心の言葉
【面妖】
「アルケミラ……?」
やっとの思いで目的の病院らしき建物の前に辿り着いて、膝に手をつき荒い呼吸を整えていた私は、すぐにまた表情を曇らせた。
キャロル通りを南下し、通り西側に建つブルックヘイブン病院。
ヘザーが行く可能性のある場所の一つはその病院だと、ダグラスはそう言っていたはずだ。
ところがいざ到着してみれば、確かに病院は存在するものの、
緑色のレンガ仕立ての門柱にかけられたプレートの表記は『ALCHEMILLA HOSPITAL』。
つまりここは、ブルックヘイブン病院ではない。
ダグラスが場所を、或いは名前を勘違いしたか――――充分に考えられる。
ダグラスが情報を入手した後に、病院経営者の交代に伴い名前を変更した――――苦しいが、これも有り得ない事ではない。
ハンクと名乗った男の言っていたように、そもそもこの街はサイレントヒルではない――――可能性で言えば幾らかは思い付く。
しかし私の脳裏に強く浮かぶのは、街並みが変化している、というダグラスのオカルトめいた言葉だった。
背中の傷が、ジワリと痛んだ。比較的現実的に考えられる事柄でさえも、思考が定まらない。
こんな事で良いはずがない。こんな時こそ冷静さを保たねばならないというのに。
私は、揺れる思考を脳裏から追い払うかのように頭を振った。
とにかく、今はヘザーの事だけを考えよう。
私が今何に巻き込まれているのか。情けないが、それを理解するだけの知識は持ち合わせていない。
ここで立ち尽くして思案に暮れていても答えは出ないだろう。
それに、考えていてもヘザーが見つかるわけではない。
アルケミラにせよ、ブルックヘイブンにせよ。
ここがヘザーが立ち寄ったかもしれない病院ならば、入る以外の選択肢はないのだ。
乱れた髪を整えながら、今来た通りに目を向ける。
彼らの気配は、無い。傭兵達は――――いたとしたら私はとっくに蜂の巣にされている、か。
誰にも見られていない事を確認すると、私は正門を潜り玄関らしき扉まで歩を進めた。
その時、私の耳は院内から響く一つの音を拾った。
――――――――電話の、コール音だ。
オフィスビルでもモーテルでも使用不能だった電話が、ここでは生きている。
ここでなら、助けが呼べるかもしれない。
ドアノブを握る手に熱がこもるのを感じる。若干の期待と共に、私は扉を開いた。
「うっ…………」
その瞬間私は、反射的に眉を顰めてしまう程の悪臭に出迎えられた。
中は数十cm先すらも見えない完全な闇。それでも悪臭の正体は分かる。大量の血液だ。
それは血に慣れていない人だったら、吐き気を誘発されて逃げ出したとしても何ら不思議はない程の臭気だった。
この闇と悪臭の中に腐臭や呻き声はないが、それでも、何かしらの異常があるのは変わらない。
戸惑っている間に、コール音は鳴り止んでしまった。後に残るのは静寂だけ。
私は覚悟を決め、ダグラスの遺品であるペンライトを握り直し、中に進入した。
微かなオレンジ色の光が闇に差し込まれ、室内の一部分だけが朧気な色を帯びる。
まず確認出来たのは、すぐ左にある受付の木製カウンターだった。
その奥に見える一室は事務所だろう。電話はおそらくそちらにあるはず。
さっきのコール音は切れてしまったが、通じる事が分かっただけでも朗報だ。
そのまま壁に光を当てていくと、シンプルなタイプのスイッチを見つけた。
パチリと小気味の良い音を立ててスイッチを入れる。程なくして天井の電灯が数回の明滅を経て室内を鮮明に照らし出す。
思わず、私は息を呑んでしまった。急速に血の気が引いていく実感があった。
室内の様相は、比較的一般的と言える内装の待合室だった。ただし、正に地獄絵図そのものの惨状に目を瞑れば。
