黒森峰に戻るつもりはないか、と、隊長は言った。
妹は、それを断る。
私はその言葉に安堵し、そして、同時に悲しみを覚えたのだ。
海沿いの道、波の音、松の街路樹、吹き付ける潮風、じりじりと容赦無く照り、体力を奪う日差し。
逸見エリカは、ふらふらと宛も無く彷徨う。
瞳に光は無くどこまでも虚ろで、度重なる嘔吐に頬は痩け、
足取りは鉄枷と十字架を引き摺り歩く罪人の様に重く、黒いタンクジャケットの胸元は半乾きの吐瀉物で黄白く汚れていた。
どろりとした脂汗が、彼女の頸を這う。いやに温い汗だった。
拭く事すら億劫だったのか、或いはそんな風に思う感情すら失ったのか、彼女は流れる汗を出任せにしていた。
ぐるぐる回る頭の中が、シェイクされた脳が、本能が、想いが、感情が。
全てが麻紐の如く縺れ澱んで白濁とした塩水になっていて、それが一歩アスファルトを踏みしめる毎に、全身の毛穴から出ていってしまっているようだった。
だからひとしきり汗を出しきってしまったら、きっと、その後には何も残らない。
何、一つ。
自尊心も、自意識も、自己の価値観も、何もかもが流れ出して。
嗚呼、そこには、誰かに何かを注がれるのを待つ空の杯が虚しく転がっているだけ。それだけなのだ。
核も、何も、ありはしない。
銀の杯の中には、宇宙の様に広く空虚で、海底の様に暗く淀み、叫び声も何も響かないくらいに、ただ、黒い無が在るだけだ。
空は高く、光は痛い。
何もかもすべて、陽の前に曝け出してしまいそうなくらいに。
影すら焼き付く強烈な日差しが、彼女の肌と内臓をじりじりと焦がす。
べったりと地に流れる浅黒いアスファルト道の先の景色をふと見ると、熱にゆらゆらと苦しみ、歪み暴れていた。陽炎だ。
同じだ、と思った。
彼女は唇を歪めようとしたが、出来なかった。
そんな覇気すら残っていない事に此処で漸く気付くのだから、笑えない。
熱い。痛い。嫌だ。
彼女は眉間に皺を寄せた。助けを求める様に、空を仰ぐ。
光から逃げる場所なんて何処にもないのだ、と太陽がこうこうと嘲笑っていた。
……だれか、誰か。
彼女は項垂れて、足を進める。自殺者の様に恨めしく、殺人鬼の様に生々しく。
誰でも良い、ああ、違う、誰でもよくない。でも、誰か。
隊長。たいちょう。おねがい。
お願いします。
蝋の翼を焼かれ、太陽から逃げ惑うイカロスの様に、逸見エリカは逃げ惑う。
地に堕ちぬよう、頭蓋を砕き真っ赤な飛沫を上げぬよう、重い足を、前に出す。
陽炎のずっとずっと向こう側、光の届かぬ闇の淵へ。
何処でも良い、逃げ果せるのだ、光の届かぬ処へ。何もかも見なくて済む、闇の底の底へ。
来た道も、進むべき道も歩かなくて済む、行き止まりへ。
半開きの口から、ぼそぼそと怪しい呪詛の様に言葉が漏れる。
半ば意味を成していない支離滅裂な罵詈雑言の様な何かに混ざって、彼女の敬愛する名が溢れた。
「まほ、たいちょう」
水に、打たれた。
深淵よりわんわんと反響しながら迫ってくるようなその音にはっとして、彼女は立ち止まる。
震える両手で、泥と汗に汚れた顔を覆った。膝が砕けて、松の尖った枯葉がまばらに散らばるアスファルトに崩れ込む。
白く伸びた爪を面に食い込ませ、指の隙間から血走った目が道を舐めた。
ちがう、ちがう、違う!
そうじゃない。そうじゃない、そうじゃ、ない。私は、そんなんじゃない!
隊長に逃げてどうする。行き止まって、立ち尽くして、それでどうする。闇の底に沈んで、それでどうする。
許して欲しいのか。抱いて欲しいのか。助けて欲しいのか。頭を撫でて欲しいのか。
それで、安心したいのか。私の戦車道の道を説いて欲しいのか。あの問の答えを教えて欲しいのか。
違うだろう、そうじゃない。今は、私しかいない。そうじゃないんだ。
だってお前は、死ぬことさえ出来なかったじゃないか。構って欲しいだけで、死ぬ勇気すら無かったじゃないか。
止まることさえ出来なかったじゃないか。惨めに逃げ出して、向き合う事すらしなかったじゃないか。
“もしも皆さんが私と、共に戦ってくれるなら……もしも皆さんが私に、力を貸してくれるのなら! 私は信じます。信じて待ちます!”
戦う事すら、出来なかったじゃないか。信じる事すら、しなかったじゃないか。
目を背け、悪態を吐いて、馬鹿にして。自分に出来ないから、だから逃げて。
その結果がこのザマだ。見ろ、逸見エリカ。無様過ぎて笑えやしない。
“だから私は、戦います! 殺し合いを否定して、みんなで脱出するために、断固たる決意で抵抗します!”
そうして出会った人間にすら、何一つ出来なかったじゃないか。
阿呆みたいにのろのろと武器を出したくせして、何も出来ずに立ち尽くしていただけじゃないか。
ゲームに乗って殺す勇気すら、お前にはありゃしない。認めていい頃だ、気付いているくせに、いつまでも逃げられるはずがない。
何もないんだ、お前には。
“貴女の戦車道は、なんでありますか?”
