この穏やかな日々はそう長くは続かない。
そう覚悟したレミュリン・ウェルブレイシス・スタールが、最初にやろうと決めたこと。
それは……

東京という土地を、もう少しばかり知ろうとすることだった。

「うわぁ……」

新宿駅の西口から出て、ちょっとした電気街の細い路地をかき分けるようにして抜けて。
途端に広がる、太い道路と天を衝くような高層ビル群。
そして、あまりにも豊富な街路樹と植え込みの緑。

レミュリンもロンドンっ子だ。高層ビルそのものには今さら驚きはしない。
西欧の都市としては緑地公園の類も比較的多い方だ。街路樹だって多く植えられている。

けれど、高層ビルの密度。
そして、その合間にこれでもかと盛られた緑の豊富さ。
既に東京という都市で散々見てきたものではあるが、改めて圧倒されてしまう。

新宿西口、東京副都心。
東京でも珍しいくらいに整備された道路の合間に、ひときわ巨大なビルが整然と並ぶ。

本日のレミュリンの目的地は、その中心。
東京都庁ツインタワーの45階、展望室である。

留学生のロールを与えられて一ヵ月あまり、レミュリンはまだまだ東京という街を知らない。
ほとんど住まいと学校の間を往復するだけの日々だった。
そう思い当たった彼女は、今すぐ自分にもできることとして、至極単純な解を思いついた。

――高いところから見てみよう。

上から見渡してみれば、位置関係だって理解しやすくなるだろう。いつかきっと何かの助けになるだろう。
そんなシンプルな思い付きで、それにふさわしい場所を探してみた。
そうして見つけた候補のひとつが、東京都庁。
東京スカイツリーという名の電波塔も有力候補だったが、いささか土地勘のないあたり。
その点、新宿駅であれば流石に分かる。
予約不要、料金無料というのも有難かった。
立場の割には恵まれている自覚はあったが、学生の一人暮らし、懐事情は決して余裕のあるものではないのだ。

(いやはや大したものだな、この時代の都市は)

霊体化して従うランサーも、素直な驚きの声を念話で伝えてくる。
彼もまた東京という街にはだいぶ慣れてきたはずだが、新宿副都心の光景には流石に感じるものがあるらしい。

かなりの距離を歩くことになるのは下調べの時点で理解していた。
レミュリンはてくてくと、都庁の方に向かって歩く。
大勢の人々が、あちらこちらに歩いていく。

(んっ……)
(どうしたの、ランサー)
(すまん、少し気になる気配を感じた。気のせいならいいんだが、少し離れる。
 何かあったらすぐに呼んでくれ)
(わかった)

小さな念話のやりとりを残して、身近に控えていた大きな存在感がフッと消える。
いつものことだ、レミュリンにはもはや不安もない。

これまでの一ヵ月のうちにも、既に何度かあったやりとり。
最初のうちは、すわ他の主従に襲われるのか、と不安にもなったものだが。
その全てのケースで、彼は10分もせずに「気のせいだったようだ」と頭を掻きながら戻ってきていた。
どうにも心配性が過ぎるヒーローだが、そういう所もまた、素直に好感が持てる。

やがてレミュリンは見上げるばかりのツインタワーの近くに到着する。
駅から歩いてきたレミュリンにとっての手前側、背の低い建物は東京都議会の議事堂。
2本の廊下が都庁の第一本庁舎に繋がっており、高い所を走る道路とともに、広い空間を半円に区切っている。
都民広場、と名付けられた空間だ。

レミュリンはふと小さな違和感を感じてあたりを見回す。
ここに到着するまで、多くの人々が行きかっていた。
同じく都庁を目指しているのかな、と思えるような観光客も、何組も見た。

それなのにいつの間にか、あたりにほとんど人が居なくなっている。
広い都民広場も、閑散として。
その片隅では大道芸人が1人、何やら芸をしていたが、足を止める者もいない。