待合室の奥は、床も、椅子も、壁も、天井まで、大量のどす黒い赤色の血液で、薄汚いコーティングを施されていた。
塗料の元となるものは、考えるまでもなく血液だ。床に散らばっている、切断された人体から出たものだろう。
三人、いや、四人分だろうか。看護師と見られる制服を着用している死体が、おそらく四人分。
全員が全員、身体の至る所を切断され、バラバラ死体と成り果てていた。
「これは……何なの……!?」
所謂バラバラ殺人の被害者の検死解剖を行った事は幾度もあるが、
今まで私が手掛けたそれらのケースでは、死体の部位の切断は例外なく死後に行われていた。
でも、目の前に広がる光景。今回のこれは違う。
この被害者達は、確実に生前に切断されている。でなければ血液がこれ程までに飛散したりはしない。
そして奇妙なことに、これらの死体からは本来あるべきもう一つの悪臭がまるでしない。
これ程バラバラにされ、臓器を曝け出しているのであれば、排泄物の臭いも充満しているはずなのだ。
だが、その臭いは室内からは微塵も感じられない。
一体何故か。考えると同時に、もしやヘザーもこの中に――――そんな最悪の事態を想像する。
しかし私はすぐにその考えを打ち消した。
死体は全て看護師の格好をしている。
この異常な状況下で、まさかヘザーが看護師の制服に着替えているという事はないだろう。
ヘザーは、この中にはいない――――――――。
ふと、私は死体の頭部に目を向けた。
彼女達の首は床の上に四つ転がっている。その全ての顔が一様に、凹凸を持っていなかった。
近付き、しゃがみ込んで確認する。死体の切断面を見てみれば、それは――――奇妙な切り口だった。
解剖してみなくては、はっきりとしたことは分からないが、
二つの鋭利な刃物で左右から同時に切断されたような……まるで、巨大な鋏で切断されたような。そんな切り口。
しかし、顔面にはそのように切断された形跡はない。なのに、その顔には目も鼻も口も無い。
そしてそれらの部位の無い場所には、本物の皮膚が広がっているように見える。
…………精巧なマスクでも被っているのだろうか。
その当然の思考の裏には、やはりダグラスの言葉が過ぎっていた。この怪異の中には怪物がうろついている、との言葉が。
彼女達が、顔のない怪物……? のっぺらぼうのような妖怪だとでもいうのか。このアメリカで?
確かめるのは簡単だ。切断された首の一つを調べれば、マスクを被っているのかどうかはすぐに分かる。
私は首の一つに両手を伸ばそうとした――――だが、どうしても、その顔に触れる事が出来ない。
私の手が、それに触れる事を拒んでいる。
もしもダグラスの言葉を裏付ける事になってしまったら。
そう思うと、それ以上手を動かす事が出来なかった。
そう考えてしまう時点で、既に殆ど認めているようなものなのに。
躊躇いからか、死体から無意識に視線を外してしまった私は、室内にもう一つ気になる点を見つけた。
床に残る、血で作られた一人分の小さな足跡。
出口へと向かっている足跡は、室内にはそれだけだった。
まさか、これが犯人の足跡?
大きさから推測すれば、それは小柄な女性か、或いは子供のものだ。
しかし、これ程の惨劇を女子供が一人で成し遂げるなど、あり得ない。
あり得ないが、他に犯人のものらしき足跡は見られない。
……一体、ここで何が起きたというのだろう?
不意に、頭をもたげる一つの都市伝説があった。
『ノルウェーの鋏男』
確か、小柄な体格でありながら人間離れした怪力の持ち主で、巨大な鋏で人間を容易く切断してしまう怪人。
一度狙われたらどこまでも追跡してきて、決して逃げ切れることはないという。
そんな、ありふれたと言えばありふれた都市伝説だ。
この街では怪物だけでは飽きたらず、都市伝説まで実体化して襲いかかってくる?