答える事すら、出来なかったじゃないか。
施しを受けて、情けをかけられて、逃げ出して。そうして、どうなった。
答えられなかったのは何故か判っていた筈だ。
考えるのが怖かったから、知るのが厭だったから、真実を理解したくなかったから。
だけどお前は知っていたはずだ、解っていたはずだ。先送りにしたかっただけだ。
目の前に答えはあったのに。そこにあるものを見ようともせずに、目を両手で塞いで見えぬと騒いでいた道化だ。
たかが大洗の平隊員にすらあるものを、自分が持っていないだなんて、恥ずかしくて言えるわけがない。
答えられる筈がなかった。考えたところで、胸を張って言える道理がなかった。
言えるわけがない――――――――――――――――――――――――――私の戦車道なんて、何処にも無かったんだ、なんて。
“時間がないんで、かまってほしいなら、別の人を探して欲しいっス”
お前は言い訳すら、出来なかったじゃないか。
そんなんじゃない、馬鹿にするな、たかが弱小アンツィオごときの副隊長が。私は誇りと歴史のある黒森峰の逸見エリカだ。
そう言ってやればよかったじゃないか。ああ、でも。
あ、あぁ、嗚呼、違う、そうじゃない。そうじゃない。そうじゃないそうじゃないって。
そんな子供みたいな感情しか持たずして、一体、お前は、
あれ? そもそも、そんな、弱くて、
情けない、人間を、
隊長が、
受け入れて、
くれる、
はず、
なんて、
何もかもが、そこで決壊した。
ぽろぽろと大粒の涙を溢れさせ、逸見エリカは駄々を捏ねる餓鬼の様に、空に向けて大口を開けてわんわんと泣く。
パキパキと、陽の光に劣化して剥がれ落ちるペンキの様に、彼女の心の外側の鎧が砕けていった。
理論武装も、今までの依代も、プライドも、全て。
何もかもがズタズタに引き裂かれ粉々に打ち砕かれ、裸になって曝け出されてゆく。
何時だって、何かを理由にしてきた。言い訳にしてきた。隠れ蓑にしてきた。
黒森峰、西住流、副隊長。肩書きと価値を恥と嘘で固めて、偽ってきた。
安いプライドとコンプレックスを含めて、それらを全部取ってしまえば、何てことはない。
残るのは、至極単純な哀れで汚い自己顕示欲の肉と脆い嫉妬心の塊。
そうして、気付いてしまった。最後に縋る隊長にすら受け入れて貰えないのだと。
あの方が私を想っているはずがない。解りきっていた事だった。
私の席に座っていたのは、私じゃなかったのだ。私は、座らされていただけだ。
副隊長は……。隊長が、望んでいたのそれは、ずっと、ずっと。一人だけ。
隊長が一緒に戦いたかったのは、隊長が想っていたのは―――。
「私じゃ、なかったって、知ってたのに」
汗と涙が心を削り、無機質なアスファルトへ沁みてゆく。
現実は彼女を保ってきた外装を容赦無く打ち砕き、その奥深く、本質へ、脆くか弱いタンパク質の塊へ、鋭い毒牙を剥いた。
「私は、何処へ、行けばいいの」
ゆっくりと立ち上がり、そのままエリカは立ち尽くす。答えがない。見つからない。答えてくれる人が居ない。
不意に、生臭い匂いがした。海を見る。浜に打ち上げられた魚が死んでいる。
テトラポッドに、フジツボがみつしりと張り付いている。波の音が無性に五月蝿くて舌を打つ。日差しが、暑い。
目の前を見た。道路がY字に別れている。彼女は誘われる様に、海沿いの道から森に続く道へ入ってゆく。
息を吐いた。震えている。足を前に出す。バランスが取れない。
目を擦った。涙は渇いている。額を拭う。汗が出ていない。全て、出し切ってしまった。
景色が歪み霞んでいる。焦点が合っていない。空を見た。色は褪せ、灰色が広がっている。
鼓動は酷く不規則だ。白く真っ直ぐな陽光が、針のように鋭く肌を刺す。暑い。耐え難い暑さだった。
暫く歩くと、大きな灰色の煙突が見えた。
鼠の肌の様にのっぺりとしたコンクリート色。
末広がりの円柱型の筒は青い空を貫いて、パッと見てもその異質さが分かった。
ふらふらと、擦り切れた身体をそこに引っ張られる様に、彼女は移動する。
控えめに言って、その姿は酷く見窄らしく哀れだった。
生きることに意味を無くし、死ぬことすら諦め。嗚呼、それは、なんて。
なんて―――無様。
そんな言葉が、何よりも似合う風貌だった。
坂を登りきると、そこは施設の入り口だった。
アルミ色のシャッターは半開きになっている。
それは単に閉め忘れと言うには少し中途半端で、中に誰かが居るのだという明確なメッセージだった。
エリカは焦燥した表情のまま、唾を飲む。
誰かと会いたいのは真実だったが、一方で誰にも会いたくないのもまた、真実だったからだ。
自己矛盾と葛藤を混ぜて煮詰めたシチューの中で、しかし彼女は止まることよりも進むことを選択する。
いずれにしても何かに縋りたい気持ちは変わらなかった、それ故に。それが死も構わない、そんなことすら思った。
歩きながら、長い煙突を、見上げる。煙一つ上がっていない。
視線を下げると、ぎらぎらと光るリン酸亜鉛メッキの外壁。雨と潮風に汚れた横ルーバーのアルミシャッター。
中は、深い影に隠れて見えない。ちらりと見えるコンクリートの床は酷く汚れている。
一歩。
シャッターの中へ、エリカは一歩、足を踏み入れた。
