【スタジアム】その1
最終更新:
dangerousssms
-
view
あなたの透き通った本当の食べ物~お食事中の方はご注意ください~
Chapter1 『デスコックは発奮し、石野カナは戦慄する』
大通りから細い路地に入り三度曲がる。ざりざりと体が擦れるほどの細い道の突き当り。真っ暗な階段を降りた先。
『Restaurant 死』。
壁に掲げられた看板には汚い字でそう書かれている。
『Restaurant 死』。
壁に掲げられた看板には汚い字でそう書かれている。
冷たい空気の流れる地下への階段を下りた扉の奥。
その空間には二人の人間がいた。無論ただの人間ではないが、一応は人間と呼べるその二人。
その空間には二人の人間がいた。無論ただの人間ではないが、一応は人間と呼べるその二人。
既に蛍光灯は切れ、琥珀色をした電気ランタンの光がデスコックとH・リーを照らしていた。
「そういうわけでさ! デスコックには『大会』でめっちゃ面白い戦いをしてほしいんだよね!」
「た、た、闘いでございますか!? いえ、しかし、わたくしは一介の料理人兼ウエイター兼店長兼オーナーでございまして、闘うなどということはですね、不可能でございまして――」
「いやいやいや、戦いって言ってもあれだから! デスコックには料理をご馳走してほしいんだ!」
「料理で戦いを!?」
「た、た、闘いでございますか!? いえ、しかし、わたくしは一介の料理人兼ウエイター兼店長兼オーナーでございまして、闘うなどということはですね、不可能でございまして――」
「いやいやいや、戦いって言ってもあれだから! デスコックには料理をご馳走してほしいんだ!」
「料理で戦いを!?」
デスコックが弾かれように立ち上がる。ガムテープで脚を補強した折り畳み椅子がガシャンと音を立てて崩れた。
テーブル上の電気ランタンがデスコックの顔を下から照らす形となった。
テーブル上の電気ランタンがデスコックの顔を下から照らす形となった。
「うおっ」
H・リーが思わず床に顔を向ける。汚いコンクリートの上で鼠がゲジゲジを攫っていった。
「よろしいですかリー様。確かに世間には料理勝負という催しがあり、それを楽しむ方々も大勢いらっしゃるのでしょう」
全裸の上に黒コートの男が道理を言い聞かせるように語りだした。
「それが好きだという個人の気持ちは否定いたしません。しかしわたくしにも料理人としてのポリシーというものがございます。わたくしの料理は心を込めたおもてなしであることが第一です。決して誰かと競うためのものではないのです」
「ああ、うん、いやね、料理勝負っていうか、いや、料理勝負なんだけど――」
「ああ、うん、いやね、料理勝負っていうか、いや、料理勝負なんだけど――」
H・リーは頭を掻いて思案する。
実際の所業は置いておいて、平常時のデスコックが暴力を忌避していることは知っていた。
それでも料理勝負の名目で連れ出すことさえできれば、あとは流れで狂ったように暴れだすと踏んでいたのだ。
しかしこの段階で拒否されるとは。
実際の所業は置いておいて、平常時のデスコックが暴力を忌避していることは知っていた。
それでも料理勝負の名目で連れ出すことさえできれば、あとは流れで狂ったように暴れだすと踏んでいたのだ。
しかしこの段階で拒否されるとは。
「あ、そうだ」
「はい?」
「うん、料理勝負っていうのはあくまでも名目なんだよ」
「とおっしゃいますと?」
「はい?」
「うん、料理勝負っていうのはあくまでも名目なんだよ」
「とおっしゃいますと?」
H・リーは自身のアドリブ力に舌を巻きうんうんと頷いた。
「聞いて驚け! 料理勝負の『大会』とは仮の姿! 本当はその名目上の対戦相手に腹いっぱい食べてもらうためのサプライズイベントなんだよ!」
「サプライズイベント!」
「サプライズイベント!」
デスコックは瞠目する。
そういうことならやぶさかではない、と言わんばかりにテーブルに手をつき身を乗り出した。
折り畳み式のテーブルはぎしりと軋んだ。
そういうことならやぶさかではない、と言わんばかりにテーブルに手をつき身を乗り出した。
折り畳み式のテーブルはぎしりと軋んだ。
「しかしリー様がそこまでして御馳走したい相手とは一体どんな方なのですか?」
「それはね――」
「それはね――」
H・リーの脳細胞が高速で回転し予選通過者の中から最適なターゲットを弾き出した。
「――石野カナっていう医者だ。なんか世界中を回って色々治療してるすごい人らしいんだけどさ、完全回復の魔人能力を持ってるそうなんだよね。で、その能力は空腹も回復させるっていうんだけどさ、その力を自分に使ってて長い間なにも食べずに過ごしてるらしいんだよ」
ほぼ伝聞と推測であるが、この際デスコックを説得できれば何でもいいのだ。
「ええつ、長い間なにも食べずに!?」
自己認識上誇り高い料理人である彼は見事に食いついた。
「確かにそのような魔人能力なら健康には問題ないのかもしれませんが……食事というのはただ生きるためだけのものではなく、人生の喜びだとわたくしは考えています。医食同源ともいいますし、立派なお医者様であればなおさらです」
「おおっ、ということは――?」
「このお仕事、お引き受けいたします。石野カナ様を精いっぱいおもてなしして、お腹いっぱい食べる喜びを思い出していただきましょう!」
「やったー! マッチング成立だ! じゃあよろしく頼むよ!」
「おおっ、ということは――?」
「このお仕事、お引き受けいたします。石野カナ様を精いっぱいおもてなしして、お腹いっぱい食べる喜びを思い出していただきましょう!」
「やったー! マッチング成立だ! じゃあよろしく頼むよ!」
H・リーは小躍りして店を出た。
扉がバタンと閉まると同時に、折り畳み式のテーブルがガシャンと崩れた。
デスコックは構わずにいそいそと厨房へ向かった。
扉がバタンと閉まると同時に、折り畳み式のテーブルがガシャンと崩れた。
デスコックは構わずにいそいそと厨房へ向かった。
◇
「なにィーッ!? この稀代の通り爆弾魔である芋生戸似 爆弾梅太郎 が通りすがりの姉妹の妹の方の体内に埋め込んだ爆弾を一瞬で貴様の手中にワープさせるとは貴様一体何者だグバァーッ!?」
黒い医療鞄の一撃が芋生戸似爆弾梅太郎の顎を正確に打ち上げた!
脳を揺さぶられた芋生戸似爆弾梅太郎は失神!
脳を揺さぶられた芋生戸似爆弾梅太郎は失神!
「ああっ通りすがりのお医者様ありがとうございます! なんとお礼を言ったらいいか!」
一目で医者と分かる白衣の女は感激する姉妹の姉の方を手で制した。
「私はこの爆弾を処分する。失敗しないとは思うが近づかない方がいい。君はすぐに魔人警察を呼んでその男を拘束してもらってくれ」
石野カナはそれだけ言って走り去った。
彼女が手に持つ爆弾にはタイマーが表示され、わずか10秒後には爆発することを示していた。
彼女が手に持つ爆弾にはタイマーが表示され、わずか10秒後には爆発することを示していた。
「仕方ないか」
石野カナは渋々と言った表情で医療鞄を開く。
その中に爆弾を放り込み、鞄を閉じ、地べたに置いた上に自身の体で覆い被さった。
その中に爆弾を放り込み、鞄を閉じ、地べたに置いた上に自身の体で覆い被さった。
ボン!
くぐもった爆音とともに彼女の体がわずかに浮き上がる。
「ぐおっ……」
口からこぼれた少量の血が小さな太陽の絵を地面に描く。
しかし一秒後には何事もなかったかのように立ち上がった。
しかし一秒後には何事もなかったかのように立ち上がった。
芋生戸似爆弾梅太郎は通りすがりの姉妹の妹の方に直接触れることで爆弾を埋め込んだ後もその場を離れる様子を見せず、摘出した爆弾に表示された時間はあまりにも短かった。
間近で爆発する様を見ようとしていたのは明白であり、その威力は大したものではないと推測した上での行動だったのだが。
間近で爆発する様を見ようとしていたのは明白であり、その威力は大したものではないと推測した上での行動だったのだが。
「やはり駄目だな」
医療鞄の口を開くと熱い白煙と異臭がぼわっと昇った。
中に収められていた医療器具は粉々に砕けた上に熱で溶け、爆弾の破片と混ざり合っていた。
防弾・防刃加工のされた鞄自体もかなり痛んでいる。
中に収められていた医療器具は粉々に砕けた上に熱で溶け、爆弾の破片と混ざり合っていた。
防弾・防刃加工のされた鞄自体もかなり痛んでいる。
「新調するか……」
石野カナは肩を落とし、しかし微笑を浮かべながらその場を去っていった。
そして数時間後。
物資の補充を終えた石野カナはネットカフェに立ち寄っていた。
対戦相手の決定といくつかのルール追加の知らせを受けての情報収集である。
物資の補充を終えた石野カナはネットカフェに立ち寄っていた。
対戦相手の決定といくつかのルール追加の知らせを受けての情報収集である。
「これは……どういうことだ?」
対戦相手の名はデスコック。『Restaurant 死』という店を構える料理人、のはずである。
「『Restaurant 死』だと……しかしこれは……」
額に流れる汗を手の甲で拭う。
黒い瞳が忙しなく動き、パソコンの画面に映し出された情報を追う。
目を疑うが再生能力を繰り返し使用する彼女の視力は正常を保つ。
目の前の事実こそが現実だ。
黒い瞳が忙しなく動き、パソコンの画面に映し出された情報を追う。
目を疑うが再生能力を繰り返し使用する彼女の視力は正常を保つ。
目の前の事実こそが現実だ。
「食べログに載ってない……!」
そう、食べログに載っていないのである!