……バカバカしい。いくら符合する点があるとはいえ、そんな下らないことまで連想してしまうなんて。
――――――――やはり今は……考えるのは、よそう。
背中が再び、ジワリと痛む感覚の中、結局私は思考を打ち切り、立ち上がった。
今は死体を調べていても仕方がない。犯人像を推理していても始まらない。
それよりもヘザーを探さないと。通じる電話を見つけて、助けを呼ぶ方を優先しないと。
冷静さを保てない自分の弱さから目を逸らすために、そんな、体のいい言い訳で自分を言い聞かせて。
受付のカウンターを乗り越えて事務所の奥へ入ると、電話はすぐに見つかった。
それはプッシュ式ではあるものの、通話以外の機能を持たない、相当古いタイプのものだった。
何故そんなものを使用しているのか。疑問には思うが、まあ気にかけている場合ではない。
受話器を上げ、耳に当てる。モーテルやオフィスビルでは聞けなかった発信音が確認出来た。
やはり、ここの電話は生きている。
これで――――やっと救助を呼べるのだ。
私は安堵の息を吐き、携帯電話を取り出した。
このゴーストタウンに入り込んだ時から常に圏外の文字が張り付き続けている携帯を操作し、電話帳を開く。
そして番号を入力したのだが――――しかし、電話は、どこにも通じることはなかった。
発信音は確かに聞こえ、プッシュボタンも問題なく押せる。
それなのに、呼び出し音だけが鳴ってくれない。
警察署にも、大使館にも、アメリカの友人の家にも、東京の家族にも、どこにかけても駄目だった。
「……どうして、なの……?」
期待していた分、落胆もまた大きかった。
安堵の息は、苛立ちのそれと変わり、口から漏れる。
背中の痛みに誘発されるように、こめかみに鈍痛が走り、思わず手を当てていた。
今も鳴り続ける発信音。聞いていると、意識が引きこまれそうな感覚に陥る。
この電話は、本当に使えないのだろうか。
今はたまたま調子が悪いだけで、何度か試してみれば通じるかもしれない。
いや、諦めてすぐにでもヘザーの探索に向かった方が……。
それともやはりもう一度試してみるべき?
それも通じないなら時間の無駄でしか…………。
かけるとしたら、今度は何処へかければ…………。
……駄目だ。頭が、上手く、回らない――――――――――――。
そんな働かない頭で、携帯のメモリーを何気なしに操作していた私の指は、一つの名前で止まった。
電話帳の中の、友人の名前。
表面上は同級生として対等に振舞っているものの、
そして、決してその態度を表に出すことはしないものの、
私がいつでも、最も信頼を寄せている、親友の名前。
『霧崎水明』
水明くん――――。
こんな時、彼ならどうするのだろう?
……教えてほしい。こんな状況に陥った時、あなたなら、どうするの?
あなたなら――――――――。
私の指は、吸い寄せられるように、通話ボタンに触れていた――――。
【濫觴】
「どうやら……このパンフレットの地図は殆ど当てにはならんな。
これによると、さっき俺達が逃げ込んだホテルの位置には『駐車場』がある。
その隣のビルも全くの別物だ。表記されている建物や施設が、実際とはかなり異なっている」
「……どういうコト?」
「さて、どういうことなんだろうな……。長谷川。君は『今』がいつの年代か、分かるか?」
「いつの年代って、えっと……あたしが1997年で、オジサンが……え? 今……って?」
「そう。君が90年代。俺が2000年代。シビルが80年代だ。
俺達は全員が全員、別々の年代からこの街に集められている。
だったら、そもそもこの街はいつの年代のサイレントヒルなのか、という疑問が生じるだろう?」
水明とユカリは、地図を確認しながらウィルソン通りを南下していた。
この通りを南に抜けて右折すれば、アルケミラ病院に辿りつけるはず。目的地は、もう間もなく――――だったのだが。
現在位置の定期的な確認は、フィールドワークの基本。とりあえずの安全が確保されたところでそれを行なったところ、これまで歩いてきた街並みと地図上の表記には大きなズレがある事に気が付いたのだ。
シビルの地図は観光パンフレットだけあって、通りや施設の名称まで事細かに記載されている。
しかし、この通りの周囲の建物を確認してみると、地図に記載されているものと一致しないものが数多くあった。
本当にここはウィルソン通りなのか。疑問に思うも、全てが一致しないわけではない。それ故、肯定も否定も出来ないでいるのだが。
「あ、じゃあさ、アレッサ・ギレスピーのいる年代ってのは?
