暗闇を照らす光の中では



【忘我】


安曇くんの、あの暴れ狂っていた最期の姿は、今でも鮮明に覚えている。
燃え広がる炎。火の海と化し、崩れ落ちる手術室。
激痛で身体は指一本動かせず、火の粉の入り混じった粉塵を払う事も出来ないで、ただ遠のいていく意識の中でも、
彼のあの姿は――――まるで獣のように変わり果ててしまいながら、深く、暗い絶望を宿していたあの瞳は、
背中に残された禍々しい烙印と同じように、私の脳裏にくっきりと刻みつけられていた。

あの日、安曇くんに二度目の死の苦しみを味わわせてしまったのは、私だ。
思い出す。いや、忘れてはならない、私達のそれぞれの愚かさを。
安曇くんは――――余命いくばくもない妹の命をどうしても助けるために、との想いに取り憑かれていたとはいえ、
所詮はオカルトに過ぎない常世島の死者蘇生の伝承に縋りついて、
しかし、結局妹の命を救えず、逆に島の風土病に感染して仮死状態に陥ってしまった。
そして私は――――せめて彼までは死なせないために、との必死の想いがあったとはいえ、
有効性も実証出来ていない、素人が調合した薬とも呼べない代物を彼に投与してしまった。
結局のところ、それが安曇くんに与える必要の無い苦しみを与える事となったのだ。

その代償が、最愛の人が苦しみ抜いて死んでいったという結果と、
私の背中一面に残された、熱傷でも、裂傷でも、擦過傷でもない、原因不明の大きな傷跡。

整形すれば消せるであろうこの烙印を敢えて残しているのも、自身に対する戒めのつもりだ。
理に適わぬものに縋った故の悲劇を。私には人を救う資格など無い事を。決して忘れないための戒め。
あの後、水明くんのアパートのドアを叩いて彼にこの背中を見せたのも、そう。
私の愚かさの象徴を、信頼出来る人に知っておいてもらいたかった。
そうすれば私の愚かさが時と共に風化する事はない。あの時は、心の底からそう思ったから。

だから私は、オカルトを――――理に適っていないものの存在を認めるわけにはいかない。
保証もない。根拠もない。証明も出来やしない。
そんなものを認めてしまうのは、あの日の出来事を認めてしまうのと同義なのだから。絶対に、認めるわけにはいかない。


――――なのに。


私の信念は、この街でぐらつき始めている。
次々に起こる、理解の追いつかない異常事態に精神が参っているのだろうか。ロジカルな思考を保ちきれずにいる。
……ダグラスの遺体から携帯ラジオを手に取ってしまった事が、何よりの証拠だ。
その行動に抵抗が無かったわけではないのに。愚かさを自覚して投げ捨てる事だって出来たのに。
私は結局ラジオをこのモーテルまで持って来てしまった。

ラジオは、先程から、耳障りなノイズを立て始めていた。
ダグラスの言う事が正しいのならば、私の居るこのモーテルに何かが近づいて来ている。
近づいてくる者の正体は分かっている。あの……腐りながらも襲ってくる、彼らだ。

ビルから出た後すぐに、私の耳には、公園の方から上がる人が呻くような声が届けられた。
事故の前に聞いた彼らのものと同じ声だった。私達を見失い、公園に迷い込んだのだろう。
私は走った。彼らに気付かれる前に。ヘザーが居るかもしれないモーテルを目指して。
そこまで逃げたのなら、彼らも私を追ってこないかもしれないと思って。
だけどその考えが甘かった事は、あの携帯ラジオのノイズが教えてくれている。
彼らは正気を保ててはいないはずなのに、どういうわけかは知らないが、私を追跡してきたのだ。
耳に入り込んできた複数の人間の足音に、緊張が高まっていく。それに合わせるかのようにノイズの音も高まっていく。
まるで、チャチな設定のB級映画の世界に迷い込んだような気分。
……こんな考え自体が私らしくない。……それでも、止められない思考。
半開きだった安っぽいドアに何かがぶつかった。ドアが軋んだ音を立てて開かれていく。
無作法に部屋に踏み入る何人もの人間の気配。何人も、何人も、次々とこのモーテルの部屋に侵入してくる。
ラジオが更に音量を増していき、不快なノイズを撒き散らす。

