詠唱となる歌が終わると、一瞬の浮遊感があった。
わずかの間だけ乱れてしまう平衡感覚で転ばないように、希鳥は足裏の硬い地面をしっかりと踏みしめた。
両手で抱えている袋の中身も確認する。無事だ。
慣れているとはいえ、転移魔法の成功にホッと息をついて目の前の洞窟を見る。
切り立った崖に自然の力でできた洞窟だが、入り口にはすっぽりと木のドアがはまっている。
希鳥の家からここまではさして距離もなく、転移魔法を使わなくても行けるのだが、わけあってこの辺り一帯は大量のトラップが仕掛けられていて徒歩では危険すぎるのだ。
それは対空でも同様で、トラップの位置を把握していないと生半可な飛行能力ではすぐ撃墜されてしまう。
男だらけ四人(今は
ティマフも押し掛け女房で住み込んでいる)が住むにしては、厳重すぎるほどの仕掛けと言えた。
そうなってしまった原因には希鳥も関わっているため、いつも懐かしいような、苦いような複雑な気分になる。
ドアをノックしようとして、声をかけられた。
「希鳥ー」
名前を呼ばれて、振り向く。ちょうど
ヴァルナーが手を振りながら坂を上ってきたところだった。
沢まで下りて水を汲みに行っていたのだろう。片手に提げた桶には、なみなみと澄んだ水が入っている。ついでに水浴びもしたのか、水色のショートヘアから水が滴っていた。
そのヴァルナーの足元を、ちょこちょこと転がるように歩くにゃーむもいる。
……ヴァルナーに蹴られつつ転がっているようにも見えるが、多分希鳥の気のせいだ。
「ひとじちくーん!」
「いらっしゃーい」
2人に応えて、希鳥も手を振り返す。
嬉々としたにゃーむが跳ねるように希鳥の元へ走り、彼の足にしがみついて見上げる。
「ティマフにあいにきたのかにゃ?」
「うん、あとおかずのおすそわけも持ってきたよ。それと飲み物」
「だったら
セルレアが喜ぶよ、今日の食事当番だから。まあここにいるのもなんだし、入って入って」
「うん、じゃあ、お邪魔します」
ヴァルナーに促され、希鳥はドアを開けた。
まだ真夏の時期ではないのに、家の中は暖かかった。
希鳥が一歩、玄関から足を踏み入れると、廊下の端で何かがさっと居間へ姿を隠した。
ちらりと見えた錆色のジェルボディで、希鳥はその正体に思い当たる。
引っ込み思案な彼女をびっくりさせないよう、努めて優しく呼びかけると、申し訳なさそうな顔でティアがドアの隙間から顔を出した。
「あ、き、希鳥さん、こんにちは……」
「きちょん君いらっしゃーい!」
居間でくつろいでいたのか、セルレアも廊下へ顔を出す。
「てぃまっちゃんならカルネアの部屋だよ。ティアちゃんの本体と一緒」
「ありがと。あ、それとね、これ、ナムル作ったからおすそわけで持ってきたよ」
「やった! お昼ご飯なににしようか決めてなかったんだよ。いつもありがとうね」
「自分はあまり食べないのについ作り過ぎちゃうだけだから、気にしないで」
台所へと立つセルレアに荷物を預け、希鳥はモグラの巣のように何本か伸びる廊下のうち一本を選んで進んだ。
それまで希鳥にひっついていた
にゃーむは、ジュースに釣られてセルレアの方へ飛びついて行った。
セルレアがにゃーむを追い払ったりにゃーむが悲鳴を上げたりするのを背に、希鳥は廊下を進む。
家の奥へ行くにつれ、気温はどんどん上がる。突き当たりの部屋の戸が見える頃には、じんわりと額に汗をかくほどに暑かった。
だが、これでもマシな方であることを希鳥は知っていた。
希鳥は戸に手をかけ、なるべく音を立てないようにスライドさせた。
途端に目の覚めるような赤色が視界に飛び込み、部屋にこもっていた熱気が出口を求めて廊下へ吹きぬけていく。
「はいさーい」
その熱気の中心で、畳の上で座すティマフが希鳥に笑顔を向ける。和装の部屋で浮き立つ赤色は、ティマフの深紅の羽と彼女の傍らに控えるもう一体のティアだ。
胡坐をかくダチョウのようなティマフの足の上には、ひと抱えもあるくすんだ茶色の卵が抱かれている。
部屋の熱気は、その卵を温めるためのものだ。
その様子が以前砂漠で卵を預かっていた時の光景と重なり、希鳥の目じりが下がる。あの時は自分もティマフも必至で、おっかなびっくり手探りで進んでいたが、時がたてば不思議と全部が懐かしく思えた。
「どう?」
