The first malformation of "T" ◆Ok1sMSayUQ
「ふんふん。そうかえ、マホちゃんはええ男おるんだねぇ」
「ええ、まあ……でも、ちょっと、その、なんていうか……」
「あー、わかるわぁ。男ってこう、どうしようもなくあちきらの事分かってくれんときがあるからねぇ」
「そうなんですよ! ちょっとはこう、雰囲気というかムードというか……あんまり分かってくれなくて!」
「うんうん、あちきも全然振り向いてくれんのえ……果てしなく鈍いというか、女心を砕いてくれるというか」
「カムチャタールさん、苦労してるんですね……」
「そっちもそっちで何かと悩みは尽きないんだねぇ。男女の仲に悩むのはどこの乙女も同じなんやねぇ……」
うんうんと頷くカムチャタールは、葉月真帆がこの島で出会った初めての参加者であり、また理解者であった。
姿こそ中華風の衣装に化粧を施し、髪を団子に結って妖艶に仕立てた大人の女であったが、
その中身は殆ど自分と変わらない、恋路に悩む女性のものだった。
だから話はすぐに合った。最近関係が上手くいっていない霜村功とのことを気軽に話せたのも、殆ど同じである一方、
人生の場数を踏み、それなりの経験を持った言葉をカムチャタールが返してくれるからでもあった。
有り体に言ってしまえば、頼れるお姉さんという存在だったのだ。
「ま、でも、しょうがないねぇ。惚れちゃったんだから、さ」
「……そうですね」
だから、口元を苦笑の形にして言った『惚れた』という言葉にも素直に同意することができた。
功に抱く感情は、そんな額面通りの一言で表すことはできない。
しかしカムチャタールの言葉には、真帆が抱くものを内包し、言葉の裏で表してくれている感覚があった。
その上で惚れたと表現するのなら、そうなのだろう。
「それで、そのシモムラって男と、会いたいかえ?」
雰囲気はそのままに、カムチャタールは自然に踏み込んできた。
ここに放り出されて少し。今まで答えを保留にしてきたその問いは、ひどく簡単なものになっていた。
「はい。なんだかんだ言っても……あたしの彼氏なんで」
男としての視点。自分を『葉月真帆』ではなく『女』としてでしか見ていない。
そんな疑いを持ったまま会っていいのかという迷いは、既に払拭されていた。
この人がいれば、どんな問題に直面しても親身になって考えてくれるだろうという確信があったからだった。
虫がいいといえば、そうなのかもしれない。
だが恋愛も、男女での見解の相違に悩むのも初めてだった真帆には、一人で対処できる自信もなかった。
そんな真帆にとって、カムチャタールの存在はありがたかったのだ。
「マホちゃん、羨ましいわあ」
「へっ?」
唐突に発された言葉。穏やかな視線とは裏腹に、意気地なさげに自らの体を抱きかかえたカムチャタールは自虐的に見えた。
悩みを持っていることのどこが羨ましいのだろう。
真意を図りかね、口を詰まらせたままに真帆に、「あちきは、まだどうしても会いたいと考えられんのぇ」と続けられたカムチャタールの声で、
ようやく意味を理解することができた。
そこまで会いたいわけじゃないし、確率的に低いことも知っている。でも、だからこそ望みを持っていいと思っただけのことだった。
こんなところじゃ、不安を持たないようにするだけで精一杯なのだから。
「あちきは正直怖い。『守っておくれ』とバカ正直に言えん頭になってしまってね」
数々の経験を積んできた一方で、世の中の芥を知り、人の言葉の裏を読むことに慣れてしまった人間の顔だった。
心を伝えたところで、相手からも同様の台詞が返ってくるとは限らない。
曖昧に濁し、綺麗な言葉で飾り立てて、真実の言葉を伝えようとしない。
それは薄々、真帆が功に対して感じていることでもあった。
「そんなことないですよ」
だから、真帆は励ますことに決めた。無知で、まだ何も知らないからこそ言える言葉だってあるかもしれないと考えたからだった。
まだ大人になりきれない自分だからこそ、今のうちにやらなければならないことだった。
