find a way ◆Ok1sMSayUQ
ちゃぷ、と水音が立てられる。
靴と、靴下を脱いで、まっしろになった足を水につけては浮かす。
その繰り返しだった。他愛もない、ただ水を掻いて遊んでいるだけの行為だ。
足を上げるたび、透き通った水が肌を流れ、元の鞘へと戻ってゆく。
僅かに残った水分でさえも流れ落ちて、乾いて、なくなってゆく。
それが惜しくて、入江はまた足を水の中に入れる。
ちゃぷ、と音を立てて、泡沫が生まれるが、すぐに消える。
当たり前の現象。当たり前の帰結。泡がいつまでも残るはずがないし、水は常にどこかへと移ろうとする。
あたしは、あたしたちは、それに逆らおうとしてきた。
『いやだ』という気持ちひとつだけで、自然の摂理に抗おうとしてきた。
けれども、そんなものは子供の我が侭で、分かっているのに、それでもと言い続けてきた。
意地を張っているだけの幼稚な行為だと分かっていながら、やらなければならなかった。
そうしなければ、自分が自分でなくなってしまうから。
理不尽を認めてしまうことになってしまうから。
やめてしまうことは、自分を許してしまうことだと知っていたからだ。
そうだ、と入江は思った。自分は、自分が許せないのだ。
ちゃぷ、とまた水に足をつける。水は、好きだ。好きだけど、嫌いだ。
入江、の名前が示す通り、入江の人生の半分は水と一緒にあった。
泳ぐことが、いや水に浸かっていることが好きだった。
アクアマリンの色と、僅かな陽光が差し込むスポットライトに演出された静寂の世界。
人間には一分かそこらしかいられない、どこか寂しく、儚い世界が入江は好きだった。
もっと水の中にいたい。そう思って、入江は水泳部に入った。
飽きずに年中泳いでいたので、いつの間にか入江はインターハイを期待される選手になっていた。
自分にしてみればそれはただの結果でしかなかったのだが、もっと水の中にいられることが嬉しかった。
水の中にいることを、誰かが認めてくれる。それだけで何かが報われたような気がしていた。
だからもっと頑張ってみようという気になった。それまで受け身の人生で、
流されることが多かった入江が、初めて自分で決めたことだった。
だが、終焉は唐突に訪れた。なんでもなかった普通の日。
ただいつものように泳ぎ始める毎日を始めようとしていただけなのに、一度目の死が入江を飲み込んだ。
事故だったのか、なんだったのか、今となっては覚えてすらいない。だがその日、確かに入江という人間は死んだ。
そして……ひどく、水の中にいることが嫌いになった。正確には自分に対してどうしようもなく嫌悪を抱くのだ。
なぜ不快感を覚えるのかは分からない。だが自分を許せないという気持ちは確かにあった。
泳いでさえこなければ。こんな人生を過ごさなければ。強烈な後悔の塊と、ありったけの憎悪を詰め込んだ袋が落ちてくる。
しかし自分の抱く感情に対して、入江はどうすればいいのか対処する術を持てなかった。
いくら嫌ったところで、水泳に身を捧げる人生を送ってきたのは事実で、それ以外のなにひとつとして持ち合わせていなかったからだ。
何も取り得のない、何も持たないからっぽの自分。それがさらに入江の自己嫌悪を強くした。
だから《死んだ世界戦線》に入ったのかもしれなかった。
嫌いな自分を認めたくないから、そんな自分に対して復讐を始めるために、
水泳とは何も関係のないバンドにだって参加したのかもしれない。
死ぬ前の自分の、全てが嫌いだったのだ。
それは今も、この瞬間も変わらない。
……けれど。
嫌いだと言い続けたまま、ただ明後日の方向だけを見て、なにも変わっていない自分。
間違ったことを、さらに間違ったことで埋め合わせるだけの時間を過ごしてきた自分。
憎んだまま、あの日から変わらず、変えようともせず、無駄に無駄を積み重ねてきただけの自分。
復讐を始めると言いながら、その実始めようとさえしてこなかった、入江という女は。
やはり何も持たない、からっぽの女だった。
「……」
手のひらで転がす、小瓶の中でたゆたう液体を眺める。
これで終わらせることができる。
必死に昨日から逃げて、逃げて、逃げるだけで、何も実のないごっこ遊びだけを続けてきた、大嫌いな自分に終止符を打てる。
―――いつまでこんなところに居る?