ティマフの隣に座り、希鳥も卵を撫でる。
卵からは、中からコツコツと殻をつつく音が確かに聞こえる。
「万事順調」
「みたいだね」
幸せそうににまにまと笑うティマフに、希鳥もつられて微笑する。
「あ、でもね、カルネアってばスレイとコカトリス連れて闘技場行ったんだよ」
ティマフの笑顔がとたんにむすっとした顔になり、子どものようにむくれる。
それを見て、ティアがくすくす笑いながら宥める。
「今日はすぐに帰ってくるとおっしゃっていましたよ」
「どーだか」
まだ口をとがらせるティマフに、希鳥は苦笑して自分の額を伝う汗をぬぐう。
ティマフは暑さに慣れたのか、それとも耐性が付いているのか、汗がわずかに滲んでいるだけだ。
「変わらないね、カルネアも。……ナムルとジュース持ってきたけど、少し休憩する?」
「そうだね、なんかもらうよ」
ティマフが頷くと、希鳥は足を組み直して胡坐をかき、譲り受けた卵がそこに収まる。
どちらがなにを言ったのでもない。自然と二人ともそう動いた。
「ティア、ジュースってなにがある?」
「えーっと……ポカエリアスとリンゴとオレンジですね。ナムルは今セルレアさんがビビンバにしてます」
「それじゃポカエリアス」とティマフがスポーツドリンクを頼む間に、希鳥の周囲を水が取り巻いて希鳥に黒い羽と鱗が形成される。
先ほどのティマフと同じように卵を抱え、魔力で熱を起こして卵を温める。
さっきよりもぐんと部屋が暑くなったが、希鳥の制御ではこれが限界だった。
すぐに居間にいたティアがペットボトルを一本抱えて持ってきて、ティマフに渡して下がる。
鉤爪の生えた手で器用にふたを開けて豪快に中を飲み干す彼女を横目に、希鳥の口は自然とセヲの子守歌を紡いでいた。
しかしその歌声と、卵を撫でる手が止まる。
「……え?」
何か違和感を感じて、希鳥が卵に目を落とす。自分の歌声に交じって、何か聞こえた気がしたのだ。
希鳥の腕の中では、相変わらず卵がコツンコツン音を立てている。
しかしさっきのは、殻をつつくと言うよりは、ぱきっというか、ぴしっというか……。
慎重に卵を回してみて、希鳥は固まった。
卵に、一筋縦の線が入っている。どこからどう見てもヒビだ。
音と手の平に伝わる感触からして、中の雛はしきりにその個所をつついているらしい。
「……ティマフ! ティマフ!」
「ん?」
「あの……これ……」
おそるおそる、希鳥は卵のヒビをティマフの方へ向ける。
ティマフが盛大にジュースを吹いてむせた。
ティアも驚いて口に両手を当てる。
「も、もう孵化が始まったんですか!? 鳴き声もあまりしないしまだ先だったのでは!?」
ティマフと希鳥の両方を代弁するかのように、ティアが困惑して声を上げる。慌て過ぎて複数のボディで同時にしゃべったのか、廊下の向こうからもティアが騒ぐ声が聞こえた。
「ど、どどどうするのこれ、どうしたらいい?」
そうこうしているうちに卵の殻にはクモの巣のように少しずつヒビが増えていく。畳の上とはいえ、絶対に落とすまいと卵を抱え直す希鳥の耳に、こちらへ走ってくる足音が聞こえた。
最初にヴァルナーが部屋に入ってくる。
「ね、ねえどういうこと? もう孵るっtなにこれあっつうう!!!」
しかしすぐ廊下に引っ込んだ。変温動物かつ暑さに弱い彼に、この灼熱の部屋は酷らしい。
直後、ヴァルナーと入れ替わるようにエプロン姿のセルレアがしゃもじを片手に飛び込んでくる。
「てぃまっちゃん一体どういうこと!?」
「孵化が始まったんだよ! 新しいタオル持ってきて!」
「はいにゃ! たおるにゃ!」
「それはお前の綿だ、まぎらわしい!」
ティマフも調子を取り戻し、家の中が一気に騒がしくなる。
希鳥は渡されるがままにティアからタオルを受け取り、畳の上に敷いて卵を置いた。
「希鳥、ティアと代わって! 今じゃ暑すぎるから温度さげて」
「は、はい……!」
「わわわかった!」
「お、俺カルネア呼んでくるね!」
「ちゃんとかまどの火消した!? あとエプロンは外していってよ!」
ばたばたとセルレアが玄関へ文字通り飛んで行き、ヴァルナーがそのあとを追う。よほど慌てたのか、セルレアが加速に使った暴風が家中に吹き荒れ、ティアが二体とも悲鳴を上げた。
そして、申し訳程度にひらひらと部屋に舞い込むフリフリエプロン。