だって、心がすれ違ったままでいいなんて、あっていいはずがないのだから……
「カムチャタールさん、美人だし、スタイルいいし、お洒落じゃないですか。振り向いてくれないはずないですって」
「そ、そうかえ?」
「そうですよ! っていうかカムチャタールさんフるような男なんてぶっ飛ばしちゃえばいいんですよ!」
こう、すぱーんって! そう付け加え、ラクロスのラケットを振る仕草をした真帆に、うるうるとカムチャタールが目頭を熱くしていた。
想像外の反応だと驚く前に、ガバッと抱きつかれた。
仄かに漂う香水の匂いに、あ、大人だなあと変な感想を抱きつつ、涙ぐんだままの声が真帆の耳元で囁かれた。
「うっうっ……マホちゃんはええ子やぇ……あーんもう可愛ええわあ。妹にしたいわあ」
「そ、そこまで感動しなくても……」
どうしたものかと半分困った気持ちでいると、不意に草木を踏み鳴らす音が聞こえた。
人の気配だった。いつの間に近づかれたのか、それとも偶然なのか。
きょろきょろするだけの真帆に先んじて、既に意識を切り替えたカムチャタールが「誰ですえ」と発していた。
先程の涙の気配もない、凛とした声。まるで王様みたいだと感想を結ぶ間に、体は離れていた。
既に手にはチェーンを握り、ぶら下げている。
それは真帆に支給された、公園でブランコを吊り下げるのによく使われる鎖だった。
いつの間にと思う真帆に、「堪忍しておくれ。ちょっと借りますえ」とカムチャタールが笑っていた。
手触りを確かめ、ひゅんひゅんと鎖を回し続ける姿は、場数を踏んだ大人だった。
「おやおや、そんなに警戒されては……困ります」
木の陰からにこやかな笑顔と共に姿を現したのは長身の体躯を持つ男だった。
黄色人種の肌色ではあるものの、西洋の人間といっても差し支えないほど身長は高い。
そのお陰でひょろ長い印象があったものの、シャツから覗かせる二の腕の太さは尋常のものではない。
鍛え上げ、洗練され尽くした、丸太のような腕である。
スポーツ選手といっても過言ではなさそうな男は、切れ長の瞳をこちらへと向ける。
その瞬間、カムチャタールが露骨に眉をひそめた。一体何を見たというのだろうか。
確かに、一見して警戒心は抱いたものの、それも僅かな間だけだった。
口元を緩めてさえいる男の様子に不審なところはないというのに。
一方、多少なりとも理解しているからこそ、カムチャタールの行為を無下に扱うわけにもいかなかった。
何かを感じているのは確からしいことなのだから。
「あんた、あちきらをつけ回して、なんの用かえ? こそこそした男は好かんのえ」
「失敬。ですが、様子を窺うという行為自体は正しいものでしょう。この島においてはね」
身振り手振りを交え、いきなり接触しなかったのは危険人物か確かめたかったこと、
安全だと考えたからこそ気配を見せたこと、そして敵意がないことを伝えてくる。
流暢で分かりやすい説明は真帆でも容易に理解でき、落ち着いた大人だという印象を与えたものの、
カムチャタールにとっては逆効果のようだった。
「やけに落ち着いてますなあ。今まで、たった一人でしたのに」
冷静すぎる、という指摘だった。
慎重になるのはよくあることだが、それにしても考えられた行動すぎやしないか。
それが彼女の反論だった。言われてみればという思いで、真帆も口を真一文字に結んでいる男を見やる。
あんまりにもなカムチャタールの警戒ぶりに腹を立てている、というようには見えた。
「失礼ながら、私は独り身でしてね。そのうえ世界中を研究のために巡っているものだから……」
「あーもう、回りくどいのは好かん! はっきり言いやす、あんた、獣の匂いがする」
「……」
「あちしはそれなりに男を見てきたかいなぁ、その筋の悪い男ってのは分かりやす。
悪い男いうのは、いつもあんたのようなギラついた目ぇしてるのや。気付かんのかえ。
獲物を見つけて、笑いが収まらん、そんな顔ですえ」
そうして、真帆の前に立つように進み出た。
カムチャタールの言ったことは、本当なのか?