ソイツが原因でこんなコトになってるんだったら、ソイツが中心にいるってコトでしょ?」
「なかなか良いセンだ。
『アレッサ・ギレスピーがこの事件の根底に関わっているのだとしたら』と仮定したら、だがな。
……では、その年代はいつの事だと思う?」
「えっと……シビルさんと同じ……?」
「……とも限らない。
確かにシビルは過去にサイレントヒルで起きた事件を解決した人間の一人だ。
つまりは、アレッサ・ギレスピーと同年代の人間だと言えるな。
だが、俺達がこうして時間を越えている以上、シビルもまた時間を越えている可能性はあるだろう?
とすると、シビルと今のアレッサの年代が一致するとは言えないわけだ。
……ここがシビルの年代よりも未来にあるサイレントヒルだとすれば、
シビルの持っていたパンフレットにはない都市開発などが行われた可能性もある。
こう考えると、この地図と、現実の街並みの不一致にも一応の説明はつくな」
パンフレットを拳で軽く叩くと、ただし、と水明は続けた。
ポケットから一枚の用紙を取り出して。
「今のところ、その根拠は何も無い。
俺達が持つ情報は、街並みがパンフレットの地図とは違う、という事実だけだ。
さて、こうなると、さっきのビルで拾ったこの地図が気になってこないか?」
「その落書きが? そっちが本物の地図だっての?」
「無条件でそう言い切るつもりはないさ。
こっちには通りの名前も無ければ、施設の名称も最低限しか記載されていない。
その上、地形だってまるで別物と来れば、地図としては落第点しか与えられない代物だからな。
だがそれでもこの地図には、是非ともお持ち下さいと言わんばかりに街のルールが書かれている。
本来の地図が実際の街並みとは異なるというのなら、こいつを街並みと照らし合わせて見る価値はあると思うがな」
「ちょっと貸して。……てゆーか、こっちが本当の地図だったら病院が研究所になっちゃうよ……?」
水明が二つの地図を渡すと、ユカリはそれをマジマジと眺めてそう言った。
確かに、二人が今目指しているのは、この先にあるはずのアルケミラ病院だ。
しかし落書きの地図に従うならば、目的の場所に病院は無く、代わりに記載されているのは研究所。
街の南西に病院の表記は一応あるものの、パンフレットによればそこはブルックヘイブン病院であり、
シビルから聞いたアレッサ・ギレスピーの関連施設とは無縁の場所だ。
「病院が無く、研究所が存在すれば、その地図は少なくともパンフレットよりは正確なものだという証明にはなる。
その時はその時で、別の場所に向かえば良いだけのことだ」
「でも……シビルさんはどうするの? シビルさん、この地図持ってないじゃん」
「……彼女なら、いずれ追いつくさ。俺達はバイクよりも速くは歩けない」
「シビルさん………………大丈夫だよね?」
「それは……信じるしかない」
不意に、沈黙が二人を包んだ。
案じるのは、シビルの事。ユカリも、同じ想いだろう。
遠ざかっていたエンジン音は、今も聞こえてくる事は無い。
バイクに追いつけるような化け物はいない。そうシビルは言っていた。襲われたなら轢き殺してやる、とも。
だったら、何故未だに戻って来ないのか。――――先程の巨大な顔をした化け物の言葉を、水明は思い返す。
『こんなところ初めて来たから良く知らない』
シビルからもたらされた情報と、もたらされなかった情報。更にシビルが戻って来ないという事実。
それらを総合すれば、あの化け物の言葉は真実と見て良いのだろう。
つまり今回のサイレントヒルには、かつてはいなかった化け物が多数存在している、という事。
おそらくは、シビルが遭遇してしまったのは、彼女の知らない化け物だったのだ。
白バイで轢き殺せないような相手。勝てる保証の無かった相手。