「この辺って人気がないのかな……?」

漢字の看板は読み飛ばして、英語の道案内表示だけ見ていたから皆と違う所に出たのだろうか。
首を捻りながらも、少女はなんとはなしに大道芸人に近づいてみる。
だぶだぶの衣装に身を包み、玉乗りをしながら、新体操などで使う棍棒でジャグリングをしている。
白塗りの顔に赤い付け鼻。年齢や性別ははっきりしない。
故郷ではたまに見たが、東京に来ては初めて見る。

好奇心のままに近づいたレミュリンに、そのピエロはパチンとウィンクをしてみせた。



 ◇ ◇ ◇


東京都庁のツインタワーを越えてさらに西側。
近くの新宿御苑や代々木公園には劣るものの、十分過ぎるほどに広い公園が広がっている。
まるで本物の森のような木々の中に、ぽっかりと開いた空間、大きな滝の作られた池。

新宿中央公園、その中心部、『水の広場』。

ルー・マク・エスリンは そこに降り立つと同時に霊体化を解く。
大柄という表現では収まらない、規格外の巨体が陽光の下に露わとなる。
人の目を気にするまでもなく、そこにはぽっかりと無人の空間が広がっている。

東京のど真ん中、いくら公園といえども、真っ昼間から不自然なほどの静寂。
人工の滝と川の水音だけがあたりに響く。

「人払いの結界……? 否、魔術じゃねぇな、魔力が全く感じられん。なんだこりゃ?」

キャスタークラスでの現界でこそなかったが、ランサーはまさに神代の時代の神そのものである。
だから分かる。
いや、だからこそ不可解を悟る。
神話の時代から使われ、様々に姿や名前を変えつつ伝えられてきた、人払いの魔術。
用のない人物が無意識のうちにその場所を避けるようになる、基本的な暗示の魔術。

まさにそれが使われたとしか思えない状況が出来上がっているのに……
本当にカケラひとつ、魔力の残り香が残されていない。
あまりにも不自然――

ゴウッ。

「ッ!!」

そして不意打ちに警戒していたはずのランサーは、それでも一呼吸、その攻撃への対処が遅れた。
虚空から降り注いできたのは鼻を衝く異臭を伴う複数の火球。
燃え盛る硫黄の雨だ。

慌てて初弾をかわし、2発目を火傷承知で左腕で払い、そうしてようやく己の武器を呼び出す余裕を得る。

「〈氷の大釜〉ッ!」

呼びかけに応じて右手の中に現れたのは、穂先に大きな氷を纏った槍。
敵味方見境なく広範囲に焼き溶かす恐るべき虐殺の槍アラドヴァルーーを、押さえ込むための、氷の「鞘」。
もちろん虐殺の槍もろともの召喚ではあったが、今回はその「鞘」の方に用があった。
本来の使い方ではないが、生半可な神話の炎程度なら、片手間で打ち払って余りある。
果たしてルーが2度、3度と槍を振り回せば、まき散らされた冷気が硫黄の雨を相殺し、薄い霧となって散る。

ランサーは油断なく周囲を見回す。
間違いなく他のサーヴァントからの遠距離攻撃。
だが、その攻撃を放ったはずのサーヴァントの姿も気配も感じられない。

「――へえ、煉獄の炎を払えてしまうんだ」
「……はッ!!」

声は背後から聞こえた。
ランサーは振り向きざまに氷の槍を手に飛び掛かる。
脊髄反射の行動の後に、やっと相手の存在を視認する。

猫の耳と尻尾を備えた少年の姿が一瞬だけ見えて……しかしそれはすぐに無機質な、殺意の塊へと入れ替わる。
少年が居たはずの場所に生えていたのは、葉っぱの代わりに鋭い刃がびっしりと生えた木々。
だからといって突撃の勢いはすぐには止まらない。
ランサーは自ら死の罠の中に飛び込むような格好になった。

「仏教、衆合地獄、刀葉林」
「むうんっ!」

ランサーは咄嗟に手にした槍を木の幹に突き立てる。槍の長さで眼前に迫った刃の葉をかろうじて止める。
振り返れば、猫耳の少年の姿のサーヴァントはまた別の位置に立っている。
氷の鞘に収まったままの虐殺の槍を手放して、ランサーは地面に降り立つ。今度は注意深く少年を観察する。

