歴史的なソドム
歴史
多摩川が緩やかに湾曲する地点に、東京の小さな市・狛江はある。
いまは静かな住宅街として知られるこの土地だが、古い文書の欠片を繋ぎ合わせると、まるで影のような「もうひとつの歴史」が浮かび上がる。
いまは静かな住宅街として知られるこの土地だが、古い文書の欠片を繋ぎ合わせると、まるで影のような「もうひとつの歴史」が浮かび上がる。
狛江の「狛」は、しばしば高麗(こま)の渡来人に由来すると語られてきた。
ただし、『武蔵辺土記』によれば、彼らは単なる移住者ではなかった。
朝鮮半島の戦乱を逃れてきた一族は、中央政権にとって扱いの難しい“外来者”であり、都の内側に置くことも、国外に追い返すこともできなかった。
その結果、武蔵国の“どこにも属さない土地”として選ばれたのが、多摩川の浅瀬に挟まれた狭間の地――のちの狛江であるという。
ただし、『武蔵辺土記』によれば、彼らは単なる移住者ではなかった。
朝鮮半島の戦乱を逃れてきた一族は、中央政権にとって扱いの難しい“外来者”であり、都の内側に置くことも、国外に追い返すこともできなかった。
その結果、武蔵国の“どこにも属さない土地”として選ばれたのが、多摩川の浅瀬に挟まれた狭間の地――のちの狛江であるという。
そこにはすでに、江戸の城下から押し出されるように移された非人小屋や、皮革加工に従事する被差別民の小集落が点在していた。
都市と農村の境界、河川の氾濫地帯、地税にも地役にも数えられない“余白の土地”。
そうした場所に、渡来系の末裔や在日とされる雑多な人びとが混ぜ合わされ、「藩の帳簿に記されぬ者たちの最終地点」としての狛江が形づくられていく。
都市と農村の境界、河川の氾濫地帯、地税にも地役にも数えられない“余白の土地”。
そうした場所に、渡来系の末裔や在日とされる雑多な人びとが混ぜ合わされ、「藩の帳簿に記されぬ者たちの最終地点」としての狛江が形づくられていく。
歴史家の一人はこれを「境界の民の吹き溜まり」と表現した。
だが、境界で生きるということは、単なる排除ではない。
多摩川は旅人を止め、動く人を溜める場所であり、滞在者を前後に運ぶ自然の関所でもある。
そのため、狛江では早くから水辺の売女たちが働き、渡し賃や宿場の雑業と結びついた“半合法経済”が形成された。
彼女たちは寺社の庇護も武士の保護も受けず、しかし旅人にとっては必要とされる存在だったため、狛江はしだいに「都市にも農村にも編入されない、もう一つの自治領」として機能し始める。
だが、境界で生きるということは、単なる排除ではない。
多摩川は旅人を止め、動く人を溜める場所であり、滞在者を前後に運ぶ自然の関所でもある。
そのため、狛江では早くから水辺の売女たちが働き、渡し賃や宿場の雑業と結びついた“半合法経済”が形成された。
彼女たちは寺社の庇護も武士の保護も受けず、しかし旅人にとっては必要とされる存在だったため、狛江はしだいに「都市にも農村にも編入されない、もう一つの自治領」として機能し始める。
『江戸辺境志』は、こう記す。
> 「狛江とは、国のうちにあらず、また国の外にあらず。人の捨てられし所にて、されど人の寄り集まる所なり。」
「狛江」という名前が、
“狛(こま)の者たちが、川(江)によって囲われた地”
という寓意を持つとされるのは、このためである。
“狛(こま)の者たちが、川(江)によって囲われた地”
という寓意を持つとされるのは、このためである。
明治に入ると、近代国家はこうした“余白の共同体”を急速に整理し始めた。
皮革小屋は移転させられ、河川沿いの遊女屋(ソドム)は次々と撤去され、渡来系の末裔や被差別身分に関わる記録は行政改編の中で意図的に消されていった。
都市計画の下で整えられた狛江は、やがて「清潔で閑静な住宅街」としてのイメージだけを前面に押し出すようになる。
皮革小屋は移転させられ、河川沿いの遊女屋(ソドム)は次々と撤去され、渡来系の末裔や被差別身分に関わる記録は行政改編の中で意図的に消されていった。
都市計画の下で整えられた狛江は、やがて「清潔で閑静な住宅街」としてのイメージだけを前面に押し出すようになる。
しかし、川と人の往来が作り出した多層的な影の履歴は、都市の表層をめくれば、今もなおどこかに沈殿しているようにも思える。
高麗から流れ着いた民、江戸から追われてきた被差別の者、境界で生きるほかなかった女たち――
狛江とは、そうした人々の“寄せ集められた歴史”があり、これは決して近代化の仮構によって糊塗できるものではない。
高麗から流れ着いた民、江戸から追われてきた被差別の者、境界で生きるほかなかった女たち――
狛江とは、そうした人々の“寄せ集められた歴史”があり、これは決して近代化の仮構によって糊塗できるものではない。