そういえば、と思い出した記憶がある。
私こと、
高天小都音が自分の凡人性を自覚するに至ったのは言わずもがな"彼女"の天才性を目の当たりにしたあの日だけれど。
いつか、こんなことがあった。
その日は確か、何百年に一度かの流星群が流れるという日。夏休みの、うんと暑い夜。
私達は、ある小さな山の頂上にいた。
時刻は深夜の一時。言わずもがな、大人に見つかったら一発で通報なり補導なりされてしまう年齢と時間。
ましてや山の天辺で流星を拝もうなんてみんな考えそうなものだけれど、その日、そこには私達ふたりだけだった。
理由は単純明快。その日の空は、一面の曇り空だったからだ。
『あのさー。やっぱ無理でしょ、これ。星どころか空のひと欠片も見えないよ。ていうか一時間後から大雨らしいし』
『うぅぅぅ……』
がっくりと肩を落として、悲しそうな顔をする小さな友人。
天枷仁杜。〈にーとちゃん〉。クラス一番のちびっ子で、クラス一番のコミュ障で、おまけに問題児。
なんで天枷さんなんかと仲良くしてるの、って他の子から聞かれた回数は片手の指じゃ数え切れない。
あの子の面倒見るのやめた方がいいよ、って忠告された回数になると両手の指でも間に合わない。
それでも私は、なんでかこいつが放っておけなくて。
いざ実際関わってみると、周りが言うよりいいところもあって。……まあ基本的には仰るとおりのダメ人間のぼんくらなんだけど。
そんな〈にーとちゃん〉が、今日の夕方になって突然やたらと興奮した様子で電話をしてきた。
夜中、ふたりで、星を見に行こう――。
普段このインドア星人からこんな誘いが飛んでこようものならひとしきり別人の成り代わりを疑った後で病院の受診に付き合うところなのだけど、そうしなかったのは直前に天気予報を見ていたから。
空はもうずっと曇天で、おまけに雨雲まで後に控えてる。
数十年に一度の流星群が、不幸にも見られない地域。私達の住んでるところは、まさにそこだった。
こいつ何も調べずにこんな連絡してきたのか、って頭を抱えたい気持ちが、らしくなすぎる言動への疑いをかき消した。
『この山ちっちゃいけど、さすがに天気崩れたら子どもふたりじゃ帰れないよ。
ましてやにーとちゃん、行きの道でさえ私におんぶってせがみ出してたじゃん』
『それは、そうだけど……』
『ていうか百歩譲って、ワンチャンに賭けて集まるにしてもだよ?
どっちかの家でよかったじゃん。わざわざ補導と事故のリスク抱えてまで、山になんて登ってこなくたって』
『だ、だって! どうせ見るんだったらいちばん眺めのいい場所で見たいじゃん……!
草っぱらの上に寝転んで、なんか未来のこととか話しながら星を見ないと……!』
私も説得した。だけどにーとちゃんは折れなかった。
こいつは基本とってもコミュ障だが、心を許した相手にはたまに本当に図々しくなるし強情だ。
だから私も結局は根負けして、この"ひと夏ひと夜の冒険"に付き合うことにしたのだ。
ないとは思うけど、万一ひとりで行ってくるなんて言い出したら大変だ。命に関わると断言できた。
『……ははあ。さてはまた流行りのアニメかなんかに影響されたな?』
『ひきゅっ!? そ、そそ、そんなことは……ないよ。うん。ことちゃんったら失礼だなあ』
『影響されたのね?』
『はい……』
そんなことだろうと思った。
私は肩を竦めて嘆息する。
まあ確かに、この無人の頂上で流星群なんて見れたらそれはさぞかし絶景だろう。
道中の苦労といろんなリスクを背負ってでも、目にする価値があるかもしれない。
けれど現実はアニメみたいにうまくはいかない。大抵のことは、うまくいかないのが人生(リアル)だ。
改めて、空を見上げる。
一面の曇り空には、夜空の断片さえ見えない。
流星群が流れる予想時刻までは、もう数分を切っている。
こうなると後はもう、雨が降ってくるまでにいかに山を降りるかの勝負になってくる。
『……ま、星は見れなかったけどさ』
言うまでもなく、夜の山は危険だ。
そこに雨なんて加わろうものなら一気に命の危険まで出る。
向こう見ずのバカみたいな誘いに乗ってしまった私には、その後始末をする責任がある。
だから。
『これでも十分、アニメみたいな経験でしょ。
夜に嘘ついて家抜け出して、山登って、頂上でふたりきり。ひと夏の思い出としては結構上等なんじゃない?』
そう言って、帰ろ?と手を差し出した。
けれどにーとちゃんはふるふる、と首を振る。
む、と眉間に皺が寄るのを自覚した。
『……やだ。帰んない』
『あのね、子どもじゃないんだから』
『帰らない! ことちゃんと星見に来たんだもん!』
『……なんかあったら私も巻き添えなんだっての。
そういう意味でも言ってるの。お願いだから駄々こねてないで、もうさっさと――』
率直に言って、流石にちょっとイラついてしまった。
忍耐なくしてこの子と付き合うのは無理だ。
そのことは心得ていたつもりだけど、非日常ってものは思いの外人間にストレスを溜まらせるらしい。
この期に及んでまだ駄々をこねるにーとちゃんの手を、私は無理やり引っ掴む。
帰るよ、と言って、強引にでも歩き出そうと思ったところで。
私は、ぐず、という小さな水音を聞いた。
『え、ちょっと……』
『っ、うぇ……だって、だってぇ……。
せっかぐ、っ、ことちゃんと、っ、お出かけ、してきたのに……。
星見るんだ~って、ふたりで……、ここまできたのに、っ』
『い、いやいやいや……。そんな、泣くほどの冒険じゃなかったでしょ別に!
