――どうしてこうなったんだろう?


 それはきっと、人間ならば誰もが一度は抱いたことのある疑問。
 予期せぬ失敗、人間関係の不和、はたまた自分の人生を振り返った時にふと漏れる言葉。
 アンジェリカ・アルロニカだって、今まで何度となくこう自問してきた。
 決闘で打ち倒した友人が、何度謝っても二度と口を利いてくれなかった時とか。
 テレビに映る同年代の学生が、思い思いのおしゃれをしてきらびやかな夢に目を輝かせているのを見た時とか。
 なんでわたしの人生、こうなっちゃったんだろう――と陰鬱な気分でそう思ったものだ。


 ――どうしてこうなっちゃったんだろう?


 アンジェリカは今、走っていた。
 息が切れる。喉が痛い。肺が苦しくて、許されるなら今すぐにでも座り込んでさめざめ泣きたい。
 まだ季節柄、日が落ちると仄かに肌寒いはずなのに、体感温度はさながら真夏の炎天下だった。
 汗が背中を濡らし、そのせいで服がじっとり貼り付いて気持ちが悪い。
 でも足は止められない。泣きたい気持ちを押し殺しながら、必死に足を動かしている。
 こんなことになるなんて思わなかった。こんなことなら、もっとよく考えて行き先を決めるんだったと心からそう思う。
 けれど後悔先に立たず。遠い異国のことわざが、冷ややかにアンジェリカへ往生を勧めてくる。


 ――いや、ほんと。なんでこんなことになってるんですか? わたし。


 走りながら、息を切らしながら、首から上だけで振り向く。
 するとああ、やっぱりいるのだ。
 距離は離れていない。いや、むしろじりじり詰められている。
 音に聞く固有時制御が今ほど羨ましいと感じたことはない。
 笑う死神はぴったり後ろにくっついていて。笑顔でぶんぶん手を振りながら、アンジェリカの気など一ミリも知らずに言ってのけるのだ。


「まーっーてーよ~~~~~!!!! なんで逃げるの~~~~~!!!」

「いぃ~~~~~~~~~~~~~~や~~~~~~~~~~~~~~っ!!!!!!!!」


 ……アンジェリカ・アルロニカ、現在全力で逃走中。
 息ひとつ乱さず追いかけてくる〈この世界の神〉を背後に、絶叫していた。
 二度と会いたくないどこぞのヤブ医者が、心底呆れた顔で首を横に振る姿がなんとなく、脳裏に浮かんだ。


 ――事は、今から数分前にまで遡る。



◇◇



 蛇杖堂記念病院を出たアンジェリカ達が目指したのは、ホムンクルス36号との合流だった。
 彼らのことはとても手放しには信用できないし、同盟関係自体がリスクなのではないか――と思う気持ちは未だにある。
 それでも彼と同じ〈はじまりの六人〉のひとりである蛇杖堂寂句が示した選択肢を無視することはアンジェリカにはできなかった。
 リスクは承知でリターンを取る。そのくらいの気構えでなければ、この舞台で自分はただの端役として死んでいくことになる。
 実際に狂気の衛星と交戦して得た確信だ。
 それが、アンジェリカ・アルロニカの未熟な足を突き動かしていた。
 しかし此処で問題がひとつ。ホムンクルスを頼ると決めたのはいいが、どうやって探したものか皆目分からないのだ。

「うーん、連絡先くらい聞いとけばよかったなあ……」
「油断禁物だぞアンジェ。あのアサシンはわずかでも信用すればいずれ後ろから刺してくる手合いだ。
 この私の眼が黒い内はアンジェに接近などさせん。大体なんだ、病院での奴らの態度は!
 アンジェのサーヴァントは私だというのに、私に断りもなく喋って弄って好き勝手……ぶつぶつぶつぶつ」
「そんなこと言ったって仕方ないでしょ。ケースバイケースよ、ケースバイケース。……まあ流石に文句のひとつくらいは言いたいけど。わたしも」

 東京という街に対し、アンジェリカが抱いた率直な感想は"この街思ったよりでっかくない?"である。
 東京は実は、意外と広い。地図上だとなんだかちまっこくて狭苦しく見えるが、実はちゃんと面積がある。
 おまけに区の数も多いし、この中を虱潰しにあたっていくとなると公園の砂場から一粒の砂金を探すような芸当になってくる。
 何か上手いこと彼らの注意を惹く手段でもあればいいのだが――まさかこちらから悪目立ちして誘い出す、なんて真似をするわけにもいかない。

 となるとやはり根気で探し続けるしかなさそうだ。
 相手はアサシンなので、アーチャークラスの視力に物を言わせ探すのも現実的ではない。
 どうしたものかな、と腕組みをしながらベンチで肘をついた。
 日が落ちて、既に辺りは暗い。それでも、東京の街並みは明るい。流石は"眠らない街"なんて呼ばれるだけあるな、と場違いにもそう思った。

「――こんな街で思い思い夢を描いて暮らせたら、きっとすごく楽しいんだろうな」

 ちょっとおセンチな気分になってしまったものだから、気付くとぽつり、溢していた。
 とはいえ本心だ。でなければ不意に溢れたりしない。

「アンジェはこの都が好きなのだな」
「んー……、そうだね、好き。だって此処、何でもあるし、いろんな人がいるじゃん?」

 スーツを着込んで仕事に生きる者。
 見るからに根無し草といった風体で口笛吹きながら歩く者。
 学生鞄をぶら下げて、楽しげに遊びの予定を語らう者。
 明らかにこの国の人間ではないのに、街並みに溶け込んで世界を楽しんでいる者。
 この街には、いろんな人間がいる。暮らす人々は誰も今更それに疑問など抱かず、当たり前の日常として受け入れている。

 話が通じるようで通じない。自分で未来を狭めているのに、そのことを美徳のように語る。
 そんな人間が圧倒的に多数派を占める世界で生きてきたアンジェリカには、この東京はどこか非現実的にさえ映った。
 魔術師が尊ぶ、誇りと使命に満ちた日常などよりも、この猥雑さの方がよほど輝いて見える。

「私とアンジェは、きっと価値観が似ているのだろうな」
「わたしが……あめわかと?」
「うむ。私もな、この都は好きだ。理由も概ねアンジェと一緒だぞ」

 隣に腰掛けたアーチャー……天若日子はどこか誇らしげにそう言った。
 そりゃまたどうして。問いかけようとして、その伝説を思い出す。

 ――天津の御遣い。
 与えられた使命を果たさず、天誅を受けて下界で命を落とした神。
 中つ国の平定よりも、己が出会った尊いモノと添い遂げることを優先した反逆者。
 手にしたと思ったつかの間の自由を、神の意思で剥奪された悲劇の子。

「神は世界の裏側に隠れ、信心は薄れ、過去に綴られた神話は"迷信"と笑われる。
 天津のお偉方が見ればご立腹は必至だろうが、私はむしろ、この不信心な時代を誇らしく思うよ」
「……そりゃまた、どうして?」

 今度は言えた。
 よし、と小さくガッツポーズするアンジェリカに、凛々しい神は顔を綻ばせて言う。

「神なんて大層なモノがいなくても、民は此処まで幸せになれるのだろう?」

 現代で――大っぴらに神の教えなど説けば、大半の人間は白い目を向ける。
 それだけならまだいい方で、ひどいときはカルトの誹りを受ける羽目になるだろう。

 そのくらい信仰が薄れ、神の存在が排された時代。
 この東京などはその最たるものであろう。一部の信心深い人間以外は、そのほとんどが神の恩寵など信じちゃいない。
 都合のいい時だけ脳味噌の奥から引っ張り出して、何とかしてくださいよと願を掛けるだけの存在。
 まごうことなき神の身でありながら、しかし天若日子はその冒涜に眉を顰めるでもなく、むしろ歓迎している。

「なら、これほど素晴らしい世は他にあるまい。こんな時代であれば私も、雉など射らずにのんびり"あれ"と過ごせたやもしれぬなぁ」

 天高くから地上を見下ろし、干渉する神はいない。
 それでも世界は、都は、人は廻っている。
 人間という生き物は、自分が見ない内にずいぶんと強くなった。
 まるで子か弟でも見るような目で、天若日子は日が落ちてなお賑わう街並みを見つめていた。

「……なんか、あめわからしいね」
「ふふ。そうか?」
「うん。本当の神さまがそんなに褒めるんだもん、やっぱりいい街なんだろうね。東京は」
「うむ。きっとそうだ」

 たとえ仮初め、造り物の舞台だとしても。
 時が来れば、誰かの願いの成就と共に燃え尽きる虚構だとしても。
 アンジェリカ・アルロニカは、この街と人々が好きだった。
 抱いた"好き"を肯定されるのは、やはり悪い気がしない。
 自然と頬は綻んで、山積みの問題も難題も今だけはどこか遠くに感じられる。