「だいぶ手荒いな。
 この俺に何の用だ……と聞くのも野暮か」
「この程度では、あなたとっては試練にもならないだろう、古き時代のランサーよ。
 この1ヵ月のうちに、あなたが振り払った火の粉はこんなものではなかったはずだ」

どこか覇気に欠ける少年の言葉に、長き腕のルーは軽く眉を寄せる。
こいつはどこまで知っているのか。
何を言わんとしているのか。
その目的は。

「あなたがこれまでに交戦した3体のサーヴァント……いずれの主従も、既に脱落したよ」
「……!」
「あなたとの交戦で負った傷が深かった者。
 挽回しようと慌てて別の者を襲って、そこで返り討ちに逢った者。
 すっかり反省して大人しく平和に過ごそうとしていたのに、運悪く〈蝗害〉に巻き込まれて擦り潰された人もいたな」
「……聖杯戦争の習いだ、何も恥じることはない」
「ぼくもそのこと自体を責める気はないよ。ただ」

分類されるクラスを推し量る要素も見えない、猫耳の少年は、そこで少しだけ、暗い笑みを浮かべた。

「ただ――きみはちょっと、過保護が過ぎるんじゃないか?」
「……ッ!!」

ルー・マク・エスリンの判断は、十分過ぎるほど早かったと言っていい。
たったそれだけの言葉で、相手が言わんとすること、示唆していることに思い至り、瞬時に身を翻そうとした。
少年に背中から襲われる危険も承知で、視線を切って振り返って跳び上がろうとして。

ジャララララッ。

それでもなお、一呼吸遅かった。
大地を蹴ったその瞬間に、彼の手足に鉄の鎖が絡みつく。大地に縫い留められる。

(さっきから、何なのだ、これは……!)

逃れよう、引き千切ろうともがきながら、長き腕のルーは不可解過ぎる敵の攻撃に混乱する。

硫黄の火の玉も、刃の生えた木も、いま手足を拘束する鎖も。
いずれも強い魔力を帯びている。
勝手知ったるケルト神話ではないようだが、いずれもどこかの神の気配を帯びている。
何らかの神話に名を残している品々なのだろう。

だが、攻撃の「起こり」そのものには、まったく魔力の気配がない。
神話の世界の住人であれば隠しきれず纏う微量の魔力、それが動いた気配が感じられない。
そういった気配も利用して対応するのが、長腕のルーが居た頃の戦闘の常識だった。
後の時代には英霊の纏う魔力も弱まっているとは聞いていたが、まさかここまで「なにもない」とは!

ルーにとっては何の殺気もなかった所から特大の攻撃が飛び出してくる恰好だ。
常に対応が一手遅れてしまう。
負わずに済んだはずの火傷を負い、避けられたはずの鎖を避けそびれている。

「離してくれッ!」
「すまないね、こちらも子供の使いではないのでね」

英霊の中でも規格外の怪力を誇るルーが全身の力を込めても、鎖は千切れる気配すらない。
何やら不思議な力で、霊体化しての脱出すらも封じられている。
猫耳の英霊は追撃する気もないようだが、それはつまり、最初っから時間稼ぎが目的ということでもあり。

聖杯戦争。
それは、マスターとサーヴァントの、二人三脚の闘争である……すべての主従にとって。

思わずランサーは叫ぶ。

「――嬢ちゃんっ!!」



 ◇ ◇ ◇



不安定な玉の上で、道化師は危なっかしい手つきで3本の棍棒を投げ上げている。
いつ玉から転がり落ちるか、いつ取り落とすか、無責任な観客の少女もハラハラしっぱなしだ。

「……あれ? いつの間に……」

道化師が玉の上でグラリと傾いた直後、何か違和感を感じた少女は、そして驚愕する。
いつの間にか投げ上げているモノが違う。
三本の白い筒状のものなのは変わりないのだが……それぞれ、細い花束に変わっている。
持ち替えたりするヒマはなかったはずだし、棍棒や花束を仕舞っておく場所などありそうに見えない。
やがて道化師は3本とも受け止めて大きく天に投げると、軽く宙返りひとつして地面に着地する。
天から降ってきた花束は、これもいつの間にやら、細いもの3本だったはずが、一抱えほどもあるひとつの花束に変わっている。

