砂を蹴散らし城門を潜り抜け、いつものように練兵場に足を踏み入れながら、
元親はふと眉をしかめて辺りを見回した。
背後の城門付近には一緒に戻った配下たちが、周囲の城壁には留守居役たちが、
いつものように鈴なりになって声援を送っている。
侍女を引き連れ、広場の真ん中に立ってこちらを眺める妻の姿も、いつもどおりだ。
だが、何かがおかしい。
いつもならこの場に立ったとき感じるはずの、あのぴりぴりとした緊張感がない。
普段ならここにくれば、広い練兵場いっぱいに元就が張り巡らした数々の罠の気配が、
元親の鋭敏な感覚を刺激する。風が雷気を帯び、地面が煮え立つような、激しい気だ。
だが、燃えたつ心をさらに煽るあの、匠の存在感のようなものが、何故か今は
まったく感じられないのだ。
ついでに言えば、城壁から見下ろす留守居役たちの様子もなんとなく変だ。
いつもどおりに声援を送っているようで、全員がどことなく、上の空に見える。
なんだこりゃ。
いやこれも新しい罠かもしれないぞ、と思い直し、元親は改めて一歩、妻に向かい
足を踏み出した。
元親はふと眉をしかめて辺りを見回した。
背後の城門付近には一緒に戻った配下たちが、周囲の城壁には留守居役たちが、
いつものように鈴なりになって声援を送っている。
侍女を引き連れ、広場の真ん中に立ってこちらを眺める妻の姿も、いつもどおりだ。
だが、何かがおかしい。
いつもならこの場に立ったとき感じるはずの、あのぴりぴりとした緊張感がない。
普段ならここにくれば、広い練兵場いっぱいに元就が張り巡らした数々の罠の気配が、
元親の鋭敏な感覚を刺激する。風が雷気を帯び、地面が煮え立つような、激しい気だ。
だが、燃えたつ心をさらに煽るあの、匠の存在感のようなものが、何故か今は
まったく感じられないのだ。
ついでに言えば、城壁から見下ろす留守居役たちの様子もなんとなく変だ。
いつもどおりに声援を送っているようで、全員がどことなく、上の空に見える。
なんだこりゃ。
いやこれも新しい罠かもしれないぞ、と思い直し、元親は改めて一歩、妻に向かい
足を踏み出した。
塩の浮いた地面を、一歩、また一歩と進んでいく。だが、そこから緑の燐光が
吹き上がることはなかった。
一歩、ただ一歩、元親は進む。いつものように無表情に、ゆったりと待ち受ける
元就に向かって。
異変に気づいたのだろう、城門で騒いでいた兵たちの声がだんだんと小さく
なってきた。あわせるように、城門からの声も途切れていく。
やがて練兵場全体が静まり返ったころ、元親は元就の前に辿り着いた。
ついに一筋の傷、一片の焼け焦げも作らないままに。
吹き上がることはなかった。
一歩、ただ一歩、元親は進む。いつものように無表情に、ゆったりと待ち受ける
元就に向かって。
異変に気づいたのだろう、城門で騒いでいた兵たちの声がだんだんと小さく
なってきた。あわせるように、城門からの声も途切れていく。
やがて練兵場全体が静まり返ったころ、元親は元就の前に辿り着いた。
ついに一筋の傷、一片の焼け焦げも作らないままに。
「……帰ったぞ」
朱塗りの箱を小脇に抱えたまま、ポツリと呟いた良人を、切れ長の目が
ちらりと見上げた。
戻ったか、と挨拶はいつものとおりだが、よく見れば元就は、藍白の小袖に翡翠の
打ち掛けという、女物の衣装を纏っていた。
これもいつもと違うところだ。元親との対戦のときは、袴をつけるか、戦衣装を纏うのに。
しかも、獲物すら持っていない。
「……なんだ?どうした?」
状況が読めず、首をかしげる元親を見上げた切れ長の目が、一瞬だけ、笑いの形に細くなった。