まだ私らが合流してから二時間ちょいしか経ってないんだよ……!?』
『う゛うぅうぅうぅ゛~~~……。ええぇええ゛ぇ゛ん……!!』
にーとちゃんの特徴のひとつを紹介しよう。
こいつは、本当にすぐ泣く。
マジでちょっとしたことで泣く。
タンスの角に指ぶつけてガチ泣きできる女だ。
なのでいちいち真に受けてたらきりがないし、私も普段はそんな愚は犯さないのだけど。
それでも、なんとなくこのロケーションと時間帯、そしてにーとちゃんの言葉のチョイスが、私にまでヘンな刺さり方をしてしまった。
『……そんなに、楽しみにしてた?』
『ぐずっ……うん』
『私と、ここで星見るのを?』
『う゛ん……』
『……そっかぁ』
よく友達からは、あんた将来ダメな男に引っかかるよ、なんて言われる。
でも私だってバカじゃないのだ。好き好んでクズと付き合うつもりはないし、他人に対してそこまで寛容な質でもない。
じゃあなんで、このバカで、たぶん世間的にはクズの部類に入るであろう友人といっしょにい続けているのかというと。
ダメなところが多すぎていつも埋もれているけれど。
たぶん、そのゴミ山をかき分けてまで探し出すほどの価値なんてないささやかなものだろうけど。
こいつにも、根気強く付き合ってみると、けっこういいところがあるのだ。
いつも散々振り回されて、辟易して、もう付き合い考えようかと思うのに、それを見つけるたびになんでか逃げる足を止めてしまう。
この時も、そうだった。
『じゃあ、仕方ないね』
ぼふん、と草っぱらの上に腰を下ろした。
そんで、ずびずび鼻をすする彼女を手招きする。
『あと十分だけだよ。予想だとそのくらいの時刻には流れ出すみたいだし』
『こ、とちゃん……』
『それでもダメなら潔く帰る! それ以上駄々こねるならほんとに置いてくからね』
まあ、無理だと思うけど――。
照れ臭くなって付け足そうとした私の言葉は、小さな衝撃であっさり押し潰された。
『――ことちゃ~~~~~~~~~ん!!!! だいすき~~~~~……!!!!』
『わぶぅっ!? ちょ、やめろ胸に顔埋めんな! 私の服何着鼻水まみれにすれば気が済むんだおまえ――っ!!?』
ぐっちゃぐちゃの笑顔を浮かべて抱きついてくるバカに、私は何百度目かも分からないため息をつく。
でも不思議と顔はこっちも笑ってて、そりゃこんなんじゃ周りに心配されるよなあ、って思った。
空は相変わらずの曇り空。
雲が天井になってその先を隠す、どうしようもない現実(リアル)の一枚絵。
ふたりきりの山頂で、私達は虚構(フィクション)みたいなことを続けていた。
そんな夜のことを、なんでか今、ふと思い出した。
◆◆
「――は!? えっ、じゃあ最初の職場やめたっきり実家と一切連絡取ってないの!?」
時刻はちょうど、正午を迎えた頃のこと。
私は、にーとちゃんの部屋を訪れていた。
さすがにお互い社会人になってからは前ほどのペースでは会わないが、それでもこの小動物は放っておくと何をしでかすかわからない。
最悪のたれ死にしている可能性もあるので、定期的に彼女の部屋をこうして電撃訪問することにしていた。
この世界、今目の前にいる彼女が作り物の人形のようなものであることはもちろん私も知っているが、そういう問題ではないのだ。
それでも、やっぱり長年連れ添った相手と同じ姿と性格を有した存在が死なれたりするのは寝覚めが悪い。
そのことを先日、彼女の会社が全焼した事件の日に再確認した。
だからこそ、無駄とわかった上でもこうして訪問しているわけなのだったが。
テーブルを挟んで向かい合っている彼女に何気なく『お母さんたちも心配してたでしょ』と話を振ったら、『ん? 連絡取ってないし、わたしがあそこに務めてたことも知らないと思うよ!』と返事が返ってきたものだからびっくり仰天だ。
なんとこの女。新卒で入った職場を辞めてから、ついでに実家と連絡を取ることもやめてしまったというのである。
「う、うん……。だってその、なんか怒られそうだし……」
「いや、そりゃちょっとは小言言われるだろうけど……だからって実の肉親をぶっちするか普通」
「怒られるかなあ、明日折り返ししようかなあ、ってのを何ヶ月かしてたらかかってこなくなったよ!」
「本当にかわいそうだから今度絶対連絡しなさい。しなかったら私が勝手に連絡するよ」
「……ことちゃんがしてくれるんならそれがいちばんいいかも!」
「バカ。私はあんたのママでもお姉ちゃんでもありません」
「いだっ!?」
げんこつを削り気味に落としてやる。
本当になんというか、学生時代から何も変わってないやつだ。
見た目も性格もあの頃、出会った時のまんま。
そりゃこれで会社勤めは無理だよなあ、って納得すら覚えてしまう。
いや実際、ギャンブルにはなるけど社会に出るのは諦めた方がいろいろと彼女の場合はいいのではなかろうか。
「で。次はどうするか決めてんの? 流石にずっとニートじゃ無理でしょ。実家頼れないなら尚更」
「あー……えっと、それは、そのぅ。
私にも一応海より深く山より大きな事情があって、なんとかなりそうっていうか……」
「にーとちゃん絵うまいじゃん。イラストレーターでもやってみたら?
ああいうのなら自宅でも稼げるんじゃない。今なら個人でも依頼受けてお仕事できるサイトもあるみたいよ」
「んぅー……。締め切りあるお仕事は不安だなあ……ぶっちしちゃいそう」
「ああ言えばこう言う。いい加減ちょっとは大人になりなさい」
途中なんだかよくわからない台詞があったけど、まあいつもの見栄だろうとスルーする。
にしても、と私はふと部屋の中を見回した。
見慣れた間取り。家具。なのに、どこか違和感がある。そしてその正体は言うまでもなく、分かっていた。
……なんでこんな片付いてるんだ?