食べログといえば「頼んでもないのに情報が載る」と言われる程の掲載数を誇る大手レビューサイト! その食べログに載っていない!
食べログといえば「頼んでもないのに情報が載る」と言われる程の掲載数を誇る大手レビューサイト! その食べログに載っていない!
拭ったはずの汗が頬を伝う。
右手はマウスを持ったまま、左手はぎゅっと握しめられて。
雫はぽたりとキーボードに落ちた。
右手はマウスを持ったまま、左手はぎゅっと握しめられて。
雫はぽたりとキーボードに落ちた。
「これではなにもわからないが、一つだけわかったことがある」
考えを整理するために石野カナはあえて声に出した。
「つまり、デスコックにはなにか大きな秘密がある!」
つまり、なにもわかっていないのである!
Chapter2『DEATH-KOK OF THE DEAD!』
「げっへへへへへ!」
げっへへへへ。
げへへへへ。
げへへへへ。
魔人の哄笑が反響する。
あるいは悪魔や死神と呼ぶべきかもしれない。
あるいは悪魔や死神と呼ぶべきかもしれない。
それから足音も二種類。
タタタタという軽快な音。
どすんどすんという鈍重な音。
タタタタという軽快な音。
どすんどすんという鈍重な音。
石野カナは走っていた。
背筋を伸ばし、視線はまっすぐ前。
医療鞄を持ったまま肘の角度は90度。
後ろに体重をかけることなく、かかとからつま先で前に跳ぶように床を蹴る。
2呼2吸の規則正しい息遣い。
背筋を伸ばし、視線はまっすぐ前。
医療鞄を持ったまま肘の角度は90度。
後ろに体重をかけることなく、かかとからつま先で前に跳ぶように床を蹴る。
2呼2吸の規則正しい息遣い。
コンクリートに囲われた薄暗い空間は思いのほか広い。間を仕切る壁がほとんどできていないのだ。
戦場となったのは建設中のスタジアム。外観、基礎構造は既に完成し、フィールドでの天然芝栽培も種まきが終わった段階だ。
現在カナが走るのは屋内部。選手控室やラウンジ、救急室、トイレ、通路などが造られる予定の場所だ。
灰色の壁の表面を鈍色の鉄パイプと鉄板で組まれた足場が覆っている。
戦場となったのは建設中のスタジアム。外観、基礎構造は既に完成し、フィールドでの天然芝栽培も種まきが終わった段階だ。
現在カナが走るのは屋内部。選手控室やラウンジ、救急室、トイレ、通路などが造られる予定の場所だ。
灰色の壁の表面を鈍色の鉄パイプと鉄板で組まれた足場が覆っている。
はるか後方の光源が彼女の影を長く伸ばす。
デスコックの影もまた長く伸びる。その影の頭がカナの足元に届いていた。
デスコックの影もまた長く伸びる。その影の頭がカナの足元に届いていた。
――手を打つ必要がある。
ビニールに包まれた黄色い綿のような物体。
床に転がるそれにカナが目を止めた時、デスコックの影は腹の辺りまでが追いついていた。
床に転がるそれにカナが目を止めた時、デスコックの影は腹の辺りまでが追いついていた。
カナは走行フォームを崩しそれを拾い上げ、振り向きざまに投げつける。
数十メートルの距離に迫るデスコックがそれを手で打ち払う。
触れた瞬間ビニールが破裂し中身がデスコックの体にまとわりついた。
数十メートルの距離に迫るデスコックがそれを手で打ち払う。
触れた瞬間ビニールが破裂し中身がデスコックの体にまとわりついた。
「げへへへへへ!」
デスコックは体中を掻きむしる。
その黄色い綿はグラスウール。
天井や壁の内側に断熱材として仕込まれる建設資材だ。
それは微細なガラス繊維の塊であり、素肌に触れれば肉眼では見えない小さな傷と猛烈な痒みをもたらす。目に入れば失明の恐れもある。
そして静電気で張り付くそれはただ傷を治すだけでは引き離すことができないのだ。
天井や壁の内側に断熱材として仕込まれる建設資材だ。
それは微細なガラス繊維の塊であり、素肌に触れれば肉眼では見えない小さな傷と猛烈な痒みをもたらす。目に入れば失明の恐れもある。
そして静電気で張り付くそれはただ傷を治すだけでは引き離すことができないのだ。
「げへ、げへ、げっへへへ!」
デスコックは自らの皮膚を引き裂いた!
黒コートに覆われていない手と顔面の皮を剥がして捨てた! 眼球さえも放り捨てる!
黒コートに覆われていない手と顔面の皮を剥がして捨てた! 眼球さえも放り捨てる!
赤い筋繊維が露出し一歩ごとに濁った体液が飛び散る!
瞬く間に艶々とした肌が再生する!
きらきらと輝く瞳がカナを見据えた!
瞬く間に艶々とした肌が再生する!
きらきらと輝く瞳がカナを見据えた!
バック走でそれを見届けていたカナは人差し指を彼に向けていた。
指先には小さな針が刺してあった。
指先には小さな針が刺してあった。
「射出 」
その瞬間、爆発的な破裂音が轟き、デスコックが吹き飛ばされた。
石野カナの魔人能力は「シスタードクター」。あらゆる妹を対象にする完全回復能力である。
体表の傷は一瞬で感知し、体内の異物も一瞬で取り除くことができる。
そして異物摘出を行う場合、その物体はカナの手中へ転移する。
体表の傷は一瞬で感知し、体内の異物も一瞬で取り除くことができる。
そして異物摘出を行う場合、その物体はカナの手中へ転移する。
しかし例外となる事象もある。
それが鍼灸師の打つ針のように身体にとって完全に無害である場合、それは異物とは見なされない。それに対して異物摘出の効果は適用されないのだ。
それが鍼灸師の打つ針のように身体にとって完全に無害である場合、それは異物とは見なされない。それに対して異物摘出の効果は適用されないのだ。
そしてその場合でも傷は塞がる。再生する肉体が隙間を埋め、そこにある物体は押し出される。
特筆すべきはその速度。治療は瞬時に完了する。どれだけ目を凝らしても気が付いた時には終わっている。
人間には知覚できないスピード。
超音速、亜光速の速さ。
人間には知覚できないスピード。
超音速、亜光速の速さ。
よって押し出された物体もそのスピードで飛ばされる。
どれだけ小さな物体であっても衝撃波が破壊をまき散らすことになるのだ。
どれだけ小さな物体であっても衝撃波が破壊をまき散らすことになるのだ。
これこそが医者霹靂 。
かつて一度たりとも人に向けられたことはなく、もっぱら災害時に瓦礫を取り除き患者の元へ急行するために使われてきた技だ。
デスコックは粉々の肉片と血の染みとなって消え去った。
それらが付着したコンクリートと諸共に。
それらが付着したコンクリートと諸共に。
カナは反転し再び長距離走のフォームを取った。
デスコックにそれが無意味であることは既に知っている。
わずかな時間稼ぎにしかならない。勝利への仕込みが終わるまでは逃げ続けるしかないのだ。
デスコックにそれが無意味であることは既に知っている。
わずかな時間稼ぎにしかならない。勝利への仕込みが終わるまでは逃げ続けるしかないのだ。
数十秒後にはどすんどすんという聞きなれた足音が迫っていた。
近い。しかし黒い影はない。
近い。しかし黒い影はない。
――上だ。
デスコックは二階を走っている。
カナは反響する足音を聞き分けそう判断した。
既に指には次の針を刺している。
カナは反響する足音を聞き分けそう判断した。
既に指には次の針を刺している。
どすん。どすん。どすん!
一際大きな響を残し、足音が止んだ。
一瞬の後、カナの前方の天井が砕けた。
そこに向かって針を射出すると同時に、降り注ぐ粉塵と瓦礫の中にコンクリートを突き破ったと思しき歪んだ足場板を見つけた。
そこに向かって針を射出すると同時に、降り注ぐ粉塵と瓦礫の中にコンクリートを突き破ったと思しき歪んだ足場板を見つけた。
カナの後方で天井が砕けた。
向き直り、勢いつけて振った医療鞄が力強い拳に弾かれた。
向き直り、勢いつけて振った医療鞄が力強い拳に弾かれた。
「……!」
カナの足が地面を離れる。
デスコックの屈強な手がついにカナの首を捕まえたのだ!
デスコックの屈強な手がついにカナの首を捕まえたのだ!
