「いやあ、懐かしいなあ」
黒い波のように押し寄せる徳川の軍勢をすがめた瞳で見つめて佐助は呟いた。
あの日。
信玄が死んで、『佐助』も死んだあの日。
今日は佐助が別行動だ。
幸村は今ごろ武田本隊と共に家康を狙っている。
佐助はあの日と同じように側面からの奇襲を防ぎ、あわよくば本隊からの救援を引き出すのが仕事だ。
部下の心配するまなざしはすべて無視した。
身体が治らないのは本当で、今も全身に苦痛が走っている。
幸村の命で蘇らされた時からわかっていたことだ。
もう長くなく、身体も利かぬ。
けれど、一度だけならば更に同じ毒を服用することで最高の忍び働きが出来ると言われた。
手に馴染んだ手裏剣を回しながら、幸村を想った。
一つだけ嘘をついた。
『佐助』という忍び名でもなく『ゆき』という新しい名でもないただの女としての名を持っていた。
たった一つ、あの日『女』ではなく『忍』として生きると決められた日に、くのいちの束ねをしていた老婆がくのいちにすらなれなかった佐助を哀れんでくれた名前。
幸村にすら秘密にしていた名だった。
『この戦が終わったら、俺の本当の名前を教えてあげる』
『なれば、必ず生きて帰らねばな』
そう言って笑った幸村だけは死なせたくなかった。
『ゆき』として過ごした日々は恐ろしいほどに平穏だった。
もはや何の役にも立たぬがらくたに成り下がった女を幸村は見捨てなかった。
触れる手は信じられぬほどに優しかった。
そういえば一度だけ花をくれた。
すぐに枯れてしまったあの花の名を佐助は知らない。
幸村が『ゆき』という女に捧げた感情の名も、知らない。
もっともそれは幸村自身すら知らないのだろう。
「真田忍び隊が長、猿飛佐助」
はっきりと敵軍の先鋒の表情すら見えた。
「…いざ、忍び参る」
地を蹴った佐助の姿を捉えられた者は、誰もいなかった。
黒い波のように押し寄せる徳川の軍勢をすがめた瞳で見つめて佐助は呟いた。
あの日。
信玄が死んで、『佐助』も死んだあの日。
今日は佐助が別行動だ。
幸村は今ごろ武田本隊と共に家康を狙っている。
佐助はあの日と同じように側面からの奇襲を防ぎ、あわよくば本隊からの救援を引き出すのが仕事だ。
部下の心配するまなざしはすべて無視した。
身体が治らないのは本当で、今も全身に苦痛が走っている。
幸村の命で蘇らされた時からわかっていたことだ。
もう長くなく、身体も利かぬ。
けれど、一度だけならば更に同じ毒を服用することで最高の忍び働きが出来ると言われた。
手に馴染んだ手裏剣を回しながら、幸村を想った。
一つだけ嘘をついた。
『佐助』という忍び名でもなく『ゆき』という新しい名でもないただの女としての名を持っていた。
たった一つ、あの日『女』ではなく『忍』として生きると決められた日に、くのいちの束ねをしていた老婆がくのいちにすらなれなかった佐助を哀れんでくれた名前。
幸村にすら秘密にしていた名だった。
『この戦が終わったら、俺の本当の名前を教えてあげる』
『なれば、必ず生きて帰らねばな』
そう言って笑った幸村だけは死なせたくなかった。
『ゆき』として過ごした日々は恐ろしいほどに平穏だった。
もはや何の役にも立たぬがらくたに成り下がった女を幸村は見捨てなかった。
触れる手は信じられぬほどに優しかった。
そういえば一度だけ花をくれた。
すぐに枯れてしまったあの花の名を佐助は知らない。
幸村が『ゆき』という女に捧げた感情の名も、知らない。
もっともそれは幸村自身すら知らないのだろう。
「真田忍び隊が長、猿飛佐助」
はっきりと敵軍の先鋒の表情すら見えた。
「…いざ、忍び参る」
地を蹴った佐助の姿を捉えられた者は、誰もいなかった。