問い質せる空気ではなく、男の言葉を待つしかなかったが――沈黙は、すぐに破られた。
「……勘のいい女は嫌いだよ」
唸り声のような、一際トーンを下げた声色だった。
ゾクリ、とした怖気を感じた瞬間、ばね仕掛けのような素早さで男が駆け出していた。
「っ!」
予想外の行動の早さだったのだろう。咄嗟にチェーンを振り回したカムチャタールだったが、盾のように掲げられたデイパックによって阻まれてしまう。
マホちゃん、逃げ! 鋭い声が突き抜けたと同時、ナイフを構えていた男が斬りかかってくる。
チェーンを真っ直ぐに伸ばし、鎖で受け止める。火花が散り、カチカチと金属音のハーモニーを奏でる。
見た目に違わず、男は豪腕だった。苦しそうに歯を食いしばるカムチャタールに対して、男は喜色さえ浮かべていた。
獣と表現するに相応しい、凶暴な笑顔だった。
慌てて距離をとった真帆をちらりと見てから、遠慮する必要のなくなったカムチャタールが男を蹴り飛ばす。
腹部を蹴り飛ばされ、数歩後退したはずの男は、しかしケロリとした表情だった。
「準備運動は万全かな?」
「女だからって、甘く見たらあかんですえ?」
「結構。では殺し合いといこうか!」
男が再び仕掛ける。
でかい体躯に似合わない素早い動きは、まるで豹かチーターである。
腰を落とし、チェーンに当たりにくい姿勢で迫る男は戦い慣れている。
しかしカムチャタールも手馴れたものだった。
チェーンをなるたけ長く持ち、鞭のようにしならせ、横薙ぎに振るう。
遠心力によって力を得た鉄の塊が男に迫る。
流石にナイフなどで受け止めるのは無理だと判断したらしく、跳躍して薙ぎ払われたチェーンを回避する。
すさかず追撃にかかる。一歩踏み込み、一回転してダンスを舞うようにしながら再度チェーンを振るう。
「うおっ!」
今度は余裕綽々の回避とはいかず、上体を反らしての回避だった。
バランスを崩したところに、回転による力を得た回し蹴りが顔面に炸裂した。
「ちいっ!」
そう叫んだのはお互いにだった。浅く入った蹴りは決定打とはならず、しかし男にとってはダメージであるがゆえの両者の舌打ちだった。
だが間髪をおかず、カムチャタールが仕掛ける。一度掴んだ勢いを手放さまいとする雰囲気だった。
チェーンをしならせ、1mとない至近距離から首筋目掛けて打ち据える。
バックステップされ、回避される。だがそれこそが狙いだった。
ふっと不敵に笑う。勢いを掴んだと確信している。
一度後手に回ってしまえば、防戦一方になると知り抜いた女の顔だった。
そう、戦力が互角なら、勢いを味方につけたほうが勝つ。
次々と鎖の鞭を殺到させるカムチャタールに対して、男は反撃どころか近づくことすらできない。
一歩、また一歩。徐々に後ろに追い立てられてゆく。
強い。内面だけでなく、肉体も。
あの獣そのもののような男を相手に、互角以上に戦っている。
武器の差はあるのかもしれない。傍目にも扱いなれているように見える鞭と、リーチの短いナイフ。
しかしそれを差し引いても的確に状況に対応してみせる柔軟さと、機を見る敏さは真帆にも分かる。
真帆自身ラクロスというスポーツをやっているから分かる。この人は、一流だ。
勝てる――そう確信した真帆の視線の先では、男がいよいよ木の幹を背にする形で追い詰められていた。
そのうえカムチャタールはあくまで自分有利の距離を保ち、反撃のチャンスさえ匂わせていない。
もう反抗する術は残っていない。自分達を殺そうとしていた男は、思わぬ反撃によって敗北する――
そのシナリオ通りにチェーンを振るったカムチャタールの一撃を、
「確かに、お前は強いようだ」
苦し紛れの防御。腕で受け止めようとするが、止められるはずはない。
高速の鉄の鎖は、腕一本などでは止められない。
止められない、はずだった。
「――だが、相手を見誤ったな」
苦悶の表情を浮かべたのは一瞬。腕に当たった鎖にひるむどころか、男は、それを掴んでみせたのだ。
全くの予測不能の行動にカムチャタールの動きが止まってしまう。それが、致命的だった。
チェーンを掴んだ手で、強引に引っ張り上げる。恐らくは万力のような力だったのだろう。
踏ん張る間もなく引き寄せられ……同時、ぎらりと輝くナイフの刃が、カムチャタールの胸を刺し貫いた。
かはっ、と口を開き、空気の全てを搾り出した彼女は、そのまま力を失って倒れる。
あまりにも簡単過ぎる逆転劇を未だに信じ切れていない顔だった。
それは駆けつける間もなかった真帆にしても同じことだった。いや、そもそも無理だった。
男が後ろに下がり続けていたせいで、知らぬ間に真帆とカムチャタールの距離が空いてしまっていたからだった。
「一度勢いを掴むと」
地面に転がり、草の味をかみ締めているであろうカムチャタールを見下しながら、男が語り始める。
「周囲のことが見えなくなりがちになるものだ。味方の存在さえ忘れるほどに」
そう言いきった男が、真帆の方を見てニヤと笑った。
狙っていた。最初から、この状況を。
敵を分断させ、各個撃破をできる隙を窺っていたのだ。
「実に単純だったよ。まんまとおびき寄せられるお前は、例えるならバカ正直に獲物を追うキツネだ」
「っ……く……」
「カムチャタールさん!」
思わず、真帆は叫んでいた。
息も絶え絶えに呻き声を発する彼女の声が聞こえたからだった。
生きていたのは、男にとっても意外だったらしい。
ほう、と感心する表情を見せつつ、男はカムチャタールを足蹴にし、仰向けにさせる。
ゲホッと咳き込み、血の霧を吹いた彼女の胸からは、今もおびただしい量の血液が流れている。
あまりの血の多さに、真帆の全身が総毛立つ。あれでは、死んでしまう――!