「しゃもじもったままいっちゃったにゃ」
「まったくもー……」
ぱたぱたと砂埃を払いながら、ヴァルナーとにゃーむが戻ってくる。
「事故とか起こさないよね?」
戻ってきた二人と卵を交互に見ながら、希鳥が心配そうに尋ねる。
「あー、まぁ、良くて空賊の縄張り争いしてるところを横切るくらいでしょ」
「カルネアにかんしてはレーダーそのものみたいなもんだから、ごうりゅうももんだいないにゃ」
「それって本当にだいじょぶなの……?」
あっけらかんとした二人と、さらに不安を募らせる希鳥をよそに、ティマフは覆いかぶさるようにして鉤爪で卵をつついていた。
その顔にさっきまでの余裕はなく、緊張で硬くなっている。
彼女の額から顎にかけて流れ落ちる汗も、部屋の暑さのせいだけではないのだろう。
未だ自分達は、手探りで進むしかないのだ。
「……だいじょぶ」
自分だけに聞こえるよう呟き、希鳥は気を引き締めた。
「なにを、したらいい? 俺達に何かできることはある?」
廊下からヴァルナーに聞かれ、ティマフは卵から顔を上げて考え込む。
「基本的に、私達は見てるだけでいいんだ……でももしかしたら殻を破れないってこともあるから……」
そこまで呟くと、ティマフは近くにいたにゃーむをビッと指差した。
「にゃーむ、念のため工具用意しといて」
「はいにゃ!」
にゃーむは小さな手で敬礼すると、踵を返して廊下を疾走した。
にゃーむが部屋を去ってすぐ、また卵が大きくパキッと音を立てる。
全員が、卵を見た。
わずかに開いた殻の隙間から、つやのある黒い鉤爪が見えた。さらに「ぴきー」という鳥の鳴き声も聞こえる。
「出てきた……!」
「まだ……もう少し……」
希鳥、ティマフ、ティアが身を乗り出す。
鉤爪はしきりに隙間をひっかき、少しずつ穴を広げていく。さらにもぞもぞ動いて殻を押し上げようとしているようだが、うまくいかないようだ。
が、しばらくすると卵が静かになってしまった。
「なんでだよ……」
様子を見守っていたティマフの顔から、さっと血の気が引いた。
「なんで動かなくなるんだよ……」
今にも泣きそうな顔で、ティマフが卵をつつく。しかし鳴き声すらしない。
「こうぐ、もってきたにゃ!」
ずりずりと工具箱を押して、にゃーむが部屋に戻ってきた。
お互い泣きそうな顔で、ティマフと希鳥が顔を見合せる。
「……わ、割って……みる?」
おそるおそる、希鳥が聞いた時だ。
ぴくっとティマフの長い耳が跳ねあがった。
家の外で、騒がしく怒鳴り合う声が聞こえる。その中に鳥獣特有の鳴き声がするのは、コカトリスとスレイか。
「帰ってきた!」
慌てて玄関の方へ走ろうとするヴァルナーに、ティアが叫ぶ。
「ダメです、こっちまで来ます!」
全員、その言葉がなにを意味するのかわかって一斉に動いた。
ヴァルナーはにゃーむを抱え、別の部屋へ。ティマフと希鳥はとっさに互いの両翼を広げて卵をかばう。
再び部屋の空気が強風でかき乱され、玄関から廊下へ一直線にカルネアが飛び込んでくる。
抵抗むなしく風に吹かれて転がっていったにゃーむはティアがキャッチした。
「るせー! わかったからもうちょっと落ち着くさよバカ兄貴!」
部屋に吹き荒れる風を風で相殺し、カルネアは器用に部屋の隅に降り立った。
「カルネア!」
「カルネア、卵が……卵が動かなくなって……!」
「んー?」
慌てふためくティマフや希鳥とは対照的に、カルネアはかがみこんで卵に耳を当てると卵を撫でるように軽く叩いた。
「あー、これ、休憩取ってるだけさから心配いらんさよ。むしろ騒がしくした方が雛もびっくりするさよ」
「よか……」
「なぜ俺達まで!」
「だってだってだってどうすればいいかわからなかったんだもん!」
「40歳過ぎてんだからしっかりしろよセルレアー!」
「てめーらはうるさいから外出てるさよ」
慣れた動作でセルレア、エーヴェルト、ストラスが部屋から蹴り出される。おそらく事情もよく知らないままに連れてこられただろう二人にしたらとんだ災難だ。
「お、俺も外で待ってるね!」
希鳥も慌てて部屋を飛び出す。あの部屋で、これ以上自分が何かできるとも思えなかった。それにわからないなりに手を出したところで、カルネア達の足を引っ張るだろうことは明白だった。