私は――――――――『隣の102号室』にそのノイズを聞き、
タイミングを見計らってこの『101号室』を飛び出した。

まだ外に残っていた数人が、私に気付く気配を他所に、通りを一気に駆け抜ける。
思考能力が失われているらしい彼らの注意が、これであの一室に引きつけられてくれる事を期待して。

このモーテルではヘザーは見つからなかった。
居るかどうか分からないけれど、次の当てはブルックヘイブン病院。
行ってみるしかない。ヘザーを見つけ出さなくてはならない。
ヘザーが教団に狙われているという突拍子もない話や、
ヘザーの過去にまつわるサイレントヒルで起こったという事件。
それらの話を全面的に信じる事は…………私には、出来ないけれど。
真実が何であれヘザーにも危険が迫っているのなら、ダグラスの代わりに保護しなくてはならない。
そして、ヘザーに彼の死を伝えなくてはならない。
私には、ダグラスの死を看取った人間として、その義務があるだろうから。

いつ以来かも分からない全力疾走で、胸が、脚が、熱と痛みを帯びていく。
それでも私は止まらずに通りを走り抜けた。
愚かさを。悔しさを。苛立ちを。恐怖を。噛み締めながら。




【渦紋】


壁にめり込む形で押し潰されているゾンビ達は、全身の骨が砕かれている様子だった。
懐中電灯の弱々しい明かりの中でもそれは容易に理解が出来る。それ程に怪物達の身体はひしゃげている。
これが、あの太巻き女の力だと言うのか。
今の屋上では、水明が一歩間違えれば、自分達もこうして何かの標本や剥製のように飾られる事となっていたのだ。
最悪の想像。冷たいものがユカリの背筋を走り、思わず身体を抱きすくめた。

そのゾンビ達は、到底生きているとは思えない状態にも関わらず、尚も微かな唸り声を上げていた。
のこのことやってきた獲物の気配に歓迎の声を上げ、喰らいつこうとしているのだろうか。
もう二度と動けはしないであろう身体だというのに、信じられない生命力を持つ怪物達。
――――水明は今、その怪物達の前に立っていた。

「ねえ、オジサン! さっきから何してんの!? 危ないよ!?」

ユカリは階段の手すりに手をかけ、水明の背中に焦燥を乗せた声を浴びせかけた。
焦るのも当然。ゾンビが動けない状況だとは言え、水明が今居るのは怪物からほんの数十cmの距離。
僅かにでも手を伸ばされたら為す術も無く掴まれる位置だ。そんな所で水明は怪物を観察しているのだ。
尤もそれは、水明もゾンビが動けない事を確認した上で取っている行動だが、もしもの場合を考えれば気が気でない。

「オジサン!」
「…………ああ。……今行く」

漸く水明がこちらを向いた。
その表情は、先程に見たもの程ではないがそれでも充分に威圧的に見えた。
一度抱いた不安が、必要以上に恐怖を煽っているせいだろうか。

水明は、悪い人間ではない。出会って間もないが、それはユカリにも断言出来る。
確かに一見怖そうに見えるし、多々、嫌みたらしいところはある。
しかし、ユカリが今こうして生きているのは水明のお陰だ。
水明がいなければ、ユカリは緑髪の女に撃たれてあっさりと殺されていただろう。
水明が二度、三度と自身の命をかけて助けてくれているからこそ、ユカリは命を落とす事なく生きていられるのだ。
出会ったばかりの他人の為に身体を張れる者が、悪い人間であるはずはない。そのくらいは、ユカリも分かっている。
――――分かっているのに。頭では分かっているのに。胸の中の暗い靄は、一向に晴れようとしてくれない。
おそらくは、殺し合いのルールなんてものを読んでしまったからか。

何となく気まずい空気を勝手に感じ、ユカリは先に階下へと向かった。数歩遅れて、水明の足音がついて来る。
この建物内の怪物達はさっきの太巻き女があらかた片付けてくれたようで、二人のもの以外の足音は聞こえてこない。
だが今は、その静けさが逆に息苦しさを感じさせていた。
多少の気配でもあれば、そちらに注意を払う事が出来る。考える事が出来るのだが、こうも静かだと、何を考えるべきかも分からず――――唯一感じられる水明の気配がどうしても気になってしまう。
二階への踊り場を抜けて身体を翻す際、横目で水明の痩身を窺い見る。
相変わらずの仏頂面で、水明は何かを考えている。その水明が持つ拳銃に、ユカリの視線が落ちた。
後ろからあの拳銃で撃たれはしないだろうか――――撃つはずがない。
後ろから突き落とされたりはしないだろうか――――するはずがない。
こんな怯えなど下らない杞憂でしかないものなのに、次から次へと浮かんでくる。
不安を掻き立てる静寂が苛立たしい。こんな時に限って得意の饒舌を披露してくれない水明が苛立たしい。
静寂と沈黙が一階に到達するまで続くと、どうにも耐えかねてユカリは振り返った。