だからこそ、シビルは囮となった。水明達を危険に晒さない為に。
ならば――――今もシビルは無事でいられるのだろうか。
名簿を確認したい衝動に駆られるが、ユカリが側に居る今、それは出来ない。
暗闇に二人の足音だけが反響していた。
気を紛らわせるかのように地図と周辺を見比べながら歩くユカリが、時折何かを言いたそうに水明に目を向けるが、結局その口から言葉が紡ぎ出される事はなかった。水明も、敢えて聞こうとはしない。
しばらくの間続いたそんな静寂を破ったのは、唐突に鳴り響いたバイブ音だった。
「な、何? 何の音?」
戸惑い気味に視線を彷徨わせるユカリをよそに、水明は訝しげな表情を浮かべてポケットに手を突っ込んだ。
マナーモードにしている携帯電話。鳴り出したのはそれだ。
だがこの街に入り込んでから、携帯のアンテナが立った事は無かった。それは何度か確認している。
誤作動か。そう思い液晶の小窓を確認した水明は、驚きで顔を強張らせ、そして素早く携帯を開いて耳に寄せた。
表示されていた文字は、『式部人見』。
この一ヶ月、連絡を取りたくても取れなかった、親友の名前だ。
「人見か!?」
『……………………』
思わず声を張り上げてしまう水明の問いかけに、反応は無い。
ただ、電話の向こうには確かに気配が感じられる。ボソボソと、何かを呟いている気配が。
「……人見なのか?」
もう一度、今度はトーンを抑え、静かに問いかける。
その際、無意識にユカリに目を向けてしまったのは、死者からの電話の話を聞いていたからだろうか。
圏外の表示は今も変わらない。本来ならば、繋がるはずはないのだ。
電話の中の沈黙が、いやに長く感じられた。
柄にも無く、緊張で息が詰まる。
待ち切れず、更に呼びかけようとしたその時――――。
『霧崎、くん……? どうして……?』
聞こえてきたのは、聞き間違えようもなく、十年来の親友の声だ。
ホッと息を吐き出すが、しかし、どこか力無い彼女の声には、眉を顰める。
そんな人見の声を聞くのは――――安曇優が死んだ、と告げられたあの日の夜以来だ。
「どうしてもこうしてもない。電話をかけてきたのはお前だ。
人見、無事なのか!? お前今何処に居るんだ!?」
『私は……今………………………………ちょっと待って。どういうこと?』
「どういうこと? ……何がだ?」
『どうしてあなたが、無事か、なんて聞くの? こっちで何かあった?』
なるほど。と水明は頷いた。
人見の立場からすれば、彼女が日本を発ち、アメリカに入国したのは数日前。
その間、例え連絡が取れなかったとしても、たかが数日。心配される程の理由など無いはずだ。
「単刀直入に言う。実は俺も今サイレントヒルに迷い込んじまってるんだ」
いつもとは違う、水明の真剣な様子を感じ取ったらしい。
はっ、と人見が息を呑む音が伝わってきた。
しかし、続けて紡がれた『冗談でしょう?』という疑念の声。
人見らしくない、返答だった。
理屈に合わない事象を否定し切れていない。弱っている気持ちを隠し切れていない。
それが痛い程に理解出来てしまう声だ。
「冗談や嘘なんかじゃない。その証拠に……お前、この街で誰かと出会ったか?
出会っているなら、姓だけで良い。言ってみろ。フルネームを当ててみせる」
水明はユカリから名簿を受け取り、人見の言葉を待った。
しばし、人見は口を閉ざしていた。逡巡しているのだろうか。
何のつもりか分からないけど、と前置きし、人見が口にしたのは『ダグラス』という一つの名前。
名前を確認し――――こんな時だが、つい苦笑が漏れた。
人見がこの街で何人の人間と出会ったのかは水明には分からない。
だが、人見に水明を引っ掛けようとする意図があるのは、彼の名前を見ただけで分かる。
こちらは、如何にも人見らしい。
「『ダグラス・カートランド』、だな?