ぎりぎりと太い指が沈み込む。カナは呼吸すらままならない。
一秒後、べきりと鈍い音が鳴った。
一秒後、べきりと鈍い音が鳴った。
しかし折れたのはデスコックの指。シスタードクターにより再生した首の肉が押し返したのだ。
デスコックはひるんだ素振りなど微塵も見せない。
だが構造的に支える力を失いカナの体を取り落した。
デスコックはひるんだ素振りなど微塵も見せない。
だが構造的に支える力を失いカナの体を取り落した。
「ゲホッ、ゲホッ、ハアッ!」
カナは尻もちをついたまま医療鞄を振り回す。
まっすぐ右腕を伸ばし、腰をひねり、最大の遠心力を得てデスコックのすねを打つ。
まっすぐ右腕を伸ばし、腰をひねり、最大の遠心力を得てデスコックのすねを打つ。
無造作な蹴りが迎え撃ち、逆にカナを鞄ごと転がした。
「い、石野様、お料理の準備がですね、できておりますので」
デスコックはゆっくりと歩み寄る。
立ち上がり、再び走り出そうとするカナの左腕を掴んだ。
ぶつりと肩から引き千切った。
立ち上がり、再び走り出そうとするカナの左腕を掴んだ。
ぶつりと肩から引き千切った。
「ぐあッ……!」
血が迸りカナの白衣が赤く染まる。裂けた肩から骨片が落ちた。
「ぐうッ、ウッ」
苦悶し呻きながらもカナは走り出した。
左腕も時間を置かず元に戻った。
左腕も時間を置かず元に戻った。
「ああっ、石野様!」
もいだ腕を手にしたままデスコックは悲し気に呼びかけた。
「あなたの為のお料理が!」
デスコックは追わず、傍らのコンクリート片を手に取り、投げた。
浅い角度で放たれたそれはカナの頭を掠め、行く先の天井を砕く。
浅い角度で放たれたそれはカナの頭を掠め、行く先の天井を砕く。
「くっ!」
カナは鋭くカーブし目ざとく見つけた分岐炉へと駆け込む。
眩しさに目を細める。目前のガラスから光が差す。建物の外周部だ。
眩しさに目を細める。目前のガラスから光が差す。建物の外周部だ。
「お待ちください!」
背後のデスコックの声はやや遠い。次に追いつかれるまでどれだけ時間を稼げるか。
ひゅう、と背後から風を切る音。
ボールのようなものがすぐ脇を通って追い越した。生暖かい雫が顔に跳ねた。
「げへへ」
転がる生首が笑い声をあげる。カナが足を踏ん張り減速する間に、それは胴体と手足を生やした。
「お席にご案内いたします!」
デスコックはエスコートするように手を差し出した。
貫手と変わらぬそれをカナは腕で受けた。
その腕は既に裂けていた。逆の腕には血に濡れたメス。カナ自身が自分の肉体に隙間を作っていた。
デスコックの手はカナの肉体があったはずの空間にあり、しかしカナに一切の害を与えていなかった。
貫手と変わらぬそれをカナは腕で受けた。
その腕は既に裂けていた。逆の腕には血に濡れたメス。カナ自身が自分の肉体に隙間を作っていた。
デスコックの手はカナの肉体があったはずの空間にあり、しかしカナに一切の害を与えていなかった。
「射出 」
デスコックは目視不能の速度でガラスを突き破った。
場外とはなるまい。
試合開始から今までの間に彼の肉片はそこら中にばらまかれている。
カナは医療鞄からガーゼを取り出し頬の血を拭い去ってその場に捨てた。
僅かでもそれらが少ない場所を求めて彼女は階段へ向かった。
試合開始から今までの間に彼の肉片はそこら中にばらまかれている。
カナは医療鞄からガーゼを取り出し頬の血を拭い去ってその場に捨てた。
僅かでもそれらが少ない場所を求めて彼女は階段へ向かった。
二階、見える範囲にデスコックやその体の一部はない。
一息つく間もなく、ガツン、と硬質な音が遠くから響いた。
デスコックは既に行動を再開している。
デスコックは既に行動を再開している。
――しかしどこかで聞いたような音だ。試合中ではなく、もっと昔に。
音は断続的に響く。それから、カラカラと歯車が回るような音が加わった。
足元の小石のようなコンクリート片が震えて跳ねている。
足元の小石のようなコンクリート片が震えて跳ねている。
「完成間近の建物に遠慮がないな……」
先に聞こえた音はもう聞こえない。後からの音が音量を増し、全てを飲み込むような轟音となっている。
――思い出した。ブルキナファソで子供が金を掘らされていたな。さっきのは適当な棒で岩を掘ろうとする音に似ていた。
逃避するようにそんなことを考え始めていた。
視界の果てで小さく、決して見間違いではなく、廊下が端から崩落し始めていた。
視界の果てで小さく、決して見間違いではなく、廊下が端から崩落し始めていた。
カナは弾かれたように走り出す。
歩幅は大きく、前傾姿勢。短距離走のフォーム。
歩幅は大きく、前傾姿勢。短距離走のフォーム。
走る! 全速!
人間の瞬発力を生み出す速筋繊維は貯蔵したエネルギーをわずか2秒で使い果たすという。
その後はエネルギーの再生産が行われるが、それも8秒程度で供給が切れる。
非魔人100メートル走の世界記録は今や10秒を切るが、その領域の偉大なアスリート達でさえもレースの後半には否応なく減速する。
人間の身体が抱える種の限界なのだ。
その後はエネルギーの再生産が行われるが、それも8秒程度で供給が切れる。
非魔人100メートル走の世界記録は今や10秒を切るが、その領域の偉大なアスリート達でさえもレースの後半には否応なく減速する。
人間の身体が抱える種の限界なのだ。
だが石野カナは違う!
10秒! 15秒! 20秒! トップスピードを維持し続ける!
先ほどの長距離走とは状況が違う。今の彼女は指に針を刺していない。医者霹靂が望まぬ形で発動することはない。
回復を繰り返して走り続けているのだ!
先ほどの長距離走とは状況が違う。今の彼女は指に針を刺していない。医者霹靂が望まぬ形で発動することはない。
回復を繰り返して走り続けているのだ!
だが崩落もまた無情の速さで迫りくる。
数多のスポーツ選手の激闘の舞台となり幾多の観客たちに熱狂を与えるはずだった物が、多大な予算と時間を費やし建築会社の作業員たちが築き上げた物が、瞬く間に塵芥に変わっていく。
数多のスポーツ選手の激闘の舞台となり幾多の観客たちに熱狂を与えるはずだった物が、多大な予算と時間を費やし建築会社の作業員たちが築き上げた物が、瞬く間に塵芥に変わっていく。
舞い上がる灰色の粉塵が今にもカナに追いつこうとしている。
カナは走る方向を変えた。前ではなく横。外ではなく内へ。
壁際でひしゃげた足場から鉄パイプをむしり取った。
壁際でひしゃげた足場から鉄パイプをむしり取った。
大きく開けたゲートをくぐる。
日の光が差す。
屋根のないフィールドを観客席が囲む。
座席は未だ設置されておらず、石段の連なるローマの円形劇場にも似ていた。
日の光が差す。
屋根のないフィールドを観客席が囲む。
座席は未だ設置されておらず、石段の連なるローマの円形劇場にも似ていた。
カナは鉄パイプを振りかざし、足元に突き立て、天高く跳んだ。
ほぼ同時にその床さえ崩れ、鉄パイプが呑み込まれた。
ほぼ同時にその床さえ崩れ、鉄パイプが呑み込まれた。
空を漂うような長いジャンプを終えて彼女が再び地に足をつけた時、辺りは砕石の海へと変わっていた。
試合終了のアナウンスはない。デスコックもまたどこかで生き残っているのだ。
カナは注意深く辺りを見回す。
舞い上がっていた粉塵が落ち始め、やや距離のあるフィールドも徐々に姿を見せ始めた。
カナは注意深く辺りを見回す。
舞い上がっていた粉塵が落ち始め、やや距離のあるフィールドも徐々に姿を見せ始めた。
スタジアムの中心部であるそこは崩落の影響をほとんど受けていない。
観客席との境の辺りはコンクリート片が入り込んでいるが、天然芝を育てるための水はけのいい川砂は試合開始時の様子とほぼ変わらない。
そこには金属の塊が大量に積みあげられており、全てを見渡せるわけではない。
少なくとも見える範囲にデスコックはいないというだけではあるが、そのような物陰から出てくる者がいればすぐにわかる。
観客席との境の辺りはコンクリート片が入り込んでいるが、天然芝を育てるための水はけのいい川砂は試合開始時の様子とほぼ変わらない。
そこには金属の塊が大量に積みあげられており、全てを見渡せるわけではない。
少なくとも見える範囲にデスコックはいないというだけではあるが、そのような物陰から出てくる者がいればすぐにわかる。
対してカナ自身が立つ場所、観客席だったここにデスコックが現れるならば。
当然のことだがばらばらに砕けたコンクリートは一塊のそれより動きやすい。
動く物を察知するのは容易だ。
当然のことだがばらばらに砕けたコンクリートは一塊のそれより動きやすい。
動く物を察知するのは容易だ。
カナは医療鞄を構えて待ち受ける。
戦いが終わっていないのなら必ずデスコックは仕掛けてくる。
一秒ごとに回復し、僅かな疲労も蓄積させない。
それでも流れ落ちる汗が足元に一滴分の染みを作った。
一秒ごとに回復し、僅かな疲労も蓄積させない。
それでも流れ落ちる汗が足元に一滴分の染みを作った。
がたり、音を立ててコンクリートがぐらついた。
――真下!