岩沢先輩の、その詩が聞こえる。
あの人にとっては希望を指し示す、その詞は、しかしあたしにとっては、強すぎる光だ。
あたしは、どうしようもなく、弱い。
弱いから逃げ続けている。
過去から。
そして、現在からも。
死ぬなら、さっさと死んでしまえば、終わらせてしまえばいいのに、あたしはそうしないでいる。
なんでだろう? そんなの分かってる。
死ぬのだって、怖いんだ。
『その先』がどうなるか、全然分からないから――
入江は再び水面に視線を落とす。
そこにあるのは透明な境界だった。自分達の世界とは異なる、ただ流れて、どこかへと静かに消えてゆくだけの世界だ。
強烈に、逃げ込みたいという衝動を感じた。
あの中に。煩わしい雑音を全て遮る、甘美を溶かしてゆるゆると混ぜた世界に没入したかった。
だが水は嫌いだった。そうすることは、できなかった。
結局、何も選べないのだ。入江は自虐的に笑い、そのまま水面を見ていることも苦痛に感じて、視線を空へと逃がした。
すると。
「……?」
歪んでいただけの口元が、ぽかんとした間抜けな形に開かれる。
一瞬、我が目を疑う。
空を、誰かが飛んでいる。
それは、鳥だった。人の形を成した、しかし一対の大きな翼を抱えた、翼ある人だった。
大きな黒い羽をはためかせ、何にも縛られることなく、優雅に飛んでいる。
黒い羽。それは即座にカラスを連想させ、岩沢のあの詩をも思い起こさせた。
思わず、水から足を引き上げ、入江は立ち上がっていた。
自分でもどうしてそうなったのかは分からない、衝動的な行為だった。
そのまま黙って見つめていれば良かったものを、入江は行動を起こしてしまっていた。
「ん?」
ばしゃ、という音。勢い良く足を引き上げたときの音が、空を飛んでいた『人』に聞こえ、入江へと目を向かせていた。
目が合う。空中で静止し、ふわふわと浮いている彼女と、視線が交差する。
子供のような大きな瞳が印象的だった。きっちり揃えられたショートの髪形とも相まって、
雰囲気だけ見れば自分よりも年下であるように入江は感じていた。
もっとも、ぴっちりとした導師風の衣装の下に隠された、ふくよかで豊かな体のラインを見れば、
相応の年齢であろうことは分かってはいたのだが。
「あっ……」
お互いに存在を感知して、困ったように少女が身を引く。
入江にしても誰かとの遭遇は初めてであったので、咄嗟の言葉が出なかった。
少しの間時間を費やした挙句。入江の貧弱な語彙が取り出したものは、ありきたりの言葉だった。
「こ、こんにちは」
ぎこちなく手も振っていた。
今は昼。間違ってはいなかったが、どこかが間違っていた。
「あ、ああ、え、えーと、こんにちわ?」
少し言葉を詰まらせて、「ご、ごてーねーにどうもっ」と付け加えられる。
まるで、学年が変わって、新しいクラスの子と挨拶するようだった。
そしてこういう場合、お互いに喋る言葉をなくしてしまうのがよくある結末なのだが、まさにその道を辿ることになった。
「……」
「……」
お互いに苦笑するだけで、気まずい雰囲気が流れる。
入江の勢いは一分と持たなかった。代わりに流れ込んでくるのはいつもの自己嫌悪である。
何で、こんなことをしてしまったんだろう。ふとしたことで死んでしまう状況なのに。
しかしさようならと言ってしまうのもそれこそ不自然な気がして、何も言い出せなくなってしまう。
「あー、えーっと、さ」
あはははは、と妙にテンションの高い笑いを交えながら、向こう側から話を振ってきた。
「何やってるんだろ?」
が、向こうもよく分かっていない様子だった。
本当に、自分達は、死ねるという状況なのだろうか。
日常の中にあるような気まずい雰囲気が、入江を惑わせる。
