒に幸せな暮らしをすること。
もちろん、ちぇんの望むお婿さんは格好のいい素敵ならんしゃましか考えていなかった。それが予想外の悲劇で望まぬ子を抱えてしまったわけだが、それでも我が子であることに変わりはない。
ちぇんは夫人に何度も我が子を返してくれと頼んだ。そのたび夫人のちぇんに向ける暴力は苛烈さを増した。
『この淫売猫め! 育ててあげてあれほど人気者にしてあげた恩を仇で返して!」
皮肉にもひっきりなしに夫人あてにかかってくる電話がなければ、ちぇんはとっくの昔に死んでいただろう。もっとも、その電話がまた夫人を苛立たせることになっているのではあるが。
アイスピックでずたずたに突き刺しまくられた耳が、かつ、かつ、という靴音をとらえた。それに怯える気力も体力もちぇんはもう失っていた。ただ、おちびちゃんを守れず一緒にゆっくりさせてやれなかったという申し訳なさでいっぱいだった。
「ちぇん君。しっかりしたまえ」
そういう低い声と共に、ちぇんの頭にびちゃびちゃと何かがかけられ全身の傷が塞がり体に力がみなぎるのをちぇんは感じ取った。
頭から流れる雫を舐め取ると、それは濃縮されたオレンジジュースだとわかった。
額の傷痕から焦点を少しずらすと、そこには上等なスーツを着た主人が空になったオレンジジュースのパックを付き従っている秘書に渡している姿が見えた。
「……ぱぱさん?」
「いや、今日から私はもう君のパパではない。ただのおじさんだ。いいかい、ちぇん。今から君をここから出してやる。そのかわりバッジは貰う。君は今日からうちの飼いゆっくりではなくなる。ただの野良ゆっくりだ。……そうだ。私は君を捨てるんだ」
「……そんなこと……しなくていいんだねー……ちぇんはもう……おちびちゃんをなくしたちぇんは……なにもしたくないよー……」
それを聞いた主人は秘書に目配せした。すると秘書は抱えていた小さな箱を開け、中身のピンポン玉ほどのボールを主人に渡す。
そのボールを、主人はケージの隙間からちぇんの前に置いてやった。
「ゆや!? わきゃりゅよー! おきゃーしゃんにゃんだねー!!」
「ゆえ……おちび……ちゃん?」
「わきゃりゅよー! ゆっくちちぇいっちぇね!!!」
小さな小さな赤ちぇんが、これ以上ないほどゆっくりした笑顔を浮かべていた。
長い間離れており、誕生の瞬間にも立ち会えなかった。それでも親子は一瞬にして、お互いを親子だと認識した。
「おちびちゃん!! ちぇんのおちびちゃんなんだねー! わかるよーー!!!」
「おきゃーしゃん! おきゃーしゃーん! あいたきゃったんだにぇー! わきゃりゅよー!!」
「すまない。オレンジジュースに浸した茎から無事生まれたのは、その子だけだった。今日から野良ゆになる君には大きな負担となるだろう。だが、それでも君には何よりも力強い今を生きる希望となるはずだ」
「はい! はいいぃぃ! ありがとうなんだねー! とっても、とってもありがとうなんだねー!!」
「にゃんだねー!!」
「それじゃあちぇん。バッジを、貰うよ」
主人はちぇんのおぼうしに手を伸ばし、ピンで留められたバッジを外し胸ポケットに入れた。
ケージの鍵を開け、主人はちぇんを秘書に持たせていた箱の中に入れる。そうして秘書だけをこの場から送り出し、入れ替わって部屋の中に入ってきた部下が持ってきた傷だらけのちぇんにバッジを着け、ケージの中に閉じ込めた。
「社長、このようなことをして奥様にバレないのでしょうか」
「問題ない。あれがほしいのはただのサンドバッグだ」
「では、ないと思いますがあのちぇんが芸能ゆのちぇんだと言って、信じる人間が現われたならばいかが致しましょう。そうなれば我が社の信用にも響きかねないスキャンダルに発展しかねません。あのちぇんを助けて、一体社長になんのメリットがあるのか私には理解しかねます」
「何を言ってるんだ君は。私は本気であのちぇんを助けるつもりなら、信用できる部下……例えば君に飼ってもらうよう頼むよ」
「はい? ならば、なぜ」
「君に負担をかけたくなかったからな。迷惑だろう?」
「はぁ」
「端的に言って、どうでもいいんだよ私は。野良ゆっくりの言うことを真に受けて我が社に影響を与えるほど大きい声で叫べる人間がいるのならば、むしろぜひお目にかかりたいものだ」
そう言って社長は煙草をくわえた。
(野良ゆ編へ続く)