 ――聖杯戦争が終わったら、本物の東京にも行ってみようかな。

 そんなことを思いながら街を見つめて、疲れた身体を休める。
 蛇杖堂寂句は二度と会いたくない怪物だったが、やることはきちんとやってくれたらしい。
 一度は生死の境をさまよった筈の身体は問題なく動いていたし、意識もはっきりしている。
 視界が霞むとか、そういうヘンな後遺症もなく、この通り街を往く一人ひとりの顔までしっかり識別できて……

「……、……」

 白髪の少女が視界に入った。
 そう離れてはないだろうけど、たぶん年下。
 頭の上からぴょんと立ったアホ毛があざといくらいに可愛らしい。
 今どきスキップなんてしながら進む上機嫌な足取りが、ふと止まる。

「…………、…………」
「……なあ、アンジェ……」

 ――――見てる。
 雑踏の中から、ピンポイントでこっちを見てる。
 目を逸らした。見てない見てない。わたしは何も見てません。
 いやもう人間ですらないです。先週発売された人間風マネキンのアンジェさんです。よろしくね。

「まあ、なんだ。薄々は思っていたんだが」
「………………、………………」
「君は……その……」

 話しかけられても答えられません。マネキンだから。
 全力の現実逃避をするアンジェリカだったが、現実はとことん非情だった。「や(笑)無理無理(笑)」という天の声が聞こえた気がした。
 視界の端にあって尚抜群の存在感を放つ白いそいつが、ぴこん、と頭の上に"!"の絵文字を浮かべたのが分かった。
 ゆっくりとアンジェリカ、腰を上げる。いつぶりかの準備体操。膝を曲げて、足を伸ばす。
 すたすたすたすた。この素晴らしい街のキナ臭い部分を煮詰めた結果みたいな白いアレが、手を振りながら近寄ってくるのを見含めたところで。


「――――なんていうか、シンプルにめちゃくちゃ運がないんじゃないか?」
「いいいいいいいいやあああああああああああああ――――っ!!!!!!」


 アンジェリカは走り出した。
 そして時刻は現在に戻る。
 逃げるのは、運命を拒絶した少女。
 追うのは、運命を超越する少女。
 この世でもっとも不毛で、もっとも結果の見えた鬼ごっこが、港区の一角で繰り広げられていた。



◇◇



「ねえ! ねえねえねえ! ねーえー!!
 前に会ったことあるよね!? ちょっとお話しようよー! 私はね、神寂祓葉! 神さまが寂しがって祓う葉っぱって書いて――」

 アンジェリカ、渾身の絶叫と疾走である。
 自分なりに覚悟は決めたつもりだった。
 この都市に蠢く"宿命"。辿ればひとりの少女に終着する"運命"。
 これと向き合わずして、アンジェリカ・アルロニカに未来はない。
 蛇杖堂記念病院での一戦は、彼女にそう悟らせるには十分すぎる霹靂だった。
 ホムンクルスを探し、世界の秘密について聞き出す。
 そして改めて、己が臨むべき戦いの実像を見据える――そう思っていた。誓って嘘はない。けれど。

「いーーやーー!!! もう知ってる! 知ってるからどっか行って来ないでむりむりむーり―――っ!!??」

 流石に。
 初手からラスボスがぴょんぴょこ近付いてくるのは聞いてない。
 半泣きだった。ましてやアンジェリカにとって、この"白い少女"……神寂祓葉はトラウマなのである。
 天若日子の弓を切り捨て、横槍を入れてきたどこかのサーヴァントが出した巨大な狼を一太刀で斬殺した怪物。〈この世界の神〉。
 まだ整理が付けられていない苦手意識を逆撫でするどころかぺろぺろ舐め回す勢いでやってきた運命に、アンジェリカは泣いていた。

「逃げなくていいよぅ! ひどいことしないよ!?
 前の時にノクトもイリスも言ってたの! 聖杯戦争は夜からが本番だからって。
 だからせっかくだし、本格的に夜が来るまではぐっといろいろ堪えてみんなとお話したり友達作ったりしようと思ってるの!」
「こっちは現状ジャックとホムンクルスで手一杯なの!! もうちょっと手心ってやつを加えてほしいなあ切実に!!!」
「え! ジャック先生とミロクに会ったの!?
 そっかぁ! えへへ、うへへへ! ふたりとも、特にミロクは元気してた!? おっきくなってた!? かわいかった!? ミロクはすっごいいい子なんだけどね、世間知らずっていうか箱入り娘……息子? って感じでさー。私も名付け親、兼お姉ちゃんポジとしていろいろ心配してたんだよ。でもこっちから会いに行くのはなんか違うじゃん? ヨハンに言われたんだけど私って結構過保護なタイプみたいで、自分ではそんな自覚まったくないんだけどさ、でも実際そうだったらそれってよくないよなあって思って……うぅ、お姉さんはこういう時どうしてる!?」
「鬼ごっこの最中にお悩み相談のご対応は無理ですお引き取りください――――っ!!!!」

 脳裏に嫌というほど染み付いたトラウマ。
 幻想的ですらあった狂気の象徴が、一瞬でアホのじゃじゃ馬に塗り替えられていく。
 だとしても苦手意識が、魂にまで届いたあの日の恐怖が消えるわけじゃない。
 アンジェリカは必死だった。追いつかれたら死ぬと、冗談抜きにそう確信していた。
 だからこそアスリート顔負けの全力疾走をする一方で、思考を"加速"させて相棒に念話を飛ばす余裕を作り出す。

『あ……あめわかっ、どうにかならない、これ……!?』
『無論、私もそのつもりだ! ――アンジェ、問うぞ。少々の悪目立ちは目を瞑ってくれるか!?』
『う、うぅー……! なるべく周りに被害が出ない感じで、こう、うまくお願い……!!』
『――承った!』

 主の意向を聞き届け、天より下った弓兵が身を反転させる。
 定めた狙いに狂いはなく。その弓は、最上の冴えを常に維持する。
 放たれる神矢、神意。一条の光と化した軌跡は白い少女に過たず迫り、だが……

「おぉっと! ……へへー、覚えてるよ! アーチャーだもんね、お姉さんのサーヴァント!!」
「ッ……!」

 必殺を誓う筈の矢は、力任せに掴み取られた。
 英霊の矢を、現代を生きる人間が受け止められる筈がない。
 掴み取った手は無茶の代償に破砕し、地面に叩きつけたトマトのように崩れている。
 が――その傷は、瞬きほどの間しか、痛ましさを留めておくことができなかった。

 再生する。溢れた肉、砕けた骨が回帰する。
 天若日子の眼は、それが治癒魔術の類に依るものでないことをあの夜と同様に看破した。
 もはや生態の域にまで高められた超再生。不死の二文字が脳裏をよぎる。
 馬鹿馬鹿しいと頭では分かっているのに、目の前の現実はその道理を平然と超えてくるのだ。

 天若日子は、神である。
 現界にあたって英霊大に零落はしている。
 しかしそれでも、神である。

 神でありながら地上の世界を愛し、それに浸り、命を落とした者として。
 その存在は貶められ、そうしてこの針音都市へまろび出るに至っている。
 だが如何に地上の法理が絶対なれど、神として過ごし生きた記憶までは消せない。
 彼は今も覚えている。天に坐し地上を見守る天津神。地上で営みを送る神。彼は英霊であると同時に、境界記録帯を超えるモノ達を知っている。

 ――だからこそ解ることがひとつ。
 この神寂祓葉という娘は、人間の規格(カタチ)をしていない。

(何故、止められる……!)

 葦原中国の平定を拒み、数多の神々を打ち倒し叩き返したという、天津甕星という悪神の名を天若日子は想起していた。
 天において不条理の象徴だったかの神を彷彿とさせる、理不尽。
 暴力で以って道理を蹴散らし、現実を調伏する禍津。
 畏怖すら覚える"奇跡"という名の悪夢が、天から堕ちた神の視界に存在している。

「アーチャー。ふふ、アーチャーかあ。ケイローン先生を思い出すなあ……!」

 ――ケイローン。

 "前回"、〈はじまり〉の戦乱において、蛇杖堂の暴君が使役し猛威を奮った英雄の名が事も無げに紡がれる。
 ゾ、とアンジェリカが改めて背筋を震わせた。
 悪夢そのものの少女の口から出るにしては最悪と言っていい"思い出"が、正しく道理を理解する者にとっての極限の絶望として機能する。

「はっ、はっ、はっ、はぁっ……!」

 突然の遭遇で麻痺していた、恐怖という感情が思い出したみたいに戻ってくる。
 ホムンクルスと出会った。蛇杖堂の暴君と出遭った。
 それらは確実にアンジェリカという人間に成長をもたらしていたが、だからと言って人はいきなりは変われない。
 魂の裡にまで染み付いたトラウマというものは、一朝一夕の劇的な体験で拭い去れるものではないのだ。
 喉が引き攣る。汗が冷たさを増す。これがいる世界に生きたくないと思ったいつかの気持ちが鮮明に蘇り浮かび上がってくる。

 ――怖い。

 もしも何も知らない状態でこれに遭ったなら、むしろ毒気を抜かれる形になったかもしれない。
 それほどまでに少女は人畜無害を装っていた。本人さえその気なく、無垢な羊を演じていた。
 だが違う。そうではないとアンジェリカは既に知っている。これが、世界の理をねじ伏せる生物であると分かっている。
 分かった上で見たならば、可憐と胡乱を突き詰めたような知性に欠ける言動さえ恐怖の対象でしかなかった。

「――アンジェッ! しっかりしろ!!」

 響く相棒の声にはっとする。
 そうだ――何のために私は、あの老人の話を聞いたのか。

(……、ビビってんなよ、ばか……!)