ぱちぱちぱち。
レミュリン・ウェルブレイシス・スタールは、思わず拍手をして……そして改めて気づく。

拍手をしているのは、自分ひとりきりだ。
他に広場に誰もいない。
自分が大道芸人に近づいた時には、まばらとはいえ、多少なりとも人が居たというのに。
こんな絶技を見せられて、無視してどこかに行ってしまうなんて、そんな馬鹿な。

スッ。
辺りを見回して人影を探していた彼女は、だから気づくのが一瞬遅れた。
いつの間にか間近にピエロが近づいていて、そしてレミュリンの鼻先に花束を差し出している。
白塗りの顔には満面の笑み。ちょっと怖い。

「う、受け取れ、っていうの……? い、いや、貰えないよ、こんなの……」

ぐいっ。
固辞するレミュリンの鼻先に、ピエロはさらに花束を押し付ける。
レミュリンは下がる。ピエロはさらに踏み込んで押し付ける。
レミュリンはさらに下がる。ピエロはさらに踏み込んで、レミュリンの顔面に花束を押し付けてくる。

「わぷっ……って、あれ??」

一瞬、視界が塞がれ息が止まり、思わず反射的に花束を受け取ってしまう。
そうして再び目を開いた時……

だぶだぶの衣装に白塗りのメイクをしていたピエロが居たはずの場所には、まったく異なる人物が立っていた。
レオタード風の、何かの舞台衣装のようなものをまとった美少女。
背丈だけならさっきのピエロに近いだろうか。
しかし素早く脱ぎ捨てたにしては、脱いだ衣装もなければ、衣装を仕舞う先も見当たらない。
白塗りのメイクに至っては、いったいどうやって拭い去ったのやら。

「初めましてレミュリン! 私は山越風夏!
 それとも〈脱出王〉と名乗った方がいいかな?!
 ずっと貴方を探していたんだよ!」
「ヤマゴエ……フーカ……?
 わ、私を知ってるの……!?」
「本当は大道芸なんて余技じゃなくって、私の本当の技をもっと見せてあげたいんだけど……
 大言壮語していた私の〈助手〉が、どうも上手くいってないみたいでさ。なので手短に済ませちゃうね!」

ハイテンションに、一方的にまくしたてるレオタード姿の少女に、しかしレミュリンは不思議と不快感を抱けない。
絶妙な言葉の抑揚、コロコロと変わる表情に引き込まれる。
初対面の人物に自分の名前を知られていることにも、そんな相手に待ち構えられていたことにも、違和感を抱けない。

「私はあなたの〈運命〉を加速させに来たんだ。
 あなたには悪いんだけど、私たちはこれ以上、あなたたちののんびりした物語に付き合ってられなくって」
「私の……〈運命〉……?
 加速……させる……?」
「レミュリン。あなたには3つの選択肢がある。
 どれも簡単な道じゃない。どれも死ぬ気で頑張っても、それでも届かないかもしれない。
 けれど、選ぶことが出来なければ、あなたはどこにも辿り着けないままに終わる」

〈脱出王〉を名乗る少女は指を1本立てる。

「ひとつめ。聖杯戦争も何もかも忘れて、ここから脱出する」
「え、脱出、できるの?!」
「出来ないよ。普通はね。だから言ったでしょ、簡単な道じゃないって」

思わぬ選択肢の提示に、食い気味に問うたレミュリンに、少女は残酷に首を振る。
聖杯戦争のことを持ち出されたことに驚いているヒマすら与えられない。

「でも、ここは〈作られた世界〉で、君は〈そこに招き入れられた〉んだからね。
 原理から言って、壊して外に出ることは出来るはずなんだ!
 まだ誰も見たことのないような能力が要るかもしれない。
 あるいは、この世界を作った〈誰か〉から力を奪う必要があるかもしれない。
 それでも、出ていくことを目指して頑張る。そういう選択を選ぶことはできる」