忘れられたら困るのでもう一回言うが、天枷仁杜はダメ人間である。
なので当然、部屋の掃除なんてまともっぽいことはまずできない。
食べた後のカップ麺やお菓子の袋が散らばっているのは当然で、ひどい時は本当に足の踏み場もないくらいだ。
そんな彼女の部屋が今は、ホコリひとつない……と言っては言い過ぎだが、とりあえず文句のつけようもない程度には片付いている。
いきなりの訪問だったし、それに事前に連絡したとしても来客が来るから掃除するなんて殊勝なことができるほどこの女はできてない。
「……にーとちゃんさー。最近なんかあった?」
「えっ。な、なななな何が?」
「あったのね。……なに。まさかとは思うけど――」
こいつに限って挙動不審はいつものこと。
でも今日のはなんだか違う気がする。
脳裏に思いついた可能性は、ひとつだった。
さっきはスルーしたけど、職なしの現状がどうにかなるかもしれないという"海より深く山より大きな事情"。
そしてこの、らしくもなく綺麗に片付いた部屋の中。
ふたつを束ねて浮かび上がる可能性。
それを口にするのは微妙に複雑なものがあったけれど。
「……彼氏でもできた?」
口にした、その時だった。
今までずっと沈黙を保ってた、私達以外にこの場にいる"もうひとり"。
今もきっと目にこそ見えないけどそのへんで、胡座でも掻いてつまらなそうに欠伸してるだろう筈のそいつが。
『おい。コトネ』
普段の無気力な声とは打って変わった、抜き身の剣身みたいな鋭い声で。
「――おまえ、とんでもないところに連れてきやがったな」
そう言い放って、私の指示も待たずに姿を見せて。
そのまま、何がなんだか分からない私を無視して。
突然のことに目を見開くにーとちゃんに。
いや、正しくは――その後ろに向けて。
なんの躊躇もなく、剣を振るった。
◆◆
私は、それを見た。
つい一瞬前までは、確かにそこには何もなかった。
いや、何も"いなかった"はずなのだ。
なのにそこに、誰かがいた。
誰かが、顕れた。
その出現に音はなかったが、もし音にするならきっとこうだ。
――ぬるり。
虚空から、雫がこぼれ落ちるように。
水飴のようにどろついた、錆色の雫が滴るように。
鏡の中の自分が、ひとりでに笑い出したみたいな、現実感の狂いそうな違和感を持って。
そいつは、私達の前に、そしてにーとちゃんの背後に顕れた。
金髪の男だった。例えるならホストみたいな、そんな綺羅びやかな魅力と。
本能に訴えかけるような嘘臭さを孕んだ、空寒い眩しさを湛えた男だった。
「にーとちゃんの顔立てて、黙って見てようと思ってたんだけどな」
「黙って見てられる野郎のツラかよ。入った瞬間から臭ぇ臭ぇ思ってたぜこっちは」
私のサーヴァント、セイバー。
原初の刀鍛冶たる彼女は、隠そうともせずに殺意を剥き出していた。
それはさながら、先日にあの狂戦士主従と邂逅した時のよう。
だがそんな、こと"ヒトを殺す"ということの頂点に近い女の殺意を受けて尚金髪の男は飄々と笑っている。
「傷つくね。これでも一応自分の美貌(ツラ)には自信持ってんだけど」
吐き気のする美しさ。
そう表現するのが、きっと正しい。
雄々しく佇むライオンの鬣が、よく見ると全部座頭虫の足でできているとか。
虱を何億匹と集めて拵えられた名画の写し絵だとか、そんなやたらとおぞましい文学的表現が脳裏に浮かぶ。
でもそれはきっと、相手が端から自分が"そう"であることを隠そうともしていないからこそ分かることで。
もしも街角でいきなりこれに話しかけられたなら、自分はむしろ好意的な印象をさえ抱いてしまうのではないかと思えた。
それほどまでに、よくできた男だったのだ。できすぎているくらいに。
「ろ、ロキくん……! 出てきちゃダメだって言ったのに……!!」
「そりゃちぃと無理な話でしょにーとちゃん。そこの物騒なちびっ子は、部屋入った瞬間から君の素性にも気付いてたみたいだよ?」
ロキ、と。
トバルカインを知ってるような人間なら当然知ってるようなとんでもない名前がしれっと呼ばれたのも驚きではあったが。
今の私にとって大事なのは、そこではなかった。
そうだ――聞かなくちゃいけないことは他にある。
おろおろと慌てた様子の親友に、私は恐る恐ると問いかけた。
「え……にーとちゃん"も"、もしかして、そうなの……?」
「わ、わたしが聞きたいくらいなんだけど……ことちゃん、"も"……?」
質問に質問で返すという、会話の悪例の見本みたいなやり取りだったが。
私の問いに対するにーとちゃんの言葉は、間違いなく答えそのものだった。
えらくだぼだぼの、いわゆる萌え袖のパーカー。その袖を、にーとちゃんがばっと捲る。
それに合わせて私も、自分の袖をたくし上げた。
らしくなく整えられた部屋の中で、ふたつの〈令呪〉が晒される。
このひと月ですっかり見慣れてしまった自分の刻印と。
今の今まで再現された人形だと思っていた親友の刻印。
その存在は、私達が互いに聖杯戦争の参加者で。
最後のひとつの椅子を奪い合うのを運命づけられた敵同士であることを、この上なく雄弁に物語っていた。
(――あ。やばい、なんか、くらくらしてきた)
事此処に至って、私はようやく自覚する。
たぶんこれは、私にとって一番起こってほしくないことだった。
友達はそれなりにいる。でも、本当の意味で胸襟開いて関わってきた相手はこいつだけだ。
にーとちゃん。腐れ縁で、きっと親友で。そして、私の人生への期待を劇的にぶっ壊してくれやがった女。
そんな彼女が私と同じで、ひとりのマスターとしてこの世界に存在している可能性。
こいつと、最後の椅子を奪い合わなければいけなくなってしまう可能性。