 相手は化け物だ。
 まともな手段で戦って、勝てるわけがない。
 恐怖なんてありふれた気持ちに駆られてる有様で、どうこうできるわけがない……!

 考えろ。
 考えろ。
 考えるんだ――少しでも、この状況をどうにかする手段を。
 泣いてもいい、震えてもいい、でも考える頭だけは絶対に止めるな。
 涙は火傷の熱も冷ましてくれる。この心があの輝きに灼かれることを防いでくれる。
 だから涙も汗も許そう。流れろ、と認めてやろう。でも停滞だけは意味がない。だから考えろ、アンジェリカ・アルロニカ。
 思考を伸ばす。魔術回路が酷使に悲鳴をあげる。それでも、加速している間だけは自分だけの世界で腰を落ち着けられる。

 視界に入るのは、スローモーになった相棒の姿。
 放つ矢は勇猛にして果敢。自分の信じた優しい神の勇姿がそこにある。
 天若日子が向かい合うは、恐ろしくも美しい〈この世界の神〉。
 ホムンクルスを魅了し、老いたる蛇を恐れに狂わせた白きもの。

(なんか、でも……思ったよりこいつ、話が通じなそうな感じじゃない……?)

 先の会話を恐慌の余波冷めやらぬ脳髄から呼び起こす。
 理屈はまったく理解不能だったが、夜までは派手に戦うつもりはない、というようなことをこれは言っていた。
 現在の時刻は午後七時の半ばほど。十分に夜だが、まだ日が落ちてそれほど経っていないくらいだ。
 もちろん口先で騙して、油断したところを斬り伏せてくる危険性を排除はできないが……

 アンジェリカは思う。
 これに、人を騙すなんてことができるのか?
 まだ迷いはあるが、とりあえず答えは否に思えた。

 アンジェリカは、時計塔の魔術師たちを知っている。
 彼らに囲まれて、青春のほとんどの時間を過ごしてきた。
 彼らは皆、個々の差異はあれどもある程度知的で狡猾に見えた。では、この少女はどうだ。

 ――とてもじゃないけど、そういうタイプには見えない。
 それどころか発言だけ見れば、間違いなく馬鹿のたぐいである。
 言いたいことは言い放題。相手の事情を考えず、自分の都合で話しかけて、表情はずっとにこにこへらへら。
 サーヴァントを相手に平然と拮抗できている異常性を除けば、正直、ちょっと頭が足りないだけの普通の女の子に見える。

(だったら……、……ッ)

 亡き母と、父の顔。
 ホムンクルスと、老人の顔。
 そしてこの一ヶ月眺めて、憧れてきた"自由な世界"の偶像。
 それらを矢継ぎ早に脳裏に思い描き、意を決してアンジェリカは――逃げる足を止めた。

「……、か」

 白き神が足を止める。
 相棒の弓兵が、切羽詰まった顔で振り向く。
 彼に小さく頷いて、アンジェリカは未だ消えない恐怖を押し殺し、必死の思いで声帯を駆動させた。

「神寂祓葉……さん?」
「そうだよ! あっでも、お姉さん年上っぽいし呼び捨てでもおけおけおっけー! って感じだけどっ」
「……じゃあ、祓葉」

 にこにこ微笑みながら話すその右手には、天若日子の放った矢が数本握られている。
 受け止める度に砕け、ひしゃげていた筈の細腕には今や傷ひとつ残っちゃいない。
 不条理。不合理。この世のあらゆる理屈が、彼女の存在の前に狂っていく光景を目の当たりにして目眩がする。
 蹲りたくなる衝動をぐっと堪えた。此処でそんな凡庸さを露呈するようじゃ、自分は一生かかっても目の前の存在に追い付けない。
 いや、追い付こうが追い付けまいが自分としてはどうでもいいのだが――この世界で生き抜く上では、その子どもじみた意地こそが必要不可欠な通行手形であるのだと理解しているから。

「あなたは……何が、したいの?」

 震える唇が精一杯の気丈さで紡いだ問いは、我ながら実に単刀直入だった。
 〈この世界の神〉。神寂祓葉。かつて聖杯戦争を制し、そして新たに始めた生ける特異点。

 彼女は勝利し、そして再び聖杯戦争を興した。
 蛇杖堂寂句はそう語ったが、わからないのはその動機だ。
 何故、そんなことをする。聖杯とは、どんな願いも叶える万能の願望器であるのではなかったか。
 それとも実はその看板に偽りでもあるのか。分からない。分からないことは、確かめなければいけない。

「ドクター・ジャックは、"遊び"だって言ってたけど――」
「そっか、ジャック先生に会ったって言ってたもんね。
 うん、でもその通り。何がしたいのって聞かれたら、もっと遊びたかったって答えるしかないかなあ」
「……、……」

 絶句する。
 あまりに馬鹿らしい理由だったから、大方寂句の皮肉のひとつだろうと思っていたのに。
 再会を果たした〈この世界の神〉は実にあっけらかんと、その"馬鹿らしい理由"こそが真実であると頷いてみせた。

「本当にそんな理由で、此処までしたの……?」

 思わずそう問うてしまったアンジェリカを誰が責められようか。
 魔術師ならば、いや魔術師でなかれども、誰だって同じ反応をする筈だ。
 遊び足りないから戦争を始めた。遊び足りないから、世界をひとつ新たに創った。
 本物の造物主に面と向かってそう言われて唖然としない人間など、彼女の同類以外にはまず存在すまい。

「そんな理由だなんてひどいなあ。私にとっては本当に、とっても大切な動機(りゆう)なんだよ?」

 顔が引き攣るのを止められないアンジェリカの内心など、本当に理解できないのだろう。
 少し困ったように眉を寄せて、祓葉は笑った。
 神と呼ぶには無垢すぎる。人と呼ぶには美しすぎる。
 そんな微笑みが――夜が来て、ネオンライトが照らし始めた街の片隅で、アンジェリカを見据えている。

「聖杯戦争ってさ、とっても素敵なゲームだと思わない?」

 ゆっくりと、まるで世界の素晴らしさを幼い子に説くように、祓葉は両手を広げる。
 背後に佇むは煌星の都。自由に溢れ、可能性に富み、一秒だとて眠らぬ夢の街。
 されどいつか戦火に灼かれて消え去ることが決まりきった、現代のソドム。

「此処じゃみんなが本気なんだ。みんないつだって、勝つために全力を尽くして遊んでくれる。歳も性別も、持って生まれた性格も関係ない。
 優しいひとも乱暴者も、大人も子どもも、聖杯戦争では誰もがおんなじなんだよ。誰もが同じゲーム盤の上で、生き抜くために必死で遊ぶ。
 こんなに楽しくて素敵なことって他にある? 私は、世界のどこにもないと思うんだ」

 語っている内容は、端的に言って滅茶苦茶だ。
 暴論も暴論、理屈の破綻を突くことも億劫になるような飛躍した理屈。
 だけど、いやだからこそ、飛び抜けすぎているからこその超然がそこにある。
 天若日子は思った。同じことを、アンジェリカ・アルロニカも思った。

「此処はみんながみんな、あるがままに本気で遊べる場所。
 私とヨハンのゲーム盤。お姉さん達も――楽しんでいってくれたら嬉しいな」

 この少女の視点は――もはや人間の範疇にない。
 それは神の視座だ。天の彼方に坐し、地を見下ろして過ごすべき生物の価値観だ。

 だってほら、その証拠に今も祓葉は笑っている。
 誰が聞いても狂人のものと分かる理屈を語っていながら、その微笑みには微塵の悪意も他意も窺えない。
 十割の純真。十割の純心。穢れなく、ただの一つの陥穽も存在しない究極の白色。
 アンジェリカは、唇の震えが消えていることに気付いた。心が決まったのか、さっきまでの怯えが嘘のように身体が平静を取り戻している。
 唯一心臓だけは今も早鐘を打ち鳴らし続けているが、だとしても、それはもう彼女の足を止める理由たり得なかった。

 目の前の少女を、改めて視認する。
 今度は恐怖という靄を挟まず、ちゃんと己の視界で。

 ――白い少女が、そこにいる。
 自分よりひとつかふたつは年下であろう、可憐そのものの容貌。
 背丈は小柄。なのに驚くほどの、目を逸らせない存在感が痩身の端々から横溢している。
 頭の上にぴょんと跳ねたアホ毛といい、浮かべる笑みの純真さといい放つ魅力のすべてが自然体で他人の毒気を抜くことに特化していて。
 それだけに右手に握られた、数本の矢が異彩を放つ。彼女の魅力に騙されぬよう、絆されぬよう――これは化物であると、そう示すよう。