ところどころ皮の剥がれた太い腕がカナ足首を掴んだ。新たな皮がうぞうぞと蠢き瞬時に傷を埋めた。
カナは無理に振り払わずにその場でかがむ。医療鞄を横向きに叩きつけた。
腕は肘から先をコンクリートの下に残したまま剪断された。
カナは無理に振り払わずにその場でかがむ。医療鞄を横向きに叩きつけた。
腕は肘から先をコンクリートの下に残したまま剪断された。
カナは立ち上がる勢いでフィールドへ向かい跳びはねる。
まだわずかに形を残すフェンスのへりに飛び乗った。
まだわずかに形を残すフェンスのへりに飛び乗った。
瓦礫から這い出たを出したデスコックが頭をコンクリートに叩きつけた。
どろりとした赤い液体と白っぽいぶよぶよした物が飛び散った。
どろりとした赤い液体と白っぽいぶよぶよした物が飛び散った。
カナはフェンスを蹴って宙にいた。足首を握るデスコックの手から肘はだらりと垂れ下がったままだ。
その腕が悪魔じみた力を取り戻す。
肘から先、総身揃ったデスコックが声なく笑う。
その腕が悪魔じみた力を取り戻す。
肘から先、総身揃ったデスコックが声なく笑う。
カナは空中でバランスを崩す。
デスコックに掴まれたまま今にも地面に落ちようとしている。
デスコックに掴まれたまま今にも地面に落ちようとしている。
その時、二人の上に巨大な影が落ちた。
二つに割れた蹄がデスコックを踏みつけた。
「ぶえ!?」
意外そうな声を上げて彼は砂の上に落ちた。
やや離れた位置にその生き物も着地した。
肉球に覆われた大きな平たい蹄。砂に沈まないための足。
フタコブラクダ。
肉球に覆われた大きな平たい蹄。砂に沈まないための足。
フタコブラクダ。
「先生、仕込みは終わりましたんで」
ラクダ上でカナを抱える男はそう言った。
「ああ、助かった」
二人と一頭が立ち上がるデスコックを睨んだ。
そう、デスコックの敵は二人と一頭だ。
カナは一人で戦っていたわけではない。
卑怯ではない。それを咎めるルールはない。
これは一対一のルールによる試合ではない。
そう、デスコックの敵は二人と一頭だ。
カナは一人で戦っていたわけではない。
卑怯ではない。それを咎めるルールはない。
これは一対一のルールによる試合ではない。
なぜならば、この戦いはダブルスの試合なのだから!
そう、『大会』第4試合、少なくともこの戦いはダブルスだ。
第1試合もそうなはず。他の試合は知らない。
タイマンかも知れないし3on3かも知れない。
主催者のH・リーは刹那主義者で快楽主義者。面白い戦いを見るためのルール変更ぐらいいくらでもやる。
ヘイトを稼ぐとわかっていてもやっちゃうタイプだ。
なにもかもH・リーの仕業なのだ。
H・リーの仕業なのだ!
第1試合もそうなはず。他の試合は知らない。
タイマンかも知れないし3on3かも知れない。
主催者のH・リーは刹那主義者で快楽主義者。面白い戦いを見るためのルール変更ぐらいいくらでもやる。
ヘイトを稼ぐとわかっていてもやっちゃうタイプだ。
なにもかもH・リーの仕業なのだ。
H・リーの仕業なのだ!
ちなみに試合開始時ペアを組んでいなかったデスコックはペナルティで全身が内部から溶け出して跡形もなく死んでしまったが本当はちょっとだけ残っていた跡形から無事復活した。
ペナルティを受けても戦闘可能なことは明らかだったのでそのまま試合は続行された。
ペナルティを受けても戦闘可能なことは明らかだったのでそのまま試合は続行された。
石野カナとダブルスを組むのはラクダノウェ・マタガール。
ちょっとやり直したい過去を持ち、そこそこ戦うことができ、石野カナと面識があり彼女の手助けをする機会をうかがっていた、『大会』でダブルスを組むために生まれてきたような男である。
ちょっとやり直したい過去を持ち、そこそこ戦うことができ、石野カナと面識があり彼女の手助けをする機会をうかがっていた、『大会』でダブルスを組むために生まれてきたような男である。
今回彼が乗るのは勇敢なる殺人ラクダのラクシュミー。
観光ガイド業を手伝うラクタロウとは違い、戦場でも冷静さを失わずしっかりと指示を聞く頼もしいラクダだ。
彼女は一頭の選手ではなくどちらかといえばラクダノウェの装備のようなものと判定されペナルティなしに参戦した。
その上で戦闘後の治療・蘇生も約束されている。
安心だね!
観光ガイド業を手伝うラクタロウとは違い、戦場でも冷静さを失わずしっかりと指示を聞く頼もしいラクダだ。
彼女は一頭の選手ではなくどちらかといえばラクダノウェの装備のようなものと判定されペナルティなしに参戦した。
その上で戦闘後の治療・蘇生も約束されている。
安心だね!
「ぶも!」
一対二人と一頭といえどもデスコックは決して侮れる相手ではない。
先ほどもラクシュミーに踏まれながら一瞬のうちに反撃していた。
だがその傷も一瞬で癒えた。
先ほどもラクシュミーに踏まれながら一瞬のうちに反撃していた。
だがその傷も一瞬で癒えた。
多くの読者は名前から察していたことだろう。
彼女はアラクシュミー・ラクシュミーという姉妹神の妹の方にあやかって名付けられた。
なぜそのような名付け方をしたのか? 彼女もまた妹ラクダであるからだ。
彼女はアラクシュミー・ラクシュミーという姉妹神の妹の方にあやかって名付けられた。
なぜそのような名付け方をしたのか? 彼女もまた妹ラクダであるからだ。
「仕込みの後は任せてもいいですか? 今度は俺たちが時間を稼ぎます」
「任された。頼む。」
「任された。頼む。」
カナはラクシュミーから飛び降り走り出す。
デスコックの行く手を塞ぐラクダノウェは腰のシャムシールを抜き放った。
今日は観光ガイドに偽装する必要はないのだ。……正確には偽装ではなくそちらが本業ではある。
デスコックの行く手を塞ぐラクダノウェは腰のシャムシールを抜き放った。
今日は観光ガイドに偽装する必要はないのだ。……正確には偽装ではなくそちらが本業ではある。
「シャムシール・エ・ゾモロドネガルとはいかないが、な」
ラクダノウェはごく普通の片刃の曲刀を構えラクシュミーを走らせる。
「ぶへへ、今日はパーティーですから、お料理はたくさんご用意しております。お連れ様も可愛いペットもご遠慮なく!」
デスコックは愛想よく迎えようとした。
すれ違い、デスコックの両腕と笑ったままの頭が飛んだ。
すれ違い、デスコックの両腕と笑ったままの頭が飛んだ。
当然のことだが普通ラクダ上戦闘と言う場合、一頭のラクダの上に二人の人間が乗って取っ組み合うというような珍奇な形態は意味しない。
乱戦や一騎打ちなど様々な状況があるが、あくまでも別個のラクダに乗った者同士の戦い、あるいは自分の足で立つ歩兵に対してラクダ上から襲い掛かるような戦いのことだというのは特に説明しなくても常識的に考えてもらえば理解してもらえると思う。
乱戦や一騎打ちなど様々な状況があるが、あくまでも別個のラクダに乗った者同士の戦い、あるいは自分の足で立つ歩兵に対してラクダ上から襲い掛かるような戦いのことだというのは特に説明しなくても常識的に考えてもらえば理解してもらえると思う。
ラクダ上戦闘最強と呼ばれる男の本領も当然そのような戦いでこそ発揮されるのだ。
――さて、どこから再生するかね。
ラクダノウェの目は戦場の全てを把握する。
三方に落ちたデスコックの頭と両腕。膝をついた体。
わずかな動きすら見逃さない。
三方に落ちたデスコックの頭と両腕。膝をついた体。
わずかな動きすら見逃さない。
べきり。
「なに?」
想定より近くで嫌な音がした。近すぎる。
いつの間にかシャムシールにひびが入っている。
刀身についた血糊が波打った。
いつの間にかシャムシールにひびが入っている。
刀身についた血糊が波打った。
「クソッ!」
武器を投げ捨てる。その褐色の手を屈強な白い手が掴む。
「走れ!」
ラクダノウェは叫ぶ。元より殺せない相手だ。
この場に残った時、既にデスコックを少しでもカナから遠ざけることしか考えていなかった。
この場に残った時、既にデスコックを少しでもカナから遠ざけることしか考えていなかった。
「ぶへへへへ!」
「……踏め!」
「……踏め!」
デスコックがラクダノウェを引き倒す。二人はラクシュミーから落ちた。
それは死を意味する。デスコックには何をも意味しない。
それは死を意味する。デスコックには何をも意味しない。
ラクシュミーは指令の意味を正確に理解し実行した。
折り重なる二人の上を、デスコックを抑え込むラクダノウェの上を駆け抜け、折り返し、駆け抜けた。
何度も繰り返した。
肉が潰れ、骨が砕け、それでも動く生命力をラクシュミーは足裏から感じ取った。
折り重なる二人の上を、デスコックを抑え込むラクダノウェの上を駆け抜け、折り返し、駆け抜けた。
何度も繰り返した。
肉が潰れ、骨が砕け、それでも動く生命力をラクシュミーは足裏から感じ取った。
二つの命の片方はすぐに消えた。もう一方は動き続ける。再生し続ける。
ラクシュミーはそれを踏み砕く。
再生する端から踏み潰す。
ラクシュミーはそれを踏み砕く。
再生する端から踏み潰す。
それを永遠には続けられないとわかっている。
それでも可能な限りデスコックを引きつけておくのが彼女の戦いだ。
それでも可能な限りデスコックを引きつけておくのが彼女の戦いだ。