「ねえ!」

不自然に声が上擦ったユカリに、水明が怪訝そうな目を向けた。
赤面しつつも、それを誤魔化すようにユカリは先程抱いた疑問を口にした。
話題は、この静寂から解放されるのならば何でも良かったが。

「さっきの……アレってなんだったの?」
「……あれ?」
「御札。あんな魔法みたいなコトしてさ」
「ああ、あの御札か。あれは何の変哲もないただの御札だ」
「アレが? 何の変哲もない?」

水明は階段を降り切ると、懐中電灯を壁のあちこちに向けた。
やがてそれは一箇所で止まる。
照らし出されているのは、この建物の見取り図と、その横にかかっている別の地図らしきものだ。

「こいつは……サイレントヒルの地図?
 にしては……随分と簡略化されているというか、落書きのような代物というか。
 パンフレットのものとは別物だな……」

壁からそれを剥がし取り、表裏隅々まで眺めると、それをポケットに突っ込む水明。
そして見取り図で出口の方向を確認する。どうやら、壁を照らしたのはそれが目的だったようだ。
確認を終え、こっちだ、と先導する背中に、ユカリは続いた。
後ろにいられるよりは、そちらの方が幾らかは気分は楽だった。

「それ、持ってくんだ?」
「ああ……こいつの裏にはどういうわけか、ご丁寧に街のルールが記述されてあった。
 わざわざルールと一組にした地図を用意するなら、何か意味がある物なのかもしれん。
 嵩張るものじゃないし、とりあえず拝借させて頂くとしよう。
 ――――それはさておき、御札だったな?」

水明はそこで一旦言葉を切り、歩みを緩めた。曲がり角に行き当たったのだ。
注意深く死角を見回し、何もいない事を確認すると、ユカリに合図を送る。

「ま、君が驚くのも無理はない。あれには俺だって充分驚いているところだ。
 ……東京と神奈川の丁度境目辺りにある『鬼哭寺』という寺は知っているか?」
「キコクジ? ……ううん、知らない」
「『鬼』が『哭く』『寺』、と書いて『鬼哭寺』。
 かつては『おになきでら』と言ったらしいがな。
 ……君も高三なら、鬼子母神の伝説くらいは聞いたことあるだろう?」
「……知らないけど」
「むじなも知らなければ鬼子母神も知らない、か。まったく呆れ果てたやつだ。
 いいか? 鬼子母神というのは、元々はバラモン神話に登場するインドの神で――――」
「だからお勉強はいいっつーの! 先を話してよ!
 あたし気を持たされるのってキライなんだけど!」
「そうなのか? そいつは良いことを聞いた」

振り返った水明が愉快そうに口元を歪めていたのは、暗闇の中でも、いや、その顔を見ずとも分かる。
いいから早く行きなよ、とユカリは彼とは正反対の表情を浮かべて、無言で前方を指さした。

「『鬼哭寺』は、その鬼子母神を祀っている寺でな、
 あそこの住職は魔除け、厄除けといった効力の霊験あらたかな御札を書いてくれると、その筋では有名なのさ。
 ……さっきの御札は、その鬼哭寺で購入したものだ。
 もしもサイレントヒルの魔女、或いは神が実在するというなら、多少なりとも対抗手段に成り得るかもしれんと思ってな。
 御札に限らず、使えそうなものは他にも色々と用意だけはしてみた。
 さっきの化け物に殺されずに済んだのも、その内の一つの効果だ」

霊験あらたかな御札を書いてくれる住職。
そう言われてみれば、ミカが以前そのような話をしていた気もしてくる。
無論、ユカリにとっては興味のない話だったのではっきりと覚えているわけではないが。
ただの気のせいか、別の場所の話だったのかもしれない。