確かに『ダグラス』という名前は姓にも名にもなるが」
『…………何故分かったの……!?』
「ここで、街に迷い込んだ者のリストのようなものを拾ってね。これで、信じるな?
何ならこの辺りの風景を撮影して画像を送っても良い」
人見は、リスト、と一言だけ呟き、水明の言葉を肯定も否定もしなかった。
黙り込む、電話口。――――少し、浅はかだったか。水明は、自問する。
彼女は、大学で初めて出会った頃から、オカルトには否定的な意見を持っていた。
そして、安曇の死を伝えに来たあの日から、その意見は更に顕著なものとなった。
以来、人見がオカルトを認めようとした事は一度として無い。
街に迷い込んだ者のリスト。冷静に考えてみれば、不自然極まりない代物だ。
人見が認めようとしない――――認めたがらないのは、当然かもしれない。
沈黙が、続いていた。葛藤している人見の様が目に浮かぶようだった。
「……とにかく詳しい話は後だ。お前、今何処に居るんだ?」
『……今は、病院よ。……アルケミラという病院の事務所に居るわ』
「アルケミラ……トルーカ湖の北側にある病院か?」
『いいえ。アルケミラがあるのは街の南西よ。霧崎くん。あなた、ここの地図は持ってる?』
「それは、エリア別に分かれてるやつのことか?」
『……他にあるみたいな言い方ね?』
「いや、いい。つまり、お前が居るのは『B-6』の病院ということだな?
……この地図の中で、お前が他に立ち寄った場所があったら教えてくれ」
人見は、少し考え込むように口を止めた後、
B-6のガソリンスタンド。C-5のモーテル。B-5のガソリンスタンドの三つを上げた。
ユカリが開いているパンフレットの地図に、B-6のガソリンスタンドは無い。
――――正確な地図は、落書きの方で決まりのようだ。
「分かった。……大いに参考になった。
アルケミラ病院には俺も用があるんでね、出来るだけ急いで行くつもりだが……」
『……あなたは今、何処に?』
「そこからは正反対の場所になるな。E-3のウィルソン通りだ。少し離れちゃいるが、必ず行く。
この街は危険だ。なるべくなら、俺が行くまでお前はそこから動くんじゃない」
『動くなっていうのは、約束しかねるわね。……私もしなくちゃならないことがあるの。
人を……ヘザーという少女を探さないといけない……」
「ヘザー……? ……ダグラスという人は、今そこに居るのか?」
『……ダグラスは、死んだわ』
「……そう、か……」
『ヘザーは今何処に居るか分からない。
霧崎くん。もしもヘザーを見つけたら保護してくれる? ダグラスが、探していた娘なのよ』
十年来の付き合いは伊達ではない。
人見が、こうと決めたら自分の意志を簡単には曲げない性格だという事は、よく知っている。
本音を言えば、人見にはこれ以上動いてほしくはない。
自分が行くまでその場でじっとしていてもらいたいのだが――――少女を救うためとなれば、それを期待するのは難しいだろう。
名簿を見れば、確かに『ヘザー・モリス』という人物もこの街に迷い込んでいるらしい事は確認出来た。
水明は了承の意を示し、代わりと言っては何だが、とユカリの友人二人の名を伝える。
互いの尋ね人の特徴を伝え合うと、続けて水明は、一つの疑念を切り出した。
「ところで……この辺りのことで一つだけ、お前に聞いておきたいことがあるんだが」
『……この街のことなら、あなたの方が詳しいんじゃないの?』
「いや、街のことじゃない。この地域のことだ。
この地域には特有の伝染病が存在するか。それを聞いておきたい。
例えば……人がゾンビのように変貌してしまうような病気があるのか、を」
水明を見るユカリの瞳が、驚愕の色に染まった。
そう。水明がゾンビを撃たなかったのは、それが理由だ。
あれは、人間ではないのか。ただ凶暴化してしまった人間ではないのか。水明は、そう考えたのだ。
巨大な顔をした化け物は、人間ではない事は一目瞭然だった。
神への対抗手段として持ち込んだ『太陽の聖環』の呪いが通用した事からも、それは証明出来たと言える。
サイレントヒルの神に対する呪いが何故あの化け物に通用したのか、については、
幾つかの仮説はあるが、それは断定とまではいかないので、今のところ保留だ。
問題は、聖環の通用しないゾンビ達が果たしてどのような存在なのか、だ。
ゾンビ達にはどれだけ近付いても聖環の効果が見られない事を、水明はあのビルで確認した。