ひんやりと冷たい空気、鼻腔をつんとつく鉄と油の臭い、のっぺりとした薄気味悪い灰色のモルタル床。
暗く淀んで伸びた影、滞留する埃と風。人の気配はない。
切り取られた光。白と黒を真一門に区切るその境界線の上、何かが、視界に入る。
何の気なしにそれを見る。半秒で、顔が強張った。短く上がる悲鳴。跳ねる肩、ぐらつく視界。
―――人の、足だった。
血で濡れた青白い足が、闇の向こう側から、境界線を跨いでこちらに投げ出されている。まるで捨てられた人形の様に、ぽつりと。
がちがちと情けない音を上げる歯を半ば無理矢理噛み締め、エリカはその足の先を、見た。
倒れた少女を、夥しい血だまりを、穿たれた腹を、暗い影を。
そこにひっそりと死んだ様に座り、死体を膝に乗せる存在を。その女の横顔を。
状況を理解すると同時に、エリカの顔が見る見るうちに歪んでいく。
恐怖と困惑と寂しさと怒りをミキサーでぐちゃぐちゃに混ぜてパテに固めた様な、とても常人には形容出来ない表情だった。
「なんで」拳が震えていた。恐怖と怒りが混ざり合う。「なんで、貴女、なのよ」
喉を捻り潰す様に、吐き捨てる。此処まで来て、何故、お前なのだと。
なんで、なんで、なんで。
よりによって、どうして。
「に、し、ずみ、みほ」
――――――――どうしてお前が、此処に居る。
西住みほ。
「ぁ……赤、星……」
こちらの問いかけにぴくりとも反応しない彼女が抱くのは、黒森峰のチームメイト。
血を流し過ぎている。動揺したエリカでさえ一目でそれが判るくらいには、辺りは夥しい血の池だった。
確認するまでもなかった。みほの沈んだ顔を見れば、それくらい馬鹿でも判る。
彼女は、死んでいた。
「……貴女、が……こっ……ころ、殺したの…?」
エリカが青紫の唇を震わせて問う。みほは蹲ったまま答えない。
髪の毛一本動かさず、そこだけ時間が止まる魔法を掛けられたように、彼女は微動だにせず死体を見つめている。
「だ、黙ってたら、わ、わか……らないでしょ……」
死体の顔は、嘘のように安らかだった。
まるで眠りについて幸せな夢でも見ているかのようで、肩を揺らせば欠伸をしながら目を擦り起きそうだった。
それでも、死体は死体だ。それも仲間をこういった形で見てしまった事実は、少なからずエリカの心を深く抉った。
「あなたが、やったのかって訊いてんのよ……!!」
言葉が虚しく辺りに響く。血の海は波紋一つ立たない。明確な死が、明確な絶望と静寂が、その影の中にはぽつりと立ち尽くす様にあった。
白と黒の境界線の向こう側、深い影に座るみほを蔑むように睨み、しかしエリカは後退る。影から逃げるように、光に戻るように。
妙な話だった。あれだけ光を嫌っておいて、その境界を超えるのが、怖いだなんて。
「答えなさい」
深夜の砂嵐を映すテレビのように混沌としていた頭の中心に、赤い何かがぽたりと落ちる。得体の知れない感覚だった。
灰色を侵食するように、赤いインクがぞわりと広がる。ぱたぱたと心の中の何かが崩れていく。
呼吸がいやに落ち着いた。混線していた何かが一つに纏まっていく。
幾つもの線を赤いインクが濡らし、捻じり、一本に変えていく。
「答えなさいよ……」
リュックに差していた、銃を取り出す。今度はもたつかず上手く取り出せた。自己評価87点。
鼓動が五月蠅い。理由も解らない怒りと憎悪が腕を支配する。
「答えなさいよッ!!!!」
叫びながら、銃口を目の前の物言わぬ人形の頭に押し付ける。鉄と髪の毛が擦り合って、じゃり、と音を上げた。
みほはそれでもぴくりとも動かない。目は虚ろで、こちらを見ることもなく、影から出ようとすらしない。
スカートはすっかり血を吸って、白く絹のような太腿に張り付いている。シャツもすっかり乾いた血に黒く染まっている。
光を拒んで闇に逃げれば、自分もこうなっていたのだろう。肩を揺らしながら、エリカはトリガーに指を掛ける。
これが末路だ。これが底だ。一人では輝けない人間が落ちた先に待つ未来は、きっと、こんな程度のものなのだ。
「ねえ、どうして……どうして、私を無視するの……」
だけど、だけど、だけど。
どうして貴女なの。私じゃなくて、どうして。
分かってる。人は火砕流の中は進めない。戦車を無くした少女一人が絶望するには、死体が一つあれば十分だって。
「答えてよ……お願いだから……」
でも、だからって、なんで私が貴女に銃口を向けなきゃいけないの。どうして私の返事に答えてくれないの。
どうしてそんな顔をしてるの。どうして、こんなに、貴女が憎くて、憎くて……それでも、悲しいの。
「貴女まで、無視、しないで……私を見て……虐めないでよ……」
工場の中に、がしゃんと音が響く。
エリカの手から零れた銃は一度モルタル床を跳ねると、血溜まりに落ちて沈黙した。
空の盃には、何も満ちない。満たすものが無い。そこにあったのは、一人の死体と、一個の死体。
注ぐ意思など、誰の心にも疾うに無かった。
流す涙はすっかり乾いてしまった。エリカはかぶりを振りながら影に向かって少し歩いて、ゆっくりと膝をつく。
「……たすけてよ……」
消え入りそうな声で呟くと、エリカはみほの肩を寄せ、縋るように揺らした。