「……祓葉」
「うん?」

 恐ろしいのは、この期に及んでまだ自分の心が痛むこと。
 ああきっと、これから先どれほどの戦いを経ても、覚悟を決めても、これだけはブレないのだろう。
 神寂祓葉はかわいい。足元に駆け寄ってきて、ふりふりしっぽを振る人好きな子犬のようなもの。
 彼女の実像が何であろうが、その存在と振る舞いは、いつだとて人を自然体のまま欺く。惚れさせる。狂わせる。

 現にアンジェリカは此処で、魔力の消耗を顧みず思考加速を使っていた。
 本当に、自分が今抱いている感情は正しいものなのか。
 一時の感情に流されてはいないか。蛇杖堂寂句は実は劣等感を拗らせただけの老いぼれで、神寂祓葉とは今目で見ている通りの美しくて素晴らしい存在なのではないか。
 そんな自問を、此処まで歩んできた道筋を念頭に置いた上で尚大真面目に繰り広げた――そうしなければならないと思った。
 こと彼女に、神寂祓葉に対する認識には、何ひとつとして間違いなどあってはいけないと感じたから。そう思わせるだけの力が、この少女にはあったのだ。本人には、何の自覚もないのだろうが。

 ――加速、終了。
 世界が元に戻る。
 思考が時の牢獄より解き放たれる。
 それを以ってアンジェリカは、台詞の続きを紡いだ。

「あんたは――――」

 伝えなければいけないことがある。
 示さなければならないことが、ある。
 アンジェリカ・アルロニカとして。
 祓葉の箱庭に招待された、"遊び相手"のひとりとして。
 その自負が恐怖をかき消していた。
 唇は動き、声帯は駆動し、言葉は音という形を持って解き放たれる。

 今この瞬間、この場所で、この状況で。
 ちっぽけな自分が、それでも運命のその先を願った己が、神なる白色に伝えるべきことは――――


「もう、」


 言った。
 言おうとした。
 それと、まさに同時のことだった。

 たん――――ぱん。ぱぱぱん。
 そんな軽い音が、ポップコーンの弾けるみたいな音が、いくつか響いたのは。

「…………え?」

 目の前の祓葉の全身が、水玉模様に染まった。
 水玉のひとつひとつから、向こう側の景色が覗いていた。
 それが水玉ではなく、穴だと気付いたのは、祓葉が物理的に崩れていくのと同時であった。

 血の臭い。
 命が失われる、その香り。
 あの病院で嗅いだのと同じ、けれどより色濃い凶の兆し。
 茫然と固まる眼差しが、祓葉だったモノが崩れ落ちたことで開けた視界の先に、それを見た。

「――――、なに、あれ?」

 最初、アンジェリカは、ある有名なホラー映画を思い出した。
 聖杯戦争が始まってから今に至るまでの一ヶ月間で、サブスクを利用して手慰みに見た邦画だ。
 井戸の底から這い出て、最後にはテレビの画面を飛び出して殺しに来る、白装束に長い髪の悪霊。
 それを思い出した。そういう光景が、現実の事象としてそこに存在していた。

 底の見えない井戸の代わりにあったのは水面。
 どこまでも【赤】く、【紅】く、【朱】い、どろついた質感の水面だった。
 そこからまるでエレベーターで浮上するみたいに、ぬちゃりと音を響かせながら、何かが出てきた。
 件の映画と違うのは、それがそもそもカタチすら曖昧な物体であったこと。
 人のようにも見えるし、獣のようにも見える。一方で無機物のようにも見えるし、自然現象のようにも見える。
 人の認識を冒すが故に人の数だけ解釈の余地がある、ロールシャッハテストめいた冒涜的不定形。
 顔も、輪郭すらも朧で曖昧なナニカが、神の死骸の背景に鎮座している。

「……ッ、アンジェ!!」

 あまりに非現実的、いいや、目を逸らしたい光景だったのか。
 アンジェリカはこの期に及んで、あろうことか忘我の境地に立たされる惰弱を晒した。
 響く相棒の声すら、どこか遠くに聞こえる。
 そんな少女の弱さをせせら笑うように――いや、そう解釈するには無機質過ぎる声で。

 その【赤】は。
 【赤き騎士】は。
 人類の原罪の象徴たる【赤】は――哭くように、言った。



「――――Wars」



 すなわち戦争。
 この上なく分かりやすい、己の実像を告げる言葉と共に。
 血の水面から這い出た【赤】は、完全にその像を結び。
 それをアンジェリカが認識した次の瞬間、都市の繁栄も自由への希望も薙ぎ払う鉛弾の鉄風雷火が、轟音を伴いながら吹き荒れた。



◇◇



 ――それは、赤き死の象徴である。

 ――それは、あらゆる霊長が出現した瞬間から抱えている原罪である。

 ――それは、遥か未来永劫の彼方に至るまで消えることのない罪業である。

 ――それは、あまねく死と破壊を象徴し語り継ぐ歴史である。

 ――それは、荒廃の地平線に芽吹く可能性の種子たる創生である。

 ――それは、黙示録に綴られたいつか訪れる終末の代弁者である。

 ――それは、白き神の箱庭に招かれた抑止録の一頁である。

 騎士が来る。
 騎士が往く。
 血が流れる。
 【赤】に染まる。

 人類が人類である限り打破し得ぬ。
 霊長が霊長である限り超克し得ぬ。
 その総体意思が統一されぬ限り根絶し得ぬ。

 〈可能性〉という希望の影に這い寄り続ける――――厄災である。



◇◇










                       黙 示 録  開 帳 

                      R E D  R I D E R


                          1 / 1










◇◇



 天若日子は、神である。
 天津神が地上に遣わした尖兵であり、然るべき理を以ってそれを治めることを期待された天津国玉神の直子である。

 神と一口に言っても、その性質は多彩だ。
 支配者としての神。ヒトの隣人としての神。増長した者を罰する審判の神。
 更には、世の理を乱し悪徳を貪ることを良しとする――悪神、という神もいる。

 黄泉の穢れより生まれ、災厄のみを理とする八十禍津日神。
 中国平定に抗い、数多の神を蹴散らした天津甕星。
 そういう神の存在を、天若日子は知っている。
 更に言うなら――そういうモノを見極める眼も、天の弓兵たる彼は持っている。

 その彼だからこそ刹那にして理解した。
 違う、これは神などではない。
 天津にしては邪悪すぎる。地祇にしては猥雑すぎる。黄泉でさえこの混沌は噛み分けられまい。

「貴様は……」

 では、人か。
 違う。断じて違う。
 天若日子が愛する女神と共に過ごし、時を経て朋友と共に愛した地上の人々は、誰ひとりこんなカタチはしていなかった。
 単純な容姿ではなく在り方の話だ。どんな人間にも表と裏、光と闇がある。その二面性を天若日子は否定しない。そんな不確かさこそが地に足着いて生きる人間の証だと信じているから、時々で眉を顰めることはあっても彼らの弱さ自体を醜悪と糾弾はすまいと心がけている。

 だが――この赤いナニカは違う。これの魂にある不確かさは"弱さ"ではなく、猥雑極まりない混沌だ。
 千の無貌。特定の顔を持たないからこそ、この世の何者にでもなれる本質なき存在。
 その在り方は固有の人格や想いを有さず、まるでただ地上に混沌たる惨禍を運ぶための機構(システム)のようにも思えて。
 そこまで思い当たったところで、天若日子が連想したのは蛇杖堂記念病院で交戦した、奏で喰らう虫螻の王であった。

「――まさか、貴様は!」

 あの厄災の同類かと、戦慄と共に叫ぼうとした刹那。
 続く言葉を切り裂くように、神寂祓葉を肉塊に変えた破裂音が今度は天若日子とアンジェリカに向けて乱射された。

 赤い、影とも泥ともつかないナニカ。
 その身体が水面のように波紋を浮かべ、そこから無数のくろがねが顔を出している。
 銃口であった。M4カービン、UZIサブマシンガン、AK-69、A-545、RPK軽機関銃、etc――およそ英霊とは、神秘とは縁遠い近代兵器どもの銃眼。
 それを自らの身体の延長線上に存在する新規部位として構築しながら、弾切れも反動もすべて無視して展開された魔弾の弾幕。
 本来ならば英霊にとって近代兵器など文字通り豆鉄砲でしかないにも関わらず、この時天若日子にその考えはなかった。

