七回目のベルで ◆Sick/MS5Jw
それは声。王の声だ。
「―――さあ、真帆」
隷属者は、だから、逆らえない。
逆らうことを、許されない。
「レッスン2だ」
それは道理だ。支配者と、被支配者。
その二つを並べたときに現れる、当たり前のかたちだ。
「動く獲物を、仕留めてみせろ」
意思とか、感情とか。
そういうものを超えたところにある、『そうでなければならないもの』。
「ナイフでも銃でも、好きな方を使っていいぞ」
朝になれば、日が昇るように。
夏が暑くて、冬が寒いように。
「あのジジイを、殺せ」
それは、崩してはいけない、世界の
ルールだった。
だから葉月真帆の震える指は、それでも躊躇わずに、拳銃を選んだ。
◆◆◆
一発目は、外した。
岸田洋一に背中を押されるように斜面を駆け下りた葉月真帆が言葉もなく発砲した弾は、
着弾の音すら聞こえなかった。まるで見当違いの方へと飛んでいったようだった。
細い目を見開いた白髪の老爺が何かを言おうとする前に、二発目の銃声が響く。
やはり、当たりはしなかった。
どう外れたのかも、分からなかった。
は、は、と息を吸うたびにひきつけのように全身が震えて、まるで照準が定まらない。
刺された左腕がびくりびくりと痙攣する。
地獄の責め苦のように思えた傷は考えていたよりも遥かに浅く、きつく縛られた腕からは
ひどい出血もない。骨まで届いたように感じられたのに、実際には肉を浅く削いだだけだった。
本当に骨まで届くような刺し傷は、ならばどれほどの苦痛だろうと、真帆はどこか他人事のように考える。
他人事のようにしか、考えられなかった。
実感してしまえば、本当に想像してしまえば、耐えられない。
だから、他人事にするしか、なかった。
それでも熱く鈍い痛みは鼓動と共鳴して腕を揺らす。
腕が揺れて心が揺れて、焦って引いた引き金が、三発目の銃弾を無駄にする。
「―――ッ」
息が、苦しい。
肺が壊れて、吐く息の半分ほども吸い込めないように感じられた。
全身が酸素を要求して暴れだす。
膝が笑う。腿が震える。視界が狭まって暗くなる。耳の奥では甲高い音がずっと鳴り響いている。
四度目に引き金を引こうとした瞬間、
「つまらんな」
と、声が聞こえた。
岸田洋一の、声だった。
息が、止まった。
じくりと、縛った布地の下の傷口から赤い血が溢れたように感じられた。
膝の、腿の、肘の、手首の、胸の、首の、目の、震えが収まる。
葉月真帆という怠惰で無能な管理者を無視して放埒に騒いでいた身体機能が、
王の一声を以て統率を取り戻したようだった。
正面に、目標が見えた。仕留めるべき、獲物。
「―――」
教えられたとおりの姿勢を、全身がトレースする。
流れるように、引き金を引いた。
乾いた発砲音と同時に、目標が揺れた。
深い色のカーディガンを纏った細い腕が、弾かれるように跳ね上がっていた。
外した、と思う前にもう一発、二発。
一度の射撃で三発。これが基本だ。王の声が再生される。
しかし二発目と三発目は目標に命中することはなかった。
王の声は外すな、仕留めろとだけ繰り返されていて、外したときにどうすればいいのかは
命じてもらえなくて、だから真帆は、射撃姿勢のまま、固まる。
ち、と苛立たしげな舌打ちが上から聞こえてきたような気がして、
不興を買ったのだということは理解した。
何とかしなければと焦っても、どうすればいいのかが分からない。
じくりじくりと、腕の傷が何かに咀嚼されているように痛んでいた。
そうして固まっている真帆の前で、目標が動いた。
走るでもなく、逃げるでもない。
ただ、どくどくと血の滲む腕を押さえながら、老爺は真帆に向けて歩いてくる。
足をひきずるようにして一歩づつ近づいてくる老爺を前に、真帆は動けない。
命令のスクリプトはエラーを吐き出し続けていて、肉体の支配権は葉月真帆という
隷属者には存在しなかった。
目の前に、老爺が立っていた。
既に外しようのない距離。
銃口は、老爺の胸の辺りを照準に納めている。
それでも真帆は動けない。
老爺の目が、至近から真帆を見据えている。
見事な白い髭を蓄えた口が、ゆっくりと開く。
「……お前さんは、どこにおる」
それは、乾いた風のような声。
動けない真帆に吹きつける、荒野の風だった。
「……あ、」
「お前さんは、どこに立つ」
答えられない。
声は身体の領分で、身体は真帆に従わない。
「お前さんは……誰じゃ」
暮れなずむ山道に、静かな声が響く。
耳に入る音と、目に映る光景と、老爺の言葉の意味が、繋がらない。
繋がらないから、葉月真帆はその意味だけを、考える。
誰。葉月真帆。
本当に? 当たり前。
本当に? しつこいな。
本当に? だって、他の何だっていうんだ。
だったらどうして、身体を自由に動かせないの?