「御札、塩等を四隅に設置して空間を切り分けるという結界の貼り方も、ごく初歩的なもので、勿論俺自身に特殊な力があるわけじゃない。
 日本を発つ前に一度試しはしてみたが効果を体感するには至らなかったな。
 ましてやあれ程の強力な結界が出来るとは思いもしなかった。貼ったのは、まあ、本当に駄目で元々ってやつさ。
 さっきは一体何が起きたのか。あのエネルギーはどういった質のものなのか。
 俺にも正確なところは分からないが……ただ、これだけは言える。
 あそこの住職、なかなか独特な雰囲気を纏っていたと思ったが、どうやら只者ではないらしい」
「……要するに、その住職がすごいってコト? ……あと何枚あるの?」
「書いてもらったのは二十枚だが、半分は出発前に弟に渡したんだ。
 幸か不幸か、あいつもここに辿り着いてしまったようだが……持ってきてると良いがな。
 ……そういうわけで、御札の残りは後六枚。
 これ程の効力があると知っていたのならもっと書いてもらったんだが、それは今言っても始まらんな。
 シビルの言葉じゃないが、使い所は慎重に見極める必要がありそうだ。さて……見えたぞ、出口だ」

水明の持つ懐中電灯が、破壊されて床に落ちているドアを照らした。
この出入り口のドアも、太巻き女に破壊されたらしい。
そのドアが元々ついていたであろう大穴から覗く外側の景色は、懐中電灯を使うまでもなく、煌々と光で照らし出されていた。屋上の御札の結界は、未だ効力を失っていない。
ついつい足早に外に出ようとするユカリだったが、ズルリ、と、その耳に届く奇妙な音が、彼女の足を止めさせた。
何かが擦れるような音だった。出口の手前にある部屋の中から、その音はもう一度聞こえてくる。
その部屋の、内側に破られたドア――――ここにも太巻き女は立ち寄った痕跡が残されていた。
わざわざドアを破って侵入したのならば、そして部屋の中からは物音が聞こえてくるならば、その答えは一つ。
――――この中にも怪物が居る。それも、仕留め損なったのか、動けるやつが。
直ぐ様水明がそちらを照らす。円形の光の中に、室内から出て来る怪物の姿がはっきりと浮かび上がった。
そいつは、上にいたゾンビ達と同じものだった。ただし、下半身だけが潰されたのだろう。まるで匍匐前進でもしているかのように、上半身だけで這いずり寄って来る。
急いで出口に向かおうとしたユカリだったが、それよりも早く水明がユカリの肩を押さえた。

「おっと! 下手に出るな! 表には狙撃手が居ることを忘れたのか?」
「あ……じゃあ、どうすんの!?」
「勿論外に逃げる。ここで籠城したところで事態は進展しないからな。
 ただ、出たら絶対に立ち止まるな。
 今なら狙撃手も屋上の光に気を取られてるかもしれんが、外でマゴマゴしてたらすぐに発見される。
 ……その角材も、もう置いていくんだ。走るには邪魔だろう。
 目指すのは向かって右斜め前方だ。俺の記憶だとそっちはT字路になっていたはずだ。確か、ウィルソン通りだったか。
 路地に入ってしまえば少なくともさっきの狙撃手の的にはならないで済む」
「それって……結局運を天に任せるってコト?」
「有り体に言えば、そうなる」
「……マジ?」
「まあ、今回はそう分の悪い賭けじゃないはずさ。
 ……とりあえず、そっちの隅に行っててくれ。
 まずはここを切り抜けないとならない。こいつは俺が引き付ける」

そう言うと水明は、無造作にゾンビに近付き、ある程度の間隔を保って立ち止まった。
ユカリは言われるがままに壁に身体を寄せ、静かに角材を置く。そして、ゆっくりと出口に近付いていく。
近い方からありつこうと判断したのか、ゾンビは腐臭と、薄気味の悪い擦過音を撒き散らしながら、水明へと迷わずに向かっていく。
その動作は明らかに、鈍い。これに比べれば何かの映画で見たゾンビ達の方が遥かに速い。
広いとは言えない通路の中だとは言え、これなら余裕を持って回避出来るはずだ。

――――それなのに、水明は立ち止まったまま、動かなかった。
上にいたやつらとは違い、このゾンビは鈍い動作でも確実に距離を詰めてくる。
手を伸ばして水明を捕らえようとしてくる。
それでも水明は動かず、ただ鋭い眼光をゾンビにぶつけている。
プレッシャーを堪え切れずにユカリが声を荒げるも、水明は動かない。
右手に持つその拳銃を、ゾンビに向けようともしない。