ペースト状になったそれはやがて動かなくなった。
ラクシュミーは止まらない。
ラクシュミーは止まらない。
「ぶもぉ!」
いななきを上げ疲労した体を叱咤する。
彼女に意思に反して不意に足が止まった。
彼女に意思に反して不意に足が止まった。
切り飛ばされた頭から再生したデスコックがラクシュミーの足を掴んでいた。
「ぶへ、出来立てを、どうぞ!」
「ぶも……!」
「ぶも……!」
ラクシュミーはもがいたがそれ以上声を上げることはできなかった。
もがれた足を口に突っ込まれたからだ。
さらに足元のペーストを押し込まれ、やがて完全に動きを止めた。
もがれた足を口に突っ込まれたからだ。
さらに足元のペーストを押し込まれ、やがて完全に動きを止めた。
「そうだ、石野様、石野様はどちらに?」
デスコックは困惑したように辺りを見回す。
崩壊した建物部分には再び入る余地はない。
高く積まれた金属塊を除けばフィールドは開けた平地だ。見える場所にいないのならその金属の向こう側だろう。普通に走ればそれなりの時間がかかる。
崩壊した建物部分には再び入る余地はない。
高く積まれた金属塊を除けばフィールドは開けた平地だ。見える場所にいないのならその金属の向こう側だろう。普通に走ればそれなりの時間がかかる。
お客様を待たせるわけにはいかない。
デスコックは左腕をもいで向こう側へと投げ飛ばした。残った右腕で自らの頭を粉砕した。
そうして彼はわずかな遅れを取り戻した。
デスコックは左腕をもいで向こう側へと投げ飛ばした。残った右腕で自らの頭を粉砕した。
そうして彼はわずかな遅れを取り戻した。
飛来したデスコックは砂の上に小さなクレーターを作った。
彼は作業台の前に立つ石野カナを見た。
彼は作業台の前に立つ石野カナを見た。
「もう逃げないさ。料理を持ってくるといい」
カナはデスコックが飛び越した金属塊を指さした。
山のように積まれたそれは建築資材ではない。輸送用のコンテナだ。
中にはデスコック手製の料理が大量に詰め込まれている。
試合開始時にデスコックによって持ち込まれたものだ。
山のように積まれたそれは建築資材ではない。輸送用のコンテナだ。
中にはデスコック手製の料理が大量に詰め込まれている。
試合開始時にデスコックによって持ち込まれたものだ。
この『大会』は試合に持ち込む物品について特に制限してはいなかった。
デスコック自身にも到底持ちきれないこれらは『大会』運営委員が公式に協力して運搬していた。
この試合が決まってから戦闘開始までの間、デスコックが心を込めて作り続けていた全てである。
デスコック自身にも到底持ちきれないこれらは『大会』運営委員が公式に協力して運搬していた。
この試合が決まってから戦闘開始までの間、デスコックが心を込めて作り続けていた全てである。
「かしこまりました。只今お料理をお持ちいたします」
デスコックは嬉しそうにコンテナを開き、すぐに中から光沢のくすんだ盆を取り出した。錆の浮いたクロッシュが被せられている。
「世界中を旅する石野様のために各国のお料理をご用意させていただきました」
デスコックはカナの横に立ち、よく見えるように盆を差し出した。
クロッシュが取り払われ、皿の上に盛られた色とりどりのなにかが露になった。
異臭を漂わせる皿が台の上に置かれた。
クロッシュが取り払われ、皿の上に盛られた色とりどりのなにかが露になった。
異臭を漂わせる皿が台の上に置かれた。
「石野様?」
手をつけないカナをデスコックは怪訝そうに見つめた。
チーン。
戦いを告げるゴングに似た音が響いた。
カナはおもむろに歩き出し、作業台下部に取り付けられたオーブンレンジを開き、アルミホイルの包みを取り出した。
「熱っ」
持っていられず、カナは台の端にそれを転がした。
カナは一人で戦っていたわけではない。
ラクダノウェが仕込みを終えていた物がこれだ。仕込みどころか彼はオーブンの予熱を終え、焼き始めてさえいた。あとは粗熱を取り、冷めるのを待つだけだ。
カナは一人で戦っていたわけではない。
ラクダノウェが仕込みを終えていた物がこれだ。仕込みどころか彼はオーブンの予熱を終え、焼き始めてさえいた。あとは粗熱を取り、冷めるのを待つだけだ。
このアルミホイルの包みがカナに残された勝利への可能性である。
医療鞄やシャムシールではなく、これこそがこの試合における最大の武器である。
なぜならば、これはただのダブルスの試合ではない。
医療鞄やシャムシールではなく、これこそがこの試合における最大の武器である。
なぜならば、これはただのダブルスの試合ではない。
この戦いはダブルスの料理対決なのだから!
Chapter0 『数年前、忘れられた話』
それは少しだけ昔の話。
今はもう誰も覚えていないかもしれない、そんな昔の話。
今はもう誰も覚えていないかもしれない、そんな昔の話。
雪深い山。白い山。
モンブラン。フランス側岩稜帯。
モンブラン。フランス側岩稜帯。
「――へへ、えへへへ、ああ、アアーッ! 死ぬ、死ぬんですか、へへへへへ――」
「――しっかり――傷じゃ――」
「――もういい――捨てて――」
「――しかし――」
「――仲間では――」
「――『これ』は――そもそも――」
「――しっかり――傷じゃ――」
「――もういい――捨てて――」
「――しかし――」
「――仲間では――」
「――『これ』は――そもそも――」
それぞれ魔人を擁する二つの集団が衝突し、いくつかの会話がなされ、それからしばらくの時が経ち。
結果として、一人の男が冷たい岩肌の上に取り残されていた。
結果として、一人の男が冷たい岩肌の上に取り残されていた。
夏であっても山頂付近の雪は解けることのない土地だ。
雪稜からは遠くとも男の命たる熱はじわじわと失われていった。
死を待つだけのはずだった。
雪稜からは遠くとも男の命たる熱はじわじわと失われていった。
死を待つだけのはずだった。
「君、大丈夫か」
じくじくとした痛みに苛まれ、男が意識を取り戻した時、倒れた場所とは異なる勾配の緩やかな地面の上にいることに気が付いた。
傍らでは焚火が燃えていた。
傍らでは焚火が燃えていた。
「熱っ」
跳ねた火花が顔に触れて、自身が生きている事実を再発見した。
「あの、あなたは……?」
焚火を挟んだ向かい側に座る人物が彼を救ったらしかった。
「通りすがりの医者だ」
その女はとても山に登るような恰好をしていなかった。
上着は防寒性があるとは思えない白衣で、その下のシャツやズボンも平地の都市部で見られるような普段着だ。
荷物もほとんど持っていないらしく、黒く四角い硬そうな鞄があるきりだった。
上着は防寒性があるとは思えない白衣で、その下のシャツやズボンも平地の都市部で見られるような普段着だ。
荷物もほとんど持っていないらしく、黒く四角い硬そうな鞄があるきりだった。
「食べなさい」
女は男に焼けた肉を差し出した。
「いや、しかし――」
この状況では金よりも貴重な品に思えた。
「たくさんあるから大丈夫だ」
女が下を向く。その視線を追うと焚火の周りにアルミホイルの包みがいくつも転がっているのが知れた。
「では、いただきます――美味しい、美味しいです! ううっ……!」
男は涙を流しながら貪るように食べた。
気が付いた時には食べ尽くしていた。
気が付いた時には食べ尽くしていた。
「あの、すみません」
――たくさんあるといっても、自分一人で食べてしまっては。
「いいんだ。いくらでも手に入る」
女は自身の左腕を叩いて見せた。なにかしら伝手があるという意味だろうと男は解釈した。
だとしても山中ですぐに補充できるわけはあるまい。
だとしても山中ですぐに補充できるわけはあるまい。
「あの、本当に美味しかったです。今までに食べた物の中で一番」
「空腹の時に食べればそう感じるだろうね」
「空腹の時に食べればそう感じるだろうね」
男はきまり悪く感じたが、女はなにも気にしていないように微笑んだ。
「なんの肉だったんですか? 本当に、今まで食べたことがないような、質がいいっていうだけじゃないように思うんですが……」
「ああ、それは――」
「ああ、それは――」
女の表情が固まった。努めて無表情を保とうとしているようだった。
「――陸ガメのステーキだ。ミャンマーとかでなら食べられるが私のは特別性だからな。同じ味の物はないと思う」
「えっ」
「それより君の話を聞かせてくれ。この辺りで君たちが動いているとさっき知ったばかりなんだ。この道を通っても問題ないかね?」
「あ、その、自分は――」
「えっ」
「それより君の話を聞かせてくれ。この辺りで君たちが動いているとさっき知ったばかりなんだ。この道を通っても問題ないかね?」
「あ、その、自分は――」
軍服というのは特徴的だ。見る者が見ればすぐに身分は知れるのだと男は気づいた。
「――置いて行かれたようです。おそらく撤退したのでしょう」
「彼ら、仲間意識は強いと思っていたが」
「確かにそうです」
「彼ら、仲間意識は強いと思っていたが」
「確かにそうです」
生死をかけた戦地において軍隊の仲間意識は強固なものとなる。
そして男が所属していたのは魔人外人部隊。
国籍は違えど、一般社会において時に差別の対象となる魔人という立場は、間違いなくより一層の団結を生んでいた。