それを私は、こいつの存在を知った日からずっと無意識に恐れ続けていたのだと理解した。
こいつが、この何から何までぶっ飛んだ"天才"が。
私の知る世界の中で唯一、明確にフィクションの存在だった天枷仁杜が。
――私みたいなやつですら手にできる〈資格〉を持ってないだなんて、考えれば考えるほど妙な話なのに。
死にたくはない。
こんなわけのわからない世界に骨を埋めるなんて絶対ごめんだ。
だけど。
こいつを殺して、先に進むのは。
自分のために、この〈物語(フィクション)〉を終わらせるなんてのは。それは、もしかしたら、もっと……
「大丈夫かい」
視界が眩み、吐き気さえ覚えた。
貧血で意識が途切れそうになる。
そんな中、不意に軽薄な声が鼓膜に触れた。
そして私の世界が、にーとちゃんの部屋が、突如として一面の花々に埋め尽くされた。
「心配要らないよ。彼女にはオレが付いてる」
美しい、この世のものとは思えないほど綺麗な光景だった。
色とりどりの、私の知るどれとも違う花が咲き乱れたちいさな箱庭。
そう化した部屋の中で、にーとちゃんの後ろに佇んで男は笑っている。
その笑顔は親愛を示しているようで、でも決してそうではない。
そこにあるのは優越感。社交辞令の優しさを笠に着た、見せつけるような微笑み。
駄目だ、と思う。こいつに、にーとちゃんは渡せない。
恐怖などなかった。親友と最後の椅子を争わねばならない絶望の中で、私が思ったのはそんな感想。
そしてそれを汲み取ったかのように、花畑を切り裂いて躍るシルエットがひとつ。
「――おい、てめえ誰のモンに手ぇ出してやがる」
顔いっぱいに"不快"の二文字を貼り付けて。
赤銅色の錬鉄者が、すべての牧歌を切り捨てていた。
◆◆
「お前がどこの誰かは正直興味もない。ただ、お前が生きて空気を吸ってることが私は不快だ」
よって今此処で死ね。
判決は端的、それでいて理不尽。
理性よりも感情が優先された時代の価値観。
殺意という、最も分かりやすい三行半が銀の軌跡を描いた。
神代の花の首を飛ばし。
瞬きよりも速く、切り込む。
トバルカインは武芸者ではない。
よって、作法にも風情にも拘らない。
騎士道、武士道、そうした観念への造詣などある筈もない。
彼女が狙うのは常に急所、最も効率よく命を奪える要点だけだ。
轟いた朝採れの無銘剣が、一秒の内に七度。
嗤う悪童の喉笛、頸動脈、眉間、心臓、肺、大腸、頚椎へ向けて乱舞する。
疾く死ね、伝えるのはそれだけ。
お前が死んだ後のことはこっちで考えるから安心してこの世界から消えろと。
死をもってそう伝える七閃を前にしても、笑みは崩れず。
しかしてそれは、彼が迫る死を知覚することもできず呆けている盆暗であることを意味しない。
「カッコいいじゃん。ちっちゃいのに偉いね、飴ちゃんいるかい?」
七箇所七通りの死を、一振りの槍が止めていた。
荘厳を絵に描いたような、神話の槍だ。
宝槍、名槍、神槍と優れたる槍にも数がある。
だがこれは、その中でも間違いなく群を抜いた代物であるとひと目で解る。
直視するだけでも心が震え、足の竦む威容(フォルム)。
"最低でも"ひとつの神話体系の頂点に君臨する者が担ったであろうと理解させる強さを、それは言葉などないままに発していた。
大神宣言(グングニル)。
北欧の大神、オーディンの担う、外れずの槍。
トバルカインの贈る"死"を小揺るぎもせずにすべて受け止めた槍身は、傷のひとつもないままロキの手にあり続けている。
「ああ大丈夫、君の返事は聞いてない。
君がどう思おうが、何を答えようが、この槍だけは外れない。
そういう風になっているのさ、そして鯉口を切ったのは君の方だ」
死を凌いだ大神の槍が、ひとりでにその照準を定める。
殺人狂は死を数で用立てるが、神なら数など必要としない。
神の"死"は、ただひとつでいい。
個にて個を奪い去る、究極の一。
神槍の鼓動を聞きながら、その脅威性を過不足なく理解しながらもトバルカインは臆さなかった。
「やってみろよ。ペラペラ喋って自己暗示でもかけてんのか?」
「いいね。そうでなくっちゃ」
じゃあ死んでみろよ――嘲笑と共に解き放たれる、神の槍。
それはもはや、壮絶ですらないただの"線"だった。
飛翔、という過程を限りなく切り詰めて放たれる死という結果の具象化。
まさしくこれぞ外れずの槍、神の殺意は罪人の子を天の代わりに裁き奉る。
が。
トバルカインはその文字通りの死線を、極限にまで磨き上げられた動体視力で余さず視認していた。
速度は異次元。言うまでもないことだが、回避はほぼ不可能。
威力も頭抜けている。見かけ倒しではない、一撃必殺の概念をこの槍撃は体現している。
避けられず、耐えられぬ。そう判断したからこそ、取れる行動はひとつだった。
その行動に全神経を集中させ、抜き身の刃をか細い腕で躍らせる。
刹那。大神宣言と無銘の刀剣が、超音波と見紛うような甲高すぎる音を立てて接触した。
当然にして、砕けたのは剣の方。
破砕した銀(しろがね)の舞う中で、しかしトバルカインは密かに不可能を可能としていた。
大神宣言の軌道が、わずかながらに逸れたのだ。
それをいいことに、しかし誇るでもなく赤銅の凶剣は前へ踏み出る。
懐から抜いたのは、この国では短刀(ドス)と呼ばれるだろう小振りの刃だった。
しかし原初の鍛冶が鍛えた鉄ならば、その時点でそれは岩を裂き、百の命を摘み取る凶器として成立する。
小柄な体格を最大限に生かした速度。
歴戦の剣士、侍にさえ並ぶ身のこなしはすべてが敵を殺すため。
セイバークラスでありながら、アサシンクラス顔負けの速度と効率で敵を屠る殺人者。
彼女こそは生き竈のトバルカイン。究極の一たる刃物を鍛えるべく専心と試行錯誤を重ね続けた、はじまりの刀鍛冶である。