「オジサン!? 早く――――」

撃ちなよ。
そう続けようとしたのだが、口から言葉が出せなかった。
拳銃を撃つ。そのイメージから過ぎったのは、先程の怪物にも劣らぬ水明の迫力。
あの水明は、出来る事なら見たくない。
しかし、撃たねば水明や自分に危険が及ぶ状況がある事も理解している。
今が、そうだ。ここで撃たねば、何のための武器なのだ。
ユカリは口を開き、もう一度叫ぼうとした。

「――――――――っ」

しかし、どうしても水明を促す言葉は出せなかった。
その間にも、ゾンビは映画さながらの呻き声を上げて水明の足に掴みかかろうとする。
そこまで引き付けて、水明はやっと拳銃を――――構える事はなく、ただ後ろに小さく飛び退いた。
そして獲物を捕まえ損なった手で床を叩くゾンビに目をやりながら、ユカリの下へと駆けてきた。

「何してたの? …………撃っちゃえば、よかったじゃん」
「……………………いや、ちょっとな。
 それよりも急ぐぞ。他にも動けるやつが残っていたらしい」

水明の言葉に一呼吸遅れて、ユカリは彼の後方に光を動かした。
床を這いずるゾンビが他にも数体、不気味に目を光らせて奥から近づいて来ている。
生じた疑問は、瞬間で頭の中から消え去った。
代わりに入り込む恐怖と、徐々に強まる腐臭、徐々に縮まる距離。それらに急かされるように、ユカリは出口へと足を運んだ。
水明が狙撃を警戒してか極力身体を出さずに外の様子を窺うが、とりあえず見える範囲には何もいないらしい。
行くぞ。小さな呟きを合図に、水明が外に飛び出した。その彼の背中を、ユカリは必死に追いかけた――――。




【流転】


背後から迫る気配が、自分の足よりも速いのは明らかだった。
空気を叩く羽の音。距離が離れるどころか、その音はみるみるうちに近付いてくる。
袋小路からの出口を目指して走り出したは良いが、このままでは逃げ切れない。だが、逃げるしかないのもまた事実。
とにかく、前へ――――ミカの逸る気持ちに対し、身体はついて来れなかった。
ヤバイ、と焦燥と共に悟るが、遅い。既にバランスは崩れていた。
足が縺れ、宙に浮く感覚。
咄嗟に左腕をアスファルトに突き出した。地面と触れ合った瞬間、掌に熱が走る。
凹凸で擦りむいたか。しかし、その程度で済んだのは幸いだった。
直後、体勢を崩したミカのすぐ上を、キイという鳴き声と共に羽の音が通過したのだから。
もしも今、転倒していなければ、或いは――――。

ミカはすぐに起き上がり、まだ瞳に溜まる涙を拭いながら踵を返した。痛みは、気にかけようとも思わない。
空を飛ぶ怪物。とても走って逃げ切れる相手ではなかった。ならば――――屋内へ逃げ込むしかない。
袋小路だったとは言え、扉が一つだけあった。左側の前方。建物の裏口らしき扉。あそこだ。
果たしてあの扉が開くのか、どうか。
これはもう賭けでしかない。だが、外を走っても逃げ切れない現状、他にミカに取れる選択肢は無い。

再び羽ばたきの音が耳に届く。
ミカはそれを、全力で無視した。
扉までの距離ならば、充分間に合う。後は――――。

「開かないってのは、ナシで!」

未だ震える喉。涙混じりの声で、ミカは祈った。
形だけかもしれないが、それでもチサトに告げたのだ。安心してください、と。
そう言って送り出しておきながら、舌の根も乾かぬ内にチサトに会いに行くわけにはいかない。そんなつまらない演出など願い下げだ。
汗ばむ手で乱暴にドアノブを掴み、一息に引く。錆びつきで多少の抵抗を感じさせたものの、扉は軋む音を立てて開いた。
ミカが開いた扉の隙間に身体を滑り込ませるのとほぼ同時に、扉が派手な音を響かせる。怪物が激突したらしい。
強制的に扉が閉じられた。中は、ただ黒一色で何も見えない。
完全な闇――――原始的な恐怖心を煽られ、一瞬ミカは立ち尽くしていた。
ふと気付き、右手に持っていた携帯電話の光を左右に動かした。
そこは、狭い廊下だった。正面には扉が一つ。廊下右には上に続く階段が見えるが、左は空き瓶やら箱やらが乱雑に置かれているだけで、行き止まりだ。
背後には――――慌ててミカは振り返り、入ってきた扉を抑えた。
しかし、その扉が開かれようとする様子はない。
外にはまだ怪物の気配はしているものの、どうやらあいつは扉の開閉までは出来ないらしい。
とりあえず、助かった――――。とはいえ、落ち着いていられる状況ではない。
扉一枚隔てた先に怪物が居るのだ。この扉だって破られない保証はない。早く、ここから離れねば。