「そうだ、自己紹介をしよう」
腹部を踏みつけながら、男が世間話でもするように、思い出したとでもいうように、のんびりと言っていた。
「俺は岸田洋一。知っての通り、人を躊躇なく殺せる人間さ」
口調は穏やかなまま。だが、反論を、口を利くことを許さない雰囲気があった。
男は、岸田は、既に状況を支配している。
「助けたいだろ? この女はまだ息をしている。どうだ? 見捨てるのか? 庇ってくれたのに?」
急いで治療を施せば、まだ助かるかもしれんぞ。
自分のことを棚に上げ、つらつらと並べ立てる岸田だったが、ヒステリーに叫んだところでカムチャタールが開放されるわけではない。
自分の判断ひとつで、この先の状況が決まる。真帆は口元をきゅっと結んで、岸田を睨んだ。
躊躇なく殺してみせると宣言した男。カムチャタールをこんな目に遭わせた男。
怖い。何をされるか、分からない。
だが真帆を庇い、戦ってくれた、やさしい女性のためにも退くわけにはいかなかった。
「……どうすればいいんです」
「物分りが良くて助かるよ。そうだな。まずは武器を捨てろ。ああそうだ、携帯は持ってるか。あるならそれも寄越せ」
武器はともかく、携帯はよく分からない注文だった。持ってはいるが、当然使えるわけがない。
持ってないと言い張ることもできたが、万が一もあった。大人しく、ポケットから取り出し、岸田に投げ渡す。
弧を描いて飛んでいったそれを器用にキャッチしてみせた岸田が続けて武器を要求する。
「持ってないです。カムチャタールさんに渡したから」
「ではこの女の武器は」
「デイパックの、中かと」
「嘘つきは嫌いだぞ?」
岸田の目が凶暴な色を宿し、ナイフの刃先をちらつかせたが、事実である以上他に言いようがなかった。
微動だにしない真帆に追求を諦めた岸田は、そうか、と一言告げた。
「――覚悟はできてるんだな?」
その瞬間、臓腑を揺さぶるような岸田の声が響き渡る。
ひっ、と小さく上げた悲鳴は、蛇のように伸びてきていた腕に掴まれた瞬間、霧散した。
同時、腕に突き立てられたナイフが、グリグリと肉を抉る。
神経を直接攪拌される感覚。痛みをこねてミキサーでかき回される感覚に、真帆は今度こそ本物の悲鳴を上げた。
「ぎっ、あああああぁぁぁぁぁっ!」
「覚悟はあるんだよな?」
制服の袖が、じんわりと赤く染まっていく。
どんなに暴れても、腕を掴む岸田は離れず、それどころか強く握ってきて、折れてしまうかのような圧力がかかっていた。
血を多量に流し続けるカムチャタールの姿が過ぎる。だが思ったのは早く助けなきゃという思いではなく、
自分がああなってしまうことへの恐怖だった。
殺される。この男は、本気で自分を殺そうとしている。
予感が実感となり、実感が根源的な恐怖と絶望へと形を変えてゆく。
「こいつの代わりに、自分が殺されてもいいんだよな」
「い、いやっ、いやああぁぁぁっ!」
「違うのか? 死にたくないとでも?」
「しにたっ、しにたくないしにたくないいぃぃっ!」
肉の奥深く。骨まで達するのではないかと思われるほどに突き立っていたナイフから、力が緩められる。
多少なりとも収まった痛みに安堵する気持ちが芽生えた。
殺されずに済んだ。その感覚だけがあった。
「そうか。死にたくないか。じゃあお前はどうすれば助かる?」
ぐいと引き寄せられ、首に手を回される。
その後体ごとカムチャタールの方に向かされた。
その先では、今も短く呼吸を続けるカムチャタールが、脂汗を浮かせ、虚ろな顔で真帆を凝視していた。
最早死に体の人間の体。もっとナイフを突き立てられれば、じきにああなる。
それまで抱いていた親しみの感情もなにもなく、真帆はふるふると首を振った。
視界のすぐ横でちらちらと揺れる、死神の鎌の存在が、生存本能のみを呼び覚ましていた。