彼女の膝から死体がごとりと落ちる。綺麗な死に顔が血溜まりに落ち、その半分を赤く濡らした。
反応の無いみほの体を、影から引き摺り出す。死体を影に残したまま、彼女に肩を貸し、立ち上がった。
此処に居たら駄目だ。そう思った。自分も、彼女も。
ここで朽ちていくにはあまりに悲し過ぎると思った。或いは、危害の及ばぬ弱い存在が必要だったのかもしれない。
意思を失った自分を彼女が救うことは無いと解っていながらも、傷を舐め合うことができるから。
誰よりも戦車戦が強かった彼女がこうなってしまったことで、堕ちる免罪符ができるから。
彼女を守り世話をする役割ができるから。隊長に向ける顔と材料ができたから。
「―――――私が、殺しました」
だから、耳元に聞こえたその言葉に、エリカの頭は真っ白になった。
「は?」
エリカは思わず彼女の腕を解き、後退った。
みほは突然体を弾かれ一度ふらついたが、倒れることなく、地に足をつけて立っている。
ぽたり、と工場の中を雫が落ちる音が反響した。彼女のスカートの裾から、赤黒い血が滴っている。
エリカは半ば無意識に後退った。入り口に体を向け、光の境界を越して、逃げるように影に入る。
かしゃん。銃を踵が蹴り飛ばす。血を辺りに塗りたくるように、モルタルの床を回転しながら銃が滑って、やがて沈黙した。
先程とは構図は逆。入り口から漏れる光の中に立つみほは、しかし項垂れたまま顔を上げない。
「はっ」エリカは引きつった唇を上げ、吐息と一緒に笑みを零す。「はァ」
そしてそれは、やがて鬼の首を取ったような、醜悪な黒い嗤いに変わった。
「ぁ、は、はは、はッ……! はは、あははっ!」
一つになった赤い糸がばらばらと音を上げて解け乱れていく。
赤と灰色が混ざり混乱する頭の中、エリカはその瑕疵へ、真実か嘘かも分からぬそれへ刃をねじ込むように、腹を抱えて哄笑した。
そうして一通り嗤うと、息を大きく吸い、吐き捨てるように言葉を綴る。
「こ、この、このッ……殺人鬼!!! 虫も殺せない様な顔して……ッ!」
みほは唖然としたまま首をもたげている。
抑えていた苛立ちが、エリカの喉元からもげて堰を切った。
止まらない。止めることが出来ない。
再びぐちゃぐちゃになったその気持を、少女のちっぽけな体の中へ飲み込むことなど、出来はしない。
エリカは今にも泣き崩れそうな苦悶の表情を浮かべながら、しかし舌を濡らして口を開く。
「っていうか、貴女が人を? 殺す?? そんなワケないじゃない!
貴女みたいな人間に知り合いを殺せるワケない!! 私に出来なかったことよ!?
自分がやったんじゃないとか、言い訳くらいしてみなさいよ!
人を殺しといてそんな顔するワケないでしょ!!? なんでそんなに悲しそうなわけ!?」
二言目には、矛盾していた。
相手を罵倒したいのか、養護したいのか、その気持ちの整理すらつかないまま、エリカは全身から魂を絞り出すように叫ぶ。
何もかも出し切ってしまいたかった。鎧も何もかもが崩れ落ちて、流す涙も尽きた今だからこそ。
「何とか言いなさいよ、情けない!! ざまぁないわね西住みほ!!!
バッカじゃないの!? 全国大会の優勝校がこのザマぁ!? 戦車がなきゃ何にも出来ないの!!?」
生身の、等身大のからっぽな逸見エリカである内に、全部。
言いたいことも、言えなかったことも、言いたくないことも。
プライドも全部投げ捨てて、自分の汚い気持ちをぶつけてしまいたかった。
それが出来る時は今しかなく、それを受け止めてくれるであろう人間は、エリカの思う限り、屈辱ではあるが、まほではなく、みほだった。
「ムカつくのよ、被害者ぶって、塞ぎ込んで! まほ隊長ならそんな顔はしない!
ずっと前を見て突き進む! 逃げないし、ちっとも乱れなんてない! それが西住流だから!!
ねえ、分かってる!? 今の貴女、ただの西住流の面汚しよ!!!」
エリカは諸手を上げて中空に何かを叩きつけるように腕を振ると、唾を吐きながら叫び、みほを指差した。
みほはその口上に僅かに顔を上げる。
暗く虚ろなその瞳の中に、酷く取り乱した自分の哀れな表情が映るのを、エリカは見た。酷く無様な自分の姿に奥歯が軋む。
「そんなんじゃ優勝だってたまたまだったんじゃないの!? 運が良かっただけじゃないの!!?
……そうね、そうよ! あの時だってウスノロポンコツポルシェティーガーが通路を上手く塞いでなかったら!
私があと数十秒でも駆け付けるのが早かったら、貴女だって負けてたわ!!
なによ、さっきだって死体なんか後生大事に抱えちゃって! ねえ!? なによその顔!?
メンタル弱すぎなんじゃない!? よっぽど私なんかより情けない!
私は止まらなかった! 私は殺さなかった!! 私は折れなかった!!! 私のほうが上ね!!!!」
言い終わって、肩で息をしていた自分に気付く。不規則な荒い息遣いだけが工場の中の冷えきった空気を振動させていた。
エリカは唾を飲み、口を開く。此処で止めることはできない。まだ二割だ。あと八割を言い切るまでは、全部を伝えるまでは。
そうしなければ、自分は一生このままだ。その自覚がエリカにはあった。
自分はどう映っている? エリカは自問する。西住みほ、貴女の眼には、私はどう映っているの?