 発射された弾丸の一発一発、英霊の動体視力でなければ残像を捉えるのも困難であろう鉛弾のすべてに魔力が通っている。
 それも極めて高濃度。もはや毒素と呼んだ方が近いような、悍ましい赤色が全弾に浸潤しているのだ。
 Bランクと三騎士の肩書きに恥じない耐久値を有している天若日子でさえ、アレに撃たれれば身体に風穴が空くと確信した。
 天之麻迦古弓を構え、間違いなくこれまでの戦いの中で最大の危機感を持ちながら針に糸通す精密射撃の嵐を吹かせる。

 数が多すぎてこれでも全弾迎撃とはならないのが恐ろしかったが、当座の対処としては十分だろう。
 そう判断してバックステップで後ろに下がり、無防備なマスターを連れて仕切り直しを図る。
 天若日子の判断は迅速だったが、しかしアンジェリカはと言えば、未だ呆然とその場に立ち尽くしたままだった。

「アンジェ! 此処はもはや死地だ、一度退くぞ!」
「……、……」
「――アンジェ!!」

 気付けのように声を荒げる天若日子。
 しかしそれでも、アンジェリカの様子は変わらなかった。
 天若日子はそれを、覚悟を決めて対峙した神寂祓葉が一瞬にして細切れにされた事実を受け止めきれないが故の停止だと認識した。

 だが、その認識が間違いであるとすぐに気付かされる。
 他でもない愛する朋友の口から漏れ出した言葉が、彼に誤りを悟らせた。

「……何なのよ、さっきからッ!」

 髪の毛をぐしゃりと握り潰して、地団駄を踏む。
 まるでヒステリーを起こしたように荒々しい、普段のアンジェリカらしからぬ行動だった。
 だから天若日子も、一瞬状況を忘れて唖然としてしまう。
 自分の理想のマスター像を彼女に押し付けるつもりはないが、だとしてもこれは、あまりにも……

「もう何が何だかわかんない……いい加減にしてよ……!
 わけのわかんないこと言う奴ばっかりだし、ようやく人が向き合う気になってみればこのザマだし……!
 わたしが何したって言うのさ……っ、本当、もう……勘弁してよぉ……!!」
「アン、ジェ……? 気を確かに持て、何か様子がおかしいぞ……!?」
「ああもう、うるさいうるさいうるさい! どいつもこいつも、うるさいぃっっ……!!」

 確信する。
 アンジェリカの様子がおかしい。
 彼女はこんなにも、攻撃的な人間だったろうか?
 涌いて出た突然の窮地であるとはいえ、こうもヒステリックに感情を表す少女だったろうか?

 否だ。
 断じて違う。
 彼女の中にそういう気質があったなら、此処までの時点でとっくに出ていた筈だ。
 脳裏をよぎるのは、蛇杖堂の魔人に負けると分かっていて果敢に挑んだアンジェリカの勇姿。
 冗談抜きに死が一歩手前まで迫っていたあの時でさえ、アンジェリカ・アルロニカは一切の思考を停止させなかった。
 そんな記憶の中のアンジェリカの姿と、目の前で自傷するように髪をかき乱しながら叫ぶ女の姿が、どうしても重ならない。

「……そっか。あいつか。あいつが悪いんだ」

 アンジェリカが、不意に顔を上げる。
 そうして雷光の子は、赤き騎士を睥睨していた。
 不快の原因を見つけたとばかりにぎらついた瞳で、どう見ても危険極まりない得体不明の厄災を見据える。

「アーチャー、行くよ」

 そこにあるのは、荒ぶる猛獣のように獰猛な戦意。
 合理も論理もかなぐり捨てて、ごく短期的な目標のために短絡そのものの思考回路で進む、火に向けて飛ぶ蛾のような愚かしさ。

「……ッ、何ぼけっとしてんの! 戦うんだよ、アーチャー!!」

 口角泡を飛ばして叫ぶアンジェリカの方を、天若日子はもはや見ていなかった。
 彼の双眸もまた、先のアンジェリカに倣うかのように赤騎士を睨め付けている。
 しかし彼女が騎士へ向けたものと彼が今まさに向けているそれは、まったく種類の異なる感情であった。

「――――おい、貴様」

 漆黒と称するべき殺意が横溢していた。
 その感情は、心優しい凛々しい神が大切な一線を超えられた事実を物語る。
 継代と銘された〈山の翁〉へ見せた嫌悪とは違う。主の身体を捌く蛇杖堂の暴君に見せた威圧とも違う。
 貴様は許さぬと告げる純然たる神意。地の悪徳を祓うべく遣わされた若き神の本領、その真価がここにある。

「誰の許しを得て、神(わたし)の友人に触れた?
 その汚らしい泥でこの娘を犯した? 疾く答えよ。さもなくば貴様の存在、一片残さず此処で黄泉の国へ叩き落とす」

 ――天若日子は、神である。
 神とは寛大なものだ。だがそれ以上に無慈悲なものだ。
 地上を見守り導く優しさの影には、常に容赦のない裁きを下す冷徹さが隠れている。

「答えられぬか。口も利けぬのか、白痴」

 おまえが何処の誰で、何であるのかは知らぬ。
 如何なる事情を抱え、此処に存在しているのかは知らぬ。
 場合によっては理解も示そう。だがおまえが冒した所業は看過しない。
 速やかに弁解をせよ。自己弁護に励め。神(わたし)に酌量の余地を見出させてみろ。
 そうでなければその生命、魂、今この場で断罪する。
 天津の神として地上にあるまじきその醜穢を裁いてくれると、短くも苛烈な言葉で天若日子は宣告した。

 ――それを受けてか、赤騎士の身体に小さな亀裂が生じた。
 口だ。神の詰問に際して新たに作り出したその身体部位が、緩やかに弧を描く。
 その表情の名を、天若日子は知っている。

「――トウソウ、ソレ、スナワチ。トコヨヲスベタル、フヘンノコトワリナレバ」
「そうか」

 笑みだ。
 感情の介在しない、単にそうすることが機能上合理的だからと判断した故のアルカイックスマイル。
 されど、いいやだからこそ。その血の通わない空寒い表情(かお)は、神の逆鱗を悪意以上に逆撫でする嘲笑として響いた。

「死ね、下郎」

 光の弓、引き絞られる。
 既に彼にとって、この戦いは"対処"ではなくなっていた。
 神の一線を超えた不敬者、下劣なる化外畜生を討滅する決戦である。

 天若日子はアンジェリカと違い、赤騎士――レッドライダーのスキル・〈喚戦〉に感染していない。
 だからこれは彼自前の殺意であり憤怒。
 この世の害悪を討ち滅ぼすべき弓が、千年越しに大義を果たすべく嘶きをあげる。

 それに対し赤騎士は、再び現代兵器を数多生み出して相対する。
 神の弓か、人の業か。天か地か。古きか、新しきか。
 こと射撃という概念における白と黒が、コンクリートジャングルを舞台に激突せんとして。
 いざ致命的な戦端が開かれるというまさにその瞬間、舞台の筋書き(ジャンル)が切り替わる。


 赤騎士の輪郭が――――目も灼かれるような極光の帯に呑み込まれたのだ。
 真横から割り込んで、無粋にも決闘の流れを打ち崩して、主導権を奪い返す劇的な君臨。
 アスファルトを溶かし、建造物をガラス細工のように砕きながら、星ならざる聖剣が赤い戦禍を蹂躙する。
 その主は無論、彼女以外にはありえない。先ほど全身を蜂の巣に変えられて呆気なく死んだはずの少女は、変わらぬ笑顔でそこにいた。


「寂しいじゃない。私も混ぜてよ、いいでしょ? 卓を囲む友達は多いほうが楽しいもんね」


 白き神、再臨す。
 あらゆる負傷は、彼女の未来を決して鎖せない。
 完成された永久機関、人類科学の最高到達点が主役の退場を拒み続ける。
 右手に光の剣を携えて立つその姿は、東京の平穏を脅かす厄災を祓いに現れた、まさしく神の化身のようで。
 現に祓葉は人間の身で黙示録の騎士、四種の終末装置のひとつを殴り飛ばして堂々登壇を果たした。

 天若日子は、それを前にして熱が引く感覚を覚える。
 そして、熱から冷めた/醒めたのは何も彼だけではない。
 つい先ほどまで双眸に戦意を横溢させ、感情的に赤騎士を見据えていたアンジェリカも然りだった。

「…………っ、は」

 赤騎士の〈喚戦〉は病のようなもの。
 熱に浮かされた脳は思慮を放棄し、目先の戦いに向かいたがる。
 そんな脳裏を焦がす闘志の火が、より強い輝きによって灼き尽くされた。
 流行病の熱を消すために太陽の熱を処方するなど荒療治にも程があるが、今の彼女にはそのくらいが丁度良かったらしい。

「あ、アーチャー……。わたし、わたし、今まで、何を……っ」
「正気に戻ったか、アンジェ。喜ばしいが説明は後だ。何せ、問題はまったく解決していないのだからな……!」

 死を破却して、再度立ち上がった〈世界の主役〉。
 光剣の一撃は、殺意に滾る天若日子を無視して赤騎士を消し飛ばした。
 だが――だが。戦争とは人類の抱える不治の病。濯げぬ原罪、消えぬ炎。
 なればこそその化身たる終末の【赤】が、たかだかこれしきで討たれる筈がない。