「なにが?」
「俺が聞きてえよ。今日はなんで何にもなしなんだ?」
「なしだと?我の罠ならもう、立派に発動したぞ」
しれっとした答えに、元親の背中に緊張が走った。発動状態でまったく気配を
感じさせないとは、これまでにないことだ。そこまで腕を上げやがったかと内心舌を巻く。
だが、どれほど待ってもどこからも、攻撃が仕掛けられてくることはなかった。
元就もゆったりと、その場に立ち尽くしたままだ。
静まり返った広場を吹き抜ける冷えた潮風が、土埃を舞い上げていく。
とうとう朱塗りの箱を地面に置き、元親は眉をしかめて妻に両手を挙げて見せた。
「降参だ降参!こら元就、野郎ども!どういうこったこりゃあ!説明しやがれ!」
「ふん、勝手なやつめ。降参とは何事ぞ。すべてこれからというのに」
「だから説明しろってんだ!なんだ?まさかもう飽きたのか?」
「貴様、まだわからぬのか?」
呆れ声を上げて首を傾げた元就の顔が、ちらりと良人を見上げる。
薄い口元が、耐え切れなくなったように綻んだ。
朱塗りの箱を小脇に抱えたまま、ポツリと呟いた良人を、切れ長の目が
ちらりと見上げた。
戻ったか、と挨拶はいつものとおりだが、よく見れば元就は、藍白の小袖に翡翠の
打ち掛けという、女物の衣装を纏っていた。
これもいつもと違うところだ。元親との対戦のときは、袴をつけるか、戦衣装を纏うのに。
しかも、獲物すら持っていない。
「……なんだ?どうした?」
状況が読めず、首をかしげる元親を見上げた切れ長の目が、一瞬だけ、笑いの形に細くなった。
「なにが?」
「俺が聞きてえよ。今日はなんで何にもなしなんだ?」
「なしだと?我の罠ならもう、立派に発動したぞ」
しれっとした答えに、元親の背中に緊張が走った。発動状態でまったく気配を
感じさせないとは、これまでにないことだ。そこまで腕を上げやがったかと内心舌を巻く。
だが、どれほど待ってもどこからも、攻撃が仕掛けられてくることはなかった。
元就もゆったりと、その場に立ち尽くしたままだ。
静まり返った広場を吹き抜ける冷えた潮風が、土埃を舞い上げていく。
とうとう朱塗りの箱を地面に置き、元親は眉をしかめて妻に両手を挙げて見せた。
「降参だ降参!こら元就、野郎ども!どういうこったこりゃあ!説明しやがれ!」
「ふん、勝手なやつめ。降参とは何事ぞ。すべてこれからというのに」
「だから説明しろってんだ!なんだ?まさかもう飽きたのか?」
「貴様、まだわからぬのか?」
呆れ声を上げて首を傾げた元就の顔が、ちらりと良人を見上げる。
薄い口元が、耐え切れなくなったように綻んだ。
冬の日の下、そこにだけ、鮮やかな日が差し込む。
珍しくも真昼間から、白皙の美貌に浮かんだ笑顔に、元親だけでなく
周囲の男どもや侍女達の間からも、ほう、と小さなため息が上がった。
珍しくも真昼間から、白皙の美貌に浮かんだ笑顔に、元親だけでなく
周囲の男どもや侍女達の間からも、ほう、と小さなため息が上がった。
一瞬で消えたそれを、しばし頭の中で反芻して堪能し、それから元親はまた首を振った。
「……おう、さっぱりわからねえ。いったいどこで罠が動いてるってんだ」
「鈍いやつめ。だから」
繊手が上がった。
細い指先が、帯の下の薄い腹をぽんと打ち、それからひどく優しく、そこを撫でた。
「ここでだ」
西海夫婦馬鹿善哉30
「……おう、さっぱりわからねえ。いったいどこで罠が動いてるってんだ」
「鈍いやつめ。だから」
繊手が上がった。
細い指先が、帯の下の薄い腹をぽんと打ち、それからひどく優しく、そこを撫でた。
「ここでだ」
西海夫婦馬鹿善哉30