早打つ鼓動を聞きながら、もう一度だけ瞳を擦り、ミカは改めて周囲を見回した。
出入り口の扉周辺を照らしてみるが、電灯のスイッチは見当たらない。裏口であるならばそれもやむを得ない事ではあるが。今は携帯の光で我慢するしかない。
次に目に付くのは正面の扉。
開けようとするが、壊れているのか、ドアノブ自体が回らない。幾度か試すも結果は同じだった。
気を取り直し、携帯の画面を通路の右に向ける。
狭い階段。進めそうなのはこの先だけだ。
裏口があるのだから、普通の入り口もあるだろうが、それは二階にあるものだろうか。

「……ま、アメリカの建物のジジョーなんて知らないけどさ」

しばしの逡巡の後、ミカはそちらへ歩を進めた。
これからどうしていいかは正直分からないのだが、とにかく、今は進むしかない。
階段を上がり、二階に到達する。何者かが居るような気配は、感じられない。
二階廊下は、数m程の長さ。幾つかの照明器具も設置されており、携帯に頼らなくとも視界は確保出来た。
左手前と、右奥に扉が一つずつ。他に通路は無い。
とりあえず手前の扉を開こうとするが、一階のものと同様にドアノブが壊れていて開かない。
残るは奥の扉のみ。こちらが開かねば、出口は無い。
一つ唾を飲み込み、ミカは恐る恐る扉に耳をつけた。
中からは何も聞こえない。ドアノブは――――動かせる。
扉を開くと、そこはそれなりに開けた部屋だった。どうやら、バーのようだ。
女性を形どった低俗な趣味のネオンで、店内の様相が浮かび上がっている。
中に入り、せわしなく周りを見回す。
行き止まりかも。ミカの脳裏に嫌な考えが浮かぶが、彷徨わせる視線が薄暗い店内に一つの扉を捉えた。
すぐに駆け寄り、ノブを回す。錆のせいか、カエルの悲鳴のような耳障りな音を上げて開かれた扉。その先は、屋外の階段だった。

「やった!」

案外あっさりと建物を脱出出来る事に、ミカは思わず歓喜の声を上げた。
しかし、階段を降りる途中。上空から聞こえてきたのは、先程の羽ばたきの音。
空を見上げれば、闇の中から黒い影が目の前の路地に降り立とうとしていた。
慌てて階段を駆け戻り、ミカはバーへと飛び込んだ。扉を閉め、抑えつけるようにもたれかかる。

「どうしよ……。結局これじゃあ、出られないじゃん……」

入ってきた扉と、この扉。この建物に、出口は二つだ。
だがどちらから出ても、結果は同じだ。あの怪物が空を飛んで回り込んでくる。
どうすれば、あれから逃げられるだろう。思索を巡らせるが――――いい手は思い付かない。

とりあえずミカは携帯電話を取り出した。
先程、通じる事は通じた唯一の電話番号。
多少時間を置いた今ならば何か変化があるかもしれない。
そう思い、覚えたての操作で着信履歴を呼び出し、かけてみる。
だが――――何度かリダイヤルしてみても、やはり誰も出る事はなかった。
ミカは消沈した面持ちで携帯を閉じ、どうしよう、独りごちた。
建物から出れば、あの怪物に襲われる。
かと言って、立て籠もっていても助けを呼べるわけではない。
もう、チサトはいない。ユカリは何処に居るかも分からない。
今は、自分一人の力でどうにか切り抜けねばならないのだ。
そんな窮地で、ミカは今――――結局何も妙案は思い浮かべられず、途方に暮れる事しか出来なかった。





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最終更新:2012年06月23日 17:49