 とぷん、という音がする。
 未だ白煙の立ち昇る、光剣によって刻まれた一撃の痕。
 その戦跡上に、数秒前とまったく同じ姿形で赤き騎士が現出した。

 いや――それだけではない。
 今度はもっと破滅的な光景が、その出現に付随していた。

「……わお」

 祓葉の驚きが小さく響く。
 無理もない。それほどまでに、非現実的な光景であった。

 亡霊のようにひとり立つレッドライダー。
 その背後に、隊列を成して行進する影が無数に見て取れる。
 総数は百を優に超えている。全員が重火器で武装しており、さながら赤騎士に付き従う兵隊のようであった。
 兵隊と言っても、明らかに人間ではない。何故なら彼らの体表色は、既存のどの人種のものとも一致していなかった。
 青銅だ。公園や駅前に置かれているオブジェのような見てくれの人型が武装し、兵隊の真似事をしているのだ。
 いや――この場合はもはや、赤銅と呼んだ方が正確かもしれない。
 赤銅兵達の全身には赤い血管のような紋様が禍々しく走っていて、その色彩こそが、彼らが【赤】の眷属であることを物語っていた。

 レッドライダーの宝具、『剣、飢饉、死、獣(レッドライン)』。
 戦争に纏わる物品や兵器を具現化させ、再現する"対軍宝具"。
 これによって彼が此度再現したのは、栄光の国・テーバイの王カドモスに仕える竜牙兵達そのものだった。
 悪国征蹂郎の脳裏に追加された新たな"戦争"のイメージ。それが文字通り騎士の武器として、赤き地平に立ち並んでいる。

「すごいねえ。もしかしてあなた、宝具でなんでも出せちゃうの?」
「トオウ」

 祓葉の質問に、レッドライダーは答えなかった。
 代わりに、逆に問い返す。
 この機械めいたサーヴァントがそうする姿は異様だったが、だからこそその行動には意味がある。

「――オマエ、ハ、〈シロ〉、カ?」
「へ? シロ? 違うよ! 私はね、祓葉っていうの。神さまが寂しがって祓う――」

 否定。からの、お決まりの名乗り。
 問うておいて、赤騎士はそれを最後まで聞かなかった。
 正確には祓葉が"違う"と言った時点で、彼は攻撃行動を開始する。
 違うのであれば用はないと切って捨てるように、赤銅の軍隊を統べる騎士団長は号砲を鳴らしたのだ。

 瞬間、再び祓葉の全身が銃弾の雨霰に引き裂かれた。
 が、今度の彼女は倒れない。すべての負傷を無視しながら、熟れて潰れた果物みたいに欠けた顔に笑みを浮かべて踊る。
 光剣を振るって弾幕を斬り伏せ、単身で赤騎士の布陣へと進撃を開始した。

「そっちが聞いてきたのにひどいなあ! でも、うふふ、そう来なくっちゃね!」

 光剣の刀身は振るうたびに延長され、切り離されて"飛ぶ斬撃"と化す。
 熱光そのものである剣閃は、現代風に言うならば極めて奇怪な軌道を描いて迫る爆弾のようなものだ。
 圧倒的な数で君臨するレッドライダーの軍勢が、爆ぜる斬撃に見舞われて蹂躙される。
 これが単なるいちマスターの身で振るわれる攻撃だなどと、一体誰が信じられるだろうか。
 常人なら数百回は死んでいる身で、しかしそんな道理をねじ伏せながら、針音都市の【白(ホワイト)】は躍動する。
 結果、わずか十秒足らずの時間でもって、神寂祓葉は軍隊の先頭に立つ赤騎士へ肉薄を果たした。

「お話してくれないんだったら、戦争らしく身体で語り合おっか!!」

 振るわれる白の閃撃、一撃たりとも易しくはない。
 構えも振り方も子どものごっこ遊びと大差ないが、そこに宿る威力だけが常軌を逸している。
 英霊でさえ直撃すれば両断されるだろう一撃に対し、レッドライダーが駆使したのは同じく剣。

 右腕から"生える"形で、赤い長剣が生み出される。
 赤騎士はこれで、祓葉の剣を事もなく受け止めた。
 更に次の瞬間、わずかな腕の動きで光剣との鍔迫り合いを解除。
 刀身を滑らせて拮抗を打破し、その軌道のままに祓葉の頸動脈を切り裂いた。

 赤騎士レッドライダーは戦争の化身である。
 今でこそ観賞用の骨董品扱いだが、銃が台頭する前、剣は確かに戦場の主役であった。
 であれば彼はそれを、経験や得物の貴賤を無視し、最大の効率で運用することができる。
 プログラムの実行に技術は不要。正しいコードさえ打ち込まれているのなら、後は右クリックひとつで常に同一の結果を出力可能。
 理屈としてはこれと同じだった。レッドライダーの戦争は、端から技量という概念を必要としていない。

 ――だが、無体で言うなら祓葉とて負けはしない。
 いやむしろ、その土俵では彼女が常にこの世界の最先端である。

「やったな~!? 一発は一発だぞぅ、赤い人!!」

 停止しない心臓、欠損しない手足。失血死など何のその。
 不死という最大の無体がレッドライダーの一撃を無に帰す。
 大上段に振り上げた光の剣を、祓葉は負けじと赤き剣へ叩きつけた。

 瞬間、骨折によく似た破砕音が響いて赤剣が粉砕される。
 騎士の赤剣は宝具級の強度を有していたが、祓葉のスペックは常に彼女の気分次第。
 彼女を乗せてしまえばしまうほど、その高揚に応じて祓葉は常識を超えてくる。
 森羅超絶。戦争の歴史を変える"個"が、人類史そのものと呼んでも差し支えない赤騎士に現代最新の戦い方を教授する。

「とりゃ――ッ!」

 剣身の再形成が完了する前に、祓葉は光の剣で逆袈裟に切り上げた。
 それだけである。だが超越の貴公子が振るえば、それだけでも必殺の一撃となる。
 現にレッドライダーは、この一撃を前に何も対処を講じることができなかった。
 これまでの派手極まりない暴れぶりを思えば拍子抜けなほどあっさりと、その身体は光剣の軌道に沿う形で割断された。

 終わってみれば哀れなもの。
 そも、せっかく用立てた軍勢からして彼女には何の意味も成していないのだ。
 弾幕も、焼夷弾も、ロケットランチャーによる爆撃も、すべて無視される。
 何度、何十度、何百度致命傷を負わせようと、死なないのなら祓葉にとって無傷と同じ。

 強制された一対一(タイマン)においても、このスペックの相手とまともにやり合うなんて徒労と変わらない。
 誰ひとり、何ひとつ、神寂祓葉を滅ぼせない。人類史を更新するこの新たな霊長に、勝利できない。
 そんな現実を見る者に突き付けるような容易い勝利だった。そう、その筈だった。

 普通ならば。
 しかし生憎――――黙示録の騎士とは、その言葉と最も縁遠き存在だ。


「え?」


 『『『『『『『ピッ』』』』』』』。


 ――という音を、祓葉はこの時確かに聞いた。
 彼女の視界はその瞬間をもって断絶する。
 視界すべてを埋め尽くす爆炎が、それに見合うだけの衝撃と共に彼女の痩身を蹂躙したからだ。
 腕が吹き飛び、足が消し飛び、臓器が焼き焦がされて骨が全部かき混ぜられて、ガスコンロの傍にこびり付いた黒炭に変わる。

 刹那にして人体の原型を失った祓葉が、肉片になって飛び散った。
 スナッフフィルムめいた惨状をよそに、両断された筈の赤騎士がまた水音を立てる。

 ――とぷん。

 泣き別れになった半身と半身が血溜まりを思わせる赤い水溜まりに変わった。
 そしてその水面から、変わらぬ姿形のレッドライダーが平然と立ち上がる。
 赤騎士もまた再臨す。不滅はおまえの専売特許ではないと、無残に散った現人神へ告げるような復活だった。

 黙示録の赤(レッドライダー)とは戦争の化身。
 戦争とは根絶不能の宿痾。この地上から争いが消えぬ限り、赤の騎士は決して滅びない。
 まさしく真の不滅である。人類の愚かさを嘲笑うように、戦禍の厄災は再臨した。
 そんな彼の数メートル手前で、後進の不滅もまたやや遅れて再生を果たす。

「っ痛たたた……。びっくりしたぁ……」

 赤騎士を斬った神寂祓葉を吹き飛ばしたのは、やはり近代兵器であった。
 対人地雷――悪魔の兵器と呼ばれる、元凶の戦争が終わった後も大地に潜み続ける死の象徴。
 衝撃を感知して起爆し炸裂するこれを、レッドライダーは己の肉体そのものに埋没させていたのだ。
 それを斬った祓葉は当然の帰結として地雷を"踏み"、その代償を支払わされた。
 いわゆる爆発反応装甲、リアクティブアーマーである。本物はこれほど頭の悪い設計をされてはいないだろうが、戦場の全能者であるレッドライダーにとってはそんな常識なぞ知ったことではない。