「心底気に入らないが見事だよ。有無を言わさず、何も許さず、一撃で殺す。その考えには私も理解を示せる」
だからこれで、お前に喝采を贈ってやる。
短刀一閃。今度は、無駄に数など用いない。
ただ一撃。しかし最も冴えた一撃。
命を刈り取る、ヒトを殺す。大神の神威に比べれば見窄らしく無粋なれど、死を与えるという一点においてはともすれば勝る。
そんな斬撃が、北欧の悪童王の首筋を一太刀のもとに切断した――
「いいね」
その筈だ。
なのに、トバルカインの斬撃はロキの指二本で阻まれていた。
眉間に皺が寄る。不可解が、彼女にそんな顔をさせていた。
(――どういうことだ? なんで今のが防がれる)
トバルカインは、人体の構造というものを完璧に理解している。
ヒトを殺す道具を造ろうとする上で、彼女が最初に極めたのがそれだったからだ。
どう握り、どう振るうのが最適か。どこを斬り、刺すのが最短か。
職人というのは恐ろしいもので、一線を退いていてもいざ剣を握ると昔の感覚が瞬時に戻ってくるものだ。
その上でトバルカインは断言する。自身の、目の前の男に対する分析にミスはないと。
故にこそ、不可解だった。理屈上、今放った一撃は彼にはどうやっても防ぐことのできない、反応することの叶わないものだった筈だから。
「……舐めてやがんナ。この私につまんねえ猿芝居かましやがって、八つ裂きじゃ済まさねえぞ」
「なんのことやら。とはいえ、そうだな。君はなかなか楽しめそうだし、オレももう少し本気ってものを見せてあげようか」
煌々、という二文字が脳裏に浮かぶ。
ロキの背後に、未知の魔力が揺らめき始める。
蜃気楼のように。真夏の陽炎のように。あるいは、うたた寝の際で垣間見る夢の前兆のように。
奇妙にして、奇怪。
北欧の悪童王の逸話は座を経由し知識としてインストールされている。
何が起きても、起きなくても不思議ではないかの神話きってのトリックスター。
だがこれほどまでに無茶苦茶か。これほどまでに、滅茶苦茶な真似ができるのか。
嫌悪と一抹の疑念を胸に、トバルカインはチッ、と小さく舌を鳴らした。
興を乗らせる前に殺しきれなかったのは間違いなく自分の手抜かりだ。
さて、何が来る。その上で、どう殺す。深まっていく意識、練り上げられていく色のない殺意。
それを愛玩するように見下ろしながら、ロキの道具袋から次なる荒唐無稽が飛び出そうとして――その時。
「す、すすす、すとーーーっぷ! ストップだよロキくん!! やりすぎ!! 気持ちは分かるけど一旦待って!?」
生きるか死ぬかの領域まで激化していく戦いに歯止めをかけたのは、どうどう、とロキの袖を引っ張ったちいさな女の耳触りな声だった。
◆◆
天枷仁杜は困惑していた。
というのも、彼女も彼女で想像すらしていなかったからだ。
自分の親友であり、頼れる相棒であるところの"ことちゃん"。
高天小都音というたぶん唯一の友達が、自分と同じく聖杯戦争のマスターとしてこの世界で生きていたなんて。
困惑したが、それはすぐに焦りに変わった。
仁杜はロキの強さを知っている。
彼の性格もだ。このままでは、ロキは本当に目の前のふたりを殺してしまうかもしれない。
「ことちゃんは殺しちゃダメ! なんかこう、いい感じにうまくやっていけるかもだし! ね! ね!」
「……そうは言ってもなあ。あちらさんは見ての通りやる気だよ?」
「う、うーん……! じゃあサーヴァントちゃんの方だけにしよ! わたしのただでさえ少ない友達がますますいなくなっちゃうよー……!」
なのでとにかく、がんばって止めることにした。
いや、聖杯戦争に居合わせちゃったんだから最終的にはどの道……なのかもしれないけれど。
少なくとも今この場で、さくっと殺しちゃうのはどうにも嫌だった。
するとロキはやれやれ、と困ったような顔をして目の前の凶剣(セイバー)を見やる。
だそうだが、君はどうする? と、暗にそう問いかける顔であった。
トバルカインはそれに対し、数秒沈黙する。
だが結局は、渋々といった様子で短刀を放り捨てた。
――彼女としても、この場で続けるのは旨くない。そう判断したらしい。
「……お前、コトネの友達なんだっけ?」
「ひゅっ。あ、えぇと……はい」
「お前みたいな奴を見てると私はちゃんと腹立つんだが、そういうことなら忠告しといてやる。
そのクソとはさっさと手ぇ切っとけ。ていうか切れ。私はそいつと同じテーブルを囲みたくない」
「ひぇっ……。ろ、ロキくんはそんなに悪い人じゃないよ~……? 会社も燃やしてくれたし……」
「擁護で出てくるエピソードが最悪すぎんだろ頭溶けてんのかボケ女」
吐き捨てながら、どん、とその場に腰を下ろして胡座をかく。
トバルカインとしては、少なくともこの主従――いや、最低でもロキの方だけは始末しておきたかった。
何しろ見ての通りのろくでなしふたりだ。生かしておくことにメリットがない。自分には、それがまったく思いつかない。
だが、依頼人(クライアント)の意向がそれと相反するものであるなら無理を押してまで考えを貫くつもりはなかった。
職人として一番脂の乗っていた"全盛期"の彼女ならばそんなもの知ったことかと自分の判断を最優先にしていただろうが、既に心は折れ、やる気も失せた今のトバルカインにはそこまでの突出した熱がない。
小都音は感謝すべきだろう。トバルカインを敗北させ膝を折らせた"現実"という障害に。
「……はー。ごめん、ちょっと取り乱した」
らしくもないことをした。
呼吸を戻し、小都音は向こう側の仁杜へ向き直る。
思考の整理が必要だった。
だが、よくよく考えれば自分の行動指針はそもそも破綻しているのだ。