戸が閉められ、変身を解いた希鳥に、ストラスが喝を入れた。
「ったく、ぼさっとするな! んなことしてるくらいならお湯沸かせ!」
一瞬、希鳥は自分が何を言われたのか分からず、ポカンとなる。
廊下の中央まだ蹴り出されて転がったまま、ストラスが号令を出していた。
ただし卵に配慮しているのか、いつも騒いでいる時より声量は落としている。
「なにが出てくるかわかんねぇ卵だろ!? だったらなにが起きてもいいように準備しとけ!」
「私っ、私、沸かしてきます!」
希鳥の隣にいたティアの分体が、急いで風呂場へ向かう。慌てているせいで両手をバタバタさせながら行っているが、速度は全く変わらない。
エーヴェルトはまだおろおろしているセルレアをなだめている。
ストラスの号令は終わらない。
「
ナーム、お前湯加減見てやれ!」
「偉そうに命令すんなチービ!」
悪態をつきながらも、二頭身のぬいぐるみから亜人の青年に戻ったナームが足音もなく風呂場へ駆けていく。
途中、ティアに追いつき彼女を抱えあげて行った。
「ストラス……、すごいね」
「ばっ、ばっ、ばっ、ばばばバカ! それより救急箱あるなら持ってこい!」
くすっと希鳥は笑って、救急箱を探しに部屋を出る。
「あ、俺場所知ってるよ!」
その希鳥にヴァルナーも続く。彼もやはり笑っていた。
いつでもカルネアをサポートできるよう準備を整え、静かになった部屋の前で、希鳥達は固唾をのんで待っていた。
カルネアは大丈夫だと言った。ストラスもできる限りのことはしてくれた。それでも、希鳥の両手は自然と祈りの形に組まれる。
「……!」
同じく祈るように手を胸元で組んでいたティアの分体が、息をのんだ。
それを見て、その場にいた全員がティアへ視線を送る。彼女なら部屋にあるジェルボディを通じて、中の状況がわかるのだ。
皆沈黙を破るのがはばかられて誰も聞かないが、聞きたいことは同じだ。
「(孵ったのか……?)」
口の動きだけで問うエーヴェルトに、表情をほころばせたティアがはっきりと頷く。
一同に安堵のため息と、笑顔が広がる。
しかし、すぐにティアの目がびっくりしたように見開かれる。
「ティマフさま!?」
同時に部屋のドアが勢いよく開いて、転がるようにティマフが出てきた。
「ティマフ、どう……ティマフっ!?」
飛び出した勢いのままティマフに掴まれ、希鳥は言葉を遮られた。さらに彼女を見て言葉に詰まる。
ティマフは、希鳥が今までに見たことがないほどぼろぼろ涙を流して泣いていた。
「……ヴぇっ……っで、ぎだ…………デァ……が!」
ティマフは泣きながら希鳥を揺さぶって何か言っているが、まるで言葉になっていない。
「てぃまっちゃん!?」
「ティマフさま落ち着いてください……!」
「そ、そうだよティマフ落ち着いて!?」
もはや言うよりも早いと思ったのか、ぎょっとしたりなだめる皆をよそに、ティマフは希鳥の腕を掴んで部屋へ引っ張り込んだ。
ほとんど転びそうになったが、希鳥はどうにか耐えた。
「ティマフ、静かにするさよ」
ひそめた声で、カルネアがぴしゃりと言った。代わりに、泣きじゃくるティマフの頭をよしよしと撫でる。
もう片方の彼の腕の中では、ふわふわの羽毛のかたまりのような赤ん坊が静かに寝息を立てていた。
その羽毛と、背中に生える羽の色を見て、希鳥ははっとなった。
銀が混じった、青色。
ティマフともカルネアとも違う色だが、そこはセルレアが青髪であるから何ら不思議はない。
しかし、その子のこめかみに羽飾りらしきものが見えた辺りで、希鳥の視界は滲んでなにも見えなくなった。
「かえって……きたんだよ……」
少し落ち着いたのか、しゃっくり混じりでティマフが呟く。
「うん……」
相槌を打つ希鳥の声も、涙で詰まる。
「私……絶対……絶対、この子……幸せにっする……今度、は、……絶対」
「……俺も、手伝うよ」
「俺にも任せるさよ! あと兄貴はまだ呼んでないから入ってくんな!」
いつの間にか部屋に入ってきたセルレアが、「あぁん、ひどい!」とか言いながら再び部屋から蹴り出され、後ろにいたヴァルナーやにゃーむを巻き込んで悲鳴が上がる。
再び騒がしくなっていく中、すやすやと寝ている赤ん坊に、ティマフも希鳥も笑った。
最終更新:2012年10月21日 01:50