 そしてもちろん、祓葉はレッドライダーのカラクリをまったく理解などしていなかった。
 実際に食らって尚何が起きたのか分かっていない。何かそういう宝具でも持ってるんだろうな、くらいのふわふわした理解だけである。
 が、彼女なりに気付いたこともある。斬った時に感じた手応え、自分によく似たその不滅性。それにだけは、覚えがあった。

「ねえねえ赤い人。あなた、もしかしてバッタさんの親戚?」

 虫螻の王、シストセルカ・グレガリア
 黙示録の【黒】、ブラックライダーの原型たる軍勢を祓葉は知っている。
 それどころか真っ向からぶつかり合って、激闘の末に打ち破っている。
 その経緯をすべて察せたわけではないだろうが……此処で最初の問いかけ以降、初めてレッドライダーが意思らしいものを窺わせた。

「クロヲ、シルカ。シロイ、ムスメヨ」

 途端に、吹き荒れていた戦火の勢いが一瞬止まる。
 赤銅兵による銃撃もだ。絵面だけ見れば小休止の様相だが、戦争の厄災が一時とはいえ進軍を止めた光景は安堵以上に不気味さが勝つそれだ。
 嵐の前の静けさ。誰もが想起するだろう言葉の通り、静寂の終わりは"それ"の到来とイコールだった。

「オ、オオオオ、オオオオオ――成就ノ時来タレリ。預言ハ叶イ応報ハ地ヲ覆ウ。
 黒ガ這イ出デ白ノ写身ガ踊リ出シタナラバ嗚呼コレナルハ正シク黙示ヲ告ゲル開戦ノ号砲ゾ!」

 機械音声じみた狂った抑揚が、わずかだけ人のそれに近くなる。
 だが違う。決定的に違う。人間の声帯から発せられる音にごく近い別種の音。
 甲高く鼓膜を貫くような騎士の聲は、喇叭に似ていた。
 終末を告げる天使の喇叭。黙示録の始まりを愚かしい民草に伝え上げる天の伝令。死を唄うアポカリプティック・サウンド。

 戦場のグレードが一段上がるのを、居合わせた誰もが感じた。
 これから始まる大戦争に比べれば、此処までのなど単なる余興。戯れに等しい。
 そう理解させる迫力が赤騎士を中心に東京の街を叫喚させていく。

 その混沌をも喝采するように赤騎士が両腕、そう見える長細い部位を掲げた。
 右腕と左腕。その中間に、破滅の予感を肯定するように顕現するものがある。

「えっ。ちょっと待ってよ、それはナシじゃない……?」

 ――祓葉でさえ、それを見た瞬間、わずかに顔色を変えた。

 そうだ、どんな馬鹿であろうと知らない筈がない。
 この国に生まれ育った人間であるならば尚のこと。
 戦争という不治の病が発現させた末期症状。
 人の手にして神話の域へ触れた、種の滅びまで語り継がれるだろう最大の愚。

 技術の革新とは喝采すべき繁栄である。
 しかしこれに限って言うならば、明確に、生み出されるべきではなかった鬼子だった。
 これを出産してしまった時点で人類はその行動のすべてに、これの影が付き纏うようになってしまった。
 拳、石、剣、銃。過去の戦争の主役達、いずれも及びもつかぬ。
 規模が違う。破壊力が違う。仇なす者達の暮らす大地へ刻む、爪痕の次元が違う。

 これぞ人類史上最悪の発明。
 そして戦争というジャンルにおいては、まさしく人類史上最高の発明。
 ヒトという生き物、増長する当代の霊長が到達してしまったひとつの高み。

 戦争の厄災は【赤】を象徴するが、これの墜ちた大地にはもはや血さえ残らない。
 あるのはむしろ、彼の色彩とは一線を画する黒色。すべてが焼け、焦げ、溶けて壊れて朽ち果てる。
 人類史の最大のターニングポイント。それの名は、その名は、そう――――



「今コソ境界(レッドライン)ヲ超エル時――――煌メキ朽チソシテ之ヲ仰ギ給エ、敬虔ナル預言ノ子ヨ……!!!」



 ――――原子爆弾、と呼ぶ。

 かつてこの国に二度墜ちた終わりの始まり。
 レッドライダーの手により再現された破滅の御子が、緩やかに落下する。
 約束するのは熱死と毒死。焼き殺し、生き延びたなら病ませ殺す。
 爆音と熱光を供として――そんな"最悪"が、令和の港区に三度目の惨劇を刻み込んだ。



◇◇



 サーヴァント・レッドライダー。
 その性能は、聖杯戦争における最上位(ハイエンド)に数えられる"王"の英霊達と比べてさえそう遜色ない。

 無尽蔵の創造能力。
 戦争という、概念であるが故の不滅性。
 古今東西、あらゆる歴史から自在に武器を捻出できる視野の広さ。
 すべてにおいて規格外。核爆弾さえも序の口、条件さえ揃えば彼は輪廻(ユガ)を終わらせるシヴァの鏃すら再現できるだろう。

 しかしそんな赤騎士にも、サーヴァントである以上弱点は存在する。
 今回の場合それは、マスターである悪国征蹂郎の性能だった。
 征蹂郎は暗殺者としては優れているが、マスターとしては並の域を出ない。
 彼の懐事情を顧みずに力を振るい過ぎれば、赤き戦禍の源泉はたちまち干上がる。
 故にレッドライダーは戦場の規模を合理的判断で絞り、創造した大量破壊兵器の射程(レンジ)も収斂させることでリソースの節約を図った。
 そう。赤騎士の暴虐はこの時多くの命を奪ったが、同時に多くの命を救ったのだ。

 港区・六本木四丁目に炸裂した歴史上三発目の核兵器。
 その破壊は、直径にして1キロメートルに届くかどうかの範囲を焼き滅ぼすに留まった。
 この程度で済んだ。これが純粋な終末装置として出現した騎士ではなく、要石を必要とする境界記録帯だったおかげで、稚気のように放たれた破滅は本来の出力の一割にも遠く及ばない破壊へと零落した。
 が、それでも――運悪く赤騎士の癇癪に居合わせてしまった人間、その全員が即死の末路を辿ったことは言うまでもない。
 例外はたったふたりの少女。彼女達だけが熱傷を被ることもなく、放射線の毒素に冒されることもなく生命活動を続行できていた。

「――怪我はない? お姉さん」

 アンジェリカ・アルロニカは、ようやく戻り始めた未だ眩みを残す視界に、目の前に立つ華奢な背中を見た。
 白い少女。目映く輝く光の剣を握り締め、変わらぬ声音で堂々と佇む姿を見た。

 天若日子は核爆弾の出現を見届けるや否や、踵を返してアンジェリカを抱え駆け出していた。
 臆病ではない。一瞬にも満たないわずかな時間の思考で、彼はこれから起こる破壊に対処できる手立てがないことに気付いたのだ。
 彼は対城規模の火力を用意できない。だから全力で退き、核の滅却範囲から外れることでどうにか命を繋ごうとしたのである。
 して、では天若日子はその命よりも重いものが懸かった博打に勝ったのか負けたのか。その答えは、もはや闇ならぬ光の中だ。

「すごかったね、今の。なんとか押し返せたけど、手がこんなになっちゃったよ」

 爆風の炸裂に合わせて、神寂祓葉が爆弾とアンジェリカ達の間に割って入った。
 その上で光剣を振り被り、斬撃の光帯を轟かせた。
 しかし光帯のサイズは、先ほどレッドライダーに喰らわせた時の比ではない。
 それこそ対城級の威力は確実に込められた一閃で以って、祓葉はWW2の死炎を押し返してみせた。

 祓葉の異能、宝具類似現象――『界統べたる勝利の剣』は彼女のスタイルを貫く上で不可欠と言っていいふたつの性質を内包している。
 それは概念切断と事象破却。いずれも、理を斬り伏せる力だ。
 これにより祓葉は、迫る原子爆弾の炎をそこに含有された放射線ごと文字通り斬滅。
 アンジェリカ、及び天若日子に一切の悪影響が及ばない形で、レッドライダーの反則技を切り抜けてみせたのである。

 とはいえ、過程を踏まず段階飛ばしに核の炎を斬るのは彼女基準でも些か無茶だったらしい。
 光剣を握る両手はあちこちひしゃげ、物理的にいくつもの関節が増設されていた。
 これでまだ物を握ったり、あまつさえ構えたりできているのが不思議なほどだ。

「……、……神寂、祓葉」

 否応なく蘇る――初めて遭った夜の記憶。
 星月の照らす空の下。矢を落とし白狼を斬り、笑う姿を覚えている。
 アンジェリカの脳裏を焦がした恐怖のヴィジョンは今も尚健在だったが、今目の当たりにした光景には怯えも忘れて絶句するのみだった。