なので、よく分からなくなって、入江は空気の読めてない言葉で返してしまっていた。
「こ、殺し合い……なんじゃないかなあ」
「あーうんそっか、殺し合い……コロシアイ?」
今度は空気が凍りついた。ピシリ、という音が聞こえた気がする。
そのまま流れるは数十秒の沈黙。
まずいと入江は思った。何がまずいのかと聞かれれば、全てがまずかった。
「……キミは、さ」
本気で逃げ出したほうがいいんじゃないかと入江が思い始めた時点で、またしても均衡を破ったのは少女である。
「そういうこと、したいの?」
「……分からないです。でも、そうなるんだろうなあ、って、それだけで」
殺し合いは、緩やかに続くだろう。いつものように、だらだらとした、実のない時間が折り重なってゆく。
そうして自分達は逃げ続けるだけなのだろう。何の自覚も持たないまま。
「分からないんです。本当に、何も」
入江は弱かった。
弱かったから、一生懸命に分かるだけの気概を持てなかった。
緩やかな『いつも』に身を委ねるしか能のない、無力な女だ。
「だったらさ……一緒に行く?」
脈絡のない言葉と、差し出された手があった。
いつの間にか地上に降り立っていた少女は、影一つ分の距離を置いて入江の傍にいた。
「いいじゃない、別に、分からなくてもさ。そんなことより、一人でここにいる方がよくないよ」
「よく、ない?」
「あー、なんていうかさ……カミュね、あまり頭良くないから上手く言えないんだけど」
カミュ。それが、彼女の名前なのだろうか。
せわしく揺れる黒い羽から、羽根が落ちる。
ここではいけないと、入江に伝える。
「一人だと、気が詰まっちゃうよ」
「そうかな」
「そうだと、思うよ」
―――いつまでこんなところに居る?
岩沢先輩の詞だ。
カミュって子の、黒い、カラスみたいな羽は、あの人の詩を奏でる。
―――いつまでだってここに居るよ。
そうして、あたしを導こうとする。
先に行ってしまった先輩は、しかしそれでも、待ってくれていた。
来るかどうかも分からない、弱いあたし達をずっと待っている。
それは岩沢先輩の強さじゃなくて、やさしさだ。
だから。
だから、あたしは……
「……入江です」
「イリエ?」
「あたしの、名前」
ぱっ、と、カミュさんの顔が華やいだ。
まだやさしさに縋っただけのあたしに、そんな笑顔を向けてくれる。
強くなれるかなんて分からない。岩沢先輩みたいに、なれるわけなんてない。
でも、岩沢先輩は、あたしの尊敬する人だから……
「そっか! じゃあね……」
「カミュ」
「へっ?」
「言ってましたよ、自分で」
「え? あー、あー……あはははは」
誤魔化すように笑うカミュさんに釣られて、あたしも少し笑う。
どんな気持ちから、一緒に来るって言ったのかは分からないけど。
ただ寂しかっただけなのかもしれないし、何か感じたものがあるのかもしれない。
だけど、多分、何かを確かに感じている。あたしのように。
感じたから、人は一緒にいようとする。
「じゃ、じゃあ、いこっか?」
「どこに?」
「……えーと」
ぐい、と手が引っ張られた。
よろけながら、あたしは、あたし達は走り出す。
進め 弾け どのみち混むでしょ
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rockを奏でろ
遠くを見据えろ
息継ぎさえできない街の中
「これから決めるっ!」
詩は、奏でられる。
【時間:1日目午後3時ごろ】
【場所:D-6】
入江
【持ち物:毒薬、水・食料一日分】
【状況:健康】
カミュ
【持ち物:不明支給品、水・食料一日分】
【状況:健康】
最終更新:2011年09月06日 17:50