そして男が所属していたのは魔人外人部隊。
国籍は違えど、一般社会において時に差別の対象となる魔人という立場は、間違いなくより一層の団結を生んでいた。
「でも、私は違うんです。いえ、正式な手続きは行われましたし、共に訓練もした仲ですが――」
そこで言葉を切ったが間は一瞬ほどしかなかった。男は躊躇いを捨てるように話し続けた。
「勘違いがあったんです。いえ、勘違いは最初だけですね。自分は最初からわかっていましたし、彼らもすぐに気づきました。あったのは誤魔化しです。昔から力は強かったですし、変わった性格だともよく言われました。普通の人には馴染めなかった。でも彼らの仲間でもなかった。自分は、魔人なんかじゃないんです」
女は眉根を寄せたが口を挟みはしなかった。
「それでも、自分の居場所だと思っていました。でも違った。最初からそうだったのかはわかりません。ここで自分が使い物にならなかったからなのか、最初から動く盾くらいにしか思われていなかったのか……」
男の視界が滲んだ。涙していることに気づいた。
「水を」
女は小さな水筒を渡した。
男は中身を飲み干してから水筒は一つだということに気が付いた。
男は中身を飲み干してから水筒は一つだということに気が付いた。
「あの、自分の物が回収できれば――」
「それらしいのは転がってたが。穴が開いていたから拾わなかった」
「それではあなたが」
「私は大丈夫だ。君はどうだ」
「いえ、自分のことは――」
「痛みはないか」
「え……」
「それらしいのは転がってたが。穴が開いていたから拾わなかった」
「それではあなたが」
「私は大丈夫だ。君はどうだ」
「いえ、自分のことは――」
「痛みはないか」
「え……」
男はようやく気が付いた。
死ぬかと思うような傷を受けたはずだ。
女が手当てしたとしてもどれだけの効果があるものか。
意識を取り戻した時にも確かに痛みを感じていたはずである。
死ぬかと思うような傷を受けたはずだ。
女が手当てしたとしてもどれだけの効果があるものか。
意識を取り戻した時にも確かに痛みを感じていたはずである。
それが、今はなにも感じない。
腹に巻かれた赤黒い包帯を剥がす。
肌は血で染まっている。
そして傷はなかった。
肌は血で染まっている。
そして傷はなかった。
「私が診た時には確かに酷い怪我だった。肉体を再生する魔人能力に目覚めたのだと考えるべきだろうな」
「自分が、魔人に」
「それ自体は歓迎すべきかどうかわからん。面倒も色々あるだろうしな。だが少なくとも生きて下山できるんじゃないか」
「生きて、帰れる……」
「私はもう行くとしよう。山の向こうに病気の妹がいるんだ」
「妹さんが」
「自分が、魔人に」
「それ自体は歓迎すべきかどうかわからん。面倒も色々あるだろうしな。だが少なくとも生きて下山できるんじゃないか」
「生きて、帰れる……」
「私はもう行くとしよう。山の向こうに病気の妹がいるんだ」
「妹さんが」
男は気を揉むような声を出した。
「私の妹ではないがな」
女は軽く笑って立ち上がった。
本当にすぐ行くつもりのようだった。
男は呆然として見送った。
本当にすぐ行くつもりのようだった。
男は呆然として見送った。
「あの、いつか恩を返します! 治療と、肉と、水!」
岩山の中の小さくなっていく影に叫んだ。
影は歩みを止めた。
影は歩みを止めた。
「治療の代価は取らない! 肉も気にするな! 水は、そうだな、いつかまた会ったらな!」
再び歩き出した影はじきに見えなくなってしまった。
男はまた一人になった。
まだ燃える焚火に手を差し込んだ。すぐに火ぶくれが皮膚を覆い灼熱の傷みが襲ったが、火から手を離せばすぐに元通りになった。
「魔人だ、本当に」
男は不思議な感慨を得た。
魔人外人部隊にいて「自分が本当の魔人なら」と何度考えたことか。
魔人外人部隊にいて「自分が本当の魔人なら」と何度考えたことか。
しかし、今の彼は一人なのだ。
あの部隊では死んだものとして扱われているのだろう。
見捨てた者が戻ってきても素直に喜べはしないだろう。
見捨てた者が戻ってきても素直に喜べはしないだろう。
「へへ、えへへへへ」
男の顔が笑いの形に歪んだ。
笑うしかできなかった。
笑うしかできなかった。
爛々と光る瞳で彼は自分の体を見つめた。
とても奇妙だと思った。
自分はもう不死身の魔人なのに。
自分はもう彼らの仲間ではないのに。
なぜこんなものを身に付けているのだろう。
自分はもう彼らの仲間ではないのに。
なぜこんなものを身に付けているのだろう。
男は残った包帯をはぎ取った。軍服を破り捨てた。
なに一つ身に纏わぬままに、岩肌の上を転がるように駆け下りて行った。
それから、その男がどれだけの正気を保っていたかは定かではない。
妹以外の患者にほとんど興味を持たない女にとっては、よくある出来事の一つでしかなかったのだろう。
妹以外の患者にほとんど興味を持たない女にとっては、よくある出来事の一つでしかなかったのだろう。
だからこれは、今はもう誰も覚えていないかもしれない、そんな昔の話。
Chapter3『この肉を以て満ちよ渇命』
『大会』第4試合、ダブルス料理対決。
試合の種目をそう定めたのは主催者のH・リーである。
デスコックを呼び出す口実であったはずのそれがなぜ正式な試合内容として採用されたのか。
試合の種目をそう定めたのは主催者のH・リーである。
デスコックを呼び出す口実であったはずのそれがなぜ正式な試合内容として採用されたのか。
本当にそうした方が面白いと判断したのか、あるいは本当の企画と建前の企画を用意したことで何らかの伝達ミスが発生したのか。真実はH・リーの胸中のみにある。
ただ現実として有能美人秘書の牛尾栞が取り仕切る以上後者のような事態は考えづらく、実際にこの試合は準備段階からダブルス料理対決として彼女の監督下で粛々と進行されてきた。
H・リーも、牛尾栞も、大会運営に関わる者は今この瞬間も正式な試合として認識している。
そう、この試合においてはダブルス料理対決を制した者が勝者となるのだ。
H・リーも、牛尾栞も、大会運営に関わる者は今この瞬間も正式な試合として認識している。
そう、この試合においてはダブルス料理対決を制した者が勝者となるのだ。
とはいえその勝利条件に他の試合と大きな違いはない。
対戦相手を死亡状態、あるいは行動不能に追い込み調理不能とさせる。
対戦相手を戦闘領域外へ離脱させる。
対戦相手により美味しい料理を食べさせることで降参させる。
対戦相手を死亡状態、あるいは行動不能に追い込み調理不能とさせる。
対戦相手を戦闘領域外へ離脱させる。
対戦相手により美味しい料理を食べさせることで降参させる。
これまでの戦闘からデスコックに対して有効な手段は最後の一つだけであると石野カナは確信している。
彼女もラクダノウェも料理の腕前に関しては一般人の域を出ない。カナに至ってはやや下手寄りだ。
先ほどラクダノウェが仕込みから焼き工程まで行ったアルミホイルの包みこそが、このダブルスにおける唯一にして最高の料理なのだ。
先ほどラクダノウェが仕込みから焼き工程まで行ったアルミホイルの包みこそが、このダブルスにおける唯一にして最高の料理なのだ。
しかし。
――先に食べるのは私か。
カナは息を吐きデスコックが調理台に置いた皿を見た。
そう、料理対決においては先に完成した料理から実食される。
料理とは完成した瞬間から儚く衰え始めるもの。
公平を期すための鉄の掟である。
料理とは完成した瞬間から儚く衰え始めるもの。
公平を期すための鉄の掟である。
そして山のように積まれたデスコックのコンテナ。その中身は全て試合前に用意された料理。
このような作り置きは時間経過による劣化と引き換えにして必ず先攻を取ることが可能。
これを食べ終わらなければカナは自らの料理を食べさせることすらできないのだ。
このような作り置きは時間経過による劣化と引き換えにして必ず先攻を取ることが可能。
これを食べ終わらなければカナは自らの料理を食べさせることすらできないのだ。
「いただきます」
カナは医療鞄を置いて手を合わせた。
意を決して箸を取り、まずは緑色をした薔薇の花を集めて押し固めたような奇怪な物体を口へ運んだ。
意を決して箸を取り、まずは緑色をした薔薇の花を集めて押し固めたような奇怪な物体を口へ運んだ。
「そちらミニトマトのカプレーゼでございます」
「かはっ!」
「かはっ!」
前菜! 以外にも差し出された料理はコースとしての順序を踏まえたものであった。
それはそれとして近づけるだけで目と鼻に染みたそれは舌の上でも恐ろしい刺激をもたらした。
わかりきったことではあるが味がどうとかいう問題ではない。
無理に飲み下したそれが胃にたどり着く間に食道を著しく傷つける様子は容易に想像でき、カナはこみ上げる嘔吐感を必死にこらえた。
わかりきったことではあるが味がどうとかいう問題ではない。
無理に飲み下したそれが胃にたどり着く間に食道を著しく傷つける様子は容易に想像でき、カナはこみ上げる嘔吐感を必死にこらえた。
カナの魔人能力は食あたりの治療や解毒も含む完全回復である。
一秒の精神集中の後、即座に全快した彼女は次なる料理に箸を伸ばした。
金属質の光を放つ葡萄状の赤い塊!