〈脱出王〉を名乗る少女は、そして2本目の指を立てる。

「ふたつめ。他の人を全部蹴散らして、聖杯戦争で優勝する」
「…………」
「これは分かりやすいよね。簡単じゃないのも分かると思うけど、勝てば万能の願望器が手に入る。
 叶えたい願いがあるからこんな所にいるんでしょう? なら、これを選んでみてもいい」
「…………」

当たり前だが抵抗のある選択肢。
他の人を傷つける罪悪感、他の人の夢を踏みにじる罪悪感。
それらを見透かしたかのように、謎の少女はにんまりと笑う。レミュリンは目を伏せる。

「そしてみっつめ。
 今までの選択肢全てを後回しにして諦めて――〈君自身の運命〉と対決する」
「えっ」
「さっき言ったよね。君には悪いけど、君の〈運命〉を加速させてもらう、って。
 私は私の都合で、君にこれを告げる。
 君がいずれ巡り合うかもしれなかった出会いも、君の迷いも何もかも踏みにじって、ここで君に告げてしまうよ」

嫌な予感がした。
ハッと顔を上げれば、そこには先ほどよりもさらに深い、どこか底意地の悪い笑み。
レミュリンは咄嗟に制止の声を上げる――が、それも、半呼吸ほど遅かった。

「待って――」

「君の御両親とお姉さんを焼き殺した犯人は、この聖杯戦争に、マスターとして参加している。

 赤坂亜切
 対魔術師専門の暗殺者。
 その目で見るだけで人を焼く、発火能力者(パイロキネシスト)。

 ロンドンの魔術の名門スタール家の唯一の生き残りである君には、彼に報復する権利がある」

「…………ッ!!」

足元が崩れ去るような錯覚を覚えた。
まさしく、取り返しがつかない形で、〈運命〉を急加速させられた。
微かな予感はあって、ランサーともそういう話はしていて、いつかどこかで何かに出会うような気はしていて。
けれど、面と向かって、こうも明確に断言されてしまうと。
いくらなんでも、気持ちの方が追いつかない。

それでいて、相手の言葉を疑う気持ちは全く浮かばなかった。
意図も狙いもきっとあって、それでも、この言葉だけは全て真実なのだと、深く確信させられてしまっていた。

揺れる世界に、遠くから懐かしい声がする。
頼りになる声が、ジャラジャラと鳴る金属音とともに近づいてくる。

「……嬢ちゃんっ!! 無事かっ!!」
「もう時間のようだね。
 覚えておいて、君はどれかを『選ばなければならない』。
 あっちもこっちも、という欲張りは、通用しない。
 そして私たちは……君が何を選ぼうとも、君の選択を尊重して、祝福するよ」
「…………」
「では、いつかまた、縁があったら再びお会いしましょう!
 次の機会には私の本当の得意技を披露したいと思っております。
 私たち〈脱出王〉の次の舞台を、お楽しみに……!」

全身に鎖を巻き付けたランサーが、それを引きずりながら歩いてくる光景を背景に。
レオタード姿の少女は、深く大きく一礼した。
途端にランサーが盛大にすっころび、そちらを見た一瞬の隙に、〈脱出王〉を名乗る少女はもう影も形もない。
ランサーに巻き付いていた鎖も、同時に消えている。
いや、鎖が消えたから、それを引きずっていたランサーも転んだのか。

レミュリン・ウェルブレイシス・スタールと、ルー・マク・エスリンは少しだけ安心して互いに視線を交わす。
明らかにふたりを狙って接触を図ってきた謎の主従は、既におらず。
どうやら互いに無事でこの遭遇を乗り切れたらしい。
少し慌ててランサーは霊体化し、すぐに周囲には人々の雑踏が戻ってくる。
東京の真ん中に相応しい人混みが戻ってくる。

混乱する少女と、混乱するランサーを残して、東京副都心は当たり前の日常を取り戻していた。
不自然な無人の空間は、もう、どこにも残されてはいなかった。



 ◇ ◇ ◇



――結局、そのまま都庁の展望台にまで登ってみることになった。

視界の限りに東京の街が広がっていて、絶景と呼ぶしかない眺めで。
それでも、こんな所からでは、東京の全景が把握できないのも明らかだった。
改めて東京という都市の広さを実感する。
あるいはその実感だけが、今日の外出の成果だったのかもしれない。

