過ぎ去りし 時は戻らず
すれ違ひし こころ戻らず
きざまれし おこなひ消えず
投げつけし 言の葉枯れず
ふりしぼる ちから及ばず
課せられし 重荷になへず
かへり来ぬ むかしの日々の
かがやきは いまだ 消えざり
すれ違ひし こころ戻らず
きざまれし おこなひ消えず
投げつけし 言の葉枯れず
ふりしぼる ちから及ばず
課せられし 重荷になへず
かへり来ぬ むかしの日々の
かがやきは いまだ 消えざり
ふぅむ、と信玄が唸った。
場は静まり返っている。女中や下男すら動こうとしない。ただ幸村を見る。
誰もが、幸村の思いを理解している。
けして思いを遂げることのなかった老人。
女は、老人をどう思ったのだろう。能では、そのことは少しも描かれていない。
老人の思いが切々と謡われるだけだ。
老人はただ姿を見たかっただけ。不義を働こうなどと思ってもいなかったに違いない。
――老人は、そうだったかもしれない。最後は女の守り神となるのだから。
だが、幸村は。
政宗は首を振った。
伝えたい言葉も思いもある。ただ美しく舞う能とは違う。
――伝えてはいけない。思ってはいけない。
何度も何度も言い聞かせた。己が選んだ道だ。政を優先した。
色恋など二の次と割り切った――つもりだった。
場は静まり返っている。女中や下男すら動こうとしない。ただ幸村を見る。
誰もが、幸村の思いを理解している。
けして思いを遂げることのなかった老人。
女は、老人をどう思ったのだろう。能では、そのことは少しも描かれていない。
老人の思いが切々と謡われるだけだ。
老人はただ姿を見たかっただけ。不義を働こうなどと思ってもいなかったに違いない。
――老人は、そうだったかもしれない。最後は女の守り神となるのだから。
だが、幸村は。
政宗は首を振った。
伝えたい言葉も思いもある。ただ美しく舞う能とは違う。
――伝えてはいけない。思ってはいけない。
何度も何度も言い聞かせた。己が選んだ道だ。政を優先した。
色恋など二の次と割り切った――つもりだった。
つくづくと せつなしつらし
こまやかな こころづかひも
やさしさも あはれみさへも
奪ひおきて 我が身のうへは
かのひとの 恋の重荷と
なり果てて 朽ちゆきにけり
こまやかな こころづかひも
やさしさも あはれみさへも
奪ひおきて 我が身のうへは
かのひとの 恋の重荷と
なり果てて 朽ちゆきにけり
割り切ったのなら、こっそりと楽しめばいい。
だが、政宗はそれができなかった。多情な女と罵られてもよかったのに、できずにいた。
恐らく、信玄は許しただろう。何度も幸村と二人になるよう画策していた。
(できるわけ、ないだろ)
信玄と語らう時間は嫌いではなかった。様々な書を借りたし、
孫子を語る信玄の姿は好きだった。
――だが、奥州に必要なのは、政宗と信玄の子だ。幸村との子を産んでしまっては、意味がない。
だから忘れようとした。務めて「ただの女」になった。
伊達夫人と呼ばれ、奥で静かに暮らした。幸村の方から忘れると思った。
政宗の仕立てた小袖。何度も贈られる上田の紐。
それが幸村の思いだった。
政宗は答えられない。幸村も答えない。
――なんて、辛い……
だが、政宗はそれができなかった。多情な女と罵られてもよかったのに、できずにいた。
恐らく、信玄は許しただろう。何度も幸村と二人になるよう画策していた。
(できるわけ、ないだろ)
信玄と語らう時間は嫌いではなかった。様々な書を借りたし、
孫子を語る信玄の姿は好きだった。