一秒の精神集中の後、即座に全快した彼女は次なる料理に箸を伸ばした。
金属質の光を放つ葡萄状の赤い塊!
「広東風白切鶏 でございます」
「ごはっ!」
「ごはっ!」
喀血!
意識が飛ばぬよう耐えながら、カナは、食べ続けた!
意識が飛ばぬよう耐えながら、カナは、食べ続けた!
◇
「次のお料理はワニ肉のグリル本わさびソースでございます」
皿の上の毛羽立った灰色の球体には桃色や水色の斑点が浮かんでいた。
カナはもはや返事をしない。しかし呼吸はある。目は開いている。
餓鬼のように膨らんだ腹周りは元の細さに戻った。
餓鬼のように膨らんだ腹周りは元の細さに戻った。
自ら食べる気力を失ったカナに対してデスコックは甲斐甲斐しく世話を焼く。
だらしなく開いた彼女の口をさらに広げて料理を押し込む。
だらしなく開いた彼女の口をさらに広げて料理を押し込む。
カナの肌が青ざめ痙攣したがすぐに健康的な肌色に戻った。
その手の平からは異臭を放つ赤い汚物が地面にこぼれた。
その手の平からは異臭を放つ赤い汚物が地面にこぼれた。
シスタードクターは一秒間の精神集中の後に対象を全快させる魔人能力だ。
発動すればいかなる毒物、窒息、異物混入、内臓損傷からも回復する。
脳内物質さえもリセットし精神の平衡を取り戻す。にも関わらず。
発動すればいかなる毒物、窒息、異物混入、内臓損傷からも回復する。
脳内物質さえもリセットし精神の平衡を取り戻す。にも関わらず。
カナは追い込まれていた。
デスコックの給仕はてきぱきと行われる。
回復して0.1秒の隙もないままに次の料理が与えられる。先に出した料理を飲み込むのを待たないことすらある。
デスコックの給仕はてきぱきと行われる。
回復して0.1秒の隙もないままに次の料理が与えられる。先に出した料理を飲み込むのを待たないことすらある。
治す端から歯が溶け舌が焼ける。
神経が死に感覚がなくなってもカナ自身がそれを治すのだ。
神経が死に感覚がなくなってもカナ自身がそれを治すのだ。
いつになれば終わるのかも定かではない。
デスコックが出入りするコンテナは既に何度か変わっている。
しかし最後のコンテナではない。終わりがいつかはわからない、しかしまだ遠いのは確かである。
デスコックが出入りするコンテナは既に何度か変わっている。
しかし最後のコンテナではない。終わりがいつかはわからない、しかしまだ遠いのは確かである。
能力により精神的な苦痛も癒えはする。しかし同時にドーパミンやセロトニンが生み出す積極性やアドレナリンがもたらす興奮も抑制されてしまう。
まだ食べ続けなければならない。その現実を冷静に直視し続けなければならないのだ。
まだ食べ続けなければならない。その現実を冷静に直視し続けなければならないのだ。
それでも、カナは、食べ続けた。
◇
「お、お味は、いかがでしょうか……」
カナが料理を食べた後、デスコックがその様な言葉をかけたのはこれが初めてだった。
カナはもはや半自動的に回復だけを繰り返していた。そのぼやけた意識が焦点を取り戻した。
カナはもはや半自動的に回復だけを繰り返していた。そのぼやけた意識が焦点を取り戻した。
「味か……」
カナはデスコックの表情を観察する。
相変わらずの愛想のいい笑み。
額から汗が流れている。
相変わらずの愛想のいい笑み。
額から汗が流れている。
「感想を、聞きたいのか」
「ええ、どう、でしょうか……」
「ええ、どう、でしょうか……」
デスコックは疲弊している。
屈強な体がわずかに震えている。
全裸の体を汗が滝のように流れている。
屈強な体がわずかに震えている。
全裸の体を汗が滝のように流れている。
「味は、不味い」
カナもまた自身の限界が近いことを感じていた。
デスコックが激高し殴り掛かったとしたら、それに抵抗できるかどうかは怪しいものだ。
デスコックが激高し殴り掛かったとしたら、それに抵抗できるかどうかは怪しいものだ。
「不味いぞ」
それでもそう言い切った。
ただ負けを認めないというだけではない。
偽らざる本心であった。
ただ負けを認めないというだけではない。
偽らざる本心であった。
「そう、ですか……」
デスコックは悲し気に目を伏せた。
「だが、認めるべきところもある」
デスコックは顔を上げ、両者の視線がぶつかった。
彼の表情は嬉しそうというよりもむしろ訝しむようだった。
彼の表情は嬉しそうというよりもむしろ訝しむようだった。
「医食同源、という言葉がある。私は医者だが、料理人の気持ちも、多少はわかる」
カナは切れ切れに話し続けた。
「食事を始める前、私が逃げていた時、何度か捕まりかけたな。殺す方が楽だったはずだが、そうはしなかった」
デスコックはゆっくりと頷いた。屈強な体がわずかにしぼんだ様にも見える。
「人を、生かそうという、意志を感じた。君の料理から。飢えに対する、抵抗の意志だ。『Restaurant 死』。デスコック。そう名乗るのは、メメント・モリか」
カナは調理台に手をついて体を支えた。椅子はないのだ。
「君の能力。不死能力。万能ではないな」
カナは確信を込めてデスコックを睨む。その声は少しづつ活力を取り戻している。
「魔人能力は思い込みの力。君は死を克服した。だが食事の価値は捨てられなかった。君は、腹を空かせているな?」
デスコックは答えなかった。悪魔が笛を吹くように、ぎゅるるる、と音が鳴った。
「最後の、お料理を、お持ちします」
デスコックはカナに背を向けた。
よろめきながら、ざぶざぶと赤い汚物をかき分けて進んだ。
よろめきながら、ざぶざぶと赤い汚物をかき分けて進んだ。
今やカナの手からあふれるそれは、膝に届くほど湖のように溜まっていた。
ゆらりと、デスコックはコンテナから戻った。
酸鼻なる地獄の復路を、やはり小汚いクロッシュ付きの盆を持って。
弛んだ顔をカナに近づけて、息も絶え絶えに囁いた。
酸鼻なる地獄の復路を、やはり小汚いクロッシュ付きの盆を持って。
弛んだ顔をカナに近づけて、息も絶え絶えに囁いた。
「デザートの、トカイワインの、スパークリングゼリーでございます」
クロッシュを取り除く。
皿の上にはガラス容器。その中に半透明の琥珀色の物体。
針を束ねたような形状で、絶えず泡立ち、蠢動している。
皿の上にはガラス容器。その中に半透明の琥珀色の物体。
針を束ねたような形状で、絶えず泡立ち、蠢動している。
デスコックは添えられたスプーンを手に取った。震える手で掬おうとした。
カナはそれを手で制した。
彼女はガラス器を掴み、顔を上向けて一気にそれを流し込んだ。
カナはそれを手で制した。
彼女はガラス器を掴み、顔を上向けて一気にそれを流し込んだ。
カナは雷に打たれたように震えた。
だが倒れはしなかった。
だが倒れはしなかった。
がん、と音を立ててガラス器を盆の上に置いた。
「不味い」
口の端に垂れた血を手の甲でぬぐいデスコックに不敵な笑みを向けた。
「ご満足、いただけませんか」
デスコックは悲しそうに微笑んだ。よろよろと調理台にもたれ、その端へ歩こうとした。
カナはその先にある物を見た。
デスコックは手を伸ばした。
アルミホイルの包み。この場に残る最後の料理。
カナはその先にある物を見た。
デスコックは手を伸ばした。
アルミホイルの包み。この場に残る最後の料理。
「まさか!」
カナは駆け寄り、デスコックの手を弾いた。
「げへ、げへへ」
デスコックは狂気的に笑った。
まさか。
真の料理人ならばそうするはずがない。
だが今の彼の目からは一片の正気すら消えていた。
まさか。
真の料理人ならばそうするはずがない。
だが今の彼の目からは一片の正気すら消えていた。
まさか。まさか。
カナとラクダノウェの料理。それを奪い取り、逆にカナに食わせようというのか!