なんとなく捨てそびれた花束を抱え、ぼんやりと窓の外を眺めながら、少女は先ほどの出会いを反芻する。

レミュリンの持つ選択肢は3つ。

脱出を目指す。
優勝を目指す。
家族の仇を討つ。

選べるのは、ひとつきり。
どれを選んでも届かないかもしれないけれど、選べなければ、そのまま朽ちて終わるのだと言う。

どうやらランサーは山越風夏とのやりとりを聞く余裕がなかったらしい。
猫の耳を持つ少年の姿をした英霊と交戦し、足止めを食らっていたという。
頑丈な鎖にがちがちに拘束されたけれど、気合と根性で、そのまま相手ごと引きずって戻ってきたらしい。
おそらくあの大道芸人の少女のサーヴァントだろう。
敵対するとなれば厄介な相手なのだろうが、不思議とレミュリンには、敵意などは感じられなかった。

(なあ……嬢ちゃん……)
(どうしたの、ランサー)
(俺は……嬢ちゃんのことを、甘やかし過ぎなのかね……?)
(なあに、急に。うーん、よく分からないけど、頼りにしているよ?)
(…………)

霊体化して付き従うランサーからの、迷いの混じった念話に、レミュリンも少し迷いつつも答える。
どうやらサーヴァント同士の間でも、何か気になるやり取りがあったらしい。
突っ込んで聞いてみるべきなのだろうか。レミュリンなどにできる助言はあるのだろうか。

あるいはそれは、ランサー自身が意識して選ぶしかない問題なのかもしれない。
レミュリンの抱える三択を、ランサーが選ぶことができないように。

眼下に広がる、平和な東京の街。
緑と高層ビルが絶妙な調和を見せる街。
仇である〈アギリ・アカサカ〉も、きっとこの街のどこかにいるのだろう。
では、もし出会えたとして、いったいどう振舞えばいいのだろうか。

レミュリンの心は、未だ揺れ続けるまま、定まらない。



【新宿区・都庁展望室/一日目・午後】

【レミュリン・ウェルブレイシス・スタール 】
[状態]:健康
[令呪]:残り三画
[装備]:
[道具]:大きな花束(山越風夏に渡されたもの)(なんとなく持ったままでいる)
[所持金]:6万円程度(5月分の生活費)
[思考・状況]
基本方針:どうしよう……
1:三つの選択肢のどれを選ぶのか決める。
2:赤坂亜切に興味。
[備考]
自分の両親と姉の仇が赤坂亜切であること、彼がマスターとして聖杯戦争に参加していることを知りました。
山越風夏のことを、大道芸人だと認識しています。


【ランサー(ルー・マク・エスリン)】
[状態]:健康。
   (多少の疲労? 左腕の火傷? どれもほんの誤差だ! 次から記載に残すまでもないぞ!)
[装備]:常勝の四秘宝・槍、ゲイ・アッサル、アラドヴァル
[道具]:緑のマント、ヒーロー風スーツ
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本方針:困ったことになったな……
1:レミュリンがこの先何を選択したとしても、ヒーローとしてそれを支える。
2:俺は過保護すぎるのか……?
[備考]
予選期間の一ヵ月の間に、3組の主従と交戦し、いずれも傷ひとつ負わずに圧勝し撃退しています。
レミュリンは交戦があった事実そのものを知らず、気づいていません。
ライダー(ハリー・フーディーニ)から、その3組がいずれも脱落したことを知らされました。


 ◇ ◇ ◇


一仕事終えて流石に疲れたので、そのまま二人は連れ立って手近な喫茶店でお茶にすることにした。
きわどいレオタード姿の少女と、猫耳と猫尻尾を揺らしたスーツ姿の少年。
遠くから「えっ、コスプレ?!」などと声が聞こえてくるが、二人は構わず店内に入って注文をする。
やがて二人の前に、それぞれコーヒーとケーキが運ばれてくる。