――だが、奥州に必要なのは、政宗と信玄の子だ。幸村との子を産んでしまっては、意味がない。
だから忘れようとした。務めて「ただの女」になった。
伊達夫人と呼ばれ、奥で静かに暮らした。幸村の方から忘れると思った。
政宗の仕立てた小袖。何度も贈られる上田の紐。
それが幸村の思いだった。
政宗は答えられない。幸村も答えない。
――なんて、辛い……
恋ひ恋ひて 夜の枕に
うち伏せば 人にも逢はむ
ほほ笑みて 語らふことの
尽きぬこと 泉のごとく
やはらかく 握りたる手の
愛(かな)しきこと 命のごとし
いとせめて ひとめなりとも
醒めてのちに 逢ふよしもがな
うち伏せば 人にも逢はむ
ほほ笑みて 語らふことの
尽きぬこと 泉のごとく
やはらかく 握りたる手の
愛(かな)しきこと 命のごとし
いとせめて ひとめなりとも
醒めてのちに 逢ふよしもがな
す、と扇が閉じられる。ふわりと袖が泳ぐ。赤い色。
幸村が一番好む色を選んだ。
幸村を思って刺繍を入れた。これで忘れてくれ、と。
なのに幸村は、政宗の元に小袖を着て現れる。病で寝込めば、毎日山茶花の花を置いて帰る。
――終わりにできない。
奥州から使いが来たら、政宗は奥州に帰る。養生せよというが、きっと、甲斐には戻れない。
ただの病とは違う。自分の体のことだ。永くないことは分かっている。
――ならば、いっそ。
幸村が一番好む色を選んだ。
幸村を思って刺繍を入れた。これで忘れてくれ、と。
なのに幸村は、政宗の元に小袖を着て現れる。病で寝込めば、毎日山茶花の花を置いて帰る。
――終わりにできない。
奥州から使いが来たら、政宗は奥州に帰る。養生せよというが、きっと、甲斐には戻れない。
ただの病とは違う。自分の体のことだ。永くないことは分かっている。
――ならば、いっそ。
恨みかね 思ひむすぼれ
恋しさは あくがれまどひ
身にあまる 重荷となりぬ
ひとときの 安らぎも得ぬ
苦しみを いづこへやらむ
いかにせむ 誰に伝へむ――
恋しさは あくがれまどひ
身にあまる 重荷となりぬ
ひとときの 安らぎも得ぬ
苦しみを いづこへやらむ
いかにせむ 誰に伝へむ――
舞が切れた。唐突な終わりに、誰もが驚いたように息を飲んだ。
「――政宗殿!」
幸村が駆けた。いつの間にか、政宗は膳を倒してうずくまっていた。
胸が苦しい。息ができない。
せりあがってくるのは何だろう。胃の中のものか。それとも血か。
温かい手を感じた。顔を上げる。涙の滲んだ視野に赤が見えた。
お館様、と呼ぼうとした。だが、違う。
「ああ、無理をされるな。まもなく医師が参りますゆえ」
「ゆき、むら……?」
背中に温もりを感じた。懐かしい温もりだ。
政宗は目を閉じた。酷く心が揺らいだ。せり上がってきた咳を何度も繰り返す。
ひどく湿った咳だ。血を吐かないのが不思議だった。
――このまま……
「――政宗殿!」
幸村が駆けた。いつの間にか、政宗は膳を倒してうずくまっていた。
胸が苦しい。息ができない。
せりあがってくるのは何だろう。胃の中のものか。それとも血か。
温かい手を感じた。顔を上げる。涙の滲んだ視野に赤が見えた。
お館様、と呼ぼうとした。だが、違う。
「ああ、無理をされるな。まもなく医師が参りますゆえ」
「ゆき、むら……?」
背中に温もりを感じた。懐かしい温もりだ。
政宗は目を閉じた。酷く心が揺らいだ。せり上がってきた咳を何度も繰り返す。
ひどく湿った咳だ。血を吐かないのが不思議だった。
――このまま……
幸村の腕の中で息絶えられたら、どれほど幸せだろう。