カナとラクダノウェの料理。それを奪い取り、逆にカナに食わせようというのか!
アルミホイルの包みを巡り、互いが互いの手を跳ねのける。
デスコックの手が大きく弾かれた。カナは包みを取らず彼を殴った。
デスコックも殴り返した。
デスコックも殴り返した。
互いによろめく。
万全とは程遠いデスコック。それでも並の魔人並みの力があった。
カナは全力で拳を振るう。そもそもが並の魔人並みの力しかない。
万全とは程遠いデスコック。それでも並の魔人並みの力があった。
カナは全力で拳を振るう。そもそもが並の魔人並みの力しかない。
殴りあう。歯が折れる。殴りあう。拳が砕ける。
殴りあう。傷は治り続ける。
殴りあう。傷は治り続ける。
「私が、なぜ食べ続けたか、わかるか」
殴り、殴られながら、カナは問いかけた。
デスコックはもはや言葉を発しない。哄笑を上げることすらない。
デスコックはもはや言葉を発しない。哄笑を上げることすらない。
デスコックの拳が一秒の間に二度カナを打った。
回復は間に合わない。カナはただ耐えて叫んだ。
回復は間に合わない。カナはただ耐えて叫んだ。
「お前に、食わせるためだ!」
カナは深く踏み込む。踏み込んで殴り飛ばす。
傷つけることに意味などない。
ただその手に強く押し出され、デスコックは数歩後ずさった。
傷つけることに意味などない。
ただその手に強く押し出され、デスコックは数歩後ずさった。
カナが包みを捕まえた。
デスコックも追いすがり、それを掴んだ。
カナは包みを手離さず、もう片方の手で再び殴りつけた。
デスコックはのけぞり、手を振り上げる。
デスコックも追いすがり、それを掴んだ。
カナは包みを手離さず、もう片方の手で再び殴りつけた。
デスコックはのけぞり、手を振り上げる。
包みは宙を舞った。
両者がそれを追って跳んだ。
一方が一方を蹴落とした。
高く跳んだ者がそれを手に入れ、投槍のように撃ち放った。
一方が一方を蹴落とした。
高く跳んだ者がそれを手に入れ、投槍のように撃ち放った。
「喰らえ!」
二人の魔人に揉まれ傷ついたアルミホイルが風圧で裂ける。
その中からは、焼けた肉。
一面に甘みと香ばしさを兼ね備えた香りが漂う。
表面に絡む艶めいたソース。
得も言われぬ脂の光沢。
表面に絡む艶めいたソース。
得も言われぬ脂の光沢。
見上げるデスコックにはそれが光そのものであるかのように見えた。
「うあ、ああああああ!」
デスコックはそれを受け入れるように、自ら大口を開けた!
口内に野性的ながら繊細かつ濃厚な香りと旨味が広がる。
噛み締めれば焼いた後に冷ますことで閉じ込められていた肉汁があふれ出す。
そしてなにより彼にとってそれは忘れることのできない味だった。
噛み締めれば焼いた後に冷ますことで閉じ込められていた肉汁があふれ出す。
そしてなにより彼にとってそれは忘れることのできない味だった。
「とても、美味しかったです」
咀嚼し、飲み込み、余韻を味わいながら。
デスコックは呟いた。
ずさり、とカナは砂上に手と膝をついて着地した。
デスコックは呟いた。
ずさり、とカナは砂上に手と膝をついて着地した。
「今まで、食べた中で……」
最後まで言い終わらず、デスコックは倒れた。
その一瞬、カナは彼の目を確かに見た。
確かに正気の、ただの料理人の目だと思った。
その一瞬、カナは彼の目を確かに見た。
確かに正気の、ただの料理人の目だと思った。
「ごちそうさまでした」
カナは厳かに手を合わせた。
倒れたデスコックの顔には満足げな表情が浮かんでいた。
倒れたデスコックの顔には満足げな表情が浮かんでいた。
『大会』第4試合。
ダブルス料理対決。
勝者は石野カナとラクダノウェ・マタガール。
ダブルス料理対決。
勝者は石野カナとラクダノウェ・マタガール。
Chapter4『星は輝く、願いは叶う』
「どうして願いを変えたのですか?」
黒い短髪。色は明るいブラウンなのに、どこかじっとりとした瞳。
形状はシンプルながら冷たさや陰気さは感じさせないセルフレームの眼鏡。
グレーのスーツに黒いシャツとネクタイ。
有能美人秘書としか言いようのない人である。
形状はシンプルながら冷たさや陰気さは感じさせないセルフレームの眼鏡。
グレーのスーツに黒いシャツとネクタイ。
有能美人秘書としか言いようのない人である。
静かなアンビエントミュージックと暖かみのある照明が心を安らげる空間だ。
上品な光沢のあるマホガニーのテーブルの向かい側にはドクターコートの女が席についている。
上品な光沢のあるマホガニーのテーブルの向かい側にはドクターコートの女が席についている。
「インフォームド・コンセントは大事だからね」
石野カナは努めて落ち着いた様子で牛尾栞の問いに答えた。
「久しぶりに妹に直接会ってね。あの事故をなかったことにして、小さい頃に色々できた人生を取り戻せると話したんだよ」
妹科医は食事の手を止め、顎の下で手を組んだ。
「『そういうことがあって今の私があるんだから余計なことはしないで』ってめちゃくちゃ怒られた……」
彼女は耐えきれないというように手で顔を覆い、体を反らして背もたれに寄りかかった。
「でも仲直りはできたのですよね?」
「うん……」
「うん……」
栞の頬がわずかに緩んだ。今の情けなさは少し彼女のボスに似ている。
「ふふ、少なくとも代わりの願いはいい願いだったと思いますよ」
栞は店の中を見渡した。
立地は悪く、敷地も狭いながらに、ちらほらと客が入っている。
彼はそれぞれくつろいだ様子で過ごしていた。
彼はそれぞれくつろいだ様子で過ごしていた。
『Restaurant 死』。
異様な名前で食事も不味い。
しかしなぜか落ち着く雰囲気が魅力だと一部の人々の間で最近話題の隠れ家レストランである。
異様な名前で食事も不味い。
しかしなぜか落ち着く雰囲気が魅力だと一部の人々の間で最近話題の隠れ家レストランである。
「彼が店を開く前にちょっと肉の焼き方を教えただけなのだが」
「それ以前はもう食べ物ですらありませんでしたから」
「それ以前はもう食べ物ですらありませんでしたから」
その「以前」を思い出して、二人は遠い目で宙を見つめた。
「……そういえば、そのことだが、なんで私は覚えているのだろう。タイムパラドックスとかいうのじゃないか」
「それは魔人能力によるものですから。普通の論理では説明できない作用があるのです。石野様には確かに賞品を得た証拠として記憶を残す必要がありましたし、ボスも面白い戦いを見るのがそもそもの目的でしたから観戦の記憶はそのままです。私の方で調整いたしました」
「調整できるのか」
「はい」
「それは魔人能力によるものですから。普通の論理では説明できない作用があるのです。石野様には確かに賞品を得た証拠として記憶を残す必要がありましたし、ボスも面白い戦いを見るのがそもそもの目的でしたから観戦の記憶はそのままです。私の方で調整いたしました」
「調整できるのか」
「はい」
栞は当然という顔をしている。魔人の能力は認識を押し付ける力。
彼女がそうだと考えているのなら、確かにそれはそうなのだ。
彼女がそうだと考えているのなら、確かにそれはそうなのだ。
「じゃあ彼はどうなのかな。なんか知り合いみたいな態度だったのだが」
「どうでしょうね。彼については特別な扱いはしていません。どちらであってもおかしくはないと思いますが」
「そんなものかね」
「どうでしょうね。彼については特別な扱いはしていません。どちらであってもおかしくはないと思いますが」
「そんなものかね」
カナは興味を失ったように皿の肉を口に運んだ。
「やはり不味いな。私が教えたとおりだ」
「ええ、あなたから教えてもらったことは決して忘れません」
「ええ、あなたから教えてもらったことは決して忘れません」
黒いコックコートの屈強な巨漢がテーブルの傍に立っていた。
「ですが他のメニューもございますよ。当店は和洋中なんでも取り揃えておりますから」
そのコックはにこにこと笑っている。
「食べログにはだいたい全部不味いと書かれていたが……うん、この店で一番美味しい物を持ってきてくれ」
「かしこまりました」
「かしこまりました」
彼は厨房へと戻り、数分も立たない内に銀色に輝く盆を運んで来た。
盆の上には一本のペットボトルが乗っている。
「 ミネラルウォーター炭酸なし でございます」
evian。フランスはモンブランの麓、エビアン・レ・バン、カシャの泉の水である。
その500mlボトルがうやうやしくテーブルに置かれた。
その500mlボトルがうやうやしくテーブルに置かれた。
「こちら、なんと無料なんです」
デスコックは嬉しそうに、口元に手のひらを寄せて囁いた。
「うん、ありがとう」
カナは気が抜けたように、ふっと息を吐いた。
食べログに星をつけるのもいいかもしれない、食事は不味いが愛想はいい、そんなことを考えていた。
食べログに星をつけるのもいいかもしれない、食事は不味いが愛想はいい、そんなことを考えていた。