「お前が死ぬか、あの女が死ぬか。好きな方を選べ」
生き残れるのはどちらかだけ。
明らかにおかしい二つの選択を、おかしいと思う頭は持てなかった。
殺さなければ殺される。その感覚のみがあった。
死ぬ。死んでしまう。あんな風に。無残に。ちょっと前に首から上がなくなっていた、あの女の子のように。
ひっ、ひっ、と短く嗚咽を漏らした後、真帆は搾り出すように「死にたくない……」と言ってしまっていた。
どうしようもなかった。命がなくなるかもしれないと実感した瞬間、途轍もなく、怖いものへと変貌していた。
なくなってしまう。誰とも会えなくなってしまう。誰とも、繋がれなくなる。
それが、怖かった。
「分かった。じゃあやれ」
ポイ、と岸田がナイフを投げ捨てた。真帆とカムチャタールの血液が付着しているそれは、
まるで意志を持っているかのようにてらてらと輝いていた。
「お前があの女を殺せ。そうすれば助けてやる」
そんな。
思わず岸田を見返すと、慈愛さえ感じられるような深い笑みが返ってきた。
一方で、手には新たに拳銃が握られていた。抵抗しても無駄だぞという笑みであり、
所詮先程の戦いなどお遊戯に過ぎなかったのだと嘲笑うものだった。
結局、全てはこの男の掌の上だった。顔を青褪めさせた真帆はよろよろとナイフに辿り着くと、緩慢な動作でそれを持ち上げる。
思ったよりずしりとした感触は、命を吸ったがゆえか。
これが、この道具が、人を殺す。
もう声も出せないカムチャタールを見る。もう誰がナイフを握っているのかも分かっていないのではないか。
自分がこれからやろうとしていることを、分かっているのか。
言葉を発して欲しかった。なんでもいい。何か言ってくれ。
だが、いくら待っても言葉はない。ただ虚ろで、しかし僅かに生気を宿した目だけが無言を語りかけていた。
「どうした? やれよ。やれないのか?」
撃鉄を上げる音が聞こえた。
もう猶予はなかった。
ビクリと震えた真帆は、ナイフを強烈に握り締め、刃をカムチャタールの上にまで持ってくる。
後は振り下ろすだけ。それだけで、死ぬ。
だが、できない。カタカタと震え、目から絶望の涙を流すだけで、振り下ろせなかった。
殺すのも、殺されるのも嫌だった。なぜ。どうして。
こんなことになってしまったことに対する疑問だけがぐるぐると回り続けていた。
「仕方ないよな」
不意に、穏やかな声色が発した。
岸田のものだと分かるまで、数秒を要した。
「脅されてるんだから。殺さなきゃ殺すって言われてるんだから」
言葉はとても甘美。
そう。仕方ない。
この状況は、仕方のないものだった。
「君は悪くない。君が殺すわけじゃない。殺人を強要させてる、俺が殺すも同然だ」
真帆の心臓が、どくんと脈打った。
それは、真帆が一番欲していた言葉だった。
免罪符を差し出したのは、罪を強要した岸田洋一だった。
だが、その矛盾を矛盾と捉えるだけの余力も、思考力もなかった。
殺さなければ殺される。その現実が背中合わせだったから。
「それに、ほら。見てみるんだ。あんなにも苦しそうだ。たくさん血を流して、苦しんでる」
岸田の言葉は、正しかった。
死と生の狭間を漂うばかりのカムチャタールは、苦しんでいた。
「君が楽にしてあげられるんだ。君が救ってあげられるんだ。何も悪いことはない」
殺人への禁忌が、薄れてゆく。
これでいいんだ。
その言葉が実体化して、真帆の中に流れ込んでゆく。
「世間じゃ、当たり前に行われていることさ」
これでいいんだ。
「助かる見込みのない患者を安楽死させる。戦場で助からない傷を負った仲間を薬で、苦しませずに逝かせる」
これでいいんだ。
これでいいんだ。
「君には触れる機会が少なかった。だから、ちょっと驚いているだけさ」
これでいいんだ。