……それは、だって、仕方ないから。
どうして仕方ないの?
……そう決まっているから。
誰がそれを決めたの?
……知らないよ。ルールだもの。仕方ないじゃない。
誰が、ルールを、決めたの?
……。
「お前さんが」
まるで答えのような声が聞こえて、飛び上がるほど驚いた。
実際に飛び上がったりはしない。表情も変わらない。
身体はぴくりとも動かずに、ただ、葉月真帆は、驚いていた。
老爺の言葉が、続く。
「お前さんが歩いとるのはの……誰の道でもない」
道。道ってなに。
何を言っているのか、よく分からない。
「お前さん自身が選んだ道じゃ」
わからない。
わからないけど、違うと感じた。
違う。私が選んだんじゃない。
私は何も選んでない。
私はただ選ばされただけで、何を、何を?
道を。今を。ルールを。
違う、そんなものは、だけど、―――だけど、手にとったのは、誰?
「じゃからの。お前さんが間違ったと思うなら……止まっても、引き返しても、ええんじゃよ」
間違った。
間違えた。
誤った。
何を。道を。手にとるものを。
間違った? 間違った。
今を間違えた。ルールを間違えた。何もかもを間違えた。
止まってもいい? 引き返してもいいの?
……止まりたいよ。こんな今の先は、見たくない。
引き返したいよ。選ばされた時まで。
選び直して、違う道を行きたいよ。
間違った。私は間違えた。私は間違えたんだから。
こんな道は、もう―――
「何をしている、真帆」
声は、すぐ後ろから、聞こえた。
「―――」
「さあ、やれ……真帆」
耳から伝う囁くような声は、甘い。
甘い蜜は、油だ。軋んだ歯車を回す、潤滑油だ。
きぃきぃと音を立てて回りだした歯車が、身体を動かしていく。
止める間も、なかった。
指先が引き絞られるように動いて、それで、終わりだった。
老爺の、枯れ木のような身体が、弾けて、飛んだ。
◆◆◆
「ハッハッハ! 爺さん、なかなかのお宝を抱えてたもんだな!」
上機嫌な声が響いている。
射殺した老爺の所持品を調べていた岸田洋一の声だ。
それをちらりと見て、銃の弾らしい、と真帆は確認する。
「これだけあれば後先考えずに戦える! 面白くなってきたじゃないか、なあ!」
本当に上機嫌だ。
だが、その楽しそうな声も、手際よく銃弾の山を選別して仕舞い込んでいく背中も、
真帆の奥には、届かない。
そこには、残響があった。
真帆の心の奥底の、まだかろうじて澄んだ水を湛えている小さな水面に響く、それは波紋だ。
―――私自身の、道。
波紋は、消えない。
老爺の言葉が投げ込まれた泉の水は波打って、次第に波は大きくなって、
―――間違ったと思うなら……止まっても、引き返しても。
やがて音を立てて、溢れ出す。
すう、と右手が上がった。
そこには一丁の拳銃が握られている。
残弾は充分。距離は至近。震えはない。
グロックに撃鉄はない。ただ、引き金を引けば、それで何もかもが、
「―――ジジイにほだされたか」
ざわりと、空気が変わった。
岸田洋一は、背中を向けたままでいる。
それでも葉月真帆は、動けなくなった。
指一本の自由すら、きかない。
じくりと、腕の傷が、鳴いた。
それは、圧力だった。
静かな声と、揺らがない背中と、それらが真帆に向ける意思の縒り合わさって生じる、