 核爆弾の炸裂を、真正面から斬り伏せた。
 それだけのことをしておいて、反動はたかだか両手がひしゃげたくらいのもの。
 しかもその両手すら、時を刻む針音に合わせて、巻き戻すように癒えていく。
 そこには一切。一切、道理というものが通っていない。世の理が息をしていない。

 戦慄すると共に、己が抱いた彼女という生物に対する答えが正しいことを実感させられる。
 この世界は地獄だ。さっきまで憧れの眼差しで見つめていた街並みが黒く染まった瓦礫と死骸の山に変わっている時点でそうとしか言い様がない。
 アンジェリカはこれ以上その言葉が相応しい景色に出会った覚えがなかった。
 英霊が跋扈し、世界には未来がなく、怪物は次から次へと湧いて出て、そんな末法の世で狂気に懸想する魔人どもが彷徨いている。
 そんな悪夢そのものの都市にただひとり。何に曇らされることもなく、何を恐れることもなく、常に微笑んで踊る〈神〉がいる。
 それこそが神寂祓葉。そして自身の一撃を凌ぎ切った彼女に対し、血塗れの赤騎士が静かに鳴いた。

「――是非モ無シ」

 寺を焼き、女子供を殺し、戦国に数多の炎を運んだ者。
 魔王と呼ばれた男の常套句を、戦争の化身たるこれが発したのは単なる偶然か。
 いや、違う。そんな筈がない。次の瞬間に生じた悪夢がそれを証明していた。

 ――レッドライダーの背後。数百体の赤銅兵が並ぶ更にその後ろに、無数の銃が滞空している。
 魔王信長の三段撃ちを再現するが如し銃(くろがね)の壁。
 違うのはそのすべてが火縄銃などではなく、現代の軍隊で重用される狙撃銃に置換されていること。
 歴史は繰り返す。戦争もまた然り。そして二度繰り返されたなら、それが一度目より劣っているなどあり得ない。

「オマエ、ハ、預言ノ大地ニ、不要ナリ。
 何故ナラバ――――」

 続く言葉はあったのだろうが、聞き取れたのはそこまで。
 最後まで紡がれる前に、立ち並んだ狙撃銃のすべてが一斉に火を噴いたからだ。
 核に焼かれた大地に吹き荒ぶ鉛の風、三千世界。
 これを前にしていちばん最初に動いたのは、アンジェリカ・アルロニカのサーヴァントであった。

「不要なのはまず貴様だ、穢らわしい厄災めが」

 彼が放てる矢は、一度の動作でせいぜいが数発。両手の指で数えられる程度でしかない。
 が。その一矢一矢が、三桁に届く数の弾丸を薙ぎ払う威力を秘めている。
 結果としてこの弓神は、一張りの弓と二本の腕のみで魔境の制圧射撃に抗う戦果をあげていた。

「我が友に触れただけに飽き足らず、私とアンジェの愛する都市を焼いた白痴の武士(もののふ)よ。
 貴様は、この都を歩く者達の顔を見たことがあるか? 交わす会話を聞いたことがあるか?
 平々凡々たる日常を愛し生きられることの尊さに……一瞬でも想いを馳せたことがあるのか?」

 単純に、彼にそれができるだけの実力があったからというのも確かにある。
 だが、だとしても、今の天若日子は間違いなくこの仮想都市に召喚されて以来最大の獅子奮迅を見せていた。
 彼は今、猛っている。そしてそれ以上に、怒っているのだ。
 預言の成就を謳い、神のような面をして我が物顔で地上を蹂躙する異教の終末装置に。

 数十分前に、アンジェリカと交わした言葉が虚しく脳裏に反響する。
 この街が好きだと、自由への憧れを浮かべて語る声を覚えている。
 それが今はどうだ。悲鳴すら聞こえぬ戦跡。響くのは銃火の騒音のみ。
 すべて、この騎士がそうした。祓葉という脅威への戦慄さえ今だけは霞む。
 許してはならぬ暴虐に、神は怒っていた。邪悪なるものを穿つその弓が、使命感に鋭く研ぎ澄まされていく。

「天津の御遣いたる我が名の許に断言する。
 神が見下ろすこの地上に、貴様の在るべき場所はなし! 神にも人にも非ぬ貴様は、ただ害獣として討滅されよ!!」

 彼の心に、誓って微塵の邪心もなし。
 その神道は正しいことの中にある。
 であれば天若日子の君臨に陥穽は生まれ得ず。
 雷光の如くに彼の矢は迸り、三千世界を豪語する赤い弾幕を堰き止めながら徐々に押し返す。

 無論、骨の折れる所業であることは間違いない。
 事実天若日子は、限界を半ば超えた駆動に霊基が軋むのを感じていた。
 彼が如何に強く優れた弓神といえども、このまま単騎で相対し続ければ破綻の未来は見えている。
 彼自身それを自覚していたからこそ、此処でひとつ、リスキーな賭けに打って出る必要があった。
 弓を引き絞り、矢を放ちながら――視線だけで、白い少女の方を窺う。

「……おい、東京の現人神よ!」
「えっ。あら……あらひ……?」
「ええい祓葉! 私もあまり余裕がない、手短に問うぞ! ――――今は貴様、アンジェの味方でいいのだな!?」

 信用できる相手かと言われたら断じて否。
 絆されてはならぬことは、音に聞く〈はじまりの六人〉の末路が象徴している。
 だが――これが先の核爆発から自分達を守ってくれたことは事実。
 何の気まぐれか知らないが、この状況では気まぐれだろうがなんだろうが利用するしかない。

 ……レッドライダーの戦線(レッドライン)がまた変容を遂げる。
 赤銅兵と滞空する狙撃銃を背景に、騎士本体の輪郭が禍々しく変形した。
 羽を開いた蟷螂を思わせるシルエット。が、突き出ているのは羽ではない。
 その証拠に次の瞬間、天若日子達を襲ったのは大瀑布のような勢いで迫り来る、粘ついた赤炎の壁だった。

 レッドライダーが此処で再現した兵器は、俗に火炎放射器と呼ばれる代物である。
 圧縮ガスで液体燃料に点火し、燃えながら粘つく流体のジェット噴射を引き起こす。
 人間が如何に惨たらしく敵を殺戮できるかという観点であれば、現代でも上位の悲惨さを誇る殲滅兵器。
 ましてや彼は英霊。液体燃料は魔力で代用され、故にその出力は現実の火炎放射器のそれを優に数十段は超えている。
 対軍宝具の開帳にも達する攻撃範囲と熱量。もはや戦略爆撃に等しい燃える悪夢。
 だが――その炎を切り裂く、界を統べたる白光がやはりひとつ。

「――――それでいいよ。もっとお話してみたいしね、あなた達とは」

 白き光が、悪意の炎を千々に引き裂く。
 衝撃の熱量を前に蒸発していく可燃魔力。
 黙示に非ぬ預言の子が、審判と呼ぶには幼稚すぎる君臨で赤の台頭を拒絶する。

「尚モ、立ツカ」

 赤騎士の、目鼻も彫りもない顔に。
 ふたつの孔が生まれ、それがルビーを思わす輝きを放つ。
 黙示録の騎士は本来無機質なるもの。
 しかし今、レッドライダーは預言の否定に立ち会っている。

 存在意義を脅かし、いつか訪れるべき結末を揺るがす異分子。
 その存在が、バグのように終末の戦乱機構へ不興の念を抱かせた。
 そして買った不興は、やはりと言うべきか戦争という形で像を結ぶのだ。

「是非モ無シ――誅戮スル」

 赤の水面が、まるで冠水のように焼け野原の大地へ広がっていき。
 沼ほどの面積になったそこから、ぬらりと姿を現す血腥いメタル。
 それは展開した赤銅兵を内に取り込み、即席の騎手と変えながら次から次へと群れを成す。

 ティーガー戦車という名前を、果たしてふたりの少女は知っていただろうか。
 これもまた人類が開発した、鎧より硬く馬より長く、弓より効率的に戦場を蹂躙できる戦争工学の結晶。

 更に――

「此処ハ」「死ノ地也」
「其ハ裁キ」「其ハ預言」
「恐怖アレ」「叫喚アレ」
「人ノ記憶ハ我ガ僕トナリテ」
「我ガ敵其ノ悉クヲ撃滅セシメン」

 空に、舞い上がる無骨な機体。
 騎士の眷属たる赤の紋様を亀裂のように走らせて。
 轟音を立てながら翔ぶはB-29爆撃機。
 戦車同様に赤銅兵を騎手としたこれは天の眼となりて、地上のあらゆる敵を逃さない。

「イザ、死ニ賜エ――不遜ナル贋神(デミウルゴス)ヨ」

 陸と空を物量で制し、いざ、赤の騎士が進軍を再開する。
 響く機銃掃射と戦車砲の爆撃が、針音すらもかき消すように殺戮のオーケストラを開演させた。



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最終更新:2025年02月18日 01:10