これでいいんだ。
これで、いいんだ。
「触れる機会の少なかった――君が、不幸だっただけの話だ」
真帆が、ナイフを振り上げた。
自分は悪くない。自分が殺すんじゃない。
そうだ。そもそも殺すのでもない。
楽にしてあげられるんだ。せめて、知り合いの自分が――
「……マホ、ちゃ……ん」
声が、聞こえた。
生きたいと願う声。
こんなことをして欲しくないと願う声。
こんな状況なのに。
気遣ってくれるカムチャタールの声が、あまりにもやさしくて。
葉月真帆の、罪悪感を刺激した。
自分が悪人にされてしまった、そんな感覚が支配した。
「あ、あああああああぁぁぁぁあぁぁぁあああっ!」
刺した。
刺した。何度も刺した。
違う。違う。悪いことなんて何もしていない。
否定をするには、黙らせるしかなかった。
刺すたびにビクリと跳ねるカムチャタールが死んだと気付くまでに、十回以上も刺していた。
死んだ。もう、何も喋ることはない。
どこかしらホッとしていた真帆の後ろで、笑う声が聞こえた。
振り向く。岸田だった。
愉悦を抑え切れない、心底可笑しそうな様子だった。
「くくっ、くくく、やった、ついにやった、やりやがった!」
「……え」
「放っておけば死んだものを、殺しやがった!」
「ちが、ころ、殺させたのは、あな、あなた……」
「おめでとう!」
ぱちぱち。
ぱちぱち。
場違いな拍手喝采が真帆に浴びせられた。
「おめでとう! これでお前も同じだ。俺と同じだ。同じ人殺しだ!」
「そんな、違う、こ、殺してなんか」
「ん? 何が違うんだ? お前は自らの意志でナイフを握り、メッタ刺しにしたんだ。嫌ならやらない、そうだろ?」
「だって、だって! それは、あなたが! あなたがあたしに殺させた!」
「お前が、何と言おうと、お前が殺したんだ。それが事実だ」
岸田が、真帆の携帯を取り出した。
ちっぽけな画面の中では、真帆が奇声を上げながら、人を殺していた。
呆れるくらいにしつこく、返り血が飛ぶのも構わずに、刺し続けていた。
「惨いことをする。これを見た奴は、どう思うだろうな。お前の友達は、軽蔑するだろうな」
友達。その単語を聞いた瞬間、学校の友人達の姿が浮かび上がり、見下ろす姿が想像できた。
なんでこんなことを。恐ろしい。お前は殺人鬼だ。
脅されていた。仕方がなかった。そんなことは、理由になんてならない。
人を殺した。その事実だけで、人は人を見捨てるのだ。
真帆は思い知った。これで、真実の孤独になってしまったのだと。
呆然と腰を落とし、言い争う気力もなくした真帆に、しかし岸田は優しく声をかけていた。
「黙っておいてやってもいいぞ。俺が言わなければ、お前は人殺しじゃない。そう、隠してしまえば済むことだ」
人殺しじゃない。
罠だと分かっていても、その言葉はあまりにも甘美だった。
自分は悪くないという事実があればよかった。
「どうすれば、いいんですか」
真帆は救いを求めた。
殺人を強要させた支配者は、正しかった。
彼女の、救世主だった。
「俺の言うことに従っていればいい」
俺が命じたことは全てやれ。躊躇なくだ。
一秒の間もおかずに、真帆は頷いていた。
岸田洋一は、正しかった。絶対的なまでに。
支配者が笑う。満足した、笑いだった。
【時間:1日目午後3時ごろ】
【場所:E-4】
岸田洋一
【持ち物:
サバイバルナイフ、
グロック19(13/15)、予備マガジン×6、真帆の携帯(録画した殺人動画入り)、不明支給品、水・食料一日分】
【状況:健康 殺戮と陵辱を楽しむ】
葉月真帆
【持ち物:不明支給品、水・食料一日分】
【状況:岸田の支配下に。左腕刺傷】
カムチャタール
【持ち物:チェーン、水・食料一日分】
【状況:死亡】
最終更新:2011年09月06日 17:37