「情けない、本当に情けないわ! 貴女がっ、貴女なんかがいるから!! 隊長は! 私は……私はっ!」
足元に視線を下げる。血に染まった赤星小梅の体。同じ高校の、同じ部活のメンバー。けれどもその死を悲しんですらいない自分が居た。
散ってしまったチームメイトへの想いを捧げるよりも、目の前の腑抜けに洗いざらい全部吐き捨てることを選択した自分の愚かさと冷淡さに、吐き気すら覚える。
けれども、それが私だ。それが逸見エリカだ。自分の事しか考えず自己中心的、憎まれ口とプライドだけは誰にも負けない一人前。
私は、そんな最低の人間だ。
「なんとか言いなさいよ……悔しくないの? 昔から、いつも貴女はそうだったわね……私の挑発は無視して……。
何か言ってみなさいよ……言い訳でもなんでも……張り合ってみようとか、思わないワケ!?
言いなさいよ、自分の愚かさを棚に上げて言ってみなさいよ! ねえ!! 言ってみなさいって言ってるじゃない!!!」
エリカはみほを睨む。みほは真っ直ぐエリカを見ているが、口は開かない。
否、光を失った瞳は確かに前を見ていたが、きっとそれは彼女を見ていた訳ではないのだ。
きっと彼女の背後を、暗い影だけを見ていた。少し前の、エリカと同じように。
エリカは舌を打つ。何もかもを諦めたような馬鹿馬鹿しいその表情に、底知れぬ黒い怒りを覚えた。
「……なんで? どうして、何も言わないの……これじゃ、私がピエロじゃないの……!
ふざけないでよ……ふざけるなっ……ふざけるなッ!!!」
鼻息を荒らげ、つかつかと小走りでみほに駆け寄ると、エリカは彼女の胸ぐらを乱暴に掴んだ。
そのまま、彼女を直ぐ後ろのシャッター脇の鉄壁へ押し付ける。がしゃあん、と無機質な音が工場内を反響した。
「卑怯じゃないの!! 卑怯よ、西住みほ!! なんで、なんで貴女がそうなってるの!!?
私なんかのずっとずっと先に居て、私に無いもの全部持ってる貴方が!
どうして!!? 違うでしょ? そうじゃないでしょ!?
いつだって、逆境でもなんだろうが前を向いてる、それが西住でしょ? それが貴女でもあるでしょ!!?
大学選抜の時もそうだったじゃない! 私達が来るって知らなくても、前を向いてたじゃない!!
あの時の貴女は何処に行ったの!?
私は、私はねえ、ムカつくけど、そんな貴方になら協力してやっても良いって思ったのよ!!?
アレは隊長だけの気持ちじゃない!! それなのにっ……下向いてんじゃ、ないわよッ!!」
震える拳でみほの襟元をがしりと握り、彼女の体を力任せに揺らす。
項を垂れたみほの瞳には、彼女の顔は映らない。
水が沸騰するように、怒りがふつふつと小さな泡となり下から上がってくる。
「私を見なさいよ! いつもみたいに困った顔で!! また小言言ってるなって顔で!!
見なさいよ!!! いつもみたいに何があっても諦めない、ムカつく顔で!!」
エリカは犬歯を剥いて叫んだ。
腑抜けた目の前の顔を殴り飛ばすまではいかないものの、今にも噛み付きそうなほど、牙を剥く。
不思議と、それがいつもの彼女の冷静さを取り戻させた。彼女の爆発する怒りが、そのまま糧となる。
もやもやしていた気持ちを吐き出してぶつけることで、心に刺さった杭が抜けていくように感じた。
「挨拶一つ無く、居なくなった癖に……勝手に居なくなって、私に全部押し付けた癖に……。
そう、そうよ。貴女ばっかり、恵まれて……逃げた癖に、全部手に入れちゃって……どれだけ、私が惨めか。
私は、貴女じゃない……貴女みたいに出来た人間じゃない。……期待しないで……皆、やめてよ……。
そんな目で見ないで……そんな立派じゃないから……期待に応えられるほど、実力もないから……。
……私……私は、西住の人間じゃない……私は逸見……逸見エリカよ……」
みほの襟元に入る力が抜ける。
エリカはだらりと行き場を失った握り拳を下ろすと、みほの胸に頭をこつんと預けた。
出しきった筈の涙が一筋、目尻から零れ落ちる。それがエリカの本音で、全てだった。
「私は、貴方でも隊長でもない……不器用なのは分かってるわ……他人に優しく接するなんて、絶対に出来ない……。
強さなんかない……頭だって、よくない。友達だって、碌に居ないわよ……。
……なのに、どうして貴女がそうなるの……。私より先に。隊長が想う貴女が、私より強い貴女が。
惨めじゃない。貴女に劣る私が、貴女をこんな風に見下ろすだなんて。
貴女がこんななのに、貴女に及ばないことを自覚する私が、よっぽど惨めじゃない……」
嗚咽を上げながら、エリカはみほの胸を力無く叩いた。ぼすん、と情けない音が上がる。
「ねえ……」エリカは顔を上げないまま、ぽつりとか細い声で呟いた。
「貴女、黒森峰を出て行ったその後のこと、考えた事ある? 私がどんな気持ちで副隊長になってたか。
貴女は都合よくまた他校で戦車道初めて。あのカフェで貴女達を見つけた私の気持ち、考えた事ある?
尻尾を巻いて、全部私に押し付けて逃げたくせに。戦車道を投げ出して、全部諦めて辞めた癖に」
血塗れたタンクジャケットに、爪を立てる。悔しさも、怒りも、悲しみも、全部をそこに込めて。
「私はね? それに追いつくために一年ずっと必死に頑張ってきたのよ? 貴女の代わりになれるようにって。
ずっと、ずっと一年それだけを考えて生きてきた。頑張ったのよ、本当に……誰も、褒めてはくれなかったけど。
なのに、どうして。どうして貴女、また戦車道なんか初めて……しかも、あんなに楽しそうに」
涙が、みほの胸に吸い込まれていく。
世界には二人しか居ないんじゃないかと錯覚するほど辺りは静かで、彼女の吐露と嗚咽だけが、小さく工場の中を揺らしていた。
エリカの望む相槌も、頭を撫でる感触もなかったが、彼女にとってはそれで十分だった。
「許せないわよ。許せる筈がないわ。都合が良すぎるとは思わない?