聖杯戦争とは最後の一組を占う戦儀。
願いを持たず、かと言って積極的に犠牲を払って生き残りたいとも思わない自分のような演者は存在からして異端、理に反していると言っていい。
であれば――、まだ此処で絶望するには早いと気付いた。
「……、にーとちゃんもマスターだったんだ。ぜんぜん気付かなかった」
「わたしもだよぅ……。……どうしよっか、これから」
「んー。まあ私の方は正直、にーとちゃんなんていつでも食べちゃえるから敵としては怖くないんだけど」
「ひどい!? ふ、ふふーん。でも今のわたしにはロキくんがいるよ。超絶スパダリなつよつよサーヴァントなんだから」
「虎の威を借る狐、ならぬロキの威を借るニートだね。今のうちに忠告しとくけど、絶対アサシン系の奴らには気配っときなよ。
どんなにその胡散臭い男が強くたって、にーとちゃんは見た感じ相変わらずぽんこつで貧弱な草食動物でしかないんだからね」
小都音は思考する。
その上でひとつ、明確なNGを打ち出した。
それは"天枷仁杜が死亡すること"だ。
小都音は友人の屍を踏み越えて進むことに耐えられるメンタリティをしていない。
生きて帰りたいのは未だ変わっていないが、それでも存在を知ってしまった以上、帰る時には隣に彼女がいることが前提条件になった。
無論、口で言うほど簡単なことでないのは百も承知だ。
仁杜ともども生き残るというのは、聖杯戦争そのものに"付き合わない"のと同義。
定められたゴールとはまた違う、中から外に逃れる出口としてのバックドアを用意するという目的に向けて足を進めることになる。
(セイバー。私さ、この子は絶対殺したくないし、死なせたくない)
(言うと思ったけど。……そこまでして守ってやるほどの女かね、コレ。
それに横に居る奴がちぃと厄(やば)過ぎんぞ。こいつを残しとけばそれだけで、お前の嫌う"無用な犠牲"とやらがごまんと出るんじゃねえの?)
(――それはそうなんだけど)
トバルカインの指摘はもっともだ。
実際、小都音もそう思う。
この男は、間違いなく"ろくでもない"。
いつか悪い男に引っかかりそうと常々心配はしていたが、まさかこんな最悪の状況でそれを引くかと頭を抱えたくなる。
ただ。
(それでも、逆に言うなら。
こいつが付いてるなら、にーとちゃんがあっさり死んじゃうなんてことはないよね)
(……、……)
(そこんとこ、セイバーはどう思う?)
存在としては間違いなくこの"ロキ"と呼ばれる男は最悪と言っていい。
トバルカインのような眼を持たない素人の小都音でもわかることだ。
しかし認めたくないことではあったが、この世界においては自分よりも彼の方がよほど彼女を守る仕事ができる。それもまた、事実だった。
(……さっきの戦闘がもっと長く続いてたら分かんなかったけどな。
こいつが一番警戒してたのは、たぶん私に斬られることじゃねえ。ムカつくけど)
(――じゃあ、やっぱり?)
(ああ。少なくとも、今すぐに使い潰そうって魂胆じゃあねえのは事実だ。
というかむしろ、ぽっと出のお前にこそガチめの苛立ち向けてた感じだな。
それが良いことと私には思えねえが、多分このロキ野郎は仁杜のクズを気に入ってる)
トバルカインは、敵を視る。
見て、観て、診て、視るのだ。
その彼女が抱いた印象として、悪辣なるロキは天枷仁杜をすべての悪意の例外としている。
一体このぼんくらの何が彼の琴線に触れたのか分からないが、そういう意味では小都音の推測は当たっていると言えた。
(それでも私は反対だぞ、今お前が考えてることに対しては)
ふん、と鼻を鳴らして言うトバルカインに。
小都音は、同じく小さく息づいて応えた。
(ありがとね、心配してくれて)
(するか。うぬぼれんな)
(でも、私にもさ。優先順位ってものはあるみたい)
自分ひとりで生き延びるために、犠牲を出すことは気が引ける。
だがそこに、彼女の存在が追加されるのなら話は別だ。
顔も知らない"誰か"の命と、目の前の"親友"の命を、高天小都音は等価値とは考えられない。
彼女は凡人だから。善人ではあっても、決して聖人ではないから。
当然としてそこには、残酷な優先順位が顕出する。
「――にーとちゃん。私さ、あんたを殺すのはやっぱ嫌だわ」
さっき、仁杜はロキに小都音を殺さないように懇願してくれた。
天枷仁杜は、付き合いの長い小都音の目から見ても断じて褒められた人間ではない。
だが、いいところはあるのだ。それが、こういうところだった。
どんなに不義理でも、ダメなやつでも、こういうところがあるから嫌えない。
何度だって手を離す機会はあったのに、結局小都音はまんまと絆されて、握ったその手を離せなかった。
「……だからさ、手を組もうよ。
目指すゴールは私達がふたり、どっちも生きて帰れる未来。
もしダメそうだったら、それはその時考えよう」
口にしたその言葉に、仁杜はこくん、と小さく頷いた。
それを見て小都音は笑いつつ、決意を固める。
自覚はあった。自分が今、安直なことを言ったという自覚は。
聖杯戦争を抜け出せる、銀河鉄道の乗車券。
そんなものが実在したとして、券を何枚用意できるのか。
見知らぬ誰かも乗せられるなら万々歳。
けれど券の枚数が限られていたら? その時自分は、"生きたい"と願う人たちに何をするだろう。
いつまでも凡人のままではいられないのかもしれない。
今や自分の世界は、すべてが虚構(フィクション)になってしまった。
そんな悪夢みたいな世界で、こいつの手を取るのならば。
握り続けることを、選ぶのならば――。
「……ちょっと頭回してくる。また後でさ、ご飯でも食べに行こ。
そ、れ、と! 連絡は本当に、ほんっっっとうにこまめに返すこと!