音と、熱と、粘り気を持つ、無色透明の網だった。
網には棘がついていて、見えない棘は肌を刺す。
血を流さずに刺さった棘が皮膚の下の神経をざくざくと切り刻んで、痛くて、怖くて、動けない。
「まあ、いい」
息ができない。
喉の奥からせり上がるのは吐息ではなく悲鳴と胃液で、渇いた舌は機能せず、
言葉もなく立ち尽くした真帆の眼前で、岸田洋一が、殊更にゆっくりと振り返る。
「撃ちたいんだろう」
そう言った声は、どこまでも甘い。
真帆を見る瞳は、どこまでも慈悲深い。
「殺したいんだろう、俺を」
毒のように甘く、
断頭台の刃のように、慈悲深い。
「さあ、やれよ。今ならやれるかもしれないぜ」
岸田洋一が、立ち上がる。
立ち上がって、一歩を踏み出して、囁く。
「だが……本当にいいのか?」
毒塗りの刃を言葉にするように、笑んで、言う。
向けられた銃口を、一顧だにすることもなく。
「俺を殺したって、お前はもう戻れない。戻る場所のあるはずもない」
両手を広げて、更に一歩。
抱き締めるように。赦すように。
「何たってお前、もう二人も殺っちまってるんだからなあ。……んん?」
と、そこで何かに気づいたように、岸田洋一が言葉を切る。
大仰な仕草で天を仰ぐと、とびきりの笑顔を作って、真帆に言う。
「おいおい、お前……すごいぞ! 二人か! もう二人なんだな!」
心からの賞賛を述べるように。
満点の答案を見せた子供を、誇らしげに抱き締める親のように。
「この島に来てから、お前はもう俺に追い付いちまった! たったの六時間でだ!」
近づいて。
真帆を、抱く。
「ははは! お前は俺と同じ生き物だよ! 俺なんかと肩を並べてるんだよ!
どうしようもないな、お前は! 救いようがないな、お前は!
俺と同じところに立ってるんだ! お前は! 俺と! この岸田洋一と!」
本当に嬉しそうに、真帆を抱き締めながら、その瞳をほんの数センチの距離で見つめながら、
岸田陽一の声が、葉月真帆を切り刻む。
銃口は、その逞しい胸板に押し付けられていた。
それは、真帆にも分かっていた。
撃てば弾丸はその心臓を貫くだろう。
それなのに、引き金は、引けない。
溢れたはずの波は、どこかに消えていた。
痙攣するように吐き出した吐息が、岸田の顔に跳ね返って、生温い。
息を吸おうとした瞬間、べろりと、分厚い舌が頬を舐めた。
たっぷりとまぶされた唾液は、ぬめりながら頬を流れて口元に垂れ、開いたままの口腔に流れ込む。
奇妙な臭いと味がして、それがとても汚らしくて、だけど、仕方ないと、真帆はぼんやりと思う。
「誰も、お前と同じところまで落ちてはくれない」
汚いものが、身体の中に入っても。
それを嫌だと、思っても。
だけど、この身は、もう、その汚いものと、同じものでできている。
「俺だけだ。俺だけが、お前と一緒にいる―――」
だから、耳元で囁かれる甘い声に導かれるように。
舌に絡んだ唾液を、呑み下す。
じくじくと、腕の傷が鳴いている。
じくじくと、滲んだ血が拡がっていく。
じくじくと、傷は膿んで、熱を孕んで、腐っていく。
道は、もう、見えない。
【時間:1日目午後5時半ごろ】
【場所:F-4】
葉月真帆
【持ち物:不明支給品、水・食料一日分】
【状況:左腕刺傷】
幸村俊夫
【状況:死亡】
最終更新:2015年04月12日 10:56