マスカット条約
マスカット条約(マスカットじょうやく、阿:معاهدة مسقط ,ラテン文字転写:mueahadat masqat,英:Muscat Treaty)は、汎イスラーム聖地奪還運動(199X)を終結させるために199X年に
イスラム国のマスカットで開かれた多国籍会談によって合意された領土策定に関する条約。締約国はイスラム国、バビロニア連合王国、
リビュア共和国、ボルネオ・スルターン国、ならびに全モロ民族統一暫定自治政府(南フィリピン)。
この条約によってイスラム国はムサンダム半島を、イスラーム勢力は
ヒジャーズ・ジャマーヒリーヤ自治共和国の独立を獲得した。
背景
ムスリム同胞団は、1928年の結成以来中東におけるイスラーム原理主義勢力の発展拡大を企図して行動を続けていた。創設者にあたるハサン・アル=バンナー師はバビロニアからの独立とイスラム文化の復興を掲げてメッカ・メディナ両聖地の奪還とエジプト-アラビア半島におけるイスラーム勢力の拡大を目指すべく行動し、これらは特にオマーン、ソマリア、イエメンなど各地域における首長とその官僚層に対しての働きかけによってイスラム国での思想的な成熟として結実することとなる。しかしエジプト・アラブ諸地域で同胞団への人々の人気・支持が上がるにつれて、同胞団が反バビロニア独立運動を画策しているとの噂が広まった。ハサン・アル=バンナー師はバビロニア政府によって捕らえられ、エジプト地域におけるムスリム同胞団の拠点は一斉弾圧を受けた。これに対してムスリム同胞団の理論的指導者であったサイイド・クトゥブ師らがイスラム国内において過激なイスラーム原理主義運動のための理論を考案。バビロニアに反対する急進的な汎イスラーム主義者たちやイエメン地域の聖地奪還運動など過激な若者たちの指示を集めることに成功した。一部のイデオローグたちは海を渡り、フィリピンでヌル・ミスアリらモロ民族解放戦線による反政府運動の支援を行うこともあった。
対してムスリム同胞団のウマル・ティリムサーニーらはより穏健な社会改良主義的運動を開発。ムスリム同胞団内部での路線の違いにより分裂の危機に見舞われつつも、ボルネオ・スルターン国における北ボルネオ紛争や1986年のエドゥサ革命に端を発する南フィリピンの独立など国際的なイスラーム原理主義勢力の勃興によってウマル・ティリムサーニーらは方針を徐々に過激かつ実行力を持った運動へと転換させていき、1966年にバビロニアによる弾圧で死亡したサイイド・クトゥブ師の跡を継いだ急進的イスラーム原理主義者たち(クトゥブ主義者)らによる聖地奪還運動が地下組織として組織されることとなった。
バビロニアは紀元前から存在する国家であり、ユダヤ・キリスト・イスラームなど主要な宗教を生みだした国家である。信仰の自由を標榜しながらも多神教を崇拝する民族が多く暮らす国家であり、199X年時点ですでにアンティオキア、アレクサンドリア、ならびにエルサレム、メッカ、メディナなどの聖地を多数保持していた。これらに対して十字軍遠征やイエメンによる独自のヒジャーズ侵攻など複数の奪還運動が行われてきたが、すべて芳しい成果を上げることは出来ていない。
199X年、ヒジャーズ地域での聖地奪還運動の高まりを感じたバビロニア政府は直近のイスラーム教国であるイスラム国との交渉を開始する。
二国間会談
199X年X月X日、イスラム国領オマーン地域の大都市マスカットに関係国の代表が集まり、マスカット基本会談が開始された。参加国はイスラム国、バビロニアの二カ国であった。
バビロニア政府はまず領土交換においてこの解決を図ろうとした。イスラム国も同じく領土交換による自国権益の拡大を狙ってこれに乗り気であったが、バビロニア政府がイスラム国の首都にあたるソコトラ島を要求したことから態度を一変させ、硬直化した。
またこのバビロニア政府による過剰な要求は「ソコトラ放言」として議事録に残り、イギリスのニュースメディアを通じてイスラム国の国民および聖地奪還運動の指導者たちに漏れ伝えられた。ソコトラ放言による各国での衝撃は以下のとおりである。
こ、国辱である……
冷静なのでこれでいきなり堂々退場はしないけど、はっきりいって最後通牒なみの衝撃でしたね…… ──イスラム国大使
そちらの首都である“アッ=サマーワ”の安全のため、ここを放棄すると我々は言っていたが……そちらが領土欲を露わにして首都を直接要求するならば、こちらもそうしてよいはずである ──聖地奪還運動指導者
首都を要求しておき、更には「要求はしないよ」と優位に立つような発言は流石に国家との外交においては無礼極まりないので、かなりの「誠意」を見せないと収まりませんよォ~ ──イギリスメディアのレポーター