この期に及んでいつもみたいに既読無視とかかましたらきびきび見捨てるからね!!」
そう言って。
小都音は、静かに座っていた場所を立ち上がった。
既に部屋の中から花は消え、それどころか交戦の痕跡すら欠片も残っていない。
それでも凡庸な女の心だけは、確かに数分前とは違うかたちへ変じつつあった。
◆◆
「うぅん、複雑……すっごい、複雑……。
ことちゃんがいてくれるのはすごい心強いんだけど、いてほしくなかったなぁ……」
天枷仁杜は、高天小都音の去った部屋の中でひとり頭を抱えていた。
仁杜はどこまでも俗な人間だ。ダメ人間ではあっても、親しい相手は軽んじられない。
むしろどっぷりと依存する。あれやこれやとその存在に甘え散らかす。
そして仁杜にとって、人生で唯一と言っていい"親しい相手"こそが小都音だった。
仁杜に、小都音は殺せない。
それだけは無理、と言ってもいい。
正直仁杜は、別に顔も知らない誰かがどれだけ死のうと二秒で忘れられる人間である。
テレビで大きな事故や災害のニュースを見れば「かわいそう」とは思うけど、別に心を痛めたりはしない。
ただ、身内であれば話は別だ。仁杜は小学生の頃、飼っていたハムスターが死んだことで半年間学校を休んだことがある。
そのくらい、仁杜は自分の"内"と"外"を区別してあたる。
そんな彼女に、十年来の友人を排除して勝ち残るということはできそうにもなかった。
「にーとちゃん友達いたんだ。声出してびっくりしたわ」
「いるよ~……。ていうか話したことなかったっけ、ことちゃんのこと」
「聞いてないねぇ。んー……アレだな。にーとちゃんには釣り合わないねえ」
「ひっどーい……! ま、まあ確かにことちゃんはめちゃくちゃ真面目ないい子だけど。
勉強もわたしよりできるし、たぶんお仕事もすごいちゃんとしてるんだろうし……」
ロキ。
――否、
ウートガルザ・ロキは笑みを絶やさない。
だがその実、彼の内心はある種の失望を孕んでいた。
仁杜に対するものではない。彼女はロキにとって、冗談抜きに恐らく最初で最後であろう対等に付き合える友人で、親友だ。
嗤う巨人が失望していたのは、仁杜の友人として現れた高天小都音の方。
連れているサーヴァントは悪くなかったが、従えている彼女の方は正直期待外れもいいところだった。
「んー」
何が悪いって、見どころが無すぎる。
あれは率直に、凡人という以外に形容のしようがない女だ。
月並み。そんな言葉が、真っ先に脳裏に浮かぶほど。
奇術師は細やかなモノに拘る。ロキにとって小都音は、自分と仁杜の舞台に不似合いな独活の大木であった。
「にーとちゃんはさ。オレがあの子ぶっ殺したりしたら怒る?」
軽薄に笑いながら、冗談めかして問いかける。
偽らないのは信頼と、そして親愛の証。
トバルカインの見立ては正しく、だがそれ以上にロキは仁杜に誠実だった。
似合わない話だが、彼はこの女に対してちゃんと"友達"をやっている。
この子にだけは何も偽らない。
共に歩み、共に笑い、共に勝って支配する。
それでこそ最高の奇術舞台。パートナーへの不実は、至高の舞台を汚すノイズになる。
その問いに、仁杜は困ったように笑った。
もう、ロキくんったら。
そんな台詞が口にする前から聞こえてきそうな、そんなへにゃりとした笑顔。
「怒るよ」
そこからいつも通りのトーンで吐かれた言葉に、ロキは"ぞく"と高揚する。
ロキは本物の神を知っている。オーディン、ロキ、トール。その他諸々。
あらゆる神を知り、しかして遜ることなく嘲笑ってきた霧煙る巨人王。
その彼が、震えた。骨の髄から、この一瞬確かに気圧された。
「冗談。やっぱりにーとちゃんは最高だね」
「えへへへ……。照れる~~~」
――ああ、やはりあの小都音という娘は何も分かっていない。
月に魅せられた男と女は、正反対のままに同じ星に仕えるのだ。
◆◆
『信じらんない……』
私は、大はしゃぎする友人の隣でひたすら呆然としていた。
あのひと悶着から、ちょうど十分。
今、私達の見上げる空には、天井がない。
ひとかけらの空も見えなかったそこに、今度はひとかけらの雲もない。
天井の取り払われたそこには、本物の空が広がっている。
星空だ。
無数の流星が、光の軌跡を残しながら流れて消える真夏の星空。
流星群が流れ出したその時、私達の町から確かに雲が消えていた。
『こんなことあんのかよ、現実に……』
わからない。もしかすると上の方はすごい暴風で、飛行機も飛べない有様なのかもしれない。
確かなことはひとつ。あの時、この場に留まろうと言ったにーとちゃんは正しかったということだ。
十分で、すべての雲が消えた。十分で、流星群を最高の形で見上げるためのすべてが整った。
場所。人。そして天候。私達はふたりきりの山頂で、ふたりだけの流星群を見上げていた。