「流石にあの怪力は想定外だったよ。タルタロスの鎖ごと引きずって歩くだなんて」
「ほんとライダーのせいで、あの子、私のことを大道芸人だって思ったままなんだよ! どうしてくれるの!」
「半分は君の余興が過ぎたせいだろ。だいたい、あんなハンパな芸を人に見せて恥ずかしくないのか」

言い争いながらケーキをつつく二人は、しかし傍目には仲睦まじい若いカップルのようにしか見えない。
どちらも人々の視線を、意識を操作する、究極のプロフェッショナルである。
あまりに場違いな服装や容姿も、流石東京には奇人変人がいるもんだなぁ、程度で流させることだって出来てしまう。

人々の注目を浴びることも、浴びずに済ませることも。
人々を集めることも、人々を近寄らせないことも。
全てが自由自在。
それが究極のマジシャンたる、〈脱出王〉の誇る、魔術でも何でもない、ただのヒトの〈技術〉である。

「しかしそのアギリって奴、そんなに大変なのかい? 〈脱出〉や〈優勝〉と並べる程の?」
「簡単じゃないと思うよー。
 よっぽど相性が良い能力でも持って無いと、あの〈禍炎〉で一発で焼かれて終わるんじゃないかな」

前の聖杯戦争を知らないライダーの当然の疑問に、前回を知る今生の〈脱出王〉はどこか得意げに語る。

「例えば、そうだね……
 複雑な術式で、受けるはずだった火傷を相手に押し返しちゃう、色彩の魔女とか。
 焼かれる端から魔術で治しながら肉薄してくる、肉弾派の高レベル治癒術師とか。
 風の精霊との契約で多重の風の結界を展開して光を屈折させる、契約魔術師とか。
 そもそも人前に出てこない陰湿なガーンドレッド家の魔術師や、その後継たるホムンクルスとか。
 あるいは……視線の誘導に誰よりも長けた、世界最高峰のエンターテイマーだとか!
 そういうのでもなければ、きっと勝負にもならない」
「ちょっと待って。
 ぼくの聞き間違いでなければ、いま、前回の参加者全員が挙げられたように思うんだけど?
 そのアギリって子は、得意技が徹底的に無効化されちゃった可哀想な子だったのかい?」
「逆だよ。
 私たち全員、彼に対しては全力を尽くして備えて、なんとか一撃必殺で終わることだけは免れた。
 それくらいの相手なんだ。それに」
「…………」
「それに、〈彼女〉だけは、そんなアギリの視線に対抗する手段を持っていなかった。本当に何一つ」
「…………」
「そうだなー、今の〈彼女〉なら、あの後に目覚めた再生能力でなんとかしちゃうのかもしれないけどねー」

どこか楽しげに思い返しながら、少女はコーヒーをすする。
少年は少しだけ不機嫌そうな顔を隠そうともしない――〈彼女〉の話題に対しては。

「ただ、アギリ本人は、言ってみれば攻撃力に全振りだからね。
 そうと分かった上で挑めば、相打ち程度になら持っていける望みはあるんじゃないかな」
「それで〈優勝〉と〈仇討ち〉は同時には無理、って言ってた訳か。なるほどね」

優勝目的で全ての参加者を蹴散らすついでに、赤坂亜切を自らの手で排除する――というのは、なるほど虫のいい考えだ。
むしろ本気で優勝を目指したいのならば、意識して直接対決は避けて、他の参加者をぶつけるべき相手なのだ。

「まあ、結局あの子がどれを選ぶかは分からないんだけどねー」
「そもそもの話になるけど、なんであのレミュリンって子にそんなに手をかけるんだい?」
「決まってるじゃないか!
 彼女だけなんだよ、まだ〈方向性〉を持っていないのは!」
「それは……魔術師として、ということかい?」
「そう。他の子は、素人だった子も含めて、固有の〈能力〉にもう目覚めている。
 彼女だけが、まだそれを持っていない……どんな方向に目覚めてもおかしくない、貴重な〈原石〉なんだ!」