これらのようにマスカット基本会議は難航し、マスカットにおける会議場だけで数週間が経過した。
多国間会議
199X年X月X日、会議の進行の遅さに痺れを切らした聖地奪還運動指導者がイスラム国外務省前でデモ行進および演説などを開始。これを受けてイスラム国は弱気な姿勢を改める。
また同時にイギリス政府による圧力によって聖地奪還運動の理論的指導者ウマル・ビン=ラーリジャーニー師がイスラム国側のイスラム法学的顧問として会議に参加するようになった。
バビロニア政府もまたイスラム国側の硬直化に合わせて過激な言動を繰り返しており、ソ連との同盟関係をちらつかせて対外強硬姿勢を見せるなど議論は平行線を辿る。このソ連とバビロニアとの同盟関係締結に対してはイギリスメディアおよび聖地奪還運動では大きな反響が巻き起こっており、特に聖地奪還運動においては「無神論者の
ソビエト連邦へ組する多神教のジャーヒリーヤ国家を認めてはならない。武力によって即座に聖地を回復するべきだ」との“メッカ入城論”が唱えられるようになった。
またバビロニアがソ連介入を示唆したことによるイギリス政府によるイスラム国への支援も如実に表れるようになり、バビロニア政府は極めて苦しい立場へと追い込まれていった。
バビロニア政府はムサンダム半島におけるハサブ市周辺を除いた7首長国のイスラム国への割譲を認めなかったものの、イギリス政府の圧力に屈してムサンダム半島のイスラム国への帰属を認める立場となっていった。
ヒジャーズ独立へ
そんな中、イギリス大使との電話会談による仲介によりイスラム国外務省とバビロニア外務省はヒジャーズ地域の分離独立とこれに対する関係各国連合での独立保証を取り決める。聖地奪還運動指導者もこれに賛同しており、本来はヒジャーズ地域における最大与党ならびに事実上の国軍としての立場に成り代わる予定であったとされるが、イスラム国外務省とバビロニア外務省はイスラム過激派勢力の伸長を極めて警戒しておりヒジャーズ地域の独立後は政教分離を原則として与党を作成せず、また既存の非政府系武装組織である聖地奪還運動の武装解除を大前提としたヒジャーズ独立を取り決めることとなった。
頭の上を越される形で取り決められた両国の大使は渋々ながらもこの条件を承諾。会議の開始から数週間たっていた交渉は速やかに終わりを迎えた。
199X年X月X日、イスラム国政府は聖地奪還運動指導者に対する説得を実行。一部武装組織ではアスィール地域を拠点として武力を用いた抵抗が実行されたものの、イスラム国並びにバビロニア軍による鎮圧を受け、武装解除に追い込まれた。
両国は聖地奪還運動の武装解除が為されたことを確認してからマスカット条約に署名・批准し、同時にイスラーム教国全てに対してヒジャーズ・ジャマーヒリーヤ自治共和国の国家承認と独立保証を行うため条約への署名並びに批准に関して開かれた多国間条約とした。
リビュア共和国、ボルネオ・スルターン国はX月X日に、南フィリピンはX月X日にそれぞれ批准した。
合意内容
- ヒジャーズ・ジャマーヒリーヤ自治共和国(ヒジャーズ地域、アスィール地域、ティハーマ地域からなる西部アラブ地域住民の自治独立国家)の独立
- 関係各国によるヒジャーズ・ジャマーヒリーヤ自治共和国の国家承認ならびに独立保証
- ヒジャーズ自治共和国における多国籍諮問機関“暫定自治評議会”の編成
- 聖地奪還運動の武装解除
- ムサンダム半島のイスラム国への割譲
- イスラム国とバビロニア連合王国による中東地域安定化を目的とした包括的軍事同盟
合意はバビロニア、イスラム国の2カ国が、条約に対しては2カ国に加えてリビュア共和国、ボルネオ・スルターン国、南フィリピンおよび聖地奪還運動の各代表が署名した。
合意後の動向
バビロニア政府はヒジャーズ地域から撤退し、代わりに関係各国から派遣された軍人・政治家・経済学者・ウラマーなどから構成される多国籍諮問機関“暫定自治評議会”の支援の下で自治のための統治機構が建築されていくこととなった。
ここにおいてウマル・ビン=ラーリージャーニー師など元聖地奪還運動メンバーらは懸命に働き、リビュア政府から派遣された軍人であるムアンマル・アル=カッザーフィー大佐らの協力の元構築されたイスラーム直接民主制、通称ジャマーヒリーヤ制における事実上の一院制議会、全国国民議会によって見事事実上の内閣にあたる全国国民委員会への信任を勝ち取った。
現在のヒジャーズ自治共和国国民委員会第一書記はイスラム国系のザイード派政治組織“青年信仰運動”を率いていたフセイン・バドルッディーン・フーシ、全国国民委員会委員長は聖地奪還運動の理論的指導者だったウマル・ビン=ラーリージャーニーが務めている。
最終更新:2021年03月18日 05:03