雑記
言葉のこと2
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匿名ユーザー
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われわれは、一部の人を除いて日本語の文化圏で育ってきている。
言語が違うということは、単に言葉が違うというだけには留まらない。翻訳したからといって、完全に元の意味を伝えることは困難である。
例えば、「man」という単語は「男」という意味を表すとともに「人類」をも意味する。日本語における「男」という言葉は「女」との区別に使用されるもので、「人類」をあらわす意味合いはないが、英語の「man」は男をして人類の代表たら占めている。誤解を招く表現なのは承知の上なので突っ込み無用です。とりあえず先を読んでいただきたい。
例えば「お湯」に該当する単語は英語には存在しない。個人的には「肩こり」に該当する単語が存在しないなんていうのも信じられない。うらやましい限りである。
流行語など、最初は聞きなれない言葉でも聞いているうちになんとなく意味がわかってくる。われわれが日々使用している言葉は、それと同じように日々判らないくらいUpdateされているのである。日常何気なく使用している言葉は膨大な量のデータによって立っているのだ。
ここで言いたいことは英語が男尊女卑だとか、言語が違うなら分かり合うことはできないんだなどということではない。
不用意に、グローバル化してしまうことへの警告である。
不用意に、グローバル化してしまうことへの警告である。
私がQueenを聴いて良いと思うのと、ジョンブルが聴いていいと思うのでは違うだろう。日本人が俳句や短歌といったものに感じるものと、外国人がHaikuと言っているものは異なるだろう。それが、文化の違いというものである。
ロックやポップスにしても、日本語の歌詞が載ってしまったなら、それは日本の文化であり、いや揺る洋楽と比較の対称にして比較したりすることはおかしい。また、ニューヨークのSushi Barはアメリカの文化なのだ。
その多様性こそを、まさに重要視したい。生物は発生以来、多様性こそを武器として地球上に反映し、進化してきたのだから。
インターネットの普及により、またメディアの進歩によって地球の裏側のニュースをリアルタイムに見聞きし、様々な国の音楽・映像に触れることができるが、それらが「均一化」してしまうことが恐ろしい。
「みんなちがって、みんないい」のである。