どれだけ頑張っても貴女の陰にさえ追いつけない私を、惨めだって笑ってたの?
挙句の果てに自分の戦車道を見つけたですって? 西住の貴方が?
……あの選抜戦の時も、私、プラウダの隊長を担ぎながらモニタで見てたわよ。
どうせ貴女、黒森峰に戻らないかって、隊長に言われてたんでしょう? ……わかるわよ、それくらい。馬鹿にしないで。
そうなんだろうって気付いた私の気持ち、考えたことある? どれだけ……どれだけ、嫉妬に塗れていたか。
帰ってきた隊長の顔、少しだけ複雑だったわ。貴女が多分断ったんだろうって気付いた。
それでほっとした私の惨めさと汚さが解る? でもそれで隊長の笑顔が見れるなら、って考えた私の気持ち、解る?
私よりよっぽど優秀なくせに。私より友達も居るくせに。私より作戦だって良いくせに。人望もあるくせに。
卑怯よ、ホント……このまま心を閉ざして適当に殺されるか自殺して、勝ち逃げするつもり?」
この一年、ずっとずっと腹の底に溜まっていた鉛色に淀んだ気持ち。
下らないプライドと、薄汚い虚栄心と、薄っぺらい対抗心。彼女の隊長には絶対に言えないことだった。
逸見エリカが黒森峰の副隊長で、来年の隊長である以上は、誰にも言ってはいけないと思っていた。
こんなに自分は弱くて、脆い。それを誰かに知られることは、あってはならないことだった。
「それでも、答えてくれないのね……解ったわ」
もたげた頭を上げると、エリカは呼吸をするように自然にみほの細く華奢な首に手をかけた。
みほは抵抗しない。このまま締め上げれば、楽に殺せるだろう。
こんな汚い気持を知られてしまった相手だ、そうしてしまえれば、どれだけ単純か。
だから、どうせなら自分の手でと覚悟を決めるように、震える唇で言うのだ。
「こんな風になってしまうなら、貴女が代わりに、死ねばよかったのに」
何よりも残酷なその言葉は、言ってはいけない科白だと、知っていたのに。
そのまま白く綺麗な首筋に指を絡め、思い切り下へ下へと押しつける。
ばさりと赤みがかった茶髪が、波を打って広がった。工場の入口からの光を反射して、広がった髪に天使の輪が流れる。
差し込む光を浴びて、工場内の埃がゆったりと中空で輝いている。少しだけ、肌寒い。
「一年前のあの時もそうよ、貴女が沈めばよかった。その子の代わりに、貴女が。
そうすれば私が二番になる必要もなかった」
思ってもいないことを勝手に喋る口の中は、ひりひりと乾いていた。
事を終えたら水を飲もう。そう思った。
「こんなに苦しむ必要もなかった」
それからはどうしよう、殺人鬼に行く場所など何処にもない。
隊長には……多分、もう合わせる顔がない。
「私はずっと三番のままだった!」
自分で死ぬ勇気もないし、どうしたものだろう。
ああ、そうか。だから、西住みほは死体と一緒に座っていたのか。
何処にも行く所なんて無いから、宛も無いから。だから誰かにこうして貰うのを待っていたのか。
「貴女は黒森峰を辞める事もなかった!!」
皮肉なものもあったものだ、と指に力を込めながら憎まれ口を叩く。皮膚と肉に爪が食い込み、青い血管が首筋に浮かび上がった。
誰かに助けて欲しくて彷徨って、光から逃げたくて遁走して、その末路がこれなのか。
今に絶望した西住みほを助けようと拙い口で気持ちを吐いて、それも通じずこうして最悪の結果で救うことしか選択できなかった。
「こんな貴女を見て堪らなく惨めになる事も、なかった!!!」
―――――――――――“救う”? 誰を? 誰が?