『ことちゃん!』
『あ、う、うん――』
わけがわからない。
夢でも見てるみたいだ。
そう思って呆ける私の手を、にーとちゃんが握った。
『見てよ、見えるよね、ほら!』
『うん、見えてる』
『星だよ、星! 流れ星! 流星群! わあああああ……!』
――なんでも。
この年の流星群は、過去のと比べても相当大規模な部類だったらしい。
実際、本当にすごい光景だった。
空の代わりに巨大なスクリーンを用意して、そこにCGで作った映像を流してるんじゃないかとか。
そんな益体もないことを考えてしまうくらいには凄まじい、まさに宇宙の神秘を感じる絶景だった。
だけど私は正直、あの日の星を今も鮮明に覚えてるかというと微妙だ。
記憶なんて誇張なり曖昧化なり入って然るべき不確かなものだから当然と言えばそうだけど、そういう理由ではなくて。
『ほんとに、きれい――』
隣で、目をきらきらと輝かせて。
比喩でなく、空の星を反射させて、瞳をきらきらに染めて。
とびきりのきらきらした顔でそう言う、友人の顔が。
――本当に、綺麗だったから。
天枷仁杜は、どうしようもない人間だ。
私が太鼓判を押す。たぶんあいつのことを親の次に見てきたのはこの私だから。
その私が、認める。断言する。あいつと関わるのにはとても強い覚悟と忍耐が必要。
見た目いいのが好きなら、犬とか猫を飼った方が遥かにハードルが低いしあっちも応えてくれる。
とにかく。私の腐れ縁、たぶん親友って呼んでもいいにーとちゃんは、そういう人間なのだ。
だけど。
あの日、あの夜。
あの夏の日のにーとちゃんは――
すべての星を押しのけて。
星空のセンターステージに立った、本当に綺麗な〈お月さま〉だった。
ちなみに。
その後山を降りる最中、当たり前みたいな顔をして雨が降ってきた。
すぐに本降りの土砂降りになって、ふたりして泥だらけになりながら死ぬ思いで下山して。
やっと降りきって幽霊みたいに歩いてるところを、通りがかった警察官にあっさり補導された。
親にも学校にも死ぬほど怒られるわ、内申の失点を取り返すために以前にもまして勉強に熱入れなくちゃいけないわで、あのひと夏の冒険は私のその後の生活にけっこうな爪痕を残してくれた。
でも当のあいつと来たら「怒られちゃったねぇ」なんてにへにへ笑っていたのでさすがに私もキレて、にーとちゃんと一週間(文面でのやり取りを会話に含むなら、いまだに抜かれていない最高記録だ)は口を利かなかった。
……そんなだから、こんなことになるまで思い出すこともなく記憶の抽斗の奥にしまわれていたのだと思う。
あれからだいぶ経って、私達もお互い、大人になった。
そして今。私達はまた、冒険のスタートラインに立っている。
私は凡人。
あの子は、月。
ならば私も、せめて――
【中野区・とあるマンション/一日目・午後】
【高天小都音】
[状態]:健康、動揺(持ち直してきた)
[令呪]:残り三画
[装備]:
[道具]:トバルカイン謹製のナイフ
[所持金]:数万円。口座の中身は年齢不相応に潤沢。がんばって働いたからね。
[思考・状況]
基本方針:生き残る。……にーとちゃんと二人で。
1:思考の整理。
2:ロキに対してはとても複雑。いつか悪い男に引っかかるかもとは思ってたけどさあ……
[備考]
【セイバー(トバルカイン)】
[状態]:健康
[装備]:トバルカイン謹製の刃物(総数不明)
[道具]:
[所持金]:数千円(おこづかい)
[思考・状況]
基本方針:まあ、適当に。
1:マジであいつらと組むのかよ……(げっそり)
2:ヤバそうな奴、気に入らん奴は雑に殺す。ロキ野郎はかなり警戒。
[備考]
【中野区・仁杜の部屋/一日目・午後】
【天枷仁杜】
[状態]:健康、ちょっと動揺
[令呪]:残り三画
[装備]:
[道具]:
[所持金]:数万円。口座の中にはまだそれなりにある。
[思考・状況]
基本方針:優勝して一生涯不労所得! ……のつもりだったんだけど……。
1:ことちゃんには死んでほしくないなあ……
2:お酒飲みたいなあ……
[備考]
【キャスター(ウートガルザ・ロキ)】
[状態]:健康
[装備]:
[道具]:
[所持金]:なし(幻術を使えば、実質無限だから)
[思考・状況]
基本方針:享楽。にーとちゃんと好き勝手やろう
1:にーとちゃん最高! 運命の出会いにマジ感謝
2:小都音に対しては認識厳しめ。にーとちゃんのパートナーはオレみたいな超人じゃなきゃ釣り合わなくねー?
[備考]
※部屋の中でちょっとだけど戦闘し、ウートガルザ・ロキは幻術も使いました。
隣室にレミュリン組がいれば気付く可能性がありますが、ロキがその辺に対して手を講じているかどうかは後のお話に準拠します。
前の話(時系列順)
次の話(時系列順)
最終更新:2024年08月18日 09:29