少女の熱弁に、少年は合点がいったとばかりにうなづく。
そう、この〈脱出王〉の主従は、どんな小さなものでもいい、未だ未知なる可能性の種を求めている。
それというのも。

「この1ヵ月、念入りにこの東京を調べ回ったけれど、ぼくたちの目指す〈脱出〉に役立つものは見つからなかった。
 力押しでいいなら、ざっと1ダースはやり方が思いつくけれど。
 ただどの方法も、さらに1ヵ月は時間が欲しいところだね。それも誰にも邪魔されない形で」
「えっ、すごい、そんなに思いついたの?!
 私は半分も思いつけなかったよ!
 それに私ならどれも3ヵ月はかかるかも!」
「単純に年季の差だよ。
 とはいえ、ぼくだってそこまでが限界だ。
 他に方法がなければ、巌窟王の真似事をするしかないだろうけどね。
 どう考えても、トンネルを掘り切るだけの猶予は与えられそうにないや」

派手な舞台とは裏腹に、どちらの〈脱出王〉も地味な作業の積み重ねも、選択肢から捨ててはいない。
小さなスプーンひとつで岩盤を削るような真似が必要であれば、迷わず実行するだろう……
穴を掘り抜きさえすれば、あとは劇的な演出で飾り立ててやるだけのことだ。

ただ、どうも、その「コツコツと世界の脆弱性をつつき続ける」だけの時間が、残されている気がしない。
それは主従ともに意見の一致するところであった。

だから。
小手先の策で時間を稼ぐのではなく、むしろ、全てを加速させる。
皆の運命を人為的に加速させて、その大きな揺らぎの中に、まだ見ぬ可能性を期待する。
それがこのふたりが選んだ選択だった。

「残念ながら、種も仕掛けも足りてないんだ。〈現地調達〉するしかないだろう」

例えば、客席から呼んで舞台に上げた観客の、だらしなく開いたままの上着のポケットの中。
手の中のトランプを一時的に隠しておくにはうってつけだ。
そこにペンがあればちょっと拝借して文字を書くのにも使えるし、財布でもあればトランプの転送先にすることも出来る。

手札が足りないのなら、現場にあるものを目ざとく見つけ出して活用する。
それもまた、ふたりの〈脱出王〉の基本の思考法だった。

「それこそ、ジャック先生の所にいる〈増幅装置〉。
 あれを上手く使えれば、〈彼女〉や〈彼女のキャスター〉の予想も超えられる気はするんだよねぇ」
「そんな小器用な調整が効くやつかい、あれって?
 それにその場合、障害になるのは肝心のマスターの方だろう?」
「そうなんだけどさぁ。
 でも、そこまで問題を持って来れたら、あとはきっと何とでもなるじゃん」
「確かに」

〈脱出王〉たちは笑う。〈脱出王〉たちは常人の発想の枠の外で策を練る。
全ては華麗な脱出劇のために。
とびきり異質なトリックスターは、聖杯戦争を加速させていく。



【新宿区・都庁近くの喫茶店/一日目・午後】

山越風夏(ハリー・フーディーニ)
[状態]:健康
[令呪]:残り三画
[装備]:舞台衣装(レオタード)
[道具]:マジシャン道具
[所持金]:潤沢(使い切れない程のマジシャンとしての収入)
[思考・状況]
基本方針:聖杯戦争を楽しく盛り上げた上で〈脱出〉を成功させる
1:他の主従に接触して聖杯戦争を加速させる。
2:レミュリンの選択と能力の芽生えに期待。
[備考]
準備の時間さえあれば、人払いの結界と同等の効果を、魔力を一切使わずに発揮できます。


【ライダー(ハリー・フーディーニ)】
[状態]:健康
[装備]:九つの棺
[道具]:
[所持金]:潤沢(ハリーのものはハリーのもの、そうでしょう?)
[思考・状況]
基本方針:山越風夏の助手をしつつ、彼女の行先を観察する。
1:他の主従に接触して聖杯戦争を加速させる。
[備考]
準備の時間さえあれば、人払いの結界と同等の効果を、魔力を一切使わずに発揮できます。


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最終更新:2024年09月16日 20:02