叫びながら、ふと、疑問が走る。胸中に何かが引っかかり、生まれる困惑。
ぎりぎりと首を締め付けた指が、思わず緩んだ。目の前の口から白いあぶくが漏れて、指先に這っている。
自分の手に、彼女の指が添えられている。拒否をするでもなく、何かを肯定し、添えるように。
ひゅう、と苦しそうに空気を求める喘ぎ声。ゆっくりと、目線を上げる。
ばたばたと忙しなく動く目玉が、こちらを優しく見ていた。
泣いていたんです。
苦しそうに、しわくちゃな顔で、泣いていたんです。嗚咽を零し、鼻水を垂らし、泣いていたんです。
首を締められながら、薄れる意識の中、それだけは、確りと解りました。
そんな悲しそうな表情で首を締めるその人は……逸見さんは、本当に、本当に辛そうで、私の目頭まで思わず熱くなりました。
ねえ、逸見さん。私は、ちっとも強くなんかありません。誇れるようなものじゃないんです。
黒森峰から逃げました。戦車道から逃げました。お母さんから逃げました。お姉ちゃんから逃げました。
転がり込んだ先で、たまたま、本当にたまたま、出会いがあっただけなんです。
でも、知りませんでした。逸見さんの気持ち。私ってほんと鈍感だから。
そりゃあそうですよね。私なんかが戦車道初めて楽しそうにしてたら、黒森峰の皆は怒りますよね。
そんな事にも気付けないなんて、ああ、ほんとダメダメだなあ、私。ごめんなさい。
そうそう、此処では、ケイさんに会ったんです。私に戦車道の楽しさを教えてくれた人です。
でも、ケイさんは、殲滅戦に乗るって言って。動揺してたら、赤星さんまで。
結果的に私は二人とも守れなくて、二人とも失いました。えへへ、ほんと……馬鹿みたい。
戦車戦で強くても、なんの意味もなかった。私の戦車道って何だったんだろう。何の意味があったんだろう。
誰も犠牲にしたくない。そんなの、叶わない夢ですよね。
みんなで笑って勝つ。楽しく戦って、協力して、そんな想い出は、もう作れないですよね。
全部、逸見さんの言う通りです。
私が死ねばよかった。
ごめんなさい、逸見さん。
ごめんなさい、お姉ちゃん。
ごめんなさい、みんな。
さようなら。
「……馬鹿ね、本当に」
衝撃が走った。
景色が白く吹き飛び、視界に灰色の線が走る。
三度、体が回転して、沈黙する。頬がじんじんと痛む。擦れた膝が痛い。
よろよろと体を起こして、あまりの激痛に体をくの字に折って頬を抑えた。
小さく咳をする。酸欠で頭が痛い。ふと唾を飲む。口の中に鉄の味が広がっている。
舌の上に小さな欠片。歯が折れていた。自分の顔面が殴られたのだと、みほはここで漸く理解する。
「本当に壊れた人間が! 死にたい人間が!!」
怒号が頭上から聞こえた。
みほが慌てて見上げると、薄栗色の髪の毛を逆立てて、鬼の形相の逸見エリカが仁王立ちしている。
「そんな風に優しく泣くわけがないでしょ!!!」
涙を流しながら、エリカはみほの髪を引っ張ると、床に転がして馬乗りになった。
すっかり腫れ上がったみほの頬を、生温い雫が這う。
みほは泣いていた。自分の首を絞めるエリカを見て、泣いていた。
その後のエリカの事を想って、姉の事を想って、みんなの事を想って。
「そんな目の貴女を殺しても!」
間違いが、一つだけ。
壊れた人間に徹するのであれば、西住みほは最初からその優しさも捨てるべきだった。
彼女は西住流を継ぐには優し過ぎ、そして誰かに嘘を付けるほど器用でも、冷酷でも、なかったのだ。
故に死にきれない。故に悪役に徹する事もできない。
サンダースの隊長にそうして敗北を喫してしまった様に、彼女の優しさは、とことんこの殲滅戦には向いていなかった。
「そんな貴女に勝っても!! なんの!! なんの意味もないじゃないの!!」
エリカは彼女のマウントポジションを取ると、ぽかぽかと彼女の胸を叩く。
精神も肉体も摩耗しきった彼女の力は、名門黒森峰の副隊長としてはあまりに非力で。
しかし同様に、みほにもそんな彼女を払い除ける様な体力は残っていなかった。
殺意も、なにも、ありはしない。下手な嘘で塗り固められた、世界一非力で稚拙なキャットファイトだった。
「強さも! 友達も!! 想い出も!!! 何もかも手に入れておいて!!!
私から3番手も奪っておいて!!! 隊長から優勝も奪っておいて!!!!!」
嗄れた声で黄色く喚き散らしながら、エリカはかたかたと震える拳を精一杯振り上げる。
覚悟に嘘を吐かれたことが、嫌だった。気持ちを吐露して、それを全部聞かれていたことが、嫌だった。
そんな瞳を、涙を、こんなに汚い自分にまで向けてくれる優しさが、たまらなく、嫌だった。
「――――――――――――――――――――――勝負する権利すら奪うのかッ!!! 西住みほ!!!!」
最後の拳を、歯を食い縛って渾身の力で振り下ろす。
みほの腫れていない方の頬をふらふらの拳で殴ると、エリカは肩で息をしながら、電源の切れた機械のように沈黙した。
今度こそ、“出し切った”のだ。
エリカの瞳から溢れ落ちた最後の雫をその頬で受け止めると、みほは眉を下げた。
何かを言おうとして、しかし中途半端に開いた口を閉じる。殺人鬼になるように仕向けた彼女に掛けるべき言葉など、見つかるはずがなかった。
顔を顰めているのは、痛みのせいだけではないと、それを見るエリカもまた、知っていた。
塞ぎこんだ彼女の身に何が起きたのかは知らない。
赤星小梅の事を、みほが本当に殺したのかどうかも解らない。
でも、だけれど、それでも西住みほは、優しいのだ。
どれだけ絶望しても、どれだけ嘘をつこうとも、それでも、優しさだけは変わらない。捨てていない。捨てられない。
だから、エリカは信じた。彼女が優しさを捨てていないのであれば、彼女の戦車道もまだ、生きているはずだと。
「っ、は……痛いよ、逸見さん……人に殴られたの、初めてだなぁ……手加減くらい、してよ……」