確かに彼らの風貌は、映画等に出て来るゾンビそのものだ。
今回のサイレントヒルには、かつてはいなかった化け物や、サイレントヒルと無関係の化け物が多数存在している、というのならば、
ロメロの世界から出てきたゾンビが徘徊しているという可能性もゼロであるとは言い切れない。――――とは言え、何かしらの繋がりか理由はあるはずだ、とは水明も睨んではいるのだが。
ともあれ、彼らがサイレントヒルの神と一切の繋がりがない化け物であるならば、聖環が効かないのは都市伝説のルールとしては寧ろ当然と言える。
だが逆に聖環が効かないのであれば、彼らが「化け物である」と断言するだけの根拠もまた無いのだ。
人間が凶暴化する事例は存在する。
医学的にも。オカルト的にも。それらは確かに存在する。
それを知っているからこそ、水明は撃てなかった。
相手が化け物ならば、撃つ覚悟は出来ている。しかし、もしも彼らがゾンビのように見えるだけの人間であるならば――――それを撃つ事は、単なる殺人に過ぎないのだから。
『あなたも……彼らに襲われたの?』
「……お前もか。怪我は無いんだな?」
『ええ。私は平気。……彼らのようになる病気があるか、だったわね?』
「……ああ、そうだ」
『そうね……。肉体を腐らせてしまう病気というのは確かにあるわね。
一例を上げれば、壊死性筋膜炎。
ビブリオ・バルニフィカス菌やA群β溶連連鎖球菌に因る感染症よ。
……俗に人食いバクテリア菌とも呼ばれるわね。そう呼んだ方があなた好みかしら?
初期症状としては、激痛を伴う皮膚の炎症で起こる赤みの紅斑と腫れなどが見られ、
放置しておけば、筋膜に沿って壊死が広がる。数日で筋肉、脂肪、皮膚組織を腐らせていくの。
中でも劇症型A群連鎖球菌感染症と呼ばれるものは、一時間に数cmの早さで壊死が進行して、
早ければ半日も持たずに細菌が全身に回り命を落としてしまうわ。
……でも、この街で私が見た人は、全員ではないけれど、ほぼ全身を腐らせていた人も居た。
壊死している体組織は神経もやられているから、痛みは感じないでしょうけど、
それならそれで、その部位を動かすことなんて出来ないはずなのに……。
そもそもあれだけの体組織が壊死しているなら、細菌が全身に回っていないとも考えにくい。
本来なら生きていること自体があり得ないわね……』
「……だったら、薬物で痛みを消しているということは?」
『同じことよ。どうあれあんな状態で生きていられるとは考えにくい。ただ……』
「…………何だ?」
『…………現代医学ではまだ確認されていないものなんだけどね。
人間が理性を失い凶暴化してしまう病気があることを、私は知ってる……。
ある島の…………風土病よ』
「ある島の、風土病? それは、身体が腐る病気なのか?」
『……腐るわけじゃないわ。彼らがあの島の風土病にかかってると言うつもりもない。
私が言いたいのは、未知の病気が存在する可能性は捨て切れないということよ。
これ以上は、彼らの身体を検査してみないと何とも言えないわね』
話の途中、徐々にいつもの力強さを取り戻していた人見の声は、風土病の話を出した際にまた、ふと弱々しく変わった。
現代医学で確認の取れていない病気を何故一介の医師に過ぎない人見が知っているのか。
彼女の過去に何かがあったのだろうか。
気にならなくはないが――――それに割くだけの時間は、今は無い。
他ならぬ人見が言うのだ。いい加減な情報では、無いはずだ。
「分かった。お前からそれだけ聞ければ充分だ。礼を言う、人見」
『あら? 珍しく素直じゃない。……どういたしまして。
……それじゃあ、私はそろそろヘザーを探しに行くわね』
「……移動するのか?」
『ええ。と言っても院内よ。それなりの大きさだから、あなたの到着まではこの病院に居るかもね』
「出来る限りそうしてもらいたいんだがな……病院を出ることがあったら必ず連絡を入れてくれ」
『了解よ。それじゃあ……気をつけて』
「お前も」
電話は、人見の方から切れた。
画面を確認すれば、そこにはやはり圏外の表示。
どのような仕組みなのかは不明だが、電波の状況はこの街では関係無いという事らしい。
「……俺とした事が、先入観に囚われていたな」
薄い笑みを浮かべた口元でそう漏らし、水明はユカリに視線をやった。
ユカリは、どこか不満気な表情を浮かべていたが、水明はその様子に内心首をかしげつつも、言葉を続けた。
「長谷川。君の友人達は携帯電話やPHSは持っていないのか?