一分か、或いは数分か。いたく居心地の悪い沈黙の後、先に口を開いたのは、みほだった。
口元の血を拭い、みほは困ったように力無く笑う。その瞳には僅かに光が戻っている。
「私の方が、色々痛いわよ……」エリカは握り拳とみほの頬を見比べる。「それに、貴女の好きなクマだって、毎回殴られてるじゃないの」
ボコとかいう可愛くないヤツ、と付け加えると、エリカは静かに立ち上がる。
みほは鳩が豆鉄砲を食らったような表情のまま、地面に大の字で寝ていたが、直ぐに何かに弾かれたように上半身を起こした。
エリカは思わず目を丸くして口を間抜けに開ける。一体その豹変ぶりは何事だというのかと。
「あ。そっか。……そうだよね、そうだったんだ」
みほは納得する様に激しく何度か頷くと、ぎゅっと胸の前で何かを確かめる様に両手を絡ませ、体を抱く様に背を丸める。
エリカは小首を傾げた。みほは肩を揺らして小さく笑う。
「ボコは毎回、こんな気持ちだったんだ……」
エリカが呟いたそれは彼女にとって予期せぬ答えで、同時に偶然にも、闇に沈んだか弱い精神を復活させる呪文だった。
「逸見さん」みほが顔を上げて、少しだけぎこちなく笑う。「ありがとう」
「ん、なッ」エリカは予期せぬ感謝に面を食らった様に後退った。「な、何よそれ!! なんでお礼なんか言うワケぇ!?」
みほは眉を下げて笑う。
そしてゆっくりと立ち上がると胸の前で指を組み、口を開いた。
「ボコはね、立ち上がるんだよ。絶対勝てないし、毎回怪我するのに、絶対にふさぎ込まないの。諦めないんだよ。
ボコはどんだけ殴られても、どれだけ沢山敵が居ても、いつも諦めなかった」
エリカは訝しげに眉を顰める。彼女のそれは到底理解の及ばぬ領域で、しかし呆れるくらいに簡単な理屈だった。
“ボコは諦めない”。
ただ、それだけ。たったそれだけの魔法の言葉が、彼女の瞳に光を灯す。
それで十分だった。自分の状況とボコを重ね、彼女が立ち上がる為の声援の幻聴を得るには、全くもって事足りていたのだ。
「だから、私も諦めない。私は、皆と―――また、戦車で走りたいんです。赤星さんの分も、沢山」
皆は、全員とは違う。だから本当はもう叶わない夢なのかもしれないのだけれど。
けれど、どんな逆境も乗り越え、仲間と共に進んできたのが西住みほだ。
本来の西住流の戦い方とは少しだけ違うのだけれど、それが、彼女なりの西住流だった。
「そうね、その諦めの悪さが貴女よ」
呆れた様に肩を竦めると、エリカは呟いて外を見る。
日差しは相も変わらず強い。空を見上げると、清々しい青が広がっていた。
灰色の空など、そこにはもう、影も形も残っていない。
「逸……ううん、エリカさん」
みほが声を上げて、エリカを呼ぶ。それは一年越しの、かつての友人への呼び掛け。
エリカはその呼び方にはっとして、思わず振り向く。薄栗色の毛がふわりと弧を描いた。
「あのっ。もし、ですよ?
もし、嫌じゃなかったら……その、私と……もう一回、戦車道、やりませんか?」
気恥ずかしそうにこちらを上目遣いで見るみほに、思わずエリカは吹き出して、腹を抱えて笑った。
心底楽しそうな、年相応の少女の笑みだった。
「なによぉ、ソレ……おっかしい。戦車なんて、どこにも無いじゃない。
それに、ついさっき自分を殴った相手に言う台詞?」
「へへ……うん。そうでした。変ですよね」
もじもじと内股になり、心底居心地が悪そうに口をまごつかせるみほへ、エリカは深い溜息を吐く。
悩みなど、拳を振りぬいた瞬間に、とっくにどこか遠くへ吹き飛んでしまった。
「……勝手に戦車道を辞めて居なくなった貴女に言われたら、私もおしまいね」
エリカは口元を隠しながらくすりと笑うと、もう一度、肩を竦める。
言いたいことも、言ってほしいことも、言いたくないことも、全部ぶちまけた。
スッキリと風通しの良くなった心に、朝の清々しい潮風が吹き抜ける。
嗚呼、こんなゲームの舞台でも、優しさは、誰かを救って誰かを笑わせる力がある。
なればこそ、彼女の戦車道は、決して、悪ではないのだ。
【G-3・工場/一日目・午前】
【逸見エリカ@フリー】
[状態]混乱(小) 勇気+ 背に火傷 精神疲労(中) 頬から首筋にかけて傷
[装備]パンツァージャケット 64式7.62mm小銃(装弾数:13/20発 予備弾倉×1パック【20発】) M1918 Mark1トレンチナイフ(ブーツに鞘ごと装着している)
[道具]基本支給品一式 不明支給品(その他)
[思考・状況]
基本行動方針:……それでもやっぱり、隊長のところへ行きたい
1:西住みほとチームを組む
2:赤星を弔ってやろう
3:死にたくない。殺したくない。戦いたくない。
【西住みほ @フリー】
[状態]混乱(小) 勇気+ 顔面の腫れ 奥歯が1本折れている
[装備]パンツァージャケット スタームルガーMkⅠ(装弾数10/10、予備弾丸【20発】) 九五式軍刀 M34白燐弾×2
[道具]基本支給品一式(乾パン入りの缶1つ消費) S&W M36の予備弾丸15発 彫刻刀セット(三角刀抜き)不明支給品(その他)
[思考・状況]
基本行動方針:みんなともう一度、笑いながら戦車道をする
1:エリカさんとチームを組む
2:赤星さんの埋葬をして、作戦会議後、都心部へ慎重に移動
3:ケイさんを止める。絶対に
4:可能な限り犠牲を出さない方法を考える
[装備説明]
第一次世界大戦にアメリカにてよく使用されていたナイフ。鞘付きだがナックルダスター式のグリップで、鞘に収めづらい。
またナックルダスター式グリップがある故に戦闘時の構え方に応用性が低い。刃は薄く、軽量で女性でも簡単に振り回せるが折れやすい。
ピーキーなナイフで、ナックルダスターをどう運用するかが鍵となる。刃が折れてもナックルを使って物理で殴るには十分有効だ。
登場順
最終更新:2016年09月06日 01:22