携帯が使えるとは盲点だった。もしかしたら連絡が取れるかもしれんぞ」
【郷愁】
こめかみや背中に感じていた痛みは、僅かながら、和らぎを見せていた。
どうして電波の入らない携帯が通じるのか。私には理解出来ない。
試しに警察にかけてみるが――――やはり繋がらない。
……幻聴だったのだろうか。
いや、通話履歴はちゃんと残っている。あの会話は幻聴なんかじゃない。
水明くんは、この街に居る――――。
水明くん。
あなたとは対等でありたいと、いつも思う。
確かに私はあなたに頼りっぱなしだ。
当時の……いや、現代の医学でも原因を解明出来ない、この背中の烙印。
オカルトの爪痕とも言える傷跡を文字通り背負わされた私が、
それに押し潰されずにいられるのは、あなたがいるからだ。
いつもの議論で、あなたと張り合って、あなたの意見を否定しようと頭を巡らせる。
そんな、あなたとの変わらないコミュニケーションを続けられたからこそ、
私は、ロジカルで現実的思考を保ち続けることが出来た。
現実と非現実の境界を意識し続けることが出来た。
あの頃から、私の精神は、あなたに支えられてきた。
……あなたは、知らないでしょうけど。
だからこそ、あなたとは対等でありたい。
だからこそ、あなたには私の弱さを見せるわけにはいかない。
私はあなたに守られたいんじゃない。親友として、あなたと肩を並べたいのだ。
一方的に感じている借りだけど、返さないのは私の性にも合わないのだから。
水明くんがこの街に居る。
だったら、弱っている場合じゃない。私はここで、自分を見失うわけには、いかない。
彼と対等であるために。親友であるために。
私が、私であるために――――――――。
「…………ありがとう」
彼には決して伝わらない呟きを残して、私は顔を上げた。
水明くん。あなたのおかげで、私はまだつよがることが出来そうだ。
そうだ……。私は、認めない。
私は、決して、オカルトを認めない。
例え現在の科学では説明のつかない現象を目の当たりにしようとも。
例え怪物らしき者に襲われ、殺されようとも。
それがただの意地に過ぎないものだとしても――――私は、絶対に認めない。
「ヘザーを……探そう」
【B-6/アルケミラ病院・事務所1/一日目真夜中】
【式部人見@流行り神】
[状態]:上半身に打ち身。
[装備]:ペンライト、携帯電話
[道具]:旅行用ショルダーバッグ、小物入れと財布 (パスポート、カード等)
筆記用具とノート、応急治療セット(消毒薬、ガーゼ、包帯、頭痛薬など)
ダグラスの手帳と免許証、地図
[思考・状況]
基本行動方針:事態を解明し、この場所から出る。
1:病院内でヘザーを探す。
2:ヘザーにダグラスの死を伝える。
3:怪奇現象は絶対に認めない。例え死んでも。
※ダグラスの知る限りの範囲でのサイレントヒルに関する情報を聞いています。
※ダグラスの遺体から持ち出した物は、
携帯ラジオ、ペンライト、手帳、免許証の四点です。